住吉の神と津守連・難波津
︱神功皇后新羅征討伝説をめぐって︱
板垣俊一
On the Legend of the Empress Jinkuu and Suminoe‑no‑kami
Shun'ich Itagaki
一 難波津の歌
古くから手習いの始めに用いられた﹁難波津の歌﹂というのがあ
る︒法隆寺五重塔の万葉仮名による落書きの例も知られており︑古
今和歌集の仮名序には︑
なにはつにさくやこのはな冬ごもり
いまははるぺとさくやこの花
とあって︑安積山の歌とともに歌の父母のようにして手習う人の始
めにもしたという︒また︑その古注によれば︑この歌の由来は︑昔
仁徳天皇が弟の菟道稚郎子と互いに帝位を譲り合ったとき︑空位の わ に 三年にも及んだことをいぶかしがって﹁王仁﹂という者が詠んだ歌
だと解く︒勿論そのまま信ずるに足りない伝説ではあるが︑伝説に
は伝説の根拠があり︑まったく荒唐無稽なものともすべきではない︒
そしてこのような伝説の生まれる根拠は確かにあった︒﹁王仁﹂は日 ぬ に お し 本霞紀の応神紀に見える人物で︑古事記︵応神記︶には﹁和遡吉師﹂
とあり︑否済から貢がれた有能な学者と伝えられ︑太子菟道稚郎子 に経亜ハを教えたともある︒そのような史書の記載もまた史実として はあてにならないが︑興味深いのは事もあろうに漢籍に通じた外国 人である王仁淋︑最も日本的な表現と考えられた和歌︑それも手習 いの始めにまず書いてみる歌として誰にでも知られた︑歌の父母の ような難波津の歌を作ったと︑何の矛盾も思わず信じている点であ る︒恐らく平安前期以前の唐風文化の時代に生まれていた伝説であ ろう︒応神の代と言っては余りに古いが︑論語と﹁千字文﹂一巻と を持って来朝し︑倭国の文字文化の端緒を開いた人物とされた王仁 が︑文字習得のためのごく基本的な訓練と結び付けられることは︑ きわめて自然なこととも考えられよう︒ 歌の詞に﹁なにはつ﹂とある︒応神の陵墓が河内にあり︑次帝仁 徳の宮処は難波高津宮であった︐古事記にはこの仁徳朝に﹁墨江の 津﹂を定めたと記す︒難波津は墨江の津の北︑上町台地の北端部に 開けた港津である︒また応神陵は渡来系氏族西文︵かふちのふみ︶ 氏の氏寺西琳寺や蔦井︵ふじい︶氏の氏寺藤井・寺とも近く︑その地
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が天皇の巨大陵墓の築造という大土木工事を可能にする先進文化地
域であったことを示している︒その文化は中国大陸や朝鮮半島の文
化であり︑この大陸・半島への交通の要港が難波津であった︒そし
てまた大津・御津と呼ばれた難波津そのものの整備も︑管理面にお
いてはもとより︑施設の面でも渡来系の人々の技術の背景があった
ことが推測される.
王仁の後畜を名乗った渡来系氏族は河内に居住して古代国家の文
書記録を司った西文氏の一族であった︒すなわち古い文字の文化を
担った人々である︒初歩の漢字学習のためには千字文があるが︑こ
の地方の渡来系の人々の社会の中から︑日本語の文字表記を考慮し
た手習いの歌が生まれたことを右の債説は語っているのでは無いだ
ろうか︒
二 難波津の神
平安後期以降多くの勅撰歌人を輩出した津守家の祭神︑墨江の神
すなわち住吉の神は︑やはり平安以降のことであるが和歌の神とし
て尊信されて来た︑難波津と和歌の結び付きがここにもある︒が︑
しかしまたこの墨江の神は航海の守護神であり︑むしろそれが古く
から墨の江に奉斎されてきたところの性格であった︒渡来入の文化
を背景に成立してきた古代国家が︑律令制の維持・運営のために積
極的に大陸との直接交流を押し進めた事業が入唐使の派遣であった
が︑妾時の航海技術からしてしばしば遭難の記録があるように︑そ
れはかなり困難な渡航だった︒海外への航海が危険をともなう命懸
けのものであればあるほど古代人は安全を神に祈った︒その神が墨 江の神である︒遣唐使節の派遣というこの国家的な事業によって墨 江の神はいよいよ厚く朝廷の尊崇を得るに至ったのである︒ 祝詞﹁唐に使を遣はす時の奉・幣﹂詞には次のようにある︒ すぬみまの おこと すネのえ ことを すめがみ 皇御孫命の御命以ちて︑住吉に辞寛へ奉る︑皇神等の前に申し ふなすま 賜はく︑大唐に使遣はさむとするに︑船居無きによりて︑播磨 れも 国より船乗して︑使は遣はさむと念ほし行はす間に︑皇神の命 以ちて︑船居は吾が作らむと教へ悟し給ひき︒教へ懐し給ひな よヨ ゐやじう がら︑船居作り給へれば悦び嘉しみ︑礼代の幣串を︑官位姓名 イたてまつ に捧げ喪たしめて進らくと申す︒ ふなすム これによれば︑もと遣唐使は播磨国の船居︵港︶から出帆していた ようである︒それがいつの頃からか難波津に移った︒難波津からの 渡航が﹃続日本紀﹄に明記されるのは天平五年︵おも︒︶四月の条で︑ この時︑四艘の遣唐使節専罵船が新造されている︒しかし万葉集・ 巻一に載る山上憶良が大唐に在って作ったという歌に︑ やホと いざ子ども早く目本へ大伴の御津の浜松待ち恋ひぬらむ︵六三︶ とある帰帆の港︑﹁大伴の御津﹂が難波津を指すとされているから︑ 憶良一行が渡唐を試みた大宝元年︵圃OH︶の出帆も難波津からだった と考えられる︒またさらに湖って日本書紀の斉明五年︵①$︶紀秋七 月の条に引く﹃伊吉連博徳垂昌にも︑この年の遣唐使坂合部連石布. 津守連吉祥等の二艘の船が︑﹁難波の三津の浦﹂から船出したとある︒ するとこの祝詞の内容は︑遣唐使節出発の港が初めて難波津に定め られた次第を述べるものであるならば︑かなり古いものである︒箭 明二年︵窃し︒O︶八月の第一回遣唐使節派遣以来︑七世紀中の何度目か に遣唐使の渡航の港が難波津に変更されたのである︒勿論変更のい
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きさつ自体︑難波津がすでに朝鮮半島からの使節の来朝する港であ
り︑また渡来人が半島の故地と往来する港として発展していた事を
思わせる︒右の祝詞は遣唐使の乗る大型船の発着が初めて可能に
なったことを指しているのであろう︒
このように難波津は大陸交通の要港となることで七世紀には国家
的な重要性が一層増していった︒この津を管理する津守連氏が奉斎
する墨江の神の登場する神功皇后新羅親征伝説は︑このような背景
のもとで伝えられたのである︒さきにあげた遣唐使の例︑天平五年
︵詔ω︶の入唐使に贈られた︑作者未詳の歌二首のうち長歌には次の
ようにある︒
そらみつ 大和の国 あをによし 奈良の都ゆ.おし照る 難
波に犠り 磁叡の ヨ瀞に船乗り 麟渡り 日の入る国に 遣
かしニ すみのえ はさる 我が背の需を かけまくの ゆゆし恐き 住吉の 我 へうしは
ふセどもが大御神船の舶に 領きいまし 船雌に み立たしまして
さし寄らむ 磯の崎々 漕ぎ泊てむ 泊まり泊まりに 荒き風 みかど 波にあはせず平けく率て帰りませ もとの朝廷に︹四二四五︶
歌の内容は旅立つ夫の身の安全と無事な帰宅を留守の妻の立場で詠
むもので︑罵旅歌の普通の様式である︒しかし住吉の神に対する祈
願はただ難波津に鎮座する神だという以上に一行が遣唐使だという
ことと深く関連している︒﹁住吉の我が大御神﹂の句以下の墨江の
神を詠んだ部分は︑一読して神功皇后新羅親征伝説を念頭に置いた
ものであることが明らかであり︑これが遙かな波風を凌いで海彼へ
渡る入唐使節を送り出す歌であったことを考え合わせれば︑難波津
に祀 られる墨江の神の来歴がほぼどのようなものであったかが分か るだろう︒この歌は朝廷の命による海外渡航と墨江の神への祈願が すでに当然の事となっていたことをあらわしている︒そしてこのよ うな墨江の神の神話的表現が古事記や日本書紀に載る神功皇后新羅 征討の物語なのであった︒
三 津守連
さて︑難波津を管理する氏族が津守連であった︒氏の名も﹁津守﹂
で難波津を守る職名から由来している︒なぜか万葉集にはこの氏族
の歌は下野国の防人﹁津守宿禰小黒栖﹂なる者の短歌一首を除いて
は無いが︑巻二の相聞歌︑大津皇子歌群の注に出てくる人物がいる.
大津皇子霧婚二石川女郎一時︑津守連通占制露其事響皇子御作
歌︷首 ︵未詳︶ 大船の奪饒暮らむと矯と智義が二人管︵6九︶
津守連通は︑占い師として著名な人物であった︒﹃続日本紀﹄養老五
年︵謁ド︶正月︑医ト方術に優れ師範たるに堪える人々が特別に賞賜
に与ったときの陰陽師の一人として見える︒彼のト占の術は︑勿論
古来の巫観のものとは異なる文字文化に属するところの謂わば新し
い呪術であり︑主に渡来系の人々の善くしたものであった︒しかし
﹃新撰姓氏録﹄によれば津守連氏は天神火明命の後畜を名乗る和泉
国の神別氏族である︒他に分岐氏族と思われる津守.津守宿禰があ
るが︑これも尾張宿禰と同祖とする摂津国神別であるから︑姓氏録
を信ずれば渡来系の氏族ではない︒
右の養老五年正月条に名を連ねる陰陽道に優れた人々とは︑従五 つのの 位上・大灘連首︑従五位下・津守連通︑王仲文︑角兄麻呂︑正六位
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上・余秦勝︑志我閑連阿弥陀の六名である︒このうち王仲文と角兄
麻呂︵この二人は僧であったが︑その才芸によって大宝元年︵圃OH︶八月
に還俗せしめられている︶︑それに余秦勝の三人は渡来人と考︑沈られ︑
志我閑連氏も姓氏録︵﹃新撰姓氏録﹄︶によれば諸蕃に分類される中
国゜系の渡来氏族である︒
この四名の他はいずれも難波津に関係のある大津連と津守連であ たモマ のにぽロ るが︑まず大津連には造姓ではあるが大宝元年四月に垂水看と賜姓
された遣唐大通事大津造広入なる人物がいる.姓氏録の﹁垂水公﹂
は皇劉氏族となっているが︑同族と思われる垂水史については皇別
かどうか﹁疑わしいふしが大いにある﹂という史家の指摘もあるこ
とだから︵−v︑垂水公︵君︶もまた皇別仮冒幾族だった可能性を否定
できない︒少なくとも︑大津氏には大通事として中国語を自由に話
せた者がいたことは確かである︒天平二年Q°︒O︶三月︑朝廷は粟田
氏等渡来系の入々五名に弟子二人つつを採らせて中国語の話せる者
を養成することを決めている︒大津広人は﹁諸蕃異域﹂の風俗に通
じたそれ以前の通事であった︒古代ではこれが個人の才能ではなく
彼の属する氏族の性格であったとみてよい︒陰陽道に優れた大津連
首は始め学問僧として薪羅に渡り慶雲四年︵§︶に帰朝したといい︑
彼もまた王仲文・角兄麻呂と同じくその得意とする占術を国家の為
に用いせしむるべく和銅七年︵蓑︶三月に還俗させられた者であっ
た︒彼が半島と往来できたのは彼の属する大津連が大陸.半島の文
化と密接なかかわりを持つ残族であったからであり︑それはまた渡
来系氏族の一般的な性格でもあった︒こデれは津守連にも言えること た で︑日本書紀によれぽ神功皇后の新羅遠征に従ったと伝・兄る祖先田
もみの裳見宿禰を始めとして︑任那国をめぐって薪羅と対立関係にあった こ 六世紀中葉半島に遣わされ︑在那復興に尽力した欽明朝の津守連己
ま な こ麻奴脆︑皇極元年︵ゆ爵︶高麗に遣わされた津守連大海︑斉明五年︵①窃㊤︶ 唐に遣わされた津守連吉祥などが居て︑すべて対外交渉︑外交使節 として活躍している︒史実として信愚性があるのは欽明朝の記事か らであるが︑日本書紀引用の﹁百済本記﹂にある﹁己麻⁝奴馳﹂の義 は﹁高麗の子﹂と解され︑日本人ばなれした名となっていることが 注目されよう︒その名の意味するところは渡来人との漁縁関係であ る︒
津守連の性格はだいたいそのようなものであるが︑さらに通自身
に関する資料として︑﹃続日本紀﹄神亀元年︵圃§︶十月の条に︑忍 てひヒ 海︵大和国︶の手人大海等兄弟六人について︑﹁手人﹂の名を除き︑
﹁外祖父従五位上津守連通﹂の姓に従わしめたという記事がある回 からかなち ﹁手人﹂とは︑応神記に﹁手人韓鍛︑名卓素﹂︑また雄略紀七年に百
てひと ヘ へ
済の献じた﹁手末の才伎﹂︵また﹁漢手人部﹂︶など︑大陸.半島か
ら連れて来られた織物・工芸などの技+云に長けた者たちであり︑国゜
家から国家への貢納物的存在であった︒大和の忍海は渡来人の住ん
で居た所でもあり︑忍海の手入大海等淋そうした入々の末窟であっ
た可能性はある︒その彼等が雑戸から脱して母方の祖父の姓を得て
いる︒ちなみに大海は皇極元年に高麗へ遣わされた津守氏の名でも
ある︒渡来系とすれば︑雑戸の彼等が日本人と︑それも従五位上と
して官途に就い.ている者の娘と通婚し得たかどうか︒日本の古代国
家に官途を得た多くの渡来人たちは︑河内・大漁・出城.近江の各
地に集団的に居住し︑大陸・半島の故地との交流を絶やさず︑独特
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の異国風文化を形成していた︹2︶︒文献に残されるのは朝廷の公的
な使節にかかわる場合のみであるが︑その事実の裏側には彼等の絶
えざる大陸・半島との交渉が考えられるのである︒摂津周を本貫と
し︑和泉国に広がり︑難波津の管理を職とし︑大陸.半島の言葉に
通じ︑外交使節として活躍し︑また仏教・陰陽道の知識を持ち︑手
人とも婚姻関係を結ぶ津守連は︑渡来系氏族としての性格を具備し
ており︑きわめて渡来人の文化に近い氏族であった︒
さて︑大津皇子の歌に戻って︑歌の成立事情の説明によれば︑通
は大津と石川郎女との密通をト占によって暴いたとある︒彼女と私
通することがなぜ罪になるのかは明確でないが︑前に大津が窺かに
伊勢の斎宮である姉のもとに行ったときの贈答歌があり︑次に石川
郎女に贈った皇太子草壁皇子の恋歌が置かれているレ﹂の一連の配列
と︑大津皇子の謀反の華実から︑皇位継承争いとの関連で読まれて
きた︒また︑町懐風藻㎞の大津皇子略伝によれば︑彼の謀反は天文卜
笠を解する新羅贈行心の勧めに因るという︵3︶︒つまり謀反を勧め
たのもト占の術を知る者︑未然を察したのもト占の術を知る者だっ
た︒後の例では惟喬親王と惟仁親王の位争いに︑僧正真済と真雅︵恵
亮︶僧都の修法比ぺの話があるが︑古代の権力者にとりては常人の
見えないものを見る能力を持つ者が必要とされた︒それは古くは巫
女の能力であったが︑外来文化によって古代国家の・支配機構が改
まって行くに従い︑たとえば天平二年三月太政官の奏上した文中に︑
﹁険腸医術及び七曜頒暦等類は国尿の要道なり﹂とある如く︵d︶︑陰
陽師の占術が巫女の呪的能力に替わるものとして重用されたのであ
る︒ しかし﹃懐風藻﹄と﹃万葉集﹄とでは︑大津皇子の拠った呪術に 質の差が見られるのでは無いだろうか︒これは二つの作品の質の差 でもあり︑漢文学の世界に於いてはその呪的能力が天文ト箆を知る 者に求められるのは当然であって︑万葉集の歌物語では大津の行動 が俳勢神宮に斎宮として仕える姉大伯皇女との連帯という古来の女 の呪力が想起されたのである︒しかしその万葉集でも大津の謀反を 見抜いた側は︑天文卜笠にかかわる陰陽道といった︑いわば律令国 家の中で原始の巫女の能力に替わるものとして公的に採用された呪 力であった︒
津守連通は︑前述の彼の氏族の性格と矛盾しない︑そうした呪力
を担った人物であった︒
四 住吉三神の神話
古代におけるこの言うならぽ開閉的な津守連の祭神は墨江の神で
あった︒平安時代以降には和歌の神として崇められたが︑神功皇后
新羅征討伝説の中に現れる墨の江の三神は異国を侵し掠める神であ
る・神話としては黄泉国から帰ったイザナキの蔽祓に生まれた底筒
之男・中筒之男・上筒之男の三柱の男神であり︑海の守護神であっ
た・そのとき同時に生まれた海神に三柱の綿津見神がおり︑またア
マテラスとスサノヲの誓約神話の中で生まれる航海の神︑宗像の三
女神も同類の海洋神である︒しかしすでに指摘されても来たように︑
綿津見三神と宗像三女神とはそれぞれの神の出現とともに奉斎する
氏族が︑前老は阿愚連︑後者は胸形翼と明記されているのに対して︑
筒之男三神のみは特定の氏族と結び付いていない︒この点に大きな
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特徴を持っている︒これは神功皇后伝説におけるこの神の出現の仕
方と関係があるのではないだろうか︒
神 功百里后即ち息長世胃日﹂売︵オキナガタラシヒメ︶に愚依した墨江
三神に︑古事記は︑
此時其三柱大神之御名者顕也︒ あぢに と注記する︒本居宣長はこの注を︑﹁御名の顕る玉とは︑先度に命を
なのり とひこひ請奉りし時には御名告無く︑何神とも知られざりしを︑此度問奉り なのり しに依て︑始めて如此御名告し賜⁝へるを云なるべし﹂︵﹃古事記伝﹄
三十︶と解して︑雄略記の一言主神出現の注記ー1﹁故︑是一言主之
神者︑彼時所レ顕也﹂の顕現とは違うという︒この文脈の捉ら.凡方自
体は物語の流れに沿った正当な解釈であるが︑しかしまたこの時物
語の中で始めて墨江の神は人間の側と直接交渉を持ったのでもあ
る︒ここには神代における神々の誕生と物語を前提に歴史時代にお
ける神と人間との交渉が語られているわけだが︑しかし現実におい
ては︑観念としての神代と︑託宣や幻視による神々と人間との具体
的な交渉とは︑相互に支えあっているのだ︒とりわけ日本書紀や風
土記の伝承によれば︑元来一地方神であった墨江の神が︑難波津の
発展とともに国家的な神に成長していった跡がうかがわれる︒
日本書紀では︑筑紫の橿日宮︵現福岡市香椎︶で神愚りした神功皇 あなとのあたひほむたち 后の口から発せられた神託に︑穴門直践立という者の水田を幣とし
て神祭りせよとあり︑その時に名を顕わした神々は︑本文によれば
次の四神であった︒
︵1︶伊勢の﹁撞賢木厳之御魂天疎向津媛命﹂
あがたふし の ︵2︶尾田の吾田節の淡郡に居る神 ︵3︶厳の事代神 一 お ヰなは わかや ︵4︶日向国の橘小門の水底に所居て水葉も稚かに出で居る神︑ 名は表筒男・中筒男︒底筒男の神 また︸書の異伝によれば︑ ︵1︶表筒雄・中筒雄・底筒雄 ︵2︶﹁向匝男聞襲大歴五御魂速狭騰尊﹂ である︒ とくに異伝の︵2︶は口から発せられた言葉の表記と思われ︑訓み の難解さがあって︑巫女の託宣の言葉の聞きづらさを裏すために敢 えてした工夫と考えられるo︒︶︒﹁速狭騰﹂には神霊が速やかに立ち 去ってゆく意があり︑天皇の死を神上がりとも言い︑そのため仲哀 天皇がこの部分を皇后が自分を早く死ねと言ったものと誤解し︑神 を疑って結局は神罰を受けてその通りになるという話ともなってゆ くのであり︑整った古事記の物語よりは古い伝承と言える︒ちなみ に古事記では︑託宣した神が︑ ︵1︶天照大神 ︵2︶底筒男・中筒男・上筒男 であり︑神名に紛らわしさは全くない︒これに対して日本書紀の揚 合は︑墨江三神を除けば神代の神々とたやすく結び付けることので きない神名である︒そして先に引いた古事記の注記のような神の名 の出現の仕方は︑むしろこのようなものであうたと思われる︒少な くともこの伝説申においては︑神功皇盾に愚依した神々は高天原神 統譜には直接対応しない神たちであった︵5︶︒その点でひとり墨江 の神のみ例外とは言えないのではないか︒勿論︑この時はじめて息
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一
長帯日売という巫女の口から発せられた神名でも無いだろう︒日本 あら 書紀本文の後段に遠征ののち再び墨江三神が皇后に教えて︑﹁我が荒
みたお ヤまたむら
魂をば穴門の山田邑に祭らしめよ﹂と言ったとあり︑そのとき神の
望みを必ずかなえるようにと進言したのが践立︵穴門直の祖︶と田
裳見宿禰︵津守連の祖︶だったという︒話の展開は︑かくして践立
が荒魂を祭る神主となり︑祠を穴門の山田邑に建てたことになって
いるが︑実際はすでに神託に穴門直践立の田が要求されており︑も
ともと穴門︵山口県西南部︶及び息長帯日売が神愚りした地北九州
と関係の深い海の神であったと考えられる︵7︶︒
三柱一体の海の神に宗像三女神があり︑また筑前国糟屋郡が本拠
とされる阿曇連の祀る綿津見三神があって︑いずれも北九州の玄海
灘︑大陸・半島との交通の要所⁝と闘連の深いことがあげられる︒墨
江の神もまた同様に三柱一体の海の神で︑最初に鎮座した穴門の祠︑
すなわち償⁝止月の未明︑壇ノ浦の海中からわかめを刈り取って神前 晦︐かり に供える秘儀⁝︑和布刈神事で知られ゜る下闘市⁝ノ宮町の住吉神社︵住
吉坐荒御魂神社三座!神名帳︶をはじめとして︐北九州の海域に
古社をもつ神である︒﹃延警式隔神名帳によれば住吉神社は陸奥・播
磨9筑前・壱岐島︐対馬などに見え︑うち名神大社となっているの
は穴門と難波の他は九州各地の神社である︒阿曇連が綿津見神を縄
る志賀海紳社と博多湾をはさんで相対峙する位雌にある︵白井・土
岐編門神社辞典﹄︶筑前国那珂郡の住吉神社︑また壱岐島の住士口神社︑
そして対馬島下県郡の佳吉神社で︑宗像の神︑阿禦の神と岡様︑北
九州に本来の信仰掴な持っていたことが推定される︒
さらに播磨照風土記・賀毛郡河内里の条にのる伝説には︑住吉の 大神が従神たちを連れて上って来たとあり︑﹃釈ヨ本紀﹄に引く風土 記逸文には住吉の地名起源課として︑オキナガタラシヒメ天皇の盤 に出現した住吉の神が天の下を巡り歩いて住むべき国を求め今の社 地に鎮座したと説く︒神が巡行して鎮座すぺき地にやってきたとい う伝説は住吉の神に限らず一般的な事であるが︑西の方から上って 来たという伝えには古い記憶があるのではなかろうか︒日本書紀の 記事と照らし合わせるとそのように考えられるのである︒こ︑れに対 して︑姓焉録によ︑れば畿内の宗形暑︑安曇連はいずれも河内国に農 住しているが︑しかし彼等の本貫で祀られていた海の神は在地のま まに居て︑半島・大陸との海上交通が国家的に重要性を増すととも に︑中央の神統譜の申に重く位置付けられたのである︒
五 住吉の神と息長帯日売
津守連が祀るところの墨江三神が︑神統譜の誇載中には特定の氏
族の祭神となっていない事は︑もともと地方の自然神であったもの
が急速に中央の神話に吸い上げられたからだと思われる︒元来は関 うしに 門海峡の瀬戸を領く荒ぶる自然神だったのではなかったろうか︒日
本書紀では熊襲を討とうとした仲哀天皇が瀬戸内から穴門へ向か
い︑神功皇后は若狭の敦賀から日本海回りで穴門の豊浦津に着いて
いる︒すなわち皇后は墨江の神の領く瀬戸を通らなかった︒その後
一行は合流して豊浦宮から筑紫へ渡り︐櫃肩宮で墨江の神の託宣を
得︑その神託をうたがって仲哀は死ぬ︒死んだ仲哀の亡骸は取りあ
えず豊浦宮まで戻される︒このことから考えると︑仲哀は関門海峡
の瀬戸を領く荒ぶる神に礼を欠いたことによって神罰を得たのであ
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る︒そして朝廷に対して敵対的な行働を取り得るこの荒ぶる神の力
をうまく制御し︑海彼に向けたのが巫女神功の霊能であった︒陸路・
海路を問わず交通の要所に居て旅人に崇る神は風土記等に多く語ら
れるところで珍しくはない︒倭建命の東征伝説に出てくる走水の海
の渡りの神は倭建命の舟を弄び︑后弟橘比売︵﹁橘﹂がここにも出て式
る︶の生賢によってかろうじて難をのがれた︒みな外部の人間に敵意
を示す自然神である︒
津守連がこれを祭神として迎えることになったのは︑摂津国に住
むその氏自身が半島・大陸との交流を繁く行なって来たこと︑難波
津を管理する職にあったこと︑などと関連すると考えられる︒日本
書紀は︑前述のように墨江の神の荒魂が穴門直によって山田邑に祀 ぬ なくら なが られたと記し︑また新羅征討の帰路その和魂を﹁大津の浮中倉の長
を
峡﹂即ち摂津の住吉神社の地に祀ったとある︒しかしその時の四神
のうち三神は祀る者が定められているのに︑墨江の神だけは誰に
よって奉斎されたか明記されていない︒神功摂政前紀秋九月の条に︑ したが ﹁和魂は王身に服ひて寿命を守らむ︒荒魂は先鋒として師船を導か
む﹂という神の言葉がある︒つまり神愚りした皇盾自身が墨江の神
を祀ったのである︒その点で︑墨江の神については息長帯日売との
関係が重視されなければならない︒
息長帯日売は︑琵琶湖東岸坂田郡の豪族息長氏の女で︑母は但馬 つ が の渡来系氏族の子孫である︒神功皇后関係の記事と角鹿︵福井県敦
賀︶の地が密接に結び付いているのは︑琵琶湖を通じて敦賀へ︑敦
賀から半島∵大陸へという水運のルートと深く関連している︒角鹿
の行宮に居た神功皇后が仲哀と別に日本海側の航路をとって筑紫へ 下るのも︑右の彼女の出自と関係しているのである︒息長帯日売の 巫女的な霊能は古代の女の文化であることを思えば︑父系の息長氏 もさることながら母系がさらに重みを増すだろう︒古事記によれぽ︑ 彼女の母は新羅国の王子天之日矛の喬で葛城の高額比売命といい︑ 始祖天之日矛の渡来伝説を載せる︒
新羅からの天之日矛の渡来は︑彼が妻にした難波の比売碁曾神社
の祭神アカルビメを追ってのことだったと語られている︒妻のアカ
ルヒメを追って難波に来た天之日矛は︑しかし渡りの神に塞えられ
て引き返し︑但馬国に留どまってそのまま土着し︑その地に栄えた
ことになっている︒新羅は神功皇后にとって祖先の地であった︑と
いう伝えがここにはある︒日本の古代国家の形成に渡来人の力が不
可欠であったことは常識となっているが︑倭国の内部に組み込まれ
ながらも︑彼等の文化を捨てるわけにはゆかなかった渡来人の矛盾
した在り方が神功皇后新羅征討伝説に表れている︒そして律令政治
をもって一応の完成を見る古代国家の形成が渡来入の力によるもの
だった故に︑一見国粋的なこの征討伝説は古代日本にとっても矛盾
をはらむものであった︒この新羅征討伝説をもって外来文化を取り
入れた新しい時代が始まる︑とするのが古事記・日本書紀の歴史観
だと見ていいが︑これを可能にしたのは︑危機の時代に現れた根生
いの古い女の霊力を帯した巫女王によってであったかのように語ら
れながら︑しかしその巫女王自身が渡来人と深いつながりをもって
現れてくるのである︒
天之日矛が故地から携えて来た霊宝として古事記は︑珠二貫・浪
振る比礼・浪切る比礼・風振る比礼・風切る比礼・奥津鏡・辺津鏡
一8一
ひ れ の八つの宝をあげる︒浪と風とを自由に支配できる四つの領巾は明
らかに航海のための呪具であり︑二つの鏡も或るいは﹁航海の安全
に呪力をもつ鏡﹂︵8︶であろう︒これらは但馬国の出石神社に祀られ
るが︑日矛の一回切りの渡来の為のものではなく︑このような呪具
によって半島と倭国とをしばしば往来した新羅系渡来人の集団が居
たことを意味する︒それが神功皇后︑即ち息長帯日売の母方の氏族
であった︒墨江の神を寄せ︑海を渡って半島の故国を従︑兄たという
彼女の︑航海における霊力の根源も︑母系をたどれば日本海側のルー
トによる半島との往来のあった但馬の出石を本貫とする渡来人の文
化にたどり着く︒彼女の祖父の兄にあたるタジマモリが垂仁朝に常
とおじく かく こ み 世の国に遣わされ︑﹁非時の香の木の実﹂を求めさせられたという伝
説も︑渡来人のすぐれた文物を見た倭国の人々の︑彼等が海彼の宝
の国へ自由に往来すると考えての神話的表現にほかならなかった︒
神功皇后の新羅親征も構造的には同じである︒新羅は海表の実在の
国を指すよりも他界的な意味を持つとの指摘がすでにある︵︶︒
患長帯日売はこのような出自の巫女王であったが故に︑北九州の
荒ぶる自然神を迎え︑外国航路の有力な守り神として難波津に鎮座
せしむることが出来たのである︒
六 津守連と墨江の神
古事記や日本醤紀に牽斎角族をあげない墨江の神も︑九世紀ごろ いつ の戒立とされる州先代旧事本紀﹄には津守連等が斎き杷る神だと明
記する︒通説によって神功皇后伝説は半畠の新羅との緊張が高まっ
た六世紀半ばに坐まれたものとすれば︑その頃から祀られ始めた墨 江の神が︑その後難波津を玄関港としてますます多くなる国家的な 対外交通とともに︑一地方︑一氏族の信仰の対象を越・兄て︑国家的 な尊崇を受けるに至ったものと思われる︒難波津を管理する津守連 がこれを祀るようになったのは︑いつの頃か分からない︒しかし﹃住 たもみのすくぬ 吉神代記﹄︵平安時代の成立︶の伝える︑津守連の祖︑手蓬足尼︵田裳 見宿禰︶が摂津の社地を献じ︑そこに社を建てて神主となったとい う津守連自身の伝承もむげに否定することはできない︒ 津守連はその出自を尾張宿禰と同祖とし︑天神火明命を祖神と称 していたこと前述のとおりである︒氏の伝えでは手捷足尼が最初の 神主となったというが︑古代では神に近付いて仕えるのは息長帯日 売のような女の役割であった︒よって津守連の女が仕・凡るのが古態 である︒そしてまた古社の神には︑賀茂神社の丹塗矢伝説や大神神 社の三輪山伝説のように︑巫女に通ってこれに神の子を生ませる話 がある︒まさしく﹃住吉神代記﹄にも住吉の神と神功皇后の﹁密事﹂ は伝えられている︒しかし津守連の女の話はない︒また仁徳天皇の 娘の夢に現れて託宣したとも伝えるが︑これも津守連では無かった︒ 朝廷の祭神として津守連氏の影は薄い︒しかし六世紀半ばの半島を めぐる情勢と密接にこの神の伝説が結び付いていることを考えれ ば︑その頃半島の任那で外交使節として活躍した津守連己麻奴箆を 始めとして︑斉明五年︵α㎝㊤︶に遣唐使となった吉祥がおり︑例の﹃住 吉神代記﹄はその吉祥が唐に出発する直前に書き置いた資料等によ るものだと称していることなど︹−o︶︑一回切りの神功皇后親征伝説と 違って常に波風を凌いで海彼に往来した津守連の祖先の如き人々レ︸ そが墨江の神の神威を切実に求めたはずである︒これは先に引いた
一9一
天平五年の入唐使を送り出す万葉の歌にもあった通りである︒半
島・大陸と往来のあった津守連が︑綿津見神や宗像の神などのよう
に勢力のある奉斎氏族のいない玄海灘の地方神を︑己が舟中に祀り
はじめたのが起源ではなかったか︒
出現の情況はともかく︑確かに墨江の神は﹁航海神として移動す へ る﹂︹uv性格をもつ︒即ち定まった地に祀られるだけでなく︑船の舳
に祀られ船とともに移動するのが本来の性格であったことは︑前掲
へ とも 万葉歌に﹁船の舳に 領きいまし 船魎に み立ちまして﹂と歌わ
れるとおりである︒墨江三神の名︑﹁筒之男﹂については︑ツ︵﹁の﹂
にあたる助詞︶+津の男︵港の男神︶という解釈が一般に認められてい
ゆさか み る︒神功紀元年の神託の詞﹁往来ふ船を看む﹂はまさに津の神とし
ての性格を表し︑﹁津守﹂連が祀る神にふさわしい︒これに対して︑
﹁筒﹂を漁船の帆柱を受ける筒状の堅い木の柱と見て︑船の安全を
守護する﹁船玉の神﹂を納めるその筒柱が神そのものとして信仰さ
れたのだ︑とする説がある︵岡田米夫・西宮一民︶︒この説は﹁筒﹂を
ツッの借訓とする異例な語釈をしないで済む点︑また移動すること モ セ を本来の性格とする神である点ではよい︒﹁穴門﹂に祀られたという
神話的な語呂合わせも効いている︒しかしまた神話的に言えぽ︑こ
の形状は女性原理に属するもので︑後世﹁船玉様﹂が忠臣蔵のお軽
と由良之助の芝居のだじゃれに使われているように女陰の隠語でも
あり︑男神とは矛盾するものである︒しかも万葉集巻六の︑船出し
すみのえ おらひとがみ ふなのへ て無事に帰って来ることを祈った長歌に︑﹁住吉の 現人神 船舳に
うしは すむや
領き給ひ⁝ 荒き波 風にあわせず⁝ 速やけく 帰し給はね 本
くにへ の国辺に﹂︵一〇二9とあり︑﹁我が御魂を御船の上にませて﹂︵古事 記︶という表現は︑この神が帆柱にではなく水先案内のように船首 の舶に祀られた事を示している︒さらに船出したもとの港に帰って くることを祈っている点も考慮すべきだろう︒神名は一義的でなく 重層しているも.のであることからすれば︑必ずしもどれと定めるべ き問題ではないが︐津守連が住吉の津に祀った理由は津の男神とし てであったし︑それとともに船の舳に祀られる神であったことは確かである︵12︶︒
︵注︶
︵ユ︶関晃﹃帰化人扁︵一九五六年︶︑二七頁︒なお姓氏録によれぽ垂水
公の賜姓は新しく︑孝徳天皇の代︵忠窃−経︶に旱魑で水がかれた時︑
高樋を作って垂水岡基の水を宮の内に導き天皇の飲料水とした発明
から︑﹁垂水公﹂の姓を賜り垂水神社の祭祀権を得たという︒孝徳の
宮処が難波にあったことと右の姓氏録の記事に象徴される利水事業
とを考え合わせれば︑明らかに渡来人の技術である︒
︵2︶井上光貞﹁王仁の後窩氏族と其の仏教﹂︵﹃史学雑誌﹄5419︑一
九四三年︶︒水野正好﹁滋賀郡所住の漢人系帰化氏族とその墓制﹂︵西
谷正編﹃考古学から見た古代日本と朝鮮﹄所収︒初出一九六九年︶.
︵3︶天智天皇の子大友皇子が近江の渡来系氏族大友氏に養育され︑天
武天皇即ち大海人皇子が大海人氏に養育されたように︑彼も前述の
大津氏によって養育されたと考えられる︒ ノ ︵4︶令に規定される陰陽頭の役は︑﹁掌一一天文・暦数・風雲気色︑有レ異
密封奏聞事こ︵﹃令義解﹄︶であった︒
︵5︶岩波資本古典文学大系本﹃古事記﹄補注︒
一10一
︵6︶日本書紀本文で︑新羅からの帰途︑鎮・座地を要求した神々がこの
四神に相当するが︑そこに至って始めて︑︵1︶天照大神の荒魂︑︵2︶
稚日女跡︑︵3︶事代主尊︑︵4︶筒男三神と明確になっている︒
︵7︶この神の名告りに︑﹁日向国の橘小門の水底に居て﹂とあるが︑日
向は呉体的な地名をさすものではなく︑﹇ロに向かえる地という神話
的な表現である︵西郷信綱﹃古黙記注釈﹄︶︒また﹁橘小門﹂の地も不
明だが﹁小門﹂の名は海峡を措し︑神功皇后新羅征討伝説で考えら
れるのは関門海峡である︒墨江三神の名は水底から水面へという垂
直の方向をにない︑また﹁橘小門の水底に居て﹂ともあって︑ここ
では航海の守護神として移動するこの神の性絡は見られない︒もと
もと一地方の自然神だったと推定する根拠はそこにある︒なお王谷
栄繭﹃古事紀成立の研究㎞第二編・第四章﹁住吉の大神の性格﹂で
は︑門住吉神代記﹄の記述から︑住吉の神は元来生駒山に来臨する神
だったとし.はじめ農耕神だったのが︑後に河内と大和を結ぶ大和
川の水運の神となり︑さらに神功皇后伝説の生成に伴って航海の
神∵軍神となったとする︒住吉の神の僑仰を古代国家の紺外交渉が
深刻化した特代背景を重視し︑津守運との関連で考察を試みた拙稿
とは視点が異なる︒
︵8︶新潮日本古典集成︑西宮一属注鞠古事記﹄︒なお﹁珠﹂についても︑
仲哀紀二年七月条に艶滞津の海中から皇后が﹁如゜意珠﹂を得たとい
う詑述がある.
︵9︶倉塚嘩子﹁オキナガタラシヒメの物謡﹂︵槻文学㎞ 一九七四年八・
九月︶︒
︵10︶鞠住吉神代記輪の末尾に庶︑ ﹂天平王年七月五日 神主従八位下津守宿禰島麻⁝呂 遣唐使神主正六位上津守宿禰容人 の署名がある︒文献批判によって本書の実瞭の成立は平安時代とさ れているが︑ここに署名の見える二人は天平ごろの人と考えられる︒ これからすると住告神社には︑本・来の神主のほかに︑それよりも格 が高い﹁遣唐使神主﹂がいたことになる︒この︑二人の神主の制度 にも墨江の神の性格があらわれている︒﹁遣唐使神主﹂は遣唐使の船 に乗って使簾に同行したものであろう︵滝川政次郎﹃万葉律令考﹄︶︒ また︑実際の出自はどうあれ︑墨江の神の祭祀権を主張するかぎり ﹁神別﹂玩族を名乗るのは当然である︒ ︵11︶西宮一民注︵8︶に同じ︒ ︵12︶筒之男の︑筒﹂の解釈には他に︑津々浦々の﹁津々﹂とする説︵真 弓常忠﹃住吉大祇神代記﹄補注︶もある︒また離馬の大陸航路の要 う つ 港豆酸とする田中車説は︑この神が元来地方神であったとすれぽ捨 て難い︒
一・