8月19日 岡山県久米郡中央町打穴上 両山寺 護法実
「美作の民俗」280p
久米郡内に限り、護法祭という祭が数ヶ所の寺院で行われている。祭日は大てい旧7月14日~18日で盆行事と関 係がある。
護法祭を行う寺院は殆んど真言宗高野派であるが、護法祭そのものは仏教行事ではなく、山伏修験道が大きな割 役を持っているようである。それは
1、山伏が護法実祈りつけの先達をし、修験独特の神祗講式と不動の真言で祈りつけをする。真言バラオン、サ ラオン、ギャテイキガテイ、を唱える。
2、護法納めや護法実の落し役も山伏が担当し、錫杖経を唱える。
3、祈りつけは闇下で行われ、フラッシュは厳禁されている。
※以下斜字部分は、三浦秀宥『美作の民俗』第9章「護法祭」(吉川弘文館 S38)より引用
両山寺は久米郡最高峯二神山689.2mの南面8合目付近にあり、寺院から200mばかり道を下った所に同名の 小部落がある。約14戸。二上山は峯が2つに分かれていて北の方を城山、南の方を弥山という。真言宗高野派 で、寺伝によれば越の泰澄の開山といゝ2峯を続って盛時は東密、台密2系の28の僧坊があったという。弘法 大師が出雲に参詣して帰途作州を通ったところ 1 人の老人に誘われて当山に上りたが、そのとき岩穴から鬼の ような相貌の者が現われて自分は泰澄で、つれてきた老人は武甕槌命である。こゝに寺を開けと告げて消え失 せたという。
建治元年(1275)7月10日、僧走乗なる者が護法善神の神託を告げたのが護法飛の起源であるという。
両山寺は 28坊のうち現存する唯一の寺院で蓮華院両山寺といゝ本堂前の境内には樹令1000年と称せられる天然 記念物二上の杉があり、本尊、天竺毘首鞨摩作聖観世音菩薩、外に薬師堂、大師堂、十王堂、仁王門、鎮守社(二 上神社)がある。
現在、護法祭は天下泰平、風雨順時、五穀成就、万民豊楽の祈願であるとされ、村方では護法様は百姓の神様で、
護法祭に参れば厄病を免れるといゝ祭に用いた紙手(シデ)は頂いて帰り竹に挟んで稲田を立てると作が良くなる という。護法善神の恐し男を護法実(ゴホウザネ)と呼び、護法実の神がゝりの態を村方では「護法飛び」又は「お 遊び」とよんでいる。護法実に掴ったり、押倒されたりしたものは3年のうちに死ぬという。
護法実は寺院の行事ではあるが、その寺院の鎮守地神である護法善神の神託により祈願をするもので、その神託 の作法には修験場の作法が強く伝承されていると見てよい。
護法祭の祭祀者は現在は護法祭奉賛会と称する会でやる。この奉賛会のメンバーはもとこの山中にあった28坊及 び信者惣代より形成されているもののようであるが、要は護法祭に当って、昔から何か 1 つの役割を持っていた家 筋の者の集団でありその役割は例えば青竹を持って、護法実が飛廻るときの道筋を見物人に拂って警固する。こゝ で「サイカ」といっている役でさえ、その後につき祖先代々家筋が定っていて世襲となっているようで、その家筋 のうち、主要な役につくものは大てい山伏の資格を持っている修験道者で、両山寺関係は醍醐寺三宝院当山派に所 属するものである。
護法実は*村方信者の希望者より選ぶ。その選択方法はやはり祈りつけのとき、憑り易い性質の者と、そうでな い性質のものとあるので奉賛会のものが集って希望者のうちから栓議するがないときは、奉賛会の方から、適当と 思う人になって呉れぬかと頼みに行くこともある。
本年護法実をやった人は(中略)、過去5ヶ年間毎年続けてやっている。
護法実は1週間前、即ち旧7月7日から山に籠る。両山寺登山口、鎮守護法善神社の入口、塩場池入口、竜知水 池口の4ヶ所に注連縄を張り、以後毎日、塩場池にて昼21度、夜21度の塩垢離をとる。
1日1回は護法狂言神社及び両山寺本堂を巡拝するがその間途中他人との談話は厳禁、別火、護法善神社の傍にあ る籠堂に忌る。唯しこの7日間の行は現在可なり簡略化されていて、形式的となっている所が多い。
旧14日(新8月19日)は奉賛会員は早朝から両山寺に集って道具の準備をする。
榊葉 葉付の笹竹四本を束ねたもので紙幣を枝に掛ける。これは榊葉持の役のものが作る。
紙手(シデ) 中折40帖の和紙を撓じて、饅頭笠のような黒塗掛けの笠につける。この饅頭笠様の笠はもう少し 深くて丁度、鉄兜のような形で、紐で後で護法実の頭に被らせるように出来ている。
手火(テビ)と呼える。大きな先太の松明2本を造る。長さ約4m、径は先の方で60cm、根元で30cm位、芯 は麦稈、周囲を古い割竹で形を整え、その上から21ヶ所を縄でしばったもの。これを本堂の正面外柱左右に立てか ける。
外に法螺貝、半畳と呼ぶ護法実が坐る座、サイカの持つ青竹の杖、護法実がつける胸当、等は毎年のを用いる。
この用意が整うと、紙手切りの牡丹餅という糯餅という糯餅に大豆粉をまぶしたものが全員一同に出る。
このとき「護法祭式供名記」という役割と、その氏名を認メた書物が送られる。これは毎年新しく書く。
中央町の町役場の人々の世話で、駅前の亀の舎という旅館に行って夕方、こゝから両山寺まで車で行くことにな る。その間いろいろ中央町のことを開き、夕食もこゝでする。
亀甲という地名は可なり珍しいものであるが、これには前記のような伝説がある。この地方はなお純然たる農山 村の姿で、丘陵*の殆んど山頂近くまで階段畑が耕されてあって、屋敷は殆んど山腹又は山頂近くにあり、谷筋の 平地という平地は殆んど残る所なく稲田となっている。大てい米、麦の二毛作、又は稲、たばこの二耕作という。
車は国道53号線を直ぐ左に入って打穴西から宮代を通って境に出、滝谷ダムの右山腹を縫うて大垪和に出、両山 寺の山門のすぐ下まで通ずることは通ずるが、硝石道の相当ひどい道である。何しろ海抜680mもある高地で、瀬戸 内まで臨むことができるという丈けあって、可なり涼しい。ヒグラシ蝉が盛んに鳴いていた。
夕方、奉賛会員中の院代役を勤める人の案内で、護法実が塩場池で水行を行うところを見学する。両山寺の後の 山中を上った弥山と城山との境にある凹地にあって、池中に水神を祀る石が立っている。指さゝれて始めて分る程 の凹地が、その周囲に7ヶ所あって塩場7池というが、そのうちの1つ明かに水を湛えたものが、水行の場となっ ている。護法実は朝夕この池に裸になって入り、杓で21回水を浴びる。往復の道中は白衣、水浴をして帰途には護 法善神社に詣って、提灯に明りをつけ、その傍の篭堂に入る。もう日はとっぷり暮れていた。
14日の日が正面の山から登って、誠に仙境を思わせる。両山寺の客殿を自由に使ってよいことに住職から許が出 てそこで、行事の始まるのを待つこととする。この間お詣りした岡山県会議員の宮尾さん等に大垪和の民俗につい て話を聞く。
護法祭に必要な道具一切は華連院の客殿で整えられるが、まだ明るいうちにその全部を一先づ本堂内陣の本尊の 右側に設けられた祭壇に移される。このときもはやり行列を整え夫々諸役が奉持して法螺貝を吹き、大太鼓、小太 鼓を打ち鳴らし、榊葉、紙手を捧げて行く。手火はそれまでに本堂前西階下の両柱に縛り付けてある。このとき内 陣へ簡略な読経、灑水がある。
毎年書下ろす。護法祭式供名記の最近のものを拝見して比較した。その順序に従って記すと
院代 明治39年のものには院代という名称の替りに「御案内」とある。山伏の資格のある者 神燈持
螺吹一番 螺吹は1番から17番まで列記されている。この人数は変化がある。明治43年には13番まで、明治 39年には13番まで、明治39年には12番まで必ずしも当日、17人全部集るというのではなく、螺 吹役として奉讃会に登録されている家筋のものを記入したものらしい。このうち山伏の資格を有す るもの数人ある由。
前手火持 4人。やはり1番‐4番の番号により4名の名が記されてある。行事が始まる前に本堂柱に立てゝあ る手火(松明)を解いて、これに火を点じ階下の十王堂前の庭に置く。その火の守をする後である。
本堂に向って左の柱にくくってある手火が下へ持って行かれる。これを前手火という。
後手火持 1~3番まで3名。本堂前の広場中央より向って左側で焚く。
両手火は行事中の照明である。手火を作るのは奉讃会の全員が集って作る。手火持はこれを焚く守 りをする役である。
大太鼓持 1~5番まで5名 大太鼓打 1~4番まで4名 小太鼓持 1~4番まで4名 小太鼓打 1~3番まで3名
紙手持 1名。客殿から本堂へ、次に本堂から護法善社へ往復。これは行事の前後に2回運ぶ役である。山伏 の資格を持つ者で、紙手を持つと自然に飛上るようになるというので、次の腰取が、両方から腰を つかまえて行く。
腰取 29名。これには番号は入っていない。明治39年の供名帳には僅か4名があげられている。これは考 えなければならぬ変化だと思う。腰取は前記の紙手持の腰をとる役のみではなく、重要な役は護法 実の腰をとる役である。
いづれにしても護法実は素人であって、護法様が乗移ってお遊びになるとき無我で飛廻るので、ど んなことになるか解らない。そこで護法実の腰にしがみついて、自由に遊んで戴くようお守する役 である。特に後述のように両山寺は鳥護法といって、よく飛上る。伯耆大山のグヒンが飛んで来て 二上杉に羽を休めて護法実をうかがうので、ときに2m位も飛上ることがある。これを押える役をす るのである。
榊葉持 1人
半畳持 1人。本堂内陣で護法実が仕度をする(紙手を被る)とき、及び外陣で折りつけのとき、坐る筵で大 きさは畳半畳位。八角形のもの。
サイカ 1番~8番 8人。黒の胸当をし、青竹を持つ。一般参詣人の警固役であるが警固という名称は別に あって、サイカという。お遊びのとき走り廻る方向をよくわきまえて、道をあける役をし、掴まら ないよう、持っている青竹で護法実を導く。
添サイカ 2名。奉讃会員のうち事情により参加できない家の代理のもの(男子の小供)が替りに出る。
この供名帳は、言はば、その年の奉讃会の会員録とも見られるもので両山寺の院主、井上観潤さんが山主として 最後に署名している。
山王の役は当日の諸勒尊を始め、護法善神の迎神、外陣清め、護法実の祈りつけをし、護法神のお遊び中内陣に 籠って、他人を入れず御法楽修法を密修する。次いで護法実の神降しをする。
これから判断すると護法祭は明かに修験行法の一部と見られる。即ち、言葉は甚だよくないが奉讃会となる修験 宗徒(奉讃会という名称は、名称がないので最近つくった由で、それ以前は講、又は座というような名称は全然な かった)が夫々家伝の法規により1 人の宗徒外の信者を招いて、護法実としてこれを、憑代としての神の姿を山中 に再現する祭儀と解される。
「明治三十六年癸卯年七月改写」と表紙書にある「二神山鎮守護法祭式行事記」によれば護法実は「尸人」の文 字が用いられている。
14日午後11時頃、本堂前広場、石段に向って左の所で1番螺が吹かれる。これは1~17番まで17人が全員揃っ て吹くのではなく、供名帳はあくまでも役割の現在員の記名であって、実際はそのうち6~7人の人が法螺貝を吹い た。續いて約30分後に2番螺を吹き、更に30分後、丁度、午前零時頃3番螺を吹く。3番螺は山主(蓮華院住職)
の出仕をうながすべく、院前門口で吹く。ついで山主出仕となり改めて本堂前の所で貝を吹く。
後、山主は役員を伴って本堂内陣に入り祭壇前で、役員の1人が供名帳を1人々々読あげる。後、装束改めがあ って一同は神迎えのため行列を整え、法螺、太鼓を鳴らしつゝ護法善神社へ向う。このとき紙手持は紙手を頭上に 捧持し、榊葉持はその後に従う。老杉の山中にこの行列は山を登って行くが、護法実はそのとき籠堂を出て護法社 の境内踏石に足を下し、少し前かがみになって護法社に背を向けて待っている。一行が到着すると護法実は岩から 下りて護法社と向って拝し、両山寺山主が扉を開いて金幣を出し、これを護法実に授ける。護法実これを受け額に 捧持すると山主の加持祈祷がある。護法実はこの頃から身体を左右に揺り初める。
下山は登山と同様の行列で、提灯持、法螺貝、紙手持の順で、紙手持の次に護法実が進む。白衣、白足袋はだし、
紙手持にも護法実にも腰取がつく。榊葉持はこの時は、さゝばやしを護法実に後からさしかける。護法実は道々盛 んに跳めてさゝばやしから飛出しそうになり、腰取はこれを押える。
本堂内に迎え入れられた護法実は切火水をうけ、金幣を祭壇に奉安すると、役員の助けを借りて護法実は紙手を 頭上にくくりつけ背と腹に卍を染め抜いた紺の袋状の上着を着、同じ色の股引をつけて、外陣に出る、がじっと見 ていると暴れて動き廻る。護法実を役員ことに腰取が大ぜいかかって無理やりに着付をしているように見える。半 畳持が携えて来た半畳を外陣の中央に敷くと護法実は、あぐらをかいたように坐り、両手でサヽバヤシの柄の所を 持ち、サヽバヤシの下端の所を自分の両足裏を合せて挟み、少しうつ向いた姿勢となる。このとき全部の灯火が消 される。残っているのは庭の前後の手火の明りと内陣の灯明のみとなるが、その暗黒の中で、山主が護法実に立ち 向い祈りつけの呪文を唱える。この間大太鼓、小太鼓が初め続く次第に急調に乱打され、法螺貝が吹鳴され、錫杖 を振る山伏や青竹をついたサイカが護法実をとりまいて「ゴウヤ、ゴウヤ」と連呼する。その間護法実は両膝を押 えつけられているが手に持ったサヽバヤシをはじめ静かーに前後に揺らせるが、次第に激しく前後左右に揺り動か す。
この祈りつけが前後 3 回繰返された、とケイゴは「トウ・トウ」と呼び続けるが、そのとき護法実は腰取が押え ているにも係らず、さゝと飛上るという。これを護法神が「ノリウツッタ」という。
いよいよお遊びとなる。護法実はサヽバヤシを投出して境内へ躍り出る。そして1人で自由に駆け廻り、ケイゴ、
サイカがその後を追う。始め大へんな勢で石段を駈け下り山門の左側の道を五智如来のある藪の暗がりの方へ走っ ていった。間もなく引返して来て、下の広場を無鉄砲に走り廻ったが、それにつれて、見物人は逃廻る。若し掴ま る者があると山伏の錫杖でこじると離すという。遊び疲れると本堂の右側にある休み石に腰を下す。腰取が膝にか
けさせて後から抱いてやったり、膝を撫ぜて揉んでやったりするが一休みすると又飛出す。
途中外陣に駆け込んで正面を拝むのを「一遊び」といゝ当夜は「二遊び」して、三遊び目が終るとき護法実は本 堂内陣の方へ駆込むのである。
お遊び中山主は内陣で秘法を修し、途中で護法神が落ちないようにするという。
護法実が休み石に休んでいる間も落ちないように法螺貝を吹いたり呪文を唱える。
護法実が内陣に入ると待っていた山主が灑水して加持すると始めて護法神が落ちる。護法実は紙手を脱いで白衣 に着替えるが、それまでの自分の行動については全然記憶にないという。
直ちに御送神の行列に移るが、このとき護法実は樒の葉を口に咥え、金幣を捧げて、サヽバヤシを榊葉等にかざ されて行くがこのときはもう飛上るようなことはない。正気である。紙手持も同様護法神社で金幣を神社に収める と一同山主の客殿に帰り、そこで山主の挨拶があり、神酒を頂く。大てい夜が明けるまで、客殿でごろ寢をして朝 になって帰る。
終了したのは午前2時半ごろ、今年は少し早く大てい朝4時頃となる由である。
この頃は学生や他所からの見物が多く、信仰による参詣人以外のものが可なり入り込むので、次第にやり悪くな るという話であった。そのため、祈りつけの始めるとき消灯と同時に、フラッシュは止めて欲しいという申入があ ったりして、この点可なり護法実の神経を刺激し、神移りが難しくなり、又途中さめ易いと護法実の山本さんから 聞いた。
住職の話でも最近護法実になるものが少なくなって困るということで、あっても進行かでなく 1 度ほんとうに神 移りになるか試して見ようという気持の人が多く、こんな人は滅多に神移りしないので、平常から、その人の素行 や性能をよく知っている人から撰ばねばならないので甚だ難しいとの話であった。
両山寺の早暁は寒い程の涼しさで谷々の緑が美しく、深い霧が谷底に沈んで非常に美しい。
護法祭は久米郡を中心に数ヶ所で行われている。その伝承に詳しくいえば 2 派あるようであって鳥護法と犬護法 とに分れる。この両山寺(旧7月14日)を始め、恩性寺、一宮八幡宮(共に15日)は鳥護法といゝ護法実は鳥の ように飛ぶ様をして遊ぶ。而してその飛上るのを押えるために腰取役がつく。
犬護法というのは両仙寺(15日、中絶)清水寺(16日)のやり方で犬護法には腰取はつかない。護法実は1人で 自由に走り廻り、時には縁の下にもぐり込んで、どこから出て来るか分らず、暗がりから急に這出して来ることが あるので、見物人の方では、この方は仲々恐ろしいという。
両山寺では当夜(旧 14 日)護法実の始まる前に宵の内に山門内左側の崖下にある墓地へ墓参りをする人が多い。
「火とばし」という。新盆の家の人ほど賑かにする。墓の周囲に数本の竹の蝋燭立を立てゝ、それに明りをつけ、
墓前に花やだんごを供え線香を焚く。水を墓に注ぐ。
雨乞、大垪和では両山寺の住職に頼んで、弥山の御塩場池の水を枡で汲出して雨乞をした。和田社では竜地へ寺 の鐘を持って行き、その吊手(龍)を池の水で洗うと雨が降るという。
久米南町川西では雨乞をして雨が降るとそのお礼に八朔にバンバ踊りをやった。
両山寺での夜、話の間に「サルマヤ」の話が出たが、それなら自分の家にあると宮尾さんがいったので、早速翌 朝 6 時というのにそれを見せて貰いに大垪和の宮尾さんの宅を訪ねることになった。宮尾さんのお宅は道から少し 田の畦を山腹へ登った所にあり、非常に立派な茅葺入母屋造りの屋根の家で、棟に「からすおどし」が11ヶついて いる。からすおどしの数はその家の間数を表わすといっており、絶對に偶数にはしない。
宮尾さんの家も、もとはウチマヤであったが酪農を始めるようになってソトマヤに改造したという。門を入って 主家と並んで左側に別棟のマヤが出来ている。マヤは中央に細い通路があって表と奥と 2 間に仕切られ四五頭の乳 牛が早朝からの混入者をうろん臭いと眺めていた。
サルマヤはその中央の通路の梁に小さな祠をつけ、その中に祀ってある。猿の首で、頭毛も眼もそのまゝミイラ のようになっていて、永年の埃を被ったまゝその箱の中に左方を顔に収めてあった。
この地方では牛馬をサルマヤに置くと丈夫に育つという。この猿の頭骨は昔岩手県からトランクに入れて売りに 来たという。価格は米半俵位で、申の日に買った頭骨がよいとされていた。
この辺に昔地付き歌の上手であったお婆さんが居たというのでその足で訪ねたけれど、これはその歌を歌はせる のに失敬して引あげることとした。
(表紙)明治三拾六癸卯年旧七月改写二上山鎮守護法祭式行事記両山寺印〈□囲〉---当山鎮守護法善神祭式行事毎年例式旧七月十四日執行一十四日旱天山内寺院及信者惣代当寺へ出一、紙手切一榊葉一警護道具一役配認メ替へ薬師院主役一右道具清メ一本堂神勧請当日午後五時一一応一同退散一十四日夕一壱番螺当夕後十二時一弐番螺仝十二時丗分山内寺院及信者惣代出仕一参番螺午前一時一同本坊出寺尚役付人本堂内陣ニ集合一本堂出仕一同内陣揃ヒノ上役配朗読役付人装束一御迎神薬師院主任一神躰降堂一金幣奉安山主金幣ヲ尸人ヨリ講取リ神ニ安置一切火水神前二個ノ切火一ツハ山主、一ハ尸人夫ヨリ順次左右ニ配水一尸人装束一尸人清メ院主灑水一外陣清メ灑水薬師院主任一御祈リ但外陣ハ一切消火ノ後ノ事一御法楽一修法山主秘法密修
護法実。鳥護=腰を持つ、腰持ち、大護=自由に放つ、と形成がある。
両山寺、もと2424坊、現在薬師寺一寺。
亀甲岩の伝説、日本廻国の六部が行倒れた。里人が憐んで埋葬すると月の若い一夜見る見る大きな岩が弘法大師の 像を乗せてせり上ったと伝う。
護法実になる人、山本衛41才
塩場池は7ヶ所ある。児島湾の海水と満干を共にすると伝う。
護法実になる人以外の行事の諸役は世襲、約60戸あり。名称は(集団)のない、現在は奉賛会という。
塩場垢離をしてあと両山寺の守護神にお詣りして実は家へ帰る。実は五年続けてやっている。41才当夜は人々が新 盆の墓へ火をあげる。「火とぼし」、水浴びはしゃくで21回。
〈タテ〉
縄で21ヶ所くゝる。長さ約4m
〈タテ終〉
心は麦わら、割古竹 神かんじん
住職→小大鼓→大鼓2→シデ→笹、大太鼓2人で叩く。
法螺貝は実が吹く。
14日の百姓始め、苗代へ朝のうちに一鍬打って納屋へ*を一鍬持って来って、農具と共々祭る ホトホト(戸の外から叩いて物をもらう)杓を持って叩く
尚法楽中内陣へ他人ヲ入レズ一降神一降神加持山主役一降神清メ山主役一御送神御迎神仝前一役付解散一主任退散一閉式以上祭式行事丁次右執行尸人行法規定一例年旧七月七日旱天登山一本坊書院神前勧請一護法殿幣帛新調一御山頂上神勧請幣帛新調一宮坂口社前入口、塩場入口、龍智水池口ノ四ヶ所七五三張り一昼二十一遍夜二十一遍ノ水行一毎日一度宛御山社殿本堂本坊ノ七堂伽藍巡拝一道中他人ト談話物語ハ厳禁一夜行モ前仝様一七日ヨリ十三日夕迄デ本坊内陣前勤行十四日朝ヨリ社殿前ニ於テ勤行ノ事但シ時トシテ人ニ依リテ今日夕刻ヨリモアルベシ一、尸人ハ疾病又ハ相当ノ事故無之限リハ中途ヨリ他人ト墺ユル事ヲ禁ズ一尸人ハ平素温厚篤實ニシテ信心堅固ナル人物ニ非ラザレバ嘱托ヲ許サズ一尸人ハ一度所刊ヲ請ケタルカ又ハ之レニ類似シタル行為アル者ハ許サズ一尸人ハ自個ノ信心又ハ義務ニテ務ムル者トス但シ前條々ノ外細規ハ当時山主ヨリ伝達スル事已上右慶応二丙寅歳七月二日於両山寺本坊蓮華院内写現務 桜井観雅謹写明治九丙子星旧七月十三日於本坊内現住 井上篤暎謹写明治卅六巽卯天旧七月十九日於両山寺内住職 井上観盛敬書
二上山蓮華院両山寺、創立元明天皇和銅七年、開祀泰澄、護法祭式供名記 院代、後藤秀道(山伏の資格あるもの)明治39年もと「御案内」具は12名 神灯持、朝原行道、提灯を持つ
螺吹一番 二番 三番 四番 五番 六番 七番 八番 九番 十番 十一番 十二番 十三番 十四番 十五番 十六番 十七番
山本副太郎、17人。*人修験、修験道の伝者、このとき山伏の資格を持っているもの三四名、一番貝、二番貝、三 番貝で行事が始まり、昭和43年は(十三番まで)
前手火持4人、後手火持3人 大太鼓持5人、大太鼓持4人 小太鼓持4人、小太鼓打3人
紙手持1人、迎えに行くときに持つもの 腰取29人、明治9年には5人
榊葉持1人 半畳持1人
サイカ一番~八番8人。警護、榊を持つ 添サイカ2人、補助
別に、警固、子供、実の周囲をめぐる。
向って右が上、左が下(手火)、これは決っていない。
下へ持って行った方が前手火
久米誌より、金屋(福岡村)建武以前百済源治という者が河内国から来てこゝで鋳物をした。森忠政津山に封ぜら るゝや對岸瓜生原の鋳工と共に招いて津山に移らせた。そこで津山に吹屋町が出来た。百済氏居住の跡は字残屋に ある。桑畑中より今もなほカナクロが出る。金屋は釜屋の転じたもの。後醍醐天皇吉井川を渡らせ給ふ時官女(三 位局)を百済氏の釜に入れて渡したという伝説がある。
籾種石、垪和村大字中垪和畝
二石*並んでいる。*年盗賊群起し邑内の百姓戸毎に劫掠せられて種籾さえもなくなったある人ひそかにこの両石 の間を穿ち米穀を収めおき賊散去した後取り出してこれを蒔いたという。傍に盗賊石あり。紙手切り牡丹