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南大隅町佐多の御崎祭りと郡・近津宮神社の神面群

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南大隅町佐多の御崎祭りと郡・近津宮神社の神面群

武田篤志*

IneachFebruary,theMisakifestival isheldintheSatadistrict(fOrmerSataTown)ofMinami‑

OsumiTown.KimotsukiCounty,KagoshimaPrefecture.ThisisaspringfestivalofMisakijinja (MisakiShintoshrme)enshrinedmtheCapeSatawhereisthesouthernmostpointofOsumi Peninsula,Kyushu. InthisfestivalthereiJHama‑kudari (descendingofGodtobeach) '・ritual.

Thisistheparade, inwhichthoselivinginSatadistrictcarryaMikoshiportableshrinefrom Misaki‑jinjatotheChikatsunomiyaFjinja(ChikatsunomiyaShintoshrine)attheKorivillagelo‑

catedapproximately20kilosawayfrom.WhentheMikoshiportableshrinearriveattheKori village, localchildrenputonafacewoodmaskgreetit.Thisgreetingritualisveryinteresting becausethesemasksarereligioustools,andrepresentoflocalgods.Therewereanumberof masksintheChikatsunomiya.jinjafOrtheritual,butunfbrtunatelythesewerestolenbysomeone.

Inthispaper,Ishallanalysisthepicturesoflostmasksandintroducesomespeculationsabout thereligiousmaskcultureoftheKorivillageintheSatadistrict.

はじめに

筆者は2015 (平成27)年以降鹿児島県肝属郡南大隅町をフィールドに, 同町の佐多地区(旧佐多町)

で毎年2月に行われる「御崎祭り」について現地調査を重ねてきた。この祭りは,大隅半島最南端の佐多 岬/御崎山に鎮座する御崎神社の春の例祭である。佐多岬の妹神が約20キロ離れた郡集落の姉神に年始参 りをするという物語に沿って,御崎神社から出発した神幸行列が,途中の七浦と呼ばれる集落一田尻,

大泊,外之浦, 間泊,竹之浦,古里,郡一を巡りながら近津宮神社を訪れるというユニークな伝統行事 である。現在,御崎祭りは二日間にわたり行われる。一日目は御崎神社から旧那小学校内の仮宮まで御神 幸をおこなう 「浜下り」,二日目の「二十日祭り」で仮宮から近津宮神社へ神輿を運び入れ神事をおこな

う (祭りの詳細については,武田2015,牧島2018を参照)。

御崎祭りは1300年の歴史をもつといわれ,佐多岬の観光開発に力を入れる南大隅町にとっては重要な宣 伝材料の一つでもある'。もっとも, これは御崎神社の創建年とされる708 (和銅元)年から数えてのこと であり,上記のような祭りのかたちが出来上がったのは,社殿を現在地に移設した慶長年間以降と思われ る2oでは,御崎祭りの歴史が一般に流布されているより浅いものかというと話はそう単純ではない。と

キーワード:御崎祭り,浜下り,御崎神社,南大隅町,佐多地区(旧佐多町),郡,信仰仮面

*本学経済学部准教授

−−−一一一一一一一一

l 御崎祭りは2005 (平成17)年に県の無形民俗文化財に指定されている。

2 現在の御崎祭りの原型については地元の伝承があり,慶長年間に社殿を新築したものの, 「参拝者が少ないので,島津藩が長州 藩から遊興をしたらよいと教えてもらい, (中略)御崎神社の神様が年に1回近津宮神社の女神に正月の挨拶のため会いに行くと いうことで巡行をするようになったといわれている」 (牧烏2018: 10)。

(2)

いうのも,佐多岬近隣の集落には前古代的な信仰の痕跡と思われるものが散見され,それらが御崎神社や 御崎祭りと深くかかわっているからである。

御崎神社は日本の記紀神話に登場するワタツミ三神を祭神としている3.その由来もまた記紀神話一一と くに日本書紀一の記述と関連付けて説明される。すなわち,黄泉の国から逃げ帰ってきたイザナギノミ コトが佐多にある影向石に降臨したのち,佐多岬の南にある「おどんせ」4で膜祓いをして,そのさいワタ ツミ三神を産んだというものである。

影向石とは神が降臨する際に御座とする石, あるいは来臨する神を拝む場所にある石(拝み石)のこと で,佐多地区・大泊集落の大泊岳山頂に実際に存在する。高さ2メートルほどの巨石で,神髄石(こうご いし)や考祈石(こごいし)と呼ばれ,地元の住民にはよく知られている(図1中央)。この石は御崎祭り にも深く関係している。津宮神社での祭事が終わると岬神は空を飛んで御崎神社へ還るとされるが,途中 この石に降り立ちそこから歩いて還るといわれている。

図1 旧大泊小学校から見た大泊岳と神籠石(2016.3.26筆者撮影)

山頂に登る途中にも小さな石(右)があり, こちらは下神龍石と呼ばれている

イザナギが膜祓いをしたとされる「おどんせ」もまた実 在しており,佐多岬灯台付近にある石磯がそれである。佐

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社殿は上述のとおり慶長年間に現在の位置に新築されたも 図2おどんせ(2016.3.26筆者撮影)

のであるが, もとは佐多岬の海浜にあった小さな石祠だっ

たという。これを和銅元年に「ハマミヤ」 (浜宮,演乃宮,浜宮殿)と呼ばれる岩窟の祠へ移して祀った のが御崎神社の始まりとされる。ハマミヤは1843(天保14)年編纂の『三国名勝図絵』にも挿絵で描かれ ている(図3)。このハマミヤがあった場所も地元住民に伝承されており,筆者も案内してもらい跡地を訪 れたことがある。ただし現在は土砂が崩れ落ちて草木が生い茂っており、往時の姿を確認するのは困難

3 御崎神社は底津少童命, 中津少童命.上津少童命の三神を祀り.そこから御崎三所椛現と呼ばれる。また御崎祭りの終薪地 である近津宮神社が同じ三神に底筒男命中筒男命.表筒男命を加えて六神を祀ることから.一説には御崎神社も同様に六神を 祀るとされ六所権現とも呼ばれる。現在はさらに伊邪那岐命・伊邪那美命の二神も祀っている。地元の人びとは御崎神社の祭神 を総じて「オミサキドン」や「ミサッドン」と親しみを込めて呼んでいる。

4 資料によって「おうどの瀬」、 「おふごの瀬」, 「おほどの瀬」など微妙に表記が異なるが.本稿では地元住民の呼び方にならい「お どんせ」とする。

5 地元住民にたずねたさい. もっと沖の方にもう一つ石磯があり.そちらが「おどんせ」だという方もおられたことを記しておく。

(3)

であった(図4)。

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図4佐多岬東岸にあるハマミヤの跡地(2016.3.26筆者撮影)

図3 『三国名称図絵』挿絵

御崎神社の由来をめぐる言説は,記紀神話の記述を佐多岬周辺の地形に当てはめて作り上げられたもの であり,後付けの感が否めない。そもそも『古事記』の完成は712(和銅5)年, 『日本書紀』は720(養老 4)年,つまり御崎神社の創建年よりも後である。一方,神話の記述に関連付けられた影向石(神籠石),

おどんせ,ハマミヤ跡は,実際に現地を訪れてみると原始的な信仰の影を感じさせられる。神籠石はどう みても古代的ないし前古代的な巨石信仰の痕跡であるし,おどんせも 太古の昔からこの地に暮らした漁 携民たちにとって豊漁をもたらす特別な場所として信仰の対象であったことは想像に難くない−現在で も自然と釣り人たちが集まっている。ハマミヤ跡も神話の神を社殿で祀る以前の素朴な信仰の形態を暗示 している。つまり,実在の場所が御崎神社の由来の言説に組み込まれながらも. より古い信仰の存在を浮 き彫りにしていることが実感されるのである。そこで筆者は,御崎神社の由来や現地の伝承の比較検討,

さらに御崎神社創建当時すなわち律令国家体制の成立期の時代状況との対照から,佐多の場所にはもとも と固有の古い海神信仰があったのではないかと仮説を立て, これを《おどんせの海神》と名付けた(武田 2016)。

こうした場所の固有な神性に関わるものがもう一つある。それが御崎祭りに登場するネ111面たちの存在で ある。現在では見られなくなったが, もともと御崎祭りでは,神幸行列が七浦を巡る浜下りの終盤で 近 津宮神社の神面を被った郡集落の子どもたちが坂元で一行を出迎え仮宮まで先導する役目をつとめてい た。この神面について上掲の拙稿では,記紀神話に議場する国つ神・サルタヒコと関連付けて,神道的神 とは異なる民俗的神の可能性を論じた。だが,郡集落の神面についての資料的な検証が不十分であった。

そこで本稿ではこの神面を改めて取り上げたいと思う。次節ではまず南九州における仮面文化についての 先行研究を概観する。その後で,佐多地区の神面について資料をもとに検証したうえで,岐後にサルタヒ

コとの関連から考察を行う。

2南九州の仮面

佐多地区の神面を取り上げる前にまずは日本および南九州の仮面文化について概観しておく。全国各 地には古くから伝承されてきた面が数多あるが, なかでも南九州は仮而の宝庫であり一定の研究蓄積があ る。その成果を踏まえて佐多の神面の位置づけを確認しておこう。

(1)日本の仮面研究から

日本の仮面研究は主に芸能史の文脈で展開してきた。後藤淑の大著『中世仮面の歴史的・民俗学的研究』

(後藤1987)と『民間仮面史の基礎的研究』 (後藤1995)によれば、 日本の仮面文化の展開を編年的に大 きく分類すると以下の流れになるという。

(4)

I縄文時代の土面・貝面

Ⅱ外来系の木彫仮面

Ⅲ民間の木彫仮面

Ⅳ能面・狂言面 V神楽面

Iは考古学的に遺物として確認されてはいるが詳細は定かではない。Ⅱまでの間に長期の空白があり,

また仮面の形式・面相,製作技術・材料などの点で相違が多いことから,後の時代との間には文化的な断 層があると思われる。Ⅱの外来系仮面は7世紀に大陸から流入してきたもので,伎楽面・舞楽面・行道面 などがある。これらは7〜11世紀に仏教儀礼・宮中儀礼とともに芸能用に使用された。Ⅲの民間仮面は古 代末から中世にかけて登場する。外来系仮面は儀礼的意味が強いのに対し,民間仮面は信仰的意味が強く,

この時代には芸能で使用されるものではなかったようである。また,民間仮面は,宮中や社寺で使用され た仮面とは異なり保存環境が悪く,それゆえ現存していないだけでⅡ以前から存在していた可能性もある という。続いて登場したⅣ能面・狂言面は芸能用に発達した仮面で16世紀に全盛をみる。Vは近世に登場 し神楽で使用された仮面で, これも民間仮面の一種である。神楽は宮廷内で行われる御神楽と民間で行わ れる里神楽とに大別され,現在神楽といえば一般的には後者を指す。御神楽は平安中期から行われており,

里神楽は中世以降その実態が知られるようになったが, ともに仮面は用いていなかったようである。近世 になって神楽に仮面が使われるようになり,神楽面の名称も生まれた。近世の神楽面は先行する仮面の特 徴をことごとく取り入れており中心をなす面がはっきりしないが,強いていえば形式・表情に誇張・派手 さ・自由さが際立っている点に特徴を求められるという。なお,南九州では神楽のことを「神舞(カンメ・

カンマイ)」と称する。

後藤は,上層階級の文化で育てられた伎楽面・舞楽面・行道面(貴族文化)や能面・狂言面(武士文化)

は美術的・様式的で都市的色彩が強いのに対して,庶民の中で育てられてきた民間仮面は宗教性が強く,

多種多様で様式化がなされず,地方色が濃厚であるという。その上で,完成品的・美術品的で文化の表層 を彩る前者に対し,過程的・基層文化的なものとして歴史研究上の意義を有する後者に関心を置いている。

南九州についていえば,伎楽面・舞楽面・行道面,能面・狂言面の事例が少なく,民間仮面の事例がきわ めて多い。この点で南九州の仮面は,仮面研究上の意味をこえて,場所の歴史・文化を表象するものとし ても重要な対象であるといえよう。

(2)南九州の仮面分類

南九州の仮面文化については, 1992(平成4)年に黎明館で開催された企画特別展「南九州の仮面〜祈 りと願いの世界〜』が基本的な資料を提供している。この企画展では,南九州の各神社などに秘蔵されて いる約250点の仮面を整理し,神舞面,魔よけの仮面,南西諸島の仮面などに区分して紹介している。同 企画展の図録・解説書に, これを鳥撒的に示した「南九州の仮面分類」があるので参照しておこう (鹿児 島県歴史資料センター黎明館1992)。

この分類図(図5)では信仰仮面と芸能仮面を区分した上で,南九州の仮面文化の状況に即して主に三 つの新視点を導入している。一つは,神舞面を独自に「道化面」, 「鬼神面」, 「老人面」, 「男女面」の四つ に分けた点である。上記のとおり神舞とは神楽(里神楽)のことである−神舞の呼称は南九州で天正年 間には登場している。里神楽は①巫女神楽(巫女舞),②出雲流神楽③伊勢流神楽(湯立て神楽,霜月 神楽ともいう),④獅子神楽(奥羽の山伏神楽・番楽,伊勢や尾張の太神楽)の4つに分類され,南九州の

(5)

神舞は④出雲流に属する6.これは岩戸開きなど出雲の神事に重きを置き,物を持って舞う採り物の舞いを 主とするもので, 出雲佐陀大社の七座の神能をもとに近世以降全国へ広まった神楽である。

二つ目は,従来「民俗芸能仮面」と一括して呼ばれていた南西諸島の芸能仮面を「来訪神仮面」と「野 外舞踏劇仮面」に分けた点である7.

三つめは,神社の祭礼などで神幸する仮面を従来「行道面」と分類していたのを「神王面」の名称に改 めた点である。行道面は仏教の法会の行道と神幸形態が相似することから研究者が名付けたものだが,南 九州では神の依代として神幸する仮面を「神王面」と記載する近世の古文書も存在するため適切な名称変 更といえよう。また, これと関連して,奉納された信仰仮面を「王面」と名付けて分類に位満付けた点も 注目される。王面は,中世の修験者によって顔だけの仏像という意図で製作されたもので,裏面に「王面」

と墨書されたものも多い−「王」はもともと仏教用語で,魔除けや守護神の機能をもつ神につけられた。

阿畔一対をなすものが多く, ほとんどが厳しい鬼面の表情をしている。独特の容貌と作風をもった仮面で 南九州に多く分布していることからも, より実態に即した設定となっている。

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南九州の仮面

大型鬼面(建物の安穏祈願・魔除け)

獅子面(悪魔祓いの先導役)

南西諸島(例 県本土(例

ボゼ・マユンガナシ・パーントウ)

トシドン・カセダウチ)

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神舞面

窯職)。−一

(有力神社に寄進奉納されている翁面は特に神聖視されている)

図5南九州の仮面分類

出典:鹿児島県歴史資料センター黎明館編(1992:31)より転載

6 神楽の分類については本田(1988)も参照。

7 南西諸島の来訪神仮而の文化は,その地理的な位置関係から佐多の場所文化や郡集落の神而にとっても重要であると考えられ るが.本稿では取り上げる余裕がないため, さしあたり保坂・福原・石垣(2018)を参照。

(6)

この分類図は仮面の形態と機能という視点から構成されており,南九州の仮面の多様性を端的に把握す るのには便利である。しかし,民俗芸能(とくに里神楽/神舞)は信仰とも密接につながっている場合が 多く,実際に仮面が使用される文脈においては必ずしも信仰と芸能の区分は明確ではない。そこで注目さ れるのが古林孝子による「南九州の仮面と周辺文化の相関図」 (図6)である。

古林は従来の信仰仮面と芸能仮面という区分は実態に合わないとして,仮而とその周辺文化との比較と いう視点から,奉納面と神舞面の区分を中心に据えた新しい見取り図を提示している(古林1999)。 「奉 納面」とは何らかの祈願を込めて寺社などに奉納する仮面で,全般的に神舞面より大振りで重いものが多 (逆に極端に小さいものもある),裏側の掘り込みが浅い, 目鼻口に穴が無いなどの特徴がある−人 が被って使用することを前提していない。 「神舞面」は神楽/神舞(演劇含む)に用いる仮面である。上 の図5と対比すると,神王面・王面・獅子面に対応するのが奉納面で,神舞面の4分類(道化面・鬼神面・

老人面・男女面)は,古林I全l身の調査事例を踏まえて,阿昨対の面・ウケモチ型・荒神面・能面系・狂言 面系の5分類に修正している。能面系と狂言面系は文字通り能面と狂言面の影響を受けたもの, ウケモチ 型は日向地方の神楽で保食(うけもち)の神役に使われている面の容貌8から名付けたという。ウケモチ 型は荒神面と同様に各地に類似した仮面が点在しており何らかのモデルの存在を示唆することから分類に 採用している。

膳訪神の面・仮装

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・カセダウチ 野性的来訪神

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図6南九州の仮面と周辺文化の相関図 出典:古林(1999:152)より転載

8 古林は「目をまんまるに見開き, 口は半月形に裂け舌が出ていてひげや眉がさかだっている」と表現している(古林1999 153)。

(7)

以上を踏まえ,古林は実態調査と文献から,南九州の仮面奉納の変容を明らかにしている。南九州では 13世紀頃から仮面の奉納が行われていたようだが,奉納面の奉納が16〜17世紀をピークに衰退しはじめ,

それと入れ替わるように神舞面の数が増え17〜18世紀に全盛を迎えた後減少していくという傾向がみられ るという。古林はこの17〜18世紀を「南九州の仮面奉納の転換期」としている9.つまり, この時期を境に 仮面の奉納から仮面を用いた神舞の奉納への緩やかな転換がみられるということであろう。古林の方法 は,信仰と芸能を分離・区分するのではなく,あくまで信仰が底流に持続したかたちで仮面を捉えるとい う点で注目される。近世以降の神楽/神舞が芸能色を強めていく傾向にあるとしても,そのことをもって 即座に,祭礼の中で行われている神舞の信仰的性格が薄れたとは言えないからだ。これは,仮面という対 象を, それが置かれた場所の文化的・歴史的文脈に於いてとらえる視座を提示している。

3佐多地区に伝わる神面と神舞

本節では御崎祭りに登場する郡集落の神面を取り上げようと思うが, じつのところ大きな困難を抱えて いる。 というのも,近津宮神社に所蔵されていた面は,その多くが盗難被害に遭い現存していないからで ある。しかし,盗難被害後の数年間,同じ佐多地区の稲牟礼神社から面を借りて祭りをしていた時期があ り, これらの面は郡集落のものと非常に似ていたという。そこで,残された写真資料と稲牟礼神社の面を 手がかりに,御崎祭りにおける神面群がどのようなものであったのか再榊成を試みたい。

(1)失われた神面たち

もともと御崎祭りでは 神幸行列が七浦を巡る浜下りの終盤で,郡集落の子どもたちが神而を被って登 場していた。坂元で一行を出迎え,郡の仮宮まで先導する役目である。翌日の二十日祭りでも,仮宮から 近津宮神社境内まで神輿を運び入れるさいに神面たちは行列に随行する。また,近津宮神社で岬神を迎え る儀式の後で奉納される神舞でも面が用いられた。現在,浜下りでの神而たちによる出迎えは行われてお らず,かろうじて二十日祭りの日に登場するだけになってしまったが,過去に撮影された写真で往時の祭 りの様子を確認しよう。

現時点で筆者が参照できた資料は, 1966 (昭和41)年発行の野田千尋著「わが本土のさいはて佐多岬』

に掲載された図7である。同書の奥付には昭和41年1月20日印刷とあるので, おそらく著者が前年の1965 (昭和40)年に行われた祭りの様子を撮影したものだろう。今となっては貴重な写真である。画質が荒い ので判別しにくいが,本文には「郡部落の八人の子供たちは,神面をかぶって,坂元部落まで迎いにき,

こ、からミコシの先導をつとめてゆく」 (野田1967: 188‑189) とあるので, 当時は少なくとも8つの仮面 が登場していたことがわかる。学生服を着ているので中学生だろうか。また, 「神面をつけた子供は,手 にシベを持っている。 ミコシの先導をつとめているのは, なんのためだろうか。これは,異境のおそろし いものや邪悪なものを,すべて追いはらって, きよまったところに, ミサキドンを誘導されるという気持

をあらわしたものだろう」 (同上) と解説が付されている。

もう一点, 1973(昭和48)年発行の『佐多町誌」にも郡の神而が写真で掲載されている。搬影日は不詳 だが,奥付に昭和46年4月10日編集とあるので,その前後の時期に撮影されたものであろうか。祭りのど の場面かは定かでないが,三つの神面それぞれに髪の毛が付けられているのがわかる。中央に写っている 鬼神面は近津宮神社に唯一現存するもので,現在でも祭りで使用されている。

9 古林の視座を踏まえつつさらに発展させた研究として泉房子の「南九州における神楽面の系譜jがある。泉は南九州の中世か ら近世への転換期に焦点を定め,丹念な現地調炎を重ねて「王而」から神楽面へという展開の道筋を明らかにしている(泉 2014)。

(8)

図7坂元から仮宮まで神輿を先導する郡の神面たち 出典:野田(1967:188)より転載

図8 『佐多町誌』に掲載された神面

出典:佐多町誌編集委員会編(1973:口絵)より転載

残念ながらこれらの面のほとんどは地元に残ってはない。1977〜78(昭和52〜53)年頃近津宮神社の 面は盗難被害に遭い,鬼神面以外はすべて失われてしまったためである'0.当時を知る地元の神社関係者 によると、その後数年間は,同じ佐多地区にある稲牟礼神社''から面を借りて祭りを行っていたという。

同社所蔵の面も佐多に古くから伝わるもので,近津宮神社の面と見問違うほどよく似ていたそうである。

(2)面を借りて行った祭り

民俗学者の下野敏見は,面の盗難直後の時期にあたる1979(昭和54)年に御崎祭りを現地調査しており,

当時の祭りの様子も撮影している。下野が中心となって編集した『佐多町民俗資料調査報告書(2)佐多 町の民具』には,現在では見られない神而の子どもたちの様子が記録されている。貴重な資料ゆえ以下で は検証のため一部転載させていただく (佐多町教育委員会発行1995,および下野2004)。

10当時,鹿児島県内では神社の宝物の盗難被害が朴│次いでいたという。また.その後近津宮神社は火災に見舞われ古い資料なと が焼失したこともあり.神面の詳細について知ることが困難になっている。

ll佐多伊座倣にある神社で稲牟礼大明神を祀る。由緒は「詳らかでないが.開聞神社を勧請したと云う。また古来山上に鎮座さ れていたが.文亀年中現在地に遷座されたとある」(鹿児島県神社庁ホームページより)

(9)

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図9昭和54年(1979)の御崎祭りの様子

出典: (左)佐多町教育委員会発行(1995:453), (右)下野(2004:96)より転載

図9(左)は,神面を被った子どもたちが近津宮神社下(郡小学校校庭)に集まっている様子を撮影し たものだろう。これらの而は稲牟礼神社から借りたものということになるが,それでも,神而たちが群れ なす光景と独特の雰囲気をうかがい知ることができる。もっとも, この写真は資料としてはいささか注意 を要する。撮影日は2月19日と記され, 「子供たちはメンを被って一行を迎える」と言葉が添えられている が,記憶違い(あるいは郷土資料として編集するに際しての再榊成)の可能性がある。というのも,下野 自身報告書の中で「昔は,子供たちがメンをかぶって坂元から仮宮まで迎え,そして,翌日は仮宮から 近津宮神社まで案内したが,昭和五十四年当時は,仮宮から近津宮神社までのみをメンをかぶって案内し た」 (佐多町教育委員会1995:436)と書いているからだ。この記述にしたがえばこの年の祭りで神面た ちが登場したのは翌日の2月20日ということになる。あるいは, 当時は祭り初日に坂元までは行かずに近 津宮神社で神輿を出迎えたという可能性も考えられるがしかし別稿で掲載された図9(右)は, まった く同じ服装の子どもたちが近津宮神社境内に上がった時の場而として紹介されている(下野2004:96)。

境内に上がるのは祭りの2日目なのでやはり2月20日ということになる。初日の出迎えをしなかったという のはやはり盗難被害の影響だろうか, この当時から神面をめ<、る儀礼形式に省i略が生じていたことがわか る。また,子どもたちは図7にあったようなシベを手にしていない。二十日祭りでは使用しないというこ とか,あるいは儀礼の細部に変化が生じたのか。その一方で,昭和54年の2月19日, 20日は月曜日・火曜 日なので,当時はまだ平日であっても学校や職場に優先して祭りの日程が守られている'2.地元の方によ れば,昔は祭りの日には学校が早く終わり,神而役と旗持ち役の子どもたち−中学生が担当した−は 祭りに参加したそうである。また,別の集落では,祭りの日には授業の代わりに子ども神輿に参加すると いうこともあったという。

つぎに,この時に使用された個々の面を詳しくみておこう。登場した面は全部で11面あった。鬼神面(図

とびで

10),①飛出面,②飛出面③飛出面(鬼面),④飛出面(鬼面) ⑤般若面,⑥般若面,⑦姫面(姫神面),

じよう こうじん

③尉面,⑨荒神面(鬼神面),⑩田の神面である。図10の鬼神面以外はすべて稲牟礼神社所蔵と思われる が'3, これらは近津宮神社のものと非常に似ていたということなので,郡集落の神面たちがどのような姿 をしていたのか、そのイメージをつかむ手がかりにはなるだろう。なお,以下の写真は,図10(左)と図

12新暦以降の御崎祭りの日程はもともと2月18日内祭り (前夜祭). 19日「浜下り」, 20日「二十日祭り」であった。しかし, 20年 以上前から少子高齢化等の影響により祭りの担い手不足が問題化しており. 1999(平成11)年以降は.できるだけ多くの人が参 加できるようにするため.祭りの日程を直近の土日にずらして開催している。

13 10面のうち③④⑤③⑨は稲牟礼神社の所蔵であることが確認できたが,①②⑥⑦⑩は報告書に所蔵の記載がなかった。ただし.

『南九州の仮而」巻末の「鹿児島県内仮面所在一覧」に稲牟礼神社所蔵の而数はl1とあり.同社所蔵の別の田の神而と合わせると 数が合致する。よって. ここに紹介した10面はすべて稲牟礼神社のものと考えてよいだろう。

(10)

12の①〜⑨が佐多町教育委員会編(1995)から,⑩が下野(2004)からそれぞれ転載したものである。

図10の鬼神面は近津宮神社に唯一残っている面で今日でも祭りで使用されている。上掲の図7.8と同様,

昭和54年当時も被り手は髪の毛を付けていた(左)。筆者も実物を確認したが裏に墨書き等はないようで

ある。

図10鬼神面(中央・右は2019.2.17筆者撮影)

以下の稲牟礼神社所蔵の面(図12①〜⑩)については,

報告書に記載された名称に準拠している。また前節で取り 上げた『南九州の仮面」図録と後藤俶の著書で解説と寸法 が付されているものがあるので適宜補足している(鹿児島 県歴史資料センター黎明館1992,後藤1995;912‑3)。

①〜④の飛出面は,眼球が飛び出た形状から付けられた 名称である。牙や角があって鬼を表現しているものは鬼神 而/鬼面と呼ばれる。③鬼神而/鬼面(22.5×16.0)は生 地上に胡粉を塗りその上に土色の彩色がしてある。目に金

図11鬼神面と新調した面 泥を塗り, 目の縁に朱の彩色がみえる。歯を黒く塗り口に

(2020.2.16筆者撮影)

朱を塗ってある。上歯から牙を左右一本ずつ出している。

眉・鼻下・顎に茶褐色の植毛がしてある。④鬼神面/鬼面(220×14.0)は胡粉地に榿を塗り

眉・鼻下・顎に茶褐色の植毛がしてある。④鬼神面/鬼面(220×14.0)は胡粉地に燈を塗り,その上に 茶黄の彩色がしてある。眉・目・歯・鼻下髭を黒で描いてある。額左右に植毛跡らしい穴がある。裏の額 部分に「長浜,悪せう面,権祝子寄進」と枝害きしてあり,能面の悪尉(強い力をもった男)を見本に したことがわかる。①②は特に説明がないが,形状や相貌からみて他と同様に鬼神面/鬼面ではないだろ うか。

⑤⑥の般若而の名称は報告書の表記に従った。⑤については角が二本あり, 『南九州の仮面」では鬼神 面としており (20.0×150),後藤は能面の「生成り」 (般若になりきれていない顔つきの面)に似ている とする。この面は胡粉地に燈の彩色をし,その上に黄色がかった朱漆彩色がしてある。髪の乱れをつけそ れを墨で描く。目の縁を金泥で塗り瞳の周囲を墨で描く。歯を黒く塗り唇に朱を塗ってある。

⑦姫面は女面(若い女面)と思われる。女面は能面が完成していく途上の段階の面で,髪が中分けになっ ておらず素朴な風貌を特徴とする(生産と豊穣を願う面)。ちなみに,郡にも女面があり「姫神面」と呼

(11)

ばれていたようである'4.

③尉而とは能でいうところの老人面で長寿を願う而である15。この而は裏に「寛永年間(17世紀初頭)の 作」とある(20.0×14.0)。

⑨荒神面(22.5×17.0)は鬼神面の一種だが、荒神とは三宝荒神の略で 仏.法僧の三宝を守る神の ことである。とくに修験道や日蓮宗などで厚く信仰されている。南九州の而には修験道の影響も色濃く反 映されているという。この荒神面は生地上に黒土色の彩色がしてある。目に金泥を塗り,縁に朱の跡があ る。眉と顎に植毛跡,鼻下に茶の植毛がある。歯に金泥,唇に朱を塗ってある。

⑩田の神面は豊穣を願う面/道化面である。タノカンメ(田の神舞)で使用される。この面は神輿行列 には随行していない。田の神は農耕神ゆえ,海神である岬神の祭儀とは区別されているということか。

②飛出面 ③飛出面(鬼神面/鬼面) ④飛出面(鬼神面)

①飛出面

=■■■■■■■■■■ 1 鰻一…¥翻鋼W… 臘…一蜘一

⑥般若面 ⑦姫面 ③尉面

⑨荒神面(鬼神面) ⑩田の神面

図12昭和54年に使用された稲牟礼神社所蔵の面

⑤般若面/鬼神面

切目 . ‐1文 . ・ ・ ・ r,、。

j‐。, ‑. . ‐』 . 諄 ;

M平成8年(1996)に御崎祭りを取材した加膿健司は二十日祭りをみて次のように記している。「子供たちの面をふと見ると.ベー クライトか何かの而である。理由を隣りで見物している老人に尋ねると,昔は飛出面般若面鬼神面遮塾画などの立派なも のがあったそうで,それらが盗難にあい,新しい面を作ったのだという」 (加藤1998: 127‑128、下線部引用者)

15 『南九州の仮面」では鬼神のページに掲赦されているが編集ミスと思われる。

(12)

近津宮ネ'│I社の関係者によると,稲牟礼神社からこれらの面を借用していたのは4〜5年ほどで,その後は いくつか而を新調して祭りを続けてきたという (図11)。

(3)二十日祭りの神舞

浜下りの翌日に行われる「二十日祭り」では,神輿を近津宮神社境内に安置し神事がなされた後,打植 祭り,神舞の奉納が続く。神舞は, 「佐多町誌』に「舞としては面が十二頭ある。それぞれ面によって舞 が違う」 (佐多町誌編集委員会編1973:324)とあるから,かつては面を用いた舞だけで12もあったという ことになる。さらに,神舞に続いて「つるぎ舞,なぎなた舞等数々の舞をなし,二十日の祭典は終わる」(同 上)とも記されている。「男の神舞い」 (佐多町教育委員会発行1995:440)や女装して舞うものもあった (神社関係者談)ようである。一日ですべての舞を披露したのかどうかは定かでないが'6,ひとつの集落で 伝承していた舞の数としては相当なものではないだろうか。以下,資料で確認できた鬼神舞,剣郷 タノ カンメ (田の神舞)を掲載しておく。郡ではこの三つが基本的な舞であるという。

鬼神舞

⑨荒神面(鬼神面)が用いられている。右手に日の丸の扇,左手に神楽鈴を持っている。

塞呈澪‐。

2

図13昭和54年の鬼神舞(近津宮神社境内にて)

出典; (左)下野(2004: 102), (右)佐多町教育委員会発行(1995:458)より転載 剣舞

1

§

図14昭和54年の剣舞(近津宮神社境内にて)

出典:佐多町教育委員会発行(1995:458)より転載

16神楽には神々三十三番という定番がある。各地の祭りでは毎年すべてを灘うのではなく,そのなかからいくつかを郷うという のが一般的であるようだ。

(13)

筆者は2015(平成27)年の祭りを取材したさいに一度だけ舞の奉納を見学したことがある。この時は打 柿祭りの後に剣舞のみが奉納された(武田2015)。両手に刀を持ち,敷物の四方でそれぞれ刀を交叉した り振り回したりする所作であった(図15)。図14 (左)のような刀を持ったまま前転する動きはなかった。

省略されたものと思われる。

零浬・了

《 『 ff :1

一祠.

I ,I兵

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図15平成27年の剣舞(近津宮神社境内にて2015.2.15筆者撮影)

タノカンメ(田の神舞)

⑩田の神面を用いている。右手にメシゲ(しゃもじ),左手に神楽鈴を持って舞う。

図16昭和54年のタノカンメ (近津宮神社境内にて)

出典:佐多町教育委員会発行(1995:458)より転蔽

残念ながら, しだいに舞い手がいなくなってきたため,二十日祭りでの神舞の奉納は年々省略されてき た。1996(平成8)年時点では打植祭りの後に「鬼神舞い,剣舞い, 田の神舞いが次々と演じられていく」

(加藤1998: 127‑128) と,上掲の三つの舞が披露されたことが報告されている。筆者が取材を開始した 2015(平成27)年は剣舞のみであった。翌2016(平成28)年から2020(令和2)年の現在まで二十日祭り で舞は奉納されていない。

4考察〜佐多郡・近津宮神社の神面の位相〜

(1)佐多郡の神面の構成

前節では昭和54年の祭りで借用した稲牟礼神社所蔵の面について仮面研究の知見も援用しながら検討し た。これを整理すると,当時使用された面は以下のような構成になる。般若面は鬼(神)面にも類すると いえるが,能而系の面として分けた。

鬼神面/鬼面:近津宮神社の鬼神面と①〜④⑨ 般若面:⑤⑥

姫而(女面) :⑦

(14)

尉面(老人面) :⑧ 田の神面:⑩

ここで稲牟礼神社の面の分類に準拠しながら,改めて図7と図8の画像から,郡集落・近津宮神社の面の 椛成がどのようなものであったか見てみよう。図7を基本に,図8とも照らし合わせて以下のように整理し

てみた。

⑨鬼神面=図8中央(=図10)

②飛出面/鬼(神)面

③荒神面

④飛出面/鬼(神)面

③飛出面/鬼(神)面=写真8右の飛出面

⑥?

⑰尉面(老人面)

③姫面(女面)

⑨飛出面/鬼(神)面(図8左の面)

⑬田の神面

図17神面(図7)の配置

画像が不鮮明であるためこれはあくまで暫定的なものである。⑪は顔が隠れており判別しにくいが,図 8(中央)の鬼神面(=図10) とした。この面は昔から現在までずっと使用されているため図7にも登場し ているものと仮定し,額や眉の形状が近いと思われる⑪と判断した。②④は稲牟礼神社の②③に似ている ことから飛出面/鬼(神)面とし,③はつり目の面相が⑨に似ていることから荒神面とした。⑤は飛出た 大きい目の特徴から図8(右) と同一と判断し飛出面/鬼(神)面とした。⑥は細部が判別できないため 判断保留(大まかなところでは角ばった外形と彫りが深く鼻が大きい相貌から鬼(神)面のようにもみえ る)。⑦は目の表情やほうれい線のようなしわから尉面とした(田の神面のようにもみえるが,上掲⑩の ように, この面は神輿の出迎えや先導・随行には参加しないと仮定し図7には写っていないと判断)。③は 白塗りと目の表情から女面とした(「姫神面」があったという地元の証言もある)。図8(左)の飛出面/

鬼(神)面は④とも似ているが,細部が若干異なると判断し,図7には登場していない別の面⑨とした。

タノカンメがあったということは田の神面もあったはずと仮定し⑬を追加した。

(2)神舞面にして鮮邪の働きをする佐多郡の神面たち

以上,近津宮神社の面を構成してみたが,すでに述べたように少なくとも神舞に応じて12の面があった というから, これでも全てではない'7.だが,大まかなところでは,多くが鬼(神)面で,荒神面,尉面,

姫面が1面ずつ(+田の神面) という具合に推測でき,稲牟礼神社の面と構成がよく似ていることがわか る。これらを前節でみた「南九州の仮面分類」 (図5)に照らしてみると, ちょうど芸能仮面の「神舞面」

に対応する。佐多に伝わる面は,形態という視点からみれば,近世以降の神舞面に分類されるといえそう

である。

しかし,仮面の形態と実際の運用とは必ずしも一義的な関係にあるわけではない。この点を問題とした のが古林の示した「南九州の仮面と周辺文化の相関図」 (図6)であった。実際,浜下りの終盤で面を被っ た子どもたちが神幸行列を出迎え,仮宮まで先導・随行するというのは信仰的な儀礼に属する。その意味

17地元の神社関係者には14〜15の面があったという方もいたが定かではない。

(15)

するところは,先祓いや見守りである。そこで注目されるのが, これと同様の働きをするサルタヒコ(猿 田彦)の面である。

サルタヒコは記紀神話に登場する神で,天孫降臨に際してニニギを出迎え先導したとされる国津神であ る。南九州にはサルタヒコを祀った神社があり,神幸行列でサルタヒコの面を用いる祭りも多い。ただし,

面の形態は「鼻高而」である。筆者の知る限り,近津宮神社や稲牟礼神社にはこうした特徴の面はないと 思われる。だが,サルタヒコと佐多・郡がまったく無縁かというとそうともいえない。柳田国男は『石神 問答』の中で地理との関係からサルタヒコについて以下のように述べている。

御崎と云ふ社古くは『延喜式」に数多見え今日も諸国に行き渡りたる社に候が其の祭神一定な らざる中に是亦猿田彦神なりと云ふ旧伝あるものも候よし右は天孫降臨の折に御前を仕へたりと 云ふこと正史に出でをり候へぱ此の説の如きは些も異とするに足らず候へ共此の因に愚見御批判 を仰ぎ度は此の神の名猿田と云ふ語はやがて亦ミサキと同じ義なりしならんかと思はる、ことに

さ鐘

候『古史伝」には猿田はサダにして出雲の佐陀大神は同じ神なりと論ぜられ候出雲の佐陀は島 根半島の中央にて現今の社地は海角には非ず候へ共此の半島は即ち挟田ノ国にて西にも東にも ミサキは之れ有候岬をサダと申し候は独此の地に止らず伊予の御鼻と称する佐田岬大隅の佐多

さだ

岬之れ有り候土佐の足摺岬も亦蹉駝岬にて船人が大隅のと区別する為に之をアシズリと唱へた るに外ならざるべく候かく迄類例ある上はサダはミサキの義なること最早疑なく 而してミサキの ミは水とは関係なく始めて此の国に入り立ちたまひし御時には響導の義なりしと同じく既に此の 国に鎮まりたまひて後は国の境即ち直に外域に対する地方をさしてミサキと申すこと蕊なり

(柳田1990:99‑100,下線部引用者)

柳田は平田篤胤の『古史伝」を踏まえて,猿田(サルタ)はサダと読み,岬を意味するという。神幸で はサルタヒコが御前(ミサキ)で先導をつとめる,佐多岬,御崎神社とつながりを連想させる面白い指摘 である。だが, これはいささか表層的にすぎるといえようか。むしろ注目すべきはサダ(サダ) =ミサキ ー国の境という指摘の方である。というのも,古代の佐多岬一帯, とくに港があった大泊一神籠石があ る場所でもある−は海洋航路の要衝であったし,地政学的には,律令国家体制を進めようとする大和朝 廷にとって佐多は,海洋信仰文化圏である日向世界と接する拠点の一つ, また唐や統一新羅へ連なる接点 でもあったからである(中村1986)。実際,朝廷側は佐多を重視していたようで, 8世紀初頭に郡に郡衙 が置かれた。そして同じ頃に創建されたのが御崎神社である'8。佐多岬およびその周辺の地は重要な「境 界」の場所であったと考えられる。一般に道案内の神とされるサルタヒコだが,柳田は「ミサキは境界を 守るの神なり」,つまりサルタヒコは岬のような国の境界にいる神であると述べている。

柳田の説にたいして「問題提起は高く評価してよい」とする飯田は『サルタヒコ考」でさらに考察を進 め,サルタヒコの働きを守護,方相,辞邪,塞神幸といった点から検証したうえで,杖と鉾が境界を定 め,かつ邪をさえぎり守ること,辞木・賢木・幸木・幸鉾に宿るサルタヒコの辞邪機能を明らかにする。

それが鼻高面をかぶり,杖・鉾を持って神幸する姿に象徴的に集約されていると,すぐれた考察を提示し ている(飯田1998)。

では,郡集落の神面はサルタヒコとどのような関係にあるのだろうか。面の形態からみると,サルタヒ コ面と同じものとはいいがたい。だが, この点についても飯田が興味深い指摘をしている。 「猿田彦が神 幸の先を行くのは事実である。しかし, これは後世の神幸について言った場合で,古い形では,神幸の先

18 「古事記」 も同時期に完成した。その中の日向神話は,隼人や南島の海洋信仰を朝廷の神話体系に組み込むことで支配の正当化 を図るものといえる。

(16)

頭をいくのは鉾である。もともと武具である鉾が露払いをつとめるのは理にかなう。猿田彦はそのバッ ク・アップ役にすぎない。この神が鉾と結びつくのも,その神性が牌邪だからで、猿田彦を導きの神とす るのは,ひがごとである」 (飯田1998:125)。つまり必ずしもサルタヒコ=先導ではないということであ

る。

仮面研究からも同様の指摘がある。後藤は, もともとサルタヒコに固定の而はなかったが, 「猿田彦の 特徴が鼻高であるところから,既存の鼻高而をとり入れて猿田彦面を造形したのだろう」 (後藤1995:60)

と述べている。泉房子も南九州の仮面を詳しく検証し,神幸する面には中世から鼻高面が使用されていた が,サルタヒコ面の登場は江戸時代以降としている(泉2014)。また,先導役の仮面の祭祀での運用につ いては,向山が三つの形態に整理して,第一は,鉾や竿の先に仮面を付けて神人が捧げるかたち(現在で も鹿児島県内各地でみられるが,大隅だと内之浦・平田神社の夏越祭),第二は, 「弥五郎どん」のように,

大きな人形の顔として巨大な仮面が付けられるもの(大王,王而,サルタヒコとも呼ばれる),第三に,

人間(神人)が顔に面を着けて神幸行列の先導をするかたち, と述べている(向山1999: 101‑102)。時代 的な変遷としては,第一が古く,第二,第三へと次第に仮面が動きを獲得していく過程が想定されるとし

ている。

こうしてみると,仮面の歴史からみると,神幸行列の先導役は古くはサルタヒコ面ではなかったことが わかる。ただし,各地の報告事例をみると先導役はほとんどが鼻高面を使用している。そこから結論的に いえば郡集落の神面群はサルタヒコ面ではないものの,その畔邪の機能一しかも子どもたちが担う

−を併せもったユニークな形態ということになるだろう。

本節のさいごに,郡集落のネIII面の現在をみてみよう。南大隅町が環 境省,鹿児島県と共同で平成25年度から進めてきた佐多岬の整備事業 が平成30年度に完了した。霧島錦江湾国立公園の一部として,南洋の 眺望と亜熱帯植物が広がる本土最南端の魅力を発信するべく1総額30 億円規模の予算をかけ展望台や観光案内所,駐車場,バリアフリーの 遊歩道などが整備された。そんな折, 2019(平成31)年の3月,佐多 の御崎祭りをモチーフにした映画『きばいやんせ!私』 (監督:武正 晴/原作・脚本:足立紳)が公開された。町が「企業版ふるさと納 税寄付金」などを財源に制作費の8割にあたる約9,900万円を負担した,

いわば町の宣伝映画である。佐多岬/御崎祭りに寄せられる期待の大 きさが感じられる。

あらすじは,東京での生活に疲弊し将来を見失っていたアナウン サーの児島貴子(主人公)が,幼少期に父親と短期間だけ過ごしたこ

とがある南大隅町での取材を命じられる。久しぶりに町に戻ってきた図18 『きばいやんせ!私jDVD

貴子だが,仕事に身が入らない。しかし,町を盛り上げようと懸命に 発売:Happinet/2019年/116分

働く人たちと触れ合ううちにI引分の仕事や生き方を見つめ直し, しだいに元気を取り戻していく, という ものである。劇中で,貴子はアナウンサーとして町の文化をしっかり世の中に伝えようと決意し,会議の 場で伝統の姿を失っていた御崎祭りを昔ながらのやり方で復活させることを提案する。かくして後半から

は御崎祭りの復活へと物語が転回する。

そのなかで郡集落の神面群がもっとも印象的な場面で登場する。神幸行列が最大の難所「どんひら坂下 り」に入る。疲労の限界に来ていた担ぎ手が足を滑らせ神輿が倒れそうになったとき, とっさの判断で貴 子ら搬影クルーが加勢する。その刹那 貴子のそばで一締に神輿を担ぐ亡き父の姿が現れ 昔の祭りの光

(17)

景そしてネIII輿を先導する神面の子どもたちが映像的に重ねられる。

過去と現在がオーバーラップする幻想的な場面となっている(図 19)19.

よそ者として町に来た貴子が御崎祭りを契機に心身ともにこの場所 に流れる習俗の時間と交差し,幻想的な瞬間を経て自分を取り戻すと いうのが本作のモチーフと思われる。ドラマの構造としては昔の姿 を失っていた御崎祭りの復活と元気を失っていた貴子の復活が重ねら

れている20。ただし,劇中での「祭りの復活」とは,昔のように全行図19劇中での神面登場シーン

程を人が神輿を担いで運ぶことにフォーカスしており,神面たちの先近津宮神社の鬼神面が先頭をゆく

導は映像演出として再現されてはいたものの21,一瞬の幻影としてであった。もし神面たちの先導が現在 の祭りでも行われていたなら映画の内容も違っていたかもしれない。そう思うと神而とその祭儀・神舞が 失われつつあることは残念である。

おわりに

御崎祭りの浜下りでは先払いの鉾は用いるがサルタヒコは登場しない。その一方で,終溌の郡でのみ

「神舞而」が牌邪の機能をもって神幸行列を出迎え,先導・随行する。神幸の終着地という特別な意味が あるにしても,いくぶん折衷的な印象を受ける。だが,それはこの祭りじたいの構成的な性格から来てい るのかもしれない。そもそも御崎祭りは,神幸行列が通過する七つの集落に加え,いくぶん離れたところ にある尾波瀬集落が伝統的にお鉾を専門に担当する集落として│對わり,広範囲にまたがる集落が連携して 運営してきた祭りである。現在は校区単位での運営体制に変わったが,以前は 神輿を七集落でリレーし て運び住民は自分の集落と関わる範囲で祭りに参加していた。それゆえ神幸行列のもてなし方にも集落 ごとの特色が出て,それが祭り全体としての多様性につながっていた。互いの集落が何をしているか, ま た祭りの全貌をよく知らないという地元民も多い。逆にそこがまた, この祭りの興味深いところで,佐多 岬から郡までの神幸行列という一本の軸があったうえで,各集落がゆるやかに連携したシステムとして構 成されているのである。

現在の御崎祭りが慶長年間に神社参拝者の増員策として考え出されたというのが仮に事実だとしても,

それだけにとどまらないものをこの祭りは作り上げてきた。前古代的な信仰に神話の記述を重ねるかたち で御崎神社の由来が作られ, また御崎祭りの創出によりIIIW神の物語が佐多岬とその周辺に重ねられてい る。中世から近世にかけての仮面信仰・神舞の文化が加わっている−そこには辞邪の役割をもった神舞 面の群行がある。外之浦集落では住民が遠方にいる家族の写真を掲げてお祓いをしてもらうが, これなど はかなり新しい風習だろう。このようにさまざまな要素を取り込み,時代の変化に応じて柔軟に対応して きたことが,御崎祭りの本質といえるのではないだろうか。

それゆえに,御崎祭り1300年の歴史ということの意味があらためて問題となる。筆者は仮説の域を出な いとはいえ《おどんせの海神》を仮設することで,御崎祭りを通じて,佐多という場所が古代以前へと開 かれる点を問題設定ようとした。御崎祭り1300年の意義とは,古代以前へと史的想像力を引き延ばす契機 を提供してくれる点にこそ求められると考えるからだ。南大隅町・佐多の現在と将来ビジョンを考える上 19この画像は.著作権法第32条の権利に基づき研究資料用の引用として筆者の観点から抽出したものである。

20ちなみに.劇中においてアナウンサーの貴子が/南大隅町・御崎祭りを/世の中の人たちに伝えるという櫛図が.現実におい てこの映画が/南大隅町・御崎祭りを/世の中の人たちに伝えるという榊図と重ねられている。いわばメタ宣伝映画一町を宣 伝する主人公を描いた.町を宣伝する映画一という構造になっている。

21 ちなみに.脚本をもとにした小説版では神面の子どもたちは登場しない(『きばいやんせ!私』双葉文庫2019年刊)。

(18)

で,その場所が有する時間性がどれだけ豊かであるかが要となる。御崎祭りはそのための文化的な資本と いえよう。

本稿では,南大隅町佐多地区の場所文化, とくにその精神性のベースとなるものについて探究の糸口を さぐるべく,御崎祭りで登場する郡集落の神面群に注目した。失われた近津宮神社の面については,過去 の写真と稲牟礼神社の面を手がかりに,かつ仮面研究の知見を通じて,その構成を再現してみた。大まか な把握はできたと思う。その一方で,神面が牌邪機能をもつ点についてはサルタヒコとの関連で考察した がまだ詰め切れていない。仮面というモノにフォーカスするだけでは,その文化・歴史的文脈を踏まえる にしても,場所の精神性を考えるのに限界がある。やはり南九州の祭り ・祭儀と切り離すことができない 記紀神話, とくに日向神話と関連させた分析が不可欠であると思われる(「古事記』のすぐれた考察とし ては, 山本2013, 2016を参照)。そのためには共同幻想の理論を領有しないことには考察を進めることが できないと痛感した次第である。これについては今後の理論的な研究課題としたい。

謝辞

本研究は令和2年度鹿児島国際大学附置地域総合研究所清水基金プロジェクト研究の研究助成を受けた ものである。

文献

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鹿児島県歴史資料センター黎明館編1992, 「南九州の仮面〜祈りと願いの世界〜」.

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武田篤志, 2015, 「南大隅町佐多地区の「御崎祭り」にみる祭りの現在形」, 「地域総合研究」第43巻第1号, pp. 19‑

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古林孝子, 1999, 「南九州の仮面」,下野敏見編「民俗宗教と生活伝承」岩田書院, pp.115‑162.

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参照

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