近代国家における﹁信教の自由﹂とは、主に、国家その他の政治上の権力︵政治権力︶からの干渉を受けること なく、信仰をもち、また布教や宗教的活動をする自由を言う。そこには、信じない自由も含まれている。
政治権力と自由︵上︶
l丸山真男の﹁信教の自由﹂論を中心にI
はじめに 国民主権の原理と自由の原理 政治権力の危険性︵以上本号︶ 自由の条件 むすびに李鋳哲
95 はじめに96 そもそも信教の自由は、﹁宗教的動物﹂である人間の本質・実在に深く関わるものであり、それ故に人間の最も 根源的な権利である。また、それは、思想・良心の自由、言論・出版の自由、通信の自由、身体の自由、集会・結 社の自由など、市民社会の様々な自由を含むものであり、それ故に人間の最も基本的な権利である。信教の自由が 絶対に守られねばならぬ理由は、まずここにあるといえる。 さらに今日、環境破壊や戦争、倫理の喪失など、全地域的規模の危機に対する宗教者の責任と役割が益々要請さ れている状況において、信教の自由のもつ意味は極めて重大であるといわざるをえない。というのも、国家を越え て行動することができるのは、ただ人類普遍の価値を信じる宗教者のみであり、また、こうした宗教者の活動は信 教の自由があってこそ可能だからである。こういう意味で、人類の未来は、われわれが国民国家次元の政治権力か ら信教の自由をどう確保し、またその自由をどう行使するのかに掛かっているといっても過言ではない。 このような展望のなかで、本稿は丸山真男︵一九一四年’一九九六年︶の信教の自由論を検討しようとする。丸 山は入信の経験をもっていない。それだけ、彼は宗教者の主体的な立場から信仰の問題や信教の自由の問題につい て具体的に論じてはいない。しかし、それにもかかわらず、丸山の学問的出発点が戦前の政教一致体制︵同家神道 体制︶への対決意識にあっただけ、彼の思想のなかには、政治権力からの信教の自由を確保するための政治的条件 にかんする重要な分析が含まれている。そして、それは主に、良心・信仰などの人間の内面性の自由一般︵精神的 自由︶にたいする政治権力一般の危険性︵悪魔性︶を強調するという枠のなかで行われている。 そこで、本稿はまず、丸山が政治権力からの精神的自由を重視することになる過程を国民主権の原理との緊張関 係のなかで跡づけ︵1節︶、ついでに彼が精神的自由への政治権力の危険性をどのように分析しているかを検討す る︵2節︶。そして、このような考察を踏まえつつ、丸山が政治権力から信教の自由を最大限確保するためにいか
丸山において、﹁政治権力からの精神的自由﹂の価値を重視するという視点は、彼の戦前の最初期の論考から見 られる。例えば、一九三六年の論文﹁政治学における国家の概念﹂では、個人が﹁絶えず国家に対して否定的独立 を保持するごとき関係にたたねばならぬ﹂ということが強調され、また一九四○年代初の﹁近世儒学の発展におけ る祖侠学の特質並びにその国家との関連﹂においては、祖棟学による﹁私的な道徳と公的な政治の区別﹂が高く評 価されている。ただし、前者の論文は近代国家における個人の自然権と国家主権の絶対性との二元性を﹁弁証法的 全体主義﹂、つまりルソー的民主主義の論理で克服するいう視座から書かれたものであり、後者の論考は国民国家 次元において新しい政治的秩序を不断に作り出す政治的主体の﹁作為﹂の論理を強調しようという意図で作成され たものである。そして、それだけ、これらの論考における自由の原理は、国民主権の原理との緊張関係のなかでそ の固有の意味が検討されることなく、結局には後者の原理のなかに解消されてしまう。 こうした問題は、精神的自由を中心とする﹁私的自治﹂の原理が明確に言及されている戦後最初の論文﹁超国家 主義の論理と心理﹂︵一九四六年︶にたいしても指摘することができる。この論考において、丸山は戦前の日本の 国家権力が﹁価値内容の独占的決定者﹂として個人の内面の領域に介入したことを厳しく批判しているが、この際、 こうした分析と批判の視座をなしているのが、国家の価値中立性と国家からの主観的内面性の自由という﹁私的自 治﹂の原理である。彼はこのことについてヨーロッパの近代国家の理念を借りてつぎのように強調している。 の信教の自由論のもつ意味と限界について考えることにしたい。 なる政治的条条件を強調しているかを制度と運動との両面から検討したうえで︵3節︶、最後に今Rにおける丸山 国民主権の原理と自由の原理 97 改治権力と自由(上
98 ヨーロッパ近代国家はカール・シュミットがいうように、中性国家︵両冒ロ①昌邑国璽員︶たることに一つの 大きな特色がある。換一一一一両すれば、それは真理とか道徳とかの内容的価値に関して中立的立場をとり、そうした 価値の選択と判断はもっぱら他の社会的集団︵例えば教会︶及至は個人の良心に委ね、国家主権の基礎をぱ、 かかる内容的価値から捨象された純粋に形式的な法機構の上に置いているのである。 このような人間の精神的領域における﹁私的自治﹂の原理は、しかしながら、この論考においても近代国民主権 の原理との緊張関係のなかで捉えられているのではない・丸山の意図は、﹁個人的自由と主権の完全性が全く一致 する﹂という近代の国民主義的民主主義の理念を強調し、これと日本の﹁超国家主義﹂との﹁質的な相違﹂︵強調 は丸山︶を明らかにするところにあった。この意味で、この時期の丸山における自由とはあくまで近代国民国家形 ⑩ 成への政治的自山であったといえる。 こうした自由への視点に修正が加えられ、﹁政治権力からの精神的自由﹂の価値がそれ自体として強調され始ま るのが、一九四八年前後からである。その契機になったのは、一九四七年のトルーマン・ドクトリンの発表以来、 東西両陣営の冷戦が激化し、日本国内とアメリカでレッド・パージが拡大していくという時代状況であった。丸山 は、一九四八年に入って最初に公にした文章で、現代の﹁デモクラシー国家﹂において個人の精神的自由がますま す侵害されていく事態についてつぎのように強い懸念を表している。 政治は今はこのようにして、あらゆる手段を駆使して人間を政治の鋳型にはめこもうとするのである。しか もこれは決していわゆる全体主義国家だけの現象ではない。デモクラシー国家でも日々そうなって行く。ただ いわゆる全体主義は、こういう傾向を公然とおし進めていくにすぎない。かくて古典的意味における思想、信 仰の自由は日に日に狭められつつあると言ってよい。
I . このような新しい視座は、すでにこの頃から、丸山が自由の原理を国民主権の原理とは別の次元において捉えて いるということを語っている。そしてその自由の原理とは、なりよりも﹁人民の意志﹂、つまり民主主義的正統性 に基づいた政治権力ですら立ち入ることのできない自由の領域を確保しうるものでなければならなかったのである。 こうして丸山は、一九四八年を前後にして、政治権力一般からの人間の内面的の自由Ⅱ精神的自由を重視するこ とになる。そして、さらに、その自由を理論的に正当化することを自身の学問的な課題の一つとして追求すること になる。それは、主に、精神的自由にたいする政治権力一般の危険性を強調するという方向から行なわれていった。 そして、こうした危機意識と自覚の下に、丸山はこの頃から﹁自由への強制﹂の問題を新たに取り上げ、批判的 に論じ始めることになる。例えば、﹁現代自由主義論﹂︵一九四八年︶においては、﹁人民の意志﹂が一九世紀にお ける自由民主政の世界的進展により﹁政治的支配の唯一の正統性根拠﹂にまで高められたことに注目しながら、一 方、現代の自由主義がその﹁人民の意志﹂を﹁特定の生活様式に対する忠誠によって限定しようとする﹂ことを批 判している。つまり、﹁巨大な宣伝網と教育組織によって国民の不断の等質化を行う一方、異質的なものは断行と して政治的権利を制限し及至剥奪する﹂のである。そして、こうした﹁自由への強制﹂という現状に対して、﹁他 のイデオロギーに対しても自己主張の原理を平等に認める寛容の精神﹂︵強調は丸山︶と﹁形式的自由の優位﹂強 洲するのである︵ 丸山はこうした現実を目撃しながら、それまでの国民主権の原理に基づいた自由観を再考せざるをえなくなった のである。なぜなら、自由を国家秩序形成への国民の自律的意志として捉え、その価値を強調するという視点は、 ほかならぬ下からの国民の主権により形成された国家権力が自由を陳胴している事態にたいして明らかに認識上の 限界をもつしかないからである。 99 政 治 権 力 と 自
﹁人間と政治﹂︵一九四八年︶を始めとして﹁政治権力の諸問題﹂︵一九五七年︶に至るまで、およそ十年間に及ぶ 数多くの政治権力論は、こうした試みの結果であるといえる。 それでは、丸山はありとあらゆる政治権力からの精神的自由を正当化するために、政治権力の危険性をどのよう に強調しているのであろうか。言い換えれば、政治権力は、例えそれが民主主義的な正統性を持つものであるとし ても、何故、われわれの内面の領域に立ち入ってはならないのか。 1自己目的化の傾向
二政治権力の危険性
100 まず丸山が強調するのは、政治権力の﹁自己目的化﹂の傾向である。つまり、本来何らかの政治的な目的のため の手段であるべき権力が、それ自体Ⅱ的に、しかも最高の目的になり、﹁権力のために権力を追求する﹂ことにな るという現象である。政治権力がわれわれの精神的自由にたいして危険な理由は、まずはこのように権力が自己維 持や自己増殖への傾向を本質的に持っているからである。 丸山は政治権力が自己目的化し、従って殆ど無限の権力追求が現れざるをえない必然性の根拠を、ホッブスと同 様に、政治権力の相対的存在性から求める。すなわち、政治の領域における権力は必ず他の権力との相互関係のな かで存在するしかないが、まさにこうした条件の故に、あらゆる政治権力に自己目的化の属性が内在するのである。 彼は﹃政治の世界﹄︵一九五二年︶でつぎのように語っている。 ホッブスの政治思想家としての偉大な点はこの無限の権力追求の根拠の説明に当たって、﹁それは既に得た 以上に強度な喜びを望む為でもなければ、程良い権力に人間が満足しない為でも無く、より以上の権力を得なければ現在持っている権力をも確保できない為である﹂︵同上︶としている点にあるのです。ここに権力特有 の力学があります。つまり権力というのは決して絶対的Ⅱ固定的な存在ではなく、常に他の権力との関係に於 ける相対的な力なのですから、諸々の権力が張り合っている状況に於いては、権力は自己の維持の為にもより ⑮ 多くの権力として現われざるを得ないのです。︵強調は丸山︶ ところで、このように政治権力の自己目的化の傾向が、人間の本性ないしは権力意志によるものではなく、権力 の相対的存在性という構造的な要因によるものであるならば、その傾向はどうしても避けられないものになる。な ぜならば、政治がなくならない限り、複数の政治権力は必ず存在し、競争し合うことになるからである。この意味 で、政治権力の自己目的への転化は、人間性の改善如何とかかわりなく、体制により程度の差はあるにせよ、いか なる体制の権力にも必ず現れる必然的な傾向であるといえる。 ” そしてこうした見方は、丸山が一フスウェルなどの戦後アメリカの行動主義政治学を積極的に受け入れ、政治権力 の﹁全体性﹂や公権力としての機能を比較的に強調することになる一九五○年代中盤においても持続される。例え ば丸山は、﹁政治権力の諸問題﹂︵一九五七年︶で、公権力としての政治権力特有の機能を﹁政策﹂という概念で捉 えながらつぎのように述べている。 政治権力は公権力であるから、たとえ価値追求を目的として権力を組織化しても、それが︵個人もしくは自 己の所属する第一次的集団の︶個別的な利害に直接的に奉仕している場合にはそれは公権力とはいえない。こ の意味で政策は個人または直接的集団をこえた全体性のイメージであるといえよう。という意味は政治権力が 客観的に﹁全体﹂の利益に奉仕しているということではむろんない。たとえ経済的搾取の機能のために権力が 組織化されても、そこでの指導者には個人的・派閥的利害を越えた役割︵ロール︶が課せられ、そうした役割 101 政 治 権 力 と 自 由
に基づかぬ権力行使はチェックされる。そうでなければ階級的支配の機能をも全うしえないのである。政治的 権力である限り、自己の統率する部下だけでなく、被支配階級あるいは他の社会集団に、いかなる価値をいか 御 なる程度に割当てるかという配慮がそこでの政策の中に必然的に包含されている。︵強調は丸山︶ ここで、丸山はまず政治権力の公権力としての機能を指摘している。その主な機能とは様々な社会的な価値を政 治社会の構成員に公正に配分することである。そして、そうした機能を果たすところに政治権力の存在理由がある のである︵この点で、丸山はアナーキズムとは一線を画しているといえる︶。 しかし一方、丸山は、そのような価値配分の機能もlあくまで﹁必要悪﹂としてl政治的な支配のためのもので あり、また、それゆえに政治権力に﹁全体性のイメージ﹂が要求されるのだ、という点を強調している。つまり、 政治権力の本質は、﹁全体性﹂にあるというよりは、自己目的性にあるということである。そしてこうした観点に より、丸山は、五年前と殆ど同じ論理で、つぎのように権力の自己目的化の必然性を指摘するのである。 権力的統制による人間関係の組織化は不断に規模を拡大し、権力関係のピラミッドをますます自己の内に包 摂して行こうとする内在的傾向をもっている。それは必ずしも指導者ないし支配者の邪悪なる性質のためでも なければ、またホッブスが既に鋭く洞察したように、﹁程良い権力に人間が満足しない﹂ためでもなく、﹁より 以上の権力を得なければ現在持っている権力をも確保できない﹂︵F①く冒冨P]︾呂壱.旨︶という権力特有のダ イナミズムに基づくものである。こうして本来他の価値の追求のために生れた権力関係が自己目的へ転化して 行く。︵強調は丸山︶ 102 このように、丸山は一貫して政治権力の自己目的化の必然性を強調している。それは、前述したように、権力の 相対的存在性という構造的な要因によるものであり、それだけ、いかなる体制の権力にも例外なく現れるものであ
ところが、あらゆる体制の政治権力に自己維持や自己拡張を追求するという傾向があるにしても、それの現れる 発現の程度は具体的な政治状況により異ならざるをえないだろう。それでは、どのような政治的状況において権力 の自己目的化が最も強く現れるのであろうか。言い換えるならば、ある政治権力者が自己増殖を謀る場合、いかな る政治的状況を最も好むのか。この問題にかんして、丸山が歴史上の最も一般的な状況として﹁対外的緊張﹂を指 摘しているのは注目に値する。つまり、対外関係が緊張すると、人々の価値関心が単純化せざるをえなくなるのだ が、﹁文字通り邪悪なる勢力あるいは指導者がこのダイナミックスを逆用して、対外的緊張を人為的に煽り、ある いは集団のメンバーの重大な価値を不断に危険状態におくことによって自己の権力を保持し拡大する﹂のである。 政治権力の危険性は、まずはこのような権力の自己目的化の傾向にあるといえる。 る C
2画一化の傾向
また、もう一つ、政治権力がわれわれの精神的自由にたいして危険な理由は、丸山によれば、その画一化の傾向 にある。すなわち、政治権力には本質的に人間の精神をある一元的な価値へと同質化しようとする傾向が潜んでい るからである。彼はこの点について次のように述べている。 いかなる政治権力であろうと、それが政治権力である限り人間の良心の自由な判断をふみにじり、価値の多 元性を平板化し、是に強制的な編成を押しつける危険性から全く免れてはいないのである。権力が駆使する技 術的手段が大であればあるだけそれが人格的統一性を解体してこれを単にメカニズムの機能化する危険性もま ” た増大する。︵強調は丸山︶ 103 文 治 権 力 とそれでは、あらゆる政治権力がl現代の民主的な手続きに基づいた権力をも含めてlその構成員の精神を同質化 ・画一化しようとする傾向をもつのは、何故であろうか。つまり、その必然性の根拠はどこにあるのであろうか。 丸山はその根拠を﹁政治的支配﹂の特有の構造から求める。すなわち、現実の政治的支配は被治者にたいする﹁物 理的強制﹂とともに、被治者の﹁自発的服従﹂という二つの要素により成り立つのであるが、こうした構造から政 治権力に画一化の傾向が生じるのである。まず、被治者にたいする﹁物理的強制﹂は歴史上の全ての支配関係に必 ず随伴するものである。しかし、﹁政治的支配﹂の場合、被治者の最小限の﹁服従の自発性﹂がなければ維持され ない。そしてさらに、民主主義の制度が確立すればするほど、支配の効率性は被治者の﹁服従の自発性﹂の程度に 比例することになる。政治権力が常に特定の観念や象徴を手段として被治者の精神を同質化しようという傾向をも つのは、このように、可能な限り﹁服従の精神的自発性﹂を最大限に確保しなければならないという﹁政治的支配﹂ の要求によるものである。このことについて丸山は次のように述べている。 物理的強制は手っとり早いけれども、その対象の自発的忠誠を確保する事が出来ないから存外に持続性がな い。そこで政治権力の把握者は、昔から被治者に対して、むしろ権力の強制的性格を露骨に出すことを避け、 政治的支配に対してさまざまな粉飾を施すことによって、被治者の内面的心理にできるだけ奥深く入り込もう とした。強力で支配しているという契機はなるべく出さず、その成員から、できるだけ多くの自発的賛同を調 極 達しようとするのである。 104 さらに、このような政治権力の危険性は、近代以降のテクノロジーの急激な発展とともに、一層深化していくも のである。そもそも、政治権力に潜んでいる画一化の傾向性が危険なのは、現実の世界のなかで政治権力︵この場 合、特に国家権力︶だけが﹁純粋の説得から純粋の暴力行使に至るまで﹂のあらゆる手段を動員し、その意図を実
しかし、ここで丸山がテクノロジーの発展とともに特に注目することは、前者の説得の手段・技術の進展である。 すなわち、マス・コミュニケーションを始めとする様々な通信手段や宣伝技術の雁大化・高度化である。こうした 手段・技術の進展は、丸山によれば、政治権力の影響力に二つの変化をもたらした。一つは、政治権力がその作用 範囲を全世界的に拡大したこと︵﹁横への広がり﹂︶であり、もう一つは、政治権力が個々人の生活の深部までその 必 影響力を増大したこと︵﹁縦への深まり﹂︶である。そして、それだけ、現代における政治権力は、体制により程度 の差はあるにせよ、その構成員の精神をより容易にある一定の方向へと同質化・画一化することができるようにな 四 つたのである。丸山はこのような現代の状況を﹁人格的内面性といわれたものの危機﹂と捉えている。 以上、見てきたように、丸山は精神的自由の原理を国民主権の原理と峻別したうえで、国民国家次元の政治権力 がわれわれの精神的自由に危険な理由を権力に固有の二つの傾向性から求めている。一つは、自己増殖を図る自己 目的化の傾向であり、もう一つは、被治者の精神を同質化しようとする画一化の傾向である。 それでは、このような国民国家次元の政治権力の危険性からわれわれが信教の自由を最大限確保し、またその門 由を行使するためにはいかなる政治的条件が必要であるのか。以下、次節においては、この問題について、制度︵政 教分離︶と運動︵政治的活動︶の両面から検討することにしたい。 で、政治権力の危険性は、結局のところ、物理的強制手段の独占という近代国家の特権から端を発するものである 占的に保持し、必要ならば何時でもいわば﹁最後の手段︵二三日四国ご○︶﹂として行使することができる。この意味 現しうるからである。就中、後者の純粋の暴力手段の場合、政治権力だけが軍隊や警察などの物理的強制手段を独 ” し﹂い鱈えレナスノ0 105 政治権力と自由(上)
⑩この時期における丸山の自由観はなによりも﹁ラッセルの﹃西洋哲学史︵近世︶を読む﹂﹂︵一九四六年︶に端的に現れ ている。ここで丸山は、近代的向川が本質的に﹁国家秩序との内面的なつながり﹂をもつ﹁政治的自由﹂であるというこ とを強調している。集三、七二’七八頁を参照。 ⑤﹃丸山真男集一︵岩波書店、一九九五年︶第一巻、三一頁。以下、丸川真男集は集と略記し、巻数は漢数字のみで記する。 山中島誠﹃丸山真男と日本の宗教﹂︵第三文明社、一九九九年︶、三二頁。 前掲害、一九○’一九四頁を参照。 ③宗教協力や﹁地球市民倫理﹂の形成において、信教の自由と政教分離がいかなる意味をもつのかについては、飯坂良明、 と宗教﹂庭野平和財団、眺唱、一九九四年︶、一’三頁を参照。 ②今日の危機における宗教の使命の重大性については、真田芳憲﹁はじめにlいま国家と宗教に問われるものl﹂︵﹁平和 仰飯坂良明一未来への軌跡lある政治学者の思想と行動l﹄︵岡谷ラウンド、一九九五年︶、一八五頁。 注 集 拙 三 稿 、 ﹃丸山真男集﹂︵山 集一、二九三頁。 九頁。 106 、この点については、既に数人の論者が指摘している。一一一宅芳夫﹁丸山真男における﹁主体﹄と﹃ナショナリズム﹂﹂︵東 京大学大学院総合文化研究科﹁相関社会科学﹂第六号、一九九六年︶、六一頁、斉藤純一﹁丸山真男における多元化のエ ートス﹂︵﹁思想﹂、一九九八年一月号︶、五頁、今井弘道﹁戦後民主主義の問題性l民主主義の過剰と反権威主義的、由主 義の縮小﹂︵﹃丸山真男を読む﹂状況出版、一九九七年︶、五○’五一頁を参照。 ⑧拙稿﹁丸山真男の規範の観念﹂︵﹃早稲Ⅲ政治公法研究﹂第五十七号、一九九八年︶、二三八’二四一一一頁。
﹁人間と政治﹂︵一九四八年︶、集三、二二一頁。 ﹁支配と服従﹂︵一九五○年︶、集五、四七’五一頁を参照。 ﹁人間と政治﹂︵一九四八年︶、集三、二一五頁。 本稿では言及を避けているが、丸山の最も強調するところの政治権力の特徴は﹁暴力性﹂であると思う。そして、こう した丸山の政治権力の捉え方が、結果責任の倫理など、彼の政治倫理観を深く規定し、さらには、近代日本の歴史にたい する認識の基準になっている。この点については、まず、丸山真男﹁現代政治の思想と行動第三部追記﹂︵一九五七年︶、 集七、四○頁、同﹁政治的判断﹂︵一九五八年︶、集七、三一一頁、中野敏男﹁近代日本の蹟きの石としての﹁啓蒙﹂﹂︵﹃現 h(上 18)(17 16 15) 4)U3 (23)(22)(21J(20)(19 Z 改治権力と 六六頁を参照。 集六、三五○舌 集六、三四八言 前掲害、三四罰 前掲書、一四○頁 ﹁政治の世界﹂︵一﹁政治の世界一二九五一一年︶、集五、一四○頁。 集三、三四五’一一一集三、三四五’一一一四八頁を参照。 バーリンー﹂︵﹁思想﹂、一九九八年一月号︶、五七’七八頁を参照。 自由と人民主権の思想にまつわるパラドックスの問題については、 ﹁人間と政治﹂︵一九四八年︶、集三、二一八頁。 九五○年代における丸山政治学へのアメリカ行動主義政治学の影響については、松沢弘陽﹁解題﹂、集五、三六二I 一五○百︿。 一四八百︿。 一一四八’三四九頁。 提林剣﹁自由のパラドックスールソー・コンスタン 107
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代思想﹂第二二巻第一号、一九九四年︶、九一頁’一○一頁、美尚中﹁丸山真男における︿国家理性﹀の問題﹂︵﹃歴史学
研究﹂第七○一号、一九九七年︶、二一’二三頁などを参照されたい。
例﹃政治の世界﹂︵一九五二年︶、集五、一二七頁。