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遠藤周作論 : 一神論と汎神論の問題を中心に

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(1)遠藤周作論.   一 一神論と汎神論の問題を中心に. 教科・領域教育専攻 言語系(国語)コース     來村 明子. 1、研究の目的. 第三章 神の沈黙と人間の沈黙.  武田友寿氏による、遠藤の思想が遠藤自身批.       一『沈黙』の批判問題一. 判していた汎神論的世界に流れていっていると.  一、日本とキリスト教. いう指摘は、遠藤文学の根幹を揺るがすもので.  二、『沈黙』への批判. あるといえる。しかし、遠藤文学に共通してい.  三、神の沈黙と人間の沈黙. るのは主人公が常に日本的感腔である郷愁にと. 第四章 『沈黙』からの発展. りつかれながらも、最後まで葛藤し続けるとい.       一『死海のほとり』一. う点である。キリスト教徒が神に向かって人生.    「巡礼」. と戦い、そこに生きる術を見つけるように、神.    「群像の一人」. を持たない者も生きるための「何か」を探そう. 第五章     『深い河』のたどりつく場所. とする。その衝動に自覚的ではない人々の心の. 終章. 裡を描こうとするのが遠藤文学の醍醐味である と考えられる。本研究では、その視点から遠藤. 3、研究の概要. の主な作品を検証し、遠藤の作品が汎神論に傾.  本研究では、遠藤文学:における一神論と汎神. 斜していっているものではないことを論じる。. 論の問題に着目した。そして、遠藤の描くイエ ス像を見直していくことで、その宗教的思想が. 2、論文の構成. 一神論から汎神論に傾斜していっているもので. 序章. はないことを指摘した。. 第一章 日本とキリスト教’.  遠藤は、キリスト教作家としての視点から、.        一無意識にあるもの一. 神を持たない日本という風土にキリスト教の神.  一、『黄色い人』 (昭三十). をどのように根づけるかという「日本とキリス.  二、 『海と毒薬』 (昭三十二). ト教」の問題を提出した。遠藤は、日本人の心.  三、初期短編集(昭三十二∼三十五). の裡にキリスト教を近づける手段として、これ. 第二章 遠藤文学におけるイエス像. まで多く指摘されているように『沈黙』におい.        一遠藤の見る女性像一. て新しいイエス像としての「母なるイエス」を.  一、『わたしが・棄てた・女』(昭三十九). 登場させた。この「母なるイエス」は、『沈黙.  二、 r女の∼生』 (昭五十七). のロドリゴに踏絵を踏む直前に「踏むがよい」. とその沈黙を破ったという点で、多くの批判を.

(2) 呼んだ。しかし、ここでは『沈黙』の中心が. にパンを与えた囚人のことを忘れてはいなかっ. 「神の沈黙」の問題や神の実在の問題にあるの. たと思われる。常に、彼らに憧れながらも、そ. ではなく、 「人間の沈黙」の聞題にあることを. の弱さのために果たせなかった行為を、求め続. 指摘した。神がもし沈黙していたとしても、人. けていたからこそ最後に行なうことができたの. 間が沈黙していなければ救いはある。そして、. である。これこそが「私」自身のイエスであり、. その人間を沈黙させておかないのは神なのであ. 遠藤が考えるイエス像であると考えられる。. る。そのような神が、遠藤の描こうとした神で.  戸田は、このねずみの最期について何も語る. あったと考えられる。例えば、フェレイラとロ. ことはない。戸田には、「私」ほどねずみの死. ドリゴは踏絵を踏むことによってキリストとの. について考えることなかっただろう。遠腰は、. 新しい出会いを果たした。しかし、神は沈黙し. この最期の場面で触れではいないが、戸田の問. ていなかったのにもかかわらず、この二人は孤. 題も示しているのではないか。それは、真実の. 独である。それは、司祭たちが沈黙してしまっ. イエスに目をうばわれすぎると、人間の側に見. たことに理由があるように感じられる。ロドリ. ることのできるイエスの姿、またはそれを信じ. ゴは自分が発見した新しいキリストとの出会い. る純粋な力をも失うことになる、ということで. を広めることなく、その世界に自分だけ閉じ込. はない花ろうか。この点で、「私」と戸田の人. もる姿勢になっている。このような人聞の沈黙. 生は大きく分かれることになるのである。. に救いはないのではないだろうか。このような.  遠藤の描く「無力なイエス」「苦しみを分か. 理由から、『沈黙』は「神の沈黙」ではなく、. ち合おうとするイエス」は、読者の感動を誘っ. 「人間の沈黙」として読むべきであるとした。. たことは確かであるが、キリスト教徒としての.  更に、遠藤は『死海のほとり』で『枕黙丑の. 一神論から日本人的感性に根付いた汎神論への. イエス像を「同伴者イエス」として具体化して. 思想的な後退であると批判された。しかし『沈. いる。「私」は、ねずみの最期の場面で「いつ. 黙』のロドリゴや『死海のほとり』の戸田など. も、お前のそばに、わたしがいる。」という. を見ると、そのようなイエスと出会って布それ. 「同伴者イエス」の姿を発見する。そしてはじ. が結果的にその人間の心の裡の救いとなってい. めてねずみの人生が何であっ々かを知るのであ. ない場合を、遠藤は冷静な目で描いていること. る。 「私」を媒介にして語られてきたねずみが. がわかる。つまり、遠藤文学の根幹は、イエス. はじめて「私」の手を離れてその内面を見せる。. 像にあるのではなく、そのイエスを受け入れる. 「私」は、常に自分の負い目と重ねてねずみを. 人間の心のあり方にあるといえるのではないか。. 見てきたが、そのねずみがイエスに寄り添われ.  そこに、人生をめぐる葛藤がある限り、遠薩. ることで、最後の最後でパンを与える勇気、死. 文学は、汎神論的傾向にあるとはいえないので. を受け入れる勇気をもつ。イエスは、ねずみの. はないか。. ような卑怯で弱い人闘、その弱さに苦しむ人間 を「そばにいる」ことで救うのである。.  しかし、それはたな与えられるのみの救いで. 主任指導教官:前田貞昭. はない。ねずみは、マディ神父や自分の代わり.   指導母宮:前田貞昭.

(3) 飯丁成⊥一一叫年磨反. 兵庫教育大学大学院学位論文. 遠藤周作論. 一一神論と汎神論の問題を中心に一. 教科−領域教育専攻 言語系︵国語︶コース. M堀九噺几四〇払]hU.     來村  明7丁.

(4)

(5) 凡 例. 序喜早 笛叩 一 立早. 笛地一一喜早. 笛果一二立早. ::・:・::::::::::・:::::::::・⑳.          1﹃沈黙﹄の批判問題ー. 神の沈黙と人間の沈黙. ﹃女の一生﹄ ︵昭和五十七年︶ ・::::・:・::・:・::・臥:::::::::::・㈱. ﹃わたしが・棄てた・女﹄ ︵昭和三十九年︶ ・::::::::・レ・::::::::・⑳.          i遠藤の見る女性像i・⋮⋮・⋮−⋮・⑳. 遠藤文学におけるイエス像. 初期短編集  ︵昭和三十二年∼三十五年︶ ・:・:::::::::::・::::::・⑳. ﹃海と毒薬﹄ ︵昭和三十二年︶ ・一:::::ーー::::・:・:::一::一・・一:・働. ﹃黄色い人﹄ ︵昭和三十年︶ :::.・::・::∴:::::・:::・::::::::・⑧. 日本とキリスト教一無意識にあるもの  −−㎝. ● .  . ・  ● 畢  ・ ,  , O  O O  , O  ● ●  ● O  響 ●  の ●  , 9  ● ●  曹 ●  ■ 8  0 ●  , 0  9 8. 、     、     、. 、  、.

(6) 第㎜閏立早. 第工且立早. への批判. 日本とキリスト教 ﹃沈黙﹄. 人﹂. ●9. ﹃協自益醐. ﹁巡礼﹂. OO ●O ●胃. ●●. ●σ. 、 ﹃椰休レ. ﹁群像の. ●曹. ・.. 90. ●O. O.. ●.. ●O. ●・. 90. ,O. から. ・・. ,O. ●,. ●・. .・. ・. .・. 9・. .●. ・・. ・●. O・. ●●. の. ,O. ●贋. ・・. ●8. ... ●.. ●■. .O. ●・. ●●. ●■. ・・. ●●. .,. .●. ●,. ●.. ●,. OO. ﹁●. 曜・. 9●. OO. ●●. OU. ●O. O●. 9● O. ●●. ,O. .・. ... O● ●● ●● ,●. ・.. ●・. O一. ■O. ・騨. O●. 9●. ・.. ●●. ,●. 璽●. O●. O.. ●●. ﹁.. 曹,. .・. ●量. O.. ●,. 09. O●. ●●. ●●. ,O. 電O. 層●. ・O. .,. ●・. OO ●, O●・●. ... ・, . O●. O噂. ●7. 9●. O蟹 のO ●O. 90. ,O. .・. .・. O●. .・. 9●. .9. ・●. ●■. .・. OO. .●. ●●. .●. ●●. ・●. ●曾. ●●. 09. ●曜. ... ●●. ●・. O●. ・・. 9, ,, OO. ●O ●P ●層 O,. ●O. ... ... ・・. 曹O. ・・. OO. ・.. ●・. 09. 90 09. ●曽. ●O. ,■. ,腰. .O. OO. ●■. .曜. .U. ●P OO ﹁●. .●. ・章 ●.. ●,. ... ●U. ●,. ﹃茄九海の ほしC﹂のソ﹄. ,●. 曹●. .O. ●● O・. ■層 O■. ●● ,● OO. ●・. ・● ●.. ●O O,. 汲光一展. .●. .O. ●●. のたじChソ ハフく亡君所. ●O .O ・■. ... 漏凹﹄. .O. 神の沈黙と人間の沈黙. ●● ●O. ●・. ... ... ●●. ●・. 90. ■■. O・. O●. ■●. ... O●. O●. O.. .・. ●層. ●O. .O. .O. ●O. 9・. ●O. 曾.. .●. ・●. ,曹. .●. ●,. U9. ・・. ,9 ●O. .● ●● ●●. O・. ●電. ,O. ●・. ・●. .・. e1). 舩. ㈱. 牲3>. ㈲. 』 ・・. .O. 9. (信の. (6ワ). (7ゆ. 終立早. 誉膏. 己. ,   F. 一. 、 、 、 、 、. 一. 一 一. 参甚勺寺入献口口録. 付.

(7) 凡. 例. ﹃遠藤周作文学全集﹄全十︸巻︵新潮社、昭和五十年こ月−十月︶. 三 引用文献の発行年は、すべて元号に統一した。. 二 注は、各章の章末に付した。. を用いた。. 本文の引用にあたっては、. }.

(8) 遠藤周作論.   −一神論と汎神論の問題を中心にi.

(9) 序章.  遠藤周作は、いわゆる小説を対象にする純文学、歴史小説、あるいはそれにとどまらず通俗小説など多岐にわ. たるジャンルの小説を手がけてきた。そして、そのすべての作品がキリスト教徒という立場から見た神と人間の. 問題に貫かれている。山本健吉氏は、その主題を大きく四つあげている。第 に、キリスト教の伝統を持たない、. 日本という汎神論的風土において、神はどのような意味を持つかということ。第二に、人聞の罪の意識、欲情の. 深淵をのぞくことによって、人間実存の根源に、神を求める意志の必然性を見出すこと。第三に、有色人種と白. 色人種との差別観への抗議。第四に、非人間的なもの、たとえばナチズムに対する抵抗である︵注一︶。.  遠藤文学の流れを見ていくと、第二、三、四の観点から、たどりつく先は第一の問題のようである。カトリッ. ク作家にとっては当然重大である、神の問題を、神をもたない日本という風土にどう根づかせるか。その問題の. ために、作者は人間の意識、無意識の領域に入っていった。そして、そこには常に一神論と汎神論という相対す る 問 題 があるのである。.  遠藤は、批評家時代を経て小説家となったが、その作品の基盤は批評家時代にあるといってよい。その出発点. は、昭和二十二年に書かれた﹁神々と神と﹂と、昭和二十三年の﹁堀辰雄論覚書﹂の二つの評論である。 ﹁神々. と神と﹂において遠藤は、 ﹁僕たちにはカトリシズムによる思想的克服が、直接全能者を信ずることにはなりま. せん。時にはカトリシズムを知れば知る程僕たちは神々の子としての血液がざわめき叫ぶのを聴かねばならぬの です﹂と日本人とキリスト教のどうしょうもない距離感や違和感を告白している。.  そして﹁堀辰雄論覚書﹂では、 ﹁汎神世界﹂は﹁神的なるもの﹂に﹁何らの反抗も異質的なものの克服のため. 1.

(10) の戦ひ﹂もないと、その運命に身をまかせることを美とする堀辰雄氏の姿勢を批判している。.  このように遠藤は、日本人でありながらキリスト教徒であることにつきまとう﹁神々の子としての血液﹂を意. 識しながらも、その誘惑を乗り越え、生きるための﹁戦い﹂が我々には必要であると考えていたようである。.  この﹁堀辰雄論覚書﹂に対して、佐藤泰正氏は、キリスト教徒という立場からの汎神性への批判は﹁詩人の認. 識の根底に志向される神的なものの闊入、その問いかけに対して殊更に目を背けたもの﹂である︵注二︶として. いる。また、 ﹁その批判は性急に過ぎ、この汎神論か﹁神論かという問いが図式的裁断ならぬ、己の文学的主題. を肉化すべき土壌の必然へと転化してゆくところに、後の作家遠藤の成熟が見られる﹂ ︵築三︶と、その批判を 否定しながらも、遠藤文学に一貫しているテーマの重要性を指摘している。.  武田友寿氏は、このような一神論と汎神論の相克からくる遠藤の汎神性に対する批判が﹁単に異質な風土の比. 較論ではな﹂︿、 ﹁なによりも日本文学のやせ細ったその風土、・その風土の生む劇の弱さの根源を究める﹂もの. であるとする。そして、人間の真実が﹁罪、、悪、愛憎、そして生きることの苦悩﹂にあるとすれば、 ﹁汎神的世. 界において人間性を追求する文学がいかにして可能であるか﹂という問いが遠藤の作品を貫く姿勢であると述べ ている︵注四﹀。.  代表作である﹃黄色い人﹄ ﹃海と毒薬﹄ ﹃沈黙﹄などを見ると、遠藤は武田氏の述べるように汎神世界におい. てその神の不在の葛藤に悩む人間を描くことで、日本という風土の根源にあるものを文学として取り出そうとし. た。そして、その手段として、 ﹃沈黙﹄に代表される、日本の風土にあうと思われる、弱者を見守る母なる神を. 登場させる。キリスト教では父性の象徴とされる神とはまったく違うとらえ方に、その肯定と否定は意見の二分. されるところである。キリスト教的視点から肯定しているものとしては、武田友寿氏が﹁弱者の復権の願い﹂が. 遠藤の神に求める愛のあり方であり、それが﹁超自然と自然とを結ぶ媒体﹂である﹁聖母マリア﹂を背景にもつ. ﹁母なるもの﹂における可能性追求への展開であると述べている。そして、このような﹁存在の聖化﹂希求の究. 2.

(11) 極の姿を見ているところは、カトリック信仰の立場からなされたイエスの母マリアの正当的位置づけであるとし. ている︵注五︶。同じく、井上洋治神父は、 ﹁同伴者イエスの悲愛﹂が遠藤文学の根幹をなすものであること、. ﹁母なる神﹂がカトリック神学における聖書理解に裏づけされたものであることを指摘している︵注六︶。.  反対にキリスト教的立場から批判しているものとしては、その代表に江藤淳氏があげられる。江藤氏は、遠藤. がキリスト教を﹁女性化﹂ ﹁母性化﹂している点を指摘し、それを批判する︵母体︶。また、信仰にかかわる主. 体的事実の客体化に伴うリアリティの表現の問題、イエス像歪曲の問題を指摘しているのが、田川建三氏、高尾. 利数氏である。田川氏は、イエス自身は﹁愛﹂という単語をほぼまったく用いていないという事実を明らかにし、. いわゆる﹁隣人愛﹂とか﹁敵への愛﹂も当時のユダヤ教の教えや有り様への逆説的批判の契機であるにすぎない. ことを論証し、イエスを現実的には全く﹁無力なる人﹂ ﹁ダメな人﹂ただひたすらに﹁愛﹂を説き実践しただけ. の人、そしてそれゆえ民衆に誤解され、弟子にすら裏切られ孤独のうちに死んだ人として描いた遠藤のイエス理 解を否定している︵注八﹀。.  高尾氏は、 ﹁遠藤のこうしたイエス理解は現代の聖書学の認識によって承認されうるものであろうか。全く否. である﹂とし、遠藤文学に四つの疑問を提出している。第一に、新約聖書の事実性を否定しながらなぜその中の. 物語を使うのか。第二に、超現実的・神秘的体験がカトリックの本質だといえるのか。第三に、遠藤は制度とし. てのキリスト教を救おうとしているのではないか。第四に、遠藤の解釈は欧米の国々に肩を並べて自国の独自性 を主張しようとする日本の姿そのものではないか、という点である︵注九︶。.  しかし、田川氏、高尾氏の批判に関していえば、聖書における正当性という観点は実証が不可能である分あま. り意味がないと思われる。問題は、遠藤がなぜそのような﹁無力な神﹂を全面に押し出したか、それが文学とし. てどのように扱われているかという点であろう。その手法の問題に着目してみれば、次の武田友寿氏の指摘は非 常に興味深い。. 3.

(12) 遠藤町が﹃神々と神と﹄にはじまり、 ﹃芸術交流体について﹄までに反復力説していたのは、一神論日キ. リスト教と汎神論蛙日本的感性の対立、相克であり、いかにしてこの二つのもののもたらす矛盾、乖離を. 超克するか、という問題であったはずである。たしかに﹃海と毒薬﹄も﹃沈黙﹄もこの点においては忠実. に批評作品が潜在させていたベクトルに即していた。だが﹃死海のほとり﹄ ﹃影法師﹄ ﹃母なるもの﹄は. 違っている。これらの作品の基調にあるのは、 ㎝神論が解体しゆくプロセスであり、汎神論の立場への傾. 斜である。これでは、氏が﹃堀辰雄論覚書﹄で堀辰雄が汎神論世界に吸い込まれてゆかざるをえなかった 悲しい事実を我が身に引き受けることになりはしないか︵注置︶. この、遠藤の思想が、遠藤自身批判していた汎神論世界に流れていっているという指摘は、遠藤文学の根幹を揺. るがすものであるといえるであろう。確かに、遠藤の作品は徐々に初期にあった日本人的感性に対する反骨精神. が薄らいでいることは事実である。それと相似をなすように、遠藤の文学に対する目的、思想は変化してしまっ た と い え るのだろうか。.  しかし、初期の作品でいえば、 ﹃アデンまで﹄ ﹃黄色い人﹄などの作品にすでに汎神世界に魅かれる主人公た. ちの切ない葛藤が、批判ではなく共感という趣きで描かれているのである。そして、 ﹃海と毒薬﹄﹃沈黙﹄﹃死. 海のほとり﹄などの作品において、共通しているのは主人公が常に日本的感性である郷愁にとりつかれながらも、. 最後までその葛藤を持ち続けるという点であろう。その葛藤には何があるのか。それは、キリスト教におけるイ. エスのような具体的な神をもたない人聞たちの﹁戦い﹂である。キリスト教徒が神と戦い、そこに生きる術を見. つけるように、神をもたない者も生きるための﹁何か﹂を探そうとする。その探そうとしていることに自覚的で. はない人々の心の裡を描こうとするのが遠藤文学の醍醐味であると考えられる。その視点で考えると、遠藤の作. 4.

(13) 品がその思想を汎神論世界に傾斜させていっているとはいえないのではないか。神をもたないものの苦しみ、そ. こに﹁母なる神﹂という救いを提出したのは、決して人間を汎神論的なものへ甘やかしているのではなく、 ﹁母﹂. から得られる優しさと同時に、優しさで救う強さ、烈しさをも描いていっていると考えられる。.  遠藤の作品から、その批評作品とは違うイエス像のあり方、人間の心の闇の描きかたをもう一度振り返り、遠.  山本健吉﹃白い人・黄色い人﹄所収﹁解説﹂ ︵新潮文庫、昭和三十五年七月︶。. ︵四︶.  ︵四︶と同じ。.  武田友寿﹃遠藤周作の世界﹄ ︵中央出版社、昭和四十四年十月︶。. 5. 藤の精神内部への検証とすることが本研究の目的である。. ︵一︶.  佐藤泰正﹁遠藤周作の﹃堀辰雄論﹄をめぐって﹂ ︵﹃近代目本文学とキリスト教・試論﹄基督教学. ︵五︶.  井上洋治﹁同伴者イエスー遠藤周作のイエス観﹂ ︵﹃イエスのまなざし﹄日本基督教団出版局、 昭和五十六年九月︶。. ︵六︶. 二月︶。. ︵三V 佐藤泰正編︽鑑賞日本現代文学第二十五巻︾ ﹃椎名麟三・遠藤周作﹄ ︵角川書店、昭和五十八年. 徒兄弟団、昭和三十八年九月︶。. ︵二︶. 注.

(14) ︵七︶ 江藤淳﹁成熟と喪失i〃母〃の崩壊﹂ ︵河出書房新社、昭和四十二年六月︶。 ︵八︶ 田川建三﹃イエスという舅﹄ ︵三一書房、昭和五十五年三月目。. ︵九︶ 高尾利数﹁イエス・キリスト教・カトリシズムー遠藤周作の場合一﹂ ︵﹁解釈と鑑賞﹂昭和  六十一年十月︶。. ︵十︶ 武田友寿﹁遠藤周作 昭和二十年代i批評家として、小説家として一﹂ ︵﹁解釈と鑑賞﹂昭  和六十一年十月︶。. 6.

(15) 第一章. 日本とキリスト教一無意識にあるもの.  遠藤は﹁神々と神と﹂ ︵昭二十二︶において﹁カトリック者はたえず、闘わねばならない、自己にたいして、. 罪にたいして、彼を死にみちびく悪魔にたいして、そして神にたいして。﹂と述べ、そして、このような神をも. たない日本という風土とそこに生まれる文学は、この﹁距離感を敬遠しない﹂こと、 ﹁汎神的血液をたえずカト. リック文学の一神的血液に反抗させ、たたかわせる﹂ことが大切であるとしている︵注一︶。.  遠藤は、初期にこのような信念をもって、日本人とキリスト教の距離を縮めようした。これは、キリスト教は. 対立によって闘争や人生や前進のエネルギーを生むということに意義があり、日本の文学には、このエネルギー. がないと批判するためであり、これが作者の初期の作品を支える宗教的思想であった。それは、批判というより. 疑問であったといえる。畏れるものをもたずに生きる人種の、その心の奥にある領域に何があるのか踏み込もう. とするのが遠藤文学の基盤であるといえる。つまり、作者は運命的なものに傾斜していく日本の精神的風土と戦. えるだけ戦いたいと考えていた。その﹁戦い﹂こそ、作者が目指した人間のもつ﹁本質﹂に近づく手段であると. 判断したのである。                               ノ.  しかし、実際に作品の内容を見てみると、遠藤文学に対立によるエネルギーから、キリスト教の言う人生にお. ける闘争などが生み出されているとはいいがたい。作者の思想が、そのまま文学に移行しているのではないとい. う現実には、小説にこそ作者のキリスト教作家としての苦悩が表わされていると思われる。その葛藤が顕著であ. る作品﹃黄色い人﹄ ︵昭三十︶と﹃海と毒薬﹄ ︵昭三十二︶を中心に、作者の初期の文学的思想、方法を見る。. そして、遠藤文学におけるキリスト教のあり方、遠藤にとってのイエス像を明らかにしていきたい。. 7.

(16) 一 、. ﹃純苗慰柘ロい人﹄. ︵昭和三十年︶.  遠藤の小説家としての処女作は、昭和二十九年に書かれた﹃アデンまで駈である。この作品で、遠藤は主人公. の有色人種であることの疎外と苦渋を描いた。その中に﹁黄濁した砂の海﹂を﹁主人もなく、荷もおわず、地平. 線にむかってトボトボと歩いて﹂ゆく=匹の賂駝﹂の姿が、主人公の﹁胸をせつないほどしめつけ﹂る場面が. 書かれてある。その光景は主人公に﹁たまらない郷愁をおこさせる﹂。 ﹁主人もなく、荷もおわず﹂にトボトボ. と歩く賂駝が、遠藤の考える日本人像であることは明白である。束縛される﹁主人﹂もなく、 ﹁荷﹂という苦し みもない人間は、それらを背負う人間より自由なはずである。.  しかし、その姿を遠藤は行き先もなく、力なく歩く酪駝にたとえる。その賂駝にはおそらく、平坦な道は続く. にせよ砂漠のオアシスにたどりつける運命は待っていないように感じられる。ここに、神という主人、宗教とい. う荷物を背負わない人間の行く末を暗示していると考えられるのだが、この酪駝を見る主人公の日本人は、その 姿に郷愁を感じるのである。.  この郷愁とは何か。主人公は、自分が有色人種であるということで感じる屈辱に打ちのめされ、反対に﹁郷愁﹂. というかたちで自分自身が黄色人であることを自覚する。酪駝のように、何も考えず、運命にまかせて戦うこと. なく生きることに安らぎを感じるのである。その汎神的な世界を、郷愁というかたちであらわすようにこの感覚. が日本人にとって非常に根深いものであるということを遠.藤が強く感じていることがうかがえる。.  この作品では、最終的に汎神的な世界へと還っていく日本人の心性の一端が描かれているが、翌年に書かれた. ﹃黄色い人﹄では、さらに具体的な日本人像が描かれる。この作品では、遠藤の言うコ神論である基督教と、. 彼をとりまぐすべての汎神論的な誘惑との闘い﹂が描かれようとするが、その闘いは嘆きの声に変わっている。. ﹃黄色い入﹄には、序文の部分で﹁汝は冷ややかにも熱くもあらずして温きがゆえに、我は汝を口より吐き出さ. 8.

(17) んとす﹂という﹃黙示録﹄の句が引用されている。この句が、この小説の全体像をあらわしているといえるだろ. う。主人公の千葉は、幼少のころカトリックの洗礼を受けたが、神という存在にのめりこむことができずにいる。. それは、日本人であるがゆえに、罪の意識がないことを自覚しているためである。キリスト教徒は、常に自分の. 罪を自覚し、それに向き合い、戯悔することによって許されようとする。その神に対する姿勢を、千葉は本気で. 信じることができないと同時に、信じるものがなくても生きていける自分自身をも信じることができない。その. ような中途半端な位置で立ち止まる﹁温い﹂人間は、 ﹃黙示録﹄に書かれているように神からも見捨てられるの. である。しかし、その中途半端な位置でもがく人間を描こうとするのが、遠藤の作品が葛藤に満ちたものになる 理由であろう。.  ﹃黄色い人﹄に登場する主な日本人である千葉、糸子、キミ子は、戦争という現実を背景に、すべてをあきら. め何とも戦うことのない無感動な人間として共通に描かれている。一人一人に大きな個性や特徴はないのである. が、神父のブロウにあてた手紙の中で、千葉はかなり切実に自分自身の心境を述べる。遠藤の作品には、このよ. うな手記というかたちの告白文が手法としてよく使われるが、手紙を書くという行為は、そこに主張や葛藤があ. るからこそとられる形態であるといえる。千葉は、手紙の中で、僕たちには罪の意識というものがないとしなが. らも次のようなはっきりとした主張をするのである。                、. 結局、神父さん、人間の業とか罪とかは、あなたたちの教会の告解室ですまされるように簡単にきめたり、 分類できるものではないのではありませんか. この千葉の言葉は非常に印象的である。ここでは、罪の自覚がないといいながらも千葉は﹁罪﹂というものが自. 分たちにとって簡単に割り切ることのできるものではないということに十分自覚的であることがいえる。初期の. 9.

(18) 遠藤の立場では、単純にいえば遠藤の眼は神父のヂュランの眼に重なり、それに対する疑問、または批判が出発. 点であったはずである。ヂュランは神を拒みながらもその存在を否むことはできない。しかし日本人は、神なし. にあいまいなままで生きられる。 ﹁これはどうしたことなのだ、これはどうしたことなのだ﹂と叫ぶヂュランの 苦悩が、まさに遠藤の声であった。.  しかし、前に引いた千葉の言葉は、冷静ながらもヂュランと匹敵するはっきりした意識がある。この言葉の後、. 千葉はこの手紙の動機を﹁罪の悔いの意識﹂や﹁虚無感﹂や﹁人間の悲しさに祈らざるをえなくなった﹂もので. はないということを強調する。この強調の仕方も、罪の意識がない日本人像の描き方としては矛盾しているとい. えるのではないか。千葉は、 ﹁罪の意識や虚無などのような深刻なもの、大袈裟なものは全くな﹂く、 ﹁深い疲. れ﹂だけがあるのだが、しかし﹁罪﹂というものが告解室にだけあるものではないということ、つまりもっと人. 間の奥深いところにあるもので簡単に許しを請えるような浅い領域にあるものではないということを理解してい. るのである。千葉だけでなく、婚約者を裏切りながら千葉と密会する糸子の﹁神さまがあろうがなかろうが私に. はかまわないの﹂という言葉やヂュランの妻であるキミ子の﹁なぜ、神さまのことや教会のことが忘れられへん. の﹂という言葉にも、裏をかえせば忘れようとすればするほど濃くなっていく意識が感じられるのである。.  ﹃黄色い人﹄は、日本人とキリスト教の対立が描かれており、そういう意味ではキリスト教側である神父のブ. ロウやヂュランの目から見た日本人の姿、という描き方が重要視されるように思われるが、手記という告白文の. 形態と時折描かれる日本人としての神のとらえ方が比較的はっきりしている点から、小説の後半に至るにつれて. 千葉たちの比重が大きくなっていく。ヂュランは、カトリシズムに絶対的な信頼をおくブロウに次のように心の うちでつぶやく。. ブロウよ。お前の神はその根をこの湿った国、黄ばんだ人種のあいだにおろせると思っているのか。お前は. 10.

(19) 黄色人がキミコやあの青年のような眼を持っていることに気がつかないでいる。その無知とはお前が彼等の. 罪にそまらなかったこと、白い手をよごさなかったために生じたのだ。だが、私はキミコを犯すことによっ て彼等の魂の秘密をさぐりあてたのだ:::。. しかし、ここでヂュランがさぐりあてたと感じている黄色人の﹁魂の秘密﹂はどうやらさらに奥深いものである. ようである。神を信じなければ、罪にも死にも無感覚で恐怖を感じるこ亡もない、ということにヂュランは反対. に生きる術を見つけるのだが、千葉たちの﹁神をもたない者﹂のやり場のない不安定さや、漠然とした希求にヂュ. ランはまだ気がついていない。 ﹃黄色い人﹄には、神ばかりを問題にして真の日本人を描いていない、などの辛. 辣な批評がなされているが、この作品は千葉たちの心理の裏側を覗こうとすることがこれからの遠藤文学の姿勢. であると思われる。その意味で、 ﹃黄色い人﹄は作者の人間探究の出発点ともいえる作品であるといえる。   1.  また、最後にヂュランの偶然とも自殺とも思えるような死が描かれるが、このような﹁死﹂の方法はこの作品 ユ. 以降にも頻繁に描かれており、遠藤の関心は非常に高いと思われる。作品中にも書かれているように日本人にとっ. ては死とは﹁安静の静かさ﹂であり、ヂュランにとっては﹁基督を裏切り、みずから驚くくったユダの顔﹂が象 徴するような罪の意識や苦しみを伴うものである。.  このように、宗教的な意味合いはまったく異なる。キリスト教の世界では、自殺は決して許されるものではな. 召天であると、さ. い。白い世界から黄色い世界へと揺れ動いたヂュランに自殺のような死を与えたことは、遠藤としては意味深い ものであったと思われる。この点について上総英郎氏は次のように解釈する。. もとより作者はヂュランの死が、許された後での、罪の償いをさらに整えたあとでの、 らにつきつめて言えば神による殺人であったと言いたかったことであろう︵注二︶.

(20)  これに対して、川島秀一氏はこの解釈は﹁作品自体の枠組みを超えていささか強引すぎ﹂、 ﹁その遠藤の思い. と、ヂュラン自身が死との戦いと葛藤を通してどのような主体を獲得するかはおのずと別問題﹂であると述べて. いる︵注三︶が、しかしこのヂュランの死が作者の思いと別問題であるとは考えにくいのではないか。.  反対に、ヂュランの死は、作者が最後の最後で出してきた結論であり、自殺を許さないキリスト教に対してま. るで自殺のように描く手法は、ある意味では一つのキリスト教に対する反抗であるとも考えられるのである。も. し、遠藤がヂュランを死によって救ったのだとすれば、それは遠藤にとってひきこまれてはならないと自覚して. いた汎神的な傾向が見られるのである。キリスト教徒としてヂュランの最期を描きたい場合は、苦しみながらも. 生かすことによってその罪を浄化させようとするのが一般的であるといえる。参考までに、作者が愛した小説で. あるフランスのキリスト教作家モーリヤックの﹃テレーズ・デスケルウ﹄では、テレーズに生きて陣吟させるこ. とによってどうにか神による救いを描こうとする意図が見られる。 ︵しかし、結局最期までテレーズは救われる 2. ことはなかった。︶                                      ユ.  上総氏の﹁神による殺人﹂とは多少大袈裟な感があるが、ヂュランがブロウ神父を裏切った罪に苦しみ、すべ. てを告白する手紙を千葉に託した後,神によるものか自分自身によるものかはわからないが、死という結末を迎. えたことは、おそらくヂュランの望むところであっただろう。神の意志と自分自身の意志が重なっているとする. とそれは、究極の救いの理想のかたちであるように思われる。そのような理想的な死をヂュランに与えたことは、. やはり作者の思いとこの最後の死は直結していると考えられる。遠藤は、そのような方法でヂュランを救ったの. である。このような﹁救い﹂の方法は、遠藤文学における作者の思想を見ていく上で非常に重要であると思われ る。.

(21) 吋一、. ﹃海しC主母藩木﹄. ︵昭和三十二年︶.  ﹁私﹂は、過去に勝呂の起こした事件を知り、義妹の結婚式のためにF市を訪れた際にF医大に足を運ぶ。解. るが、この自己の矛盾が、勝呂への興味をさらに深めていると考えられる。. することへの不安などが﹁私﹂の胸の裡におこっている。この矛盾に、 ﹁私﹂自身も無意識であるように思われ. と母親になっていく妻に対する戸惑いや、望んでいた﹁平凡な幸せ﹂にもかかわらず、何かが確実に変わろうと. く妻に対して、 ﹁私﹂は外側から眺めるしかなく、少し取り残されたような違和感を覚えているようである。着々. に当てながら嬉しそうに﹁横に広がるから女の子かもしれないわね﹂、 ﹁蹴るのよ。時々お腹を蹴るのよ﹂と眩. 客観的な部分も見受けられる。例えば、 ﹁膨らんだ腹を両手でだくようにして縁側に坐ってい﹂る妻、産衣を頬. いながら家もでき﹂たことに﹁私﹂は﹁平凡な幸せ﹂をかみしめている。だが、その妻の描写は幸せなわりには. かし、 ﹁私﹂の裡にあるものはそれだけではないようである。 ﹁私﹂の妻は妊娠中であり、 ﹁子供もでき、小さ. 起こらないこと、平凡であることが人間にとって一番、幸福なのだ﹂と考える、ごくごく平凡な人間である。し 一. か、なぜ勝呂に興味を持つのかという点がここでは重要になってくるだろう。 ﹁私﹂は、 ﹁何もないこと、何も 3. が、その心に抱えているものは勝呂や戸田と重なる部分もあり、人物として興味深い。 ﹁私﹂がどのような人間. 先で偶然出会い、勝呂の過去の事件を調べていく内容になっている。 ﹁私﹂は、この導入部分にしか登場しない.  この作品は現在と過去の部分に分かれており、現在のプロローグの部分では、 ﹁私﹂が現在の勝呂と引っ越し. 際にあった事件を通して、人間に潜む心の隙間を描こうとした。. という犯罪を犯したにもかかわらず、はっきりした罪の意識を持つことができない人間たちである。作者は、実. 基づいた宗教性は払拭された作品である。主人公である勝呂、戸田は生体解剖に参加し、外国人捕虜を殺書する.  ﹃黄色い人﹄の二年後に書かれた﹃海と毒薬﹄は、 ﹃黄色い人﹄のようなキリスト教と日本人というテーマに. ρ.

(22) 剖実験のおこなわれた部屋で﹁私﹂は次のように考える。. なぜこんな所まできたのか自分でもわからない。私は何年前かにこの暗い部屋の何処かにあの蒼黒いむくん. だ勝呂医師の顔が存在していたのだなと思った。突然、私は彼に会いたいなという衝動にかられた。. この﹁彼に会いたい﹂という衝動は﹁私﹂にとっては何を意味するものであるか。医大を訪れる前に、 ﹁私﹂は. 喫茶店でぼんやりと近所の人々や、勝呂が過去に人を殺したにもかかわらず、その顔はもう﹁人殺しの新鮮な顔﹂. ではなく、 ﹁無数の埃が彼等の顔に積もっている﹂と感じている。その埃にまぎれて、人々は明るい平和なロ]常. を過ごしていることに、 ﹁なにがなんだかわからな﹂い気分に陥るのである。しかし、 ﹁私﹂が勝呂には﹁会い. たい﹂と感じるのは、同じ人を殺したという事実を持ちながら、勝呂だけが今だにその罪とともに生きていると. 痛感するからであろう。その﹁罪﹂の感覚に﹁私﹂がそれほどに敏感であるのは、 ﹁私﹂自身の裡にも、何か罪. を感じているから、またはそれを意識しつつあるからではないか。 ﹁私﹂自身に、勝呂のような切迫した罪があ. るわけではないが、それでも勝呂の罪の意識に喚起され、自己の裡に﹁平凡﹂を求めることでごまかしていた部. 分を発見する。勝呂に﹁私﹂が呼応し、照らし出されるように二人の関係は描かれているのである。.  しかし作者はプロローグ最後の部分でまた二人を引き離しているようである。F市から戻った﹁私﹂は、治療. のために勝呂のもとに訪れるが、その物憂げな様子や、診察着に着いていた血痕で﹁私﹂は殺人者としての勝呂. に恐怖を感じ、思わず﹁麻酔をかけて下さい﹂と叫ぶ。 ﹁私﹂が、自分の罪と重ね合わせることで勝手に感じて. いた、親近感、共感がうち砕かれる。 ﹁私﹂が思っていた以上に、勝呂のもつ罪の磐が濃いものであることを知 る。そして、勝呂はこう眩く。. ユ4.

(23)  方     か  っ  た  の  だ  が  、  こ  れ にからだって自信がない。これか 仕 が  な  い  か  ら  ね  え  。  あ  の  時  だ  っ  て  ど  う  に  も  仕  方  が な. らもおなじような境遇におかれたら僕はやはり、アレをやってしまうかもしれない・::・アレをねえ. この言葉によって、 ﹁私﹂と勝呂の距離はまた遠くなる。勝呂と自分を重ねることによって自分を探そうとした. ﹁私﹂は、勝呂が背負っている悪の存在やそこからまだ抜け出せていない孤独感に、勝呂の闇の深さを知るので. ある。許されようとすることのできない人間の苦しみもあること、 ﹁神﹂がない人間なりの苦悩の深さの一端を. プロローグで見ることができ、更に勝呂や戸田の内面へと迫る﹁章へと続いていくのである。.  遠藤は、 ﹁﹃アデンまで﹄から﹃黄色い人﹄を経たぼくの主人公はそのなかで勝呂と戸田という二人の人物に. わかれて登場した﹂と述べているが、同じ生体解剖という実験に参加しながらもそれに対する意識がまったく違. う二人が登場するのは重要である。 ﹃黄色い人﹄の、千葉、キミ子、糸子たちは基本的には同じ感覚を持つ日本. 人である。しかし、・﹃海と毒薬﹄では日本人という枠を越え、人間の内面に視点は注がれている。 コ戸田は私で. すから﹂という遠藤の言葉通り、戸田には手記というかたちでその内面を深く描いている。.  しかし、勝呂に関しては勝呂自身が言葉にならないような葛藤を持ち続けたままで、その内面は戸田ほどは書. き込まれていない。だが、これで遠藤が戸田のほうが勝呂より重要人物としているかといえばそうではないだろ. う。実験に参加することをもちかけられたとき、勝呂は﹁どうでもいい。俺が解剖を引き受けたのはあの青白い. 炭火のためかもしれない。戸田の煙草のためかもしれない。あれでもそれでもどうでもいいことだ、考えぬこと。. 眠ること。考えても仕方のないこと。俺︸人ではどうにもならぬ世の中なのだ﹂と、医学への不信や人間への不. 信が重なった末にすべてあきらめようとする、一種の自己防衛に身をおいてしまう。これに対し、戸田はまきこ まれようとしている運命に神を連想する。. ユ5.

(24) なんや、まあヘンな話やけど、こう、人間は自分を押しながすものから一運命というんやろうが、. ても脱れられんやろ。そういうものから自由にしてくれるものを神とよぶならばや. ど︸つし. しかし、勝呂は﹁俺にはもう神があっても、なくてもどうでもいいんや﹂と答えるのみである。勝呂にとって、. 医学とは人を救う神にもっとも近いものであっただろう。それが人間の欲にまみれて落ちていくとき、勝呂自身. も虚無へと墜ちていくほかないのである。戸田は、実験に参加することにもまったく躊躇することがない。二章. で戸田は自分の過去を振り返る手記を書いているが、それを書く理由は﹃黄色い人﹄の千葉と同じように﹁苛責. を感じて﹂書いたのではなく﹁他人の眼や社会の罰だけにしか恐れを感ぜず、それが除かれれば恐れも消える自 分が不気味になってきた﹂からであるとする。.  このように、自分自身のもつ不気味さに対して冷静なまでに自覚的である戸田は、この心の底にあるものに光. をあてるものが﹁神﹂であるかもしれないと感覚的に理解している。それは、勝呂が自分の最初の患者として熱. 心に治療していた﹁おばはん﹂が、おばはんを救うことによって無意識に自分も救われようとしていた勝呂に.とっ. ての、 ﹁神﹂であることに戸田が気がついていたことからもいえるであろう。この戸田は、ある意味キリスト教. のもつ強さを秘めているようである。不気味である自分をもてあましながらも、そこに何か答えを発見しようと. する戸田と、絶望することで自己の安静を得ようとする勝呂、この二人の内面の葛藤の戦いが﹃海と毒薬﹄の大. きな柱となっているように感じられる。 ﹃黄色い人﹄で書かれた、キリスト教と日本人との隔絶の戦いではなく、. それは人間同士の心の裡の戦いであることが注目されるべき点であろう。.  佐藤泰正氏は、﹃海と毒薬﹄について﹁神なき風土に対する批判﹂と同時に﹁いつ彼らの魂の眼はひらくかと. 問う、背後の作者の肉声もまた熱い﹂と述べている︵注四︶。この見解は、ほぼ同意見なのであるが、遠藤の小. 説の手法でいつも立ち止まる地点は彼らの魂の眼をひらかせる点ではないのではないだろうか。作者自身、神の. ユ6.

(25)                                    に ない日本人の魂の眼をひらかせることを目指しながらも、そこまで到達できなド人間の内面の厚い壁に阻まれて. いるようである。それは、技術的な問題ではなく、作者自身が気づきつつある人間の無意識の領域にある問題へ と発展していく。.  ﹃海と毒薬﹄の最後の場面で、戸田と別れた勝呂が、︸人屋上で﹁そやろか。俺たちはいつまでも同じことや. ろか﹂とつぶやき、白く光る海に何かを探そうとする。その﹁何か﹂を勝呂とともに探すことに、作者は視点を 移し始めた。. 三・初期短編集︵昭和三十二年∼三十五年︶. ﹃黄色い人﹄ ﹃海と毒薬﹄と同時代に書かれた短編集﹃月光のドミナ﹄ ︵昭三十三︶は、遠藤が長編を書くこと. で得た課題にまっすぐ焦点を当てた作品であることで重要である。それは、人間の心にひそむ暗い衝勤やエゴイ. ズムや恐怖をそのまま描き出そうとするものである。その作業によって、遠藤は入間の深淵に文学という手法で. 光を当てる方法を模索してい﹁っているように感じられる。 ﹃穀象の日記﹄ ︵昭五十五︶で作者は﹁人はその宿命. から逃れることは出来ない。ぼくは、ぼく自身だけでは、ぼくの、ぶよぶよした、湿地帯への傾き、ほの暗い姿. 勢から起き上がる事は出来ない。しかし恩寵はそれを浄化する事が出来るという事である。﹂ ︵昭和二十五年二. 月十九日︶と述べている。 ﹃海と毒薬﹄で勝呂や戸田に与えることのできなかった恩寵に、もう一度挑戦しよう とする姿勢がこの短編集にはあらわれている。.  その恩寵に、具体的に﹁神﹂を取り入れたのが﹁月光のドミナ﹂ ︵昭三十二︶である。主人公の小説家である. 遠藤は、フランスで千曲という青年と知り合い、彼の情欲からくる暗い衝動を見つめる。千曲は遠藤に、白人の 女性に撲られたときの思い出をうちあける。. ユ7.

(26) なにか暗い世界に引きこまれ、落ちていくような気がする。その暗い世界は人間が死後、すいこまれてい. くあの浬葉のようなもの、考えることも、苦しむこともなくただ眠ることのできる貫属に似ていた. 勝呂が実験に参加するかどうか考えることさえも拒否した、あの﹁疲れ﹂に支配された感覚、また﹃黄色い人﹄. の千葉が道端に倒れた老人のように﹁ただ静かにうずくまりたい﹂と願うものは、人間の墜ちることへの願望が. お. 無意識の裡にあるからであろう。それは無意識の部分であるだけに、そこに恩寵、救いを与えることのできるも のは﹁神﹂以外にはない。 ﹁月光のドミナ﹂では神の声が千曲に届く。. 私には辛いことだけれどもその情欲がいっかお前に私を求め.させるだろう。情欲の底の底まで沈んだ時、. 前は私に手を差しのべるかも知れぬ。たとえ誰がお前を見捨てようとも、私だけはお前を忘れはしない. 後に遠藤が確立していく、最後まで見捨てることなく見守る、同伴者としての神の姿がここには具体的に﹁声﹂. としてその姿を衰わす。しかし、結局千曲は情欲の世界へと溺れていき、 ﹁だが僕はどうしょうもない。この浅. ましい情欲の行きつく所まで行くより仕方がない﹂という言葉で遠藤への告白は終わっている。神の声は、現実. 的には千曲を動かすことができなかった。人間のもつ肉欲の苦しみは神の恩寵さえも届かない、救いのないもの. なのだろうか。だが、その後の死を迎えるま.での千曲におそらく神はついていたであろう。そのことに千曲が気 がつく可能性を残す描き方が遠藤文学の特徴である。.  しかし、前に述べたようにここにおこる矛盾は、作者の﹁神﹂に対する信念、信頼が作品上ではその勢いを弱. めている点である。人間が悪に落ち込んでいくその下降の願望は、神の手がすぐに届くほど単純なものではない. 18.

(27) ことに、遠藤自身が人間を描くうえで実感せずにはいられなかったようである。悪に落ちこもうとする衝動、し. かし千曲が神の声を聞くように、救われたいと願う衝動と、その両者は人間の同じ場所で戦うのである。.  遠藤文学の﹁恩寵﹂は、人間の罪や悪を浄化することができるという信念の結果の部分は常に作品の枠外にあ. る。遠藤は、文学として紙上に神を書くことの限界を感じていたのではないか。人間と神とを対立させるように、. 向かい合わせるのではなく、作家としては、その気配を書くことで十分であり、その気配で人間の深層部分に潜 む希求を描こうとしたと考えられる。.  また﹁月光のドミナ﹂のような﹁神の声﹂という描き方では、日本人とキリスト教の距離を縮めるという役割. を考えると極端であるように思われる。日常にある人間の声でなければ、神のない風土に浸透していくことはな いであろう。この葛藤に、遠藤は後の作品で答えを出していこうとする。.  ﹁松葉杖の男﹂ ︵昭三十三︶は、戸田が勝呂にとっての神のようなものだと言った﹁おばはん﹂との関係を思 9. い起こさせる作品である。人間を押し流す運命から、自由にしてくれるものが神ならば、勝呂にとっておばはん 一. は、唯一本当の自分自身を映し出す鏡のようなものであった。それを、 ﹁松葉杖の男﹂では更に具体的に書きこ んでいる。. 一人の患者の苦しみをとり除こうと働くこと一たとえば加藤昌吉の足を硬直させた心の傷口をふさぐこと. は逆に俺自身のためなのだ。決して絶望しないこと一それは俺が戦争でもらった、疲労感や宿命感にたい する抵抗になるかもしれん. 勝呂とおばはんの闇にあるもの、精神科医の菅と加藤昌吉の間にあるものは共に﹁連帯感﹂であろう。 ﹁松葉杖. の男﹂において、この連帯感で作者は人間と人間を向かい合わせる。菅は、加藤の過去の罪に何も慰めの言葉を.

(28) かけてやることができずに神のようにこの罪を許すといえる存在があったら、と痛切に思う。つまり、菅は人間. に罪を裁いたり、許したりすることができるはずがないことを知っているのである。最後に菅は﹁今日も加藤を. 治すことができなかった。俺をなおすこともできなかった。だが諦めはせん﹂と決意する。これからも菅と加藤. の連帯が続いていくこと自体が﹁救い﹂なのである。人間の連帯が、唯一人間にできる救いの方法であるという. ことであろう。 ﹁月光のドミナ﹂のように神の救い上げようとする声を聞かせるよりはるかに現実味があり、日. 本人の心に届くものとなっている。遠藤は、この﹁人間の連帯﹂を人間が無意識に必ず欲しているものであると することに、 ﹃海と毒薬﹄の答えを見つけだそうとしている。.  ﹁葡萄﹂ ︵昭三十五︶においても、癌で死が近い中年の男とその妻の連帯が描かれている。男の掌を妻が握り、. ﹁嵐に襲われながら身をすりよせる二羽の小鳥のように﹂死に抵抗するのである。なぜ、人は人の手を握ること.  上総英郎﹃遠藤周作論﹄ ︵春秋社、昭和六十二年十︸月︶。.  川島秀一﹁﹃黄色い人﹄論一遠藤周作ノート︵6︶一﹂ ︵﹁日本文芸論集﹂第二十一号、 平成二年九月︶。.  佐藤泰正﹁遠藤文学における宗教的土壌としての日本−漱石と対比しつつ一﹂ ︵﹁解釈と鑑 賞﹂、昭和六十一年十月︶。. 20. で安らぐのか。そこには﹁連帯へのどうしょうもない欲求﹂がある。その欲求は、勝ち得ない死に対して唯一抵. 抗できる手段であり、その欲求こそ人間が人間を救う光となる衝動である。遠藤は、この無力な連帯への欲求の. 衝動が人聞に潜んでいることに、キリスト教の意義に近づけるたのの神と対抗できる方法を見いだしたといえる.  遠藤周作﹁神々と神と﹂ ︵﹃カトリック作家の問題﹄ ﹁三田文学﹂昭和二十二年十二月︶. のではないか。      ・   注. ︵四︶. ((( ))).

(29) 第二章. 遠藤文学におけるイエス像. i遠藤の見る女性像1.  日本人とキリスト教の距離感の問題は、つきつめれば人間の無意識の領域を探るものであった。それは﹃海と. 毒薬﹄で遠藤が勝呂に探させた﹁何か﹂である。遠藤は﹁現代文学に対する私の不満﹂の中で、次のように述べ ている。. 現代の日本文学に満たされぬ気持ちをもっている最大の理由は、人間の内部的真実を心理もしくは、意識の. 描写と分析でしか考えていないという点である。人間の内部とは、心理や意識だけでな︽、この二つの奥に. 存在の渇望の領域︵人間内部の第三の領域︶つまり、キリスト教徒が魂の部分とよんでいるものであり、私 はそれをどうしても否定することはできない. 宗教という思想を超えた部分での、人間の本質を描こうとするその出発点を、遠藤はキリスト教の源である聖書. とした。特に、聖書に登場する女性たちに注目している。 ﹃聖書のなかの女性たち﹄ ︵昭三十五︶において作者. は、そこから﹁女性の本質を浮かびあがらせ﹂ようとした。それは、結論をいえば、それらの女性たちの統合さ. れた姿が聖母マリアであることを示すためである。宮野光男氏は、遠藤が描くイエスの母マリアについて﹁その. せつなさにおいてかぎりなく母であると同時に、その愛においてかぎりなく哀しみであるところ﹂に特色がある. 21.

(30) ︵注一︶としている。しかし、遠藤の描くマリアは、母であることと同時に女であることの重層的な面を多様に. 秘めたものであるように感じられる。そこには、せつなさや哀しみだけにとどまらない烈しい愛もあったはずで ある。.  遠藤は、イエスの母マリアと、マグダラのマリアという女の悪の部分をもったマリアの両極端さに魅かれ、遠. 藤文学において聖母マリアの中に潜むマグダラのマリアを描いている。そして、マグダラのマリアの中に聖母マ. リアがいることを臼本という風土の上で描こうとしている。そのマリアのイメージは、小説の登場人物に反映さ. ︵昭和三十九年︶. れているといえる。 ﹃わたしが・棄てた・女﹄ ︵昭三十九﹀、 ﹃女の一生﹄ ︵昭五十七︶などに、遠藤のマリア. ﹃わたしが・棄てた・女﹄. 22. の 姿 を 見ることができる。. 一 、.  この作品の主人公である、森田ミツに与えられたマリアとしての人物像を見る。吉岡という男に棄てられたミ. ツは、それでも吉岡のための靴下と、自分を少しだけ美しくするカーディガンのために、連日工場で残業をする。. ようやくたまったお金を手に、買い物に行こうとした時、同僚の田口の妻と出会う。田口が給料の大半を賭博や 酒で使ってしまったため、妻と子どもは明日の生活にも、困っていた。. 風がミツの眼にゴミを入れる。風がミ.ツの心を吹きぬける。それはミツではない別の声を運んでくる。赤坊. の泣声。駄々をこねる男の子。それを叱る母の声。吉岡さんと行った渋谷の旅館、湿った布団、坂道をだる. そうに登る女。雨。それらの人間の人生を悲しそうにじっと眺めている一つのくたびれた顔がミツに囁くの だ.

(31) この場面の後に、 ﹁くたびれた顔﹂の主がミツに囁くのだが、その内容は不必要なほどこの描写はイエスとミツ. の関係を際立たせているように感じられる。現実に目の前にいる田口の家族だけでなく、 ﹁くたびれた顔﹂の主. はミツに人間の人生の哀しみを見せている。この部分で、ミツに曝く﹁人間の人生を悲しそうにじっと眺めてい. る一つのくたびれた顔﹂は、遠藤の考えるイエスである。この声は、まさにミツ自身の中に存在する無意識に響. いている。つまりミツの中に遠藤は、イエスの声についていくマゾアの姿を映し出しているといえる。そして、 このイエスとマリアは徐々に重なりを見せていくのである。.  ここに登場するイエスは、くたびれた顔をして、悲しそうにミツに囁いている。聖書に登場するイエスも、人. 間を悲しそうに見つめる。それは、紀聞の悲しみをどうすることもできない苦しみがあるからである。自分の悲. しみを他人の悲しみに結び合わすことしか、入間を愛することができない、それがイエスであった。.  このイエスを、ミツという平凡な女性と重ね合わせたことは興味深い。前にあげた場面で、ミツは人生の悲し. みの一つに、吉岡のことを思い出している。吉岡は、ミツをだまして旅館に連れ込んだ男であるが、ミツは棄て. られた後も、恨んだりはしていない。彼に、寂しさや悲しさを感じたミツは、どうしても見捨てることができな. かったのである。これは、恋愛感情というには、あまりにも壮大であるように感じられる。愚鈍とも思われるよ. うな女性としてミツは描かれるが、その心の奥に潜んでいるものは、すべてを受け入れる母のような愛であると. いえる。遠藤は、愛の神の存在をどのように証明するか、神に愛をどのように知らせるか、という課題に母性的 な愛の存在という手法を使って証明しようと試みているのである。.  そして、物語が進行していくにつれて、ミツ自身が変化していっていることがわかる。一人の女性が、一歩一. 歩、神聖なものへと近づいていっている点が、ミツに聖書のマリアと同じような強さや優しさを感じさせるもの. となっている。そして、この神聖な変化を平凡な女性に与えることによって、 ﹁女性の本質﹂を浮かび上がらせ. ようとしている。更に興味深いのは、この神聖なものがミツだけにとどまらない点である。ミツを棄て、こんな. 23.

(32) ことはよくあることだ、俺だけじゃないさと自分に言い聞かせる吉岡にも、遠く離れた場所で変化が現れる。吉. 岡とミツは、結局再会することはないまま、小説は終わりをむかえる。ミツは、病院の用事で外出した先で、交. 通事故にあい、 ﹁さいなら、吉岡さん﹂という言葉を残して死んでしまう。病院から手紙をもらい、全てを知っ. た吉岡は、ミツがしたことを理解できているわけではない。良心の呵責を感じながらも、俺は悪くないを繰り返 すだけである。しかし、吉岡は手記で次のように述べる.. だがそれが詰まらぬことではなく、人生の意味の手がかりだと知るためには、ぼくは今日まで長い時間をか. けたのである。ぼくはあの時、神さまなぞは信じていなかうたが、もし、神さまというものがあるならば、. その神はこうしたつまらぬ、ありきたりの日常の偶然によって彼が存在することを、人闇にみせたのかもし. れない。理想の女というものが現代にあるとは誰も信じないが、ぼくは今あの女を聖女だと思っている・・. この言葉は、吉岡が長い時間をかけて、ミツを心の中に受け入れていることがわかるものである。遠藤は、 ﹁神. 様は決してこちらを安心立命させないですよ。迷わせたり、宿題を与えたり疑問を与えたり、疑わしたり一だ. から生きる力を与えてくれる。﹂と述べているが、遠藤がその神様の役割をミツに与えていることがわかる。ミ. ツ自身は、誰に対しても、その悲しみに同情し、赦し、なぐさめるといった消極的な行為しか行っていないのだ. が、その行為が死後、吉岡の中でその意味を変えるのである。ミツは、吉岡に神の存在、愛の意味という宿題を 与えた。そして、そのことはミツ自身気が.ついていないことである。.  このように、許す存在としての神が、人間を変え、救うことができるということがわかる。ミツの死は、聖書. でいう﹁イエスの復活﹂と重なる手法である。イエスが弟子たちの心に、生きていたときよりも強く復活する。. 弟子たちは、イエスの死によってようやく、その愛の教えを真に理解し、広めていく。吉岡の心の中にも、ミツ. 24.

(33) が復活し、生き続けていくのである。.  聖母マリアは、イエスが十字架刑で死んだ後も、弟子たちの母としてイエスの教えを残した。マリアはイエス. のように自ら教えを口にすることはなかったが、イエスの死後のその存在には力強さを感じる。それと同じよう. に、ミツの吉岡への愛も決して許し、なぐさめる母のような愛だけではなかったと考えられるのである。しかし、. このようなミツの女性像を﹁母の赦し﹂という︸面で見た場合、そのイエス像に批判の声も出る。.  江藤淳氏は、 ﹁成熟と喪失!〃母〃の崩壊1﹂において、 ﹁本来、父の実在を立証しているはずのカソリッ. ク作家︵注・遠藤周作︶の作品から父の機軸が欠落している﹂と述べている。そして、作者が無意識に求めるも. のが﹁母﹂による赦しと﹁父﹂への復讐でみるとし、イエスを母性化しているとする。最後に江藤氏は次のよう に述べる。. 作者はこうして救済を発見したかも知れない。しかしそれは孤独な救済ではないであろうか。彼が﹁母﹂の. で、カトリシズムそのものの女性化の問題. 赦しを信じるとしても、この﹁信仰﹂はおそらく受け密な信仰であり、容易に他者とわかち持てぬ性質のも のではないであろうか︵注二︶. また、中島公子氏は﹁遠藤周作とモーリヤックー似ているところ一﹂ を指摘し、次のように述べている。. たしかに人間の弱さを許し、苦しむ者の傷を癒す、 ﹁母なるキリスト﹂のイメージは感動的でないとは言い. ません。しかし﹁母﹂の全能は﹁父﹂の不在によって成り立ちます。それは﹁子﹂の無力化をひきおこしか. ねません。 ﹁母﹂の過剰支配は、成熟を妨げ、現実からの逃避を﹁子﹂に強いやすいのです。もはや本来的. 25.

(34) な意味での﹁子供﹂でない人間が﹁母﹂の全能性という幻想で自らの無力を慰撫するのは、一種の病理です. 更に中島氏は、遠藤が﹁母性の過剰﹂がもたらす危険にどの程度気付いているかという疑問を提出し、これから 遠藤が﹁母﹂から離れる必要があるのではないかと指摘している︵注三︶。.  両者は共通して、 ﹁父﹂の欠落、不在を問題にしている。遠藤自身の生い立ちを振り返れば、幼いころ両親が. 離婚し、遠藤は母親と共に生活する。遠藤から見た母は、夫に捨てられた﹁孤独な﹂後ろ姿を思い出せる存在で. ある。しかし、母は孤独であるために信仰に烈しい情熱を燃やした。ロザリオを握り締め、必死に祈る母の姿は. 決して弱々しいものではない。この点を考慮してみると、遠藤にとって、優しい母、厳しい父といったような画. ﹁的なものは生まれず、母の中に父が混在するようになるのではないか。そこには決して﹁母性の過剰﹂は生ま. れないのである。                                        6.  そして、ミツには聖母マリアのもつ母性の象徴としての清らかさや純潔とともに、その純潔を汚しても吉岡を 2. 救おうとする激しい愛欲がある。 ﹁母なるキリスト﹂とは、ただ単に人間の弱さを許す存在ではなく、子を守る. ために時には激しい衝動も見せる存在なのである。ミツには、その最後の死のあり方にも﹁哀しみ﹂が色濃くつ. きまとうが、死の直前に﹁さいなら、吉岡さん﹂とつぶやくことは﹁哀しみ﹂だけではすまされない強さを感じ. ないわけにはいかないのである。それは、ミツがついに最後まで絶望しなかったことに理由があるだろう。不幸. の連続であるように見えたミツの生涯であるが、ミツ自身は常に前向きで希望をもって生きる女性であった。そ. れは、吉岡に棄てられてからますます強くなっていくようである。聖母マリアがイエスの死から、弟子たちの母. として強く生きたように、ミツも変化していったと思われる。このような女性像から﹁子の無力化﹂をひきおこ すはずもなく、受け身だけの信仰であるともいえないのではないか。.

(35)  聖書に登場する女性たちのうち、遠藤にとって聖母マリアと同じように興味深い存在がマグダラのマリアであっ. た。聖書でははっきりと描かれていないこの女性は、遠藤にとってどのような存在であったか。 ﹁イエスに逸っ た女性たち﹂にマグダラのマリアに関する記述がある。. マグダラのマリアは、イエスにめぐりあうまで愛欲の世界に生きた。愛欲の世界に生き、苦しみ、傷ついて. きたゆえに、彼女はイエスの教えにまっしぐらに飛び込むことができたのでしょう。愛欲の世界では満たさ. れなかったもの一それを愛の中で満たしうると知ったのでしょう。愛欲は、相手の自由を奪い、自分も深. く傷つける。しかし、愛はその逆になる。それをマグダラのマリアは、自分の人生すべてで感得したのだと. 思います。だから、彼女はイエスを誤解していた男旱子たちにさきがけて、イエスの愛の復活の発見者になっ. た                                        7.                                                 2. 遠藤はマリアを﹁愛に渇えた女性﹂であるとした。本当はX︵人間が無意識に求めるもの︶を心の底で求めなが. ら、それを愛欲の世界で探しているのである。そんな女性がイエスの教えに耳を傾け、その弟子になることは考. えにくいようだが、マリアは常に何かを求めている女性である。決して絶望することなく、求め続けることは、. 人間が神を求める信仰心理と重なる部分があると考えられる。何かを渇望してやまない女性に生き方にも、聖母 マリアと同じような愛があることに作者自身が魅かれていると思われる。.  この二人のマリアが遠藤文学の軸になっている女性たちである。その描き方を﹃女の一生﹄ ︵昭和五十七年︶ から見てみる。.

参照

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