【論 説】
呉服商奈良屋杉本家佐倉店の経営
―近世期における「仕切帳」を中心に
*―
鈴 木 敦 子
1 は じ め に
1. 1 奈良屋杉本家の沿革 本稿でとりあげる杉本家は,京都に本宅を置き,下総に出店を構えて呉服 商を営んだ京商人である.屋号は奈良屋で出店の店印はである.奈良屋の 沿革を「相続記」などより概観すると以下のとおりである. 初代杉本新右衛門は宝永元年(1704)の生まれで,伊勢国飯高郡粥見村を出 身とする.上京して四条高倉東入の呉服商奈良屋勘兵衛方や,更に奈良屋安 兵衛の武蔵国騎西出店での勤めを経て独立し,寛保 3 年(1743)に京都烏丸四 条上ルで創業した.明和 4 年(1767)に綾小路新町西入に居宅を購入し移転する. 下総国佐原・佐倉・小見川・滑川,常陸国玉造・西蓮寺・江戸崎など,利根 川水郷地帯を中心に行商し,佐原に出店したのは明和元年(1764),二代新右 衛門のときである.三代新右衛門は文化 4 年(1807)に佐倉に出店した.文化 13 年(1816)に新左衛門と名を改め,その後代々新左衛門を襲名した1).明治 42 年(1909)に千葉に本拠を移し,昭和 5 年(1930)には千葉店として百貨店 を経営した.翌 6 年に株式会社化し,京本店と佐倉店を閉じた.千葉店は昭 1) 「相続記」(奈良屋記念杉本家保存会所蔵).『奈良屋弐百廿年』(1962),8―14 頁. * 奈良屋杉本家文書を所蔵する公益財団法人奈良屋記念杉本家保存会,ならびに千葉県立中央 博物館大利根分館の皆様には,資料の閲覧に際し,大変お世話になりました.ここに記して感 謝の意を表します.和 20 年(1945)に戦災により焼失するが翌年新築復興した2).昭和 46 年(1971) に三越と提携してニューナラヤを設立し,千葉駅前に開店した.千葉の店舗 は昭和 59 年(1984)に千葉三越となるまで,千葉を代表する地方老舗百貨店 として存続した3). 1. 2 本稿の課題と目的 論者には奈良屋の経営全体を研究する目途があり,本稿では奈良屋の出店 の一つである佐倉店を取り扱う.奈良屋の出店経営の実態は不明瞭な点が多々 あるが,佐倉店は比較的取り組みやすい.この店の近世期における経営のあ り様を明瞭にして,奈良屋全体の経営分析の足がかりとしたい.奈良屋出店 経営の先行研究には賀川(2012)があるのみである. 佐倉店の開店経緯については,佐倉店「弐番仕切帳」4)冒頭,「左倉店并銘々 外商内仕切帳」5)における文政 6 年(1823)正月林兵衛仕切,および天保元年 (1830)「三代目新左衛門秀明過去帳記事草案」6)に委細が記されている.それ らによると,天明元年(1781)より佐倉城下に手代を遣わし,奈良屋重太郎名 義で出張商いがはじめられた.天明元年(1781)は佐倉において,途絶えてい た月 6 度開催の六斉市が再興した年であり7),これを商機と捉えての行商活動 であったと推測される.「左倉店并銘々外商内仕切帳」の天明 9 年(1789)正 月茂兵衛・治兵衛の仕切に,「佐倉店普請金」として 9 両 2 分があがっている ので,同年に店を構えたと考えられ,町方や佐倉藩の家中に向けて安定的な 商売が展開された.文化 4 年(1807)には地主太七の明き地面を借り受けて家 蔵・屋敷を普請し,同年 12 月 7 日に新たに店を開いた.京本家が記した商い の心構えや諸注意についての「定」を開店当初より店に貼り付け,店の者に 2) 『奈良屋弐百廿年』(1962),119 頁. 3) 『株式会社三越 100 年の記録』(2005),225 頁,387 頁. 4) 千葉県立中央博物館大利根分館所蔵. 5) 奈良屋記念杉本家保存会所蔵. 6) 奈良屋記念杉本家保存会所蔵. 7) 佐倉ではその後,定期市の再興と中絶が繰り返された. 『佐倉市史』(1973)巻 2,213―214 頁.
第 1 図 奈良屋商業圏略図
(出所) 土屋喬雄編(1967)『杉本郁太郎氏商業回顧談』(『千葉県商業史談』第 1 集) 千葉敬愛経済大学経済研究所,付録 2,より作成
周知徹底させた8).佐倉店は天保 6 年(1835)正月 15 日夜に類焼したが,直 ちに普請にとりかかり,同年 4 月 1 日に再開した.この類焼の際,四代新左 衛門は折しも佐原にいたため,直ぐに佐倉に駆けつけて店の普請の相談をし, 2 月中旬には京都に向かったと記されている.佐倉店は明治 19 年(1886)夏 にも類焼したが,これを機に土蔵を新築した9).当時の引札から同年 12 月 15 日に開店売出しを行ったことがうかがえる10). 奈良屋杉本家の史料は,公益財団法人奈良屋記念杉本家保存会,千葉県立 中央博物館大利根分館,千葉県文書館に所蔵されている.本稿では,奈良屋 記念杉本家保存会および千葉県立中央博物館大利根分館に所蔵されている佐 倉店の仕切帳を主要史料として扱う.佐倉店の仕切帳は半期ごとの帳簿で, 明治 7 年(1874)正月までは正月と 7 月に,同年 9 月からは 3 月と 9 月に,同 15 年 8 月からは 2 月と 8 月に作成されている.しかし,資産や負債が書き上 げられているわけではなく,純資産の規模は不明であり,純利益の計上もない, 独特の記帳形式となっている.勘定科目や数値を表記通りに受け取ると,不 可解な部分が複数ある.本稿では佐倉店の仕切帳の科目や数値に検討を加え, それらが指示するものを明らかにする.
2 佐倉店の仕切帳
2. 1 仕切帳の種類 奈良屋杉本家の仕切帳には,佐原店,佐倉店,外商いの帳簿がある.佐倉 店に関連する帳簿には以下のものがある. 旅商いからはじめた奈良屋は,佐原に拠点を設けて開店した後も下総・常 陸での市廻りや外商いを継続した.それら複数の行商地域の一つに佐倉があ り,奈良屋はやがて佐倉にも出店する.第 1 表において,行商・外商いの仕 切帳が 1,2,4,5 であり,佐倉店の仕切帳が 6,7,8 である.3 は前半が佐 8) 「定」(奈良屋記念杉本家保存会所蔵). 9) 『奈良屋弐百廿年』(1962),21 頁. 10) 「見世開口上書,安売口上書」(千葉県立中央博物館大利根分館所蔵).倉店の仕切帳で,後半が市廻り商いの仕切帳となっている.複数の行商地域 の仕切の一つとして佐倉の仕切があり,やがて佐倉の仕切と他の行商地の仕 切が別々の帳簿として作成されることになる. 1 と 2 の仕切帳は複数の手代ごとに記帳された帳簿である.したがって,同 年月の仕切が手代別に複数ある場合がある.それぞれの手代が担当商域ごとに 決算していたと考えられる.1 は 2 および 6 へ連続する.2 に記された複数の 手代とその仕切のうち,天明元年(1781)正月以降の茂兵衛の仕切は,6 の佐倉 店の仕切と同内容である.茂兵衛は佐倉に出張し,佐倉店の前身となる商圏を 担当していたと推察できる.また,2 には寛政 2 年(1790)正月と 7 月の「水戸 店仕切勘定扣」があることから,この頃水戸にも店があったことがうかがえる. 水戸店の支配人惣七は,別家の奈良屋惣兵衛を指すと考えられる.その奈良屋 惣兵衛は,水戸店を閉店し,常州太田に店を構えた.享和 2 年(1802)に卯兵 衛と共に 550 両余りを奈良屋新右衛門から借り受けた記録がある11).太田店は, 文化 6 年(1809)2 月 9 日に閉店した12). 11) 享和 2 年「借用申金子之事」(奈良屋記念杉本家保存会所蔵). 12) 「(年代記録簿)」(千葉県立中央博物館大利根分館所蔵). (出所)1,4,5,6,7,8 千葉県立中央博物館大利根分館所蔵. 2,3 奈良屋記念杉本家保存会所蔵. 第 1 表 佐倉店関連仕切帳 帳 簿 名 自(決算年月) 至(決算年月) 1 仕切帳 奈良屋善助・庄八・惣七 明和元年(1764) 7月 安永 8年(1779)正月 2 左倉店并銘々外商内仕切帳 杦本 本店 安永 8年(1779)正月 天保 7年(1836) 7月 3 左倉店并ニ外商内仕切帳 杦本本 店 天保 8年(1837)正月 明治41年(1908) 2月 4 町廻仕切帳 杦本本店 天明 8年(1788)正月 安政 3年(1856)正月 5 市町仕切帳 安政 2年(1855)極月 明治元年(1868) 7月 6 仕切帳 左倉店 天明元年(1781)正月 文政 5年(1822)正月 7 弐番仕切帳 左倉新町二番町出店 文政 5年(1822) 7月 安政 5年(1858)正月 8 三番仕切帳 佐倉新町二番町出店 安政 5年(1858) 7月 明治21年(1888) 2月
3 は 2 とほぼ同じ表題であるが,前半は佐倉店のみの仕切帳で,その記帳 内容は 7 および 8 と同じである.ただし,明治 21 年(1888)8 月以降は 3 の みに記帳されている.後半は市廻り商いや滑川商いの仕切で,市町商いの仕 切である 4 および 5 と同じである.4 は 2 の仕切のうち,宇(卯)兵衛などに よる外商いの仕切のみが時系列で記帳されたものである.4 の続きが 5 とな る.5 のはじめに,安政 2 年(1855)10 月 12 日に別家卯兵衛が急死したため, 佐原店より滑川に後任の者を出勤させる旨が記されている.6 は佐倉店のみ の帳簿である.6 の仕切帳は 7 から 8 へと続く.奈良屋は行商活動から出店 を設け,その後も行商と店売りを並行させることで商圏を定着させていった. 仕切帳の変遷は,その経営の経緯とあり方を反映していることがわかる. 仕切帳以外の佐倉店の帳簿として,「左倉店月〆扣帳壱番」(文化 4 年極月 7 日∼ 安政 5 年極月)と「左倉店月〆扣帳二番」(安政 6 年正月∼明治 31 年 2 月)がある13). 2. 2 仕切帳の構成 以下では,佐倉店の仕切帳の記帳形式を確認する.第 1 表における 6 の仕 切帳から,支配人九兵衛による寛政 5 年(1793)7 月の仕切を以下に引用する. 史料 1 丑七月仕切 一 札 四拾弐貫弐百五拾五匁九分 丑正月七月迄改請取高(1) 五掛 弐拾壱貫百弐拾七匁九分(2) 此金 三百五拾弐両ト七匁九分(3) 又金 三百八拾五両ト銭三百四拾五文 丑正月改掛ケ有(4) 二口〆 七百三拾七両ト銀七匁九分 銭三百四十五文(5) 此所江金 三百拾八両ト銭弐百八十文 丑ノ七月改店へ渡し金有(6) 又金 三百九拾六両壱歩 銭弐百五拾壱文 丑ノ七月改掛ケ有(7) 13) 奈良屋記念杉本家保存会所蔵.
差引〆 金 弐拾弐両三歩 銭六百文 不足(8) 内 一 金 弐拾両 諸入用(9) 一 金 弐両弐分 代呂物直引14)(10) 後年徐々に記載情報が増えていくが,この書式が帳簿記述の原型となって いる.上掲の帳簿を一行ごとに見ていくと次のようになる. (1)は寛政 5 年(1793)正月から 7 月までの商品の受取高である. (2)は(1)の半額となっているので,文字どおり(1)の「五掛」である. (3)は(2)の銀高を金に換算した値である. (4)は期首売掛金残高である. (5)は(3)と(4)の合計である. (6)は渡し金とされており,具体的に何を指しているかは,(1)とあわせ て後述する. (7)は期末売掛金残高である. (8)は(5)から(6)と(7)の合計を差し引いた額である. (9)は(8)のうち,諸費用である. (10)は(8)のうち,商品値引き分である. 同年同月の仕切内容は,第 1 表の 2 で示した「左倉店并銘々外商内仕切帳」 でも九兵衛・忠兵衛による仕切として確認できるが,そこには(9)と(10) の費用についての記述がない.また,(5)の銭 345 文の表記が省略され,(6) で銭 285 文となっており,銭の値に若干の違いがみられる. 佐倉店の仕切帳は後に(4)と(7)の売掛金残高や,(8)の内訳である(9) 諸費用や(10)値引きの情報量が増え,次第に詳しくなる.また,貸金も計 上されるようになる15).以下では上掲の記帳内容を,後年の仕切帳も参照し 14) 佐倉店「仕切帳」(千葉県立中央博物館大利根分館所蔵). 15) ほかに,文化7年正月より飯米味噌薪炭在庫が,文政2年7月より地買物ヱ割利が記帳される.
ながら検討する.
3 佐倉店の経営
3. 1 受取高 天明期から寛政期にかけての仕切帳を見ていくと,(1)は「渡し高」「呉服 渡し高」「代呂物渡し」「売高」「代呂物受取高」「呉服物受取高」「受取高」と, 様々に表現されていて勘定科目名の表記は一様でない.(6)も「受取」の場 合と「渡し金」の場合がある.しかし,(1)と(6)の表記の揺れには一定の 規則性があり,(1)が「渡し高」や「売高」の場合,(6)は「受取」と表記 される(天明元年 7 月,天明 3 年正月など).(1)が「受取高」の場合,(6)は「渡 し金」とされる(寛政 2 年正月など).天明期においては,(1)では佐原店が佐 倉店へ呉服商品をいくら送ったのか記載し,(6)では佐原店が佐倉店より益 金をいくら受け取ったのか記している.すなわち,天明期の帳簿作成者の視 点は佐原店側にあったことがわかる.寛政 6 年(1794)正月以降,科目表記は 一定し,(1)は「本店より代呂物受取高」で,(6)は「本店へ送り金高」と 記載される.この時期から,佐倉店側の視点で帳簿が作成されたことがわかる. まず,仕切帳で「受取高」として記されている数値が,実際には何を示し ているのか検討する.「受取高」を史料にある数値どおりにグラフ化したのが, 第 2 図である.天明期から天保期までをみると,①天明元年(1781)正月か ら文化 11 年(1814)正月までの A, ②文化 11 年(1814)7 月から文政 7 年(1824) 7 月までの B,③文政 8 年(1825)正月以降の C の三つの波がある. ①の期間における A の穏やかな流れと,文化 11 年(1814)7 月にはじまる ②の期間の B の急激な上昇,文政 8 年(1825)正月以降の③の期間における C の推移は,明らかに連続したものではない.仕切帳をみると,文化 11 年(1814) 7 月より「受取高」と別に期末在庫が記帳されるようになったので,これを B の「受取高」から差し引いた数値を X として第 3 図で示した.0 50 100 150 200 250 300 350 天 明 元 年 正 月 天 明 2 年 正 月 天 明 3 年 正 月 天 明 4 年 正 月 天 明 5 年 正 月 天 明 6 年 正 月 天 明 7 年 正 月 天 明 8 年 正 月 寛 政 元 年 正 月 寛 政 2 年 正 月 寛 政 3 年 正 月 寛 政 4 年 正 月 寛 政 5 年 正 月 寛 政 6 年 正 月 寛 政 7 年 正 月 寛 政 8 年 正 月 寛 政 9 年 正 月 寛 政 1 0 年 正 月 寛 政 1 1 年 正 月 寛 政 1 2 年 正 月 享 和 元 年 正 月 享 和 2 年 正 月 享 和 3 年 正 月 文 化 元 年 正 月 文 化 2 年 正 月 文 化 3 年 正 月 文 化 4 年 正 月 文 化 5 年 正 月 文 化 6 年 正 月 文 化 7 年 正 月 文 化 8 年 正 月 文 化 9 年 正 月 文 化 1 0 年 正 月 文 化 1 1 年 正 月 文 化 1 2 年 正 月 文 化 1 3 年 正 月 文 化 1 4 年 正 月 文 政 元 年 正 月 文 政 2 年 正 月 文 政 3 年 正 月 文 政 4 年 正 月 文 政 5 年 正 月 文 政 6 年 正 月 文 政 7 年 正 月 文 政 8 年 正 月 文 政 9 年 正 月 文 政 1 0 年 正 月 文 政 1 1 年 正 月 文 政 1 2 年 正 月 天 保 元 年 正 月 天 保 2 年 正 月 天 保 3 年 正 月 天 保 4 年 正 月 天 保 5 年 正 月 天 保 6 年 正 月 天 保 7 年 正 月 天 保 8 年 正 月 天 保 9 年 正 月 天 保 1 0 年 正 月 天 保 1 1 年 正 月 天 保 1 2 年 正 月 天 保 1 3 年 正 月 天 保 1 4 年 正 月 (貫)
A
B
C
A 天明元 年 正月 ∼文 化 11 年正 月 B 文化 11 年 7月∼ 文 政 7年 7月 C 文政 8年正 月 ∼ 第2図 受取高(史料記載数値) (出所)佐倉店「仕切帳」 「弐番仕切帳」 (千葉県立中央博物館大利根分館所蔵) , より作成 .天 明 元 年 正 月 天 明 2 年 正 月 天 明 3 年 正 月 天 明 4 年 正 月 天 明 5 年 正 月 天 明 6 年 正 月 天 明 7 年 正 月 天 明 8 年 正 月 寛 政 元 年 正 月 寛 政 2 年 正 月 寛 政 3 年 正 月 寛 政 4 年 正 月 寛 政 5 年 正 月 寛 政 6 年 正 月 寛 政 7 年 正 月 寛 政 8 年 正 月 寛 政 9 年 正 月 寛 政 1 0 年 正 月 寛 政 1 1 年 正 月 寛 政 1 2 年 正 月 享 和 元 年 正 月 享 和 2 年 正 月 享 和 3 年 正 月 文 化 元 年 正 月 文 化 2 年 正 月 文 化 3 年 正 月 文 化 4 年 正 月 文 化 5 年 正 月 文 化 6 年 正 月 文 化 7 年 正 月 文 化 8 年 正 月 文 化 9 年 正 月 文 化 1 0 年 正 月 文 化 1 1 年 正 月 文 化 1 2 年 正 月 文 化 1 3 年 正 月 文 化 1 4 年 正 月 文 政 元 年 正 月 文 政 2 年 正 月 文 政 3 年 正 月 文 政 4 年 正 月 文 政 5 年 正 月 文 政 6 年 正 月 文 政 7 年 正 月 文 政 8 年 正 月 文 政 9 年 正 月 文 政 1 0 年 正 月 文 政 1 1 年 正 月 文 政 1 2 年 正 月 天 保 元 年 正 月 天 保 2 年 正 月 天 保 3 年 正 月 天 保 4 年 正 月 天 保 5 年 正 月 天 保 6 年 正 月 天 保 7 年 正 月 天 保 8 年 正 月 天 保 9 年 正 月 天 保 1 0 年 正 月 天 保 1 1 年 正 月 天 保 1 2 年 正 月 天 保 1 3 年 正 月 天 保 1 4 年 正 月 A Q B X Y Z C (貫) 0 100 200 300 400 500 600 A 天明元 年 正月 ∼文 化 11 年正 月 = 受 取 高 ( 史 料 記載数 値 ) B 文化 11 年 7月∼文政 7年 7月=受取高(史料記載数値) C 文政 8年正月∼=受取高(史料記載数値) X 文化 11 年 7月∼文政 7年 7月=受取高−期末在庫 Y文政 8年正月∼=受取高+期首在庫 Z文政 8年正月∼=受取高+期首在庫−期末在庫 Q 佐原店への送金高(両) 0 500 1, 000 1, 500 2, 000 2, 500 (両) 第3図 受取高 (出所)佐倉店「仕切帳」 「弐番仕切帳」 (千葉県立中央博物館大利根分館所蔵) , より作成 .
史料 2 にあるとおり,文政 8 年(1825)正月から,期末在庫と共に期首在 庫の記帳が始まる.つまり,C の「受取高」の数値には,期首と期末の在庫 は含まれていない.C は文字どおりの受取高であるといえる.受取高 C の数 値に期首在庫を加えたのが Y である.A と X が連続し,B と Y が連続してい るので,B は「受取高」から期末在庫を差し引く前の数値であり,X は差し 引いたあとの数値であると考えられる.受取高 C の数値に期首在庫を加え, そこから期末在庫を差し引いたのが Z である.Z は売上高といえる.以下は 第 1 表の 7 にあげた「弐番仕切帳」における文政 8 年(1825)正月の仕切で ある. 史料 2 文政八乙酉歳正月仕切 札 百六拾八貫八百九拾五匁四分 申七月改呉服太物夏ものるい有(1) 札 百五拾壱貫七百六拾六匁七分 申盆後左原御本店 弐百壱番弐百拾壱番迄諸代呂物受取高(2) 内 札 百六拾貫三百拾六匁九分 酉正月改呉服太物有(3) 又 札 拾八貫弐百三拾三匁五分 同改夏物るい有 (4) 引〆 百四拾弐貫百拾壱匁七分(5) 井 [五] 懸 七拾壱貫五拾五匁八分五厘(6) 此金 千百八拾四両壱分ニ八分五厘(7) 一 五百両也 申七月改御家中様古懸有(8) 一 弐百五拾八両ニ四百四拾弐文 同改右同断新懸有(9) 一 四百拾六両三歩六百七拾五文 同改在町方懸有(10) 一 六両弐朱ト五百六十四文 同改米みそ炭紙正味有物有(11) 一 壱分也 同改地主太七殿地代金先貸有(12) 一 三歩弐朱也 申盆後地買物ヱ [一] 割利(13) 六六〆 喜 [ 二 千 ] 椙三百六拾六両弐分ニ百三拾壱文(14)
一 千百三拾四両弐分ニ四百文 申盆後左原御本店へ月々送り金高(15) 一 五百両也 酉正月改御家中様古懸有(16) 一 弐百三拾三両壱分ニ七百三拾壱文 同改右同断新懸有(17) 一 四百拾壱両壱歩弐朱三百四拾三文 同改在町方懸有(18) 一 五両三分ニ四百七拾三文 同改米みそ炭紙扇子正味有物改有(19) 六六〆 勢 [ 二 千 ] 椙二百八拾五両弐朱三百三文(20) 指引〆 八拾壱両壱分ニ六百五拾弐文 札引不足 (21) 内 一 四拾弐両弐分ニ四百拾五文 申盆後閏八月廿六雑用〆高(22) 一 拾五両一分ニ五百八十五文 同店懸り入用〆高(23) 一 四両壱分ニ六百文 代呂物方々札引(24) 一 四両弐分ニ五匁八分 代呂物ねキ物引(25) 一 壱両弐分 まけくゝり裂々 売札引(26) 一 三両弐分ニ壱匁弐分 六匁六分 紗綾袖口地 三拾弐反(27) 一 三歩弐朱ト壱匁五分 九匁 黒八丈袖口地 六疋(28) 一 壱両壱歩弐朱ト四百七拾七文 申盆後普請入用(29) 一 壱歩弐朱ト百五十三文 内々出入勘定セに不足(30) 一 拾両ト七十三文 酉正月懸抜〆高(31) 六六右拾点〆 八拾四両弐歩弐朱ト拾文(32) 去申歳中懸貫き外当店懸方(33) 四拾弐両弐分ニ百拾四文 申正月懸高増(34) 拾両ト七拾三文 酉正月懸貫高(35) 合〆 五拾弐両弐分ニ百八拾七文 懸高増16)(36) ③の期間において,Z と C は似通った推移を描いているが,売上高 Z は五 掛けされている.史料 2 でみると,(5)の 142 貫 111 匁 7 分が売上高である. 16) 佐倉店「弐番仕切帳」(千葉県立中央博物館大利根分館所蔵).
その次の(6)で「井懸」とあるのは,杉本家の符牒「井」=「5」掛けを意味し, 半額の 71 貫 55 匁 8 分 5 厘となる.第 2 図において②の期間で五掛けされて いるのは X で,①の期間では A である.すなわち,①②③の各期間において 五掛けされているのは AXZ であり,Z は売上高であるので,AX も売上高で あると考えられる. 第 5 節で述べる佐倉店から佐原店への送金高も,第 3 図に Q として示した. Q の推移は,激しく高下する ABC の推移とではなく,売上高 AXZ の流れと 同じように推移している. 以上のことから,「受取高」と記された勘定科目は,時期によっては期首や 期末の在庫高を事前に計算した上で記帳されたものであり,「受取高」の実質 的内容は,三つの期間で以下のように異なることがわかった. ① 天明元年正月∼文化 11 年正月 「受取高」=受取高+期首在庫−期末在庫 ② 文化 11 年 7 月∼文政 7 年 7 月 「受取高」=受取高+期首在庫 ③ 文政 8 年正月∼ 「受取高」=受取高 3. 2 札高と正味 史料 1 における(1)や史料 2 における(1)∼(4)の「札」は,札高を意 味すると推測される.史料 1 では(1)を半額にし,史料 2 では(1)∼(4) の差引である(5)を半額にして,それぞれ次行に計上している.五掛けされ ている対象を期間ごとにみると,次のようになる. ① 天明元年正月∼文化 11 年正月 「受取高」 ② 文化 11 年 7 月∼文政 7 年 7 月 「受取高」−期末在庫 ③ 文政 8 年正月∼ 「受取高」+期首在庫−期末在庫 ここで計上される数値は,すべて売上高であることを先に確認した.した がって,どの期間においても,売上高に対して五掛けしていることが確認で きる.天明期の仕切では,五掛けした数値が「五掛正味」と表記されること
が多々ある.また,第 1 表の 1 にあげた初期の「仕切帳」では,史料 1(2) や史料 2(6)に相当する部分は単に「正味」と表記されている.これらのこ とから,札高での売上高を五掛けし,それを札高に対する「正味」としてい ることがわかる. 売上高の推移をグラフにしたのが第 4 図である.G1 は天保 13 年(1842)7 月までの第 3 図における AXZ に相当する.G1 は天保 14 年(1843)正月以降 G2 となり,図が示すように大きく落ち込み,その後回復することがない.し かし,これは売上高そのものが減ったことを意味するのではない.札高の表 記が廃止されたことに起因している.天保 13 年(1842)7 月の仕切帳の最後に, 以下のように価格表記の変更について記されている. 史料 3 御公儀様ヨリ御趣意被仰出,当寅年四月諸商人正札ニ而売買可致様被仰付, 依而諸品不残正札ニ相直シ候間,来卯正月仕切より持代呂物ノ代盛正味銀ニ相 認メ候事也17) 天保 13 年(1842)寅 4 月より,正札で売買するよう公儀から仰せつけられ たため,翌 14 年正月の仕切から,すべての品物を残らず正札になおすので, 商品の「代盛」は正味銀で記載する,とある18).「代盛」の意味は詳らかでは ないのだが,商品の価格表記を正味価格に改定したとものと理解できる.実 際,幕府は天保 13 年(1842)10 月に「総而商ひ物壱品毎ニ正札付ニ致し,帳 面へも元直段,[売直段]等ヲ書記置,府丁ヲ相用候儀者致間敷旨,名主支配 限急度可申付候」19)とした.天保 14 年(1843)正月以降の仕切帳は,それまで 17) 佐倉店「弐番仕切帳」(千葉県立中央博物館大利根分館所蔵). 18) 京本家代々の当主の日記に相当する「萬覚帳」天保 13 寅年 5 月の記事にも「御公儀様より 御趣意被仰出,諸商人皆正札相付,商内厳重ニ可致様被仰出候ニ付,左原店,左倉店,右両店 とも寅五月正札ニ相成候」と記されている(奈良屋記念杉本家保存会所蔵). 19) 『幕末御触書集成』(1994),第 5 巻,28 頁.
天 明 元 年 正 月 天 明 2 年 正 月 天 明 3 年 正 月 天 明 4 年 正 月 天 明 5 年 正 月 天 明 6 年 正 月 天 明 7 年 正 月 天 明 8 年 正 月 寛 政 元 年 正 月 寛 政 2 年 正 月 寛 政 3 年 正 月 寛 政 4 年 正 月 寛 政 5 年 正 月 寛 政 6 年 正 月 寛 政 7 年 正 月 寛 政 8 年 正 月 寛 政 9 年 正 月 寛 政 1 0 年 正 月 寛 政 1 1 年 正 月 寛 政 1 2 年 正 月 享 和 元 年 正 月 享 和 2 年 正 月 享 和 3 年 正 月 文 化 元 年 正 月 文 化 2 年 正 月 文 化 3 年 正 月 文 化 4 年 正 月 文 化 5 年 正 月 文 化 6 年 正 月 文 化 7 年 正 月 文 化 8 年 正 月 文 化 9 年 正 月 文 化 1 0 年 正 月 文 化 1 1 年 正 月 文 化 1 2 年 正 月 文 化 1 3 年 正 月 文 化 1 4 年 正 月 文 政 元 年 正 月 文 政 2 年 正 月 文 政 3 年 正 月 文 政 4 年 正 月 文 政 5 年 正 月 文 政 6 年 正 月 文 政 7 年 正 月 文 政 8 年 正 月 文 政 9 年 正 月 文 政 1 0 年 正 月 文 政 1 1 年 正 月 文 政 1 2 年 正 月 天 保 元 年 正 月 天 保 2 年 正 月 天 保 3 年 正 月 天 保 4 年 正 月 天 保 5 年 正 月 天 保 6 年 正 月 天 保 7 年 正 月 天 保 8 年 正 月 天 保 9 年 正 月 天 保 1 0 年 正 月 天 保 1 1 年 正 月 天 保 1 2 年 正 月 天 保 1 3 年 正 月 天 保 1 4 年 正 月 弘 化 元 年 正 月弘 化 2 年 正 月 弘 化 3 年 正 月 弘 化 4 年 正 月 嘉 永 元 年 正 月 嘉 永 2 年 正 月 嘉 永 3 年 正 月 嘉 永 4 年 正 月 嘉 永 5 年 正 月 嘉 永 6 年 正 月 嘉 永 7 年 正 月 安 政 2 年 正 月 安 政 3 年 正 月 安 政 4 年 正 月 安 政 5 年 正 月 安 政 6 年 正 月 G1 売上高 (札高) , G2 売上高 (正味) H 売上高 (札高) × 1/2 (=五掛正味) I売上高 G2 × 2 G1 I H G2 0 50 100 150 200 250 300 350 (貫) 第4図 売上高 (出所)佐倉店「仕切帳」 「弐番仕切帳」 「三番仕切帳」 (千葉県立中央博物館大利根分館所蔵) , より作成 .
期首・期末在庫や受取高の各行頭に記述されていた「札」の表記がなくなる. これに伴って,売上高への五掛けもなくなるのである.仮に,天保 14 年(1843) 以降も札高で記帳し,売上高の五掛けが継続していたとすると,売上高の推 移は I となる.G2 のような極端な落ち込みを見せることはなく,順調に推移 することになる.また,天保 13 年(1842)7 月までの,五掛けした売上高 H と,翌 14 年正月以降の五掛けなしの売上高 G2 は,連続した推移を示してお り,H から G2 へ続くラインが天明期から続く正味売上高であることがわかる. 結局,天保 14 年(1843)正月およびそれ以降の落ち込みは,売上高そのもの の落ち込みではなく,札値による売上高から,正味値による売上高へと,価 格表記が変化したことになる. この仕切帳に示された札高と,五掛正味の関係は,特に目を惹く点である. たとえば三井越後屋京本店の場合,「正味」は仕入段階での価格であり,これ に「札掛」という利益率を上乗せし,江戸や大坂の販売店で「札高」として 販売している20).一方,奈良屋が京都で仕入れた呉服太物商品の仕入価格に 対し,どのように札値を設定しているのかはまだ不明だが,札値による売上 高の五掛けを正味としている.越後屋とは販売価格の設定が大きく異なると いえる. 3. 3 取扱商品 仕切帳の受取高・売上高・在庫高の記載内容から,佐倉店の主要商品は,呉服・ 太物・帷子・夏物類などであったことがわかる.以下の引札には日付がないが, 春に店が類焼したものの普請が完成したので 4 月 1 日より開店安売りをする, とあることから天保 6 年(1835)のものと考えられ,当時の具体的な取扱商品 を確認できる. 20) 『三井事業史』(1980),本編第 1 巻,154―157 頁.
史料 4 来ル四月朔日御蔭を以見世開仕候ニ付,乍憚口上書を以御披露旁御願奉申 上候 益御機嫌能被為遊御座恐悦至極ニ奉存候,降而私店之儀,呉服物木綿類数年来 現金かけねなし商仕来候処,御贔屓厚御用向被為仰付被下置見世繁盛仕難有仕 合奉存候,然ル處当春類焼仕其後手狭之仮宅ニ而商仕候処,不相替御光来被成 下冥加至極難有仕合奉存候,御蔭を以今般普請成就仕候ニ付,四月朔日見世 開売始仕為御礼諸色格外相改,乍憚末々迄御勝手ニ相成候品第一ニ相撰,弥々 大安売仕候,御用之節者何卒不相替幾久御用向被為仰付被下置候様偏奉希上候, 以上 一 御婚礼御祝儀品々 御帷子地 目出度御もやう物類 御ひとへ物地 一 あふめ まわた 新染中形しほり類 さんとめ ふうれい 仕立かやしなじな 右之品々相改取わけ下直ニ奉差上候 佐倉新町二番町 ならや重太郎21) 婚礼祝儀の品々やおめでたい新模様物類は,佐原店の引札でも同様にみら れる22).杉本秀明(三代新左衛門)による「定書」では,婚礼祝儀ものが買い 上げられた際は,その値段に応じてご祝儀・酒飯を差し上げることとし,不 行き届きなどないよう担当者のみならず店の者一同が気を付けながら供応す るようにとしており23),京呉服のなかでも婚礼用品には特に重点を置いてい ることがうかがえる.帷子地,単衣物地も常に取り扱っている商品である. 21) 「見世開口上書,安売口上書」(千葉県立中央博物館大利根分館所蔵). 22) 「〔引札下書〕(呉服物木綿類くりわた改正札附大安売)」「〔引札〕(現金かけねなし呉服物帷 子大安売)」(奈良屋記念杉本家保存会所蔵)など. 23) 「定書」(奈良屋記念杉本家保存会所蔵).
青梅・真綿・桟留・浴衣のほかに,風鈴・仕立蚊帳などの調度類も扱ってい たことがわかる.これらの商品を特に値下げするとあるので,天保 6 年(1835) の開店売りはじめにおける主力販売の品目がわかる.重太郎は当主新左衛門 の襲名以前の名であり,佐倉店の出店名前である24). 3. 4 売掛金と貸金 奈良屋が出店した佐倉新町は,近世初期に土井利勝が佐倉城を完成させた 折,家臣団の生活物資を賄うため,諸商人と職人の町家を計画的に造らせた のがはじまりとされる25).嘉永元年の「佐倉町絵図写」には 190 軒余りの店 舗がみられるとされ,領内の中心的な商業地域であった26). 天明期から継続的に記帳される売掛金残高は,享和元年(1801)正月から 内訳が記されるようになる.すなわち,町方・在方・御家中新掛け・御家中 古掛けの別に記帳されており,佐倉店の販売対象が,町方や在方のみならず, 佐倉藩の家中であったことがわかる.「左倉店月〆扣帳壱番」には頻繁に「ヤ シキウリ」「ヤシキカシ」が記されているので,武家屋敷などへ商品を持ち込 んで販売していたと推察される. 期末売掛金残高の推移を示したのが第 5 図である.売掛金残高全体におけ る佐倉藩家中への売掛金は 6 割を占めている.売掛金は天明期から享和期に かけて徐々に増えるが,文化期以降は落ち着いた推移である.佐原店による 文化 5 年(1808)の取り決めのうち,佐倉店について「懸金高之義,二季勘定 之砌段々減少いたし候様日々心懸第一之事ニ候,尤近年忠兵衛支配中懸高へ り候間」27)とあることからも,売掛金の回収に励み残高を減らすよう佐原店か ら指示を受けていることがうかがえる.その佐原店は,京本家より以下のよ うに,仕入商品の品質には細心の注意を払い,良いものを仕入れてできるだ 24) 「相続記」(奈良屋記念杉本家保存会所蔵). 25) 『佐倉市史』(1973),巻 2,215 頁. 26) 木村礎・杉本敏夫編(1963),67 頁. 27) 「(年代記録簿)」(千葉県立中央博物館大利根分館所蔵).
享 和 元 年 正 月 享 和 2 年 正 月 享 和 3 年 正 月 文 化 元 年 正 月 文 化 2 年 正 月 文 化 3 年 正 月 文 化 4 年 正 月 文 化 5 年 正 月 文 化 6 年 正 月 文 化 7 年 正 月 文 化 8 年 正 月 文 化 9 年 正 月 文 化 1 0 年 正 月 文 化 1 1 年 正 月 文 化 1 2 年 正 月 文 化 1 3 年 正 月 文 化 1 4 年 正 月 文 政 元 年 正 月 文 政 2 年 正 月 文 政 3 年 正 月 文 政 4 年 正 月 文 政 5 年 正 月 文 政 6 年 正 月 文 政 7 年 正 月 文 政 8 年 正 月 文 政 9 年 正 月 文 政 1 0 年 正 月 文 政 1 1 年 正 月 文 政 1 2 年 正 月 天 保 元 年 正 月 天 保 2 年 正 月 天 保 3 年 正 月 天 保 4 年 正 月 天 保 5 年 正 月 天 保 6 年 正 月 天 保 7 年 正 月 天 保 8 年 正 月 天 保 9 年 正 月 天 保 1 0 年 正 月 天 保 1 1 年 正 月 天 保 1 2 年 正 月 天 保 1 3 年 正 月 天 保 1 4 年 正 月 弘 化 元 年 正 月 弘 化 2 年 正 月 弘 化 3 年 正 月 弘 化 4 年 正 月 嘉 永 元 年 正 月 嘉 永 2 年 正 月 嘉 永 3 年 正 月 嘉 永 4 年 正 月 嘉 永 5 年 正 月 嘉 永 6 年 正 月 嘉 永 7 年 正 月 安 政 2 年 正 月 安 政 3 年 正 月 安 政 4 年 正 月 安 政 5 年 正 月 安 政 6 年 正 月 万 延 元 年 正 月 文 久 元 年 正 月 文 久 2 年 正 月 文 久 3 年 正 月 元 治 元 年 正 月 慶 応 元 年 正 月 慶 応 2 年 正 月 慶 応 3 年 正 月 明 治 元 年 正 月 明 治 2 年 正 月 0 10 0 20 0 30 0 40 0 50 0 60 0 70 0 80 0 90 0 1, 00 0 (両) 御家中古掛 御家中新掛 御家中新掛 在町方売掛金 期末諸方貸金 第5図 期末売掛金残高 (出所)佐倉店「仕切帳」 「弐番仕切帳」 「三番仕切帳」 (千葉県立中央博物館大利根分館所蔵) , より作成 .
け安く売るよう指示されると同時に,現金売りを第一とし,新規顧客への売 掛けを堅く禁じられていた. 史料 5 一 諸代呂物仕入元細ニ吟味いたし,地生宜敷品を買入成たけ下直ニ売可申 候,麁々成品仕入致間敷候,乍去現金売第一ニ致し,新方之所へ決而懸売 致間敷候事28) 文化 8 年(1811)7 月からはそれまでの御家中新掛けとは別に,新たな新掛 けが計上されるようになった.従来の新掛けは回収不能とみなされ,文政 3 年(1820)正月より古掛けに統合され,235 両の古掛けが文政期中頃より 500 両となった.この 500 両は明治 5 年(1872)正月まで引き継がれているが,そ の後記帳されていないため減損処理されたと考えられる.御家中新掛けは文 化期から文政期にかけて緩やかに上昇しているが,その後の推移は安定して いる.一方,在町方の売掛金の推移は天保期にやや揺れがみられるものの, 御家中新掛けほどの増減はみられない.史料 4 の天保 6 年(1835)の引札にあ るように,佐倉店は現金掛値なしの売買をしていたと考えられる.なお,佐 原店での現金掛値なし商売の開始について,二代新右衛門は「相続記」で「明 和五年子ノ年ヨリ相改,現金掛直なしニ仕候所,御影ヲ以弥々繁昌仕」29)と記 している.慶応から明治にかけては,御家中・在町方ともに,売掛金残高が 急激に上昇するのだが,売上高・在庫高も増えているので,幕末の物価高に よる急増とみるべきである. 佐倉店の仕切帳においてみられる貸金は,文政 6 年(1823)正月より同 7 年 7 月のあいだの地主太七への地代金先貸し,同 7 年 7 月における支配人林兵 衛らへの先貸し,同 10 年正月の支配人太兵衛らへの先貸しなどがある.「諸 28) 「定」(「奈良屋定例」千葉県立中央博物館大利根分館所蔵). 29) 「相続記」(奈良屋記念杉本家保存会所蔵).
方貸金有」がはじまるのは嘉永元年(1848)正月からであるが,目立った増減 は殆どみられない.また,仕切帳からは佐倉藩への御用金や,貸金による利 足収益を確認することはできない30).ただし,杉本家は佐倉藩の御用商人と しての地位を築いており,佐倉藩「年寄部屋日記」の文久 3 年(1863)の記事 では「新町呉服物ならや重太郎」が,慶応 4 年(1868)の記事では「呉服物類(新町) 重太郎代文五郎」が,御用を仰せつけられたとある31).安政 2 年(1855)の江 戸大地震の際,奈良屋重太郎は復興献金として佐倉新町で最も高額の 100 両 を献じ,これに対して御紋付三ツ組御盃の拝領品が下された32).ほかに佐倉 藩領主との関係を示すものとして,同 5 年 3 月には,藩主堀田正睦上洛の際, 杉本家からの献上物に対し,金 500 疋が下されている33). 3. 5 差引〆と費用 史料 1 において(売上高+期首売掛金残高)−(佐原店への送金高+期末売 掛金残高)の差引が,(8)である.ここに「不足」と記されているのは(売 上高+期首売掛金残高)の合計よりも,(佐原店への送金高+期末売掛金残高) の合計が少ないためだと考えられる.一方,天明 2 年(1782)7 月のように,(佐 原店への送金高+期末売掛金残高)の合計の方が多い場合は,「過上」と記さ れる.佐原店から佐倉店へ渡した呉服太物商品が,佐倉店でどれだけの売上 高をあげ,それに対して佐倉店から佐原店へどれだけ送金しているのか,と いうことが,仕切帳の基本的な眼目となっている.なお,(8)のように不足 となる場合は,佐原店側からみれば損失が出たことになるため,佐原店の仕 切帳では同額が費用として計上されている. 差引〆の内訳について記載がはじまるのは文化 6 年(1809)正月からで,年 30) 佐原店では,たとえば天明 5 月正月の仕切帳に「方々貸し金利取」として 44 両が記帳され ている. 31) 『佐倉市史』(1973)巻 2,229―230 頁. 32) 『佐倉市史』(1973)巻 2,225―228 頁. 33) 「下総国印旛郡佐倉出店御地頭堀田備中守様御上京ニ付」(奈良屋記念杉本家保存会所蔵).
ごとに情報量は増えていく.史料 2 では,81 両の不足分(21)のうち,店の 奉公人への仕着せなどを含む雑費(22)と店入用(23)の費用が,全体の 7 割を占めている.商品の値引分として(24)が計上されており,それとは別 に(25)の傷物商品に対する値引き分がある.髷括り用のきれ(26)がある ことから,小物類も販売していたことがうかがえる.続く紗綾・黒八丈は, この期のみならずほぼ一貫して計上されている絹織物である.ほかの年には, 黒繻子・手拭地・小袖綿などがあわせて記されている場合もある.(29)は普 請のための経費,(30)は帳場内での銭勘定不足分で,(31)は未回収の売掛 金を費用として処理したといえる.(22)から(31)の合計が(32)であり,(21) と 3 両ほど誤差が生じている.(33)から(36)で売掛金の増減を計算している. 第 2 節では,佐原店から受け取った呉服太物商品は札高による売上高から 五掛けされていることを確認したが,差引〆の内訳記述から,更に値引きが なされていることがわかった.正味銀に価格表記を改定した天保 14 年(1843) 正月には,「御趣意ニ付諸品値引,売場先キネキ物札引」として,195 両 1 歩 が計上されている.幕府は正札表記のほかに,天保 13 年(1842)6 月に諸商 品の価格切下げを命じていたため34),その影響による値引きと考えられる. これらの経費や普請のための費用は佐原店から別途支給されるわけではない ことも確認できる. 3. 6 佐原店への送金 第 6 図は,佐原店からの受取高,佐倉店の売上高,佐倉店から佐原店への 送金高を図示したものである.佐倉店は,佐原店から受け取った呉服太物商 品のほぼすべてを売り,その売上げの殆どを佐原店に渡しているのである. 佐倉店側で利益を蓄積させている様子はうかがえない.各勘定科目が第 6 図 では判別しづらいが,三者が三つ巴になって推移しているということが視覚 的に捉えられればそれでよしとする. 34) 『幕末御触書集成』(1994),第 5 巻,23―24 頁.
天 明 元 年 正 月 天 明 2 年 正 月 天 明 3 年 正 月 天 明 4 年 正 月 天 明 5 年 正 月 天 明 6 年 正 月 天 明 7 年 正 月 天 明 8 年 正 月 寛 政 元 年 正 月 寛 政 2 年 正 月 寛 政 3 年 正 月 寛 政 4 年 正 月 寛 政 5 年 正 月 寛 政 6 年 正 月 寛 政 7 年 正 月 寛 政 8 年 正 月 寛 政 9 年 正 月 寛 政 1 0 年 正 月 寛 政 1 1 年 正 月 寛 政 1 2 年 正 月 享 和 元 年 正 月 享 和 2 年 正 月 享 和 3 年 正 月 文 化 元 年 正 月 文 化 2 年 正 月 文 化 3 年 正 月 文 化 4 年 正 月 文 化 5 年 正 月 文 化 6 年 正 月 文 化 7 年 正 月 文 化 8 年 正 月 文 化 9 年 正 月 文 化 1 0 年 正 月 文 化 1 1 年 正 月 文 化 1 2 年 正 月 文 化 1 3 年 正 月 文 化 1 4 年 正 月 文 政 元 年 正 月 文 政 2 年 正 月 文 政 3 年 正 月 文 政 4 年 正 月 文 政 5 年 正 月 文 政 6 年 正 月 文 政 7 年 正 月 文 政 8 年 正 月 文 政 9 年 正 月 文 政 1 0 年 正 月 文 政 1 1 年 正 月 文 政 1 2 年 正 月 天 保 元 年 正 月 天 保 2 年 正 月 天 保 3 年 正 月 天 保 4 年 正 月 天 保 5 年 正 月 天 保 6 年 正 月 天 保 7 年 正 月 天 保 8 年 正 月 天 保 9 年 正 月 天 保 1 0 年 正 月 天 保 1 1 年 正 月 天 保 1 2 年 正 月 天 保 1 3 年 正 月 天 保 1 4 年 正 月 弘 化 元 年 正 月 弘 化 2 年 正 月 弘 化 3 年 正 月 弘 化 4 年 正 月 嘉 永 元 年 正 月 嘉 永 2 年 正 月 嘉 永 3 年 正 月 嘉 永 4 年 正 月 嘉 永 5 年 正 月 嘉 永 6 年 正 月 嘉 永 7 年 正 月 安 政 2 年 正 月 安 政 3 年 正 月 安 政 4 年 正 月 安 政 5 年 正 月 安 政 6 年 正 月 万 延 元 年 正 月 文 久 元 年 正 月 文 久 2 年 正 月 文 久 3 年 正 月 元 治 元 年 正 月 慶 応 元 年 正 月 慶 応 2 年 正 月 慶 応 3 年 正 月 明 治 元 年 正 月 明 治 2 年 正 月 明 治 3 年 正 月 明 治 4 年 正 月 明 治 5 年 正 月 明 治 6 年 正 月 0 2,000 4,000 6,000 8,000 10,000 12,000 (両) 佐原店への送金高 売上高 受取高 第6図 送金高・売上高・受取高 (出所)佐倉店「仕切帳」 「弐番仕切帳」 「三番仕切帳」 (千葉県立中央博物館大利根分館所蔵) , より作成 .
季節的な変動をみると,7 月決算の上期と正月決算の下期とでは,下期のほうが 受取高も売上高も送金高も多い.代呂物受取高でみると下期が 7 割程度を占める. 佐原店への送金は,文化期の各正月仕切では 800 両代を下回ることがなかっ たが,文化 5 年(1808)正月に 794 両に減額している.同 4 年 12 月 7 日に佐 倉店を店開きしたため,翌 5 年正月の帳簿では,212 両の普請金が計上されて おり,開店にむけた設備投資のために,佐原店への送金高が一時的に減った と考えられる.なお,佐倉店はたびたび土蔵普請を行っており,嘉永 3 年(1850) 7 月には奥土蔵普請金として 191 両,明治 3 年(1870)7 月期末には向貸屋敷 普請として 102 両が計上されている.天保 3 年(1832)7 月の期末町在方売掛 金残高は,同年正月よりも 197 両増えた.同 6 年 7 月は店舗が類焼した後の 新調物や史料 4 で引用した開店の引札,酒肴祝儀などの経費が 127 両かかった. こうした年においては佐原店への送金が減っていることを確認できる.
4 経営全体の流れ
天明 8 年(1788)正月の売上高・送金高はともに,3 倍以上に増加しており 突出しているが,好調となった原因は明らかでない.家蔵・屋敷を普請し, 新たに店を開いた時期にあたる文化 5 年(1808)正月は,1,040 両近くの売上 げとなった.ただし前述したように,開店設備投資がかかったため,送金額 は売上げに対して 76%に抑えられている.文化期後半は 1,000 両以上の売上 げを出しており,順調に推移した.天保 7 年(1836)7 月は受取高・売上高・ 送金高がいささか落ち込むが,翌年直ちに回復している.天保期から嘉永期 の下期は,平均で 2,000 両を超える呉服太物商品を受け取り,その 91%を売 りさばいている.佐倉での販売という側面からは,天保の改革による打撃は みられない.弘化から嘉永にかけても急激な落ち込みを見せることはなく安 定した推移をみせている.安政 2 年(1855)の江戸大地震の時期となる同 3 年 正月は,受取高が前年正月よりも 700 両減っており,取扱商品量が著しく減 少した.しかし売上高をみると,受取った商品を余すことなく販売したといえる.文久 2 年(1862)正月以降,受取高・売上高ともに 4,000 両を上回り, 慶応期に向かって更に急激に上昇し,明治 2 年(1869)7 月は急落しているが, この期間は物価の乱高下に影響されたと考えられる.安政 7 年(1860)正月以 降,帳簿の最後に「呉服太物相場違札上」などとして,値上分が計上されて おり,銀の価値が暴落した幕末期において,京都で仕入れた呉服太物商品の 価格調整を行っていたことがうかがえる.天明期から明治初期までの佐倉店 の経営の流れを俯瞰すれば,極端な浮沈をみせることなく一貫して安定して おり,順調に売上高をのばしていったといえる.
5 まとめと今後の課題
伊勢を出身とし京都に本宅を構えた奈良屋杉本家は,江戸店持ちの商人と は異なり,下総・常陸に商圏を求め,利根川水郷を中心に行商活動をし,佐原・ 佐倉に店舗展開した. 佐倉店の仕切帳は半期ごとの帳簿であり,勘定科目には表記の揺れがみら れたが,本稿ではその内容を確定することができた.天明期の仕切帳では, 商品の「受取高」が「渡し高」と記載されていることから,当初,記帳者の 視点は佐原店側にあることがわかった.寛政期より佐倉店側から記帳される ようになり,この頃より佐倉店自体が確固とした地位を築いたことがわかる. 「受取高」として記されている数値は,時代により期首や期末の在庫高を計算 した上で記帳されている場合があることが明らかになった.天保 13 年(1842) 7 月までは札値での売上高を五掛けしたものが正味の売上高であり,翌 14 年 正月以降は正札表記の実施に伴い,五掛けなしで売上高が記帳されるように なった.仕入れた商品のなかには佐倉店が独自に仕入れた物もあるとみられ るが,主たる取扱商品である呉服太物は佐原店から受取っており,町方・在 方や武家屋敷などに向けて販売していた.店舗は城下町に位置していたため, 佐倉藩家中を顧客にもったが,売掛金残高に大幅な動きがみられないことか ら,現金決済を主流としていたと考えられる.その売上げは長期的にみれば安定した推移を示しており,一貫して売上高の殆どが佐原店に送金されてい た.商品仕入と益金処理の両面から,店の経営は佐原店の支配下にあり,佐 倉店は佐原店の支店として位置づけられていることが明瞭になった. 今後の研究においては,本稿で明らかにした近世期の佐倉店の経営を手が かりとして,奈良屋杉本家の主要店舗である佐原店の経営分析に取り組むこ とにしたい.佐原店,佐倉店,行商・外廻商い,京都本家,奉公人および別 家との関係を総合的に検討することにより,他国店持ち京商人としての奈良 屋杉本家の経営の全貌を明らかにすることができるはずである. 【参考文献】 石井良助・服藤弘司編(1994)『幕末御触書集成』第 5 巻,岩波書店. 賀川隆行(2012)「関東呉服問屋奈良屋の経営」『近世江戸商業史の研究』大阪大学出版会. 株式会社三越本社編(2005)『株式会社三越 100 年の記録』株式会社三越. 木村礎・杉本敏夫編(1963)『譜代藩政の展開と明治維新―下総佐倉藩―』文雅堂 銀行研究社. 佐倉市史編さん委員会編(1973)『佐倉市史』巻 2,佐倉市. 杉本郁太郎(1962)『奈良屋弐百廿年』株式会社奈良屋. 土屋喬雄編(1967)『杉本郁太郎氏商業回顧談』(『千葉県商業史談』第 1 集)千葉敬愛 経済大学経済研究所. 三井文庫編(1980)『三井事業史』本編第 1 巻, 三井文庫. (すずき あつこ・大阪大学大学院経済学研究科資料室)
The Doshisha University Economic Review Vol.64 No.4 Abstract
Atsuko SUZUKI, Business Activities of a Kimono Fabric Dealer, Naraya (the
Sugimoto Family): The Case of the Sakura Store in the Edo Period
Naraya, a kimono fabric dealer in Kyoto, established two stores in the Shimousa region in the Edo period. Focusing on statements of the settlement of accounts for the Sakura store in this era, this paper examines the business activities of Naraya. The account title “uketoridaka” in some statements and the account title “watashidaka” in others were the same, namely, the sales revenue. The net income was stable through the period. The Sakura store received kimono fabric from the Sawara store, and the Sakura store sent almost all of its sales to the Sawara store. In short, the Sakura store was essentially a branch of the Sawara store.