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1 月 6 日 佐賀県藤津郡太良町字大浦 竹崎観世音鬼祭

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Academic year: 2023

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1月6日 佐賀県藤津郡太良町字大浦 竹崎観世音鬼祭 佐賀県文化財調査報告書第12集、所収

市場直次郎、竹崎の鬼祭、修法的祭礼の構成と芸能。

5日

列車が佐賀駅を通過する頃から折悪く雨となった。可なりひどい降りで多良で次の各停に乗換えて大浦まで行く 積りであったが大浦の交通事情が分らないので多良から竹崎まで車で行った。可なりの悪路で、その上どしゃぶり となっているので幸い車はすぐ庫裡兼事務所の所までやってくれたので助かったものの、全く採訪には不向の日と なった。

すぐ寺務所へ飛込んで観音堂の住職沢光謙さんに会って座敷へ通されて話をした。可なり民俗的な祭の解明をし ている人で、本堂もすぐ傍にあることとて、重い荷物など預けて大へん世話になった。

祭祀形態は修正会結願の日の鬼会であるがその組織から見て、可なり複雑な多様の祭儀が習合されたもののよう である。

1、修正会そのものは竹崎山観世音寺の住職を中心とする同宗派(真言宗御室派)の僧衆の法要らしく、このこと は寺院側では正式に本日の法会を「修正護摩法会鬼祭」といっている。

2、竹崎には現在5区に分れているが山内、城内、船津、西泊、早泊の5区のうち、山内と唱える、観音堂へ上る

石段の両側附近にある家々は何れも昔観世音寺の坊中でもと三十三坊を数えたという。その地籍を次いだ家々 のみで現在は分家等のため 43 戸あるが、寺侍の後裔に当る人々であると伝え、現在の住職沢光謙さんも残っ ている。唯一軒の坊、平井坊の院主でもある。祭儀中、現在では「裸祭」と呼ばれている部分が最も盛大とな ってはいるが、この部分を別にして祭儀次第を見るとき、本体と見られる修正会の部分はこの山内の人々によ って主催せられ主要な役も亦山内区内の人々が勤仕する。童子舞の如きも明かに延年と見られる。

3、「裸祭」といわれている部分の祭儀は竹崎 5 区に居住する青年によって主催されている。昔からある若者組の 制度が今尚ほ残っているようである。現在は高校を卒業すれば若者組に入り結婚するとき退会する。従って未 婚のものは相当な年令に対してもなお若者組に残る。最古参を「大将」と称し、若者組は現在でも大将の指図 により動くという。可なり階級制の判然と残っている点がある。裸祭のとき面箱を持つ鬼副(おんぞえ)は大 将が指名する若者組の新入であり、これを裸の若者全員が押し倒すように追うのである。

4、若者組に対して宿老と称するものがある。若者組を退会したものであり、祭儀に対しては小廻(コマイ)と称 する。炊事の役を受持つ。

祭は1月5日の夜から6日の午後にかけての2日間に亘るのであるが祭儀そのものは、初夜、後夜、日中と3回 繰返される。

初夜行法は5日午後9時頃 後夜行法は6日午前4時頃 日中行法は6日午後2時頃

始まるのであるが、初夜行法は言伝えによればもと旧正5日の夜の潮がひたひたと岸に打寄せる頃に始めたという。

というのは竹崎(もと島であった)の夜灯の鼻という岬の海中に住む鬼と丘上の観音堂にある鬼箱に封じ込められ ている鬼とが、5日の夜の満潮に乗じて相呼応して島をくつがえそうと謀るのでその時に村民喚声をあげて、これを 妨げるのが祭であるという。

行法次第は初夜は後夜の前行法的にその一部が主体となるようであり、日中は後夜と全く同じ次第の繰返しであ るが唯境内及び平井坊の前庭に焚く大篝火は日中は昼間のこととこないだけのようである。

実際拝見した日中の行法次第(これも雨のため一部は簡略にされている)について簡単に記録すると 鬼副が平井坊にやって来ると行列衆の出発となる。

1、捻(ヒネリ)2人。袖がらみの捻棒、村の長老、区長。

2、棒 2人。両副(山内衆)

3、鉾 2人。上鬼副(若者組)

4、牛王 2人。下鬼副(若者組)樫の棒の束ねたものを持つ。

5、経箱 1人。山内衆。

6、幣持 4人 山内衆。鬼副が千切って口に含みなどする。

7、面箱 1人 山内衆。童子のつける女面、男面を入れた箱

8、翁箱 1人 山内衆。

9、大餅 2人 山内衆。鏡餅を2つ重ねて縄でしばる 10、徒士 1人 山内衆。

11、高張 2人 山内衆。

12、打物 1人 山内衆。

13、院主 1人 平井坊住職

14、小姓 1人 山内衆 太刀を捧げる、男の子供 15、草履取 1人、山内衆

16、長柄 1人 山内衆 17、挟箱 2人 山内衆

(2)

18、跡押 1人 山内衆

19、鈴振 2人 山内衆 童子役を勤める少年 この他行列に参加しない諸役に次のものがある

差相(サソウ) 1人。太鼓を打つ役、山内衆

堂番 2人。観音堂の番をする。行法のとき鉦を叩く。山内衆 寺番 1人。平井坊総代。

家見役 2人。山内衆 小廻 2人。宿老

若者組全員、褌1つの裸で行列には参加しないが行法の途中で4、5人づゝ堂内に飛込んで来て喚声をあげる。

行列は参道の石段を観音堂に向って登るが、出発を促すために平井坊の庭前にある釣鐘が乱打され、それを受け て、観音堂に先に置いてあるサソウの太鼓が鳴ると行列は進み初める。途中 2 度ばかり立止り、石段を上りつめた 所で鉾持ちが鉾を高く交叉して捧げ、懸声をかけるとそれを合図に一散に観音堂へ駆込む。

すぐ院主の読経が始まるが、その間鬼副4人は堂内に待する。まづ院主大刀を執って真言を唱え、観音経を読誦、

次に和文の頌がある。俗に「まね経」といって文句の 1 節の終りに「ありけれ」という言葉を一段高く唱え、会衆 一同が大声で「ありけれ」と復誦する。

終って太鼓経が始まる。

童子2人の舞

背に輪宝の紋を白く染抜いた柿色の上衣、紺のたっつけ袴、紺の丸の大紋を染め抜いた柿色の上衣を重ね、草 履ばき、腰に刀を着す。白地の仮面、魚の鈴を編笠の形に紙に描いた笠を冠りこの魚笠は1人は赤、1人は青で あるが2人とも男面をつける。始め 2人は法座の両脇に立っているが、サソウが太鼓の桴を床に搗いて拍子を とり始める頃、種籾を盛った法螺貝を両手で胸のあたりに持ち、静かに上体を左右に屈しながら、廻りつゝ舞 う。そのたびに貝の籾を少しづゝ床に、こぼして行く。

この間に院主は唱え言を唱え、童子と太鼓はこれに合せる

"如来三世の暁に、仏に灑水を奉る。吉祥天女の御宝には紺玉山より法水河の流れたり・・・・"

すっかり、こぼしてしまった所で唱え言が終り、院主は「御代参」「御代参」と叫ぶ。舞が終り参詣人が争って、

そのこぼれた籾を拾う。

次、堂叩き、牛王の束にて、下鬼副が1人づゝ、2度やる。衣装、褌一つの裸に背中に大きな井桁の紋を白く染抜 いた赤い半纏。

宝前に供えた牛王の束を持ち出して堂の上り口の縁先に立ち、上段に振上げて強く縁の框に叩き付ける。これを 数回繰返し束ねた縄を打ち切る。その頃までに堂内につめかけた裸の若者衆の「ダイショウ、ダイショウ」のかけ 声に励まされ、縄が切れると若者1人がその中の1本の牛王を引抜き堂下の階段に打ちつけ振り廻しながら群衆の 中へ投げつける。群衆は争って牛玉杖を取る。

次、堂前の庭での童子舞となるのであるが雨のため便宜堂縁で行われた。両副役が童子を抱いて堂から堂縁に出 し(実際は庭に降ろす)鈴振(レイフリ)の舞となる。

童子2人は前と同じ衣装。女面をつけ、被りものは幣の台に用いる笊(テゴという)。採物は右手に鈴、左手に末 広、鈴は径15cm位の球型の布製(?)のものを麻を網目に編んだものをかぶせこれを1ヶ所に絞って、絞った所 を麻を巻いて締め残りの麻緒を長く垂らしたもの。

末広を持った左手を前方に水平につき出し、鈴の右手を右肩のあたりに構えて双方向い合い、右手を鈴を振る如 き仕草をしつゝゆっくり廻る。

院主はこのとき「トントロ シャッキリ、トン」の掛声をつける。

(このあと童子を1度堂内へ抱き戻し、2度目の牛王棒打があって、その後で再び堂外へ童子を抱き降すようにな っているが、当日は牛王棒打は続けて2度行われ、童子舞は縁側につけ出されたまゝ引続き次の舞をやった)。

続いて童子 2 人のヒサツキの舞となる。末広の左手を頭上で末広を立てるようにかざし、鈴を腰脇で振りながら 膝を右、左、右と地につける所作をする。

次、童子の毘沙門棒。面をつけず、魚笠を被り両副に抱かれてこの列は雨の中へ堂を下り鬼副から渡された午王 杖を持って所作をする。構える。堂に抱かれて戻る。

次、鉾突き。

下鬼副。牛王杖と翁の面を持って堂内より走り出し、石段上の両側の所に蹲り、前についた牛王杖の手に翁面を 持ち添える。上鬼副、鉾を持って走り出て、その前で鉾を突合せる仕草をして高々と鉾先を交叉させる。このとき 山内衆が鐘、太鼓、法螺を鳴らし、鉾持は堂内に走り込む。

次、童子。(面なし、魚笠を被る)下鬼副より牛王杖と翁面を受取り、下鬼副の蹲っていた位置で向き合って立っ たまゝ牛王杖をつき、その手で翁面を持ち添えて院主の「翁、ナヨイ ウヨイ」の掛声に応じて面を肯かせるよう に少し前へ傾ける。下鬼副、翁面と牛王杖を受取る。

次、上鬼副。堂内より青蓮花、赤蓮花をくるくる廻しながら走り出て、これを童子に渡す。童子これを持って院 主の唱える言葉に従って廻る。

吉祥天女のみもろには春花咲き 秋実なるものやい池のはちすの青蓮花、白蓮花、仏法開くというぞ我が山の さようねふらんとなりけれ

(3)

終って下鬼副。蓮花を受取り堂内へ走り込む。

次、五大怒王。両副、腰の刀を抜いて童子に渡す。院主の「オーラ 五大忿怒王」と唱える間に、童子相対して 太刀を八相に構える。大刀の刃は海の方に向けるという。

これで童子舞は終り、抱かれて堂内に帰る。

院主の中啓を高く奉げて大声で「鬼よ、鬼よ」と呼ぶ。このとき堂内から4人の鬼副が鬼箱を縛った綱の先を夫々 が持って走り出るが待機していた(実際はそれまでに庭に若衆は降りているらしいが雨のため堂縁にひしめいてい た)若衆が一斉に喚声をあげて鬼箱をめがけて殺到する。鬼責めとなるのであるが実際は鬼副責めのような形で、

鬼箱の上に 4 人がへたってしまう。そうすると裸群は、スクラムを組んで、これを遠巻きにして気声をあげる。鬼 副は箱を持ってその一方を突破して走り出すがまたつかまる。このようにして 3 回堂の周囲を廻るのであるが、雨 の中、裸群からはもうもうと湯気が上る。3回目位になると御丁寧にもその上山内衆が、バケツの水を雨でずぶ濡れ の若衆の上にまだぶっ掛ける。鬼副が 3 周の後鬼箱を堂前へ運んで来たとき院主が鬼箱の上にさっと筵を掛けると 鬼責の行事は終了となり、鬼箱はもとの堂内へ安置される。若衆は鬼の岩屋へ帰る。

壮観なのはこの鬼箱責めであるが注目すべきは童子舞のようである。

前述のように修正会鬼祭の主要な関与集団は山内衆と若者衆とであるが、この 2 つの祭祀集団は夫々独立した組 織を持っていて、相互には何等関係がなく、山内衆から選出された両副という 2 人の役付のものと、若者衆のうち から選出された上鬼副、下鬼副という4人のもの連絡、折衡によって全部の行事が執行せられるのであった。

即ち、山内衆では当主が正月 3 日夕刻、平井坊に寄合い、役制限に基いて諸役の割当をし終って新年の宴会を催 すのであるが、これには若者衆は関与しない。このとき両副役2人も選出される。

一方若者衆は正月 4日(もとは正月3日であった)青年宿(現在は青年クラブ)に寄合いをする。これを鬼の岩 屋といっているが、4日には両副が酒1升を持って、山内衆を代理して鬼の当屋へ行き、そこで始めて祭に協力して くれとの挨拶をする。これが唯一の両祭祀集団の間の連絡事項であって若者衆では、この申込みをうけてから、「大 将」役を始め鬼副(オンゼイ)4人を定めるのである。この役決めの会合は祭のうち非常に重要な最初の行事として 重視され、両組とも組員の遅刻を戒め厳粛に行われるという。

決定した若者衆のうちに鬼副4人は4日夜から平井坊入りをし、院主によって山内衆の各役の人々に紹介され、

平井坊付きとなって、山内衆と共に平井坊に詰める。而して炊事や水仕事一切を山廻の指揮で引受け、また5 日早 暁には院主の加持をうけて、多良山麓の定めの場所にある。山神参りをするため神酒1瓶と鉈1打を帯びて出かけ、

牛王杖にする樫の若木を伐り出しに行く。この次第はどうも修験道の入峰練行に似ているようである。

祭の初夜の行事は読経、童子舞で始めるが、これ亦初夜、後夜、日中の勤行を通じて童子舞のあり方は僧衆の延 年を思わせるものがある。

「鬼祭両副次第」によれば、

1、太鼓経始レバ鬼副ヲ青年宿先ニ用意サセニ下ス。経ノ終ル次ニ上堂スル様ニ又下ス 2、フレイ経(吉祥天女ノコト)鈴振ニ笠ヲカブセ上着ヲヌグ

3、牛王宝印打切(大小棒)

4、テンクビョウシ(トントシヤキ)女面カブリ、テゴカブリ、上着ヲヌグ 5、牛王宝印打切(大小棒)

6、ヒザツキ(女面カブリ、テゴカブリ)

7、毘沙門ボー(カサカブリ、面ナシ、大小棒上鬼持出、下鬼持入)

8、上鬼ホコ(オコニツルテ下鬼オキナ面持出、下鬼持入リ、同時ニオキナヲスル)

9、青蓮花(上鬼持出シ、鬼小屋、下鬼持入、鬼小屋)注鬼小屋とは観音堂内の控の間をいう。

10、五大怒王(大刀ヌキ身、及ヲ海ノ方ニ向、持サル)

とあり、このうち童子舞の出るのは 堂内にて

籾播の舞 庭上にて 鈴振の舞

毘沙門棒を持っての所作(棒の舞)

翁面の舞 蓮花の舞 大刀の舞

の6種である。舞の振りは現在は何れもごく簡単な所作とはなっているが、唱え詞の伴うこと(これも現在は院主1 人の唱えとなっているが、もとは歌い手も舞ごとに変ったらしい)現在は絶えたが囃子の中に笛があったこと等を 考えると或いはもと山内三十三坊中に或いは延年を伝える僧坊があったのではないかとも想像される。

翁面の舞についても非常に簡略された現在の舞から、原形を推定することは困難ではあるがもとは恐らく童子の 舞ではなく大人の舞であり、猿楽以前の花祭や雪祭りに登場する翁の姿をその面から想像されるのであるが、更に 観世音寺蔵「鬼祭作法」には翁について

七番、翁二人

先大ノ云ク 翁ト云、小云ク翁ト云フ、又大ノ云ク マツトイワトハエンンモノナヨイト云、小モウヨイ

(4)

大ノ云ク

翁丸ラハ オキナ ナカラ ヤウマレケン ナヨイウヨイト云イ翁丸ラモ 昔ハチゴソカシ ナヨイウヨイ 云ヘバ ウヨイト云テ マワル也

八番ニ笛ヲ吹ク

松ト岩トハ縁ナモノヨ ナヨイウヨイ とある。

雨中での演舞は魚笠が大きいので顔に雨がかからぬとはいゝ状、童子 2 人には誠につらいことであったであろう が、カメラや録音も折角のところ台なしであった。

鬼箱の中に封込めてある鬼面は秘面であって、代々の住持もこれを見ることができない、という。何もないので はないかと云うと鬼副が鬼箱の上に十文字に掛けた縄を持って堂廻りをしつつ暴れ廻るとき、コトコトと音がする という。

現在はやって居らず、別に保存しているが、宿老のうちの古老が以前所役についていた頃、毎年鬼祭の所役を決 める3 日の山内衆の寄合のとき、役になったものの役と氏名とを書付にしたが、祭のあと、鬼箱の中へ蔵うことに なっていたが、そのときは山内衆の長老が唯一人目隠しをして堂内に入り、鬼箱と対座して鬼箱の蓋を開いて、昨 年の役割の書付を中から取出し、これに替えて本年の役割書を入れたという、がそのとき手に触れたものは確かに 面であったという。また取出した昨年の役割書は字の所が殆んど虫食いになっていてこれは鬼が食べたといった。

参照

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