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著 者 ( 昭 和 38 年 8 月 山 中 i~-,t 泉 に て) 搬 影 小 島 啓 佑 ( 税 制

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(1)

昭和国民文学全集

10

山本周五郎集

(2)
(3)

山本周五郎集

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君主

薮 不 聾 箭 松 本

の 断 言

の 婦

鈴 寧 蔭 草 品 竹 花 道

一 口 = 一 三三 区割 ヨ ー 主 主 一 四 五 糸 一 五 五 風

(4)

桃 尾

完花

戸 川 /可、 にコ / 、 プu 耳 き 丸 Cコ Cコ 二十三年 巨耳

おたふく物語

妹の縁談 ヨ

三三 湯

1

台 1Z3tl xr. おたふく -2 六 一 一 一

若き日の摂津守

f、与 アb

雨あがる

定ヨ 三己

(5)

木 村 久 遡 典 区童書 塁王

解.

::山本健吉田喜

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土岐雄三氏宛“はがき..(昭和26年1月12日)

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の ;,: も や 、 小雨が露のようにけぶる夕方、両国橋を凶から東へ、さ ぷが泣きながら渡っていた。 ι ﹄ a F 払 九 ﹄ M ド レ e 双子縞の着物に、小倉の細い角帯、色の伊せた黒の前掛 をしめ、頭から濡れていた。雨と涙とでぐしょぐしょにな った顔付いときどき手の甲でこするた明い限のまわりや艇 か ら 日 が巣く斑になっている。ずんぐりした躯づきに、顔もまる と M く、頭が尖っていた。││彼が僑を波りきったとき、うし ろから栄二が追って来た。こっちは官せたすばしつこそう ま ゆ し ま な躯つきで、おもながな顔の濃い眉と、小さなひき緊つた J 、 払 リ バ u 弘 唇が、いかにも賢そうな、そしてきかぬ気の強い性質を あらわしているようにみえた。 、 、 ふ さ 、 栄ニは追いつくとともに、さぶの前へ立ち塞がった。さ ぶは術向いたまま、栄二をよけて通りぬけようとし、栄二 はさぶの肩をつかんだ。 ﹁ょせったら、さぶ﹂と栄二が云った、﹁いいから帰ろう﹂ 、 、 ふ む せ さぶは手の甲で限を拭き、咽びあげた。 き 3 ﹁帰るんだ﹂と栄二が云った、﹁問えねえのか﹂ か さ い 、 ﹁いやだ、おら葛西へ帰る﹂・とさぶが云った、﹁おかみさ んに出ていけって云われたんだ、もう三度めなんだ﹂ 品 の ど ﹁あるきな﹂と云って栄二は左のほうへ顎をしゃくった、 ﹁ 人 が 見 る か ら ﹂ 二人の少年は橋のたもとを左へ曲った。雨は同じような 調子で、殆んど音もなくけぶっていた。 ﹁おらほんとに知らなかったんだ﹂とさぶが云った、﹁ゆ と だ な うべ粉袋を戸納へしまってたときに、勝手で使うから一つ 出しておけって、おかみさんに云われた、だから一つだけ 残しといたんだ、そしたらその袋が出しっ放しになってて、 おかみさんは使ったあとでしまっとけって、その袋を返し たのに、おれがしまい忘れたっていうんだ﹂ ﹁癖だよ、癖じゃねえか﹂ ﹁粉が湿気をくっちゃった、へまばかりする小品川だって﹂ 、 、 た 、 と ま さぶは立体って、手の甲で限のまわりをこすりながら泣い た、﹁l│おら、返してもらわなかった、そんな覚えはほ んとにねえんだ、ほんとに知らなかったんだ﹂ ﹁癖だってば、おかみさんはなんとも思っちゃあいねえ よ ﹂ ﹁だめだ、おら、だめだ、ほんとにとんまで、ぐずで、││ 自分でも知ってた、とても続けられやしねえ、もうたくさ 、 、 の ど んだ﹂さぶは喉を詰まらせた、﹁おら、思うんだが、いっ そ葛西へ帰って、百姓をするほうがましだって﹂

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4 広い河岸通りの、右が武家屋敷、左が大川で、もう少し お り す け ゆくと横綱になる。折助とも人足ともわからない中年の、 か さ ふうていのよくない男が二人、穴のある傘をさして、なに かくち早に話しながら、通りすぎていった。その男たちの、 ほ ん て ん す ね 半纏の下から出ている裸の闘はが、栄こにはひどく寒そうに みえた。さぶはあるきだしながら、小舟町の﹁芳古堂﹂へ 奉公に来てから三年間の、休む暇もなくあびせられた小言 ちょうしよう ど噺笑と平手打ちのことを語った。それは訴えの強さでは なく、赤児のなが泣きのよシな、弱よわしく平板なひびき い し を持っていた。大川の水がときたま、思いだしたように石 が き た た つ ぶ や 垣 を 叩 き 、 低 い 咳 き の 立 日 を た て た 。 つ 許 り ﹁奉公が辛いのはどこだっておんなしこった、おかみさん の口の悪いのは癖だし﹂と栄二はつかえっかえ云った、 ﹁それにおめえ、女なんでもともと、

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車 だ ﹂ 、 、 さ わ 栄二がさぶの腕に触り、二人は立停って川のほうへよけ ひ た。からの荷車を曳いた男がうしろから来て、二人を追い ぬ い て い っ た 。 つ れ ﹁腕に職を付けるのは辛えさ﹂と栄二は続けた、﹁考えて みな、葛西へ帰ったって、朝から晩まで笑ってくらせやし らく ねえだろう、それとも百姓はごしよう楽か﹂ ﹁葛西のうちなら﹂とさぶが云った、﹁出ていけなんて云 われることだけはありゃあしねえ﹂ ﹁ ほ ん と に そ う か ﹂ 、 、 へ ん じ さぶは返辞をしなかった。栄二も返辞を期待していなか った。さぶは葛西にある実家のことを考えてみた。腰の曲 ぜ ん そ ︿ った端息持ちの祖父、気の弱い父'ど、男まさりで手の早い H A A U 母、朝から母と喧嘩の絶えない口やかましい兄嫁、三人い の お い め い る弟妹位、呑んだくれの兄と、五人もいる甥や姪たち。う す暗く煤だらけな、古くて狭くて、ぜんたいが片方へ傾い ている家ゃ、五反歩そこそこの痩せた田畑など。さぶは途 方にくれ、しゃくりあげながら、またあるきだした。 ﹁おめえにゃあ田舎がある﹂いっしょにあるきながら栄こ が云った、﹁どんなうちにしろ帰るところがあるからいい、 ひ と だがおらあ親きょうだいも身寄りもねえ独りぼっちだ、今 年の春、おらあ庖を迫ん出されるようなことをしちまった、 追ん出されるか自分でおん出るか、どっちか一つという、 とんでもねえことをしちまったんだ﹂ さぶはそろそろと振り向いて、栄二の顔を見た。好奇心 からではなく、戸惑ったような限つきであった。栄二はふ きげんな、怒ってでもいるような口ぶりで、自分が去年か ぜ に よ し ら幾たびか帳場の銭をぬすみ、それを主婦のお出にみつか ったのだ、と告白した。 そ ぼ う な ぎ か ば や き ﹁わこく橋の側の堀っぷちに鰻の蒲焼の屋台が出る﹂と栄 に お か 二は続けた、﹁おらあ蒲焼の匂いを喚ぐとがまんができな く な る ん だ ﹂ た ふ 通りがかりにその匂いを喚ぐと、喰ぺるまでは胃の拙聞が おさまらない。気持もおちつかず、することが手につかな い。まるで病気のようになってしまい、ときには手足がふ

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ぶ るえだすことさえあった。帳場の銭箱から銭をつかみ出し たのはそういうときで、去年の秋から十二、三たび盗みだ したろうか、食いたい了心で悪いことをしたとは思わなか った。それがこの二月、主婦のお由にその部屋へ呼ばれた。 ﹁おかみさんは小言は云わなかった﹂と栄二は泥でも噛む ように、顔をしかめながら云った、﹁

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去年の八月五日 と、昨日、おまえが帳場でやったことをあたしは見たよ、 もうあんなことはおよし、欲しかったらあたしがあげるか ら、あたしのところへそう一おっておいで、って、││それ っ き り だ っ た ﹂ お山は二度だけしか見なかったのだろうか、それともす っかり知っていて、わざと知らないふうをよそおったのか、 いずれにもせよ、栄二は死ぬほど恥じ、もう庇にはいられ ないと思った。自分をぬすっとだなどとは考えもしなかっ たが、銭箱から銭をつかみだした自分の姿が、あさましく て恥ずかしくて、そのまま庄にいる気になれなかったのだ。 ﹁だが、屈をとびだしてどこへゆく﹂と栄二は続けた P おおのこ ﹁おらあ八つの年、大鋸町で夏火事にあい、両親と妹に焼 し ら う お が し け死なれた、おれ一人は白魚河岸へ釣りにいっていて助か ったが、ほかに身寄りは一軒もなかった、おやじは伊勢か ら出て来たと云ってたが、伊勢のどこだかおらあ覚えちゃ たよ あいねえし、覚えていたって頼ってゆけるもんじゃあねえ、 おらあそのときくれえ自分にうちのねえことが悲しかった とたあなかった﹂ き 5 ﹁知らなかった、おら、ちっとも知らなかった﹂とさぶが 咳 い た 、 ﹁

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それで栄ちゃんは、がまんしたんだね﹂ ﹁銭も二度とはぬすまなかった﹂ 二人は横綱の河岸まで来てい、さぶが立停って、地面を ぞうり みつめ、濡れて重くなった草履の先で、地面を左右にこす っ た 。 ャ ﹁おら、田ゅうんだが﹂と彼は心のきまらない口ぶりで云っ た、﹁││小さいじぶんおふくろにぶたれたことがある、 弟のやつがいたずらをして、それをおれがしたもんだと思 ってぶつた、おら、泣きながらおれのしたことじゃあねえ って云って、それから、弟のしたことだとわかったとき、 おふくろは平気な顔で云った、それじゃあおまえはこれま でに、ぶたれるようなことは一度もしなかったっていうの かい、ってさ﹂ ﹁女なんてそんなもんだ﹂と栄二が云った、﹁撫でた手で つねるし、つねった手で撫でるようなことをする、そして どっちもすぐに忘れちまうんだ、 -11 少しはおちついたか、 さぶ、もうここいらで帰ってもいいだろう﹂ さぶは不決断にううと云った。 ﹁ありがと﹂とさぶはよく開きとれない戸で云った、﹁ご めんよ、栄ちゃん﹂ ﹁こんどは黙ってとび出さねえでくれよ﹂と栄二は一五った、 ﹁これからはなんでもおれに相談してくれ、カになるから な ﹂

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、 、 う な ず きぶはゆっくりと領いた。 二人は引返した。そして両国橋まで戻ると、うしろから あ え 十二、一一一になる少女が迫って来て、せいせいと端ぎながら 芦 を か け た 。 ﹁この傘をさしなさいよ﹂と少女はから傘を二人のほうへ 差出した、﹁姉さんのとこへ持ってゆくんだから、方角ち がいじゃだめだけれど、さあ、さしなさいよ﹂ 栄二は少女を見た。自分でさしている傘は穴があいてい つ お う め じ ま あ わ せ た。着ているのも継ぎのあたった青梅縞の古拾で、帯はよ T 乙 れよれだし、はいている干駄はちびたおとな物で、それも は な お すっかり鼻緒がのびているから、泥のはねた足指をまむし に し て い た 。 ﹁いらねえよ﹂と栄二が云った、﹁おれたちは小舟町へ帰 るんだ、さっさといっちまいな﹂ ﹁あら、ちょうどいいじゃない﹂と少女はうれしそうに笑 った、﹁あたしは堀江町よ、堀、江町のすみよしっていうお 庇に姉さんが勤めているの、だからあたし、あんたたちの うちまで送っていってもいいのよ﹂ ﹁うるせえな﹂と栄二が云った、﹁傘なんかいらねえって 云ってるじゃねえか﹂ ﹁だって二人ともびしょ濡れじゃないの、 してらっしゃいよ﹂ ﹁ さ ぶ ﹂ と 栄 二 が 一 去 っ た 、 ﹁ 腕 け よ う ぜ ﹂ 二人は小雨の中を走りだした。 6 ね え 、 これをさ ﹁ぱかねえ﹂と少女がどなった、﹁いいから二人とも濡れ てらっしゃい、いくじなし﹂ 栄二とさぶとは、そのとき同じ十五歳であった。少女の ことは二人ともすぐに忘れてしまった。 の 二人が二十歳になった年の二月十五日。生れて初めて、 いっしょに外へ酒を飲みに出た。酒が初めてなのではない、 さ か ず き それまでにも祝い日などに、応で酒の出るときは盃に二つ な か三つは紙めたことがあった。けれども外へ出て、手銭で 飲むようなことはなかった。半分は恐ろしくもあったが、 主人の芳兵衛に禁じられていたからである。躯のかたまら ないうちに酒を入れると骨がやわになる、はたちになるま では飲むな、というのが口癖であった。 ひ ょ う く き ょ う じ 芳古蛍は表共と経仰とで、格も高く、手堅いので知られ ていた。先代からのきまったとくい先と、当代知名な五、 し 応 せ と っ と う や お お だ な 六人の書家や絵師。老舗の骨輩屋とか武家、大府などに限 り、安い仕事はいっさい断わるというふうであった。した し つ け がって、八人いる職人たちの挨もきびしく、みな子飼いか ら育てられ、読み書きはもちろん、生け花、茶の湯までひ ととおり習わされ、審問のよしあしなども、小さいころか ら実物について教えられた。││いま応にいるのは八人、 職人がしらが和助といって二十九、次が多市で二十七、そ

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五: れから重七、五郎、栄二とさぶが二十で、下に十七歳の伝 六と十五歳の半次がいた。そのほかに庖から出て、かよい で来たり、独立して庖を持っている者が十三人おり、芳古 堂の仕事がたて混んだり、特別な注文があったりすると、 その十三人の中から適当な者が手伝いに呼ばれた。 応のしきたりがそういうふうなので、職人たちの日常も 規則ただしく、毎月十五日と一日のほかは、夜遊びに出る ことも禁じられていたし、二十歳からは夜食に一本の漏出が 付くけれども、それ以上は一滴も飲ませなかった。念には 及ばないだろうが、こういう生活をきちんと守る者ばかり ヒ ま はいない。仕事は夕方の五時限り、どんなに仕事が溜って いても、五時になればやめてしまい、あと片づけをして銭 湯にゆき、夕食をしたあと、九時に寝るのがきまりになっ て い た υ 寝るまでの時間は、本を読むとか習字をするとか、 碁や将棋をさすとか、自分たちの好きなことをしていいの だが、中には応を抜け出して、酒を飲んだり女遊びをした りする者がなくはなかった。11そういうことも主人の芳 兵衛は知っていて、たいていの場合はなにも云わないが、 ぬけ遊びがたび重なると、しぜん仕事にひびくので、その とき初めて小言を云い、それでも行状が改まらないと暇を 出してしまう。五年のうちに二人くらいはそういう職人が いて、これらは芳十 u 堂にいた、と云うことも許されないの で あ っ た 。 栄二とさぶは心がときめいていた。 d 7 ﹁はたちになったなんて、へんな心持だな﹂とさぶがまだ さがやさ るっこい調子で云った、﹁おら、思うんだが、十六で月代 そ を剃ったときよりもへんな心持だ﹂ ﹁そうだな﹂と栄二が云った。 せ ん す じ も め ん ほ お り 二人は千筋の手織り木綿の袷に双子縞の羽折、小倉の角 あ さ う ら ぞ う り た そ が れ 帯 を し め 、 麻 一 裏 一 草 履 を は い て い た 。 ち ょ う ど 黄 昏 ど き で 、 人の往来の多い小舟町の通りを東のほうでかくべつ目的 もなくあるいていた。とにかく両国広小路へでもいってみ ょうか、と思っているようであった。 ﹁おめえはいいな、栄ちゃん﹂とさぶが云った、﹁おめえ ぴ よ ろ ぷ ふ す ま はもう界風にかかれる、襖の下張りならいちにんめえだ、 の り ところがおらときたら、いまだに糊の仕込みだ﹂ ﹁ そ れ も 仕 事 だ ぜ ﹂ ﹁おら、思うんだが、水の中で袋を採みながら、ときどき 自分がやりきれなくなるよ、はたちにもなってこのざ京か つ て ﹂ ﹁それも住事だよ、さぶ﹂と栄二が云った、﹁表具や経師 は糊の出来のよしあしが仕事の仕上りをきめるんだぜ、お めえわかっていねえのか﹂ ﹁ そ り ゃ あ そ う だ が ﹂ ﹁わかってたらぐらを云うなよ﹂と栄二は云った、﹁糊の 仕込みで日本一になれば、それはそれで立派な職人なんだ、 おのえ日本一の糊作りになれよ﹂ ﹁そりゃあそうなんだが﹂

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しかし芳古堂の職人となれば、表具とか扉風、屋敷襖な ども、覚えたい。そう云いたかったのだが、さぶは口には出 せ な か っ た 。 ﹁ ち ょ っ と ﹂ と 栄 二 が 一 お っ て 立 停 っ た 。 堀江町と新材木町のあいだに掘がある。その堀端に五、 六軒、小料理屋がとびとびにあって、その端の一軒で﹁す みよし﹂と紺地に白く、配れ官で染め抜いた半のれんを、軒 先に掛けている女がいた。小柄な躯もほっそりしているし、 た す 金 す そ は し ょ 搾をかけてあらわになったごの腕も、裾を端折った黄八丈 の ぞ 法 ぎ の着物の下に覗いている白い臨も、ほっそりと柔軟そうに み え た 。 ﹁なんだい、栄ちゃん﹂ ﹁すみよし﹂と栄二は口の巾で低いた、﹁聞いたことがあ る よ う だ な ﹂ ﹁柳怖の料理屋だよ、すみよし、とくい先じゃあねえか﹂ ﹁そうじゃあねえ、柳橋じゃあねえ、どこかよそで聞いた ことがあるんだ﹂ 、 、 、 あ し も と のれんを掛け終った女は、足許の盛り域をよけて、家の 中へはいった。栄二は記憶を呼びおこそうとするように、 しぼら 限を納めて瞥く考えていたが、どうしても思いだすことが できないようすで、そっと舌打ちをすると、まあいいや、 はいってみようと云い、さぶを促してそっちへあるいてい っ た 。 居 へ は い る と 、 8 四十がらみの男が、灯を入れたはちけん て ん じ よ う つ 伊 ん を天床へ吊りあげているところだった。三間に五聞くらい はんだい の土間に、飯台が二た側、おのおの左右に作り付けの腰掛 が ま え ん ざ が据えられ、捕で編んだ円座が二尺ほどの間隔をとって置 いてある。客が多くてもぎっしり詰めず、ゆとりをおいて あ ん ぽ い と う し 飲めるように按配してあるらしい。右手に竹で格子を組ん 、 、 、 あ さ だ板場、つきあたりにまたのれんが掛けてあり、これは浅 ¥ 、 黄に紺で﹁すみよし﹂と書いであった。 ﹁早かったかな﹂庄へはいった栄二は、はちけんを吊りあ げている男にきいた、﹁まだ始めないのかい﹂ ﹁いらっしゃい﹂と男はいさましく答えた、﹁どうぞ﹂ そして奥のほうへ向かって、お客だよと、大きな声でど なった。栄二はさぶの肩を押し、飯合の一つを選んで、そ の奥の端のほうへ腰を掛けた。すぐに女が二人、自分の髪 へ手を触れながら出て来て、あいそを云いながら注文をき いた。さっきのれんを掛けていた女ではなく、一人は十八、 おしろい 九、一人は二十二、三で、どちらも小太りで、白粉と香油 にお をつよく匂わせていた。栄二は酢の物とうま煮で酒を二本 と云い、云いながら赤くなった。 L C し カ さ ﹁あたしあんたのこと知ってるわ﹂と年嵩のほうの女がさ ぶに云った、﹁あんた小舟町の芳古堂のしとでしょ﹂ さぶは戸惑ったように栄二を見た。女の一人は注文をと おしにゆき、年嵩のその女は腰をかけた。 、 、 あ わ ﹁そうじゃねえさ﹂とさぶが云ぃ、慌てて云い直した、﹁い や、本当はそうだよ、今日は親方やおかみさんに許されて

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ぷ 来たんだ、こっちは栄ちゃん、おらあさぶっていうんだが、 二人とも今年でちょうど﹂ し ぞ べ ﹁ょせよ﹂と栄二が云った、﹁よけいなことを鏡舌るなよ﹂ ﹁あら、いいじゃないの﹂と女が云った、﹁さぶちゃんに 、 あ ピ な 栄ちゃんね、あたしおかめ││仇名じゃなくって本名なの よ、どうぞよろしく﹂ 、 、 に ら さぶが笑いだし、栄二が悦んだ。 ﹁おれたちはこ人っきりで飲みてえんだ﹂と栄二が女に一お った、﹁酌はいいから、二人っきりにしてくんねえか﹂ さわ ﹁そんなら奥になさいな﹂と女は気に降ったようすもなく 云った、﹁もうすぐにここはたて混むから、ゆっくり話な んかできゃしないわ、狭いけれども向うなら静かよ、そう なすったらどう﹂ ﹁うん﹂と云って栄二がふところへ手を入れた、﹁おれた ち、あんまり持ってねえんだ﹂ 女は笑いながら、そんな心配はいらないと云い、二人を 立たせて、奥へ案内した。のれんをくぐったところに、酒 じようはん 帖半くらいの小座敷が三部屋並んでいる。右側は隣りの塀 で、塀隠しに竹が植えてあるが、まばらな葉がみ勺茶色に ちぢれて根じめのつもりだろう、ところどころに据えてあ と け か わ る苔付きの石の、苔もまたかさかさに乾いていた。 ﹁ここがいいわ﹂女は二人を端の同帖半にとおして云った。 あんとん ﹁いま行燈を持って来るわね﹂ ほんがん 小座敷ながら半開の床に掛物があり、隣りとの襖を隠す き 9 き り ひ ま ち ように、二枚折りの小界風を立て、四角な桐の以鉢には火 がおこっていた。自分で本名だというのだから儲かだろう、 まもなくおかめが火のはいった行燈を持って来、続いても ら よ う あ し ぜ ん う 一 人 が 蝶 足 の 謄 を 二 つ 持 っ て 来 叱 。 、 さ さ や ﹁こんなことして、大丈夫かな﹂さぶが心ぼそそうに煽い た、﹁もしも勘定がたりなかったらどうする﹂ ﹁うるせえな﹂栄二は胸のときめきを隠しながら一五った、 ﹁向うは厄の名を知ってるんだ、そうでなくったって、ま さか首を取ろうとは云ゃあしねえだろう、そうわさわさす る な よ ﹂ 、 さ け さ 治 な やがておかめが、注文の酒肴をはこんで来、二人の膳へ 分けて置くと、では用があったら手を鳴らしてくれと云っ て 去 っ た 。 ﹁めえめえでやろうぜ﹂と栄二が云った、﹁めんどくせえ から盃のやりとりはなし、酒も手酌でやるとしよう、いい な ﹂ ﹁いいけれども﹂とさぶは膳をじっと見まもりながら云っ た、﹁なんだか少し、おっかねえような心持だ﹂ ﹁なにがおっかないの﹂と云って、三人めの女が障子をあ け、顔だけ出してにこつと笑いかけた、﹁あらいやだ、河岸 の親方ゆ叱唱っちゃったわ、ごめんなさい﹂しま 表でのれんを掛けていた女であった。きりっと緊ったほ 血 ヤ え ぽ の ぞ そおもてで、笑ったとき唇のあいだから八重歯が覗いた。 栄二はふいと、冷淡にそっぽを向いた。

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﹁陰気じゃない﹂とその女は云った、﹁誰もいないの﹂ ﹁いいんだ﹂と栄二がそっぽを向いたままで云った、﹁酌 はいらないんだ﹂ つ や ﹁お通夜みたい﹂と女が云った、﹁それとも人に悶かせら れないような悪い相談でもするの﹂ 栄二が振り向いてでつるせえな﹂と云った。女はちょっ と笑いかけたが、栄二の限を見ると顔をひきしめ、ごめん し なさい、と低い声で云って降子を閉めた。女が笑ったとき、 また八重歯が覗き、それが栄二の限に残った。 わ た F A 三月一日には栄二は休めなかった。日本橋本町の綿文と りょうがえ いう大きな両替商で、客座敷の襖を張り替えるのに、紙合 せと下見のため、兄弟子の多市といっしょにでかけたので ある。綿文も芳古堂にとっては古いとくいで、一年に一度 は襖の張替えをする。栄二は十三の年から毎年、多市や重 た じ み 七たちの下廻りでゆき、家族や召使たちとも顔馴染になっ こ か ら ど でいた。││主人の徳兵衛は肥えていて躯が大きく、いつ でも酒臭い怠をして、庄へは殆んど出ず骨強いじりや僻献 に凝っていた。妻女はおみよといって、躯も細くて小柄だ し、顔もちまちまとして、大庄の主婦というより、横丁あ たりのおかみさんのような感じであった。男の子はなく、 おきみ、おそのという娘が二人、としは二つ迷いで、どち らも評判のきりょうよしだが、姉は父親に似てゆったりし た躯っきだし、性質ものんびりしていた。妹は痩せがたで 顔も細く、ませた口をきくし、することがすばしこかった。 か ど み せ 綿文は角府で、土蔵が二戸前。二階造りの底とはべつに、 中庭を隔てて、平屋建ての住居があった。住居のほうは横 よ ど ぺ い に門があり、正面が玄関。右へ火除け用の厚い土塀に沿っ つ る ベ て廻ると、向うに屋根を掛けた釣瓶井戸があり、その手前 の左側に勝手口があった。炊事場ではなく、家族や内客や、 諸商人、職人などの出入りするところで、客の多い家だか ら下足番を兼ねた小僧が一人、あがり端の六帖で小粒金や た た 小判のはいった麻袋を、板の上で叩いていた。袋をあげて は板へ溶す、という単調でまのぬけた動作であるが、そう きん やっていると、微量の金が麻袋に付くので、一定の期間を た ま き ん ︿ ず おいて袋を焼けば、溜った金屑がとれるのだという。役人 にみつかつては悪いから庇ではやらないのだろうが、両替 商ならどこでもすることだそうで、栄こはそれを聞いたと き、こんな大庄のくせにけちなことをするものだと、ひど け い べ つ く軽蔑したものであった。 見本の紙の包みを持って、多市と二人、座敷へとおされ ると、十五、六になる中働きのおすえが茶と菓子を持って 来た。││栄二は一昨年と去年はこの家へ来なかったが、 三年まえまでは毎年来ていて、二人の娘たちとも親しかっ たし、おすえともよく知っていた。 し ば ら 、 、 あ い さ つ ﹁暫くね、栄さん﹂とおすえは多市に挨拶してから栄二を

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ぷ 見た、﹁ずいぶん大きくなったじゃありませんか、 初めはちょっと見違えちゃったわ﹂ か わ い ﹁ょせよ﹂と云って多市が笑った、﹁可哀そうにこれでも はたちになったんだぜ﹂ ﹁ごめんなさい﹂おすえは赤くなった、﹁あたし立派にな ったっていうつもりだったのに、つい口がすべっちゃった ん で す ﹂ 栄二も赤くなったが、おすえのほうへは眼も向けなかっ た 。 ﹁おすえちゃんは幾つになった﹂ ﹁十六です﹂とおすえは多市に答えた、﹁掘が小さいから 十二、三にしきやみえないって、よくみんなにからかわれ るんですよ、恥ずかしい﹂ 廊下に人が立ち、こっちを覗きこんだ。この家の姉娘で あるが、そこへまた一人、妹娘が通りかかって、姉のうし ろから首だけ出して覗き、あら栄ちやんだわと云った。姉 はそこを動かなかったが、妹のおそのは座敷へとびこんで 来、栄二の前にぱたんと坐って、大きな眼でじっと彼をみ 、 、 え し ゃ く す み つめた。おすえは会釈をして出てゆき、栄二が限の隅でそ のうしろ姿をちらつと見た。 ﹁まあおどろいた、あんた栄ちゃんじゃないの﹂とおその が描酬を輝かせながら云った、﹁大きくなったわね、びっく りしちゃったわ﹂ 多市が唇だけで笑った、﹁いまそれを云われたばかりな あたし き 11 ん で す よ ﹂ ﹁栄ちゃん﹂とおそのは多市には構わず、栄二の眼をみつ めたままで云った、﹁あたし誰だかわかって﹂ ﹁おそのさんですよ﹂と栄二は答えた、﹁何年も会わなか ったわけじゃない、たった二年ここへ来なかっただけじゃ あ り ま せ ん か ﹂ ﹁あたしも大きくなったでしょ﹂ ﹁こんちは﹂と栄二は廊下にいるおきみに呼びかけた、 ﹁ 暫 く で し た ﹂ 、 、 う な ず おきみはおっとりと領いて、 云 っ た 。 い ら っ し ゃ い と 、 ゆっくり

そこへ主人の徳兵衛がはいって来、多市が紙見本をひろ げた。徳兵衛は相変らず酒臭い息をしていた。 ﹁ちょっと来てよ、栄ちゃん﹂とおそのが云った、﹁あん たに見せたいものがあるのよ﹂ ﹁そのちゃん﹂と廊下でおきみが云った。 ﹁ねえ、お父っさんいいでしょ﹂とおそのが父親に鼻芦で 一 五 っ た A ﹁栄ちゃんにちょっと見せたいものがあるのよ、 あっちへ来てもらってもいいわね﹂ 姉がまた﹁そのちゃんったら﹂とたしなめ、徳兵衛は無 関心に手を振って、﹁うるさい、好きなようにしろ﹂と云

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12 った。栄二は救いを求めるように多市を見たが、多市は笑 怠 乞 ﹄ いもせずに、顎をしゃくって、ゆけよ、という表情をした。 ﹁さあ、栄ちゃん﹂とおそのは彼の手を取った、﹁ねえ、 早 く ﹂ あのころのままだな、と栄二は思った。兄弟子たちとこ こへ仕事に来ると、必ずこの姉妹につかまって遊び相手を a a F + ' e a ' させられた。襖を張り替えるのは毎年十二月だから、かる ぱ ね たとか追い羽根とか、お手玉、おはじきなど、たあいのな いものだし、女の子の遊び相手をするなど屈辱さえ感じた ものだ。けれども大事なとくい先のことではあり、兄弟子 たちがそうしろと云うので、断わるわけにはいかず、しぶ しぶつきあっているうちに、どの遊びでも彼がいちばん上 手になり、勝気なおそのはくやしがってよく泣いたもので あ っ た 。 が 陶 , 向 ふ ' -e b 何 伊れてゆかれたのは姉妹の部揮で、箪笥がそれぞれニ樟 ずつに、人形などを置いた飾り棚、琴、三味線、茶道具を し ゅ ぬ り い と , 入れる茶箪笥、朱塗の衣桁など、みな娘の居間らしい華や かな色と、香料の匂いがあふれでいた。 ﹁持たし十六になったでしょ﹂とおそのが自分の岨埼の前 に膝をつきながら云った、﹁│!それでね、また友樟の振 袖を作ってもらったのよ、きれいよう﹂ ひ き だ し そして抽出の一つをあけ、中からその品を取り出して、 さも大切そうに両手で持って栄二に渡した。 ﹁ひろげてみてよ﹂とおそのが云った、﹁四季の千草って 云う柄なの、京の田丸屋で染めさしたのよ﹂ す そ 、 、 bB ﹁あたしのは裾模様よ﹂と姉のおきみが二人の脇から云っ た、﹁あたしのも見せてあげるわ﹂ ﹁あとで﹂とおそのがきめつけた、﹁姉さんてばいつでも あたしのまねばかりするのね、邪魔しないでよ﹂ 栄二は着物をひろげてみて、きれいだなと云った。これ だけ大きな資産家の娘なら、京染めの友禅ぐらいなんでも ないだろうのに、わざわ

S

人を呼んで見せるところに、こ の姉妹の気取らない、下町つ子らしい開放的な性質がよく あらわれていた。 妹に決めつけられた姉のおきみは、きげんを悪くするで もなく、そろそろと自分の箪笥をあけた。その裾模様とい うのを出すつもりであろう、けれどもおそのはそれより早 く、こんどは帯を見せてあげる、と云いながら、下の抽出 をあけたとたん、悲鳴をあげてとびあがり、両手で栄二に 抱 き つ い た 。 ﹁こわい﹂とおそのは栄二にしがみつきながら叫んだ、 ﹁ 闘

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、鼠がいるのよ﹂ ぴ つ ︿ り おきみも吃驚してうしろへさがり、栄こはおそのの腕を 放そうとした。だがしがみついたおそののカはおどろくほ ど強く、すぐにはふり放すことができなかった。 ﹁放さなくっちゃだめだ﹂と栄二が云った、﹁それじゃあ 鼠が追えゃしないよ﹂ ﹁いや、こわい﹂とおそのはもっと腕にカをいれた、﹁あ

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ぶ たし息が止まりそ

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よ ﹂ ﹁鼠を追っぱらうんだから﹂栄二はようやく躯を自由にし、 おそのを押しやった、﹁さあおきみさんもどいてください﹂ そして、その抽出の中を覗いてみたが、鼠のいるようす はなかった。手を入れて、重ねてある帯の片方をつぎつぎ ぴ き とあげ、底までさぐってみたけれども、鼠どころか虫一疋 もみあたらなかった。栄二は抽出の中を元のようにして立 ちあがり、おそのの顔をにらんだ。おきみは両手で胸を抱 お び え、怯えたような表情で栄二を見あげていた。 う そ 、 、 ま ぶ ﹁ほんとよ、嘘つかない﹂とおそのは栄二の限を肱しそう に避けて云った、﹁幣を取ろうとしたらすぐそこにしゃが んでいて、あたしのこと食いつこうとしたのよ﹂ 栄三がなにか云おうとしたとき、廊下から名を呼ばれ、 振り返るとおすえがいた。 ﹁多市さんが呼んでいます﹂とおすえはこっちを見ずに云 った、﹁尺取りをするから来て下さいって﹂ 栄こはそれに鎖いてから、おそのに向かって帯のぎっし り詰まっている抽出の中を指さしてみせた。そこにはどん な小さな鼠でもしゃがんでいる余地などはない、というこ とを示したのであろう。おそのはひょいと肩をすくめて云 っ た 。 き ﹁でもいたのよ、ほんと、こんなふうにしゃがんで、あた む しのこと食いつこうと思って、こんなように歯を剥きだし ていたのよ﹂ 13 も 云 お わそ、 ずの、 に は 出 そ て ん い な つ よ た う 。な '恰主 女子t を し て み せ た が 栄二はなに

用が済んだので、栄二は先に勝手口から出た。見本紙や 尺取りの帳面を入れた包みを持って、格子戸を出るとおす えの姿が見えた。井戸のところに立っていて、待っていた d a ようにこっちへ走って来、栄二の限をみつめながら頬笑ん だ。みつめる眼にはいっしょうけんめいな、思い詰めたよ うな光があり、その頻笑みはまるで泣きべそでもかくよう ゆ が に歪んでいた o a ん に A ﹁さっきのこと、堪忍して下さいね﹂ ﹁なにをさ﹂と栄二がきき返した。 ﹁大きくなったって云ったこと﹂とおすえは限をそらさず に云った、﹁ムあたしほんとに、立派になったって云いたか ったんです﹂ ﹁いいよ、そんなこと﹂栄二は包みを持ち直しながら云っ た、﹁怒ってなんかいやしねえよ﹂ さ さ ぞ 、 、 ﹁ほんとね﹂と瞬きかけながら、おすえは涙をこぼした、 ﹁ よ か っ た わ ﹂ ﹁なんだ、あんなこと、つまらねえ﹂ ﹁あたし初めて栄さんに会ったとき十三だったけれど、栄 さんのこと怒りっぽいこわい人だなって、思ったのを覚え

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14 て る わ ﹂ 栄二はなにか云いそうにして赤くなり、それから怒った ような口ぶりで云った、﹁││おれだっておめえのこと覚 え て た よ ﹂ おすえは﹁ありがと﹂と暖き声で云い、くるっと向き直 って小走りに去った。栄二はそっちを見なかった。顔は赤 くなったままで、深い呼吸をするために、胸が見えるほど 波 打 っ て い た 。 ﹁栄二﹂と呼ぶ戸がした、﹁ちょっと﹂ 格子戸の中から多市が覗いていた。栄二は悪いことでも みつけられたように、どぎまぎしながらそっちへいった。 だんな ﹁先に帰ってくれ﹂と多市は云った、﹁日一那の酒のお相手 だ、うんざりだがしようがねえ、親方にそう云っといてく れ ﹂ 上り蛾の六帖では、小僧がまだ麻袋を重たそうに板へ打 ちつけていた。栄二は多市に額いて、そこから去った。 ﹁大きくなった、か﹂道をあるきながら、栄二はそっと咳 いて微笑した、﹁てめえだって大きくなったくせに、ーー 躯つきも顔もあのころとちっとも変っちゃいねえ、十三の ときもいまのまんまだった﹂ 女は十三になるともう、顔も躯も娘になってしまうのか な、おかしなもんだなと思って、栄二はまた微笑した。 B L M 小舟町へ帰ると、休みだから応は閉めてあり、栄二は横 あ き も 、 の木戸からはいった。すると、裏の狭い空地でさぶが糊の た す 長 ﹄ だ る 住込みをしていた。裾を端折り、揮を掛け、五升樽くらい お け の桶に向かって、小さな腰掛にかけたまま、桶の中へ両手 を入れて採み出しをしていた。小麦粉をよく水で練りあげ、 ち ん で ん つ ぽ 袋に入れ採むと白い水が出る、それを沈澱させたうえ、壷 たくわ に入れて日蔭の土に査の半分を埋めて貯える。表具とか屍 風の裏打ち用には、そうして作った糊しか使わないし、壷 の中でねかせる期間も二年から三年はかかった。 ﹁さぶ、どうしたんだ﹂栄二は近よってゆきながら呼びか けた、﹁休みじゃあねえか、なにをしてるんだ、おまけに こ ん な -長 な ん か へ 出 た り し て さ 、 え ﹂ さぶは答えもせず、振り向きもしなかった。栄二は彼の ぬ 横顔が濡れているのを認めた。 ﹁どうしたんだ﹂栄二は声を低めた、﹁なにかあったのか﹂ ﹁なんでもねえ﹂さぶは首を振った、﹁なんでもねえんだ ト J h ﹂ ﹁ 泣 い て る じ ゃ ね え か ﹂ ﹁泣いてやしねえ﹂と云って、さぶは腕で眼のまわりをこ すった、﹁担ねをやってるときに、粉が限にへえったんだ﹂ 栄二はなお、さぶの横顔をみつめていたが、さぶは振り 向こうとはしなかった。 ﹁二人でどこかへいこうと思って、いそいで帰って来たん だが﹂と栄二が云った、﹁それを始めちゃったとするとだ め だ な ﹂ 採み出しを始めれば、壷へ仕込むまで手は放せない。栄

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ぶ 二はさぶと飲みにでも出て、おすえのことが話したかった。 なにを話したいかは自分でもわからないが、とにかく話さ ないうちはおちっけないような気持であった。 ﹁いいじゃないか、いってきなよ﹂さぶは白くなった手で 袋を採みながら云った、﹁おれのことは檎わなくってもい い よ ﹂ ﹁ばか云え、一人でなんかいけるかい、おめえが仕事をす るんならおれだってすらあ﹂と栄二は云った、﹁綿文で襖 そ ろ の尺を取って来たんだから、紙を揃えにかかったっていい んだ、おめえもこんなところでなく、仕事場へはいってや っ た ら ど う だ ﹂ 、 、 の ど ﹁おらあここがいいんだ﹂さぶは喉の詰まったような声で 云った、﹁うっちゃっといてくれ﹂ そして急に、両手を桶の中へ突いて前開みになり、声を ころして泣きはじめた。 ﹁いったいどうしたんだ、さぶ﹂と栄二が胸みこんで云っ た、﹁おれにも話せねえのか﹂ む せ 、 、 ﹁独りにしてくれ﹂と明びながらさぶは顔をそむけた、 ﹁ほんとになんでもねえんだ、頼むからおれを放っといて く れ ﹂ ﹁ほんとにそれでいいのか﹂ さ日がは大きく領いた。ずんぐりした掘を前向みにした齢 好や、まるっこい頭でこくっと領いたようすは、いかにも ぐちょ︿ 愚直で子供っぽく、栄二は心の中で可哀そうなやつだな、 き 15 と 思 っ た 。

二人が堀江町の﹁すみよし﹂へいったのはひと月半のち の四月十五目だった。 タめしのあとででかけたから、応にはもう灯がはいり、 客も五、ムハ人来ていた。このまえに会ったおかめという女 は、栄二とさぶを見たが忘れてしまったのだろう、いらっ しゃいと云ったまま、客の相手をしていて動かなかった。 b u吻 V レ ' m 栄二はちょっと迷った。客はみな中年者で、この府の馴染 らしく、場ちがいの自分たちがどこへ腰掛けたらいいか、 見当がつかなかったのである。すると、土問のつきあたり の ぞ にあるのれんを分けて、これもこのまえ小座敷を覗いた若 い女が出て来、栄二とさぶをみつけ、大きく限をみはって、 両手をぱしっと打ち合わせながら、とんで来た。 ﹁いらっしゃい﹂とその女は云った、﹁あたしあんたたち を知ってたのよ、このまえの座敷がいいでしょ、どうぞ﹂ ひ る が 、 、 、 そう云って身を翻えし、またのれんの向こうへ去った。 栄二はさぶに眼まぜをし、女のあとからついていった。女 ぶ と ん た ま こ ぽ ん は例の小座敷にあがり、座蒲団を並べたり貰盆を出したり、 と ぴ ょ う ぶ 小 田 仲 風 を 立 て た り し て い た 。 ﹁あんまりせかせかするなよ﹂と栄二は座敷へあがりなが ら云った、﹁限まぐるしくつでしょうがねえじゃねえか﹂

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16 ﹁みんなにそう云われるのよ﹂と女は肩をすくめてみせた、 さかな ﹁お酒とお肴、お肴はなんにしましょうか﹂ た ﹁めしを喰べて来たんだ、腹に溜らねえ物を二っか三つも ら お う ﹂ ﹁あのときとそっくりね﹂女は栄二を見、それからさぶを 見た、﹁一人ずつだとわからなかったかもしれないけれど、 二人いっしょだからすぐにわかったわ、ぁ、そうじゃなか った。このまえのときあんたたちが帰ってからわかったの よ、あてあの人たちだなって﹂ ま ゆ ﹁うるせえな﹂と栄二が盾をしかめた、﹁早く注文をとお し て 来 い よ ﹂ ﹁その、うるせえなっていうの﹂と云って女は栄二の前へ 向分の顔をさしだした、﹁ー

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あたしのこと、党えていな い ﹂ ﹁似ているのは知ってるよ﹂ ﹁似ているって、あたしじゃなく﹂ 栄二はおそのに似ていると思い、鼠が食いつこうとおも っていた、という言葉を回想して笑いそうになった。女は、 あらいやだ、薄情ねと云いながら、注文をとおしにいった。 ﹁お肴はいますぐよ﹂と酒だけ持って戻って来た女は、航 。 ん ど ︿ り 、 を一つ、二人のあいだに置いて畑徳利を取り、さぶに酌を しながら栄二を見た、﹁ーーまだあたしのこと思いださな い ﹂ さかずき 栄二が盃を持ちながら、うるせえなと云うと、女はまた 両手をぱしっと打ち合わせた。 ﹁それよ、そのうるせえな、よ﹂と女はせきこんで云った、 ﹁両国橋のとこでさ、あんたあたしに云ったじゃない、う るせえなって﹂ ﹁ああ﹂とさ必がまのびのした調子で、盃を持ったまま鰐 カ さ い た 、 ﹁ │ │ 傘 だ な ﹂ ﹁ 傘 よ ﹂ と 女 が 云 っ た 。 ﹁五年まえだ﹂とさぶが云った、﹁そうだ、雨が降ってい て、おまえさんは穴のあいた傘をさしていたつけ﹂ ﹁ほんと、そのとおりよ﹂ ﹁なんの話だ﹂と栄二がきいた。 ﹁ほら、五年めえにおれが﹂と云いさしてさぶは口ごもっ た、﹁ほら、東両国から横綱のほうまで、二人であるいて ね ったことがあるじゃねえか、雨に濡れながらさ﹂ 栄二はいま眠りからさめたような限で、そこにいる女に 振 り 向 い た 。 ﹁ああそうか﹂と彼は云った、﹁あのとき傘をさしていけ って、うるさく云った子がいたつけ、││それがおめえ か ﹂ 、 、 や え ぽ ﹁名まえはおのぶ﹂女は八重歯を見せてにっと笑い、おじ ぎをした、﹁どうぞよろしく﹂ ﹁おれは栄二、こっちはさぶっていうんだ、あのときはち びだったんで思いだせなかったが、大きくなったな﹂栄二 は自分だけの腹いせめいた気持でにやっとした、﹁ーーそ

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ぶ の八重歯には覚えがあるよ﹂ ﹁あらいやだ、いじわるね﹂おのぶは片手でロを押えなが ら栄二をにらみ、またさぶに酌をした、﹁この八重歯は抜 けるんですって、あたしいま十八でしょ、はたちになれば 抜けるんですってよ﹂ ﹁十八か、││それにしちゃあちびだな﹂ ﹁きれえだよ﹂とさぶがとりなすような口ぶりで云った、 ﹁ ほ ん と に き れ え だ ﹂ ﹁お肴を持って来るわね﹂とおのぶが云った。 おのぶが去ると、さぶが栄二に酌をしようとした。栄二 はそれを断わり、手酌でひとロ腐った。 ﹁まだ気になっでしょうがねえんだが﹂と栄二が脇を見な がら低い戸で云った、﹁││先月の一目、いったいなにが あ っ た ん だ ﹂ 、 、 ま ぶ た さぶはどきっとして、肱しそうに限を伏せ、頭を垂れた。 ﹁もう云ってもいいじゃあねえか﹂ ﹁あのときは済まなかった﹂と↑ゐは口の中で限げた、 ﹁栄ちゃんに心配させて済まなかったと思う、││それで おら、思うんだが﹂ さえぎ ﹁それはよせよ﹂栄二が遮った、﹁おめえが思うと云うと いつもあと一反りをするばかりだ、肝心なことを話してく れ ﹂ ﹁うん﹂と鋭いて、さぶは酒を畷ってから云った、﹁あの 日、おみっちゃんが来たんだ﹂ 女 17

おみっというのは芳古堂の娘で、としは今年十九歳、去 ひ も の く し 年の春、日本橋槍物町の﹁え﹂わ村﹂という櫛屋へ嫁にいっ た。芳兵衛夫妻には子供が二人あり、弟の芳二郎はいま十 か ら だ 五歳になるが、躯が弱いので玉川在の農家に頒けられてい た。平左衛門というその農家はかなりな田地持ちで、妻女 お由とは縁続きであり、月に一度は互いに往来しあってい る。││おみつはあまりきりょうよしではなに家にいる 発ら じぶんから人の好き嫌いが強くて、職人たちのあら捜しを したり、ありもしないことを親に告げ口をするというふう であった。芳兵衛も妻女もその性質を知っているので、お みつの告げ口などはたいてい聞きながしにするが、それは か え 、 、 あ お 却っておみつの片意地な性分を煽るような結果になったの だろう、嫁にいってからも不平が多く、しばしば実家へ帰 って来ては、みんなに当りちらすのであった。 ﹁帰って来るなりおれを見て、休みだからって遊んでいる ことはないだろうと云った﹂さぶは苦笑いをした、﹁ーー 他人さまのめしを喰べながら手に職をつけてもらっている んだ、少しでも有難いと思ったら、庖はたとえ休みにしろ なにか仕事がある都じゃないか、一粒の米だってただじゃ ないんだよって﹂ ﹁その先は云うな﹂と栄二が制止した、﹁おみっちゃんの

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18 け ん か 気性は知ってるじゃないか、きっとまた檎物町で喧嘩でも して来て、八つ当りをしたんだろう、気にするなよ﹂ ﹁おめえならそれでいいだろうが、おれは生れつきのぐず だからな、いまだに糊の仕込みしかやれねえ人間だから、 一粒の米もただじゃねえなんて云われると﹂ ﹁ばか云うな、こっちはただめしなんか食っちゃあいねえ ぞ﹂と栄二は怒ったような口ぶりで云った、﹁手に職をっ た し けてもらうのは憶かだが、遊んでるわけじゃあねえ、小せ えじぶんから手足にひびあかぎれをきらし、汗だくになっ て追い使われてきたんだ、おれたち職人がいればこそ芳古 堂もやってゆけるんだぜ、しっかりしてくれよ、さぶあに い ﹂ おのぶが沖句榊って来、酌をさせてくれと云って、座敷 へあがり、襟を外しながら二人のあいだに坐った。 ﹁いましがた思いだしたが﹂と栄二がおのぶを見て云った、 ﹁││あのときおめえは、ここに姉さんがいるって、云っ てたんじゃなかったかな﹂ ﹁そう、姉さんに傘を届けるところだったのよ﹂ ﹁ ま だ い る の か ﹂ ﹁死んじゃったわ﹂と云っておのぶはかぶりを振った、 か わ い ﹁姉さんのことはきかないでね、ほんとに可哀そうな死に かたをしたのよ、その話をするとあたし泣きだしちゃうか ら、はいお一つ﹂ ﹁うちは本所なんだね﹂とさぶがきいた。 、 、 、 、 ﹁ええ小泉町﹂おのぷは栄二に酌をし、さぷに酌をした、 ﹁うちの話もさせないでね、人には聞かせられないような、 それこそみじめなくらしなんだもの、いっそのことうちを とびだして、乞食にでもなっちまおうかつて、そう恩わな い日はないくらいよ﹂ ﹁ょせよそんな話﹂と栄二が云った、﹁自分からきかない でくれって云ったんだろう﹂ ﹁ほんとだ﹂おのぶは小さな肩をすくめた、﹁ごめんなさ い 、 は い お 酌 ﹂ ﹁その八重歯、可愛いよ﹂さぶが酒を畷ってから、舷しそ 、 、 ︿ ち も と うな眼つきでおのぷの口許をみつめた、﹁その八重歯は抜 かずにおくほうがいいと思うがな﹂ ﹁抜くんじゃないの、自然と抜けるのよ﹂ ﹁ ど う し て さ ﹂ ﹁あら知らないの﹂おのぶは限をみはった、﹁八品虫歯って いうのはね、順番外れに生えたよけいな歯なんですって、 だから自然と押しのけられて、いつか抜けてしまうんです っ て よ ﹂ あ わ 栄二が慌てて云った、﹁抜けなければ唇に穴があいちま うんだ、飲めよさぶ﹂ ﹁あたしなにか悪いこと云ったかしら﹂とおのぶは栄二の 顔 を 見 た 。 、 、 ょ ﹁いいんだ、そんなことありゃしないよ﹂とさぶは人の好 い笑顔で云った、﹁栄ちゃんはおれが気にしゃあしないか

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と思って心配しただけさ、おらあ慣れてるから、どんなこと 云われたって気になんかしゃしない、ーーもしも唇に穴が あくんなら、八重歯は抜けるほうがいいにきまってるさ﹂ ﹁なんだかさっぱりわからないわ、まるでいゃみを云われ てるような感じよ﹂ ﹁済まねえな、話を変えよう﹂と云って栄こはおのぶに盃 を差出した、﹁おめえも一つ飲まねえか﹂ ﹁ あ た し 強 い の よ ﹂ ﹁いいとも、もう一つ盃を持って来な﹂ ﹁いま持って来るわ﹂差された盃を返しておのぶは立ちあ がった、﹁でも、まだ早いんだからあんまり飲まさないで ね ﹂ ﹁こっちのふところが続かねえよ﹂と栄二はおのぶのうし ろ姿に向かって云った、﹁なにか自分の喰べるものもそう い う ん だ ぜ ﹂ おのぶは土間へおりてから振り返り、栄二の顔をじっと みつめながら、﹁ありがと、いただきます﹂と云った。

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二の三

空 豆 う わ ・ う 五月に和助が芳十日尚早を出て、浅草の東仲町に﹁香和堂﹂ という自分の庇を持ち、十五歳になる小僧の半次をもらっ う き ち ていった。そのまえに卯吉、定というこ人の小僧がはいっ ていたし、秋までは庖もひまなので、半次を付けてやった 19 の で あ っ た 。 栄二とさぶは、休みの日になると﹁すみよし﹂へかよっ た。どうやらさぶはおのぶが好きになったらしく、なんと て み や グ か口実をつくっては手土産を買ってゆくが、自分ではそう する勇気がないのだろう、栄二に頼んで渡すのが例になっ ていた。││そろそろ寒くなりはじめた十月の十五日、二 人はまた夕めしのあとで﹁すみよし﹂へ飲みにいった。そ 、 、 む い と は ん え り の夜もまたおのぶのために、縫取りのある半襟を買い、栄 二に預かってもらっていったのだが、すみよしの庖の、い つもの小座敷へあがると、栄二は包みをさぶに返した。 -もういいだろう﹂と栄二はわざと冷淡に云った、﹁十七 や十八の小僧じゃあねえ、これからは自分でやれよ﹂ 、 、 す が ﹁わかってるだろう﹂さぶはとり槌るような限つきをした、 ﹁おれにはできゃしないよ﹂ ﹁のぶ公は知ってるんだぜ﹂と栄二が云った、﹁おれが云 ったんじゃあねえ、のぶ公が自分で勘づいたんだ、あんた はこんなことしてくれる人じゃないって、おれは面と向か って云われちまった、いいつらの皮さ﹂ ﹁ い つ の こ と だ ﹂ ﹁このまえのとき、おめえが手洗いに立ったあとでよ﹂ さぶは包みを脇に置いて、恥ずかしそうに低くうなだれ た。まもなくおのぶが来、注文をとおしてから、先に酒だ け持って一反った。そしていつものように飲み始めたのだが、 さぶはすっかりふさいでしまい、例になく盃は重ねるが酔

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20 うようすはなく、少しも気持がはずまないので、二人はま もなくすみよしを出た。 ﹁なぜそれを渡さなかったんだ﹂暗い堀端を小舟町のほう へ歩きながら栄二が云った、﹁のぷ公はその包みを見てい た ぜ ﹂ さぶは堀の角で急に立停った。 ﹁おら、砕っちまったらしい﹂さぶはちょっとよろよろし たが、そこへしゃがみこんでしまった、﹁││今夜は栄ち ゃんに話があったんだよ﹂ ﹁こんな堀つ献でどうするんだ、風邪をひいちまうぜ﹂ ﹁和助あにいは庖を持った﹂とさぶは口ごもりながら云っ た、﹁栄ちゃんもそのうちに府を持つだろう、けれどもお れ は だ め だ ﹂ ﹁そんな話は帰ってからにしろよ﹂ ﹁おら、思うんだが﹂さぷの芦はみじめに弱よわしかった、 ﹁どうせゆく先に望みがねえんなら、いっそいまのうちに、 職を変えるほうがいいんじゃねえだろうか﹂ ﹁ばかなことを云うな、おめえほど糊の仕込み上手な者は ほかにいやあしねえ、親方がいつもそう云ってるのは自分 でも開いて知ってるじゃねえか﹂ さぶはちょっと黙っていてから云った、﹁││栄ちゃん はいつか、糊の仕込みで日本一になれば、それで立派な職 人だと云ってくれた、そのとおりだろう、その場かぎりの 慰めじゃあねえだろうが、糊作りだけじゃあ自分の底は持 てやしねえ、よくいって一生涯、芳古堂の飼いごろしじゃ あ ね え か ﹂ ﹁諮ってなあそのことか﹂答えを捜すためのように栄二は 問い返し、そして、答えが出てこないのだろう、独りで領 いてから静かに云った、﹁ーーにんげんは一寸さきのこと だって、本当はどうなるか見当もつきあしねえ、まして五 年さき十年さきのことなんか、神ほとけにだってわかりゃ あしねえだろう、けれどもな、おめえがそう云うからおれ の気持も聞いてもらうんだが、このまま順当にゆくとして、 もしもおれが自分の庇を持つようになったら、おめえとい ・っしょに仕事をしようと考えているんだ﹂ 、 、 さぶはゆっくりと栄二の顔を見あげ、栄二はさぶと並ん で し ゃ が み こ ん だ 。 ﹁どんな府が持てるかわからねえが、二人でいつしよに住 内 vド 4 ‘ 罰 A , h 、 ‘ 調 ト ‘ ‘ , v み、おめえの仕込んだ糊でおれが表具でも経師でも、立派 な仕事をしてみせる、お互いにいつか女房をもらうだろう、 そして子供もできるだろうが、それからも二人ははなれや しねえ﹂と栄二はひそめた芦に感情をこめて云った、﹁ー │いつまでも二人でいっしょにやっていって、芳古堂に負 けねえ江戸一番の庖に仕上げるんだ、おれはこう考えてい るんだが、おめえはどう思う、おれとやるのはいやか﹂ さぷは考えてみてから首を振った、﹁だめだ、そう思っ てくれるのは有難えが、おら、おめえの重荷になるばかり だ ﹂

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主 ﹁またそれだ、それがおめえのいちばん悪い癖だぜ、さ ぶ﹂と栄二が一去った、﹁二人で府をやってゆくのに、どう しておめえが重荷になるんだ、おめえは誰にもひけをとら ねえ立派な糊を作る、その糊でおれが仕事をする、おれた ち二人の力を合わせてやるのに、重荷もへちまもねえじゃ ね え か ﹂ 、 、 ど も さぶは吃った、﹁おら、思うんだが﹂ ﹁ ょ せ っ た ら ﹂ ﹁それでもおら、思うんだ﹂とさぶはねばりづよく云った、 ﹁おのぶのことだってそうだが、おれがいくじなしなため に、栄ちゃんにとんでもねえ迷惑をかけちまった﹂ ﹁おれが迷惑だなんて云ったか﹂ ﹁おめえはなんにも一云ゃあしねえ、いつだってなんにも云 ゃあしねえ、けれどもそれだけよけいに、おら自分のいく じなしがやりきれなくなるんだ﹂と云ってさぶは暗がりの 中でさぐるように栄二を見た、﹁11覚えているかい、栄 ちゃん、十五のとしの久、だっけ、おれが厄をとびだしたと 白 き、おめえは雨に漏れながら追っかけて来た、横綱河岸ま つ で追っかけて来て、おれを伴れ戻してくれたことがあっ た ﹂ ﹁おめえだって雨に濡れてたぜ﹂ き 21 ﹁おら、あのことは一生忘れねえが、伴れ一反される途中ず っと一つことま考えてた、おら、このままだときっと、栄 ちゃんの厄介者になるだろうって、いつも栄ちゃんに面倒 をかけて困らせるこったろうってな﹂ ﹁おれも正直に云おう﹂と栄二が深く息を吸いこんで、大 きく吐きだしてから云った、﹁││おめえはな、さぷ、お 女 ﹄ 玄 匂 れにとっては厄介者どころか、いつも気持を支えてくれる 大事な友達なんだ、正直に云うから怒らねえでくれよ、お めえはみんなからぐずと云われ、ぬけてるなどとも云われ し ん ぎ う と け ながら、辛抱づよく、黙って、石についた苦みてえに、し っかりと自分の仕事にとりついてきた、おらあその姿を見 るたびに、心の中で自分に云いきかせたもんだ、 -i こ れ が本当の職人狼性ってもんだ、つてな﹂ ﹁ゃい、いいかげんにしろ﹂と二人のうしろでどなる戸が した、﹁なんの相談か知らねえが、こっちはいいかげん待 ちくたびれたぜ、二人とも立ったらどうだ﹂ 栄 こ と ・ 5 ぶが振り向いた。うしろに三人、暗がりでよく わからないが、やくざめいた男たちが立っていた。さぶは あ わ お き 慌てて立ちあがろうとし、栄二がそれを抑えた。 ﹁待てよ﹂と栄二はしゃがんだままで静かに云った、﹁い ま大事な話をしているところなんだ、用があるならあとに し て く れ ﹂ ﹁そうはいかねえ﹂と次の男がひどく穏やかな芦で云った、 ﹁こっちはもう待ちくたびれてしびれをきらしてるんだ、

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22 立ちな、若いの﹂ ﹁栄ちゃん﹂とさぶが云った。 ﹁構うなよ﹂と栄二が云った、﹁それよりもいま、 云ったことを﹂ 、 、 え り つ か 男の一人が進み出て、さぶの着物の衿を摘んだ。それを 待っていたように、栄二が立ちあがって振り返り、うしろ ひ ざ にいる男の一人にとびかかった。そして右足の膝で、相手 は げ 、 、 か が の下腹を烈しく突きあげ、その男がうっと戸をあげて踊む のを見向きもせずに、次の男に鉢当りをくれ、地面へ倒れ るところを馬乗りになると、左手で首を絞めつけながら、 まぶた 右手の指二本をその男の両方の険の上へ当てた。 ﹁限を突きやぶるぞ﹂と栄二は叫んだ、﹁そっちにいるこ 人もよく見ろ、じたばたするとこいつの限を二っとも突き や ぶ る ぞ ﹂ け 栄二に組み伏せられた男は動かなくなった。下腹を蹴あ う め 、 、 げられたやつは閥んだまま、まだ坤いていたし、さぶに掴 ぴ つ ︿ り L ま みかかった男は、吃驚して棒立ちになった。縞の着物に角 た な も の 帯だから、お応者とあまくみたのであろう。それが予想外 け ん か な にすばしこく、しかも喧嘩馴れのした動作なのであっけに とられたらしい。さぶからはなれて棒立ちになった男は、 大きく口をあいて、意味もなく右手を振った。 ﹁おい、ょせよあんちゃん、冗談だ﹂とその男は云った、 ﹁おれたちはただ、その、話をつけたかっただけなんだ﹂ ﹁動くなよ﹂栄二は険の上へ当てた指に少しずつカを入れ おれの ながら云った、﹁動くとこの指をこのまま突込むぞ﹂ ﹁とめてくれ、勝あにい﹂と栄二の下で男が悲鳴をあげた、 つ ぷ ﹁おれの限が演されちゃいそうだよ﹂ ﹁てめえたちなんの用だ﹂と栄二が云った、﹁はっきり云 ぇ、話をつけるたあなんのこった﹂ ﹁おのぶのことだよ﹂と棒立ちになった男が、まだ右手を つ い し よ う 、 、 、 、 振りながら、追従するような口ぶりで答えた、﹁すみよし にいるおのぶだ、そう云えばわかるだろう﹂ ﹁おのぶがどうした﹂とさぶが立ちながら反問した。 ﹁おらあおのぶの兄だ﹂とその男は云った、﹁おのぶには 去年から、嫁にゆく約束の相手があるんだ、それだのにあ にいたちが来るようになってから、念にあいつがいやだな んて云い始めたんだ﹂ このあいだに栄二は、すぐ向うに棒きれのあるのをみつ けていた。男は話し続け、栄二はすばやく、組み伏せてい た男を放してはね起きると、その棒きれを地面から姶って、 右手に構えた。薪の荷からでも落ちたのだろう、太さ二寸 な ら あまり、長さ三尺ばかりの楢の枝であった。 ﹁どうするんだ﹂話し続けていた男は、栄このようすを見 ど も て、右手を前へ出しながら吃った、﹁おらもう乱暴はしね えよ、話を開いてもらってるだけだ、わけを話してるだけ じ ゃ ね え か ﹂ ﹁続けろよ﹂と栄二伊云った、﹁断わっとバ切な、へんな まねをすると一人は叩つ殺すぞ、こっちは堅気な職人だ、

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やくざに売られた喧嘩で一人や二人叩っ殺したって罪にゃ あならねえ、さあ、三人ともそっちへいって並べ﹂ 関みこんでいたのと、組み伏せられた男とが立ちあがり、 しぶしぶおのぶの兄と名のった男の脇へ寄っていった。

~ 府へ帰って寝てからも、さぶはまだ胸がどきどきすると 云っていた。そこは仕事場の隣りにある十帖で、栄二とさ ぶ以下、十七になる伝六、三月にはいった卯吉、定と、小 僧たちを合わせた、五人の寝場所になっていた。多市、重 七、五郎の三人には、それぞれ自分ひとりの四帖半を与え られているが、こっちの五人はなにもかもこみで、衣類や げ ん と だ な 日用品、蒲団や持物なども、三間の戸納に仕切りがあって、 その中へ入れるようになっていた。戸納の反対側は壁、一 方は仕事場へ通じる板戸、東側が窓という造りで、栄二と まどぎわ さぶとはその窓際に寝床を並べていた。 三人の小僧たちはもう眠ってい、伝六のやまいだといわ れるいびきが、十帖いっぱいにそうぞうしい音をふりまい て い た 。 ﹁あの三人はなに者だろうな﹂とさぶが云った、﹁おのぶ の兄だって云ったあの男は、本当におのぶの兄さんなんだ ろ う か ﹂ ' そ ﹁ 嘘 っ ぱ ち さ 、 き 23 き ま っ て ら あ ﹂ ﹁だって、去年から嫁にゆく約束が﹂ 夫 、 島 え M e ﹁嘘っぱちさ﹂と栄二が遮って云った、﹁おれたちは月に 二度ずっかよって、おめえはなにかかにか起を持ってっ てる、そのうえ初めっからお互いにざっくばらんで、遠慮 のねえ口をききあってたんだ、もしもそんな事情があると すれば、のぶ公が話さずにいるわけはありゃあしねえよ﹂ さぶは考えてみてから云った、﹁ l ーすると、あいつら はなんだろう﹂ e a , 、 A V 、 ﹁わからねえ﹂と栄二は枕の上で頭を左右に振った、﹁の ぶ公を張ってる地廻りかなんかだろうと思うが、のぶ公に きいてみなくっちやわからねえ﹂ 、、ささや ﹁可哀そうだな﹂とさぶは瞬くように云った、﹁そんなや

E

、 、 つが付き纏っているとすると、いったいおのぶはどうなる だ ろ う ﹂ 、 、 、 . e b 栄二は答えなかった。伝六のいびきがひと際高くなり、 さ ぶ も 欧 川 っ た 。 しばら ﹁にんげんは一寸さきのこともわからねえ﹂と暫くして栄 二が云った、﹁おれたちにゃあ金も力もねえし、職人とし てもまだいちにんめえにはなっちゃいねえ、ーーさぶ、お めえの気持はよくわかるが、おれたちにいま大事なのは自 分のことだ、ここ二、三年でおれたちの一生がきまるんだ、 そう云っちゃあ酷かもしれねえが、のぶ公のことは忘れて くれ、おめえ一人にじりを云うんじゃあねえ、おれも女の ことは忘れるから﹂

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24 さぷは息をのみ、寝返って栄二を見た。 ﹁忘れるって﹂とさぶがきいた、﹁栄ちゃんにも、 る の か ﹂ ﹁ 話 さ な か っ た か ﹂ ﹁ 覚 え が ね え よ う だ な ﹂ ﹁ずいぶんまえつからなんだ﹂栄二は夜具の中で胸を艇で り ょ う が え や わ た ぶ ん た、﹁││本町の両替屋で、綿文ていうとくいのあるのを 知ってるだろう﹂ ﹁ああ、おれも一度いったことがある﹂ ﹁あそこの中働きでおすえっていう娘がいる﹂と栄二は噸 き声で云った、﹁色の黒い、ちっちゃな艇ザきで、おれの ことを大きくなったわね、って云ゃあがった﹂ ﹁話の途中だが﹂とさぶが云った、﹁ーー綿文じゃあ栄ち ゃんに、娘さんの一人を嫁にくれるってことになってるん じ ゃ ね え の か ﹂ ﹁ぱか云え﹂栄こはそう云ってから、ふいとさぶのほうへ 振り向いた、﹁ーーなんだって、おめえいまなんて云った﹂ ﹁多市あにいが話してるのを聞いたんだ﹂さぶは気まずそ うに口ごもった、﹁おらなんにも知らねえけど、綿文では 娘の一人を栄ちゃんに﹂ ﹁ょせやい﹂栄二は枕の上で首を振った、﹁あんなおちゃ っぴいをどうするもんか、それにこっちは半人めえの職人 だし向うは大金持の娘だ、冗談じゃあねえ、そんな者を貰 うたらそれこそ一生のお荷物だぜ﹂ 誰かい ﹁そんなら﹂とさぷは舌ったるい調子で、さぐるようにき いた、﹁その、││おすえちゃんでいうのは、もう} ﹁そうじゃあねえ、そうじゃあねえんだ﹂栄二はさぶの言 葉から身をよけるように云った、﹁向うはなんにも知っち ひ と が て ん やあいねえ、おれの独り合点なんだ、おれは普っから好き で、できたらいつかいっしょになりてえと思ってた、いま でもそう思ってるが、今夜かぎり、そんなことは考えねえ こ と に す る よ ﹂ 、 、 q s a T さぶがやや暫くして広いた、﹁││いろいろなことがあ る ん だ な あ ﹂ 栄二はなにも云わなかった。伝六のいびきが低くなり、 小僧の定がなにか寝言を云った。みんな眠ったのかと息わ れるころ、栄二の磁くような芦が問えた。 た 白 い b e ﹁生きていればな﹂そして彼は溜息をついた、﹁││生さ ているうちはな﹂

、 帰 ど が 攻 略 ﹁おんとし二十と三にならせたまいて﹂とさぶは反故紙の 文字を読んでいた、﹁││おんとし二十三ていうと、おれ たちとおないどしっていうわけだな﹂ た す き の h ν ぎ ら 栄二は坦揮を直し、糊皿で糊を延ばしながら、左手の甲で ひたい 額 を こ す っ た 。 ﹁読むのはよせよ﹂と彼はさぶのほうを見ずに云った、

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