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140 古社叢の 聖地 の構造 (1) 東関東の場合 はにうこの四つの国の一の宮は 安房国では安房郡の安房神社 ( 千葉県館山市 ) 上総国では埴生郡 たまさきの玉前神社 ( 千葉県長生郡 ) 下総国では香取郡の香取神宮 ( 千葉県佐原市 ) 常陸国では鹿島郡 おおあらいいそざき の鹿島神宮 ( 茨

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古社叢の「聖地」の構造(1)

──東関東の場合──

田 中 充 子

TANAKA Atsuko

はじめに 

 神社、正確にいうと日本の古社叢は、拝むところ、つまり拝所は一つではない。だれでも本 殿には参るが、それ以外に摂社、末社がある。さらにご神木、神池、磐いわくら座あるいは神ひもろぎ籬などが ある。本論ではそういう点に着目して、日本の古社叢の拝所、すなわち聖地の構造についての べる。聖地についてはいろい ろな説があるが、ここでは「一 の宮研究の方法」(『社叢学研究 第8号』上田篤)にしたがって 論をすすめたい。  そこで「日本の聖地」であ る古い社叢の信仰を、そのま つられる祭神の種類からそれ をもたらした者が「天孫族」「出 雲族」「先住族」、いいかえる と古墳人、弥生人、縄文人と する視点から事例調査した。  事例調査対象として、東関 東に鎮座する一の宮をとりあ げる。県でいうと、千葉県と 茨城県の海岸地帯であり、昔 の 国 名 で い う と、 南 か ら 北 へ安あ わ房国・上か ず さ総国・下しもうさ総国・ 常ひ た ち陸国である。(図1) 下野国 陸奥国 常陸国 香取郡 常陸国 武蔵国 安房国 安房郡 埴生郡 鹿島郡 那賀郡 香取神社 鹿島神社 大洗磯前神社酒列磯前神社 安房神社 玉前神社 下総国 上総国 安房国 安房郡 埴生郡 香取郡 鹿島郡 那賀郡 香取神社 鹿島神社 大洗磯前神社酒列磯前神社 安房神社 玉前神社 下総国 上総国 図1 安房国・上総国・下総国・常陸国の位置図

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 この四つの国の一の宮は、安房国では安房郡の安房神社(千葉県館山市)、上総国では埴は に う生郡 の玉たまさき前神社(千葉県長生郡)、下総国では香取郡の香取神宮(千葉県佐原市)、常陸国では鹿島郡 の鹿島神宮(茨城県鹿島郡)である。ほかに、一宮ではないが、常陸国鹿島郡の大おおあらい洗磯いそざき前神社(茨 城県東茨城郡)と常陸国の那珂郡の酒さかつら列磯いそざき前神社(茨城県ひたちなか市)を加え、合計六つの社叢 について調査した。  調査対象は、社殿(本社、摂社、末社)にまつられるもののほか、聖なる地物(ヒモロギそ の他、木、森、井戸、水面)、聖なる地形(イワクラその他、岩、山)などとした。  これらの聖地には神がおわします、と日本人はかんがえている。それは、キリスト教やイス ラム教などいわゆる西洋でいうところの神ではない。  では日本のカミとはなにか?  国学者の本居宣長(1730 ~ 1801)は『古事記伝』(巻三)で「鳥獣木草のたぐひ、海水な ど、其そのほか余何にまれ、尋よのつね常ならずすぐれた徳ありて、何か し こ畏き物を迦か み徴とは言ふなり」といっている。 具体的にはどういうことだろうか。「畏きもの」とは、辞書には「おそれおおいこと」「すばら しいこと」などと書かれている。そうすると、古社叢のなかにはカミガミがいっぱいいらっし ゃる、ということではないか。  それらのカミガミを祭った人々に「天孫族」「出雲族」「先住族」の三種類とするわけはここ にある。  まず天孫族とは『記紀神話』にのべられているところの「高たかまがはら天原」に居住し、そこから「葦 原の国」、すなわち日本国にやってきた人々である。高天原がどこであるかについては、いま のところ確定されていない。それはさておき、天孫族は「葦原の国」を稲作によって「瑞穂の国」 にかえるという使命をもってきた人々である。  「葦原の国」というと、なんとなく美しくロマンチックなイメージがする。しかしそれは湿 地や沼に葦が繁茂するところであって、生活するには厳しいところだ。天孫族は、そういう痩 せてどうしようもない土地に「強力な軍事集団」をひきいてやってきた。男も女も武装していた。  しかし、イネがムギの何倍もの生産力をもっていることを知り、稲作が新しい時代をつくる として大転換する。弥生人とは異なる「乾田農法」あるいは「灌漑農法」を開発し、そうして 日本の各地に進出し、湿地を沃野にかえ、稲作を広めたけっか、そのモニュメントとして古墳 をつくった。さらに在来人のまつる社叢を復活してそこに自分たちの「英雄」をまつった。そ のシンボルとなるものが、神殿であり鏡である。  二番目の出雲族は『記紀神話』で知られるように、スサノオやオオクニヌシに代表される。 かれらは天孫族がこの国に稲作をもってやってくる以前から、すでに農業をおこなっていた。 紀元前1,2世紀ごろ『書紀』によると「朝鮮半島からやってきたスサノオとその子のイソタ

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ケルが木種を日本全国にまいた」というからだ。そして北九州を中心とする江南系の「平地的 農業」にたいして、もう一つの弥生農業、つまり高低差のいちじるしいわが国の地形にしたが って「水源涵養林の農業」を開発したのである。  農業に必要なものは、田をうるおす水である。そこで水源を守るために、かれらは山に木を 植えたのである。日本の農学の基本である。「農業集団」である出雲族にとって、水はカミだ ったのである。  しかしそういうすぐれた農業を定着させた出雲族は、やがて強力な鉄と舟をもち、かつ先住 のアマ族と連合した天孫族によって征服される。けれども天孫族は、出雲族を抹殺しなかった。 出雲族を隷属下におき、かれらの農耕技術を継承して稲作をより発展させた。そうして泉や沼 や木や森しかなかった社叢のなかに社殿をつくり、自分たちの英雄アマテラスなどを祭った。  出雲族はほんらい神殿をもたない民族だった。しかし出雲族も、天孫族のようにじぶんたち のカミガミを祭るようになった。その一つが、いわゆる「国譲り神話」にある出雲大社である。  三番目の先住族は、2500 ~ 3000年前に日本列島にやってきた人々とみられる。俗にアマ族(南 方漁民)、ヒナ族(北方漁民)、コシ族(西方漁民)などといわれる。(松岡静雄)  先住族は漁民であって農業はおこなわない。山の幸と海の幸で、縄文の1万年あまりを生き てきた。とりわけ海の幸が大きかった。漁民は、海がしけて闇ともなれば漁ができないばかりか、 陸地を見失い、海洋にほうりだされて海の藻屑となる。したがって、太陽は漁民である縄文人 あるいは先住族にとって「超能力」つまりカミだったのである。  さらに先住民は、太陽とともに火をカミとした。火は物の煮炊きだけではない。土器を焼く だけではない。火は闇夜を照らし、禽獣をおいはらい、暖をあたえる。つまり火は、先住民が 尊んだ太陽の「分身」といってもいい。  このようにみてくると「天孫族」は古墳人、「出雲族」は弥生人、「先住族」は縄文人に対応 するとみてよいだろう。それは社叢では、「天孫族」、「出雲族」「先住族」のカミがおわします。 これが「古社叢の三重構造」である。

第1章 安房の国の一の宮──安房神社の聖地の構造

1 安房の国安房郡の一の宮安房神社について  「アワのクニはどこ?」と聞かれると、関西人なら阿波踊りで有名な徳島の阿波をイメージ するだろう。しかし「安房」という字を書くと、はなしはまったく異なる。  安房の国は東海道の一国である。現在の千葉県南部、房総半島の南端部に属し、三方を浦賀 水道、相模湾、太平洋の海にかこまれている。

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 安房の国の北は清澄山脈が東西にはしり、上総の国と接する。清澄山脈の中央から南下する と安房南端の野島崎にいたる。清澄山脈の南西側には、平九里川が南に流れ、館山平野をへて 館山湾にそそぐ。沖合には黒潮がながれ、温暖な気候のため古くから海との関係が深く、独自 の文化圏を形成してきた。  なぜ「安房」という国名か。  『書紀』の景行天皇五十三年十月の条に「淡あ わ と水門」とあるのが由来とされる。「淡水門」は、 現在の館山湾か、あるいは浦賀水道に比定される。  また『古語拾遺』には「天玉命の孫の天あめのとみ富命が神武天皇の命をうけ、忌部一族を率いて四 国の阿波にわたり、さらに肥沃の土地をもとめて東国の一半島に上陸した。そこが麻の生産に 適していたので〈総ふさの国〉と名づけ、上陸したところを阿波(のちに安房)とよんだ」とある。 麻のことを古語で「総ふさ」という。  しかし、阿波から房総までは何百キロもあって、その間にはたくさんの国がある。大和には 王権があり、伊勢湾にも尾張国造が勢力をはっていた。そのような危険地帯を、しかも一族を ひきつれて、どうやって房総半島にたどりついたのか。その経路について、一言もふれられて いないのは、不思議である。わたしには、なぜなのか、わからない。  房総半島の南端に上陸した忌部氏は、安房神社を建て祖神である天太玉命を祭った。それが、 安房郡に鎮座する安房の国一の宮の安房神社である。 2 第一の聖地=カミの依代となる器物とその社殿  安房神社は、背後に吾あ谷ずち山(100メートル)を背負い、神明造の社殿が北東にむいて鎮座し ている。そこから山陰へ50メートルほどいくと摂社「下の宮」が鎮座する。「下の宮」にたいし、 本宮を「上の宮」とよぶのは、伊勢神宮の内宮・外宮にならった、とされる。『諸国一宮巡詣記』 をかいた橘三喜(1635―1703)が「伊勢の神かと思ふ所」と記したのも道理である。  安房神社の主祭神は天あめの太ふとたま玉命である。相殿には后神天あ め の ひ り の ひ め比理刀咩命と、天あめのひわし日鷲命、手て置おき帆ほ負おい命、 彦 ひこひさ 狭知り命、鷲わしくし櫛明あかるたま玉命、天あ め に ま ひ と つ目一箇命など忌部の五部神がまつられている。ただし寛永年間(1624 −44)の社旧紀には、祭神が天日鷲命、天あめのかむ神立たて命、大おおみや宮売め命、豊とよいわ磐窓まど命、櫛くしいわまど磐窓命の五命をま つる、とあるので、祭神に変遷があったようだ。  境内摂社「下の宮」には天あめの富とみ命と天あめおし忍日ひ命がまつられている。  境内末社は、厳島社(市いち杵き島しま姫命)と琴平社(大物主)の二社がある。  天太玉命は『記紀』の天岩戸や天孫降臨などに登場し、天岩戸神話でさまざまな職業の祖神 となった神々を指揮してアマテラス大神のために祭をおこなった神さまである。なお、これら の神々は「天孫族」を中心に「先住族」などがまつられている。(末尾「東関東古社叢の出自

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別祭神一覧」を参照) 3 第二の聖地=カミの依代となる地物  境内には、樹齢四百年という「槙のご神木」がある。境内の東南には、かつて山から流れ出 る水を溜めた「大きな池」があった。現在はほとんど埋め立てられて小池となり、新しい神池 に注いでいる。 4 第三の聖地=カミの坐ます地形  拝殿正面の石段の手前左に、ひときわ目をひく巨大な「磐座」がある。赤黒い色をした巨岩で、 現在はその一部をくり抜いて小祠が祭られている。毎年6月10日には、この磐座に宿るとされ る海神の市いち杵き島しま姫命を祭る厳島神社祭がおこなわれる。  また、昭和7年に、境内の一画から海蝕洞窟が発見された。22体の人骨が出土し、そのうち 16体に抜歯のあとがあることから、弥生時代のものとされる。ほかに縄文土器や古墳時代の土 師器、弥生時代のものと推定される品々が出土した。  19世紀末の安房神社は、大きくはないが厳かな社だったという。30年ほど前に社殿がコンク リート造となり、かつての雰囲気はすっかり失われた。コンクリートは耐震性にすぐれている が、聖なる空間にふさわしいのだろうか?疑問である。

第2章 上総の国の一の宮──玉前神社の聖地の構造

1 上総の国長生郡の一の宮玉前神社について  上総国の国名の由来は『古語拾遺』にあるように、忌部が黒潮にのって房総に到着し、麻を うえたところ、良質の麻がそだつのでその地を「総ふさ」国となづけ、のち、上下に分割し、都に 近いほうを「上総」としたという。  上総の国は、北は下総国に接し、南は安房国である。房総半島の中央部を占める。半島の海 岸は九十九里浜といい、太東崎から刑部岬まで約66キロある。緩やかなカーブをえがいてつづ く美しい砂丘海岸である。九十九里というめずらしい名前の由来は、源頼朝の命で、六里を一 里として一里ごとに耶を立てたところ、九十九本にたっしたから「九十九里浜」といわれるよ うになったとされる。玉前神社は、この海岸から3キロほど内陸にはいったところにある。 2 第一の聖地=ヤシロの依代となる器物とその社殿  玉前神社の創建の事情ははっきりしないが、地元では、景行天皇の東征のとき、と伝えられる。

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祭神は、玉たまよりひめ依姫命である。  『大日本史』の「神祇志」には「高たか皇み産むす霊びの孫玉前命」とある。しかし玉前命は古書にはみ られない。また『神名帳考証』には「天あめのあかる明玉たま命」とする。そして『神道史大辞典』には「玉 崎神」とある。  このように、祭神はいろいろと説がある。しかし、共通しているのは玉である。社名に「玉」 の字がついているように、ご神体は「玉」とされている。その玉について、つぎのような伝説 がある。  江戸時代中期の国学者の中村国香(1709―1769)は、『房総志料』につぎのように記している。     むかし一の宮の地に潮くみの翁がいた。早朝に潮をくんでいると、東風がおこって明珠 が一つ波間に漂い光っていた。それは十二の明珠だった。翁はこれを海藻に包んで家にも ちかえり、壁間にかけたところ、夜になって塩室を明るく照らした。翁は恐れいって玉前 神社に納めた。これが玉前神社のご神体である。明珠すなわち「寄石」である。 また『古今著門集』第一巻には、平安時代に、玉前神社の新たな神体が海浜に寄ったという伝 説をのせている。     延久二年(1070)八月三日のこと上総国一の宮のご託宣に「懐妊ののちすでに三年にお よぶ。今明王の国を治むる時にのぞみて、若宮を誕生す」とおおせられた。そこで海浜を みたところ、一つの明珠を得た。 さらに『房総三州漫録』には     一宮玉前神社のご神体の玉色黒き由、葺不合尊の舐めたる玉なりしとぞ、玉依姫のもて 来りたる由」とある。江戸時代には「黒い玉」といわれていたようだ。 末社はつぎの十二社である。  愛宕神社(迦か ぐ具土つち命)、八幡神社(誉ほん田だ別わけ命)、三島神社(事代主命)、白山神社(白山比咩 命)、比叡神社(大山咋命)、山神社(大山祇命)、浅間神社(木花開耶命)、塞さい神社(八やちまた衢彦命、 八衢姫命、来く な と名戸命)、蔵王神社(大物主命)、淡島神社(少彦名命)、熊野神社(櫛くし御み け の食野命)、 水神社(罔みずは象の め女命)。  なお、これらの神々は「先住族」と「出雲族」であり「天孫族」は見られない。(表を参照) 3 第二の聖地=カミの依代となる地物  海浜にうち寄せられた玉の神事が「玉前十二社祭」である。このほかにもご神体として玉(石) を祭る伝承は九十九里海岸地域におおく伝わるといわれる。  境内に「白鳥の井戸」という湧水があり、太東岬の湖に通じているといわれる。それ以上の ことはわからない。

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4 第三の聖地=カミの坐ます地形  忌部をまつった「忌部塚」がある。若佐倉関または太刀山関がもちあげたといわれる「力石」 がある。泉、イワクラなどではない。

第3章 下総国の一の宮──香取神宮の聖地の構造

1 下総の国香鳥郡一の宮香取神社について  鹿島・香取の両神宮がある場所は、現在の地形とはまったく違っていたようだ。  今の利根川の下流はかつて鬼怒川であった。霞ヶ浦は「西の流れ海」とも「香取の海」とも いわれる奥深い入海であった。(『常陸国風土記』)現在は、砂州がのびて、大洗岬から鹿島台地 をへて犬吠崎までひとつづきの海岸線をつくりだしている。  上古の鹿島想定図(『鹿島神宮』東)をみると、霞ヶ浦の出口に、海をはさんで鹿島・香取の 両神が鎮座している。この両社は、どうみても入海の出入りを監視するような位置にある。  その理由は、常陸の鹿島と下総の香取は都からみて、蝦夷地にもっとも近いところの軍神と して祭られたからだ、という。(『私の一宮巡詣記』大林太良)  「香取」とはどういう意味なのか。『香取私記』には「香取の意味ははっきりしないが『万 葉集』には大船の香取とあり、『夫木抄』に載る藤原光俊の歌には浪荒き香取などとあるので、 「楫かじとり取」の意味であるか」とかかれている。  古代史学者の大和岩雄は「香取は「檝かい取」とかかれるように船の「楫かじ取」のことである。本来、 内海沿岸の海人(楫取)たちが祭っていた神社であろう」とする。そして『万葉集』にも「大 船の香取の海にいかり下ろし、いかなる人か物思はざらむ」(巻十一、二四三六番)とある「大船」 は、香取にかかる枕詞であって、香取が楫取であるのは明らかだ。  また、香取・鹿島がこの地に鎮座した意味について「あらぶる神々のいる異境にむかうばあ い、境界に甕をそなえて祈る。蝦夷地にむかう船の安全と、人々の武運の長久とを祈るための 港が「カシマ」であった。だから、内海の住民たちは(カジトリたち)の神は、内海の人々が 太平洋に船出するときには、外界(外海)に霊威をもつ神に祈る。それが香取と鹿島の関係で ある」とする。(『日本の神々』卷十一 大和岩雄)  香取神宮の創建は神武天皇即位十八年と伝えられているが、確証はない。しかし古代の神社 のなかで、『延喜式』神名帳に「神宮」とかかれているのは、伊勢神宮と鹿島神宮と香取神宮 の三つだけで、むかしから中央政府の特別待遇をうけてきたのである。また、鹿島・香取が20 年ごとに社殿を建替えるのも、伊勢神宮と同じである。

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2 第一の聖地=カミの依代となる器物とその社殿  主祭神は経ふ つ津主ぬし大神である。またの名を伊い は ひ波比主ぬし命という。配祀神は比賣神、武甕槌命、天 兒屋根命である。  明治10年に内務省より認定された摂社はつぎの9社である。  側そばたか高神社(古来 秘密)、返田神社(軻か ぐ ち つ遇突智神・埴はにやすひめ安姫神)大戸神社(手力雄神あるいは 磐筒男神、磐筒女神)、忍男神社(伊邪那岐命)、膽まもりお男神社(大おお名な持もち命)鹿島新宮社(天あめの隠おくやま山命)、 又見神社(天あめの苗なえます加命・武沼井命、天押雲命)、奥宮は経津主神の荒御魂)、匝さ ふ さ瑳神社(磐筒男神・ 磐筒女神)。  境内末社は、つぎの6社である。  天あまくだり降神社(伊い き し に伎志邇保ほの神・錀かぎ守もり神)、諏訪神社(建たけ御み な名方かた神)、六所神社(須佐之男、大国主命、 岐神、雷神二座)、花薗神社(龗神)、馬場殿神社(建速須佐之命)、櫻さくら大お ほ と刀自じ神社(木花開耶姫命)、 市神社(事ことしろぬし代主神)。  境外末社は、以下のとおり14社である。  押手神社(香取の宮中にある・宇迦之御魂神)、姥山神社(一言主命)、佐山神社(田心姫神)、 狐こ ざ坐山やま神社(命婦神)、王子神社(當神宮の御み こ兒神)、沖宮(綿津見命)、龍田神社(級し な つ ひ こ津彦神・ 級津姫神・倉う稲かのみたま魂神)、押手神社(もとの神官の御正印殿)、裂さく々神社(磐裂神、根裂神)、日 神社(天照大御神)、月神社(月豫見命)、大山祇神社(大おおやまつみ山祇命)三島神社(香取 連むらじ三島命)、 護国神社。  以下の五社は古文書による旧摂末社である。  神こうざき崎神社(天鳥船神)、高房神社、(建たけ葉は槌つち命)、切手神社(倉う稲かのみたま魂神)、東大社(玉依姫命・ 天御中主神)。なお、これらの神々は「天孫族」「出雲族」「先住族」などである。(表を参照) 3 第二の聖地=カミの依代となる地物  境内にある「要かなめいし石」におもしろい伝承がある。  この地方は古くより地震がおおく、人々に恐れられていた。それは地中に大きなナマズが住 みついていて騒いでいるのだと、おもわれていた。そこで鹿島・香取両神宮の大神さまは地中 に深く石棒をさしこみ、ナマズの頭と尾を刺しとおされたといわれる。香取神宮の要石は凸形、 鹿島神宮は凹形で、その一部が地上にあらわれている。深さは数十尺とつたえられる。貞享元 年(1684)、水戸光圀公が香取神社に参拝したおりこれを掘らせたが、いくら掘ってもその根 元をみることができなかった。  鹿島・香取の両社の「要石」を見くらべると、たしかに凹凸の形をしている。両社が一対で

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あるかのようで興味深い。このようなアイデアは、どこからきたのだろうか。 4 第三の聖地=カミの坐ます地形  境内に池があるが、これは新しくつくられた人工池であって、ふるくからの湧水ではない。 樹齢千年といわれるスギの神木があるが、イワクラ、ヒモロギ、塚などはない。

第4章 常陸の国の一の宮──鹿島神宮の聖地の構造

1 常陸の国鹿島郡の一の宮鹿島神宮について  常陸の国は東海道の東端に位置し、現在の茨城県の大部分を占める。常陸の国の名は『常陸 国風土記』によると「従来の道路が、途中に海や河の渡しがなく、郡郷の境、山河の峯谷のつ づいているので「直ひたみち道」であるという意味に由来する」とある。また日本武尊が手を洗ったとき、 衣の袖が泉水にひたったので「ひたち」といった。  ところで鹿島といえば、サッカー好きな人なら「鹿島アントラーズ」を、建設業の人なら「大 手ゼネコンの鹿島建設」を、出版関係者は「鹿島出版会」を連 想するのではないか。「鹿島神宮」は、関西人にはほとんど知 られていない。  『常陸国風土記』によると「東は大おおうみ海、南は下総と常陸との 堺なる安あ ぜ是の湖、西は流ながれ海のうみ、北は那賀と香島との境なる阿多可 奈の湖なり」とあるように、むかしは「島」であったので、「香 島」といわれるようになった。  「安是」は現在の利根川河口付近で「阿多可奈の湖」は現在 の涸ひ沼ぬまの水が流入する那珂川河口付近なので、古代の鹿島の範 囲は、東は鹿島灘、南は利根川河口付近、西は北浦、北は那珂 川の下流南岸、大洗町をふくむ地と推定される。(『日本古代史地 名事典』)ようするに、上代には鹿島は四面がすべて水にかこま れて、ほとんど孤立した島であった。(図2) 2 第一の聖地=カミの依代となる器物とその社殿  古代史学者の岡田精司によれば、鹿島の神は地元の豪族とは関係なく、朝廷が移してきた神 であるという。しかし鹿島・香取両神宮の祭神についてはいろいろ問題もあり、よくわからない。  創建は神武天皇一年と伝えられているが、これもほんとうのことはわからない。ただ、香取・ 図2 上古の鹿島想定図    (出典:『鹿島神宮』 学生社)

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鹿島ともに、北辺の守りとしておかれたことは確かなようだ。そして鹿島神宮の社殿が北面し て建てられているのは、北への護りを意識したため、とされる。  社伝によると、祭神は武たけみかづち甕槌命である。摂社は、奥宮をはじめ以下にあげる八社である。奥 宮(武甕槌神)、沼尾神社(経津主神)、坂戸神社(天児屋根命)、息栖神社(岐くなど神・天鳥神社・ 住吉三神)、高房神社(建葉槌神)、三笠神社(三笠神)、跡宮(武甕槌神、境外摂社)   末社は、つぎにあげる十六社である。  須賀社(素盞鳴尊命)、熊野社(伊奘諾命・事解男命・速玉男命)、津東西(高オカミ・闇オ カミ)、祝詞社(太玉命)、稲荷社(保食神)、熱田社(素盞鳴尊・稲田姫命)、御厨社(御食津神)、 年社(大年神)、潮社(高倉下命)、阿津社(活津彦根命)、国主社(大国主神)、海邊社(蛭子命)、 押手社(押手神)、鷲宮(天日鷲命)、大黒社(大国主神)、祖霊社(氏子崇敬者物故者御霊)。 3 第二の聖地=カミの依代となる地物  鹿島神宮には、「鹿島の七不思議」という伝承がある。なかでも一番の不思議は「要かなめいし石」である。 「要石」の伝承を列記する。(図3、図7) (1)地中の大魚が日本国土を囲繞して首と尾と がこの地でであったのを、鹿島明神が釘で その首尾をつきとめた。その釘が要石であ るという。(『新編常陸国誌』) (2)鹿島には要石といって大きな石の柱がある。 ここに日本国を背に負うた一匹の大ナマズ がいて、時々身体をうごかす。それが地震 である。しかるに鹿島明神は、例の要石を もってナマズの首と尾をあわせて大地へ貫 いたので、さすがの大ナマズも今はその威 を発揮できないでいる。(『摂陽群談』) (3)要石は測りしれないほど大きいといわれる。 地表にでている石は、直径30センチ、高さ 7センチほどである。中央が少しくぼんでいる花崗岩で、隠れている部分がどれほど 大きいか知ることはできない。むかしは地震をおこす大ナマズの頭を押さえているか ら、鹿島には地震がないのだといわれた。別名「山の宮」「御座石」といって尊んでき た石だという。(『鹿島神宮』東実) (4)無住道暁の『沙石集』によれば「むかし鹿島の社に参詣した右弁入道光俊が三日間平 図3 鹿島神宮の境内図 (出典:『鹿島神宮』学生社)

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な石をさがしたがわからなかった。だが、神官は丸くて平な二尺ばかりの石を御殿の うしろの竹林の中から発見した。それをみた光俊は「尋ねるかね今日見つるかなちは やぶる深山の奥の石みましを」と詠み、鹿島大明神が天降ってときどき座禅をしたま う要石であると感涙した、という。 図4 鹿島神宮:森 図5 鹿島神宮:楼門 図6 鹿島神宮:奥宮=第一の聖地 図7 鹿島神宮:磐座=第三の聖地 図8 鹿島神宮:神池=第二の聖地 図9 鹿島神宮:神木=第二の聖地

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(5)天甕槌神が天降りしたときの御座石・みましの石・座禅石・思惟石と伝えられる。  このほかに、神職から「この要石は、まるで木のように根をのばし、銚子のほうまではびこ っていた」という話を聞いた。さらに水戸黄門もたいへん興味をもって、七日七晩掘ったが、 引き抜けなかったという話もある。  「要石」につづく六つの「鹿島の七不思議」はつぎのとおりである。  1.要石(前述/先住族) 2.御手洗池(神職潔斎の池。池の深さが、大人が入っても子 供が入っても、乳の高さをすぎないという伝説がある。上古にはこの御手洗池が参道の起点で、 手を洗い身を清めたとされる。山からの湧水で、今も水を汲みにくる人が絶えない)(図8) 3. 末 すえなしがわ 無川(高天原の境内地より湧きでた清水が、音をたてて流れるほどの量がありながら、いつ のまにか消えて、その行く末がわからないところからこの名がある)(出雲族) 4.藤の花(境 内の山林を御笠という。そこに咲く藤の花が多い年は豊作で、少ない年は凶作と伝えられてい る)(出雲族) 5.海の音(海辺にくだける波の音が、上(北)の方に聞こえるときは晴、下 (南)の方に響くときは雨がふると伝えられ、奥宮付近でその音を聞く人がおおい)(先住族)  6.根上りの松(鹿島神宮付近の松は、いくど伐っても伐り跡に芽がでて、枯れることがない)  7.松の箸(鹿島の松でつくった箸は、松の脂がでないのが特徴)(先住族)  このほかにも、めずらしい物があるので列記する。  1.霊杉木(ひじょうに古いスギで、かつて雷火にかかり、さらに承応三年(1654)の大風 で倒れたが、株根がいまもなお生きている) 2.鏡石(本宮の後方にあって、鏡に似ている ので鏡石という。)その理由は明らかではないが、昔から大切に保存されている。見たところ 七、80センチほどの平たく丸い形の石である。 3.袖木(本宮のまうしろにそびえる大スギで、 根周りが畳八畳敷もあり樹齢千年以上と推定される) 4.宿や ど り き生木(境内のいたるところに自 生している。とくに高房社のうしろのスギには、シイの樹齢五十年近くある宿生木がある) 5. 東雄桜(幕末の志士の佐久良東雄の献木による老木)(『鹿島神宮』東) 1200年以上とされる「杉の神木」がある。また、宝物殿に収蔵されているものに、日本最古で 最大の直刀韴ふつみたまのつるぎ霊 剣 」がある。全長約3メートルで、約1300年前に制作された、とされる。 4 第三の聖地=カミの坐ます地形  鹿島の神をまつる鹿島山を昔から「三笠山」という。シイ・モミ・スギなどの樹木がうっそ うと茂る深い森である。1963年(昭和38)年に天然記念物に指定された。70ヘクタールの広大 な森で、630種をこえる多彩な植物が繁茂している。芭蕉もこの森に感激したようで、境内の 松の大木を前に歌を詠んでいる。(図4)

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第5章 常陸の国の大洗磯前神社の聖地の構造

1 常陸の鹿島郡の大洗磯前神社について  大洗磯前神社は、鹿島灘を望む台地の岬に 鎮座する。  「大洗」という名を聞いたとき、何を洗うの だろう?とおもった。ダイダラボッチが足を 洗ったから「大洗海岸」という名がついたと いう。(『古謡集』)ダイダラボッチは東北各地 で伝承される伝説で、山や湖沼をつくってま わった巨人だ。しかし、大洗磯前神社とは直 接関係はなかった。  神社の下、石段を四十メートルほど降りる と磯浜がひろがっている。浪に洗われた小石 が磯浜をうめつくし、岩礁の上の鳥居に太平 洋の荒海が砕け散る。(図10)この磯浜に「海 から依りくる神がいた」という不思議な伝説 がある。  『文徳天皇実録』斉衡三年(856)の条に、常 陸国からの知らせによると、鹿島郡大洗磯前 に新たに神が降ったことが記されている。     海水を煮て塩をつくっていた者が夜 半、海上天空の光かがやくのをみた。翌日、 水ぎわに高さ一尺ばかりの二つの怪石が あったので翁がとりさると、また翌日に は二十余の小石が左右に向きあい、侍坐 するごとくであった。小石は不思議な彩 色で光輝き、耳も目もないが僧侶の形を している。そのとき神が人に憑いて『我 は大おお奈な母も知ちすくな少比ひ こ な古奈命である。昔この国 をつくりおえて東海にさったが、今、民 を済うため、また帰ってきた』といった。 図10 大洗磯前神社:海に向かう鳥居=第三の聖地 図11 大洗磯前神社:本殿=第一の聖地 図12 大洗磯前神社:境内図

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 そこで人々は大己貴命を大洗磯前神社に、少彦名命を酒列磯前神社にまつった。 神社の下の海岸にはたくさんの岩礁があって、それぞれ名前がついている。『新編常陸国誌  巻五 村落の条』には45の石の名前が記されている。 2 第一の聖地=カミの依代となる器物とその社殿  祭神は大己貴命、配祀神は少彦名命である。  江戸時代元禄年中に、藩主徳川光圀が祠殿を営んで遷宮式をおこない、享保15年にさらに現 在の地に遷した。  境内にはつぎの六つの末社がある。  大神宮(天照皇大神)、静神社(建葉槌命・手力雄命・高高産霊尊・思兼神)、水天宮(天御 中主神・安徳天皇・建礼門院二位尼)、八幡宮(玉依比売命・大帯姫命・応神天皇)、水神社(罔 象女命)、大杉神社(大物主命)。(図11、12)  なお、これらの神は「天孫族」と「出雲族」と「先住族」である。(表を参照)  どこの神社でも、ご神体は誰も見たことはなし、語られたこともない。しかし神職の話によ ると本殿の修理のとき、一度だけご神体を移したことがあった。「大洗磯前神社のご神体は< オフネ>といわれる木の箱にはいっていて、それは高さ40センチ、幅1メートルぐらいの木の 箱だった。一人では持ち上がらないほど重いので<オフネ>にたすきをかけ、輿にのせて4人 で運んだ」という。そしてひとこと「石かもしれない」とつぶやいた。 3 第二の聖地=カミの依代となる地物  境内には、湧水、イワクラ、ヒモロギ、塚などはない。 4 第三の聖地=カミの坐ます地形  太平洋からのぼる朝日はたいへん美しいことで有名だ、大洗町の観光パンフレットにものっ ている。正月の初詣には、元旦の日の出を拝む人々で海岸はいっぱいになる。正月とは、古い 年が去って、海の彼方(常世)から新しい年がやってくることであり、その具象化が初日の出 である。大洗磯前神社の前の海岸の岩の上にたつ鳥居は冬至の日の出の方向をむいている。つ まりこの海岸は、先住族の聖地である。

第6章 常陸の国と酒列磯前神社の聖なる構造

1 常陸の国那珂郡の酒列磯前神社について

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図14 酒列磯前神社:参道 図15 酒列磯前神社:本殿  酒列磯前神社は、大洗磯前神社と那珂川をはさんで南北4キロほど離れた北の台地の上に鎮 座する。(図13)  神社は、鹿島灘の荒波くだける岩礁の台地の上にある。300メートルもつづく長い参道には、 椿などがおいしげり、緑のトンエンルをつくっている。訪れた日は爽やかに晴れた日であった が、参道はなお暗くひんやりとしていた。(図14)  「酒列」とは、めずらし名前の神社だとおもった。ふつうにかんがえれば、酒の字がついて いるから酒のカミさまだろう。ギリシャ神話なら、バッカスの神だ。神社のパンフレットには 「少彦名命は医薬の祖神で、醸造の神、とくに百薬の長である酒の神」とある。  しかしこれには、古来、多数の説があるようだ。地理学者の吉田東伍(1864−1918)は「酒 列はサカナミとよみ、逆浪の意味ではないか」とする。(『大日本地名事典』) 図13 酒列磯前神社の境内図

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 また「由緒書」には「当海岸の相当区間で後半にわたって岩石群が、南四十五度に傾斜して 列になっているところがある。その一部に北に傾いている箇所があり、その様子から「逆さかつら列」 の地名がうまれたとの伝説がある」とかかれている。  さらに、国学者の伴信友は(1773−1846)「『神名帳考証』で寛文三年(1663)に平磯村で発 見された古墳の四囲数百歩に陶器が埋められてあり、そこが磯前明神の跡と伝承されているこ とから、酒列神社は「酒列」を「酒瓶ヲ列ネタルニテ」とし、四囲に土器がならんでいるのは 神域を示すのではなく、葬墓祭祀によるもので「酒瓶をならべた」という意味だ」としている。  さらに古代史学者の大和岩雄は「酒列」は祈念祭祀詞のみかの腹はら満みて隻ならべ」の意で「甕みか輪わ」 の意であり「酒の司」がスクナヒコナを祭神とする「酒列」は「甕輪」ととくべきである、と する。 2 第一の聖地=カミの依代となる器物そその社殿  主祭神は少彦名命で、配祀神は大己貴命である。  神社の創建は、「『文徳実録』斉衡三年(856)十二月に、大洗磯前神社とともに奉斎し、翌 天安元年(857)八月に、両社が官社に列せられ、十月またともに薬師菩薩明神となった」と ある。両社は、一組の神社として伝えられている。  中世には廃絶し社殿もなくなったが、水戸藩主徳川綱條によって再興された。(図15)みご とな参道もどうじにつくられた。ただし、社殿は水戸の城主にむけて建てられたため、海を背 にしている。岬に位置しながら、社殿が海に向いていないわけである。   現在の一の鳥居のあたりがもとの社地とされ、そこに小社が建てられている。  境内社として、事比羅神社(大物主命)、冨士神社(木花咲耶媛命)、水神社(罔象女命)、 天満宮(菅原道真)がある。天満宮の隣りに稲荷社だったとおもわれる社殿跡がある。  なお、これらの神々は「出雲族」と「先住族」であるが、ここには「天孫族」はみられない。 (表を参照) 3 第二の聖地=カミの依代となる地物  社務所の近くに井戸がある。この台地のうえに、今も泉が湧いているのは驚きである。むかし は、海から舟でやってきて、台地の上にのぼり、この井戸の水で身を清めて参拝したといわれる。 (宮司の話)(図16) 4 第三の聖地=カミの坐ます地形  本殿の右裏手に、古墳群がある。(図17)こんもりと土が盛りあがり、そのうえに大きな木

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が何本もはえている。だれが埋葬されているかは、不明である。宮司は、古墳について関心が まったくなかった。

まとめ

 以上「一の宮研究の方法」にしたがって、東関東の古社叢を調査した。そのけっか、出自の 不明なカミガミもあるが、全体の傾向を知ることができた。  香取神社と鹿島神社は、天孫族、出雲族、先住族のカミガミが三重層している。玉前神社は、 出雲族と先住族のカミガミで占められている。天孫族のカミはみられない。安房神社は、天孫 族と先住族のカミガミが二重層しているが、天孫族のカミのほうがおおい。大洗磯磯前神社は、 天孫族、出雲族、先住族のカミガミが三重層している。酒列磯前神社は、出雲族と先住族のカ ミガミが二重している。  古社叢の三層構造の調査のけっか、古社叢だからといって、必ずしも三層構造になっている とはかぎらない。はじめからなかったのか、また、途中で消滅したかもしれない社叢もある。  ほとんどの参拝者は本殿だけを拝み、摂社、末社を気にかけることはない。もっとも神職も 同様で、小祠について尋ねると「それは村の人が祭ったから、わからない」という答えがおおい。 しかしいっぽうでは、鹿島神社のように、神木や要石などの聖地には、観光客は必ずたちよる。 近在からは、容器をもって神水を汲みにくる人も少なくない。  神々の出自については、不明なもの、解明されていないものなどがある。古社叢の出自別祭 神一覧表は、いちおうの区分でしかない。今後の研究にまちたい。 主な参考文献  『日本の神々』巻11、谷川健一編、白水社、2000年  『鹿島神宮』東実、学生社、2000年  『神社と古代民間祭祀』大和岩雄、白水社、2009年  『私の一宮巡詣記』大林太良、青土社、2001年

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安房郡一 の宮安房 の国 上総 の 国 長生郡一 の宮 下総 の 国 香取郡 の 一宮 △神木  マ キ △神木  ス ギ △井戸 △玉 ○要石 人骨 縄文・弥 生土器 安房神社 玉前神社 香取神社 □天太玉命  (上 の 宮) ○玉前神 □経津主大神 ○市杵島姫命 (厳島社) ○大物主 (琴平社) △誉 田 別命 (八幡神社) △事代主命 (三島神社) △大物主命 (蔵王神社) △罔象女命 (水神社) ○迦具土命 (愛宕神社) ○ 白 山 比咩命 ( 白 山 神社) ○大 山 咋命 (比叡神社) 、 ○大 山 祇命 ( 山 神社) 、 ○木花咲耶姫命  (浅間神社) ○八衢彦命○八衢姫命 ○来名戸命 (塞神社) ○櫛御食野命 (熊野神社) ? 少彦名命 (淡島神社) □香取連三島命  (三島神社) □御兒神 (王子神社) □天照大御神 ( 日 神社) □太玉命 (祝詞社) △建御名方神 (諏訪神社) △須佐之男 命△大国主命 ○岐神 ○雷神二座 (六所神社) ○ 神 (花薗神社) △建速須佐之命  (馬場殿神社) □天富命 (下 の 宮) □天比理刀咩命□天 日 鷲 命□鷲櫛明主命□天 目 一 箇? 手置帆主命 ? 手置帆 負 命 ? 彦狭知命 (相殿) ○軻遇突智神 ・埴安姫神  (返 田 神社) ○手刀雄神 、あ る い は ○磐筒○男 神 ○磐筒女神 (大戸神社) □伊邪那岐命 (忍男 神社) △大名持命 (瞻男 神社) □天隠 山 命(鹿島新宮社) □天苗加命□武沼井命 □天押雲命 (又見神社) □経津主神 の 荒御魂  (奥宮) ○磐筒男 神・ 磐筒女神  (匝瑳神社) ?古来秘密 (側高神社) 東関東古社叢の出自別祭神一覧 国 名 社叢名 本 社 摂 社 末 社 △木・森 △その他 聖なる地物(△出雲族) 聖なる地形(○先住族) ○その他 ○岩 ○山 △ 水面 ・井戸 聖なる器物 (□天孫族 △出雲族 ○先住族 ?その他)

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下総 の 国 香取郡 の 一宮 常陸 の 国 鹿島郡一 の宮 △神木 △森 △御手洗  池 ○要石 ○鏡石 ○三笠山 ○七不思  議 鹿島神宮 □武甕槌神 △事代主神 (市神社) △ 宇迦之御魂神 (押手神社) △級津彦神 ・級津姫神  (龍 田 神社) △倉稲魂神 (龍 田 神社) △ 月 豫見命 ( 月 神社) ○木花咲耶姫命  (櫻大刀 自 神社) ○伊伎志邇保神 ○田 心姫神 (佐 山 神社) ○命婦神 (狐坐 山 神社) ○綿津見命 (沖宮) ○磐裂神 、根裂神  (裂 々 神社) ○大 山 祇神社 (大 山 祇命) ? 神官 の 正殿 (押手神社) ? 守神社 (天降神社) ? 一言主命 (姥 山 神社) △須佐之男 命(須賀社) □ イ ザ ナ ギ ○事解男 命 ○速玉男 命(熊野社) □天 日 鷲命 (鷲宮) △大国主神 (国主社) △保食神 (稲荷社) △ ス サ ノ オ(熱 田 社) △稲 田 姫命 (熱 田 社) △御厨社 (美食津神) △大年神 (年社) △大国主神 (大黒社) ○高 ・闇 (津東西) ○蛭子命 (海邊社) ? 高倉下命 (潮社) ? 活津彦根命 (阿津社) ? 押手神 (押手社) □経津主神 の 荒御魂  (奥宮) ○磐筒男 神・ 磐筒女神  (匝瑳神社) ?古来秘密 (側高神社) □武甕槌神 (奥宮) □経津主神 (沼尾神社) □天古屋根 (坂戸神社)  岐神 (息栖神社) □武甕槌神 (跡宮) □建葉槌神 (高房神社) ○住吉三神天鳥神社 ?三笠神 (三笠神社) ? 岐神 (息栖神社) 国 名 社叢名 本 社 摂 社 末 社 △木・森 △その他 聖なる地物(△出雲族) 聖なる地形(○先住族) ○その他 ○岩 ○山 △ 水面 ・井戸 聖なる器物 (□天孫族 △出雲族 ○先住族 ?その他)

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常陸 の 国 鹿島郡 常陸 の 国 那珂郡 △井戸 ○磯浜  の 岩  礁 ○古墳 大洗磯前神社 酒列磯前神社 △主:大己貴  命 ?配:少彦名  命 ?主:少彦名  命 △配:大己貴  命 □天照大神 (大神社) □天御 中 主神□安徳天皇 □建礼門院 (水天宮) △罔象女命 (水神社) △大物主命 (多杉神社) ○玉依姫命○大帯姫命□ 応神天皇 (八幡宮) ? 建葉槌命□手力 雄命○ 高皇産霊尊 (静神社) △罔象女命 (水神社) △菅原道真 (天満宮) ○木花咲耶姫 (冨士神社) ? 思兼神 (静神社) △大物主命 (事比羅神社) 国 名 社叢名 本 社 摂 社 末 社 △木・森 △その他 聖なる地物(△出雲族) 聖なる地形(○先住族) ○その他 ○岩 ○山 △ 水面 ・井戸 聖なる器物 (□天孫族 △出雲族 ○先住族 ?その他)

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