『人文コミュニケーション学科論集』
21, pp. 1-7. © 2016
茨城大学人文学部(人文学部紀要)糟谷 政和
要旨
江戸時代における朝鮮通信使を通じた日本と朝鮮の文化交流のひとつとして、各地の祭 礼における出し物である朝鮮通信使一行の姿を真似た仮装行列について、茨城県土浦市の
1809
(文化12
)年の天王社の祭礼絵巻に描かれた様子を分析した。さらに祭礼の出し物に朝 鮮通信使を真似た行列を出すことに決めた理由を明らかにするための準備作業として、江戸 時代の庶民の朝鮮観について検討した。1
.はじめに江戸時代の日本と朝鮮との文化交流を考えるとき、朝鮮通信使の来日とその文化的交流が 日本の文化にどのように影響したかは重要なことである
( 1 )
。そこで、特にここでは江戸時代 の日本各地の祭礼の中に反映された朝鮮通信使を真似た仮装行列が持つ意味について考えて ゆく手がかりを提示したい。2
.江戸時代の土浦祭礼絵巻と朝鮮通信使土浦(現茨城県土浦市)の天王社の
1809
(文政12
)年の祭礼時に各町から出された出し物 を描いた絵巻がある( 2 )
。その絵巻の「中町」の出し物の中には朝鮮通信使を連想させるもの が含まれている。その祭礼絵巻である「土浦御祭礼之図」の中の「中町」部分の絵を読み解 くと以下のようになる。(なお、実際の絵巻は左から右へ進む横書きである。)中町
人数此通ヨリ五十人モ 余慶御座候
先頭の鉄棒持ち
1
人 先導(拍子木、扇子持ち)2
人 樽盛万度風持ち1
台5
人がかり(なお以下は、警護(紋付き袴)とある者以外の衣装はすべて唐人風(夷人仕立)
である。)
皇帝旗持ち
2
本 各1
人 清道旗持ち2
本 各1
人 形名旗(龍)持ち1
本1
人 夾刀持ち1
本2
人 清道旗持ち2
本 各1
人花笠付太鼓
1
個3
人(内、1
人は打ち手)北斗七星旗持ち
1
本1
人 警護(紋付き袴)1
人 ラッパ吹き(大)2
本 各1
人馬の口取り
2
名(内、1
人はキセルで煙草を吸う)騎馬者
1
人従者
1
人 日傘持ち1
本1
人 吹き流し持ち2
本 各1
人馬の口取り
2
名騎馬者
1
人従者
1
人日傘持ち
1
本1
人馬の口取り
2
名騎馬者
1
人従者
1
人日傘持ち
1
本1
人 警護(紋付き袴)2
人 ラッパ吹き(小)4
本 各1
人 手持ち太鼓叩き4
個 各1
人 横笛吹き4
個 各1
人 旗持ち2
本 各1
人従者
4
人輿(
1
人乗っている)1
台 担ぎ手10
人 団扇持ち1
本1
人日傘持ち
1
本1
人 物持ち2
本 各1
人 旗持ち1
本1
人馬の口取り
2
名騎馬者
1
人従者
1
人日傘持ち
1
本1
人馬の口取り
2
名(内、1
人はキセルで煙草を吸う)騎馬者(いわゆる「賄い唐人」)
1
人(鳥のようなものを口にしていて、鞍の横にはウサギのようなものが ある)
唐人帽を被った着物姿の人
1
人従者
1
人以上のような、「中町」の仮装行列は、「土浦御祭礼之図」の「中町」部分に「人数此通ヨ リ五十人モ余慶御座候」とあるように、実際にはもっと参加人数が多かったと思われる。こ の仮装行列は、沼尻墨僊によって「中町朝鮮人来朝の学びに而皆夷人仕立
( 3 )
」とあることか らもわかるが、さらに実施の朝鮮通信使と関係の深い「清道旗」や龍が描かれた「形名旗」や「ラッパ」からは、現代の我々にも江戸時代の朝鮮通信使一行の姿を真似た(「学び」)も のであると理解できる。ただ後に検討するように、実際の朝鮮通信使一行の姿ではなく、「夷 人」とあるように、いわゆる異国風のイメージによって作り上げたものでもあるといえる。
ここで問題にしている、江戸時代の土浦の天王社祭礼絵巻に描かれた朝鮮通信使を真似た 仮装行列については、すでにロナルド・トビ氏
( 4 )
、黒田日出男氏( 5 )
によって分析評価されて おり、さらに土浦市立博物館でも1993
年10
月に第11
回特別展図録としてまとめられた『にぎ わいの時間』(茨城県土浦市立博物館編集・発行、1993
年10
月)で詳細な分析がされている。3
.朝鮮通信使仮装行列と江戸時代の民衆の朝鮮観本来であれば、沼尻墨僊の言う「中町」の出し物「朝鮮人来朝の学びに而皆夷人仕立」と 言っている朝鮮通信使仮装行列を「中町」が出した経緯を明らかに出来ればよいのであるが、
現在のところ、史料的に確認できていない。そこで、今後、研究を深めてゆく上で参考にす るために、ここでは、江戸時代の一般庶民が抱いていた朝鮮観に関するいくつかの研究を整 理しておきたい。
・
1809
(文政12
)年の土浦の天王社の大祭絵巻である「土浦御祭礼之図」の「中町」部分の 出し物は、「朝鮮人来朝の学び」として朝鮮通信使を想起させる「清道旗」・「形名旗」・「ラッ パ」や「唐人装束」や「賄い唐人」から構成されている。当時、「中町」の人々にこれらの 出し物を作ることを決めさせたのは何であったのであろうか。いくつかの可能性を挙げてみたい。
まず思いつくのは、土浦の祭礼の出し物製作には江戸の職人が関係していると思われるの で
( 6 )
、 江戸の祭礼文化からの影響を挙げたい。江戸時代後期、江戸の神田明神の神田祭や 日枝神社の山王祭の出し物の中に出ている朝鮮通信使を真似た仮装行列からの影響である。具体的には、寛政期の神田明神祭礼を描いた龍ヶ崎市歴史民俗資料館所蔵「神田明神祭礼絵 巻」の豊島町の朝鮮人来朝、また
1748
(寛延元年)年の朝鮮通信使が日本橋近辺を行列す る姿を描いたとされる羽川藤永の「朝鮮人来朝図」、『東都歳時記』の山王祭を紹介した絵に 見る麹町の作り物の大象と唐人行列などの情報を得て土浦でも「朝鮮人来朝の学び」をした かもしれない。さらに、当時、通信使来日に合わせて出版されることが多かった朝鮮通信使解説本として の ʻ朝鮮通信使行列記ʼ の類いの中の挿絵を参考にして真似て「夷人仕立」をしたかもしれ ない。(なお ʻ朝鮮通信使行列記ʼ については後述する。)
通信使を表徴するものとしての「清道旗」は、現実のものとは違う。また仮装行列全体も いわゆる ʻ夷人仕立てʼ で、日本の当時の一般的な服装とは異なる異国風である。
なお、土浦の当該祭礼絵巻に登場する、「賄い唐人」と言われる馬に乗った唐人の出し物 がある。鞍の付近に鳥のようなものがあり、「肉食」という異なる食文化を強調して日本文 化との違いを際立たせている
( 7 )
。この土浦の当該祭礼絵巻「賄い唐人」は、土浦の祭礼絵巻 だけに登場するのではなく、前述した龍ヶ崎市歴史民俗資料館所蔵「神田明神祭礼絵巻」や 羽川藤永の「朝鮮人来朝図」にも描かれている。さらに埼玉県川越市の川越氷川神社の江戸 時代の祭礼絵巻にも描かれている( 8 )
。「賄い唐人」の起源に関係があると思われるものとし て、英一蝶の『英一蝶画譜 中巻』にも「台所唐人」(絵の中では「賄唐人」)として馬上の 朝鮮通信使風人物がキセルで煙草を吸い馬上で台帳を広げそろばんを下げ、鞍の横や後ろに 動物が置かれた絵になっている。さらに狂歌本『東都名所一覧 上』(文化10
年刊)の葛飾 北斎による挿絵「山王祭」にも山王祭の出し物の一つとして馬上の天秤秤を掲げた朝鮮通信 使風人物が描かれており鞍の後ろに大根が下がっているが、この人物が「賄い唐人」かと思 われる。さらに浮世絵師宮川長春が描いた「朝鮮使節騎馬図」(佐賀県立名護屋城博物館蔵)があり、キセルで煙草を吸う朝鮮通信使風な人物が描かれている。鞍の脇にはウサギ、鳥、
手桶が繋がっている。なお、「賄い唐人」との関連は不明であるが、歌舞伎の坂東三津五郎 が文化
10
年に中村座で上演した「四季詠寄三大字」の中の「六月−祭礼〈台所唐人〉」の役 者絵(画工 歌川豊国)がある。いづれにしても、現状では可能性の問題であり、筆者としては史料的に明らかにすること はできていない。今後の課題である。
4
.江戸時代の民衆の朝鮮認識について江戸時代の土浦の祭礼に参加した中町の人々が、どのような意図で朝鮮通信使を真似た、
いわゆる唐人行列という異国風の人々の行列を出し物に決めたのかその理由を史料的に確認 できていない。そこで、江戸時代の一般の民衆が抱いていた、朝鮮認識における肯定的認識
(好感)と否定的認識(蔑視)の二つの側面が併存していたことから、当時の土浦の人々の 朝鮮観を推測してみることにしたい。
このことに関して、矢沢康祐氏は江戸時代の人々の朝鮮認識全体を次のように理解した。
つまり通信使一行中の文人に対して積極的に漢詩文の交換は学問的な質疑応答などを行って いたことかから判断して、当時、朝鮮を文化的先進国とみなし、尊敬する見方がかなり広範 囲にかつ長期にわたって存在していたと言えるが、同時に
17
世紀後半には朝鮮蔑視論が起 こってきて幕末の征韓論へとつながるとした( 9 )
。この矢沢氏の主張の前半部分は、つまり朝鮮を文化的先進国とみなし、尊敬する見方がか なり広範囲にかつ長期にわたって存在していたとする点は、荒野泰典氏によって、朝鮮通信 使を通した人々の朝鮮認識の成長や民衆レベルの文化的交流の可能性が指摘されたものと受 けとめられた
( 10 )
。さらにロナルド・トビ氏によって、朝鮮通信使絵巻や日本各地の祭礼絵巻に描かれた朝鮮 通信使を真似た行列の中に当時の日本人の朝鮮認識が読み取られた
( 11 )
。ここまでは、江戸時代の庶民一般の朝鮮認識として朝鮮通信使との関係・交流を通じて比 較的肯定的認識(好感、尊敬)があったとする理解といえる。
これに対して塚本明氏は、神功皇后伝説に基づく民衆の朝鮮蔑視観の存在を指摘した。つ まり現代では歴史的事実ではないとして否定されているが、古代の日本において神功皇后が 朝鮮半島の新羅をはじめ、百済・高句麗を武力で征服し(「三韓征伐」)、以後その三国から 日本へ朝貢があったとする伝説に影響されて江戸時代の民衆は朝鮮を蔑視していたという
( 12 )
。 塚本氏は、江戸時代の「民衆の朝鮮観の総体を明らかにする上で、朝鮮通信使は、重要な 要素ではあるが唯一絶対的なものではなく、これ以外の多様な要素を含めて検討する必要あ る( 13 )
」とし、多様な要素のひとつとして神功皇后伝説を取り上げる。少々長いが塚本氏は 神功皇后伝説について、次のように論じている( 14 )
。神功皇后が新羅を武力で征服したという内容を持つ伝説は、言うまでもなく虚構の世 界に属する。だが、中世以降に日本が朝鮮との武力的接触を持つたびに―すなわち蒙古 襲来、応永の外寇、秀吉の朝鮮侵略、さらに明治期のそれぞれの時期にこの話が新たな 装いを伴って再生し、独自の役割を果たした。そしてこの伝説の内容は、日本を神国と 見る意識、朝鮮への蔑視観と深く関わっている。これらをあとづけつつ、江戸時代の、
主に民衆の朝鮮観を論じる。
そして塚本氏は、「神功皇后伝説は様々な形をとって近世民衆の間に広まった
( 15 )
」として、具体的に、京都の祇園祭、桂女と守札、河原絵巻、歌舞伎・浄瑠璃、出版物と神功皇后伝説 の存在を見出している
( 16 )
。特に最後の出版物に関する分析の中で、朝鮮通信使の来日に際 して通信使見物の解説本として絵入りで作られ出版されていた、いわゆる ʻ朝鮮通信使行列 記ʼ に注目している。塚本氏は、その ʻ朝鮮通信使行列記ʼ の序文に特に注目している。そ れは上田正昭氏の指摘( 17 )
に依拠しつつ、その ʻ行列記ʼ の序文の中に神功皇后伝説との関 連性を見出して次のように論じている( 18 )
。(なお、ここで言う ʻ行列記ʼ は、宝暦13
(1763
) 年に出版された『朝鮮人大行列記大全』である。)
この行列記の序文は神功皇后伝説の解説から始まり、皇后の「三韓征伐」以来朝鮮半 島から日本へ朝貢が行われ、途中中断したものの秀吉によって再開されたとし、その延 長上に朝鮮通信使を位置づけているのである。
このことから、朝鮮通信使を民衆がどう見ていたかを次のように論じている
( 19 )
。日本の一部の儒学者が、詩文の交換などを通じて朝鮮通信使に畏敬の念を持ったこと は事実だが、これと民衆レベルの認識は区別されなければならない。実際に通信使に接 したわけではなく、また大半は見ることさえなく、行列記を通じて知識として通信使を 知った民衆たちは、以上に見てきた神功皇后伝説の浸透を背景に、これと結び付けて彼 らをイメージしたにちがいないのである。
なお、塚本氏の主張と同じように、江戸時代の朝鮮通信使に関する出版物である ʻ行列記ʼ を各種検討した箕輪吉次氏によれば、正徳元年には、出版された『朝鮮人来朝儀式』には朝 鮮賛美の傾向が見られたが、その後は、多くの出版物で神功皇后伝説を記述して、朝鮮通信 使を朝貢使節として位置づけてゆく傾向になると言う
( 20 )
。以上のように、江戸時代における庶民が、神功皇后伝説に基づいて、朝鮮通信使を朝貢使 節としてみる朝鮮蔑視観を持っていたとすれば、江戸時代の土浦の人々も朝鮮蔑視観を持っ ていたといえるのだろうか。現状では可能性の問題であり、筆者としては史料的に明らかに することはできていない。今後の課題である。
5
.おわりに江戸時代の土浦の天王社祭礼絵巻に描かれた朝鮮通信使一行の姿を真似た仮装行列の出し
物の分析を始めとして、さらに土浦の祭礼での朝鮮通信使を真似た背景を考える一環として、
江戸時代の庶民の朝鮮観について展望してみた。今後さらに考察を進めてゆきたい。
注
(
1
)辛基秀『朝鮮通信使往来』労働経済社、1993
年。(
2
)以下「土浦祭礼之図」は、『にぎわいの時間』(茨城県土浦市立博物館編集・発行、1993
年10
月)所収のものを利用した。
(
3
)『土浦史備考』第1
巻・(総論・神社仏閣編)、土浦市史編纂委員会編集、土浦市教育委員会発行、1989
年、146
頁。なお、『にぎわいの時間』(茨城県土浦市立博物館編集・発行、1993
年10
月)、63
頁に引用されている。(
4
)ロナルド・トビ「近世日本の庶民文化に現れる朝鮮通信使像」『韓』110
号、1988
年。(
5
)黒田日出男「<祭り>の時代としての近世」『にぎわいの時間』(茨城県土浦市立博物館編集・発行、1993
年10
月)。(
6
)沼尻墨僊が「墨僊漫筆之稿」で次のように記録していることからわかる。「当地にて盆花を製 する事ハ寛永六年甲寅年天王二ト目大祭有りて江戸職人等河内やニ来りて万度を作る(以下略)」(『土浦史備考』第
2
巻(文芸編)、土浦市教育委員会編集・発行、1993
年、220
頁)。なお、堀部猛「天王社祭礼と土浦町内祇園祭礼式真図」『土浦市立博物館紀要』第
5
号(土浦市立博物館、1993
年)の
56
頁に引用されている。(
7
)『にぎわいの時間』(茨城県土浦市立博物館編集・発行、1993
年10
月)、26
頁。(
8
)糟谷政和「朝鮮通信使と埼玉県川越市」『人文コミュニケーション学科論集』第20
号、茨城大学 人文学部、2016
年3
月。(
9
)矢沢康祐「「江戸時代」の日本人の朝鮮観」『朝鮮史研究会論文集』第6
集、1969
年。(
10
)荒野泰典「日本の鎖国と対外意識」『歴史学研究別冊(1983
年度)』、1983
年。(
11
)前出注(4
)と同じ。(
12
)塚本明「神功皇后伝説と近世日本の朝鮮観」『史林』79
巻6
号、1996
年11
月。(
13
)同、3
頁。(
14
)同、3
頁。(
15
)同、15
頁。(
16
)同、15
-28
頁。(
17
)上田正昭「『征韓論』とその思想」『三千里』第3
号、三千里社、1977
年5
月。同「朝鮮通信使と雨 森芳洲」(映像文化協会編『江戸時代の朝鮮通信使』毎日新聞社、1979
年)(
18
)塚本明「神功皇后伝説と近世日本の朝鮮観」、28
頁。(
19
)同、28
頁。(