10月4日 兵庫県加東郡東条町秋津 住吉神社 百石踊
秋津は摂社住吉大社の住吉神代記に見える椅鹿ハ シ カ山神領と推定される中心地にある。北方の山陵に清水寺が創建さ れて後住吉神社との間に屡々紛争が伝えられるが、後住吉大社の後退で円満解決したと裏書するものが、この地方 には可なりある。
現在秋津住吉神社の氏子は常田、古家フ ル ケ、西戸サ イ ド、横谷、貞守、長井、小分谷ショウブダニ、岡本、長谷ナガタニ、森、黒石の11ヶ村に跨 り、各部落別に宮座を結成して年当番年順に秋祭をする。もとは更に強固な宮座であったであろうことは神社境内 神前にそれぞれ村の幟を立てる場所が決っていて、永久的な木杭を打込み、それに村の名が墨書してある。
ところが11ヶ村のうち8ヶ村には踊座があって、昔は旱魃のとき住吉神社に雨乞祈願をし、時には雨乞踊をした らしいが、雨乞の必要がなくなったことと、踊をするのに多額の費用(百石踊の名はこゝから出た)がかゝるので、
次第に廃れて、しまったが、雨乞踊は各村とも少しばかり、歌や踊振が相違していたということである。その 8 ヶ 村というのは常田、古家、西戸、貞守、長井、長谷、横谷、森であって、雨乞の願踊のときは、それぞれ村の踊子 達が、住吉神社に詰かけて、次々に村ごとの踊を競演したようである。雨請立願に関する文書の記録されているも のは嘉永元年(1848)、嘉永6年(1853)、明治3年(1870)明治19年(1886)大正13年9月16日のもので、その うち嘉永6年のものの全文はカード記載の通りである(兵庫県神社誌中巻より)
10月4日現地で西戸座の長老の1人に聞いた所によると昭和14年8月に1度踊っているらしい。そのときも未曽 有の大旱で、田が罅割れて稲が殆んど枯れる状態になった。そのとき僅かな溜水を薬缶に汲んで稲の根元に1本づゝ 注いで廻ったが、稲の葉が音を立てゝ蘇って行くのを見たという。いよいよ百石踊をやろうと願書を出したが時節 柄警察の取締がやかましく公然と許可されないので秘かに申合せて、干上った池の底へ集って、そこで踊ったとい う。
昭和40年、西戸部落では折角の踊りであるからというので保存会ができ、本年は西戸座が住吉神社の秋祭の当番 に当るので10月3日に秋祭を執行。そのとき各部落から立てた幟は1日そのまゝ置いて貰うことにして10月4日、
西戸部落の百石踊だけが神前で披露された。西戸の百石踊は保存会結成後、第8 回北陸東海・近畿ブロック民俗芸 能大会(富山県民会館)に出演しているし、その後N.H.Kの取材のため住吉神社で演っている。
4 日の所演は兵庫県社会文化協会が記録保存のため録画するため撮映効果からして踊りの場等に可なり変異があ ったことを後で知ったため、これ等の点を是正する必要もあり、同地方に久しく教職をとって居た現在、兵庫県立 近代美術館主査堀内和男さんにお会して詳細な資料を頂き、且つその他に
桐山宗吉『ふるさとの祭』27頁
藤原真佐雄「播州の雨乞踊」民俗芸術1-8所収 兵庫県神職会編『兵庫県神社誌』中巻
を参照にして、可能な限り旧態を合せ記録することに勤めたが記述は本日拝見した西戸の百石踊を主体とした。
踊場、南面の神殿に接して拝殿があり、拝殿の前面が広庭になっていて、広庭を距てゝ拝殿に対面して 4 方吹抜 の舞殿がある。
正門は随神門。舞殿正面より稍西寄りに南へ出る。拝殿の西側少し後へ下って社務所あり。社務所の西の所に脇 門があり、道路に通ずる。この道路に沿うた境界はずっと土塀を巡らす。百石踊は拝殿前の広庭を踊場として踊ら れた。所がもとはこの踊場は舞殿の中であった。踊るときは臨時に舞殿の東側に橋掛りをつった。橋掛りは少し後 方へ斜に設けるが、その掛りの所に4~6枚の蓆を敷いて、そこから舞殿に上って演ったということである。
西戸部落の踊の構成
1、心棒打ち 4人。男子青年。白麻平袖の着物、茶染小紋染抜きの軽衫、臑のところは上下を同じ地の平紐で
括る。白足袋、軽衫と同じ地の法師頭巾、草色に染めた紙を巻いた鼻緒の草履ばき。左手にシデ右手に唐団 扇を持つ。
シデ。長径25㎝、短径16㎝の楕円形の板、一方は少し刳って凹形にしたものを幣台とする。白金の紙垂を つけた長さ25㎝の幣串2本を並べてこの板に立てゝ固定し、その前に、金色の厚紙で作った御神瓶2ヶを 貼付ける。この幣台の縁には長さ40㎝位の垂幕をめぐらし垂幕の布は赤、青、各2つ。板台の底中央に長
さ1m位の紅白綾巻の竹の棒を挿し込んで、心棒打はこの棒の元の所を持って支えつゝ踊る。
唐団扇。薄板、無地、左右に日、月の形を刳抜く。柄は細い根竹の直なるもの、長さ50㎝。
心棒打は踊りを先導する。そのうち、主導となる1人は「先心棒打」という。赤い垂幕のシデを持つ。
堀内さんの調査された所によると雨乞に踊ったとき雨を賜ると、そのときの心棒打は大手柄をしたことにな る。でそのときのシデは大事に家に保存しておくという。偶々古老の1人が昔のシデを持っていたのを見た ことがあるという。幣台の板も有合せのもの垂幕も白紙を貼った丈けの竹の柄をつけた。極く素末なもので あったという。もとは踊りの度毎に新しく作った。
頭につける法師頭巾も保存会結成以後のものらしい。もとは白の向う鉢巻であったという。
2、太鼓打 1人。男子青年。白い着物に浅葱の裃袴、白足袋、白鉢巻(この鉢巻は踊場へ入場したとき締める。
後鉢巻)、草色鼻緒の草履ばき。踊場へ入るまでの道行のときは締太鼓を左手に掲げ、右手に持った 1 本撥 で道ばやしを奏する。この締太鼓は稍大ぶりで径45㎝位、厚さ13㎝、撥は桐。
踊場の中央には太鼓台を設ける。太鼓台は高さ1m位の木枠で、前方両隅の柱には白幣をつけた榊、高さ1.5 m位のものを括りつけて立て、太鼓台の3方は2重輪に三つ巴の住吉社紋を染め抜いた紺地の幕を張り廻ら し、太鼓打はこの太鼓台に締太鼓を据え、社殿の方へ背を向けて太鼓を打った。
所が百石踊には本来はこの太鼓台はないらしい。踊場が舞殿の中である以上、太鼓打のためにあまり広い場 所をとることができなかったことにもよるが、百石踊の諸役につくものはもとは何れも未婚の長男に限られ ていた。その頃この諸役に加わることのできない青年(例へば次男のような場合)が太鼓打が打つ締太鼓を、
太鼓打の前に蹲んで、両手で締緒の所を持って受けていたということである。勿論舞殿で演った場合、太鼓 打は神殿の方へ向いて太鼓を打ったのである。
3、かっこう打 2人 10才前後の男子。顔に化粧をし、振袖の着物、青色の脚絆、白足袋、草色鼻緒の草履ば
き、花笠をつける。鞨鼓は径14㎝、厚さ7㎝、張太鼓、両側に長さ50㎝位の紅白綾巻の竹2本を通して腰 に差す。撥は長さ30㎝位の細竹(綾巻)2本、かっこう打が鞨鼓を腰につけるのは、宮入の道行のときと踊 との初め橋掛りの裾で踊るときだけで、すぐ鞨鼓を外し、扇を受けとって橋掛りにかゝる。手踊りのときは 扇を腰にさす。もとは4人であったらしい。
4、花巻 2人。10才前後の女児。服装はかっこう打と同で鞨鼓は当初からつけない。扇子を腰にさす。かっこ
う打が鞨鼓を打つときは胸の所で左手の掌を右手で持った閉じた扇子で打つ様をするが、かっこう打が鞨鼓 を外して後は、かっこう打と全く同じ振となる。女児が加わることは恐らく保存会結成以後のことの様であ って、「花笠四人」という言葉が残っているが恐らくかっこう打のことを花笠と昔は言ったらしい。
5、踊子 10人。15、6才以上40才位までの女子。これも保存会結成後のことらしい。もとは青年が女装して
踊に加わったようである(前掲、藤原真佐雄「播州の雨乞踊」参照)。人数も一定していない。荒い浴衣地 大型模様入りの紺の着物、黒繻子の帯、白足袋、草色染鼻緒の草履ばき。三度笠を冠るが笠の縁に白の幅20
㎝位の引布を垂れて顔をかくす。大正 13 年のときの写真を見るとこの引布はもとは、ずっと長く、肩に垂 れる程であった。また昔は前垂をした。
6、音頭の姫 数人。紋服の男子青年。地謡役をつとめる。謡うときは必ず1人である。最近は謡うものが次第
に少なくなり、当日は「入拝踊」「忍踊り」「大雨踊り」を踊ったのであるが1人で謡った。前掲藤原真佐雄
「播州の雨乞踊」によれば踊子の先頭を音頭といったようで、踊子の先頭が音頭役をつとめる類型は、こゝ 東条町秋津から、さ程遠くない三田市東本庄の百石踊( 頁参照)にも見られるので、この方が原型かと考 へられる。
当日、神殿の左手にある社務所で支度をし、社務所の西側にある、出入口から、神社の西側に沿うた道路に出て、
神社の築地塀沿いに南行、その間道囃子を奏しつゝ神社の南正面にある随神門から境内に入る。道行は次の隊列に 並ぶ。
百石踊の旗←音頭の姫←心棒打2人づゝ2列、シデの垂布赤色が先、青が後←太鼓打←かっこう打2人並ぶ←花 笠2人並ぶ←踊子2人づゝ並ぶ。花笠と踊子はその道行の間左手の掌を胸のところに受けるように構へ、右手 の人指指と中指とを揃えて延し掌を打つような態を、太鼓の囃しに合せて繰返しつゝ進んだ。
昔雨乞踊のため各村の踊りが集ったときもその道行の有様は変らぬようであった。8ヶ村それぞれ、諸役の構成、
踊りの振、謡う歌詞には相違はあったが、各村とも随神門の外までは道囃しでも自村から道行して集り、随神門か らは願掛の順に 1 村づゝ境内へ入って踊り、済むと、次の村が入ることになっていたという。昔は雨乞踊は各村の 競演のような姿で行はれたため、振付や謡廻しは各村とも極秘で練習し、これが村外に洩れぬよう、踊子も長男に 限ったようである。当日は西戸の百石踊は随神門を潜ると舞殿の西側を通り一たん社務所の玄関先の庭に集り、こゝ で改めて踊りに入る隊列を整えたのである。社務所と拝殿との間の前方、神庭の一隅に心棒打 4 人が道行したとき と同じ隊列に進行方向に向って蹲み、太鼓打の囃しによって謡曲高砂の初めの1節が謡われる。終って心棒打が「ハ イ・・・ハイ」という掛声で立上ると 1 列になって斜めに前方へ進み舞殿の前から神殿正面を東側の方へ迂回して
円陣をつくりつゝ所定の位置につく。
太鼓台は予め踊場の中心に設けられている。太鼓打は携えた締太鼓を太鼓台の上に据え、その正面に神殿を背に して控える。心棒打は太鼓台の四隅に踊子はその周囲に半円形に前方を開いて並び、その両端に花笠とかんこ打が1 人づゝ、花笠を中にして位置する。かんこ打は、発進前、謡曲が終ったとき、腰につけた鞨鼓をとり、渡された扇 を持つ。音頭の姫は踊の輪の左側に控える。
堀内和男氏が昭和41年NHKが現地取材の際撮映された写真によれば、前図のように舞殿の東側へ後方へ斜の橋 掛を架設し、その掛りに蓆 4枚を敷いて、その蓆の上で心棒打4人が橋掛の方を向いて蹲みその後に太鼓打が控え て、謡曲高砂の出の 1節を謡ったようである。謡終って橋掛を通り 1列になって舞殿へ入るとそのまゝ左廻りに円 陣をつくったので踊の輪は神殿の方に向って開き、太鼓打も神殿の方に向いて太鼓を打ったのである。
これ丈けの変貌を考慮に入れて当日の施演を見ることにする。まづ神殿に向って踊を奉納する礼拝をする。その ために隊列の入れ替がある。心棒打と太鼓打は踊の定位置のまゝ後向きに神殿の方を向く。かんこう打と花笠は太 鼓打の前方、神殿の前に、かっこう打 2人を中にして横1列に神殿の方に向って並ぶ。踊子は太鼓台の後に神殿の 方に向って、これも横1列に並ぶ。1拝して心棒打の1人が「始めましょう」と声をかけると左廻り(時計と反対)
に半廻りしてもとの位置につき、心棒打と太鼓打は舞殿の方へ向替る。
前述したように当日は「入拝踊」「忍び踊」「大雨踊」を踊ったのであるが、何れの踊の場合も、まづ心棒打の間 に次のような問答がある。この問答式の口上を述べるものを「先心棒打」というが「先心棒打」は踊の変るごとに 交替するのが原則であるという。
この口上問答中、その受答へを表徴するかの如く、シデを持った左手と左足を前へ突出し、踊子一同を見廻すよ うな所在をする。口上が済んですぐ踊りに入る。音頭の姫が歌う歌に合せ、主として踊の中心は心棒打 4 人の所作 にある。奴振風の軽快な動作で、あまり、その位置を替えるようなことはなく、1挙手、1投足のはっきりした動作 を繰返す。これに引替えて円陣の踊子、かんこ打ち、花笠は、これもその位置はあまり変えないが、中心の心棒打 の方へ寄り、又外へ開く流調な流れの振が多い。始め手踊、次つくばい、終る頃開いた扇を持って踊る。
踊りの曲目ごとに振も少し異なるらしい。
当日、西戸百石踊保存会の方から戴いた「昭和四十年、百石踊地頭歌」によれば「入拝踊り」「忍び踊り」「大雨 踊り」「をぐら踊り」「都踊り」「小歌踊り」の6曲の歌詞が収められている。
先心棒打「このしんぼちが教へたり」他の三人の心棒打同音に「なるほど」先「〇〇踊でござるぞよ」心「なるほど」先「太鼓打、かっこう打、音頭の姫雇い申す」心「ようござりましよう」先「中でしんぼちが拍子をとって囃し申そう」
出の謡は「今をはじめの旅衣、今をはじめの旅衣日を行末ぞ久しき」
を謡う。歌詞は大体各曲とも7・5、7・5調の詞章よりなっているがその全部を歌い踊るのではない。音頭の姫が選 択した2~3節を出してその曲を終るのを普通としている。そのため
祝い目出度の若松は 枝もさかへる はもしげる
の如きは、どの曲にも歌われている。同じ時に同じ庭で数曲を踊るような場合には音頭の姫は曲が変っても 1 度出 た歌詞はなるべく2度歌れぬようにと心掛なければならないようである。
1村の踊りが終って舞殿より退出すると、次村の踊りが隋神門から入った各村とも踊りや歌は少しづゝ違っていた。
『兵庫県神社誌』中巻(臨川書店 S13)によれば横谷部落の百石踊の構成は 1、心棒打 4名 麻裃
2、太鼓打 2名 麻裃
3、踊子 数人は不定 青年が女装する。引幕を垂れた菅笠で顔をかくす
4、鞨鼓打 数不定 14、5才以下の男童、振袖
で橋掛で心棒打は次の謡を歌う。
是は老木の神松の千代に千代にさざれ石の巌となりて苔の蒸すまで、苔の蒸すまで、松竹鶴亀の齢をさづくる このきみの行末まもれと我神證のつげを知らする松風も梅も久しき春こそめでたけれ
謡終って舞台に登り踊の隊形を整えるが、太鼓打2名は神殿の方に向って2人並んで中央に位置し、その周囲、4 隅の位置に心棒持、踊子と鞨鼓打はこの6名を囲んだ円陣をつくった。
8ヶ村に伝わる百石踊歌詞は、次の通りである。
以上の各歌詞は堀内和男氏調査のもの、住吉神社「百石踊地歌」中にあり。
大正13年9月16日、西戸のみでやったのではない。このときの写真によれば踊子の引幕は非常に長い。肩に垂 れるほどである。最近は昭和14年8月にやった。このときは池の中で踊った。実際は能舞でやる。雨乞のとき能舞 台の東側に南へ斜の橋掛りをつくる。そこに薦を敷いて、その上でまづ心棒打4人向き合い、謡曲の高砂を謡う・・・・
久しき」まで。そこで、テイテイ、ハハハで入って行く。
これは各部落とも、これは同様舞台に入って入羽に入る。踊りは舞殿の中でやる。
花笠は小学生の5年から中1の男の子、踊り子も青年(未婚、長男)。太鼓受け(太鼓持ち)の役があって、つく ばって持っていた台はない。これは入婿のものがなった。振付は部落ごとに極秘にしたらしい。これは競演であっ たことにもよる。
踊りの 踊の題名ある村 常田 入端踊、小原木踊、小歌踊、稲葉踊古家 入端踊、軒端踊、雨の踊、都踊、金鋳踊西戸 入端踊、忍び踊、大雨踊、おむら踊、都踊、小歌踊貞守◎入端踊、越後踊、都踊、忍び踊長井◎入端踊、雨の踊、恋の踊、都踊長谷 入端踊、坂田踊、しわこ踊、大川踊、忍び踊、小原木踊、薩摩踊横谷 入端踊、恋の踊、四季の踊、うちわ踊、雨の踊、さらさ踊森 ◎入端踊、吉野踊、汐汲踊、薩摩踊、筑摩踊、小原木踊
◎印の部落のは踊の題名のみ分っているが歌詞不明