• 検索結果がありません。

世界自体の構造化が認識の構造化に先立つ

§4.4の(60)で論じた,{攻撃,防御,妨害, . . .}の生物個体の相互活動に関係する概念ク ラスターと{売る,買う, (お金が)かかる, . . .}の売買事象群に具現化されている概念クラ スターとの質的違いに関して,一つ重要な点を強調しておく.

(62) a. 売買事象群の構成要素は社会的,文化的な事象であり,その概念クラスターの 成立基盤は(単なる)ヒトの社会特有の慣習(conventions)かも知れないが,

b. 相互活動の概念クラスターの成立基盤は慣習ではなく,自然の因果律(natural causalities)である47)

これが意味することは幾つかあるが,その一つは明らかに(63)が成立することである.

(63) 客観的実在論(objectivist realism) (再興)の可能性

a. 客観的実在としての世界は,それ自体が構造化されており,それは生物個体 (例えばヒトの個体)の認識が構造化されているのに先行している.

45) この際,彼らは異なる二つの文s,s0(例えば能動文sと受動文s0)同義性と独立に,彼らの言う( 知的)同一性の判定条件を示すことはしない.従って,生成文法家の言う認知的に同一の概念は,せい ぜい「よくできた循環論」に過ぎない.

46) 可能な限りふさわしい用語を選ぶのは重要な作業だが,それは必須の条件ではないと私たちは考える.最 終的に重要なのは用語の選択ではない.定義の内容である.何が不変化要素で何が変化要素が明示されて いるかが明確であれば,用語の問題は二次的である.

47) ただし,これは力学の法則のような自然法則(laws)ではないだろう.

4 状況をフレーム構造として記述する 39 b. 生物個体(例えばヒトの個体)の認識,認知の構造は,第一に外界に客観的に 存在する構造化された世界を内面化するために機能する.それが()主観性 ((inter)subjectivity)のような性質をもつのは,派生的で二次的な特徴である.

また,(63b)を説明するために,次のような仮説を立てるのは魅力的だし,おそらく有

意義だろう:

(64) 生物個体(例えばヒトの個体)が一定の認識の構造をもつ理由は,おそらくそれに よって生物個体が,そうした方が(そうしないより)環境にうまく適応できている からである.

これが正しいとすれば,それが Lakoff-Johnson 流の経験論的実在論 (experiential realism) (Johnson 1987; Lakoff 1987; Lakoff & Johnson 1999)に対して意味することは 軽微ではないが,本稿では深くは立ち入らない.ただ二つのことは明言しておく:

(65) a. アフォーダンスの理論(theory of affordances) (Gibson 1979; Reed 1996; 三

嶋2000; 佐々木1994)は根本的に重要である.それを無視するような理論は,

認知に関する妥当な理論ではありえない.

b. {攻撃, 防御,妨害, 察知, . . .} のようなクラスターの認識に自然的,客観的基 盤を積極的に認めず,それに代わって,その成立基盤が「メタファーによる概 念化」だとかいう荒唐無稽な主張を許すような理論は,妥当な認知の理論では まったくない.それは「腐れ人文主義」に毒されたクズ理論である.

第一点に関してもう少し言うと,アフォーダンスの理論の重要性は,ここから発してい る.それは,構造化された世界を環境という形で規定し,その認知構造との係わりを非循 環論的仕方で議論することを可能にし,それによって「経験とは何か」という“経験的問 題”をヒトの認知構造に還元しないでマジメに扱う(現在のところ唯一マトモな)科学的理 論だからである.

4.5.1 なぜh時間は資源であるiが概念メタファーではないか

「腐れ人文主義」とはずいぶんな物言いだと感情を害する人もいるかも知れない.だが,

私たちは経験主義的実在論(だか何だか) (Johnson 1987; Lakoff 1987; Lakoff & Johnson 1980)や身体性基盤実在主義(だか何だか) (Lakoff & Johnson 1999)の次のような議論を 読むとき,そのバカバカしさに同じくらい感情を害す.

LakoffJohnsonは,{You have some timeleft; You’veused upall your time; . . .}のよ うな語法の説明にTIME IS ARESOURCEという概念比喩を使っている(Lakoff & Johnson 1999: 161–169).その定義は,“The Time Is A Resource Metaphor is a mapping that applies to a conceptual schema that characterizes what a resource is” (: 161)という ものである.

だが,こう規定された TIME IS A RESOURCE は明らかにメタファーではなく —

4 状況をフレーム構造として記述する 40 少なくとも TIME IS MONEY がメタファーであるのと同じ意味でメタファーではな く— その実体は単なるカテゴリー化(categorization) —より明示的には下位クラス化 (subclassification)—である(実際,Lakoff-Johnson流のメタファーの定義は根本的に破 綻している(黒田,et al. 2004b)).

何かがh資源iであるとは,それに十分なh価値iがあり,ある程度のh需要ih満足i させるh供給i量はあるが,だからといってすべての需要を満足させるほど十分にも存在 しないという,[[限定された利用可能性]]という特徴をもつことである.

資源と見なされるためには価値があるだけでは不十分である.希少価値を生じるほど価 値のありすぎるもの(e.g.,ダイアモンド)は通常,資源とは見なされない.資源であるた めには,それはh不足ih避けiられうる程度にはh十分に存在iし,h利用者ih供 給iされていなければならない.

この意味での限定された利用可能性という性質は非比喩的に,自然的に数多くの存在物 の有する特徴である.近年は,清浄な水や空気ですら資源となりつつある.

“時間は資源である”という下位クラス化は—石油が h資源iであるのに較べれば抽象 的であるが— “文字通り”のものである.石油と時間の違いは,後者が物理的実体でない ということでしかない.

時間が限定された利用可能性をもつことを理解するには,限定された利用可能性が二通 りの仕方で発生することを理解すれば,事足りる.一つは,h利用対象iの側の存在の有 限性で,石油の資源性はこの有限性の現われの最たるものである.もう一つはh利用者i の側の存在の有限性で,身体的有限性(例えば,胃袋の大きさなど)の資源性がこの有限性 の現われの最たるものである.

時間が限定された利用可能性がもつのは,ヒトの個体の寿命が—他のあらゆる生物種の 個体の場合と同じく—有限だからである.これが時間がなすべきことの多い個体にとっ ては資源となることの非比喩的な,単純明快な説明である.

h時間は資源であるiが概念メタファーではなく下位クラス化であることの事実レベル の証拠としては,Time is like moneyに較べて??Time is like a resourceが奇異に聞えると いう事実がある.このような効果が生じるのは,後者に“like”が前提とするカテゴリー 誤謬が伴っていないからだと考えるのが,もっとも自然な説明であろう.このような効果 があるのは,“Xis likeY”の意味が(IKNOW)XIS NOTY, BUT(I’D RATHER SAY)XIS LIKEYのように近似できるものだからである.

4.5.2 “強い説明の誘惑に屈しないために

重要なのは次の二つの点を区別し,混同しないことである: (66) a. 概念拡張の存在:

概念C(どういう仕組みによるものかはわからないが)概念C0拡張 れていること,

b. 概念(比喩)写像による概念拡張の“説明” (あるいはモデル化):

4 状況をフレーム構造として記述する 41 Cに概念(比喩)写像が働いて,その結果としてC0が生じていること

Lakoff らの説明は,(メトニミーを除く) ありとあらゆる概念拡張の事例を (66b) で

「説明」しようとし,その結果,見事に失敗している.なぜか? 理由は簡単である: (66a) が妥当する現象に対し,そもそも (66b) で説明しなければならない必然性はないから

である.(66b)よりも“弱く”,単純明快な説明があれば,そのほうが常に好ましい.経

験科学は常に“より弱い” 説明を求める.弱い説明を求めるとは,可能な限り過剰般化 (overgeneralizations)を避けるということである.

これに対し,人文系の研究者は可能な限り“強い”説明を求め,過剰般化に奔る傾向が 顕著であり,それ以上に,自分たちが経験科学の説明の妥当性の基準から逸脱していると いう自覚がない.この傾向を,私たちは「腐れ人文主義」と呼ぶ.

4.5.3 めったにないハズレを避けるか,めったにないアタリを狙うか

二つの評価システムの違いを喩えて言うと,理論の予測のアタリとハズレの評価的価値 が根本的に異なるということになるだろう: “弱い”説明を求めるモデルでは,アタリは当 然であり,ほとんど価値がないが,ハズレの価値が致命的に低い.これを体現するのは

「得点なしの減点法」である.これは得点能力の高い競争者同士の比較に有効な評価方法 である.

これに対し,“強い”説明を求めるモデルでは,ハズレは当然であり,ほとんど問題に ならないが,滅多に得られないアタリの価値が高く評価される.これを体現するのは「減 点なしの得点法」である.これは得点能力の低い競争者同士の比較に有効な評価方法であ る.また,減点なしの得点法が前提となる評価システムで奨励されるのは「口から出任 せ」方略,「下手な鉄砲,数打ちゃ当たる」方略である.そもそも絶対的にアタリの数が 少ないのだから,これはしょうがいないと言えば,しょうがない.

腐れ人文主義が後者の,得点能力の低い競争者を比較評価するためにシステムに根差し ており,そこで狙われている説明のレベルが,前者の評価システムに較べて根本的に低い ことは,明白である.

要点を繰り返す: h時間は資源であるiという下位クラス化において,確かにh資源i 概念は拡張されている.だが,この概念拡張が概念(比喩)写像の結果でなければならな い理由は,どこにもないし,そればかりか,このような拡張は比喩によらないで,脳内の 知識の「分散表示,分散制御」から自然に帰結する現象だと考える方が,ずっと理に適っ ているということが私たちが言いたいことである.結局,h時間は資源であるiという見 立てがデータとして示しているのは—概念拡張の何によるものであれ— (66a)の規定す る概念拡張の事実であり,(66b)の妥当性ではない.

なお,私たちがここで擁護しているような非メタファー的見解に対する反論もある (Lakoff & Johnson 1999: 165–166)が,これは単に“resource”という語の意味,あるい はRESOURCE概念に固有の意味調節/調整の効果,正確には(“花見”の“花”が[[]] か指さないのと同じ)潜伏性実例化の効果(implicit reification effect)の現われに過ぎず,