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意識の志向性より存在の矛盾性へ(一)-香川大学学術情報リポジトリ

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Academic year: 2021

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鵬 意識の志向性より人間の関心性へ + フツセールの意味する純粋意識が、意識の一般的特性としてプレ.ンクーノによつて明かにせられた志向性を、 その特性として有つことは今更いふまでもない。その志向性がフツセールに於て如何なる意味を有ち、またそれ が彼の現象単に於て如何ほど重要なる使命む負はされてゐるかといふことも、今や周知の寄柄としてこれが詳述 を省いて置かう。そして今は只、その志向性が一般認識論に於て最も重要視せられる主観封容顔の問題と如何な る関係に於て存するかを見ることより進んで、それがハイデッガーの人間の関心性と如何に脚係し氷るべきか明 かにすることに、兜づ主として考察の脆障を限定しょう。 ︳ヽヽヽヽヽ ブレンク﹂ノが意識の志向性を解して、封象の志向的内在︵ロ訂iコteコtぎa−e言x致eコNeぎesGegeコS訂コdes︶と なし、それを以て各意識が自らの中に或もの︵etwas︺を客観として包有することであるとなしたことは有名であ

第八巻第二渋

意識の志向性より存在の矛盾性へ ⋮

︵仙二〇︶ 二二

(2)

︵2︶ ︵l︶ る。これと同じ意義をフツセールは或ものについての意識たること︵BewusstseiコV。netWaS2Sei⊃︶なる富貴で 硯はし、これを以て濃験の仙般的特性なりとする。、かうした叙述に於ても明かなる如くそれは嘗然意識がe冨as に向つてゐること︵Ge﹁き什etseiコ.a享etwas︶であり、随ってそこには必ず向つてゐるものと向はれてゐるものとの 封立がなけれぼならぬ。その向つてゐるものが純粋自我︵reiコeS︼ch︶であり、向はれてゐるものがetwasである。故 に純粋自我を主軸的作用面とすれぽこれに封する或ものが客観的到象面となる。かくて志向性は常然主観が志向 ︵3︶ 的客親に向つてゐることである。さうして志向性は鱒験の特性なるが故に、鰐験に於て主観と客概の両方に位憶づ ︵4︶ けられた二側面を区別し得ることも明かである。然らばこの向つてゐる︵r許芝eコ︶とか位筐づけられる︵Or百tすte︶ といふことは叫鱈何を意味してゐるであらうか。フツセールはこれを注意してゐること1か、或は精神の眼を向 ︵5︶ けてゐること1かの言葉で規はしてゐる。かくて志向性とは主翫が客観を目指してゐること1解される。然らば フツセールに於てこの主観が客観を目指すといふことは果して如何なる意義を有つであらうか。 今現象拳的立場を自然的立場や論理的立場から置別して考へる時、フツセールに於ける主観封客観が、自然的 立場や論理的立場の与れと、全く異れる意義を有してゐることはいふまでもない。自然的立場に於て考へられる 主観は、常に時貧困果の範疇内に寄嘗的存在として嘗在する自我であり、普通の心珊箪が探って以てその研究封 象とするところの精神作用である。またその客観はかゝる粍榊作用からは仝/・、超越的に、それ自ら猫立にaコS昏 に賛在する ー と猫断せられた − 軍苦闘係内の外的世界である。そしてそれら開音の関係もやはり例へば為し 忠誠の志向性より存衣の矛盾性へ 〓二こ こ≡

(3)

〇二二︶ 二四

菟八巻 節二渋

為されるもの1間の関係の如く全く事質的である。かくて自然的立場に於ける主客関係の成立のためには、各々 端正し空こつの存在がその構成要素として激安されねぼならす、而もそれらはすべて陣容因凝の範疇内に嘗蒸す るものでなけれぼならぬ。勿論その場合例へば幻覚などの瘍合の如︿、封象としての外的事物が事嘗存在しない こともあるであらう。けれどもかゝる坂合と雄も封象はやはり寄嘗関係内に存在する幻兇作用に封應して驚在す るもの即ち幻覚されたものとして存在するのである。普通常識的見解は固より、料率的見地に於てもかゝる主客 関係を以て最も明瞭不可疑のものとする。けれどもフツセールに於てはかゝる事嘗関係内のすべての客親は只陰 へ6︶ 影づけ︵きschattuコ巴の閲係に於て知覚せられるものに過ぎす、その最も明瞭に知覚せられる場合と雑もそれは 結局外的知覚たるを免れす、そして外的知覚たる限りその陰影によつて飽満せしめられ、そのためにその陰影の 因つて生する根汝を求めるに由なきものたるのみである。偽ってかくの如き主観客観及びその間の関係が、すべ てを内面的意識的に親ぜんとする現象螢的立場からは去外せられ、その領域から重く排除せらるべきものたるこ ︵7︶ とはいふまでもない。現象革猫特の還元的方法は賓にかゝるもの1排除のために主として存するものである。 次に論理的立場の見解は、主客の関係を全く形式的に規定する。この場合義朝も客観も共に軒黙約立場に於け る如く時基因典の客質的関係内に存在する必要がない。秦親は例へばカントの意味する意識⋮般の如き超経験的 普遍着たることができ、それに封立する客観も時重囲果を超越せる普遍着たることができる。この主客の封立は 現にその如く存在してゐるものではなくして、論理的にその如く存在せねぼならぬとされるものである。例へぼ

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右なる概念は左なる概念を預想し、上は必ず下を預定せねばならぬ如く、主観は必ず客観を、客孤は必ず主親を 預忽せねぼならぬとする。即ちすべての相封概念Ⅵ於て然る如く、主観客観は互に他を必要とし、一は他を必須 ︵8︶ ︵9︶ 的のものとして預走する関係にある。障って主観には客研が、また客観には主観が、論理的必然性を以て依屈し てゐなければならぬ。それが革質に於て在るか細いかの寄蜜問題︹quid訂ntCではない、必ず在るとせられねぼ ならぬ要請の問題であり、また在るとなL得る樺利問題︵官djuris︶である。かくて論理的立場に於ては意識作用 は必ず意識内容を必要として要求し、主客の封立は互に要請せられることによつて生ぜしめられた意識主観と意 識客観との封立となり、その間の関係も全く形式的論理的に規定さるべきものとなる。意識主観は一般には表象し 認識すると共に意芯し情感するものと考へられるのが常である。然るに論理的立場に於て問題となる意識はかゝ る具鰐的多面的意識ではなくして、例へぼリツケルトの規範意識に於ける如く、ひたすらに認識し判断し、それ ︵1〇︶ に掠って眞理を構成すると考へられた意識−−疲あ所謂第三の主客封立に於ける超個人的認識論的主親としての 意識のみである。情感し意志する意識は非論理的なるものとしてその立場から担外せられるのである。かくの如 く主観は全く形式的論遜的のものなるが故に、それに封立せねぼならぬ客観も単に思惟せられたものであり、判 断に撮って指定せられたもの、即ち概念的存在である。慣値の世界といひ安富の世界といふも、結局それは論理 的思惟によつて案出し出された世界たるを免れない。随ってそれは内在的意識には直接基礎を有つことなき概念 的柿成の超越鰭に外ならぬ。それ放たとひそれが論理的必然性を看ち、また認識論的基礎づけを有つものとはい 意識の志向性より存在の矛盾性へ ︵二〓ニ︶ 二五

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︵二一四︶ 二六 第八巻 第 こ況 へ、決して明澄性を有つて我々の直観に現前し来るものとはいひ得ない。その限りに於て論理的立場に於ける客 和は、例へぼリツケルトなどの考へる憤憶の世界の如く、花とひそれが如何にカントの批判哲革の洗練を経て猫 断の恨陸から嘩脱してゐるものと自負するとLても、車観を超脱せる猫自的抽象的存在の世界たる瓢に於て、カ ント以前の形而上畢者の考へた超越的本館の世界と五十歩百歩のものたるを免れぬ。随って血般にかゝる形式的 論珂的見解はこれを形式的本鰹論の立場のものと概言し得られるであらう。さうしてか1る立場がまたその形式 的なることの故忙フツセールに於て峻厳なる現象輿的還尭の裁きを受けなければならなかつたことはいふまでも ︵n︶ ない。何となれば現象蓼はたとひ二棚の本鰹諭ではあるとしても、それは形式的本閻論ではなく嘗質的本腰諭だ ︵12︶ からである。即ち現象畢は明かに資質的本質蓼に屈するものである。 〓 然らばその現象畢的立場に於て尭客の関係は最も明瞭には如何なる形態をとつて現れてゐるであらうか。それ はいふまでもなく純粋意識或は純粋鰻験の本質たる志向性そのもの1姿に於てゞある。そして志向性とは結局 ︵ほ︶ コOeSisとZOeヨaとの開係であり、純粋意識の本質はノエシス的−ノエマ的構造︵ZOet訂che=ZOeヨat訂che=Str亡kどr︶ なる性格によつて現され得ることが明かであるが故に、人はこのノエシスとノエマとの関係の中に主観客祝の踊 係を鼓も明かに見得るであらう。かくて志向性とは茸は秦客組係の最も如嘗なる具現とも見られ得るのである。

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かくノエシス的−ノエマ的構造が純粋意識或は純粋贈験の本質であり、さうしてこの本質を諦観して分析し記述 することが現象笹の主要任務であることを察するならば、フツセールの現象単にとつても他のすべての認識論に とつてと同株忙、主客相互の関係が如何に盈要なる意義を帯びて硯萌し来るかゞ骨かれるのである。 志向性はプレンクーノに於ける封象の内在性であり、飼明瞭には内容に封する関係即ち客観へ向つてゐること ︵14︶ ︵dieBeNiehuコ冨ufeiコe三コha一t妄eRichどコ冨ufeiコObjekt︶と富家せられ客観としての戎ものへの紺係︵die BeNT へ柑︶ e訂コ忘亡fetwasaisObjek[︶と呼ぼれるものである。これをフツセールの言葉によつて現すならばく。コetW諾の意識 関係であり、その関係は﹁に向けられてゐる﹂即ち﹁に柚向されてゐる﹂︵dasGer碧tetseiコaきdasNu笥Weコ計tsei。 へ16︶ Nu︶によつて硯はされ、志向するとは自ら相関的封象に携はること︵S⋮nh=ヨ仙甘deヨ=KOrre註笥笥コS訂コm−1Nu= ︵17︶ scha謬コ‖ヨaCheコ︶またはそれにまで向けられてある︵Nu=ihヨ=hiコ11笥richtet=Sem︶ことである。さうしてかゝ る関係は厳密にはノエシスとノエマとの問にのみ存するのである。さて然らばこのく。コとかau︻とかNuとかに よつて現はされてゐる関係は叫麓如何なるものであらうか。それは勿論自然的立場の賓在的︵﹁e芭関係でもなく 論理的立場の形式的︵fOrヨaC関係でもない。かゝる時基因果的寄蜜関係内のものや単なる概念的構成の健界は 現象畢的立場では既に排除されてある筈である。然らば現象興的樺基としてのノエシス・ノエマ的関係は如何な ︵18︶ るものか。それが即ち本質闘係︵WeseコSbeNiehuコ巴或は形相的︵eidi芽h︶関係と呼ぼるべきものである。こゝに 於て我々はノエシスとノ言との間の本質的関係に於て主観と客観とが如何なる様態を持して存してゐるかを見 意識の志向性より存在の矛盾性へ ︵劇二五︶ こ七

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発八巻 第二渋

○こ六︶ 二八 なければならぬ。今この間超に於て私の導出したい ーせねぼならぬと思ふ1結論を橡め表明するならばそれ は、フツセールが意識の志向性を以てその現象蓼の基調となしてゐる限り必然的に辛祝を主とし客観を従とする 謂はゞ主観主義的立場に於て存してゐるといふことである。併しながらこ1にいふ主観主義的立場とは勿論それ 故に客御を軽税することを敢てする立場といふのではない。否むしろ反封に、主観に即してそれに於て存するが 故に却ってフツセールの現象拳は客釈的なるもの即ちノエマ的なるもの1分析記述に多く自らの仕事を見出さね ばならなかったではないかといふことである。 さてフツセールの現象畢的領域たる純粋意識のノエシス・ノ芯マ的構造とは何を意味してゐるか。先づ純粋意 識の音味を考へるに、それがデカルトの我思ふ︵c。隻。︶やまたは二般に意識すること︵nO山i要○︶によつて代表 ︵柑︶ せしめられてゐるとしても、意識されたもの︵cO覧atuヨ︶によつては代表されることがないといふことは、それ が作用であつて封象とか内容ではないことを示してゐるやうにm心はれる。黎嘗、現象箪的還元によつて拓外せら れねぼならぬものは自然的立場の専管的超越着であり、論理的立場の概念的超越着であつた。然るに超越者は何 かに封する超越的存在であ少、その限りに於てそれは作用を超越した封象、童鶴を絶した客観、即ち自然科挙的等 質の世界や認放論的安雷の世界であると考へられる。随っててれらを排除した後に現象拳的確基として取り出さ れた純粋意識の中には、以上の立場に於て意識作用または認識作用としての働きを有ってゐた或る主観的なるも のが、何等かの形で保存せられてゐ、それが純粋意識の構成嬰素をなしでゐるもの1如くに思はれる。随って現

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象畢的還元に於ける全き排除は主として意識の封象的方面にのみ行はれ、その作用的方面の大部分はたとひ変容

は受けたであらうとしてもやはり純粋意識構成の基闇としてその裡に保存されてゐるものと解することができ

る。現象螢がカントの栗験的心理拳の敬展であると解降され得る所以のものも恐らくこの鮎に存するであちぅ。

こ1に於て純粋意識は完全に作用のみの他界と解せられ、純粋自我は志向作用そのもの1自由に途行され得る領 域と見られるであらう。然りとすかばその限りそこには主部的なるもの1みが存して客鶴的なるものは存しない

やうにも思はれる。何となれば作用そのものは客観化する働きではあつても客観化され得るものではないと考へ

られるからである。併しながらもし以上の如しとすれぼ、純粋意識には作用的側面としてのノエシスのみが存在

し、封象的側面としてのノエマは存在し得ないやうに恩はれる。けれどもノエシス・ノエマ的構造をその本質と

する純粋意識にとつてかゝる事態の在り得ぬことはいふまでもない。然らばこの作用のみより成ると考へられる

純粋意識旺如何にして対象的なるノエマが必然的のものとして現出し来るであらうか。

現象畢的琴謹啓嘗に於て自然的立場と諭甥的立場のすべての封象的なるものを排除した。けれども㌣れはか

1る自然的形式的超越者の在外であつても決して純粋意識の成案としての内在的封象の拓外ではなかった。この

ことは内在的封象がプレンクーノによつて指示された志向性そのものであり、その志向性が純粋意識の本質であ

ることを想起することのみによつても直ちに了得し得られる専柄であちう。純粋意識は如何に現象解約還元によ

って浄化せられたものであるとはいへ、否その還元を紅たるが故にこそ、自然的・論理的封象即ち寄資的形式的

忠誠の志向性丈り存在の矛盾性へ 〓二七︶ 二九

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第八巻 第二渋

︵一こ入︶ニ6 超越者への誘惑に偽ることなしに、ひたすら内在的なるく○コe首asの意識として、また内在的なる或ものに向へる

自我として、即ち眞の意味の志向的餞胎として、必然的絶判的存在性をかち得ることができるのである。事嘗的・

形式的なるものについてはすべての世界は固より、文化も闘家も押すらも排除せねぼならなかった現象畢的還元

も、驚質的存在論としての現象畢の領域内のものはそれによつて;喝も失ひ去ることなく、却ってその粂腰的絶封

的存在の拉得を完了するものであつた。随って内在的本質的封象としてのノエマはそれによつて一隊明かにせら

れることはあるとしても決して除去せられることはなかった。即ち現象輿的還元の後にもノエシスに封するもの

としての客朋的存在は依然として存在してゐた。かくて純粋意識そのものゝ中にたとひ内在的本質的意味に於て

ゞあるとはいへ、やはり主軸・客観の封立が包蔵され待たのである。それはノエマが内在的客観であり、ノエシ

スが内在的主観であるが故に、ノエシス・ノ言的鯛聯は直ちに内在的主客関係と見られ得るからである。然ら

ばその内在的封象としてのノエマは超越的封毅としての外界や安富的慣仮の世界と如何に興るであらうか。超越

的といひ内藤的といふもこれらは本釆全く別異のものではなく、同㌻りものが暗室因果の範疇に入れられた時ま

たは超主親的概念的構成と宕倣された呼起越的となり、これ皇息識に即するものとして即ち意識の議相として

眺める時内在的となるのではなからうか。もし然りとするならば現象輿は主観は固より仙切の客観もこれをすべ

て意識に卸するものとして眺めゆく立場のものと見ることができよう。即ちその内泰的と埠窟識的といふことに

なるであらう。けれども併し現象畢的領域に於ける主客踊係が単に意識的といふ名のみでその特徴を保持せんと

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するならば、それはリツケルトが主客封立の第三のものとして蓼げたそれと別に攣りがないではなからうか。何 故ならばそ.こでもやはり客観は自己の澄識内容であり、それに封する竜観はたとひ超個人的であつたとはノいヘヤ はりその内容を意識するものであつたからである。即ち秦容共に意識的といふ鮎ではフツセールに於ける主客紺 係とリツケルトに於けるそれとは何等差異なきもの1やうに思はれる。けれども寄賛に於て雨着の間に根本的直 別のあるのは何によつてゞあるか。 ヮツケルトの立場は論理的であるが故にその意識、香、認識毒観と認識封象との開係はどこまでも形式的たる を免れなかった。これに反してフツセールの立場に於てノエシスとノエマの関係は本質的相関紺係であつた。志 向性とは賛にこれらの間の相関︵誉﹁re−a什訂コ︶の関係に外ならなかつた。即ちノエマは内在的客観であ・り、フツセ ールに於ける主客帥係は内在的相関関係であつてそれ以外ではない。然らばノエシスに相踊するものとしてのノ エマは如何なるものか。それはいふまでもなく内在的客観である。けれどもフツセールに於てこの内在的客観は ︵釦︶ 二つに分たれる。即ちそれは志向的客鶴︵宣eコt5.〓a−esObjekt︶と把捉された客観︵erfasstesObje芝︶とである。 ノエシスに相拍するものとしてのノエマはこれらの中の志向的客朋であつて、把濁せられた客観ではない。把捉 せられたる客観はこのノエマによつて更に志向せられるところの、謂はエー蚤の志向によつて只箪に指定せられ たるノエマの核である。随ってそれはノエマそのものではない。ノエマをその周園に群集せしめつゝすべてのノ エマにその方位を指示するところの中心的核である。この接が更に溌“鮎をなLてノエシスを超越するに至る時 忠誠の志向性より存在の矛盾性へ ︵ニー九︶ニ二

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第八怨 第二鶉

︵二ニ○︶ 三二 これを封衆︵Ge笥S百d︶と呼ぶ。この封象は客恕であり、白岡着であり、可能的賓静の規定せらるべき毒群で ︵21︶ ぁ少、またすべての賓靡から抽象せられたるところの純粋なる或もの︵pu−eX︶である。各々のノエマは皆その内 ︹22︶ 容即ち意味ハSぎ︶を桝有し、それらを通じてその封象に関係するのであるCかくの如くノエマはノ;スに封 して剛つの封象性ではあるが、それはその規定の仕方に於け.る封象︵derGe笥コSta訂すWieseぎe品es〓ヨヨthe許コ︶ ︵23︶ であつて、ノエマ的封象そのもの︵derコOeヨ裟scheGegeコStaコdsch訂chthiコ︶ではない。封象そのものはむしろノ ェシスを超越してしまつてゐる暴虎なる或もの︵一ee.1eSX︶である。これが把捉せられた客胡であク、ノエシスに ょって志向はされるとしても直接それ忙相囲するものではない0直接ノエシスに相銅するものは決してか1る基 盤なる超越的封象ではなく、内在的なる志向的封象であり、意味即ち内容を所有する客観である。この客観が意 味即ち内容を房有するに至つたのも蟹はそのノ⋮スの意味づけの作用によつて意味づ・けられたからである。こ れによつてノエマは決して抽象的に峯虎なる概念的存在ではなく、ノエシスに相関し、それによつて意味づけら れるところの鼻腔的存在たることが明かであるe随ってそれは単に意識内に形式的に指定せられたる客親ではな い。即ちリツリケルトの意味してゐる如き形式的内在的客観ではない。何故ならばリツケルトの考へる内在的客親な るものはフツセ・−ルに於ける把捉されたる客親即ちノエマ的封象そのものに相雷すると思はれるからである。志 向的封象はノエシスによつてかく′∼と規定せられた封象であり、封象そのものよりも忘内在的主取去してのL ノエシスに近く、またそれだけ多く具惰性を帯びたろ客観である。かくて純粋意識に於ける志向的関係内の主観封

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客観の関係は、ワッケルトの琴この封立として奉げた意識の主客関係よりも、鳴ってまた常然他の︼切の立場に 於けるそれよりも、造かに増して具鰻的であり、根源的であるといへるのである。現象単に於て本質的相関関係 を重要視する所以もこゝにあるであらう。 三 次に我々はこの相関関係に於ける主攣客観の関係そのものについて考へて見なけれぼならぬ。これはまさし く相関銅係であるが故竺が互に他に影響しまた他によつて影響される。フツセール自らの叙述にも明かである 如く、ノエシスとノエマとの聞には二つ.の平行︵Paral空襲︶関係が存在し、開署は相互にこれを他から分つこ ︵24︶ と能はず、ノエマの如何なる碩妙の相異もそのまゝにノエシスに反映し、またノエマはノエシスによつて常に欒 容せ⊥められてゐることは、それが本来ノエシスの意味づけの作用によつて意味づけられるものなることに徹し ても明かである。こ∼に於て主観と客観とはその何れが重きをなすといふこともなく、共に平等に取扱はれ、何 等不公平なくその存在の樺利を保讃せしめられてゐる如くに思はれる。併しそれにも拘はらす我々はこ、に、そ ヽヽ れが少くとも志向的関係に於て存してゐる以上、志向するものが志向されるものよりも力に於て強く地位に於て 高き位畳む占めてゐるといふことを、単にその筈其の感じの上からのみでなく、意識現象の具盟的構造に照して 理解されるではないかを思ふのである。さうしてこの鮎を特に明かにせんとするのが只今の我々の歩みに於ける 忠誠の志向性より存凄の矛眉性へ ︵一三こニ;一

(13)

目的なのである。 さて然からぼこのことは如何にしていひ得られるであらうか。それは党づノエシスが本釆意味づける作問であ り、ノエマが窟昧づけられた客轄であることを知ることによつて明かにされるであらう。然らばその意味づける とか意味づけられるとかいふことは何を意味してゐるか。その間の闘係を見ることによつて我々はフツセールの 立場は主観蹄蚤の立場であることの理を明かにしなければならぬ。 さてフツセールに放ても最も重大なる問題は械能的問題即ち意識封象件の構成の問題︵d訂どコkt岬○コeニeコPrOb−e∃, bzw.d訂計r■犬○コSt誉〓。コd用﹁ BewusstseiコS笥山eコSt誓d−首hkei訂コ。︶であつた。さうしてこの構成の機能は重く特典 ︵25︶ なる或ものであり、ノエゼ︵ZOeSe︶の純粋本質内に基づけるものであつた。即ち彼に於て意識剖象性は重くノエ シス的なるものによつて構成されるとなされたのである。こゝに我々は彼の主助命畳の思想を見るのである。か くいふ時人は直ちにかの認識論に於ける構成詮、即ち眞理は主観によつて構成されるものと詮くカント的考へ 方を想起して、フツセールの立場を客観よりも霞んするものであるとの我々の主張がカント的主観主益と同じ意 味に於てゞあるであらうことを預想するでもあらう。けれどもこの琢想は常らない。何故ならばフツセールに於 てノエシスが意識封象性の構成︵KOコStit亡〓○コ︶をなすといふこと1、カント的構成説に於て認識主観が眞埋の構 成︵KOコSt−亡kt剛○コ︶をなすといふこと1は共の意義を全く異にするからである。随って我々がフツセールの立場を 主観主義的と解しても、これは決してコペルーークス的韓回の意味の主観主義の意味に於てゞはない。これを明か 第八巻 第 こ 渋 ︵叫三二︶ 三四

(14)

にするために我々はノエシス的なるもの、即ち主としてノエゼの劉象構成の音昧を究明しなければならぬ。 フツセールに操れば封象括成の問題は﹁例へば自然に関して、ノエゼが質料的なるものを生気づけ、多様的統 劇的蓮績及び綜合に預り合せつ1、或もの1意識を成就し、それに於て封象の客観的統叫がすべてに等しく表は ︵26︶ され、示され、また理性的に規定され得るやうにする﹂ことであつた。かうしたフツセールの詮明は叫慣何を意味 してゐるか。尭釆純粋意識が志向的鰐験であり、志向するものはノエシスであるが、このノエシスが封衆構成の 校能を櫓ふのである。その椀能を明かにするために我々はノエシスそのもの∼を分析なさねぽならぬ。ノエシスは 現象畢的に二つの要素に分たれる。叫は賛際に志向性を有ち、意味づけの作用をなすことによつて廟象構成を成 モルペl 就するものであつて、これを志向的形式︵iコteコtiOコa百∃OrPh豊と肇つける。これがノエシス本来の性質を描ふ もので、これをノエシスと置別するために特にNOeSeと呼ぶ。他の要素はノエシス内に在りながら而もかゝる ヒーl ル 志向性を有つことなく、随つて直接には封象構成に参興することなきもので感労的質料︵seコSue−すhy吾と呼ぼ ︵27︶ れる。ノエシスはこの二つのもの1統血である。ヒーレーは決してノエマを意味づけることがない。それは只暗 黒なる感魔の束または流れ︵B彗de︼OderStrひヨeく○コE∃Pぎduコ讐コ︶であつて、ノエシスの素材︵St。fCたるも のに過ぎぬ。これに反してノエゼはノエマを生気づける作用︵besee訂コde穿te︶であり、贋童の珊性︵コ亡S︶であ ︵28︶ る。故に志向性なる特徴を持し、志向的慣験もこの意味附舶ハによる統劇として存在するのである。ヒーレーはノエ ゼの把捉によつて精画を賦興せられ、生気化せしめられる。この生気化の働きによつて本来は志向性を看たぬと 意識の志向性より存在の予屈性へ ︵山三≡︺ 三五

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第八巻 発こ渋

〇三四︶ 二〓ハ 凰はれるヒーレーから具鰭的なる志向的饅験が生するのである。かくノエシスは二つの成素より成り、而もこの 二つは完全な結合をなして存し、形式なき素材も、また素材なき形式も考へることができない。それ故ノエシス にとつて何れを重要なる成素となすことも出来ない。併しながらノエシスのノエシスたる所以の志向性を拾ふも のが形式としてのノエゼであhソ、ヒーレーはノエゼの生気化によつてのみ意味を有ち得るものなることを思へ ば、ノエゼが、即ち主観的なるノエシスの中のまたその、王親的なるものが、より重要なる役目を有つことが骨か れ得るであらう。 次にノエシスとノエマとの間の銅係を見るに、これらは常に平行関係に於て相関的に相封立してゐる。随って 本来地位上の差別はない。けれどもノエマはヒーレーを介してのノエシスの意味附輿作用によつて生じたもので ある。ノエシスによつて意味づけられたSぎ がノエマである。随って党づ意味づけられるものがあつて次に意 味づける働きがあるのではなく、意味づけの作用がある故に意味づけられたものが生ずろのである。即ちノエマ の存在はノエシスの存在によつて初めて可能でありまた確驚である。赤い花そのもの1超越的存在、即ち把捉せ られた赤い花そのもの1存在は我々にとつて不明である。.けれども意味づけられた限りの赤い花、即ち志向せら れた赤い花の意味は、それを赤い花と意味づけるノエシスの働きが存在する以上、その存在の疑ひ得ないノチマ である。即ち超越的存在としての封象Xは、ノエシスによつて志向はせられねぼならぬとしても、その存在その ものについて見る時は、志向的作用の有無には無関係に、或は存在することもでき、また存在しないこともでき

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るであらう。何故ならば超越的なるものについてはその春蚕性を決定することができぬからである。けれども志 向的封象としてのノエマは必す志向的作用としてのノエシスに相関的に存在せねぼならぬ。かくノニマがノエシ スのノエシス的なるもの、即ちノエゼの意味附輿作用によつてもたらされた意味的存在なるを思ふ時、我々はノエ シスがノエマに比して力に於てより強く、意義に於てより重要であり、地位に於てより高きものなることを思はぎ るを得ない。即ち意識の志向性に於ては主観的なるものが客観的なるものを超えて存することを知るのである。 かくいへばとて我々は勿論ノエシスがノエマを離れてansicコに有産し得ることを主張せんとするものではな い。否むしろ、ノエシス的嬰素がノエマ的要素なくして存在し得ぬことは如何なる場合でも保護され得る本質法 ︵29︶ 則︵WeseコSUJeSetN︶であることを知るが故に、却ってノエ 信するものである。けれどもそれにも拘はらずノニシスが主でノエマが従であるとせねばならぬことは、例へぼ フツセールがノエマ的要素に封して、それが特にノエシス的要素に附属してゐる︵zu駕h賢笥コ︶といふ形容詞を ︹30︶ 附加して居ることによつても明かである。附属してゐることは従属してゐることである。即ちソニシスとノエマ とは厳密な意味では決して爾々相判略して護らない如き存在ではない。勿論両者は根本的に隈測はせねぼなら す、またその平行的相関紺僻も認めねぼならぬが、併しその相関に於てノエマがノエシスに梶擬してゐることを 見越し得ぬのである。即ちノエシスが兜づ成愴的に組成されてゐるが故に、それに應じてノエマ的相関者が底礎 ︵31︶ づけられるのである。然甘とするならばノエマはノエシスの中に構成的躍包有されてゐるとはいへぬであらう 意識の志向性より存在の矛盾性へ ︵劇三五︶ 三七

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︵二二大︶ 三人 第八巻 第 二 躾 か。ノエシスがそれ自らに忠誠封象性の構成をなす機能を具備してゐるといへるも、嘗はかくの如き意味に於て ゞあつたのである。こゝに於て、フツセールが客観よりも主観を雷しとすること、而もそれがカント的構成詑の 毛根主読約意味に於てゞはないことが明かであらう。 こ〃ことはまた現象拳の領域が純粋自我にあり、この純粋昌我の本質がノエ′マ的方面にではなく′エシス的方 面に存することによつても明かである。ノエシスがかくその本質たり得るのは、志向性を含み、意味づけること にょる封象構成の機能を有するからであり、ノエマがその本質たり得ぬのはこれを有たぬからである。ノエマも超 越的封象Xを志向してゐると解されることがあるとしても、それは眞のノエゼ的作用を自ら有つのではなく、ノエ シスのそれ〃特移のみである。即ちノエマは凋立に志向性を重たぬ故に純粋自我の本質ではない。純粋自我即ち 純粋意識の本質は、素材の意味化、蟹質の形式化、対象の稚用化、客観の童勧化をたすところにあるといへるで あらう。こゝに於ては客胡は主観の客観であるが、主観が客観の主観でもなく、主都客観平等の地位の快諾でも ない。ノエシスは勿論ノエマなくしては存し得ぬが、それにも増してノエマはノエシスなくして存在し得ぬので ある。ノエマが眞の存在でなく、潟存在︵Pseu旨e詠teコN︶であるといはれるのもこ′れがためであらう。かくてノ エマの存在様相がノエシスの信念様相忙影響することはいふまでもないが、それにも増して後者の前者に働きか けることが大なのである。ノエシスによつて意味づけられることなしにはノエマは如何なる存在様相を庵有つこ とが出来ぬ。併しそれが前述の如く構成詮的意味での存在性附輿でないことは、ノエシスの意附づけが措定作用

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ではなくしてむしろ中和作用内のものであることによつても明かである。けれども勿論それは.フツセールの素敵 主我的傾向を否定するものではない。 四 主観・客観の関係に封するかくの如きフツセールの態度は、彼の強調する反省作用を顧みることによつて山盾 ︵32︶ 明かとなる。反省が現象畢的方法の中心概念であり、現象畢的態度は反省に向つて行く態度藍愚昧L、現象輿的 ︵33︶ 方法は全く反省作用に外ならぬことは彼の叙述に於て明れである。併し現象解約方法としての反省は勿論普通の 反省の如く未反省の内面的e什wasを客観の世界に投出してこれを封象化することではなく、それは純粋自我の内 面的自覚であり、自己自らの具鰐化の方法であると解せられねぼならぬ。併しながら、こゝに於ても反省するも のはやはりノエシスであり、反省されるものはノエマであること、随つてそれは依然主客開係に於て存すること に欒りはない。けれどもこの場合のその脚係は、翠に相関的平行の関係といへるのみではいひ足らぬほどに緊密 なる関係である。主客はこの場合眞に全く相即不離である。けれどもこの場合でも主観が主で客観が従であると 褒へ得られることは、例へぼ反省的ノエシスが反省的ノ忠マを底礎づけてゐるといふ銅係から明かにし得るであ らう。然らばその底礎づけの関係とは如何なるものか。 底礎づけ︵Fuコd百uコ巴の意義及びそれが論珊的基礎づけ︵Be讐uコd彗巴と隈別せられる所以の性質などに就い 意識の志向性より存在の矛盾性へ ︵脚三七︶ニ仙九

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︵二二八︶ 四〇

第八巻 弟二番

ては、併し既に周知のことゝしてその叙述を省いてもよいであらう。今は只必要なる限りに於てその窓巷を概 観し、その関係に於ては底礎づけるものと庶礎づけられるものとがなけれぼならす、さうして〓万はノエシスの 性格に雷り他方はノエマの性格に常ることを指摘し、それがやがて主観忙よつて客観が土基づけられる関係とな ることの所以の理を明かならしめることに叙述の範囲を限定して置かう。 . 底礎づけは仙切の原領域としての純粋意識に於ける唯劇の東質法則であるといはれるが、これを定義してフツ セールは次の如くいふ、即ち﹁或る槍の内容且が他の柾の内容Bに於て底礎づけられるといふことは、尺がその 本質上︵即ち法則的にそれの特殊なる同有の性質に基いて︶Bが成立することなしにはそれが成立し得ないとい ︵34︶ ふことである﹂と。これを他の草葉でいふならぼ、且がBによる底礎づけを必要とするといふのは常に貝が本質 ︵35︶ 法則的にそれ自らとして只それとBとの結合たる包括的靡二門に於てのみ存在が可能であるといふことであり、 偽約言するならば貝はこの場合Bなくして存在し得ぬといふ閲係である。勿論この場合存在し得ぬといふことは 時基因英の事蜜関係内に嘗姦し待ぬといふ意味ではなく、純粋意識の本質上内在的に爪はBなくして輿へ得られ ぬといふことに外ならぬ。即ち意識の本質的領域に於て、高次の意識が常に必ず低次の意識を土基としてそれに よつて直接的封象関係を得ることが、底礎づけである。例へぼ意識作用がすべて表象作用に底礎づけられてゐる 如きである。さうして反省の如き高等なる意識領域に於ては、反省するものが反省されるものを底礎づけると見 ることができるであらう。何故ならばフツセールが明言する如く、高等なる意識の領野に於ては、一の具憾的濃

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験琉二門に於て多くのノエシスが相薫り合って組み立てられ、そしてそれに従つてノエマ的相関者が庶礎づけら ︵銅︶ れてゐるからである。即ちノエシスがノエマを底礎づけてゐると見られ、鴎つてノエシスなくしてノエマの存在. し得ぬ瑠を、それ故にまた毒観的なるもの エシスそれ自らの中に於ては或はノエゼがヒーレ一に床礎づけられてゐるかも知れない。何故なちば下僚的ヒー レーなくしては上愴的モルペーが仔麗し得ぬからである。けれどもヒーレーは決してノエマではない。結局志向 的髄験忙於ては、最下歴としてのヒーレーがモルペノーとしてのノエゼを底礎づけ、このヒーレーとモルペーとの 琉叫慣なるノ;スが更にノエマを底礎づけ、ノ;スムノエマとの釈義なる純粋意識が他の二切の存在を底 礎づけてゐると見ることができるであらう。かくて反省に於ては反省的ノエシスが反省的ノエマを鷹礎づけるこ とゝなり、反省客観は反省卓観によつて存在せしめられ、結局客観は毒親化せられた客観となるのである。勿論 ︵37︶ ﹁未反省の濃験が反省の中に移り攣ってもその本質を失ふことがない﹂といふ前提を間梼せんとするフツセールの 立場では、客観の主観化は客観に如何なる欒容をも本質的には輿へないかも知れない。けれどもフツセールの意 識の志向性を根踵とする現象塾では、主観客朋が平等に影響し合ふことの尭張をなすのでもなく、客親化された 主観を説くのでもなくして、客胡の主観化を重する主観主轟的傾向が甚だ濃く色彩づけられてゐるといふ事嘗を 否定することができない。 伺このことはノエシス的要素とノエマ的要素に輿へられた存在様相︵Seiコ等e仙se︶を見ることによつて〓愴明か 意識の志向性より存在の矛盾性へ ︵仙三九︶ 四剛

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第入谷 第二柴

︵州四〇︶ 四〓 にせられるであらう。フツセール匿於てはノエシスとノ芯マとは決して同山の存在様相に於て存するものではな かった。ノエシスは明かに意識を驚質的に構成してゐるところの寒林的︵﹁eeニ︶な要素であるが、ノエマはか1 る布衣様相のものではなく、只その志向的紺係に立つ非驚存的︵irreeニ︶なる、謂はゞ観念的︹己eeニ︶なる要素で へ38︶ あつた。ノエシスがレールでぁる朋以はそれが虞蜜に心的に存在するからであり、ノエマがイデールなる所以は それがノエシスによつて思念されたものに過ぎぬからであるJこの間者が前述の如く全く平行関係に於てあり、 平等に取扱はれてゐるとせぼ、それらは同じ存在様相に於て同じ存在性の保護を受けて居るべき筈である。然る に叫方レールであり他がイデールであるとされた所以は、フツセールがノエシスをより直接に具鰭的なるものと し、ノ干マをそれに比して少しく具慣性に於て快くるところあることを認めた故に外ならぬ。彼はゃルペーもヒ ーレーも共にレールと考へ、これらとイデールなるノエマとを意細構成の三要素となして居るが、そのノエシス ︵粥︶ 的方南をより盈く見てゐることば、彼が本来の意味で倍験を構成するものはレンールなる質素であるとしてゐるの に徴しても明かであらう。さうしてレールなるものがイデールなるものた比してより多く直接的存在たることは いふまでもない。以上によつてフツセールに於てはノエシスをノエマより認く見ること、即ち主観密垂の立場に あることが明かにされたこと1思ふ。 瓦

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併しながら以上のことは、それ故にフツセールに於ては主鶴的なるもの即ちノ土シス的側面の解明が他に摩れ て可能であつたことを意味するものでは決してない。むしろ反封にそれが飴りに主瑚に即する立場に存するが故 に、その純粋記述は却って客観的なるもの即ちノエマ的側に向けられねばならなかったことをすら意味してゐ る。ノエシスを畳んじ自らをそれに即せしめてゐるが故に却ってノエマの姿を明かに見つめ、それの記述に多く を費さねばならなかつたといふとの論述は、嘲見道産的に見えて何も決してさうでないことは、例へぼ人は自ら の限の所有者なるが故に直接にはその限を見ることができザ、却って剖象的なものへの開心を多くなさねばなら ぬことの埋を恩ふことによつても明かにし得るであらう。眠が眼自らを見得ざる如く、フツセールの主観的立場 ’ヽ■’︳ヽヽ’ヽ は却つて主観そのものゝ存在についての反省を怠らしめたかに偲はれる。即ちフツセールの現象畢は飴りに即主 観的立場に於て存するが故に却って主観化された客観、ノエシス化せられたノエマ衝のみを明かに親得すること 1なり、途にその側の分析記述にそれ自らの主なる仕事を見出するに室つ▼たのではないかと思はれる。常に自己 に止るものは自己の存在を忘れ、絶えて他人を見ることなきものは臼己l\の渓き鱒解を快く。フツセールの純粋 現象蓼が、所謂作用形相嬰︵穿t缶詰tik︶として自ら毒観的なるもの、作用的なるもの1解明を重んじ、ノ芯シ ︵40︶ ス的なるものへの現象畢的観察及び分析を何よりも資しとせるにも拘はらず、専管近於てその成果が常にノエマ = 的側面に通する迂路に於てのみ椙られること1なり、そのため却って飴りにも本醒論的であり、本濃化的形相興 ︵媚︶ ︵○コtO豆isiereコdeE告t芳︺と呼ばれるに棄つたのは、固より判象的側面に超越的布衣を室止したからでもあらう 意識の志向性より存在の矛盾踵〓 ︵剛四こ 四二血

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が、而もその根粒にはそれ自身飴りにもよくノエマ的なるものを見得る立場、即ちノエシス的尭翫主義的立場に 立つてゐるからであると解し得られるのである。か1ることより、かく先づ客観的側面に超越的な或ものを定立す るに至った本腰諭的傾向が、やがてはまた噂に主親的側聞にも或もの一般として超越的なるXを考へることゝな ︵糾︶ ︵43︶ り、途にはそれをぼ不可疑的に確蜜にして絶封的に輿へられたもの、また絶射的に存在するものと解することを ︵45︶ も生じ、即ちエールリツヒもいへる如く本腰化的理念化が封象方南のみでなく作相方閣にも隠したと見られるや うにさへなつたのである。フツセールに於て純粋自我の存在そのものが全く無批判的に許容せられ、それについ ヽヽヽヽ て存在自身が問題になり得なかつた珊由もこ∼に存すると見られるのである。併しながら眞に主観的なるもの、 作用的なるもの、ノエシス由なるものは英してそれ自身存在するものとLて興へ得られるであらうか。即ち存在 といふ規定を無批判的に受け縛らるペき性質のものであらうか。存在といふ規定をさへ受け得たものは眈に規定 せられたものであり、随ってノエマ的なるものであつてノエシス的性質のものではなくなりはせぬであらうか。 ノエシスとしての作用そのもの、純粋自我そのものはどこまでも非規定者として、随つて存在するともいひ得ぬ ものとして、即ちそれは金有であつて而も皆無なるものとして、単に思惟し得られるが如きもの、否思惟もし得 られざる無規定着ではなからうか。然りとするならば常然純粋自我の布衣そのもの、純粋意識の存在それ自身を 党づ問題とするが如き拳が、フツセールの現象螢にとつて代はらぬばならぬではなからうか。■こゝにフツセール の所謂構成的現象塾が、今少し典慣的生命的なるハイデッガーの解棒的現象単によつて代置されねぼならぬ所以 第八巻 発 こ 戟 ﹁一四二︶ 四川

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の珊由があつたのではなからうか。これがもし眞理とするならば今日遭遇せる構成的現象堺の痛女しき悲運は、 殴りにも主観に拐摺せるが故に却って主観の存在その軋のへの反省をなすに由なく、封象的な方面へと同じく主 観的方蘭へも或る麗越的なる存在者を渇断的に措定することゝはなつた彼自らの性格に根ざすものといはなけれ ばならぬ。哲蓼的なるものに於てもその道命はまさしくその性格に根ざすものであつた。 フツセールの構成的現象挙がかく主観尊重の立場竺止ち、ノエシス的作用を自らの即自的立場とするが故に、 常然にも主観によつて眺められた客観、ノエシスによつて志向せられたノエマをのみその研究の封象領域とせぬ ぼならす、それが遽には迎に厄して童鶴的なるもの1側にも本照的超越的存在を定立するに至った1めに、却っ て生命から離れ、具慣性から遽ざかったといふ非難がなされるに至ったとするならば、その歓隋を補って後に来 るものは、常然客観的立場に自己を竃き、以って主観的なるものを客観に関係づけてこれを解繹し、客観からの主 観への作用そのものに多く心を用ひる如き畢詭でなけれぼならぬ。客観からの影響によつて脅かされた主観、客 観の力に堪えなくされてゐる主観、これをその畢詭の基礎的なものとする興が、ハイデッガーの解繹的現象拳で ヽヽヽヽtヽ あるとは解し得られぬであらうか。人はそこに於ては意識の志向性の代りに人間の関心性がその基礎をなしてゐ ることを見るであらう。その人間の関心性とは何であらうか。それこそ客髄に脅かされた主観の姿、世界の影響 によつて落ち付きなくされてゐる入間の奏ではなからうか。− 意識の志向性から肇出し乗った我々の歩みはか くて箇然旺も人間の関心性へと進まねぼならぬのである。 意激の志向性より存在の矛盾性へ ︵二四三︶ 四五

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第八容 第二班

︵蒜四︶ 讐ハ ∴弧じ ︵︼︶Breコtaコ○⋮Psych。茸ieく。ヨeヨPirischeコSta⊃dp亡コk√Bd.ごs﹂望⊥Nu.−︵N︶〓usseユニ計eコNueiコer reiコeコPh誓○ヨ2コ○言方uコd2h師弓ヨeコ○︼○昔c君コPhi訂OPhle−S・哲声s二βs●N昂e首・1︵u︶ibid︶S−のⅥ. −Åeib皐s・−竿−︵u︶蒙卦かT芦1︵eib仙や伽墓・−−ぺJ二biJ−伽.声−︵00︶N.B−Rinker[︰Ge笥コStaコd derE−k2ココtコ仙s・ぎuaきs・芦−︵り︶N・B・萱dこ・u︼・−︵10︶ibiJ,S・ムP−︵=︶きsse﹁三n謁コuSW.︸頗 軍・−︵−N︶ibid︰・−Uu・−︵−u︶ibid−血芦−︵−e B−2コ叶aコ○⋮Psy︹宣○昔召ヨeヨPir賢heコStaコdpuコkt、 Bd﹂−S・−Nム・−︵豆ibidこ﹂当・1︵豆エuss2−ニ己e2コ亡SW︼S・芦1︵−q︶蒙d、S.]翠−−︵−00︶ibid−St−芦 −︵−u︶蒙d−S・望よu−S・房f−e首1憂1︵NO︶蒙n、S・翠1︵N−︶ibid−S・N声−︵∼N︶ibld−S−N芦−1︵N︺︶ 蒙d−S・N声−︵Neibid︰・N芦蔓︵NⅥ︶蒙J・S・−声−︵Neib草s∴声−︵∼可︶旨J−S・−声−︵∼00︶蒙d−S. −声I︵Nu︶旨d・S・−芦−︹岩ibiJ︰﹂屋・−︵岩蒙J・S・1芦1︵uN︶蒙J、S・岩ム●−︵uu︶ibi卦sこ会.

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