• 検索結果がありません。

井上圓了の『大正菜根譚』について 利用統計を見る

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "井上圓了の『大正菜根譚』について 利用統計を見る"

Copied!
26
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

井上圓了の『大正菜根譚』について

著者名(日)

吉田 公平

雑誌名

井上円了センター年報

11

ページ

135-159

発行年

2002-07-20

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00002733/

(2)

井上圓了の﹁大正菜根語﹂について

吉田公平

さ§eぎ汀へ 一 井上圓了の漢語漢詩漢文著作  明治大正期に哲学者・教育者・啓蒙思想家として活躍した井上圓了は膨大な著作を残した。大別すれば、哲学. 宗教・教育・倫理・心理・妖怪・旅行・随筆の八分野になろうか。それらの著作の中で、井上圓了が漢詩漢文で 著したものは、次の通りである。 ﹃再航詩集﹄全一巻七十六頁。表紙表に﹁再航詩集全﹂とある。巻首に﹁緒言﹂があり、刊行の経緯と、井上圓 了が詩人としての自己をいかに把握していたかを如実に示す一文なので、全文を引用する。なお、詩・詩人とい えば、当時は漢詩・漢詩人のことをいった。   余生来、詩人の才に乏しく、十三四歳の時に始めて詩を作ることを学ひしも、進歩甚だ遅々たれは、爾来之   を廃し、復た詩を習はざりき。然るに昨年欧米再航の途に上り、行路の所感、頗る多ければ、筆して以て後   日の記憶を助けんと欲し、数十年間廃絶せる詩を想起し、所感の侭、之を四句八句に綴りたり。されど句調   も平灰も格に合せず、野暮を極め、出鱈目を吐き、句々皆﹁登山舟欲覆﹂の類にして、詩人若し之を読ま 135 井1圓了の「入止菜根1準」について

(3)

  は、必ず捧腹絶倒するならん。然れども余が意、唯補忘記に代へんとするに外ならざれば、他人の笑を招く   も、敢えて念頭に掛くるに足らず。或は詩人をして訂正修飾を加へしめんと思いしも、此の如きは他人の衣   服を借りて己れの身を飾るにひとしきものなれは、丈夫の恥つべき所なり。依て拙劣の侭、更に修飾を加へ   ず、之を印刷に付し、以て後日の記憶に備へ、且つ知人に頒つといふ。︵句読点は私に付した︶  全九十六首。明治三十五年十]月に出発前の﹁留別﹂の詩を冒頭に、十一月十五日新橋発車の折りの詩に続 き、翌年七月二十七日に横浜に帰港するまでの旅遊詩である。その折々の経緯については簡単に和文で記されて いる。  奥付けは次の通り。   明治三十六年九月十二日印刷。明治三十六年九月十四日発行。非売品。   著作者兼発行者 新潟平民 井上圓了 東京市小石川区原町十八番地   印刷社 藤本兼吉 東京市牛込区市ヶ谷加賀町一丁目十二番地   印刷所 秀英社工場 東京市牛込区市ヶ谷加賀町一丁目十二番地   発行所 哲学館 東京市小石川区原町十八番地 ﹁甫水雑詠﹄﹃圓了講話集﹄附録、頁三六〇ー三七四。全百十五首  ﹃圓了講話集﹄全一巻。三百七十四頁。表紙表に﹁文学博士井上圓了講述・圓了講話集全・東京 鴻盟社発行﹂ とある。見開きに﹁秋山悟庵氏ハ謹直ノ人ナリ我門二出入スルヤ年已二久シ平素余ノ談片小篇ノ新聞雑誌等二出 ツル毎一二々之ヲ筆記シテ保存シ其稿積テ一大冊トナル近頃之ヲ印刷二付セントテ余二序文ヲ乞フ乃チ左ノ一詩

(4)

ヲ題ス 浅学短才功未成、半生塊我売虚名、君之好意編談片、二束三文恭世評 明治三十七年紀元節 井上甫 水﹂とある。巻首に秋山悟庵の﹁例言﹂︵明治三十七年紀元節の口︶があり編刊の経緯が記されている。所収論文 の初出掲載紙を一々は明記していないが、﹁哲学雑誌﹄﹃東洋哲学﹄﹃太陽﹄﹃新佛教﹄﹃和融誌﹄﹃妙好華﹄﹃通俗 佛教﹄﹃教育界﹄﹁教育時論﹄﹃日本人﹄﹃小学教師﹄等であるという。所収論文数は四十。﹃甫水雑詠﹄は巻末に 附録する。奥付けは次の通り。   明治三十七年三月二十七日印刷 ﹁圓了講話集奥付け﹂   明治三十七年三月三十日発行 ﹁定価金七十銭﹂     ﹁井上圓了博士著書代価表﹂ 発売所全芝露月町  尚、この に東洋大学井上円了研究会第三部会が刊行している。  以上の三種が刊行された漢詩集である。 子氏によって翻刻された  編集者  発行者  印刷者  印刷所  発行所 末葉に 秋山悟庵 今村金次郎 東京市芝区露月町十八番地 太田音次郎 東京市京橋区四紺屋町二十六七番地 株式会社秀英舎 東京市京橋区四紺屋町二十六七番地 東京市芝区露月町十八番地 電話新橋三千二十七番鴻盟社        として三十二種が掲載されており、﹁右申込所 東京小石原町 哲学館。    鴻盟社﹂とある。 ﹃圓了講話集﹄は﹃復刻版 圓了講話集 井上円了研究資料集第三規﹄として昭和五七年三月一九日        印刷所は福音印刷である。        未刊の漢詩集に﹃屈嵯詩集﹄が自筆本のままにあるが、それは豊田徳       ︵豊田徳子﹁資料紹介・井ヒ圓了自筆漢詩集﹃屈嵯詩集﹄﹂井ヒ円了センター年報一〇号︶。井 137 戊川圓丁の1メ(」菜根’潭1 について

(5)

上圓了の漢詩集の専集は以上の四種であるが、 及することになる。 随筆類の中に漢詩が収められることがある。以下の解題の中で言 ﹃自家格言集﹄全一巻百頁。表紙表には﹁井上圓了著作・自家格言集・甫水書屋蔵版﹂とある。巻首に﹁君如天地、 其徳可仰。父如日月、其恩可親。母如雨露、其澤可浴。忠是生命、能活吾心。孝是衣食、能安吾身。圓了自題﹂ とある。一行二句、凡て五行。返り点のみあり。書き下すと﹁君は天地の如くんば、其の徳は仰ぐ可し。父は日 月の如くんば、其の恩は親しむ可し。母は雨露の如くんば、其の澤は浴す可し。忠は是れ生命なれば、能く吾が 心を活す。孝は是れ衣食なれば、能く吾が身を安ず。圓了自ら題す﹂。圓了自身の本心そのままが素直に表現さ れた一文であろう。次に掲載する﹁自序﹂は﹁自家格言集﹄執筆編纂の経緯を如実に書き記しているので、長文 ながらも全文を引用することにする。   古人先輩の格言訓語の、往々厭世悲嘆の声を含み、或は消極隠退の風を帯ひ、今日の時勢に適応せざるもの   多し、故に余は生意気なから之を改正修正せんと欲し、爾来人より訓戒の語句を需めらる々毎に、自ら案出   せるものを書して與ふることとなせり、此頃不幸にして慈母を失ひ、喪中和田山哲学堂内に蟄居し、徒然の   鹸り自家の格言集を編成せんとの望を起し、数年間の手帖を探り、其中に折に触れ機に応し、古語を改作せ   るもの、或は自ら案出せるものを書き置きたれは、一々之を拾ひ集め、部類を分ち、仮りに人生、教育、宗   教、哲学、実業、国家、妖怪、雑類の九門を設け、計らすも一小冊子をなすに至る、其中に真面目なるもあ   り、滑稽なるもあり、高尚なるもあり、平凡なるのなり、漢詩の寝言もあり、和歌の腰折もあり、俳句のゴ   マカシ、否十七文字のお化けもあり、玉石同架、味噌糞同槽の観あるも、汽車旅行中に千態万状の風光の車

(6)

  窓に映し来るか如く、却て読者をして倦まざらしむるの便ありと思ひ、取捨選択を行はず、其の侭印刷に付   すること々なす、余の詩歌は自ら言文一致流俗調派と公称し、其雅号を或は不知歌斎詩拙道人とも名くる程   なれは、法に外れ格に合はざるもの々みにて、殺風景を極むるも、是れ亦読者が汽車旅行中にトンネルの暗   庭に逢遇せる心地にて看過せられんことを望む、本書は最初親類知友に亡母法要の饅頭を配付する代用の心   得にて、贈呈たけの豫定なりしが、友人の勧告により、更に除分の印刷を命し、廣く世間の所望に応するこ   と々なす、弦に本書印刷の次第を記し、以て自序に代るなり、   明治四十二年九月 和田山哲学堂風清く月明かなる庭に於いて 著者誌   哲学館大学退隠之詩   独立経営二十春、喜見校運幾回新、自今退隠成何事、朝汲泉流夕拾薪。  この序文は井上圓了が随筆の類を執筆編刊する時の心組みを小気味よく吐露した一文である。恐らくは高等教 育を受けることのなかった人々をも読者に想定したに違いない。読者に肩の力を抜いて読み始めることを促すた めか、軽妙洒脱な措辞になっているのは、井ヒ圓了の本領が自然に発露されたのであろう。   ﹁哲学館退隠之詩﹂は平易な詩ではあるが、念のために書き下しておく。   独立して経営すること二十春。喜びて校運の幾回か新たなるを見る。今より退隠して何事を成さんか。朝に   泉の流れを汲み夕べに薪を拾はん。  結句は広瀬淡窓の﹁桂林荘雑詠示諸生四首﹂の第二首﹁休道他郷多苦辛。同胞有友自相親。柴扉暁出霜如雪。 君汲川流我拾薪﹂︵﹃遠思楼詩紗﹄︶を踏まえる。退隠後は悠々自適の生活を送ろうというのではなくして、苦労は 多いだろうけれども仲間がいるのだから研学に勤しむつもりである、その覚悟の程を披涯したものである。 139 Al圓rのr大1卜薬根請1に’,いて

(7)

 巻末に﹁狂歌一首を巻末に録して蹟文に代ふ。筆とりて思出草をかり集め、人に見られて恥を格言。序でに豫 告辞世一首を添ふ。あ々楽だ︵酪駝︶思へば浮世の沙原を、暑さこらへてわたりけるかな。﹂。真面目さをそのま まに表出することに恥じらいを覚えての戯作か。  奥付けには   明治四十二年十月十二日印刷。同年十月十五日出版。定価十二銭   著作者兼発行者 井上円了。東京市本郷区駒込富士前町五十三番地   印刷社 藤本兼吉。東京市牛込区市ヶ谷加賀町一丁目十二番地   印刷所 株式会社秀英舎第一工場。東京市牛込区市ヶ谷加賀町一丁目十二番地   発行所 妖怪研究会。東京市本郷区駒込富士前町五十三番地   大売捌所︵省略︶ とあり、その次の.頁に﹁井上圓了博士著作広告﹂として二十六冊の著書名と定価・郵税が記され、その発行所と して﹁右発行 東京市本郷区駒込富士前町五十三番地 妖怪研究会﹂と記している。  さて、﹁自序﹂の中では、﹁漢詩の寝言﹂と戯れ言をのべているが、﹃自家格言集﹄の中で漢詩・漢文の形をとる 格言は、全体の中では、ほぼ五分の四に相当する。漢詩漢文格言集の中にちょろっと和文の格言が紛れ込んでい るという形の格言集である。 ﹃明治徒然草﹄全一巻。百十頁。表紙表に﹁井上圓了著作・明治徒然草 全・甫水書屋蔵版﹂とある。表紙裏に ﹁井上圓了博士最新著 南半球五萬哩 定価九十銭郵税八銭 本書は井上博士が南半球濠州南阿南米諸州を縦横

(8)

に践渉せられ本邦人未踏の地域にも進入せられ其行程五萬七十五哩問の山容水態国情民俗に関する奇観珍聞を漏 さず蒐録せられ傍ら本邦移民の実況及び海外渡航の心得等をも併記せられたる大紀行なれば一たび之を播読せば 身みつから此に歴遊せるの思を起さしむ 発行所 東京市小石川区原町五 丙午出版社 取り次ぎ所 東京市本 郷区駒込富士前町五十二 妖怪研究会﹂とあり、次の頁に﹁背花四月上長途、看尽濠阿欧米都、帰到家山冬未 遍、只驚霜雪満髪。明治壬子之歳四十五年二月 甫水圓了﹂の七言絶句一首のしたに圓了の写真がある。  巻首の﹁緒言﹂では本書が﹁百姓的学者の百姓的俗調﹂であることを誇りを持って宣言している。﹁貴族的学 問﹂が一般の国民に浸透しない﹁貴族的学問﹂に対する反措定であることをいう。啓蒙家井上圓了の本領が発揮 された一文である。﹁緒言﹂によれば﹁三 勅語俗解﹂以外は﹁船中﹂の作であるという。﹃明治徒然草﹄には次 の十篇が収録されている。︵丸括弧内は吉田の註︶ 一 明治以呂波 三 教育勅語大意俗解歌 五 明治千字文︵四字句漢文︶ 七 明治童子教︵五字句漢文︶ 九哲学正気歌︵五字句漢文︶  ﹁修身手毬歌﹂の最後に﹁修身狂歌一首

十八六四二

戊申詔書大意俗解歌 奉読教育勅語及戊申詔書之詩 明治実語教︵五字句漢文︶ 哲学道しるべ歌 修身手毬歌 ︵漢詩︶        鶏が人に教を告げんとていつも敬々孝々と呼ぶ﹂という。たいして 良質の狂歌とも思えないが、このような遊び心は随所にみられるのは興味深い。最後に﹁践文の代わりに近作一 首を巻末に掲ぐ﹂といって﹁人生如夢而非夢、我食我衣誰所貢、與為児孫買美田、寧遺私産分公衆﹂︵人生は夢 の如きも夢に非ず、我が食我が衣は誰が貢ぐ所ぞ、児孫の為に美田を買ふよりは、寧ろ私産を遺して公衆に分たん︶の七 141 」}1圓∫’のr大、主va根薫]

(9)

言絶句一首を載せて、自作について次のように解説する。   余は数年前より東京府下豊多摩郡野方村字和田山に哲学堂を設立することに着手せしが、他日竣工の上は精   神修養的小公園とし、社会公衆と其歓を共にし、楽を分たんとする志望にして、児孫の為に美田を買ふの本   意にあらざることを述べて、此詩を賦したるなり、  ﹁児孫の為に美田を買ふ﹂云々は西郷隆盛の詩を踏まえることは賛言を要すまい。井ヒ圓了の本意が吐露され た祓文である。奥付けは次の通り。 明治四十五年四月二十日印刷 定価金十五銭 同    年四月二十五日出版      ﹁井上圓了博士著書広告﹂ 込富士前町五十三﹂  その次に 大売捌 売捌元 発行所 印刷所 印刷社 著作者兼発行者 井上圓了 東京市本郷区駒込富士前町五十二 高桑基次 東京市牛込区市ヶ谷加賀町一丁目十二番地 株式会社秀英舎第一工場 東京市牛込区市ヶ谷加賀町一丁目十二番地 妖怪研究会 東京市本郷区駒込富士前町五十三番地 東京神田区神保町 東京堂 鶏聲堂及各書林          として二十六種が定価郵税を表示して掲載され﹁右発行  という。 東京市本郷区駒 ﹃大正菜根謹﹄全一冊。百十頁。表紙表に﹁井上圓了著作 大正菜根語 甫水書屋蔵版﹂、見返しに﹁我氣青如菜

(10)

葉 吾心白似菜根 圓了自題﹂の墨がある。目次は次の通り。︵︶ 一、 Z句集︵百九十二條︶ 二、長句集︵八十三條︶ 一二 A五絶集︵六十七詩︶ 四、七絶集︵五十二詩︶ 五、律詩集附長篇︵十二詩︶ 六、雑集︵和文三十一詠・漢文五條・和文話五条︶  目次の次に井上圓了の﹁大正菜根謹自序﹂︵大正二年十一月上句︶ ﹃大正菜根謂﹄を解析するので、そこで取り上げることにしたい。  奥付けは次の通り。 大正二年十二月十五日印刷 定価十五銭 同  年十二月十八日発行 著作者兼発行人 印刷者 印刷所 発行所 大売捌所 は吉田の注記。 があるのだが、次節で本論文の主題である 井上圓了 東京市本郷区駒込富士前町五十三番地 高桑甚次 東京市牛込区市谷加賀町一丁目一二番地 株式会社秀英舎第一工場 東京市牛込区市谷加賀町一丁目一 妖怪研究所 東京市本郷区駒込富士前町五十三番地 東京 小石川原町鶏聲堂    本郷春木町森江分店 二番地 143 井」圓J’」)「大t菜根諏jについこ

(11)

神田区神保町東京堂 ﹃大正徒然草﹄全一巻、百九頁。表紙表に﹁井上圓了著 大正徒然草 第一版 甫水書屋蔵版﹂とある。次に ﹁井上圓了博士新著﹂として﹃哲学新案﹄﹃南半球五万哩﹄﹃日本佛教﹄﹃おばけの正体﹄﹃活佛教﹄﹃自家格言集﹄ ﹃明治徒然草﹄﹃大正菜根讃﹄の広告案内があり、次ページに﹁奉迎御即位大典 改暦星霜移四回、欧天殺気麓難 開、東洋幸得風波穏、億兆恭迎大典来、大正四年 甫水 井上圓了拝賦﹂という。巻首の﹁序言﹂︵大正四年六 月︶によると、内国巡行の折りの語類を﹃大正菜根謹﹄にまとめ、それ以外のものを﹃大正徒然草﹄にまとめた という。﹃明治徒然草﹄と同様に﹁百姓的学者﹂の語文であるという。収録されたものは次の通り。 一、 R人勅諭大意俗解 二、軍人勅諭道歌及漢詩 三、大正三字経 四、国民道徳訓三十韻第]篇︵拠軍人勅諭︶ 五、同上第二篇︵拠教育勅語︶ 六、同上第三篇︵拠戊申詔書︶ 七、大正諸訓及奮闘文 八、哲学和讃 九、佛教 道しるべ 十、笑経 十一、笑学 十二、未知句斎焉知歌堂雑集  以上の内、二の漢詩、三・四・五・六・七の大正諸訓・十が漢詩漢文である。奥付けは次の通り。 大正四年六月十八日印刷 定価金十五銭 大正四年六月二十↓日発行 著作者兼発行者 井上圓了 東京市本郷区駒込富士前町五十三番地 印刷者     石川金太郎 東京市牛込区市谷加賀町一丁目十二番地 印刷所     株式会社秀英舎第 工場 東京市牛込区市谷加賀町一丁目十二番地 発行所     妖怪研究会 東京市本郷区駒込富士前町五十三番地

(12)

﹃大正三字経﹄全一巻、十七頁。﹃大正徒然草﹄に収める﹁大正三字経﹂の本文を山口彦総が書写したものを単行 したもの。巻首に井上圓了の﹁序﹂︵大正五年五月四日︶があり、順に発行者である山村友吉の﹁例言﹂︵大正五年 五月上涜︶、山口の書写︵大正五年丙辰三月︶、活字印刷文、半峯山口先生略歴︵大正五年三月上涜︶がある。奥付 けは次の通り。 大正五年五月十二日印刷 同  年五月十八日発行 筆者     山口彦総 東京市赤坂区霊南坂町二十七番地 発行兼印刷社 山村友吉 東京市本郷区真砂町三十七番地 印刷所    千代田家印刷所 東京市本郷区真砂町三十七番地大村兼太郎 ﹃大正小論語﹄全一巻、百十頁。表紙表に﹁井上圓了著作 大正小論語 甫水書屋蔵版﹂とある。巻首の﹁序言﹂ ︵大正八年一月︶の冒頭に次のように云う。   余は襲に自家格言集︵一名明治菜根課︶、明治徒然草、大正菜根謹、大正徒然草を世に公にせしが、其後地方   巡講の際、人の需に応し、或は物に触れ、事に感する毎に、句を綴り語を製し、文を醸し章を造り、歌を吠   え詩を繍きたるもの数百項、数百首に及びたれば、更に取集めて此に一冊子を編成することになった、即ち   本書である。自ら題して大正小論語と名けた、昔の論語は聖人の言行録なれば、大論語なるべきに対し、余   の論語は百姓的論語なれば、小論語と命名した次第である。  この序文の冒頭の一文から分かることの第一は、﹃自家格言集﹄を﹃明治菜根謹﹄と肝に銘じていたこと。こ 145;u eeTの伏疎根劃に一・いて

(13)

のことは﹃大正菜根諦﹄を編刊していたこととをも合わせ考えると、井上圓了が﹃菜根謂﹄に並々ならぬ関心を 抱いていたことをうかがわせる。第二は﹃自家格言集﹄﹃明治徒然草﹄﹃大正菜根謹﹄﹃大正徒然草﹄とこの﹃大 正小論語﹄とを一類のものと位置づけていたことである。第三はこの一類のものを﹁百姓的﹂なものと心得て編 刊していることである。﹁貴族的学者﹂に敢えて対抗して﹁平凡﹂を標榜する井上圓了は親鷺を味方に付けて次 のように云う。   むかし親鷺といふ御方は、其当時の僧侶が皆学者を気取って居る中に立ち、自ら愚禿と称し、凡愚を以て任   ぜられたが、余も之に倣ひ、世間皆高尚を競ふ中に立ち、自ら平凡を代表して之と対抗するつもりである、   只生涯を通し終始を一貫して、平凡でやり通すだけは或は非凡ならんかと自ら誇って居る、即ち吾道一以貫   之、日平凡而已と申して宜い。  井上圓了の真面目躍如といえる。最後の一文はもちろん﹃論語﹄里仁篇の語を踏まえることはいうまでもな い。﹁平凡主義﹂を信条ともし使命ともした井上園了は、この﹁平凡・王義﹂の抱負を次のようにも表白した。   仰見世儒論角嶋 仰ぎては世儒の論の角嶋を見て、   自漸吾学独庸凡 自ら吾が学の独り庸凡なるを漸ず。   批書出到良田下 書を批ちて出でて良田の下に到り、   知得平郊勝峻巌 平郊の峻巌に勝るを知り得。 ﹃大正小論語﹄は次のものを収録する。﹁ ﹂は原文。︵︶は吉田の解説。  大正小論語学而篇︵文末に﹁旧論語主個人、以孝為本、有所不適我国体、故予作大正論語、 即新論語也、今只掲学

(14)

  而一篇耳﹂とある。漢文。十六条︶ 二 軍人勅諭六條絶句︵漢詩。各條の内容は忠節・礼儀・武勇・信義・質素二誠︶ 三 教育勅語十二条絶句︵漢詩。各條の内容は孝干父母・友子兄弟・夫婦相和・朋友相信・恭倹持己・博愛及衆・修学習   業・智能徳器・公益世務・国憲国法・義勇奉公・扶翼皇運︶ 四 戊申詔書八條絶句︵漢詩。各條の内容は上下↓心・忠実服業・勤倹治産・惟信惟義・醇厚成俗・去華就実・荒怠相誠・   自彊不息︶ 五 詔勅賛美歌︵題下に﹁旧稿改作﹂とある。漢語七言二十四句︶ 六 教育勅語大意頒︵漢語四言二十四句︶ 七 戊申詔書大意頒︵漢語四言二十四句︶ 八 大正報恩賦︵漢語六言二十四句︶ 九 大正般若心経︵漢語。﹃般若心経﹄の本文に即した修改︶ 十 哲学三祖小伝︵漢文。題下に﹁毎篇限以百字﹂とある。﹁︵一︶支那哲学祖 黄帝小伝﹂﹁︵二︶印度哲学祖 足目小伝﹂   ﹁︵三︶西洋哲学祖 多禮須小伝﹂︶ 十一 哲学唱念法︵和文︶ 十二 哲学一枚起請文︵和文︶ 十三 教外別傳哲学あほだら経︵和文。戯れ歌。平凡教の宣言文︶ 十四 和言和歌集︵和文。百六十七條。内容を人生・国家及家庭・修養︷道徳︸・教育及講学・宗教・哲学・実業・妖怪    及迷信・雑類に分類︶ 147 井lavrのr大正菜根Mlについて

(15)

十五 漢語漢詩集︵二百十一條。内容を人生・国家及家庭・修養︷道徳︸・教育及講学・宗教・哲学・実業・妖怪及迷信・    雑類に分類︶ 十六 俗謡僅諺詩訳︵和文の俗謡僅諺とその漢訳詩。二十一條︶ 十七 大学々生古今比較表︵漢文。題下に﹁旧稿改訂﹂とある。︶ 十七 附録﹁哲学堂七十七場名﹂︵文首に﹁観音に三十三番あり、大師に八十八ヶ所あり、而して余が開設せる哲学堂    には七十七場あり、其名目左の如し。﹂文末に﹁右は東京府豊多摩郡野方村江古田和田山にあり。﹂とある︶  奥付けは次の通り。 大正八年二月六日印刷 定価金拾五銭 大正八年二月九日発行 著作者兼発行者 井上圓了 東京市本郷区駒込富士前町五十三番地 印刷者     鷲見九一 東京市牛込区市谷加賀町一丁目十二番地 印刷所     株式会社秀英社第一工場 東京市牛込区市ヶ谷加賀町一丁目十二番地 発行所     妖怪研究会 東京市本郷区駒込富士前町五十三地  以上、井上圓了の漢語漢詩漢文の著作をあらあら解題した。井上圓了の著作を悉皆調査したならば、この他に も漢文を見いだすことができるであろう。﹃大正菜根語﹄を解析することを目的とする本論においては、取り敢 えず、以上の著作の外貌が判明した結果、﹃大正菜根語﹄を孤立させて把握することが、適切ではないことが歴 然としたことの意義は大きい。

(16)

」一@﹁大正菜根諏白序﹂の解析  ﹁大正菜根謹自序﹂の冒頭に次のようにいう。   襲に自家所製の格言を集めて一冊子となし、之を世に公にせしに、図らずも大好評を得、発行以来僅々三四   年にして、十版の多きを重ぬるに至れり、  ここにいう﹁自家所製の格言﹂というのは明治四十二年に刊行された﹃自家格言集﹄である。その自序で﹁玉 石同架、味噌糞同槽﹂と自嘲しながら勧められて発刊したところ、井上圓了の予想を超えて迎えられた。井上圓 了は日頃思いつくままに格言警句を手帖に書き記すのが習癖であったようである。とりわけ、地方巡講の際、人 より揮毫を需めら、その都度新語句を案出して与えたものが、自然と貯まったので、それを編集して、友人に勧 められるままに﹃大正菜根語﹄の名のもとに刊行したのだという。この﹃大正菜根語﹄という書名は、本来は ﹃明治徒然草﹄の表題として予定していた。それほどに﹁菜根謹﹄という書名に執着したのは、﹃菜根謹﹄の主 旨はよしとするものの、その表現方法に大いに不満があった。その間の経緯について井上圓了は次のようにい う。   従来民間に普及せる菜根讃・寒山詩の如き、其文字の雅麗なる、其語句の清秀なること実に人をして一請三   嘆せしむと錐も、奈何せん難読難解の字句多き上に、其語意何んとなく厭世の志を起さしむる傾向あれば、   青年有為の士には害ありて益なきこと明かなり、  ここに開陳された﹃菜根謂﹄﹃寒山詩﹄に対する論評は平俗な表現ながら実に鋭い。﹁難読難解﹂が多いのは典 雅な文言による表現ではなくして、白話が混渚し、所謂文言白話・文白であることが一因である。また一々が典 拠を踏まえていることも理解を困難にさせている。﹁厭世の志を起させる傾向﹂があるのは、政争が激しい中国 149 井1圓了のr大正菜根潭』について

(17)

の士大夫.文人社会を読者層に想定して叙述されたからである。権力闘争に勝ち抜くだけが人生の至福ではない こと、人生の真実は世俗的な名誉、物資的な欲望から自由になったところにこそあること、それをわきまえて自 力で本来の自己を実現することを、淡々と叙述したところに、﹃菜根謹﹄﹃寒山詩﹄の魅力があったわけだが、そ こに﹁厭世の志を起させる傾向﹂を読みとったのは、慧眼であった。この時代は青年の時代であった。否。井上 圓了が呼びかけたのが青年たちであった。﹁貴族的学者﹂を毛嫌いした井上圓了が期待をかけ、啓蒙の対象とし たのは青年であった。井上圓了は一貫して﹁百姓的学問﹂を標榜する。機会ある毎にこのことを宣言する。例え ば、次のようにいう。   余は毎に自ら評して曰く、学者を以て目せらる々程の愚にあらず、文人を以て称せらる々程の俗にあらず   と、  ﹁百姓的学問﹂に誇りをもって自認していたが故にこのような発言をさせたのである。﹁余の如き百姓的学者は 長江大河の如く、誰ありて仰ぐものなきも、其よく村落に普及し、民俗に浸潤し、一般の世道人心を維持する点 に於ては貴族的学者以上なりと公言するを揮らず﹂というのは、貴族的学問が所詮は学者の世界に腸跨するのに 対して、百姓的学問が﹁平凡主義﹂であるが故に村落民俗に普及浸透することを確信したからであろう。因みに ﹁百姓﹂とは﹁論語﹄︵憲問篇︶に﹁己を修めて以て百姓を安んず﹂等といわれるように﹁もろびと﹂をいう。 農業が基幹産業であった時代にはその従事者が多数を占めたが故に後に農民を意味するようになり、近代産業革 命が進行して都市労働者が勢いを得てくると農業従事者を軽視椰楡して百姓というようになったのか。井上圓了 が﹁百姓的学問﹂というときの﹁百姓﹂はむしろ原義に近い。﹁百姓的学問﹂を堅持する姿勢は見事に一貫して いる。

(18)

 それにしても、井上圓了に﹁菜根謹﹂を書名に選ばせた、その要因はやはり出版・読書会における ブームである。その趨勢を垣間見るために﹃菜根謂﹄出版年表を次に掲げることにしたい。 ﹃菜根謹﹄ 三 ﹁菜根諏﹂出版年表  ﹃菜根語﹄は中国・明代の洪自誠が儒仏道三教の人生訓を取り込んで編集した箴言集である。幕末期に日本で和 刻されてからというもの、日本では広く読まれたものである。基礎調査を試みて報告をしたことがあるが︵﹁日 本における﹃菜根潭﹄、﹃日本における陽明学﹄所収、ペリカン社、一九九九年﹂︶︶その後に判明したこともあるので、 改めて出版年表を掲げることにする。その中に、先に解題した井上圓了の著書をも含めることによって、井上圓 了の著書を位置づけてみたい。 文政五年   林 孚サ﹃菜根謹﹄。文政八年・元治元年・明治初年・大正十四年復刻。 明治三十一年近藤元粋﹃評点菜根謹﹄井上鴻文堂    明治三十六年 井上圓了﹃再航詩集﹄    明治三十七年 井上圓了﹃甫水雑詠﹄二圓了講話集﹄︶ 明治四十年  東 敬治﹃評注菜根謂﹄松山堂 明治四十一年山田孝道﹃菜根謂講義﹄光融館 明治四十二年下中芳岳﹃通俗菜根謹﹄内外出版協会 明治四十二年 杉原夷山﹃標柱続菜根謹﹄松山堂    明治四十二年 井上圓了﹃自家格言集﹄ 151 月1圓了の∫大正菜根諏」 につして

(19)

明治四十三年鵠巣庵陳人﹃標柱新菜根謹﹄松山堂 明治四十二年 久保天随﹃菜根謹詳解講義﹄金刺芳流堂 明治四十三年 日下 寛﹃懐中菜根謂講義﹄大修堂 明治四十三年的子禮﹃ポケット菜根語講義﹄富田文陽堂    明治四十五年 井上圓了﹁明治徒然草﹄ 大正二年   久保得二﹃ポケット菜根謂詳解講義﹄金刺芳流堂    大正二年井ヒ圓了﹃大正菜根語﹄妖怪研究会 大正四年   加藤咄堂﹃処世応用菜根諏講話﹄明誠館    大正四年 井上圓了﹃大正徒然草﹄    大正五年 井上圓了﹃大正三字経﹄    大正八年 井上圓了﹃大正小論語﹄ 大正十年 大正十三年 大正十五年 昭和三年 昭和四年 昭和五年 昭和九年 塚本哲三 竹子 恭 釈 宗演 友田宜剛 倉田熱血 佐藤黄楊 山口察常 ﹁酔古堂剣掃・菜根謹﹄漢文叢書 有朋堂書店 ﹃ポケット菜根語新釈﹄国漢文叢書 田中宋栄堂 ﹁菜根諦講話﹄京文社 ﹃菜根讃・言志四録﹄全訳詳解漢文叢書 ﹁人格修養処世要訣新菜根謹論解﹄石塚松雲堂 ﹃菜根謹詳解﹄浩文社 ﹃菜根讃﹄岩波文庫 岩波書店

(20)

昭和九年 昭和九年 昭和十年 昭和十年 昭和十年 昭和十二年 昭和十三年 昭和十五年 昭和十六年 昭和十六年 昭和十七年 昭和十八年 昭和十八年 昭和十八年 昭和二十三年 昭和二十五年 昭和二十八年 昭和二十八年 米樹庵柳荘﹃修養菜根謹講話﹄萩原星文館 加藤咄堂﹃聖典講義放送菜根謹講話﹄大東出版社 萩原雲来監修進藤進編﹃新釈菜根謂講話﹄研文書院 加藤咄堂﹃全釈菜根語﹄大東出版社 友田宜剛﹃菜根謹評解﹄国民教育界 立木欣一﹁真義解釈菜根謹﹄教材社 山口 徹﹃新釈菜根語講話﹄天泉社 五島慶太﹃ポケット菜根謂﹄実業之日本社 加藤咄堂﹃菜根謹﹄修養大講座 平凡社 加藤咄堂﹃新菜根語﹄修養大講座 平凡社 佐藤縛吉﹃昭和菜根謹﹄警醒社 小和田武紀﹃新釈菜根謂﹄明治書院 後藤静香﹃我らの菜根調﹄教育資料株式会社 佐藤 武﹃菜根潭百話﹄金鈴社 魚返善雄﹃菜根語新釈﹄鎌倉文庫 魚返善雄﹁天地の心・新釈菜根謂﹄国民教育社 宮崎安右衛門﹃入門新書新菜根謹﹄川津書店 萩原雲来監修進藤進編﹃新釈菜根諌講話﹄東京書院 153川圓rのr大正菜根劇に’川て

(21)

昭和二十八年 昭和二十九年 昭和三十年 昭和三十五年 昭和四十年 昭和四十一年 昭和四十二年 昭和四十八年 昭和五十年 昭和五十年 昭和五十七年 昭和五十七年 昭和五十七年 昭和五十八年 昭和五十九年 昭和五十九年 昭和六十年 昭和六十一年 中根環道﹃修養菜根謹﹄今日の教養書 池田書店 末政寂仙﹃菜根譜新講﹄学修社 魚返善雄﹃菜根語﹄角川文庫 角川書店 釈宗演講話・篠田英雄編﹃一日一話菜根謹講話﹄文一出版

神子侃・吉田豊﹃菜根語﹄徳間書店

堤正元﹃菜根語﹄清水印刷所 今井宇三郎﹃菜根謹﹄中国古典新書 明徳出版社 野口定男﹃世俗の価値を超えて1菜根謹1﹄新人物往来社 今井宇三郎﹃菜根語﹄岩波文庫 岩波書店 岡本隆三﹃菜根語入門﹄徳間書店 井原隆一﹃新釈菜根語1古典が教える人生訓ー﹄竹井出版 守屋 洋﹃新釈菜根謹﹄PHP研究所 大山澄太﹃掘り下げる人生 座禅和讃と菜根語﹄ 松原哲明﹃かわかない心1菜根諦を読む ﹄ 佼成出版社 阿部幸夫﹁入門菜根謂の読み方﹄実業之日本社 久須本文雄﹃菜根謹﹄講談社 福田常男﹃私の菜根謹ー熟年からしたたかに生きるには ﹄ ひろさちや﹃﹁菜根謂﹂の読み方﹄日本経済新聞社 ぱるす出版

(22)

昭和六十一年 昭和六十二年 昭和六十三年 昭和六十三年 平成三年 平成五年 平成六年 平成六年 平成六年 平成六年 中村璋八・石川力山﹃菜根謹]講談社学術文庫 講談社 赤塚不二夫﹃漫画菜根語﹄ダイヤモンド社 藤井宗哲﹃菜根謹﹄ぱる出版 志村 武﹁人生論の最高名著﹁菜根潭﹂を読む﹄ 今井宇三郎﹃菜根謹﹄ワイド版岩波文庫 岩波書店 福田常男﹃菜根の心]PHP研究所 吉田 豊﹃菜根謂﹄中国古典百言百話一 PHP研究所 鎌田茂雄﹃菜根謹i中国の人生訓に学ぶ ﹄心の探究 日本放送協会 久須本文雄﹃座右版菜根潭﹄講談社 吉田公平﹃菜根謂﹄タチバナ教養文庫 たちばな出版  ﹃菜根謹﹄は恒常的に読み継がれているので、近年のものもあるに違いないが、見る機会に恵まれていない。 ともあれ、この﹃菜根潭﹄出版年表を一覧することによって、井上圓了が﹃菜根謂﹄に着目していた経緯の一端 が明らかになったかと思う。井上圓了は﹁寒山詩﹄をも挙げていた。確かに漢詩文の叢書の中に﹃寒山詩﹄の注 解本が収められたり、単行本で刊行されていることが多い。この時期に中国の古典の註解書が読書界に迎えられ たこと、ここで井上圓了が話題にした﹁寒山詩﹄については﹁菜根語﹄のように調べてはいないので、具体的に 誰が注解した﹃寒山詩﹄であるかを指摘することはできない。  ﹃菜根謹﹄が今日まで持続的に読者を得ているのに、井上圓了の﹃大正菜根謹﹄は今日ほとんど忘れられてい 155 tl[圓了⑭「大正菜根潭」について

(23)

るのは何故か。井上圓了自身が妖怪博士としては知名度が高いのに比べて、啓蒙家・社会教育者としてはさほど 知られていないからか。  しかし、そうとばかりはいえない。戦前期にはそれ相当に知られており、井上圓了の影響は決して小さくはな かった。戦前期には読者を得ていた修養書が戦後になって忘れられてしまったのは、井上圓了のものばかりでは ない。何故に読者を失ったのか。その答えは何故に戦前期に読者を得ていたのかという問いに響くものであろ う。時流に乗ったが故に時流が変わった戦後には読者を失うことになったのである。 四 ﹃大正菜根諏﹂の論調  先に解題した漢詩文の著作と和文で著された著作との間に、根本的な差異はない。哲学・宗教学・佛教学・心 理学などのテーマを学術的な叙述様式で著されたときには、井上圓了の人生観・修養論が後背に姿を隠す場合が あるが、ここに取り上げた漢詩文の著作には、井上圓了の日常感覚がもろに出ているといえる。その意味では、 井上圓了の時代感覚・時代精神を見る上では格好の素材であるといえる。  その基調の第一は、天皇・皇国に対する絶対的な信頼と帰依、天皇に対する臣民の忠節が力説される。さらに 親に対する孝養が併せ説かれる。要するに忠君愛国・孝行節義である。﹁教育勅語﹂﹁戊申詔書﹂﹁軍人勅諭﹂など の大意歳∵解説書が著されたことがそのことを端的に表現する。それは一般論の形を取って叙述されたものの根 底にも貫流している。それは今日から見ると、違和感を覚えるが、井上圓了はむしろ自信に満ち誇りを持って国 民道徳を力説する。それはそうである。天皇を国体とする国民国家の臣民であること、国際社会の中で日本が独 立できていることを誇りにすることは少しも不思議ではない。そのことを繰り返し述べている。井上圓了の実感

(24)

であったろう。  その第二は、産業・法律・郵便電信・医学・農業・軍人・養蚕・林業・教育・船員・学生・哲学.佛教.妖怪. 商家・酒・旅館など、当代の社会事象についての率直な感慨を述べたもの多い。佛教や哲学堂についてまとめて 開示している部分があるが、おそらくは一時の作であろう。内容にことに真新しい表懐があるわけではない。  その第三は、中国の故事成語・四書五経などを下敷きにした言い直しの表現が多い。一例を挙げれば﹁我従吾 所好、不喩矩。﹂は﹃論語﹄の語句のつなぎ。﹁智者不笑、仁者不憂、勇者不泣﹂は同じく﹃論語﹄のもじり。こ の手のものが目に付くが、﹁通俗化﹂﹁百姓化﹂を目指したのであるから、むしろ適切な処置ではあったろう。  その第四は、全編に通観してみられる特徴なのだが、それこそ通俗平易に処世哲学を短文で表現していること である。  酒是如油、能使硬骨滑︵酒は是れ油の如し、能く硬骨をして滑らしむ。︶︵題酒︶  入門病半癒、登堂春忽回︵門に入れば病は半ば癒ゆ、堂に登れば春は忽ち回る︶︵医家︶  利口正直少、馬鹿不平多︵利口は正直少なく、馬鹿は不平多し︶  いかにも百姓的学問を標榜した井上圓了の箴言である。平易明快である。それだけに深渕な所がないという印 象をもつ。しかし、率直淡白な表懐に滋味の豊かさがある。  金可活用而不可死守︵金は活用す可し、死守す可らず︶  天災是人生之興奮剤也︵天災は是れ人生の興奮剤なり︶  井上圓了が﹁平素の抱負﹂を﹁風教に資せんとして﹂︵序文︶一書にまとめた﹃大正菜根語﹄の論調は、おお むねこのような箴言に満たされているといってよい。﹁百姓的学者の百姓的著作﹂であったから、既存の遺産は 157 )ll圓了のf大正菜根讃1について

(25)

挙げて利用しており、一宗一派に縛られて資源を特定の宗派学派に制限することはしていない。風教の対象であ った百姓が百千の生活文化の中で生きているのであるから、この配慮は至当であろう。  井上圓了が模範にした洪自誠の﹃菜根謹﹄が儒仏道三教の思想資源を自由自在に駆使して処世哲学を提言して いた。井上圓了はその基本姿勢に共感して、その書名を踏襲して、﹃大正菜根謂﹄と命名したのである。  この洪自誠の﹃菜根語﹄と井上圓了の﹃大正菜根謂﹄の間には差異がある。お国振りが違い、時代が異なるの だから、それは当然のことである。その差異を一々挙げる必要はたいして意味はあるまい。むしろその差異をも たらした根本的素因を考えてみると、両人が想定した読者層の違いがそのような論調を結果することになったの ではないのか。洪自誠は士大夫読書人を・王たる読者に想定しているのに対して、井上圓了は百姓を想定してい る。洪自誠は﹁庶民﹂をも念頭においてはいるが、その場合の﹁庶民﹂とは﹁官僚機構﹂を離れた者の意味であ って、我々がいうところの﹁庶民﹂ではない。井上圓了が読者に想定した﹁百姓﹂は﹁貴族的学者﹂ではない、 文字通りの﹁百姓﹂である。井上圓了は官僚機構に組み込まれていない﹁もろびと﹂を指して﹁百姓﹂という。 原義に近い用法であり、この﹁百姓﹂は我々が今いうところの﹁庶民﹂に近い。そういえば井上圓了は﹁官﹂が 大嫌いであった。官学.官僚・学閥・武閥を罵倒する短文が散見するが、井上圓了の本懐を吐露したものであっ たろう。  最後の﹁雑集﹂に和文の短文を三六条収める。漢文の短文と論調は等しい。なかにあって、漢文になくて、和 文にあるものがある。語呂合わせによる駄酒落がそれである。すべて九条。四分の一。あまりに低次元の洒落な ので紹介するのも恥ずかしいが、﹁百姓的学問﹂を標榜した井上圓了が地方講演の場で会場の聴衆を和ませると きなどに活用したのであろうか。講演先で揮毫した軸物の短文は、ほとんどが漢文のもののようである。この種

(26)

の駄酒落は思いの外に多いところを見ると、井上圓了はあまりにもあからさまな駄洒落であることを承知の上

で、敢えて宣言したのであろう。平明であることを心がけた井上圓了の本領が発揮された一側面ともいえる。

参照

関連したドキュメント

[r]

世界中で約 4 千万人、我が国で約 39 万人が死亡したと推定されている。 1957 年(昭和 32 年)には「アジアかぜ」 、1968 年(昭和 43

刑事訴訟法(昭和23年法律第131号)以外の関税法(昭和29年法律第61号)等の特別

[r]

(消費税法(昭和六十三年法律第百八号)第二十八条第一項(課税標

[r]

[r]

平成 26 年度 東田端地区 平成 26 年6月~令和元年6月 平成 26 年度 昭和町地区 平成 26 年6月~令和元年6月 平成 28 年度 東十条1丁目地区 平成 29 年3月~令和4年3月