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8. Don Bissell, The First Conglomerate: 145 Years of the Singer Sewing Machine Company, Audenreed Press, 1999, p107.

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はじめに──本稿の目的と『外国貿易概覧』の概要 決定的に革命的な機械が, 服飾品生産部門における無数の分野へ, すなわち, リボン製 造業, 仕立業, 製靴業, 裁縫業, 帽子製造業などへ同時に掴みかかる。その機械こそ ミシンである(カール・マルクス『資本論 )1) 。 ミシンは開発とともに幕末開港期の日本で知られるようになった2) 。当初は, 政府によ * 本稿は, 2007年10月20日に開催された大阪経済大学日本経済史研究所主催「第9回日本経済史研究 会」での報告「ミシン普及パターンに見る縫製業の趨勢 20世紀転換期の大蔵省主税局編『外国 貿易概覧』を中心に 」を加筆・修正したものである (投稿年月日2008年3月31日, 受理年月日 2008年5月15日)。 ** 大阪経済大学日本経済史研究所研究員・同大学非常勤講師, 大阪市立大学大学院経済学研究科後期 博士課程, 国立民族学博物館特別共同利用研究員。

1) Karl Marx, “Das Kapital”, Karl Marx−Friedrich Engels Werke, Bd. 23, Dietz Verlag, 1962, S. 495. 2) 幕末開港期の日本では, 主としてウィラー&ウィルソン社製ミシンが知られるようになった。 徳川

家の場合, アメリカ側から贈呈されたミシンを受け, 同社へタウンゼント・ハリスを通じ種々のビ ロードを返礼したという (‘PRESENTS FROM JAPAN’, The New York Times, March 25, 1862, Page

日本におけるミシン輸入動向と衣服産業の趨勢

20世紀転換期の大蔵省主税局編『外国貿易概覧』を中心に *

一 **

要旨 19世紀後半から20世紀初頭にいたるミシンの普及と多様化によって, 世界における衣服産業 の勃興は同時代的に進行した。19世紀末の段階で大蔵省はミシンを単なる便利な道具だと認識 していた。1900年に米国シンガー社が日本上陸を果たした時, その市場開拓には, 米国内で大 量に余っていた手廻ミシンの在庫処分という意図があった。1902年の段階で, シンガー社製, 米国他社製, ドイツ製などを含め, 輸入されたミシン種別は実に数百種類に及んでいた。大蔵 省は改めてミシンを再認識する必要を感じた。とりわけ, 1910年代にメリヤス業や縫製業が分 化していく事態を目の当たりに, その主因がミシンの多様化にあると認識するに至った。1910 年代は, 輸入ミシンの多様化と衣服産業の多様化が共進化を遂げた時期であった。本稿で取り 上げる『外国貿易概覧』のミシン輸入報告も, この頃から豊富な内容をもちはじめる。20世紀 最初の四半世紀には, 縁縫い, 留め縫い, 刺繍などの用途別ミシンや, ジャケット用・コート 用, メリヤス用, 帽子用, 靴用, 鞄用等々, 品目別ミシンがほぼ出揃った。 キーワード:ミシン, 貿易, 多国籍企業, 衣服産業, メリヤス業, 中小企業

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るドイツ製ミシンの輸入が中心であった。幕府開成所は1868年に, 新政府は71年から, そ れぞれドイツ製ミシンを導入した。以後, 19世紀末にかけてはドイツ製が主流を占めた3) 。 本稿は, 大蔵省主税局編集による『外国貿易概覧』(以下『概覧』と略す)をもとに, 衣服産業部門の根幹をなしたミシン(縫衣機)の輸入動向と利用業種を押さえる。『概覧』 は税関のコメントが豊富なうえ, 先行諸研究の論点を付加することによって, 20世紀最初 の四半世紀を中心にミシン利用の趨勢が具体的に把握できる。 これまで, 編地縫製(メリヤス業など)に関する研究は豊富に存在したが, 織地縫製に ついては, 洋服業界史, 大手足袋業者の社史, 内職・受託生産など, 断片的にまとまった 研究は存在するものの, 衣服産業や衣料品産業として総括的に趨勢を論じた研究はない。 紡績業や製糸業など, 繊維産業・アパレル産業でいわれる川上部門と, 織物業に代表され る川中部門に対し, 川下部門にあたる縫製業は研究量が極端に少ない。 また, 1900年に日本上陸を果たしたアメリカ合衆国(以下, 米国)の多国籍企業シンガ ー社の日本展開について,『日本ミシン産業史』をはじめ, 近年では桑原哲也の研究など 詳細に論じたものも存在するが, これらは総じて, 多国籍企業シンガー社の日本上陸に対 抗した形で, どれほど国産ミシン・メーカーが膨大な技術吸収を行ないながら生産体制・ 販売体制を築いてきたのかという趣旨で論じられており, シンガー社が経済学的な意味で の「完全性」を備えた企業であると認知している嫌いがある。そのため, 20世紀前半の日 本ミシン市場で, シンガー1社による市場席巻が生じた点に関心が奪われてきた。しかし, 『概覧』から窺い知れる内実によると, 米国ミシン・メーカーの販売競争が日本市場で行 なわれた点も看過できない。『概覧』の叙述傾向から判断すると, シンガー社が日本市場 で圧倒的優位に立つことができたのは, 1900年代の約10年間に過ぎない。また, シンガー 社にとって日本市場は, 中国市場開拓の前座として位置づけられたに過ぎず, 結果として 予想外に好況だったというのが実情であった4) 。 このような問題関心にもとづけば, 20世紀前半に急速に展開した衣服産業について, 一 旦, 見通しを立てる必要があろう。本稿では,『概覧』の叙述を詳細に追うことによって, 衣服産業の展開をミシン輸入との関連で検討する。 さて, 1890年に刊行がはじまった『概覧』は, 前年比較を主にした貿易概要であり, 『大日本外国貿易年表』(以下『年表』と略す)のうち「最モ顕著ナル者ニ就テソノ状況 ヲ推シ実蹟ヲ訊ネテ此稿ヲ草ス」(90年, 序文)5) 目的をもっており, 殖産興業政策の必要 性と, 各農工業部門における生産財輸入の傾向を伝えたものである。刊行時に関税局長を 8.)。 3) 岩本真一「19世紀後半∼20世紀前半の日本におけるミシン普及の趨勢と経路 マルクスのミシン 論に触れて」( 経済史研究』第11号, 大阪経済大学日本経済史研究所, 2008年3月)。

4) 以上, Don Bissell, “The First Conglomerate : 145 Years of the Singer Sewing Machine Company”, Audenreed Press, 1999, p107.

5)『概覧』引用元は煩雑さを避けるため, 例えば1898年版の400ページの場合, (98年, 400頁)という 形式で本文へ記した。

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務めていた有島武の序文によると,『概覧』に記載された種々の産業動向は, 編纂者の大 蔵省主税局が収集した「内外官民の報道する所に依り或は耳目の触るヽ所に随ひ」(同上) まとめられたため,「断案」といえるものではない。しかし, 税関特有の立場にもとづき, 種々の貿易品目にミシン利用者とミシン輸出国の両側面からアプローチした貴重な報告書 である。なお,『概覧』は, 1929(昭和4)年刊行の前年報告をもって終了している。 『概覧』は, 貿易総論, 輸出入品動向, 金銀輸出入動向,「各港出入ノ船隻及其装載貨 物ノ原価」を主要項目とし, そのうち, 輸出入品動向については,「物品ノ輸出」,「物品 ノ輸入」として二分され, それぞれ品目ごとの動向が記載されている。刊行から10年ほど の間は,「物品ノ輸出」には, 農業・工業部門の完成品または原材料が,「物品ノ輸入」に は, 主として農産品をはじめとする原材料が中心に取り上げられている。『概覧』が殖産 興業を見据えた報告の目的をもつにも関わらず, 工業化のポイントとなる種々の機械製品 の輸入が品目別に本格的に取り上げられる時期は, 20世紀転換期を待たねばならない。刊 行以来1900年前後までの機械製品は「機械類」として一括で叙述されていたに過ぎず, 世 紀転換期になると, ようやく, 紡績機, 汽車, 汽笛, 汽機, 喞筒機類, 鉱山機, 製紙機, 縫衣機, 織布機などが挙げられるようになる。この時点から, 輸入生産財の販売元(諸外 国)と利用者側(大日本帝国内)双方の動向が把握しやすくなる。そのうち, ミシンは, 主に輸出国, 利用業種, ミシン品種, 単価が中心に紹介されている。 なお, ミシンの普及については台数把握が無難であるが,『年表』と『概覧』は, とも に金額ベースで集計されている。本稿では, 年別輸入傾向を中心に辿るため, 金額ベース で分析を行なう。なお, 推計輸入台数については, 既に別稿6) で試算してあるので詳細は 図 1 ミシン輸入台数の推移(1885∼1937年) 出典: 日本貿易精覧』(東洋経済新報社, 1935年), 島野隆夫『商品生産輸出入物量累年 統計表』(有恒書院, 1980年), 岩本真一(2008年)より作成。 1,000,000 100,000 10,000 1,000 100 10 0 90 95 1900 05 10 15 20 25 30 35 85 6) 岩本真一, 前掲論文。

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そちらに譲るが, 簡単に確認しておくと, 19世紀末の最大が1万台, 1900・10年代は1∼ 10万台, そして20年代・30年代は2∼18万台といった推移をみせた。図1は輸入台数の推 移を示す。期間全体でみて輸入台数は増加傾向にあり, 台数の増減幅は年代とともに大き くなっていった。 Ⅰ 19世紀末──ミシン存在の認知 1 道具としての認識 ミシンが『概覧』に初出するのは, 1892年報告である。 縫衣機ハ二十年ノ輸入ヲ以テ最多額トシ, 爾来漸々逓減セシカハ自ラ其不足ヲ告ケ, 本年ハ聊カ増進ヲ呈スルニ至レリ。本品ハ俗ニ「ミシン」ト称シ, 洋服及ビ洋傘等ノ 工場ニ使用スルモノナレハ, 神戸大阪等ニ増入ヲ見ルハ, 蓋シ近時輸出額ノ著進セル 洋傘工場等ニ於テ使用スルモノ多キヲ加ヘシニハ非ル歟(92年, 500頁)。 遅くとも92年には, 縫衣機がミシンという俗称をもっていたことが上記から理解できる。 「二十年」, すなわち, 1887年の輸入額が最大であり, 以後は逓減していると指摘されて いる。87年にミシンが最も多く必要とされた要因には, 前年12月に設立された陸軍被服廠 の存在が挙げられる。 衣服, 靴などの需要が増加することによってミシン需要が誘発された点に触れたのは, 97年報告である。 人民生活ノ程度増進スルト共ニ衣服, 靴類等ノ需要増加スルハ自然ノ勢ニシテ此等物 品ノ製造繁激ヲ告グルニ従ヒ本品ヲ以テ手工ニ代用シ本品応用ノ区域益々拡大スベキ コト是レ亦争フベカラザルノ事実ナリ(97年, 577頁)。 上記ではミシンが手縫いの「代用」として理解されている。また, 衣服・靴生産の活況 や, そのためのミシン輸入増加が「自然ノ勢」という一言でまとめられる。翌98年の報告 でも,「本品ハ衣服並ニ靴等ノ縫製ニ使用スルモノナルヲ以テ此等必需品ノ使用多キヲ加 フルニ従ヒ本品ノ需要モ亦益々増大」(98年, 594頁)したとあるように, 衣服や靴が既に 必需品として認識されるようになり, 同時に, それはミシンという機械によって可能とな るというように, 製品普及とミシン普及とを一括りにした理解がなされていた。 次に, 1901年の報告になるが, 当時のミシン認識が如実に分かる記述がなされている。 元来本品ハ他ノ紡績機織布機ノ類ニ比スレハ小型ノ軽便品ナルヲ以テ, 普通縫工用ニ 供セラルヽモノ多ク, 随テ殆ント道具類同用ニ販売セラルヽノ有様ナレハ, 一般市況 ノ不振ニ連レ自然其輸入ヲ減少スルニ至リシモノニテ, 前記ノ機械類トハ多少其趣ヲ 異ニスル處アリト云フ(01年, 599頁)。

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ミシンは, 紡績機や織機(力織機)に比べ小型であり, 道具類同様に販売されていた。 「一般市況」が何を指すか明記されていないが, 紡績機や織布機(力織機)に比べ, ミシ ンが活用される衣料製品の市場化が明確に形成されていなかったのではなかろうか。すな わち, 1900年代初頭には, 綿糸・生糸市場や綿布・絹布市場など, 川上・川中部門では販 売市場が大きく形成されていたが, 川下の衣料品市場は形成途中であったと考えられる。 そのため, 衣料品市場の需給関係も安定せず, 製品を作るミシンの輸入動向も左右されや すかったと考えられる。 2 ミシン利用業種と神戸・大阪 「一般市況ノ不振」に左右されやすかったこの時期, ミシンはどのような業種に導入さ れたのであろうか。とりわけ輸入増減が目立った年には, ミシン利用業種の動向に要因を 求める記述が多い。洋装と軍服を中心に紹介しよう。 まず, 洋装では,「東西其需用ニ緩急アル」(92年, 497頁) との認識のもとで, 神戸・ 大阪の「洋服及ビ洋傘等ノ工場」(92年, 500頁)が挙げられ, 洋装の普及が確認できる。 対前年比約6割5分の増加をみせた96年には, 増加要因に「洋服若くは襯衣等の如き器械 縫を要するもの」(96年, 321頁)の活況があった。97年には, 先に触れた衣服・靴といっ た品目も出てきた。 次に軍服をみる。初出は日清戦争勃発後の95年であり,「外套, 軍服等機械縫ヲ要スル モノ増加シ之ガ需用ヲ増シタルニ由ル」(95年, 864頁)とある。翌年にも,「日清戦争以 来外套軍服等の製造繁激にして, 本品の需要非常に多かりしを以て, 本年も亦其需要多か るへきを予想し多数の輸入をなしたる」(96年, 321頁)とあり, 戦争継続を見越したミシ ン輸入が行なわれたことが分かる。 3 関税自主権一部回復の影響 関税引き上げに先立ち98年に輸入が増加した要因は,「他ノ器械類ト異ナリ其形状ノ小 ナルノミナラス需要モ亦多キモノナル」(98年, 594頁)として捉えられた。99年・1900年 はミシンの輸入関税が5%から10%へ引き上げられた時期であるが, この点に関する記載 は両年ともになく, 機械類全体が輸入増加傾向にあると指摘されている。「内国ニ於ケル 器械的製造事業ノ進歩ニ伴フモノニテ即チ前年注文シタル品ノ到着多カリシニ因ルナリ」 (1900年, 385頁)とのように, 99年に注文した機械類が集中的に到着したため輸入額が増 加したのである。なお, 両年の重要輸入品に, 電燈機械, 汽鑵汽械 (ママ) , 消防器喞筒器, 製紙 機, 織布機, 縫衣機, 瓦斯発動機, 印刷機が列挙されている。機械類全般にいえることだ が, 関税自主権の一部回復による税率引上げは, ミシン輸出国やミシン会社にとって大き な障壁とはならず, むしろ輸入額は増加傾向を示した。この時期に対日ミシン輸出国で1 位を占めていたドイツについては, 数年間比較の数値データが記載されている場合がある だけで, とくに取り上げて記載されることはなかった。

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Ⅱ 1900年代──足踏ミシンの普及とミシン多様化の開始 当該時期(1900年代)は, 衣服産業がその特徴を明瞭に示しはじめた。この時期の大き な特徴は, まずもって輸入額最大であったドイツ製ミシンの地位が揺らぎ, アメリカ製ミ シンが台頭することにある。『概覧』で, 国内のミシン縫製業者のうちメリヤス製造業者 に関する記述が増加するのも, この時期からである。 1901年報告で, ミシンが他の諸機械に比べ小型であり, 道具類として認識されている点 は既に紹介した。02 年以降,「目下輸入スル本品ノ種類ハ数百ノ多キニ及ヘリ」(02年, 653頁)状況を踏まえ, 従来とは比較にならない詳細な報告がなされる。 1 ミシン利用業種の増加 足袋屋が製造販売を行なっていた「足袋, 股引, 腹掛等」の縫製にもミシンが活用され はじめていた。幕末開港期以来, 衣服産業化の先頭を歩んできた「洋服店」(いわゆるテ ーラー)だけでなく, 他の業者によるミシンの活用が, 02年報告から目立ちはじめる。 単価の記載では, 種々の業種と対応ミシンが登場する。「靴屋」向けの足踏ミシン(1 台50∼55円),「洋服屋」向け足踏ミシン(40∼56円),「洋服屋」向け「手繰」(22∼36円), 「足袋屋」向け「手繰」(13∼19円程度)といった状況である。この時期に活用されたミ シンは, 動力別にみて手廻式と足踏式があった。 また,「鎖縫 (かん縫) みしん」も紹介されている。これは「めりやすノ肌衣製造等ニ使 用ス一台ノ価額六円五十銭位ニシテ洋傘, しやつ等の手内職ニ売行クモノ多シ」(02年, 653頁)であり,「布地」向けミシンだけでなく, 編地向けミシンが当時から内職でも利用 されていたことが確認される。 2 月賦販売の登場と販路の拡張 外国輸入商カ近来延売其他ノ方法ニ依リテ内国ニ販路ノ拡張ヲ勉ムルト共ニ, 内国ニ 於ケル使用者ノ益々増加セルコト其主因ナルカ, 昨今ニテハ足袋屋ノ如キモ本品ヲ使 用シ足袋, 股引, 腹掛等ヲ縫フニモ, 皆之ヲ使用セサルナキノ有様トナリ, 従来洋服 店ノ外ニ本品ヲ使用スルモノ大ニ増加セリト云フ(02年, 653頁)。 外国輸入商による延売(主に月賦販売)によってミシンの普及が高まった。1899年の内 地雑居令以後, 外国輸入商の居留地外貿易(取引)が活発化した事態を読み取ることがで きる。月賦販売によってミシン利用者が増加した。 手廻式ミシンと足踏式ミシンは, ともに外国商人の販路拡張によって普及している点が 03年にも指摘されている。とくに手廻式の普及については,「本邦人ノ使用ニ供スルタメ, 製作上ニ注意ヲ加ヘタルモノアルヲ以テ, 本邦人ノ使用ニ便利ナルカ故ナリト云フ」(03 年, 793頁)とあるように, 国内衣料製造用に改良を加えたミシンも多数使用されていた。

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3 輸出国とミシン動力源にみる勢力交代 概シテ米国製ハ外見美ニシテ運転軽快ナルカ如キモ破損スルコト早シ, 独逸製ハ外見 粗末ナルモ堅牢ニシテ久シキニ耐ユ, 且ツ同国製ハソノ輸入モ久シキ等, 旁々以テ之 ヲ使用スルモノ多シ(02年, 654頁)。 ドイツ製ミシンの耐久性に対し, アメリカ製ミシンは外見が良く軽快な運転をする点が 比較されている。そして, 大蔵省は前者ドイツ製の故障頻度の少なさに高評価を与えてい る。 04年になると, 米国シンガー社が初めて報告にあがる。大蔵省はシンガー社を「有力者」 として認識している。同社は,「種々ノ便方ヲ設ケ努メテ内国ニ於ケル販路ノ拡張」(04年, 506頁)を図った。具体的には, 00年に開店した横浜中央店と神戸支店を中心に徐々に店 舗を全国展開させ, 上陸当初から洋服店(テーラー)を中心に月賦販売を導入していたこ と7) 等が挙げられる。時局的には日露戦争勃発による軍服需要が大きな普及要因として重 なった。シンガー社製ミシンは「洋服屋」向け製品として代表的なものと記載されている。 他にも,「製靴用」ミシンや,「めりやすノ縁カヽリニ使用スル」(04年, 506頁)ミシンが 好評であると指摘されている。 これまで報告されてきたドイツ製手廻ミシンに比べ, シンガー社製の手廻ミシンは40∼ 50円台という高価なものであった。また, 同社製の足踏ミシンは70∼80円であった。これ に対し, ドイツ製ミシンは, 手廻ミシン7∼8円, 足踏ミシン40∼50円台の低価格であっ た。04年報告では, 02年報告のようにドイツ製が故障の少ない点は評価されず, シンガー 社製ミシンに比して縫合速度が遅いと指摘されている。 04年の大蔵省のミシン理解は, 故障頻度よりも, 02年報告の「運転軽快」に重点を置く ようになったと考えられる。同じ手廻式ミシンや足踏式ミシンでも, ドイツ製とシンガー 社製では単価が異なり, ドイツ製の方が一般的に安価であった。それにも関わらず, 大蔵 省は故障頻度の少なさよりも運針速度の大きさを重視する見方を示しており, シンガー社 を有力者として認識するにいたった。これまでの報告からいえるその主因は, 上陸当初か ら月賦販売を導入していたシンガー社の販売方法にあった。 図2から, 05年・06年にはドイツ製ミシンが一時的に輸入額を増大させていることが分 かる。05年には日露戦争による軍服需要が明確となり, 陸軍被服廠のミシン大量買い上げ が報告される。先述した通り, 1887年はそれまでのミシン輸入で最大額を示したが, その 要因には陸軍被服廠の設立があった。05年報告でも,「前年開戦以来, 陸軍被服廠ノ買上 ゲ多ク」(05年, 436頁)とあるように, 19世紀末輸入ミシンの大半がドイツ製であったこ とから, 被服廠のミシン需要によってドイツ製の輸入増減が左右される状況が明らかであ る。また, 7) 出口稔編『日本洋服史 一世紀の歩みと未来展望』洋服業界記者クラブ「日本洋服史刊行委員 会」, 1977年, 209ページ。

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一般ニ襯衣, 鞄等ノ製造繁忙ナルニ連レ, 本品ノ需要ヲ高メタルノ結果ニシテ, 一時 ハ市場在品ノ欠乏ヲ感シタルコトアリ。此レカ爲メ, 一般市価モ五分方引上ケタリト 云フ(05年, 436頁)。 陸軍被服廠の大量買上げ以外にも, 襯衣(肌着)や鞄をはじめとする民間縫製業の活況 によりミシンは在庫不足に陥り, 市価の「五分方引上」が生じたほどであった。05年報告 でも, シンガー社に焦点が当てられ, 動力別には手廻ミシンと足踏ミシン, 用途別には製 靴用ミシンやメリヤス用縁かがりミシンが, 前年同様, 輸入構成に大きな比重を占めると 述べられている。そのうち,「最モ売行キアル」(05年, 436頁)製品として, 手廻ミシン が依然として根強かった。ドイツ製ミシンは廉価であると指摘されるにとどまっている。 日露戦争終結翌年には「特殊ノ事情」(06年, 547頁)がなく輸入額は低下した。しかし, 「外国製造会社ノ内国ニ向テ本品ノ販路拡張ニ努ムル結果ハ, 必スヤ今後民間一般ノ使用 者増加ト共ニ尚本品ノ輸入ヲシテ徐々ニ増進セシメスンハ, 止マサルヘシ」(同上)とあ るように, ミシン・メーカーの販路拡張の結果, 民間レベルでのミシン利用者が一層増加 し, ミシン輸入も上昇傾向に入るとの予測が立てられている。軍服需要, とくに陸軍被服 廠のような大規模な官営工場だけに留まらない, 民間部門への広範な普及を大蔵省が察知 し始めたといえよう。 07年の報告書で「本年増入したるものは全く米国製に係り之に反して独逸製は漸次減退 の傾向アル」(07年, 528頁)と指摘されたように, ドイツ製ミシンからアメリカ製ミシン への勢力交代がはっきりと明記された。 この年, 大蔵省がアメリカ製ミシンの利点として掲げているのは, その軽量性と騒音の 小ささ, それに衣料製品の完成度にあった。「米国製ハ器械ノ構造新式ニシテ回転軽ク音 図 2 1900年代のミシン輸出国の比重推移 出典:大蔵省『大日本外国貿易年表』各年版より作成。 100% 80% 60% 40% 20% 0% 1900年 イギリス ドイツ アメリカ その他 01 02 03 04 05 06 07 08 09

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響低キノミナラス其縫上リモ亦綺麗」であったのに対し,「独逸製ハ形式陳舊ニ属シ其回 転重クシテ縫上ガリモ亦見悪キ等大ニ米国製ニ比シテ劣ル處アリ」(07年, 528頁)と評価 されている。このような特徴の違いに上乗せする形で, 関税の従量課税がアメリカ製にプ ラス, ドイツ製にはマイナスに働いた。すなわち,「其器械ノ構造米国製ヨリモ重クシテ 従量税ニ対シテハ米国製ヨリモ高税ヲ課セラルルノ不利アル」(07年, 528頁)。 アメリカ製足踏式ミシンへの比重が高まるなか, これを用いて製造される衣料製品に関 しても新しい叙述がなされている。それは,「目下輸入スルハ洋服シヤツ類ノ縫製用ニ供 スルモノヲ重トシ」とあるように, 洋服シャツ縫製用にアメリカ製足踏式ミシンが積極的 に活用されはじめたのである。この場合のシャツとは, 洋服と並記されていることから, メリヤス製品ではなく, ワイシャツやカッターシャツなど, 織地素材のシャツを指すと考 えられる。また,「皮縫又ハ縁縫用等種々」とも記されているように, 用途別にも米国製 足踏式が積極的に利用された。この影響を受け, ドイツ製の場合,「目下独逸製足踏ノモ ノハ殆ト売行キナシ」(07年, 528頁)となった。 4 ドイツ製ミシンとシンガー社製ミシン 被服廠以外では優位な立場を占めるようになったシンガー社に対し, 当時の日本市場で はどのような競争相手がいたのであろうか。20世紀の始まりとともに注目されてきたシン ガー社が日本市場で一定の普及性を獲得した後, 08年頃から他社の記載も若干みられるよ うになる。以下で, デュルコップ社を代表とするドイツ製ミシンの叙述を確認しよう。 08年報告でドイツのメーカー名が初めて挙げられた。ドイツ製が低価格のまま改良が加 えられてきたことと, 前世紀末から継続されてきた長年の取引関係などを理由に, 少数と はいえ一定の需要者が存在したという。ドイツ・メーカーでは「十中八九迄づるこつぷ会 社ノ製品ニテ占ムル」(08年, 652頁)。「づるこつぷ社」とは, ドイツのミシン産業勃興期 後半8) , 1865年に創業したデュルコップ社 (Durkop) のことである。 シンガー社中心のアメリカ製と, デュルコップ社中心のドイツ製について, 足踏式・手 廻式の単価比較が行なわれている。アメリカ製の場合, 足踏式が1台40∼130円, 手廻式 は20∼50円, これに対し, ドイツ製の場合, 足踏式30∼50円, 手廻式は6∼25円であった (08年, 652頁)。これらのうち, 最も「需要多キハ米国製足踏用ニテ七十円位, 手廻用ニ テ四五十円位ノモノ, ドイツ製足踏三十五円, 手廻ニテ六円位ノモノナリ」(08年, 652∼ 653頁)。 09年報告でも, デュルコップ社を筆頭にドイツ製ミシンが低価格を土台に, 品種改良が 8) アメリカでミシン開発・実用化が始まった1850年代前半, ドイツではエリアス・ハウ(アメリカ) のミシンが紹介された。アメリカ製ミシンの分解・模倣によってミシン製作が着手され, ドイツの ミシン産業は50∼60年代に成立した。当時のドイツではミシンが「鉄の家政婦」と呼ばれた。これ らの点については, 若尾祐司「第一次大戦前ドイツにおけるミシンと女性労働」(長谷川博隆編著 『権力・知・日常 ヨーロッパ史の現場へ 』名古屋大学西洋史論集2, 1991年, 名古屋大学 出版会)に詳しい。

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行なわれている点が強調されている。 殆ト別物タルノ観アルニ至リ, 随テ実用上リシノミナラス, 其値段モ米国品ヨリハ大 ニ低廉ナルニ因リ, 如何ニシテモ本年ノ如キ不況ノ年柄ニ在テハ顧客ニ歓迎セラルル ノ傾向アリ。是レ同品ノ輸入ガ米国品ノ減少セルニ反シテ, 却テ些少ナカラ増入ヲ見 タル所以ナリト云フ(09年, 663頁) 米国製ミシンが輸入減退をみせた09年, ドイツ製ミシンは若干ながらも輸入増加の傾向 をみせる程であった。『年表』データでみる輸出国別推移では把握し得ないドイツ製ミシ ンの変化が如実に理解できる。『年表』金額ベースで, 07年の輸入額に対し, 米国製は08 年・09年の2年間にわたり半減を続け, ドイツ製も08年に半減したものの09年には辛うじ て前年額を維持した。 5 要 約 当該期は, 大きく米国製ミシンがドイツ製ミシンを駆逐していった過程であったとまと めることができる。動力別にみれば, 手廻式ミシンから足踏式ミシンへ輸入比重がシフト したのもこの期間である。この展開を決定づけたのはシンガー社の日本上陸であった。し かし, 従来の研究にあるように, 必ずしも, それは米国製ミシンの完全優位のもとで行な われたわけではない9) 。軍需としてドイツ製ミシンが陸軍被服廠に大量設置された点は看 過できない。 ミシンの民需をみれば, 洋服, シャツ, 襯衣, 皮革製品(鞄・靴), メリヤス製品など, 様々な需要が存在した。これらのうち, 当該時期に初めて登載されるようになった業種・ 製品は, シャツ, 鞄, メリヤス製品である。また,「縁縫用」や刺繍用ミシンも大蔵省の 記すところとなった。 なお, 本文では触れなかったが, 09年報告で「すぺしあるゆにをん」(ユニオン・スペ シャル社)が初出し, 米国ミシン会社間の日本市場内競争が激化する兆しが見えはじめた。 米国ミシン会社は, ミシン種別によって市場競争を生じさせ, オーソドックスな足踏式ミ シンのシンガー社と特殊ミシンの他社という構図が10年代に顕在化していく。 Ⅲ 1910・20年代──日本市場における米国企業間競争 1 全体動向 戦争特需と輸出向けメリヤス業 1910年の報告では「みしん工業ハ茲兩三年来実ニ急速ナル発達ヲ遂ケ」(10年, 654頁) 9) この点, 「はじめに」 で指摘したとおり, 日本ミシン産業史編纂委員会( 日本ミシン産業史』日本 ミシン協会, 1961年), 出口稔編(前掲書), 小原博『マーケティング生成史論』(増補版, 税務経 理協会, 1991年), 桑原哲也「初期多国籍企業の対日投資と民族企業 シンガーミシンと日本の ミシン企業, 1901年∼1960年代 」( 国民経済雑誌』第185巻第5号, 2002年5月)等の研究で は, 米国ミシン会社, とくにシンガー社の完全優位性に焦点を当てすぎる嫌いがある。

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たとある。前年までのミシン輸入は減少気味であったが, 累積したミシンが駆使され, 縫 製業が活況を呈したことがわかる。10年代には, ミシン利用業種がほぼ出揃い, 種々の縫 製業者が, 大規模化, 業種の多様化, 生産体制の複層化などを行なった。この状況によっ て, 10年代には衣服産業の構成が明瞭になった。 この時期のミシン輸入を上下させた大きな背景に北半球で頻発した戦乱, とくに1911年 の辛亥革命, 1914年の第一次世界大戦, 1917年のボルシェビキ革命を挙げることができる。 『概覧』は, メリヤス製品の輸出とミシン輸入とを連動させた分析を数ヶ年報じている。 大まかな流れをまとめよう。 支那動乱ノ影響ニテ春ヨリ九月頃迄ハめりやす工場ノ繁忙ニ連レ, 本品ノ売行キ亦多 カリシカト, 十, 十一月頃ニ至リ, 金融緊縮ノタメニ東京, 大阪市中ニ於テ同工場ノ 破綻ヲナスモノ四五ノ多キニ及ヒシカハ一般ニめりやすノ売行キ減少ト共ニ本品ノ売 行キモ亦減退スルニ至リタリ(12年, 636頁)。 12年前半は, 辛亥革命によるメリヤス製品の特需がミシン輸入の増加をもたらしたが, 後半になると, 10・11月の金融緊縮ゆえに, 東京と大阪を中心とするメリヤス業界の減退 とミシン輸入の減退が連動したとの分析がなされている。辛亥革命による好況はとりわけ 大阪にもたらされたと思われる。本年報告は, ミシン需要先が地域別に記されており, 輸 出向けメリヤス製品の活発であった大阪が輸入総額の7割を占め, 残る3割は, 東京が1 割5分, 名古屋が1割, その他は金沢・和歌山といった傾向にあった。国内メリヤス業界 の不振は, 第一次世界大戦が始まった14年にも続き,「新たに開業するもの非常に少なく 却て失敗破綻せるもの多き程」(14年, 710頁)の状態にあったが, 一部は, 大戦中にもイ ギリスとロシアからの注文がみられた。 同年は, ミシン輸入が格段に減少した年である。『概覧』には, 最たる要因にドイツ製 ミシンの輸入途絶が挙げられている。古ミシンを活用する縫製業者も増加しはじめ, 国内 のミシン需要は大きく減退した。第一次世界大戦はミシン供給側にも影響を与えた。シン ガー社の場合, スコットランドのクライドバンク工場を中心に操短が導入され, 一時的に ライフル生産へ転換した10) 。 イギリスとロシア両国からの衣料注文が増加するのは15年である。輸出向けメリヤス製 品に長けていた大阪のメリヤス工場への衣料注文が集中し, 当地で抱えきれない製造分は 名古屋や東京に委託され, 3地域とも輸出向メリヤス製品の製造に追われることとなった。 イギリスへの輸出も15年6・7月頃から増加しはじめ, 10月頃までは従来のミシン設備に おいて対応してきたが, メリヤス製品の注文が増加するにつれ, 16年には3・4月頃まで ミシン輸入も増加したという。15年から好況に転じた輸出メリヤス業によって, ミシン輸 入は16年以降も増加傾向が続いたが, 18年報告によると,「出兵問題等ノタメ思惑的ニ輸

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入」(18年, 581頁)されることもあったようである。 さて, 10年代を全体的にみると, これらの戦乱は, 工業化過程にある日本の縫製業に好 況をもたらした。とくに, 大阪を中心とした輸出向けメリヤス産業がこれにタイアップし た。ただし, この時期の輸出向け衣料の景気サイクルは戦乱サイクルに左右されるため, 例年, 浮沈の激しいものであった。 この時期は, 輸入額だけでなく, 別稿で論じた輸入台数11) も含め, ミシン輸入が新たな 段階に入ったと考えられる。用途別にみると, 特殊ミシンと称された様々な工業用ミシン や, 一般家庭用に販売された家庭用ミシン, 動力別にみると電動式ミシンの登場である。 以下ではミシン多様化に絞って『概覧』の叙述を追おう。 2 特殊ミシン 1910年報告で, 小規模縫製業者が導入するミシンの種類に関し, 踏み込んだ叙述がある ので引用する。 今ヤ小ナル裁縫店ニテモ本機ノ二三台ヲ備ユルノ勢ニテ, 本機ヲ使用スルモノ大ニ増 加シ, 殊ニ近頃ハ特殊みしんノ需要多キニ連レ, 此レカ輸入ヲ増スニ至レリ。本年輸 入額ノ増進ヲ見シモ, 畢竟此レカタメニ外ナラス, 蓋シ従前ノ環縫みしんヲ使用スル ヨリモ特殊みしんヲ用ユル方, 一層便利ニシテ且ツ利益多キカ故ニテ, 環縫みしんヲ 用ユレハ一日一人ノ収益僅カニ四五十銭ニ過キサレト, 特殊みしんヲ用ユルトキハ一 日四五円ノ収益アリト云フ(10年, 654頁)。 上記引用からは, 特殊ミシンが環縫ミシンに比して生産性が大きいと認識されているこ とが分かる。環縫ミシンは 「chain-stich machine」 の訳語で, 鎖縫式ミシンともよばれた。 環縫ミシンは, 表地の縫目が直線であるのに対し, 裏地には鎖状の縫目ができ, 主にメリ ヤス製品に利用された12) 。「鎖縫(かん縫)みしん」(02年, 653頁)や,「めりやすノ縁カヽ リニ使用スルモノ」(04年, 506頁)である。環縫ミシンは, 性能面で本縫ミシン (lock-stich machine) と比較されることが多い。本縫ミシンの方は, 錠縫式ミシンともよばれ, 表地・裏地ともに直線上の縫目ができ, 最も耐久性の強い堅牢な縫目を作ることができる ミシンである13) 。 さて, 同10年報告を追うと, 本縫ミシンはアメリカ製の主流であり, 特殊ミシンや環縫 ミシンはドイツからの輸入が多かったが, 特殊ミシンですら, 近年はアメリカ製が大きな ウェイトを占めはじめたという。 前節で確認したように, 1900年代のミシンは既に数百種類に及んでいたが, それらの大 半が手廻式ミシンであった。それに対し, 08年報告以後, とくに10年代は足踏式ミシンが 11) 岩本真一, 前掲論文。18年は対前年比で輸入額が3倍, 推計輸入台数が 2.5 倍増加した。 12) 田中千代『服飾事典』増補版, 同文書院, 1973年, 824ページ。 13) 同上, 825ページ。

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中心に輸入され, 各地で利用されはじめていたと考えられる。 10年頃の報告では, 既に動力別の傾向が論じられることは少なくなった。代わりに, ミ シンの用途や品種に対する言及が増加した。種々の部分縫製を可能にしたり, 縫目が多様 なものとなったりする様々な特殊ミシンが普及した。ミシン多様化という事態をはじめ, 大蔵省の把握においても, 衣服産業の多様化においても, 10年代にドラスティックな転換 が生じたことは確かであろう。 手廻式ミシンや足踏式ミシンの動力別を問わず,「小ナル裁縫店」は, 特殊ミシンとよ ばれる部分縫製可能なミシン2∼3台を常設する基準が出来つつあった。 また, アメリカ製ミシンの構成は, 依然としてシンガーが主流で約6割を占めたという。 ユニオン・スペシャル社は「本縫みしんナキタメ僅カニ, 二三分ヲ占ムルニ過キサル有様」 (10年, 654頁)であり, 若干「うゐるかつくす」14) 社のミシンも輸入されていたようであ るが1906年頃から漸次減退した。ドイツ製は「きょーれあ」社やデュルコップ社を筆頭に, 手廻式よりも足踏式ミシンを中心に6社から輸入が行なわれていたが, 1900年のシンガー 社上陸により, 販路縮小が続いた。また, イギリスから輸入されたミシンは少額にとどま るもののアメリカのミシン会社のイギリスでの製造・出荷が大半であった。とくに, シン ガー社のスコットランド・クライドバンク工場からの出荷が中心であったと考えられる15) 。 10年報告では特殊ミシンの強調が目立ったが, 翌11年には, 特殊ミシンが具体的にどの ようなものであったのか, 一層詳しい報告がなされている。 特殊みしんト称スル特別ノ機械ヲ使用スルニ至リシニテ, 従来環縫ニテ済セシモノモ, 其綻ヒ易キタメ二重環縫ヲ用ユルコトヽナリ。又縁ヲトルニ手ニテ縫ヒタルモノモ, 其非常ニ手間トリ且ツ外見ノ悪シキタメニ本機ヲ用ユルコトヽナリ。又縫目ノ点ニ就 キテモらいと式ト云ヘル縫方ヲ用ユルタメ二本針ノみしんヲ使用シ, 其他裾ヲ縫フニ 方リ外面ニ糸ノ出テサル様裾ヲ折リテ纏フテ縫付ケル器械モ使用セラルヽコトヽナリ (11年, 650頁)。 それまで手縫いや環縫ミシンに頼っていた縁縫いは綻びやすいために, 二重環縫ミシン が好まれたことが分かる。また, 縫目を意識した(後の報告では飾り縫い用)2本針のミ シンや, 糸を外面に出ないように裾を纏めて縫い上げるミシンも普及しはじめた。本年報 告書が注目する新形ミシンには, 刺繍用ミシンや布地を自動送りにするミシン等もあった。 これら種々の特殊ミシンは広く利用されているため,「従来特殊トシテ指称セラレタルモ 近頃ニテハ殆ト普通みしんトシテ, 取扱ハルヽニ至レリ」(11年, 650頁)というように, 「普通みしん」と呼びうる程度にまで普及・活用されたことが伺える。そして,「今ヤ何 レノ莫大小工場ニテモ又ハ一個人ノ裁縫店ニテモ, 此ノ種特殊みしんヲ備ウルニアラサレ

14) ウィルコックス (WILLCOX) 社のことで, 後の WILLCOX & GIBBS SEWING MACHINE. 15) 岩本真一, 前掲論文。

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ハ相当ノ製品ヲ作ルコト能ハサル現状トナリ」(11年, 650頁)。 従来から「特殊みしん」は技術的難易度が高く需要層が限られていたが, 1910年前後か らは, メリヤス工場や小規模裁縫店にまで普及することとなった。ここで, 耐久消費財と して一家に一台あった20世紀日本の家庭と「小ナル裁縫店」とが生産体制や業態を異にす るとすれば, 特殊ミシンを数台置ける資金力の有無が大きい。その分かれ道が10年代に形 成されたとみてよい。 このような「特殊みしん」は, 主に米国ユニオン・スペシャル社製が中心であった。シ ンガー社製の場合, 特殊ミシンよりもむしろ本縫ミシンのような, 従来でいう普通ミシン が主力であった。アメリカ本国においても, ユニオン社は特殊ミシンのメーカーとして理 解されていると報告は述べている。ユニオン・スペシャル社は, 先に引用した10年報告で 「本縫みしんナキタメ僅カニ, 二三分ヲ占ムルニ過キサル有様」(10年, 654頁)とされて いたに過ぎないが, 種々の特殊ミシン販売の拡張によって, シンガー社に対抗的なミシン ・メーカーとして日本市場でシェアを延ばしてきた。 このようにアメリカ製ミシンは, 本縫ミシンだけでなく特殊ミシンにおいても日本市場 を開拓していった。12年になると, ドイツ製手廻式環縫ミシンの減少が報告される。ドイ ツ製は「綻ヒ易キ欠点アルタメ漸次ゆにをん会社若クハしんがあ会社製造ノ特殊ミシンヲ 代用スルニ至ルノ傾向」(12年, 635頁)があるとされ, 大蔵省は, 衣料製品の綻びにくさ をミシン評価に加味している。さらにドイツ製ミシンの輸入減退を一層促進させたのが, 「同機取扱代理店ノ契約期限カ前年末ニテ満了」(同上)という事態であった。19世紀後 半に行なわれた契約販売の期限が挙って切れたことがわかる。以後, ドイツ製ミシンの輸 入は第一次世界大戦とともに一旦途絶する。 13年報告でも, 飾り縫い用・刺繍用ミシンも市況を拡大させていた。縁縫いに関する記 載も詳細になされている。まず, 中国向けメリヤス製品に用いられる筒形二本針ミシンと 千鳥縫ミシン, 次いで, イギリスや南洋諸島向け上等メリヤス製品用のオーバーロック・ ミシン等である。筒形二本針ミシンはベッドが筒状になった2本針のミシンで, 飾縫いや 補強縫いに用いられる16) 。 また, 千鳥縫ミシンは, 通称ジグザグ・ミシンともよばれ, 直 線縫だけでなく, 針棒が左右に動くことによって, 千鳥縫を基本にした種々の飾縫いや端 かがりなどが可能なミシンである17) 。オーバーロック・ミシンは二重環縫ミシンの一種で, 主にメリヤス類の縁縫いに用いられる。 3 電動ミシンと家庭用ミシン 電動ミシンの記載が初めて登場するのは1913年の報告である。 昨今ハ各都市ニ於テ電力ノ供給便利トナリシタメ, 二台位ノみしんヲ使用スル工場ニ 16) 井上孝編 現代繊維辞典 センイ・ジヤァナル, 1965年, 490ページ。 17) 田中千代, 前掲書, 825∼826ページ。

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テハ, 従来ノ足踏物ヲ廃シテ動力用ノモノヲ採用スルモノ増加シ, ゆにをん会社製造 ノモノ売行キ多シ。蓋シしんがあ会社製造ノ品モ此ノ種ノ向キニ使用スルモノナキニ アラサレト, 元来同社ノ製品ハ足踏式ニ製作セラレアルタメ構造軽捷ヲ旨トシ, 動力 用トシテハ堪久力ニ於テ聊カゆにをん会社製ニ劣ル處アルニ因ルト云フ (13年, 705∼ 706頁)。 多国籍企業として, 日本市場だけでなく世界市場を席巻していたシンガー社は, 1900年 の上陸後, 日本市場において「構造軽捷」を軸に手廻式・足踏式ミシンを大量に販売して きた。しかし, 電動式ミシンの普及では, 耐久性においてユニオン・スペシャル社に一歩 譲った形となっていた。これまで2台程度のミシンを設置していた裁縫工場では, ひろく 足踏式ミシンから電動式ミシンへとシフトさせていった。 次に, 家庭用ミシンが広範に浸透したことは, 1920年報告で顕著となる。「内国ニ於ケ ル販路ハ家庭向ハ殆ト一般ニ行渡レル」(20年, 495∼496頁)。この時期には, 電動式ミシ ンが工場へ, それに対し, 家庭へは足踏式ミシンが浸透するようになった。シンガー社製 ミシンの特許権が切れたのは1929年のことであったが,「シンガーは永年に及ぶ経験から 代理店制度を設け, 全国津々浦々に販売網を持って居るがこれに追従するまでには多大の 資力を要する」18) と言われたように, この時期までに, シンガー社が工場向け・家庭向け ミシンの販売網を拡大させた結果, 30年代に実用化されつつあった国産ミシン・メーカー にとって, 販売先の開拓は困難なものとなっていた。 25年報告では, シンガー社が上陸当初から導入していた月賦販売の方法と効果について, 以下のように述べられている。 販売方法は十数箇月の月賦払を踏襲せる爲め, 購求者に在ても余りに, 痛痔を感ぜざる ものゝ如く, 初心者にありては附近の代理店より店員を派遣して無報酬にて使用法を指導 せり。「シンガーミシン」本店は米国紐育なるも製造所は労銀の関係に依り英吉利にもあ り, 我国に於ける特約店は横濱, 大阪, 神戸, 朝鮮の四箇所にあり(25年, 354頁。本文 が平仮名になるのは22・23年報告からである)。 1年前後にわたる返済によって, ミシン購入者にとって負担が軽減した点が明記されて いる。また, 代理店から店員を派遣してミシン技術を指導していた。月賦販売は, 縫製業 者だけでなく, 家庭へも採用された方法であった。 無料出張指導は, これはとくに家庭へのミシン普及策の一環であった。一例を挙げると, 福井県遠敷郡で開店していた「シンガー小浜分店」は,「シンガー裁縫機販売附属品一式」 を販売し,「家庭シンガー裁縫無料教授」を行なっていた19) 。 18)『報知新聞』1934年11月20日。特許権に関する記載と引用元は, ともに「神戸大学 電子図書館シ ステム」。

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このような月賦販売による購入者の負担軽減は, 都市部にも農村部にもみられた。「都 市にありては, 財界不況の際とて家庭的内職用として売行良く, 農村にありては, 米価高 き爲め, 購買力旺盛となり売約高も巨額に達せり」(25年, 354頁)。都市部では業界不振 により家庭向けに普及し, 農村部でも, 米価高騰によって購買力が増加した。 なお, 27年報告では, 家庭において, 子供用の洋服が和服よりも安価に作成できるとの 指摘もある(27年, 301頁)。子供向け洋服裁縫のために,「脚部付ミシン」(26年265頁, 足踏式のこと)の売行きが一層増加した。 4 要 約 この時期は特殊ミシンの普及が顕著であった。特殊ミシンは, 動力からみて足踏式と電 動式に二分される。いずれも, 二重環縫ミシン, 縁縫いミシン, 刺繍用ミシン, ジグザク ・ミシン, 自動布送りミシンなど, 各用途別にミシンが多様化されていることが如実に示 されていた。 このようなミシンの広がりは, 1900年代の足踏式ミシンによって開始され, 20年代まで 維持された特徴であった。ミシン多様化は「莫大小工場」や「一個人ノ裁縫店」に影響を 与え, 種々の特殊ミシンを数台設置する設備投資を要求した。また, 足踏式ミシンを軸に, 家庭という新たなミシン市場が開拓されたのもこの時期であった。 26年報告から『概覧』最後の28年報告にいたる3ヶ年に共通して見られる文章を検討し よう。 元来本品は輸入品に俟つものなるに, 近年一般家庭に於ける服装の変遷, 殊に子供洋 服の流行に従ひ, 各家庭に於て裁縫用として使用するもの頓に増加せし爲め輸入を促 すに至れり。 輸入品は従来米国品を主とせるも, 最近は英国品多数を占め, 米, 独品之に次ぐ。英 国より輸入さるゝはリンキングミシン, 靴縫用ミシン等にして工場用なり。米国品の 中, 家庭用として輸入さるゝは本縫式ミシンにして, シンガー会社の製品大部分を占 む。其の他ユニオン会社の製品も多く輸入せられ, 殊にハラクレス, アンテアス及小 麦袋口縫用ミシンの如きは何れもユニオン会社の特製品なり。独逸物は著荷不確実な ると原価の変動多く注文困難なる等の避難あるも, 堅牢にして概して安価なれば, 実 用向として歓迎せらる(26年, 264∼265頁)。 イギリスから輸入されるというリンキングミシンは, いわゆる「リンク式天秤方式ミシ ン」のことで, ミシン構造による種別名である。天秤上部をピンで連結させることで摩耗 を減らすことによって, それまで一般的であった「カム式天秤方式ミシン」に比して高速 19) 東京合資會社商工社編纂『増訂五版 日本全國商工人名録』福井県版, 1914年(所収は, 渋谷隆一 編『都道府県別 資産家地主総覧』福井県版, 日本図書センター, 1991年)。

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であった。カム式が主に家庭用として販売されたのに対し, リンク式は工業用に販売され た20) 。 また,「ハラクレス」(ヘラクレス),「アンテアス」は, 報告にあるとおり, ユニオン・ スペシャル社製ミシンの一種で, 袋口縫用として販売された。さらに, ヘラクレスは, テ ニスの網, 漁網, 絨緞, クッション, 馬具などの縫製用としても利用可能で, アンテアス の方は, 付属品を使うことによって, 革靴やゴム靴の底革に縫目の溝を掘り込み, 同時に フェルトを縫合させることが可能であった21) 。 最後に, 注目すべきは, 26年の上記引用箇所が28年まで繰り返し利用されていることで ある。上記の叙述が終わると, 各年の輸入動向を簡単に紹介するという報告形式になった。 およそ, 輸出元メーカー, ミシン種別と用途, ミシン利用業者, 工業用・家庭用の区別と いった観点において, 輸入ミシンのパターンが20年代中期に固定したといえる。およそ35 年間にわたる『概覧』のミシン報告は暗中模索から始まったが, 大蔵省のミシン把握の道 程は,『概覧』最後の構造的理解として, 上記引用箇所に結実したとみることができよう。 Ⅳ ミシン多様化の諸相 1 ミシン種別の趨勢 ここで, 動力別ミシンの趨勢について振り返ろう。ミシン輸入国とミシン種類との推移 において, ドイツ製手廻ミシン→アメリカ製手廻ミシン→アメリカ製足踏ミシン→アメリ カ製電動ミシンという段階を経てきたことが分かった。『概覧』を振り返り, 日本に輸入 されたミシンのうち, 縫製業向けミシンのみに絞れば, ミシン種別の趨勢は表1のように なる。 アメリカ製手廻ミシンは1900年前後から普及しはじめ, 1907年頃からアメリカ製足踏ミ シンが主流となった。工場で用いられたミシンの動力別推移は, 19世紀後半・20世紀初頭 の手廻式から始まる。 足踏式ミシンの市場浸透が明記されたのは1904年の報告である。ドイツ製からアメリカ 20) 田中千代, 前掲書, 824, 826ページ。 21) 蓮田重義『工業用ミシン総合カタログ』工業ミシン新報社, 1958年, 183・206ページ。 表1 ミシン種別の趨勢 出典:大蔵省主税局編『外国貿易概覧』より筆者作成。 日本における最新ミシン 19世紀後半 ドイツ製手廻式 1900年代 米国製手廻式・米国製足踏式 1910年代 米国製足踏式・米国製電動式 1920年代∼ 米国製電動式

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製へのシフトは足踏式ミシンの普及に重なった形で展開した。ドイツ製は, 故障が少ない がステッチ速度で劣るとの報告があった。足踏式ミシンの多様化については, 1902年報告 が最初である。これ以後,「靴屋向け」,「洋服屋向け」,「鎖縫(かん縫)みしん」等, 業種 別や縫合用途別に輸入動向が報告されるようになった。1910年前後からは, 部分別多様化 や材料生地別ミシンの報告も行なわれ, 1911年には, もはや特殊ミシンが, 特殊ではなく 「普通」, すなわち広範に普及したとの報告がなされた。足踏式ミシンの多様化には, ア メリカのミシン・メーカー数社の日本市場棲み分けという事態が対応した。 「動力用」ミシンとして電動ミシンが最初に報告されたのは1913年のことであり, 電力 インフラに結合した形で述べられた。主な普及先となった一部の縫製業者・工場では, 足 踏式ミシンから電動ミシンへシフトした。電動式特殊ミシンにおいても, 足踏式と同様に, アメリカのミシン会社間の競争と棲み分けが生じた。 また, ユニオン社製電動式ミシンとシンガー社製足踏式ミシンの棲み分けが頻繁に報告 された。ユニオン社の強みは「動力用トシテハ堪久力」, シンガー社足踏式の強みは「構 造軽捷」にあった。 22・23年報告では,「米国物の中家庭用として輸入せらるヽは, 本縫式ミシンにしてシ ンガア会社の製品大部分を占む, 工場用にては地縫用二重環縫, 二本針, 三本針, おばら つく, 八字ミシン等を主とし, 此等は例年多く輸入せらるヽものなる」(22・23年, 308頁) とある。「おばらつく」とは二重環縫いの一種, オーバーロック・ミシンである。このよ うに, ミシン品種の淘汰や棲み分けは, 動力別と品種別で展開した。 2 足踏式ミシンにみる多様性 初期の足踏式ミシンは手廻式兼用であった。手廻式から足踏式へのシフトは, 手回し部 分の駆逐を意味せず, 1台で技術移転が可能であった。 ミシン多様化の物的要因は足踏式ミシンの登場であり, 作業的要因としては両手が自由 になる点を挙げることができる。その意味で, 足踏式は, 後に普及した電動式特殊ミシン の開発・普及の可能性を内包したものであった。 10年代になってもさまざまな製品別ミシンや用途別ミシンが輸入され続けたが, この時 期は, 軍用手袋用, 木綿製肌着用, 婦人用ショール・子供用マント用, セーター用, ブル マー・ニッカース用等, 衣料製品別のミシンがさらに多様化した。この時期の特徴として, 衣料製品別に編成されたミシンと, 縁縫いや刺繍など部分縫製を行なうミシンの双方によ って, 1商品を作り出すという作業が要求されるようになった。 また, シンガー社の製品在庫戦略として, 一部, 足踏式ミシンの家庭販売も展開された。 足踏式が電動式の多様性を内包していたことは, 家庭に設置されたミシンも同様である。 家庭用ミシンは, 1920年代に全国へ広範に普及したとの報告がなされた。電力供給がなさ れている場合は電動式ミシン, 供給が間に合っていない場合は足踏式ミシンが主に普及し たと考えられる。いずれにせよ, 家庭におけるミシン利用においても, ミシン多様化の影 響を受けており, 工業用・家庭用ミシンを問わず, 家庭に設置されたミシンも,「近年小

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児洋服流行ノ爲家庭用ニモ此ノ種向みしんノ需要増加シ亦本縫用みしんノ此ノ向ニ売行ク モノ増加セリ」(21年, 483頁), と指摘されたように, 内職・受託生産, 独立操業的生産, 自家消費目的生産のいずれの目的においても, 子供向け洋服などの生産が家庭内で可能で あった。 ここで一つの事例として, 19世紀末から1940年代にかけて操業していた兵庫県姫路市鍛 冶町の藤本仕立店に設置されていたミシンの種別を紹介しよう。藤本祥二氏文書の「裁縫 機登録調査書」(1940年)には, 40年時点での藤本所有ミシン40台について, それぞれ, 裁縫機製造会社名, 型式, 記号, 番号(シリアル番号), 電動足踏手廻の別, 設置年月, 運転開始年月等が記されている22) 。裁縫機製造会社名は全てシンガー, 形式は「本縫一本 針」が39台,「穴カガリネムリ」が1台であった。記号はミシン種別を記す重要なもので, 「4413」が33台,「103」が5台,「31」と「711」が1台ずつである。 シンガー社が上陸当初に刊行したカタログ2種類からは23) , 藤本所有4種のミシンを確 認することはできない。しかし, 記号「4413」と「31」の2種類は, 機種を示す「44」 や「31」の部分がカタログの「機種」,「4413」の「13」にあたる部分はカタログの「番 号」に対応しており, いくらかは用途を類推することが可能である。カタログの「第31種 第15号(3115)」の場合,「足踏力・機関力」を動力に, 羅紗, 革類の縫製に向いていた。 また, 第44種は種類が多く, カタログでは9種類が紹介されている。 表3はシンガー社のカタログ「諸製造所用裁縫機械目録表」をまとめたものである。当 時の日本で販売されていた同社製品の全てが掲載されているわけではない。 44種全体の特徴は「両針・両梭組織」の箇所に記されている。同種は様々な衣料その他 の製品を縫製できたことが分かる。ただし, 注意すべきは, 44種のいずれもが縁縫い用と して種々の製品に活用可能であったという点であり, 万能型ではあるが, 刺繍, ゴム飾り, ボタン縫付けなど, 特殊な用途には向いていない。44種はむしろ従来からいわれてきた 「普通ミシン」と考えて差し支えない。 『概覧』で頻出した「特殊ミシン」とよばれる様々なミシンも, ごく一部に過ぎないが, 表2から確認できる。例えば,「馬車内部の装飾及び馬具等の革類」向け留め縫い用(第 3種第1号)や, ボタン・ホール製作用(第23種の一部),「ボタン縫付け」(第16種第69 号, 二つ孔ボタン・四つ孔ボタン・金属製打貫ボタン),「管形・凹円形全般。とくに靴の 表面」(第18種第1号)などであり, 当時のミシン品種の多さがわかる。 3 衣服産業の趨勢──裁縫製品とメリヤス製品 『概覧』で取り上げられた製品には, 軍服, 洋服, シャツ, 靴・鞄, メリヤス製品があ った。なかでも, 1900年代・1910年代にみられた足踏式ミシンの普及によって, 利用業種 22) 一覧表は, 岩本真一, 前掲論文を参照されたい。 23) シンガー製造会社『諸製造所用裁縫機械目録表』(南中社, 1901年), シンガー製造会社『シンガー 裁縫機械使用法 第15, 27, 28種』(1901年)。主に, 前者が工場用・業者向け, 後者が家庭向けで ある。

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表 2 製造所向けシンガー社カタログ登載機種一覧(1901年) 出典:シンガー製造会社『諸製造所用裁縫機械目録表』南中社, 1900年より作成。 注:動力のうち, 明記されていない場合は附された図から判断し, ( )を入れて補った。 機種 番号 動 力 用 途 特 徴 第3種 第1号 (手廻式) 革類 (馬車内部の装飾及び馬具等) 留め縫い用 第7種 第1号 足踏力 厚地織物,革類,帆布等 1センチの8分の5の厚さを縫える。縫目は最大0.5イ ンチ長。 第15種 第41号 足踏力・機関力 薄地布帛類 縫針から腕底まで6.5インチ。 第31種 第15号 足踏力・機関力 羅紗, 革類 迅速な留め縫い用。第 15 種に比しより厚地の縫製が可 能。「洋服店及び諸裁縫師等凡て異形なる縫物を多く裁 縫するに適当」。 第44種 第4,7,8号 汽力・電気力 布帛類,革類 縁裁り飾り用附属具 (小刀) 装着可能。とくに第8号は, 「仕立屋,シャツ及び婦人用外套製造者等に最も博く」 用いられる。 第44種 (両針・両梭組織) 靴, 上靴, 靴の甲掛, コルセット (腰部, 蓋部含む), シャツ, 襯衣, ズボンつり, 襪帯, カラー, カフス, 婦 人用外套, 雨衣, 畦綿布製ズボン (労働者用), 外套, チョッキ, 「及び凡て衣服類を製造するために最も博く 使用せらる」 もの。 縫針2本・動揺梭2個の組織で, 二列の留め縫い可能。 縫目と縫目の距離を1インチのの32分の1から1.5イン チまで伸縮可能。 第35号 (足踏力・汽力) コルセット(腰部, 蓋部含む), シャツ, 綿紗襯衣, 婦人 用下衣, カラー, カフス, 男女子供用衣服等。 第36号 (足踏力・汽力) カラー, カフス 第37号 (足踏力・汽力) シャツ袖等 第32号 (足踏力・汽力) 革類 (靴等) 第33号 (足踏力・汽力) 靴専用 縫針1本を停止できる。 第34号 (足踏力・汽力) 靴専用 第23種 足踏力・汽力 ボタン・ホール製作用。布地は, 革類, 羅紗, 布帛。 ボタン孔開通用の小刀付き。織物の品質により, 縫目を 縫付けた後ボタン孔を作るか, ボタン孔を先に作って飾 縫いを後にするか選択可能。 第2号 (足踏力・汽力) 婦人用ボタン留靴。 第13号 (足踏力・汽力) カラー, カフス, 婦人用肌衣, 上被等。 第22号 (足踏力・汽力) 第16種 第69号 ボタン縫付け (二つ孔ボタン, 四つ孔ボタン, 金属製打 貫ボタン)。 第17種 第1号 足踏力・機力 革類・布帛類。特に, 製靴・紙入れ・写真入れ・折本, 手提げカバン等, 革製なる袋物。シャツ袖など 「管形」 の縫物・袋物にも応用可能。 第18種 第1号 足踏力・機力 管形・凹円形全般。とくに靴の表面。 第19種 第11, 12, 13, 14号 足踏力・機力 総じて円筒形を有する, とくに革類 (靴のゴム飾り, 靴 の後舌, 靴後部の縦縫い, シャツ, ズボン, 編物類, 折 り合わせ縫い, 縫目を接合するなど)。 第24種 第3号 (足踏力・機力) 肌衣, 靴下, 編物類, 婦人用衣類の裾, 布帛製帳物類 単糸鎖縫い。「縫出する縫目は一筋の糸にて切地の裏に 恰も鎖形編物を成したる如き細工を成し且糸を堅く切地 に詰めて縫ふ時は平らなる留め縫ひと成り又縫糸を緩め て縫ふ時は其縫ひ目に弾力性を有せしむるが故に縫ひ上 ケし後之を自在に伸縮し得るなり」, そのためには 「粗 き絹糸又は木綿糸を用ふべし」 (23頁) 第32種 第1号 (足踏力・機力) 布帛類, 薄地の革細工など。とくに, ズボン, 上被, 帽 子, 手袋, 婦人用上被, ズボン釣り, 靴下, 編物類, シ ャツ, カラー, 旗の飾縫い, 一般の洋服裁縫師など。 縫えない物はないほどの需要拡大が強調されている。 第29種 第4号 (足踏力・機力) 靴・長靴修復, 毛皮細工師, 上靴縁取り縫い, 学校用革 袋, 馬具類, 靴飾り, 靴後部のゴム飾り, 自転車用小道 具入袋など。 木製縫台を嵌め込むことで, 「普通裁縫機械」 として利 用可能。 第34種 第2号 (足踏力・機力) 凹形物内部縫製 (手提げカバン, 紙入れ, 革製写真・折 本など) 縫目の筋を細密に屈曲することが可能。 第33種 麻布類, ハンケチーフなど (レース挿入縁縫い)。 縁縫襞襠裁縫用。 第10号 (足踏力・機力) ハンケチーフ, 襟飾り, 婦人用下衣, 婦人用被衣, 子供 用衣類, その他類似品。 1分間に1,700の縫目可能。ハンカチの襞襠を自然に折 りたたむ器具付き。

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はほぼ出揃い, 同年代に衣服産業のパターンが形成されたと考えられる。 既に指摘したように,『概覧』では, 1910年代には特殊ミシンが広範に普及しているた め, 普通ミシンというべき程であると記されていた。特殊ミシンは, 利用生地からみた場 合, 織地縫製(裁縫)向け, 編地縫製(メリヤス)向け, 皮革縫製(鞄・靴など)向けに 大別できる。そのうち, 前2者の裁縫製品とメリヤス製品には衣料製品が多くを占めた。 両者は, ミシン多様化の諸相を背景に, どのようにして統計上に現われるのか。この点 について, 本節では『工場統計総表』を参照し, 裁縫製品(織地縫製)とメリヤス製品 (編地縫製)を中心に検討する。 最初の『工場統計総表』は, 1909(明治42)年調査として2年後の11年に刊行された。 以後, 基本的には5年ごとに集計されたが, 一部大正期は毎年調査が行なわれている。以 下では, 09年, 14年, 19年, 24年調査の4ヶ年に分析を絞る。4ヶ年は, ともに職工数5 名以上の工場を対象としている。  裁縫製品──「洋服及コート類」 1909年の「工場分類」では「裁縫品」であったが, 1914年に, 和服, 洋服及コート類, 襯衣及股下, 足袋, 其他の5種類に分割計上された。19年は変化なく, 24年には「ハンカ チーフ」が追加されている。09年調査では, 47都道府県のうち37が何らかの裁縫製品を製 造していた。以後, 40, 40, 42と, 職工5名以上の裁縫工場が設置されている都道府県数 は漸増した。 裁縫製品のうち「洋服及コート類」を例に取ると, 生産額の上位10位は表3になる。こ こでいわれる「洋服及コート類」は, およそ『概覧』でいわれた洋服と外套にあたると考 えられる。 さて, 大阪と東京以外の地域はすべて順位変動が激しい。主な生産者には,『概覧』で 「一個人ノ裁縫店」と記されたテーラーが考えられるが, 彼らには職工5名を擁する者と 擁しない者がおり, 表3の中心的な主体とは言い切れない。また, 初期テーラーの主要活 動地である兵庫県と神奈川県が上位を占めていない点を考慮しても, テーラーだけが「洋 服及コート類」生産の主軸であったのではなく, 様々な規模の洋服工場も大きな担い手に なっていたと考えられる。たとえば, 大阪の小規模な受託工場を例に挙げると, 30年代後 半で1業者平均7名という規模であり, 主に, 洋服, 団服, 婦人服, 子供服, トンビなど を問屋から下請加工していた24) 。 つぎに,「洋服及コート類」の生産額を全国展開という観点からみる。図1は縦軸に都 道府県別生産額をとり, 横軸に生産都道府県を生産額の大きい順で列べたグラフである。 10年代から20年代にかけて生産地域全体での産額増加傾向が確認できる。産額1位の地域 が増額するだけでなく, 横軸の幅, すなわち,「洋服及コート類」生産地域の増加や, 5 位∼10位前後の地域の産額増加が著しい。 裁縫製品では, ミシン設置自由度の高さ(ミシンの高度なモバイル性)25) ゆえに, 産地 24) 大阪市役所『洋服受託製造工業の現況』(大阪市中小商工業調査資料 第十三篇), 1940年12月調。

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形成が生じにくい場合がある。「洋服及コート類」のように, 衣服文化からみて全国的流 行を示した品目の場合, このことはとくに当てはまる。逆に, 学生服の場合, 岡山県のよ うに産地形成がなされたことがある。「洋服及コート類」にみる全国展開との違いは, 学 生服の服地が厚手であり, 生地産地に依存していた理由が考えられる。また, それに付随 した取引慣行も多分に影響したであろう。岡山県の学生服産地化は, 織物産地にミシンが 普及し, その織物に起因した織地縫製が産地化したケースである26) 。 図 3 生産額の地域的散らばりからみた「洋服及コート類」の全国展開 出典: 工場統計総表』各年版より作成。 90 80 70 60 50 40 30 20 10 0 1 万円 3 5 7 9 11 13 15 17 19 21 23 25 27 29 31 1914年 1919年 1924年 表 3 「洋服及コート類」の産額上位10都道府県(円単位) 出典: 工場統計総表』各年版より作成。 ①1914年 大 阪 272,215 東 京 195,851 福 岡 152,450 京 都 61,606 三 重 59,250 高 知 58,770 熊 本 48,240 広 島 45,500 石 川 28,993 佐 賀 25,800 ②1919年 東 京 655,641 兵 庫 274,670 三 重 237,550 京 都 148,560 大 阪 108,875 長 崎 108,000 愛 知 85,880 熊 本 79,318 神奈川 72,120 広 島 71,150 ③1924年 大 阪 811,027 東 京 729,001 広 島 700,108 長 崎 556,445 山 口 471,320 愛 知 417,980 兵 庫 363,000 京 都 359,737 北海道 262,839 三 重 216,565 25) ミシンの小型と分散性については, 岩本真一, 前掲論文を参照のこと。 26) 岩本真一, 前掲論文。

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 メリヤス製品──「シャツ及ズボン下」 『工場統計総表』では, メリヤス製品は, 1909年に「莫大小」, 14年に, シャツ, ズボ ン下, 靴下, 手袋, サル股, 其他に区分される。さらに19年には素地(メリヤス地)が付 加され, 24年にはシャツとズボン下が「シャツ及ズボン下」として一括された。なお, メ リヤス製品のシャツは, ワイシャツやカッターシャツではなく, 肌着のシャツである。 メリヤス製品のうち,「シャツ及ズボン下」の産額上位10位を示したのが表4である。 上位3都府県は固定的で, 以下, 奈良県, 三重県など近畿圏の産額が大きい。『概覧』にあ ったように, 同じメリヤス産業でも, 大阪は輸出向け, 東京・愛知は国内消費向けに棲み 分けが行なわれていた。①のとおり, 14年時点で大阪の産額が東京・愛知の合計に比べ4 倍以上の大きさを占めているのは, 10年代に生じた戦争特需が大きい。以後, 19年と24年 では, 大阪府と, 東京都・愛知県の比率差は縮小した。 先の「洋服及コート類」と同じように, 全国展開という観点から産額趨勢を作成したの が図4である。本図からは,「シャツ及ズボン下」が3∼4地域に集中していることが分 かる。24年には, 19年よりも縮小傾向すらみせている。都道府県の増加も大きくなく, 14 年・19年の10都府県に対し, 24年は増加数3に留まった。 『概覧』で繰り返し述べられてきたように, とくに輸出メリヤス製品の場合は軍需が中 心であり, 戦乱に左右される側面が強かった。職工5名以上の工場のみという限定つきで はあるが, 国内消費が順調に伸びていたとしても, 輸出向け製品は産額増減が著しかった ことが確認できよう。なお, メリヤス製品のうち「手袋」は「シャツ及ズボン下」に近し い傾向が確認される。 これに対し,「靴下」についてみると, 14年に13都府県, 19年・24年には25都道府県ま で増加しており, 生産地域の多さが「シャツ及ズボン下」の場合と異なる。他方で, 産額 表 4 「シャツ及ズボン下」の産額上位10都道府県(円単位) 出典: 工場統計総表』各年版より作成。 ①1914年 大 阪 2,707,286 東 京 422,167 愛 知 202,798 奈 良 193,861 三 重 76,214 兵 庫 63,330 神奈川 12,300 香 川 9,000 富 山 6,000 石 川 2,880 ②1919年 大 阪 12,300,953 東 京 8,050,505 愛 知 2,087,777 神奈川 585,518 奈 良 577,000 三 重 243,762 香 川 200,000 兵 庫 40,000 長 野 8,040 広 島 8,000 ③1924年 大 阪 11,733,553 東 京 5,212,547 愛 知 2,690,936 奈 良 578,695 三 重 433,983 和歌山 150,000 島 根 100,000 兵 庫 82,930 神奈川 63,220 長 野 60,000

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