駒澤大學佛敎學部硏究紀要第七十號 平成二十四年三月 一
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江戸時代、 中国から渡来した禅僧の一人に東皐心越 (一六三九―一六九六) がいる。教えの流れからすれば中国曹洞宗 に属する当人は当然ながら「禅僧」の意識を持つが、その一方、多面にわたる 「 文化人 」 としての才能は、迎え入れた 日本人の側にさまざまな影響をあたえた。 「禅僧」 と理解した人もおれば、 「書画」 にその価値を見出した人もあるといっ た具合である。いまその一一について言及する余裕はないが、まず東皐研究をめぐって筆者が管見した成果を左に列挙 し、ついで当面の課題である高羅佩ROBERT VAN GULIK
の東皐理解について考えてみよう。 【資料蒐集紹介】 浅野斧山『東皐全集』一喝社 明治四四年(一九一一) 高羅佩『明末義僧 東皐禅師集刊』 (『集刊』と略す) 商務印書館 中華民国三三年(一九四四) 陳智超『旅日高僧東皐心越詩文集』 中国社会科学出版社 一九九四年 【論文等】 永井「東皐心越の来朝をめぐる諸問題」宗学研究二〇 一九七八年 永井「東皐心越研究序説」 『禅宗の諸問題』所収 雄山閣 一九七九年 永井「寿昌清規の成立とその周辺」 宗学研究二一 一九七九年 永井「祇園寺所蔵『尊正規』について(一) (二) 」 曹洞宗研究紀要一〇、一一 一九七八、一九七九年
高羅佩と東皐心越
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『東皐禅師集刊』の刊行をめぐって
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永
井
政
之
高羅佩と東皐心越(永井) 二 永井「東皐心越とその派下の人々」 印仏研究二七―一 一九七八年 永井「東皐心越と日本の禅者達」 印仏研究二八―一 一九七九年 永井「曹洞宗寿昌派の盛衰」 印仏研究二九―一 一九八〇年 永井「調査報告「祇園寺」 」『禅宗地方史調査会年報』第二集 一九八〇年 永井「曹洞宗寿昌派の成立と展開―寿昌正統録本文の紹介、附年譜」駒大仏教論集一八 一九八七年 永井「曹洞宗寿昌派の伝来とその盛衰」 『道元思想のあゆみ3』吉川弘文館 一九九三年 永井 「東皐心越をめぐる諸問題―『覚世真経』の将来―」 『日本近世期における中国白話小説受容についての基礎研 究』 (科研費補助金基盤研究B、研究成果報告書、代表笹倉一広)二〇一一年 浅野「寿昌山祇園寺縁起」一喝社、一九一一年 吉田道興「東皐心越と寿昌派」 『永平寺史』巻下 永平寺蔵版、一九八二年 杉村英治「東皐心越禅師の来航」 『亀田鵬斎の世界』所収、三樹書房、一九八五年 杉村英治『望郷の詩僧東皐心越』三樹書房、一九八九年 石田 肇「東皐心越の鐘銘をめぐって」書学書道史研究一一、書学書道史学会、二〇〇一年 范 建 寅「 東 皐 心 越 の 国 内 に お け る 軌 跡 及 び 芸 術 淵 源 の 研 究 」( 原 題「 東 皐 心 越 的 国 内 軌 迹 及 芸 術 淵 源 初 考 」) 二 〇 〇 〇、中国・浦江東皐心越国際研討会論文集 曹洞宗文化財調査委員会「調査報告、祇園寺」 『文化財調査委員会報告』第六号 曹洞宗宗務庁、二〇〇三年 秋 月 観 瑛「 東 日 本 に お け る 天 妃 信 仰 の 伝 播 ― 東 北 地 方 に 残 る 道 教 的 信 仰 の 調 査 報 告 ―」 『 歴 史 』 二 三・ 二 四 東 北 史 学 会 一九六二年 窪 徳忠「茨城県に媽祖信仰を尋ねて」大正大綜合仏教研究所年報一八 一九九六年 窪 徳忠「再び茨城県下に媽祖信仰を尋ねて」大正大綜合仏教研究所年報一九 一九九七年 高橋誠一「日本における天妃信仰の展開とその歴史地理学的側面」東アジア文化交渉研究二 関西大学 二〇〇九年
高羅佩と東皐心越(永井) 三 徐 興慶「心越禅師と徳川光圀の思想変遷試論
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朱舜水との比較において―
」二松学舎大学『日本漢文学研究』三 二〇〇八年 特別陳列「東皐心越」図録 茨城県立歴史館 一九八二年 「東皐心越」 (心越禅師三百年御遠諱大法会「心越禅師展」図録)少林山達磨寺主催 一九九四年二
駒澤大学『新纂禅籍目録』に次のような記事がある。 東皐禅師集刊 ③和蘭、ヴァン・グーリック編著 ④民国刊 重慶 ⑥中外日報(一九五一)⑦禅師ニハ東皐琴学 東伝ノ著アリトス、尚編者ハ馬頭観音ノ論文ニテ文博トナル (同書、三四〇頁) 『 新 纂 禅 籍 目 録 』 の 編 者 は、 新 聞 紙 上 の 報 道 に よ っ て 書 名 を 収 録 し た も の の、 そ の 所 在 を 知 る こ と は な か っ た ら し い。筆者が該書を初見したのは昭和五二年、初めて祇園寺を調査した際で、当時の住職小原泰寿老師に「こんな本もあ る」と見せて頂いた時であった。残されていた膨大な資料に目を奪われていた筆者は、迂闊にも該書の持つ意味をあま り重要なものとも考えず、一応、マイクロフィルムにおさめたものの、ほとんど素通りの態であった。 結果的に四〇年に垂んとする歳月が過ぎた。その間に一度だけ該書を古書店の目録に見る機会があったが入手するこ と叶わず、主だった図書館でも所蔵せず、筆者が知る限り祇園寺蔵本が唯一の伝本であった。この祇園寺本を今般本格 的に閲覧利用できたのは望外のことであった。それは祇園寺現住の小原宜弘師による東皐研究への御理解のたまもので あるとともに、曹洞宗茨城県宗務所長伊藤清悦師のご尽力によるものである。 祇園寺蔵本を貸与された筆者は、これを駒澤大学図書館の永瀬洋子氏の御教示を得て複写化し同図書館においても収 蔵してもらうこととなった。複写であっても簡便に閲覧が出来るようになったことは東皐研究に資すること大であろう と信じている。高羅佩と東皐心越(永井) 四 話を祇園寺蔵『東皐禅師集刊』に戻す必要がある。 い っ た い こ の テ キ ス ト の 編 著 者 で あ る 高 羅 佩 に つ い て は 張 之 邁『 和 蘭 高 羅 佩 』 ( 民 国 五 八 年〈 一 九 六 九 〉) や 『 ROBERT VAN GULIK ― HIS LIFE HIS WORK ― 』 ( Soho Press 一九九八) がある。また未見ながら『 Een Man van Drie Levens 』 ( C.D.Barkman,H.de Vries,Amsterdam,Forum, 一 九 九 三 ) の あ る こ と が 指 摘 さ れ て い る ( 松 平 い を 子 訳 『 デ ィ ー 判 事・ 四 季 屏 風 殺 人 事 件 』「 三 つ の 生 」 二 五 九 頁、 中 公 文 庫、 一 九 九 九 年 ) 。 ま た 中 野 美 代 子 氏 は『 中 国 の テ ナ ガ ザ ル』 (博品社、一九九二年) の「訳者あとがき」においてフーリックの略伝を述べる (同書、二六三頁) 。 それらによって、いささか辞書的にその人生を記しておけば次のようになろう。なお名前の表記については『東皐禅 師 集 刊 』 に 付 さ れ る 自 筆 署 名 に「 ヴ ァ ン・ グ ー リ ッ ク 」 と あ る こ と を 知 り つ つ、 著 作 の 翻 訳 者 に し た が っ て、 「 フ ー リック」としておきたい。 一 九 一 〇 年 八 月 九 日 オ ラ ン ダ 陸 軍 の 軍 医 Willem Jacobus van Gulik の 五 男 と し て オ ラ ン ダ・ ヘ ル ダ ー ラ ン ド 州 ズ トフェンに生まれる。 一九一五年、父の任務の関係でインドネシアに移住、スラバヤ、バタビヤ〈ジャカルタ〉ジャワで小学校時代を過ご し、ドイツ語教育を受け、また中国語、マレイ語、ジャワ語を学んだ。 一九二二年、オランダに戻り、高校に入学、フランス語、ドイツ語、英語、ギリシャ・ラテン語を習得。アムステル ダ ム 大 学 の Uhlenbeck 教 授 か ら ロ シ ア 語 や サ ン ス ク リ ッ ト 語 を 教 わ る 一 方、 教 授 の ア メ リ カ イ ン デ ィ ア ン「 ブ ラ ッ ク・フット族」の言語辞典編纂に助力。中国語 (広東語、北京語) も中国人留学生から習い続ける。 一九二八年 ライデン大学・東洋語学科に入学し、政治、法律を学ぶ。卒業論文は「東インドの華僑に関わる法律の 改善について」 。またユトレヒト大学研究院にて日本語やチベット語も学ぶ。 中 国 人 仲 間 か ら「 高 羅 佩 」 の 中 国 名 を も ら う。 高 は Gulik 、 羅 佩 は ク リ ス チ ャ ン ネ ー ム Robert の 音 訳 で あ る。 の ち のことながら東京の芝公園近くに住んだため「芝臺」と号し、また書斎を「集義斎」と命名する。 一 九 三 五 年 ユ ト レ ヒ ト 大 学 で 博 士 号 を 取 得。 論 文 は「 馬 頭 明 王 諸 説 源 流 考 」。 オ ラ ン ダ 外 務 省 に 入 省 し、 東 京 に 赴 任する。一九三八年には上智大学の『モニュメンタ・ニポニカ』発行に関わり、後三〇年間にわたって中心的立場に立 つ。中国文化、特に琴に関心を寄せ、一九四〇年には『琴道』を上智大学から出版する。このことから東皐心越に関心
高羅佩と東皐心越(永井) 五 を持つこととなる。この頃、中華民国の駐日大使許静仁 (世英) 、参事の王芃生、三等秘書の孫湜らと知り合う。 ち な み に 許 世 英 ( 一 八 七 三 ― 一 九 六 四 ) は、 字 を 俊 人、 静 仁 と も い い、 清 末 か ら 中 華 民 国 時 代 の 政 治 家。 北 京 政 府 で は安徽派に属し、段祺瑞の下で一時は国務院総理をつとめたことがある。一九三六年、駐日大使となった。詳細は略す が抗日戦争終了後、香港に移住し、一九五〇年、台湾に移っている。一方、フーリックは一九四二年、太平洋戦争が勃 発したために、オランダ外交団とともに中国・重慶に移る。 一 九 四 三 年、 一 等 書 記 官 に 昇 任 す る。 一 二 月 に は 重 慶 で 公 使 館 の タ イ ピ ス ト で あ っ た 中 国 人 女 性 水 世 芳 ( 一 九 一 二 ―?) と 結 婚 す る。 彼 女 は 天 津 市 長 を 務 め ま た 京 奉 鉄 路 局 局 長 を 勤 め た 水 鈞 韶 の 八 女 で、 張 之 洞 の 孫 ( 娘 の 娘 と い う ) に当たり、斉魯大学を卒業していた。キリスト教と中国流の、二度の式を行ったという。のち二男一女を得ることとな る。同好の士を集め重慶に「天風琴社」を設立。一九四四年、重慶にて『東皐禅師集刊』を刊行する 一九四六年、オランダに帰国し、ハーグのオランダ外交部の政治部門に勤務したが、ライデン大学で過ごすことが多 かった。のちオランダ大使館の参事としてワシントンに赴任、極東委員会のメンバーとして日本占領政策に関わった。 このころ中華民国駐米大使館参事であった張之邁と親交を持つようになる。 一九四九年、極東委員会の占領政策の基本的部分が確定したため、一年余のワシントンでの生活を終え、オランダの 駐日軍事代表団の政治顧問として東京に戻る。終戦後の日本では日本語改革、漢字排斥の運動が盛んであったが、この 運動に対しては徹底的に反対の立場をとった。 このころ、 「狄公案」 (狄仁傑の事件簿) を英訳する。 一九五一年 祇園寺を訪れ、限定一〇〇部で刊行した『東皐禅師集刊』の第一冊目を寄贈する。該書には表紙裏に毛 筆で認められた献呈の言葉が記される。 一 九 五 三 年、 ニ ュ ー デ リ ー、 一 九 五 四 年、 ベ イ ル ー ト の 公 使、 一 九 五 六 年、 レ バ ノ ン に 公 使 と し て 赴 任。 一 九 五 六 年 クアラルンプールに公使、三年後に大使に昇任。一九六二年、ハーグに戻るも、一九六五年、駐日オランダ大使として 東京に赴任。癌を患い帰国。 一九六七年九月二四日、ハーグの病院にて死去。直前に最後の本『
The Gibbon in China
』を執筆している。
高羅佩と東皐心越(永井)
六
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“The Chinese maze mur
ders” 『迷路の殺人』 (魚返善雄訳、 大日本雄弁会講談社、一九五〇年) 改題『中国迷宮殺人事件』 (講談社文庫、一九八一年) 『中国迷路殺人事件』 (松平いを子訳、ちくま文庫、一九九五年) 『沙蘭の迷路』 (和爾桃子訳、ハヤカワ・ミステリ、二〇〇九年) ☆
“The Chinese bell mur
ders” 『中国梵鐘殺人事件』 (松平いを子訳、三省堂、一九八九年) 『江南の鐘』 (和爾桃子訳、ハヤカワ・ミステリ、二〇〇八年) ☆
“The Chinese lake mur
ders” 『中国湖水殺人事件』 (大室幹雄訳、三省堂、一九八九年) 『水底の妖』 (和爾桃子訳、ハヤカワ・ミステリ、二〇〇九年) ☆
“The Chinese gold mur
ders” 『黄金の殺人』 (沼野越子訳、東都書房、一九六五年) 『中国黄金殺人事件』 (大室幹雄訳、三省堂、一九八九年) 『東方の黄金』 (和爾桃子訳、ハヤカワ・ミステリ、二〇〇七年) ☆
“The Chinese nail mur
ders” 『中国鉄釘殺人事件』 (松平いを子訳、三省堂、一九八九年) 『中国鉄釘殺人事件』 (大室幹雄訳) 『北雪の釘』 (和爾桃子訳、ハヤカワ・ミステリ、二〇〇六年) ☆
“Necklace and calabash”
『真珠の首飾り』 (和爾桃子訳、ハヤカワ・ミステリ、二〇〇一年) ☆
“The Haunted monastery”
『雷鳴の夜』
高羅佩と東皐心越(永井) 七 ☆ “The Emper or's pearl” 『白夫人の幻』 (和爾桃子訳、ハヤカワ・ミステリ、二〇〇六年) ☆ “The Lacquer scr een” 『ディー判事 四季屏風殺人事件』 (松平いを子訳、中公文庫、一九九九年) 『螺鈿の四季』 (和爾桃子訳、ハヤカワ・ミステリ、二〇一〇年) ☆
“Poets and mur
der” 『観月の宴』 (和爾桃子訳、ハヤカワ・ミステリ、二〇〇三年) ☆
“The Red pavilio
n” 『紅楼の悪夢』 (和爾桃子訳、ハヤカワ・ミステリ、二〇〇四年) ☆
“Judge Dee at work”
『五色の雲』 (和爾桃子訳、ハヤカワ・ミステリ、二〇〇五年) ☆ “The W illo w patte rn” 『柳園の壺』 (和爾桃子訳、ハヤカワ・ミステリ、二〇〇五年) ☆ “Mur der in canton” 『南海の金鈴』 (和爾桃子訳、ハヤカワ・ミステリ、二〇〇六年) ☆
“The Phantom of the temple”
『紫雲の怪』 (和爾桃子訳、ハヤカワ・ミステリ、二〇〇八年) ☆
“The Monkey and the tiger”
☆
“Er
otic
Coluor Prints of Ming Period,with an Essay on Chinese Sex Life fr
om the Han to the Ch,ing Dynasty”
一九五一 『秘戯図考』 ☆ “Sexual life in ancient China” 一九六一 『古代中国の性生活』 (松平いを子訳、せりか書房、一九八八年)
高羅佩と東皐心越(永井)
八
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“The Gibbon in China”
一九六七 『中国のテナガザル』 (中野美代子、高橋宣勝訳、博品社、一九九二年) 松平いを子『四季屏風殺人事件』のあとがきによれば、フーリックはディー判事シリーズを五作で終わりにするつも り で あ っ た ら し い が、 人 気 の 故 に 継 続 す る こ と に し た と い う。 同 書 二 六 二 頁 に は フ ー リ ッ ク 自 身 の 執 筆 に 関 わ る 回 想 が、 松 平 氏 に よ っ て 翻 訳 収 録 さ れ て い る。 中 国 文 化 に 対 す る 極 め て 広 汎 な 知 識 と そ の 活 動 ぶ り を「 文 人 と な っ た 外 国 人 」 と 評 す る 向 き が あ る が 至 当 な も の と 言 っ て よ く、 ご く 最 近 で は『 日 本 経 済 新 聞 』 ( 二 〇 一 一 年 七 月 一 八 日 ) の 朝 刊 「春秋」欄において次の記事があった。 1960年代にオランダの駐日大使をつとめたロバート・ファン・ヒューリックは、博学多才の人だった。外交官 が語学に長ずるのは当然にしても、欧州の諸言語、中国語、日本語、サンスクリット語など、十数カ国語ができた という。▼東洋の文化に詳しく、いくつもの専門書を著した。中国の伝統楽器、古琴を自ら奏で、日本では昭和の 初期に一度途絶えた古琴の演奏が復活するきっかけをもたらした、云々。 「 春 秋 」 の 紹 介 は 唐 代 に 実 在 し た 狄 仁 傑 を 主 人 公 と す る 公 案 小 説「 デ ィ ー 判 事 」 シ リ ー ズ の 新 訳 の あ る こ と に 言 及 さ れるがここでは割愛しよう。ともかく高羅佩の業績は現代に生き、その多くが邦訳される。その多才ぶりを一言で総括 出来るはずもないが、あえて言うなられ政治家でありながら推理小説の作家であり、その小説を生み出し、当時の風俗 を考証しつつ挿絵まで描いてしまうほど、中国文化に傾倒した人と言ったところであろうか。興味本位の的外れの評価 もないではないが、関心を寄せた各分野の粋を一身に統合しようとした生き方は、中国の伝統的教養人=文人に通ずる と言ってよいであろう。当面の問題意識からすれば、自ら琴を弾ずることは、あたかも『紅楼夢』第八六回における賈 宝玉と林黛玉のやりとりが彷彿とさせるように、高羅佩自身が中国文化人となるための要件と考えたことは疑いなく、 それがついに東皐研究に及んだことになる。話を再度、祇園寺蔵『東皐禅師集刊』に戻す必要がある。該書の構成は次 のようである。 序文 許世英 王芃生 高羅佩 巻一 東皐心越禅師伝 付年譜 詩選序
高羅佩と東皐心越(永井) 九 巻二 東皐詩選 総一首 法三二首 人四四首 境五八首 詩四四首 巻三 東皐文選 長崎延命寺法華三昧塔銘 般若塔銘 宝広山鐘銘 宗関寺新鋳鐘銘 曼荼羅関記 日本来由両宗明弁 復徳川光圀啓 不二法門念仏宣指篇 三教辨 寿昌清規不願共住三十六条 環 景楼賦 尺牘一九柬 小序 巻四 東皐琴学東伝系略 附書琴腹 琴記〈人見鶴山〉 虞舜琴記〈藤田東湖〉 巻五 東皐善縁輯要 鉄牛書一柬 木庵書二柬 今井書一柬 徳川光圀書二柬 徳川綱條一柬 牧牛一柬 禎順書三柬 英中書一柬 独庵書二柬 元牯書一柬 人見鶴山書一一柬 安積覚書一柬 徳川光 圀詩詞録要 寿昌山開山録 岱宗山六景 東皐心越大禅師雑詠序 東皐心越禅師末期事実 あるものは浅野『東皐全集』と重複するが、該書独自のものも少ない。近年、陳智超『旅日高僧東皐心越詩文集』が その本文中で収録資料の重複について指摘しているのは貴重である。さて該書はその見開きに【補注1】において示し たような献呈に関わる一文を載せる。 丁寧な楷書で認められた文章は、日頃、書道に親しんだというフーリック自身の手になったと見てよい。落款も自身 の 手 に な っ た も の で あ ろ う。 著 者 も 言 う よ う に、 該 書 は 中 華 民 国 三 三 年 ( 一 九 四 四 ) 七 月、 重 慶 の 王 雲 五 を 発 行 人 と し て商務印書館から刊行されている。先に掲げたように許世英と王芃生が序を寄せ、著者自身も次のような「自序」を記 す。 自序【原文】 明清之際。中国高僧。多乗槎浮海。東渡日本。匪惟避地。亦兼弘法。維時東遊諸大徳悉具無上智慧。用能大振宗風。
高羅佩と東皐心越(永井) 一〇 至於文芸。特其余事。東皐 師 (ママ) 禅 。一代龍象。復多才芸。杖錫東征。更大有造於彼土。是不可以無伝。 禅師俗姓蒋。名興儔。字心越。号東皐。浙江浦陽人。生於崇禎十二年。八歳薙髪受具。康煕十六年。乗舟渡長崎。駐 錫興福寺。於時日本東部。有徳川光圀。諡義公。乃水戸 藩 (ママ) 王 。将軍徳川家康族也。光圀博識多才。学綜儒仏。明遺臣朱 舜水先生東渡。彼実館之。敬礼如師。比聞禅師来崎。特一再奏請幕府。並走車崎。迎致水戸。師継住水戸天徳寺。改其 名曰寿昌山祇園寺。以康煕三十一年開堂。自此師徧交日本高僧鉅儒。説法講経。以終其身。 禅師博学多芸。擅鄭虔之三絶。続印人之一伝。尤長於鼓琴。僑日十有八載。為彼邦寿昌派開山之祖。而琴学東伝。亦 自禅師始。徳川末年。日本大臣鴻儒高僧名医。競慕中土文化。往往就禅師請業問道。禅師有教無類。随縁開示。声教東 被仏日常輝。禅師之功也。 余癖嗜音楽。雅好鼓琴。治日本琴史。始聞禅師名。而徴諸中国文献。其名不彰。心竊憾之。用是発願。擬輯遺著。彙 為一集。伝刻於世。七年以来。輒於公暇。旅游日本各地。徧訪禅師遺蹟。所至古寺名刹。遇有禅師手迹。或紀載之有関 禅師行誼者。雖片楮隻字。必予伝写。断碑残石。亦加摹搨。其蔵於博物院者。既一一著録。更就市肆購求。綜余所得有 関禅師遺著遺物。都三百余件。前歳〈西暦一九四一年〉晩秋。発篋羅列。如親謦欬。如尋古歓。旁参以日本古今学者之 東 皐 研 究 資 料。 輯 為 東 皐 心 越 禅 師 全 集〈 内 分 詩 書 画 印 四 種 〉。 並 為 伝 以 冠 之。 付 梓 有 日。 会 太 平 洋 戦 起。 痛 深 国 難。 此 事遂廃。然䔥條異代。如聞雅音。羈旅同仇。弥懐高躅。禅師之不可無伝於中土。審矣。雖全集問世。有待於異時。而本 伝殺青。宜及於此日。不辞固陋。輒以余所撰東皐心越禅師伝。及附録若干篇。並付剞劂。以讅斯土学者。倘因此而引起 東皐研究興味。固為余之厚幸。抑区区之意。不独伝其人。亦将伝其学。則此伝之作。或為絲桐冥契之一証云爾。 西暦一九四三年歳在癸未五月十二日 荷蘭高羅佩 識於重慶荷蘭大使館之吟月盦 【私訳】 明末清初のころ、中国の高僧の多くが筏のような小舟に乗って海に浮かび、日本に東渡した。それは戦乱の地を逃れ るためだけでなく、教えを弘めるためでもあった。このとき東渡した大徳たちは皆な無上の智慧を具備していて、それ をもって大いに宗風を挙揚したが、文芸の分野、特にその他の分野で、東皐禅師は一代の竜象であるとともに多いなる 才 能 を も っ て い た。 錫 杖 を つ い て 東 征 し、 彼 の 地 に お い て 大 い に 成 果 を 残 し た。 そ の こ と は 伝 え な い わ け に は い か な
高羅佩と東皐心越(永井) 一一 い。 禅 師 の 俗 姓 は 蒋、 名 は 興 儔、 字 は 心 越、 号 は 東 皐。 浙 江 省 浦 陽 の 人 で、 崇 禎 一 二 年 ( 一 六 三 九 ) に 生 ま れ た。 八 歳 で 薙 髪 し 受 具 し た。 康 熙 一 六 年 ( 一 六 七 七 ) 、 船 で 長 崎 に 渡 来 し 興 福 寺 に 駐 錫 し た。 時 に 日 本 の 東 国 に は 徳 川 光 圀、 諡 義 公がいた。すなわち水戸藩主で、徳川家康の一族であった。光圀は博学多才で、学問は儒教、仏教を総べていた。明の 遺 臣 で あ っ た 朱 舜 水 が 東 渡 し た と き、 光 圀 は 彼 を 保 護 し、 師 と し て 敬 っ た。 こ の 頃、 禅 師 が 長 崎 に 渡 来 し た こ と を 聞 き、特に再三幕府に奏聞するとともに、長崎へ迎えをやって、水戸に迎えた。師は水戸の天徳寺に住し、その名前を寿 昌山祇園寺と改めた。 康 煕 三 一 年 ( 一 六 九 二 ) に 開 堂、 こ れ よ り 禅 師 は 日 本 の 高 僧 や 儒 者 た ち と 広 く 交 渉 を 持 ち、 説 法 講 経 し て 人 生 を 終 え た。 禅 師 は 博 学 多 芸 で、 「 鄭 虔 三 絶 」 の 誉 れ を ほ し い ま ま に し、 篆 刻 の 一 派 の 流 れ を 続 い だ が、 特 に 琴 の 演 奏 に 優 れ て い た。日本にあること一八年、彼の地の寿昌派の開山となったが、琴学が東伝したのも禅師に始まるのである。徳川の末 年、日本の大臣、儒者、高僧、名医は中国の文化を競い慕い、しばしばその業をもとめ道を尋ねたが、禅師の教えは型 にはまらず臨機応変に教えを開示した。 「声教が東に伝わり仏日が常に輝くようになった」のも禅師の功である。 私は音楽に強い関心があり、特に琴の演奏が好きなのだが、日本の琴の歴史を研究して始めて禅師の名を知った。し かし中国の諸文献にその名は彰われず、心中、残念に思っていた。そこで発願して残された著作を編集し、一集を作っ て世に伝えようとしたのである。ここ七年来、公暇をぬって日本の各地を歩き禅師の遺跡をあまねく訪ねた。行った所 の古寺名刹で禅師の手迹、あるいは禅師の行跡に関して記載したものがあれば、片言隻語であっても必ず伝写し、断碑 残石については拓本をとった。博物館に所蔵されているものは一つ一つ記録し、さらに書肆にて購入したりして、総じ て 私 が 得 た と こ ろ の 禅 師 の 遺 著 や 遺 物 は す べ て で 三 百 余 点 と な っ た。 先 の 歳 ( 一 九 四 一 年 ) の 晩 秋、 箱 を 開 い て 並 べ て みれば、禅師の謦咳に接するようであり、また古い友人を尋ねたようであった。日本の古今の学者による東皐研究の資 料 を 参 考 に し て 東 皐 心 越 禅 師 全 集 ( 内 容 は 詩 書 画 印 の 四 種 に 分 か れ て い る ) を 編 集 し、 伝 記 を 書 い て 冒 頭 に 掲 げ た。 印 刷 までに日時を要したため太平洋戦争に遭遇し、国難を痛深して、遂に刊行は取りやめとなった。ますますもの寂しい時 代となったが、東皐の琴のすばらしい音を聞けば、異国の地において私と同じように敵と戦ったその高躅を思うのであ
高羅佩と東皐心越(永井) 一二 る。禅師の伝記が中国になくてはならないことは明らかである。全集は出版されるにしても、いつの日か本伝の完成が 必要である。その時がきたら、見識の狭いのもいとわず、私の撰した東皐心越禅師の伝記および付録若干編をあわせて 出版し、すべての中国の学者に東皐研究への興味を惹起するとしたら、固より私の大変な幸せとするところである。そ もそも私の考えでは、その人物を伝えるだけではなく、その学問を伝えんとしてこの伝を作成したのであり、あるいは 琴を介して東皐と私が心を通じさせた証拠となるかもしれない。 一九四三年癸未の五月一二日 重慶オランダ大使館吟月庵において、オランダ高羅佩識す 『 集 刊 』 刊 行 の 次 第 は 右 に 尽 き よ う。 こ れ だ け で は 趣 味 が 昂 じ て 本 が 出 版 さ れ た と 言 わ れ て も 仕 方 な い か も し れ ぬ が、 高 羅 佩 の 眼 差 し に は 趣 味 以 上 の も の が あ る。 『 集 刊 』 第 一 章 は 東 皐 の 伝 記 を 掲 げ る が、 そ の 内 容 は 今 日 で も 決 し て 色あせることはないし、その伝記の中で東皐の禅を次のように論評するのは高羅佩の独壇場ではないか。 蓋師之道風。已遍達此地。当時鉅儒高僧。咸来問訊。初以文墨交。日久具服其品格超群。高僧如総寧寺丹心。大中寺 連 山。 青 松 寺 如 実。 経 山 寺 独 庵。 慈 徳 寺 丹 嶺。 静 居 寺 天 桂。 均 左 袒 偏 衫 頂 礼 之。 鴻 儒 如 人 見 鶴 山。 安 積 澹 泊。 杉 浦 琴 川。 今 井 弘 済。 皆 親 炙 之。 師 教 之 以 琴。 正 其 詩 文。 復 指 点 六 法。 昼 夜 不 倦。 師 与 彼 等 友 誼 之 篤。 其 書 信 可 知。 抵 崎 以 来。師嘗習日本語。時賦和歌並俳句。為世所称。 (中略) 師寓日本。殆二十年。且卒於斯土。然絶不忘其祖国。睠睠郷邦。一往情深。誦其詩而可知也。 師 所 賦 詩。 饒 有 韻 味。 而 品 尤 高。 古 人 有 言 曰『 非 澹 泊 無 以 明 志 』。 若 以 禅 師 之 詩 衡 之。 可 謂 参 透 此 境 矣。 初 誦 之。 似 感 拙 樸。 再 誦 之。 則 綿 密 淵 冲。 葩 開 暖 風。 熟 誦 之。 則 引 人 入 勝。 豁 然 得 其 幽 韻 矣。 又 曰『 詩 句 如 其 人 』。 禅 師 之 詩。 尤 如 斯 也。 師 之 詩 遠 宗 淵 明。 而 神 似 楽 天。 固 也。 然 此 猶 就 其 外 表 言 之 耳。 若 其 内 涵。 惟 淵 明 詩『 結 廬 在 人 境 』。 可 以 彷 彿。 蓋放浪塵 骸 (外ヵ) 。超然楽天。非難也。不離人境使人人能同其趣。而寄情於天人之間。斯難矣。此種詩境。無以名之。名之曰 『楽人』 。其詩不求奇而自奇。不求工而自工。唯一任自然而已。 師工書。特徴於隷草。其隷書字体。鼎文繆篆。随意運用。不専主漢碑。蓋明人隷書。一時風尚然也。惟常人用此法。 難免矯輮造作。師独能善用之。益臻美妙。現存遺墨。以長崎晧臺寺〈寺在長崎市寺町一番地。負風頭山。左側大音寺。
高羅佩と東皐心越(永井) 一三 右接長照寺。創於万暦末年。嘉慶二十五年。僑崎荷蘭国人。訪此寺問法。百余年後。余登是階。撫今追昔。曷勝感激〉 所 蔵 屏 風 二 組。 尤 為 神 品。 組 各 六 幀。 其 一 書 松 竹 梅 花 鳥 月 賛 各 一 聯。 其 一 則 書 摘 句 六 聯。 筆 勢 正 如 鳳 翥 鸞 翔。 洵 可 宝 也。 其大草驂靳枝山玄宰。又有禅宗書家独特之風格。足以自成一家。西暦一九三五年。余蒞東都。嘗捜師遺跡。而其所作 大草遺墨。殆已罕覯。歴年所得。大多小品。西暦一九三九年拙著『琴道』七巻稿畢。一日游京師書肆。偶獲師手書陶淵 明古詩二首大草八幀。可謂天縁巧合。欣然購之。四年宿望。償於一旦。為之狂喜。此帖筆勢飛勢。信是師晩年絶作。因 珍蔵之。目為寒斎一宝。毎焚香篝灯賞之。於得心応手之旨。深有所悟。乃知書法琴道。終帰一義矣〈太平洋戦争之際。 此帖不幸而亡。唯留摂影。後日擬珂羅版問世〉 。 師善治印。印如其書。有明代印人之作風。不顧伝統之成法。而好自創一格。水戸祇園寺。蔵師印譜一巻。大多師為自 刻印。亦有応知己之請而刻者。此譜余已撮其真蹟。惟鐫板問世。亦尚有待於異日。 師所作画。長於人物。亦工蘭竹。其画為書名掩。然亦頗可観。現存達摩大師像。有良・介之風焉。 (『集刊』一一頁) 【私訳】 思うに師 ( 東皐) の教えはこの地 ( 筆者注・水戸) に行き渡っており、当時の儒者や高僧の多くが訪れた。初めは文墨 を中心として交際したが、時を経るとその品格が抜群なことに信服していった。高僧の総寧寺の丹心、大中寺の連山、 青松寺の如実、経山寺の独庵、慈徳寺の丹嶺、静居寺の天桂は、みな搭袈裟で師を礼拝した。大儒者の人見鶴山、安積 澹 泊、 杉 浦 琴 川、 今 井 弘 済 な ど、 皆 な 師 に 親 炙 し た。 師 は 彼 等 に 琴 を 教 え、 ま た そ の 詩 文 を 正 し た。 ま た 六 法 ( 筆 者 注、 画 法 の 六 つ の 手 法 ) を 指 導 し て 昼 夜 倦 む こ と が な か っ た。 師 と 彼 等 の 友 情 の 篤 い こ と は そ の 手 紙 か ら 知 る こ と が で きる。長崎にやってきて以後、師は日本語を習い、時に和歌や短歌を詠んで、世の中から称えられた。 (中略) 師は日本に在ること二〇年に垂んとし、かつこの地で亡くなった。しかし祖国を忘れることなく、とても深く故郷を 偲んでいたことは、その詩を読めば知りうる。師が詠んだ詩は、十分な味わいがあり、しかも気品が高い。古人は「澹 泊でなければ志を明らかにできない」と言ったが、禅師の詩でこのことを推し量れば、師はこの境涯に到達していると 言うべきである。初めて師の詩を読めば飾り気がないように感じる。再び読めば、綿密で奥深く、花が春風に開くよう
高羅佩と東皐心越(永井) 一四 である。よくよく読めば、人を勝境に引き入れてからりとその幽韻を得させてしまうのである。また「詩はその人その もの」と言う。禅師の詩はまったくそのようである。師の詩は遠く陶淵明を基本として、しかも精神は白楽天に似てい る。固よりこれはその外面のかたちを言うのみである。その内面についてみれば、陶淵明の「廬を人境に結ぶ」ことを 彷彿とさせる。塵外に身を置くことは白楽天を超えていると言ってもよい。俗世間を離れることなく人々をその趣に同 じからしめ、しかもこころを人天の間に寄せさせたと言うこともできる。このような詩境は名づけようがないが、あえ て名づけて「人を楽しませる」と言う。その詩は奇を求めなくても奇なるものだし、工まずして工みなものとなってい るが、それはただ自然に任せたからである。 師は書に工みで、隷書と草書に特徴がある。隷書の字体はゆったりさと、やわらかさを意のままに使って、漢代の碑 文の書法だけに従っていない。考えてみればそれは明代の人の隷書の一時の風潮であるが、ただ普通の人がこの書法を 使うとたわんだ造作を免れがたいが、師はこの書法を使いこなし、いっそう美妙なところまで到ったのである。現存す る遺墨では、長崎晧臺寺〈寺は長崎市寺町一番地に在って風頭山を背にし、左側に大音寺、右は長照寺に接している。 万 暦 末 年 に 創 建 さ れ、 嘉 慶 二 十 五 年 に 長 崎 に 住 む オ ラ ン ダ 人 が こ の 寺 を 訪 れ て 法 を 問 う た。 百 余 年 の 後、 私 は 階 段 を 登って、今から昔を追憶し、感激にたえなかった〉が所蔵する屏風二組が、もっとも優れたものである。一組、それぞ れ 六 幀 で、 そ の 一 つ は 松 竹 梅 花 鳥 月 を 書 き、 そ れ ぞ れ の 一 聯 に 賛 を 付 し た も の で あ る。 そ の 一 つ は 摘 句 を 書 い た 六 聯 で、筆勢はまさしく鳳凰や鸞鳥が飛び回るようであり、まことに宝とすべきである。 そ の 大 草 ( 草 書 の 大 字 ) は、 枝 山 ( 祝 允 明 ) や 玄 宰 ( 董 其 昌 ) に 倣 っ た も の で、 ま た 禅 宗 の 書 家 の 独 特 な 風 格 が あ っ て、自ずと一家を成している。西暦一九三五年、私は東京に行って、かつて禅師の遺跡を捜したことがある。しかし書 いた大草の遺墨はほとんど見ることがなかった。年を経て得た大半は小品だった。一九三九年、拙著『琴道』七巻を脱 稿した。ある時、京都の書店に遊んだ際、偶然、師が手書した陶淵明の古詩二首、大草八幀を獲た。天縁がかなったと 言うべきで、喜んでそれを購入した。四年の願いが一朝にして報われ、狂喜したのである。この帖の筆勢は飛ぶようで あり、まことにこれは禅師の晩年のすぐれた作品である。これを珍蔵し、名づけて貧乏屋の唯一の宝とし、いつも香を 焚きかがり火で鑑賞したが、人の心をつかみ心のままに筆をはこぶ奥旨に深く悟るところがあり、そこで書法と琴道と は 畢 竟、 一 に 帰 す こ と を 知 っ た〈 太 平 洋 戦 争 の 際、 こ の 帖 は 不 幸 に し て 失 わ れ た。 た だ 写 真 を 撮 っ て あ っ た の で、 後
高羅佩と東皐心越(永井) 一五 日、カラー写真で世に問いたい〉 。 師は印刻をよくした。印はその書と同じで、明代の印刻家の作風であった。伝統的な印刻法にとらわれることなく、 自分で一つの品格を創ることを好んだ。水戸の祇園寺は師の印譜一巻を収蔵しているが、多くは師が自分のために刻印 し、または知己の依頼に応じて刻したものである。この譜について私はその真蹟を撮影しており、ただ版に刻んで世に 問うだけなのであるが、これもまた別の機会を待たねばならぬ。 師が描く絵は、人物に長じており、また蘭竹が得意であった。その絵は書が有名のために隠れているが、大変、見る べきものがある。現存する達摩大師の像は良や介の風がある。 最後の良・介の部分がいま一つ定かでないのだが、ともかく右のような高羅佩の東皐観
―
あくまでも文化人として 東皐を評価しようとする姿勢―
と、以下に見る許世英、王芃生のそれ―
特に王芃生―
とは明らかに異っている。 まず二人の序を見ておきたい。 許序【原文】 世当艱屯之会。士君子之不得行其道者。往往避世。或避地焉。以遂其志。昔夷・斉恥食周粟。餓於首陽。介子推不言晋 祿。死於綿山。亦其顕著者也。夫朱明之有天下。武功震於遐荒。文徳本於儒術。宜可以長治久安。永延勿替矣。乃降至 末葉。而寇盗蠭起。海内糜然。東林復社之党。相継以生。後之論者。多謂為志士之結合。蓋冀有以張朝政而挽頽運也。 余嘗謂明之亡。不亡於党。不亡於寇。而亡於権閹。蓋魏忠賢継劉瑾・王振之後。而応独尸其咎矣。其時士君子慨志之不 得遂。道之不得行。而避地者。如顧炎武之隠於華陰。黄宗羲之還於餘姚是也。東皐禅師精仏学。善詩文。工琴操。喜絵 事。有志之士者也。傷明屋既烏。痛義師之瓦解。乃浮海避於日本而為禅。継朱舜水後。受礼於徳川光圀。顕揚弘法。研 求 文 事。 並 出 其 緒 余。 与 騒 人 逸 士 授 琴。 而 共 鳴 焉。 其 詩 文 之 註 疏 与 讃 美 者。 倶 詳 於 王 子 芃 生 之 序。 余 不 復 贅。 所 独 異 者。以三百年前之志士。不伝於本国。而伝於異邦。不伝於本国人士之撰挙。而伝於遠在荷蘭之学者。探幽発隠。以彰明 之。東皐有知。得無笑為異数者乎。荷蘭学者姓高。名羅佩。字芝臺。余於二十五年春奉使日本。遇於江戸。嘗在雪楼与 芃 生 共 座 講 道 論 詩。 翌 年 羅 佩 遊 吾 国。 益 精 漢 学。 並 獲 古 琴 以 旋。 今 者 同 為 抗 戦 従 其 使 者 以 来 渝 州。 読 其 編 輯。 誦 其 敍 言。益見其徳業之日以進脩也。因識而帰之。高羅佩と東皐心越(永井) 一六 中華民国三十二年壬未十二月除夕。至徳許世英。記於古渝。話雨山館。 【私訳】 世 が 艱 難 の 時、 そ の 道 を 全 う で き な い 士 君 子 は、 往 々、 世 を 避 け、 あ る い は 地 を 避 け る こ と で そ の 志 を 全 う し た。 昔、伯夷、叔斉が周の粟を食らうことを恥として首陽の地で餓死し、介子推が晋の禄を語らず綿山で焼死したのは、そ の顕著な例である。いったい朱元璋による明が天下を治められたのは、武功が遙かなる地まで震い、文徳が儒教を本と していたから、長きにわたって平穏に治めることができ、永年、世が替わることがなかったのも当然であった。しかし 明代末になると寇盗が蜂起し国中が騒然となった。東林、復社の党が相次いで生まれた。後の論者の多くは、これは志 士の集まりであり、皇帝政治を回復して衰退の運を挽回しようとしたものと考えた。私はかつて明が滅びたのは、党に よって滅びたのではなく、盗賊によって滅びたのでもなく、権力をもった宦官によって滅びたのである。とりわけ魏忠 賢は劉瑾や王振の後を継いだにせよ、彼がもっともその咎を負うべきものであろう。その時の知識人で志を遂げること ができず、道を行うことができないのを慨嘆し、地を避けた者があった。たとえば顧炎武は華陰に隠れ、黄宗羲が餘姚 に帰ったことなどがこれである。 東皐禅師は仏教に精通し、詩文を善くし、弾琴に巧みであり、絵画を好む志を持った読書人であった。明が滅んだこ とを悲しみ、義兵が瓦解したことを痛んで、海に浮かんで日本へ避難し、禅をなしたのである。朱舜水の後を継いで徳 川光圀の礼を受け、仏法を宣揚し、文事を研求するとともに、それ以外のことにも成果を見せ、志を得ない文人や逸士 のために琴を教えて、ともにこれを楽しんだのである。詩文への注釈や賛美はいずれも王芃生の序文に詳しく、重ねて 言うまい。すばらしいことは、三百年前の志士が本国では伝えられずに、異国で伝えられたことであり、本国の人たち に選ばれなかったのに、遠くオランダにいる学者によって伝えられたことである。探り出して顕彰されたのだが、東皐 がこれを知ったら特別な待遇を受けたものだと笑うにちがいない。 オランダ人学者、姓は高、名は羅佩、字は芝臺。私は二五年の春、命を奉じて日本に赴き江戸で出会った。かつて雪 楼で王芃生とともに道を講じ詩を論じたことがある。翌年には羅佩が我が国にやってきて、いよいよ漢学に精通し、ま た古琴を手に入れて帰って行った。今はともに抗日戦争のためにその使者として渝州に来ている。その編集したものを
高羅佩と東皐心越(永井) 一七 読み、その序文を読むと、徳業が日を追って進歩していることを知るのである。そのためこのことを記してその成果に 添えよう。 中華民国三十二年(一九四三)壬未十二月除夕。至徳許世英、古渝の話雨山館に於いて記す。 王序【原文】 知 之 者 不 如 好 之 者。 好 之 者 不 如 楽 之 者。 朱 子 有「 四 時 読 書 楽 」。 故 能 成 其 朱 子 之 学。 凡 百 学 芸。 必 有 楽 此 不 疲 之 心。 始 能詣精深独到之境。浩然之気。集義所生。非可襲取。一家之言深思所蓄。非可倖至也。 荷蘭高羅佩博士。為余任東館参事時旧契。時博士亦供職於東京荷蘭使館。年甫二十五。已精通数国語文。尤酷嗜中国 学 芸。 自 号「 笑 忘 」。 謂 取「 一 笑 百 慮 忘 」 之 義。 可 見 其 恬 淡 恢 曠。 不 為 俗 累。 用 能 従 其 所 好。 精 於 所 業。 其 博 士 論 文 為 「馬頭明王古今諸説源流考」 。馬頭明王由巴比倫故墟出土。為仏教以前遺物。殆拝馬教所供養。斯界耆宿尚未之或詳。而 博士歧嶷早秀。已為改証瞻確。斯可驚矣。時正研析米南宮硯譜。且試習七絃琴。休沐過従。偶為余操高山流水之曲。似 尚 未 尽 嫻。 而 君 則 津 津 然 凝 目 揮 手。 鏗 爾 終 奏。 笑 謂 余 曰「 貴 国 琴 理 淵 静。 欲 撫 此 操。 必 心 有 高 山 流 水。 方 悟 得 妙 趣 」。 余観其神往。亦為心酔。然博士竟以此精於琴。頃者中秋佳夕。月明人静。承偕其未婚妻水世芳女士与美国東方学者艾維 廉博士翩臨茅舎。嘉陵江畔。瓜果清供。君鼓宋琴。艾吹鉄笛。引吭而歌。賡相酬唱。管弦既協。逸興遄飛。七載以来。 無此清福。因憶当年高山流水之音。益信業精於勤。今則不僅以払絃見長。且已成英文「琴道」巨帙。所謂「好之者不如 楽之者」非歟。 比出新撰「東皐心越禅師伝」稿。幷附其年譜。雑録。及詩選。属為校訂題序。案牘労形。輟作不時。忽届「満城風雨 近重陽」 。博士亦如催租人逼文債矣。爰為校訂如干條。幷点竄如干字。略敍所見曰。 心 越 禅 師 之 名。 在 日 本 幾 於 家 喩 戸 暁。 即 一 醤 油 之 微。 庖 人 市 販 亦 有 知 頌 禅 師 功 徳 者。 其 俗 姓 逸 名。 則 彼 緇 徒 学 者 之 間。類皆心儀耳熟。法悦広被。頌声洋溢。唐鑑真上人東渡以後。 (事見「鑑真上人東征伝」 。為吾郷唐僧顕理所著。日本 尚 存 之 )。 莫 如 師 者。 顧 中 土 罕 知 其 人。 即 在 三 島。 俗 流 感 其 開 物。 学 士 飫 其 多 芸。 僧 衆 崇 其 宏 法。 而 独 於 其 抗 清 護 国 之 懐。忠君孝親之跡。反以其披衲出家。能書善琴。賦詩作偈之故。世鮮属意及之。孤忠亮節。淹諱不彰者。殆三百年。余 曩疑心越東皐名号。不似禅門素習。而其東渡。又適当鄭経抗清将敗之時之地。若別有潜徳隠衷。尚待闡揚者然。然世変
高羅佩と東皐心越(永井) 一八 日亟。略無鈎稽余閑。亦乏攷証依拠。茲読博士所譔輯。雖非禅師全集。然足証余意度之不虚。為之拍案心喜。第以異邦 学者。彰吾明末義士踵門借抄。窮捜博訪。幾遍島国寺院及公私庋架。其宅心之篤。用力之勤。豈惟足多。亦増顔汗。雖 僅此吉光片羽。已可想見禅師風儀。他日全集告成。則前賢之本来面目。更可躍然紙上矣。 浙有勾践遺風。固多苦節孤忠之士。毎遇外族侵凌。国家危亡之際。代有異人。縦当時屈而不伸。或事敗隠迹。与草木 同腐者。終如剣埋豊嶽。紫気徹天。是在張華・雷煥者流為之尋掘而已。就中有関倭事者。如蒋洲、陳可願。以窮秀才而 関懐国難。遠究倭情。不見知不倖進。既受命不顧身。計降渠魁。分化賊将。然反以専命受誣。幾沈寃獄。得諫臣力争。 僅免於禍之二子者。得失泰然。行無所事。是孟子所謂「遺佚而不怨。阨窮而不憫」者。余嘗為之表揚矣。 建 虜 入 関 以 後。 東 南 義 士 奮 起 抗 清 者。 至 明 已 亡。 猶 未 息。 或 且 東 渡 乞 師 謀 恢 復。 或 投 荒 入 海。 義 不 帝 秦。 東 渡 義 士 中。余姚之朱舜水・張非文。世多知之矣。今更得浦陽(今浦江県)義士蒋興儔其人。猶恐有遺珠焉。蒋興儔者。心越禅 師 之 俗 姓 本 名 也。 其 全 部 事 跡。 尚 有 待 於 其 全 集。 及 中 日 野 史 遺 献 之 傍 証。 茲 因 高 著 為 之 啓 鑰 窺 牆。 以 待 後 之 探 珠 掘 剣 者。不亦可乎。 禅 師 東 渡 述 志 長 詩。 可 為 其 自 伝 之 鱗 爪。 略 補 明 季 遺 聞 之 闕。 自 康 煕 十 二 年 以 後。 三 藩 反 清。 鄭 経 由 台 湾 起 兵 内 渡 入 閩。 義 民 蜂 起 饗 応。 劉 国 軒 亦 挙 兵 反。 是 為 明 人 抗 清 之 殿 軍。 此 詩 作 於 康 煕 十 五 年 七 月。 距 鄭 経 大 敗 僅 半 年 耳。 詩 中 有 云。 「 疇昔渡海時。沿海繋艨艟。蒼生何顚沛。赤子尽飄蓬。塗毒劫民物。堪悲使祝融。楼台皆灰燼。城市成故宮。 ……」則 清 兵 在 閩 浙 沿 海 劫 掠 焚 殺 之 惨。 如 在 目 前。 「 舟 中 戎 器 少。 餉 供 提 来 多。 人 人 称 将 佐。 威 風 怎 奈 何 ……」 義 軍 長 処。 在 代 表 抗 清 之 淳 樸 民 意。 絃 高 卜 式 者 流。 捐 餉 献 糧。 固 極 踴 躍。 然 苦 無 処 得 軍 械。 故 云「 船 中 戎 器 少。 餉 供 提 来 多。 」 投 軍 者 雖義憤所激。嘨聚容易。究非久練節制之師。殊難層層約束。故有「人人称将佐。威風怎奈何」之歎。亦見禅師見識高人 一籌。 「彼人被栄耀。職授大総戎。不負男児志。為国当尽忠。天意猶未威。撓攘枉労功」 。此為明末義士之一疑案。禅師曾寄 示此詩於其琴弟子人見鶴山。鶴山「上東皐禅師書」云「瓊章之内有『彼人被栄耀。職授大総戎』之句。彼人則何人乎。 此 事 首 末 如 何。 伏 乞 密 被 書 示 矣 」。 高 博 士 注 云「 覆 書 不 存。 『 彼 人 』 仍 待 考 」。 余 以 為 此 事。 禅 師 未 必 明 告 日 人。 査 禅 師 東 渡。 在 朱 舜 水 之 後。 張 非 文 之 前。 舜 水 已 為 徳 川 師。 乞 師 尚 無 望。 則 東 皐 更 無 能 為 力。 且 東 皐 甫 抵 長 崎。 即 遭 宗 派 之
高羅佩と東皐心越(永井) 一九 厄。初幾被逐回国。後亦不免於幽禁。雖其在日私誼以人見為第一。然対義軍内幕。師必守口如瓶。蓋説之既已無益。伝 洩徒以資仇者。東皐不為也。査人見此書為癸亥九月十九日発。可見禅師此詩。在徳川光圀招聘未得幕府准許以前。似未 曾 以 示 人。 又 観 其 後。 人 見 辛 未 中 元 前 一 日 書 云「 鴻 雁 未 来。 日 仰 長 空 」。 則 師 久 未 致 書 於 彼 矣。 又 同 年 八 月 二 十 一 日 人 見書有「域異俗殊。而口舌不通。情思阻隔。想夫無対語尽情之友耳。僕平日与人会晤。而談不及俚俗利名之事。唯及山 水 之 幽 勝。 古 賢 之 風 操。 則 不 覚 日 斜 更 深 也 」。 似 其 前 書 詢 此 事。 為 師 所 諷 責。 此 書 頗 有 陳 謝 疏 辯 之 迹。 又 観 禅 師 与 光 圀 同 游 清 音 禅 寺。 和 光 圀 詩 云「 孟 浪 奚 知 到 日 東。 扶 桑 龍 象 尽 豪 雄。 他 郷 莫 問 中 華 事。 久 阻 音 書 信 不 通 」。 足 見 東 皐 東 渡 後 之失望。与緘口不談義軍事。即禅師開山寿昌後。為其最得意之時。然其清規「不願共住三十六條」之中。尚有「素善訕 謗。好事諍訟。与隠為間諜叵測者」一條。則此等事。禅師必不以告任何人。然亦因此淹没当時可歌可泣之事不少。今幸 有此一長詩。略窺鱗爪。第未知閩浙経清幾番大文字獄之後。民間尚有若干遺聞真跡。蔵待発掘者否。 文士習称明清武職之総兵為総戎。此詩大総戎云者。究指鄭経。抑指他将。手辺無閩浙遺献可攷。但必為当年曾与禅師 同袍沢之抗清将領。禅師見其官高於識。難与成事。故臨去勉以「為国当尽忠」而歎其「撓攘枉労功」乎。詩中所謂「彼 人」也者。似並不知東皐之才識器度。不能言聴計従。故東皐有「大事冰消矣。顧命自潜蹤。数年徒碌碌。空与別人労。 ……」之歎。然「数年徒碌碌」則非偶爾之参預。 「空与別人労」則師非置身事外者。是可断其参加抗清之役頗久也。 「幸爾脱陥穽。暫喜出塵囂。箇中惟危処。聞説也魂銷」 。此処用「陥穽」及「人心惟危」之典。則東皐当日之艱険。不 僅清兵。似義軍内尚有謀不利於東皐者。 「悪木豈無枝。志士多苦心」 。此東皐之所以恝然而去耶。続云「去閩復回浙。焉 得有情飈。艱険非可測。就理倩誰調。旌旂蔽天日。剣戟列迢遙」 。「去閩」一事。更証禅師之参加抗清。因当時義軍多在 閩。若為参禅。則不須去閩。 「復回浙」正所謂「数年徒碌碌。空与別人労」 。而茹志遠引之時。時距鄭経之敗僅半年。則 「彼人」云者。或即鄭経亦未可知。蓋自檜以下。非東皐所欲譏。亦非其所宜依也。 「丈夫家四海。扶桑豈好逑。片帆任飄泊。淹纏也石尤。任浮滄海去。心事付東流」 。尤見東皐之去国東渡実不得已。非 所願也。其下有「浮世因飄泊。空花任隠淪」 。益見其孤懐隠痛之深。情文并至。 東皐東渡後之十年。其胞兄蒋尚卿。復偕張非文及穆迓居士等至長崎。尋訪東皐。此為明人最後乞師謀恢復者。然大勢 已去。舜水・東皐且無能為力。則非文・尚卿・穆迓諸義士。亦所謂尽心明志。是知其不可為而為之者歟。然足徴明人迄 不 屈 於 清。 且 足 証 東 皐 一 門 忠 孝。 与 彼 確 曾 参 加 抗 清 義 軍 之 脈 絡。 此 事 在 東 皐 東 渡 後。 心 之 所 痛。 不 復 出 口。 故 年 譜 不
高羅佩と東皐心越(永井) 二〇 載。 余 以 為 其 与 閩 浙 義 士 参 預 計 謀。 当 在 康 煕 七 年 招 諭 鄭 経 被 拒 之 後。 其 従 軍 亦 在 康 煕 十 二 年。 鄭 経 謀 攻 泉 州 作 根 拠 之 時。 此 或 東 皐 詩 所 謂「 数 年 徒 碌 碌 」「 去 閩 復 回 浙 」 之 迹 象 耶。 文 献 不 足 徴 也。 姑 待 異 日。 但 此 五 言 長 歌。 為 東 皐 慷 慨 抑 鬱之蘊蔵。亦明末義士抗清之逸史。中土従未之見。即日人所出「東皐全集」亦不載。高博士以好琴而識東皐之名。以愛 東皐而窮捜其遺墨。精誠所感。率得借抄「水戸彰考館」抄本。以公諸世。使論東皐生平者。略得点睛。此為博士対於東 皐 之 莫 大 功 績。 惜 原 稿 以 此 雑 列 於 附 録 中。 余 特 商 於 博 士。 就 其 詩 選 所 分「 法 」「 人 」「 境 」「 時 」 四 部 之 首。 特 加「 総 」 部。而以此詩当之。余豈好辯。実博士之虚心耳。如此分類。雖亦一法。然其中尚不無可移置者。以忙冗無暇一一精校。 姑俟太平有日。全集問世時。為之可也。 東皐詩中。尚多可窺其心境者。如除夜云。 「 此 地 唐 津 不 是 唐。 唐 津 昔 日 把 名 揚。 唐 山 唐 水 非 唐 境。 唐 樹 唐 雲 非 唐 郡。 唐 日 唐 月 同 唐 突。 唐 時 唐 節 光 陰 速。 唐 津 除 夜今宵延。明日唐津又一年」 。 通首慷慨悲憤。其思明斥清之真情。刺透紙背。高博士重視此詩。与余同感。但詩為両句一転韻之佳構。其六七両句。 因 日 人 読 詩 転 倒 字 句。 且 原 稿 或 為 行 草。 致 被 日 人 将「 速 」 誤 為「 過 」。 且 誤 置 於「 光 陰 」 之 上。 「 延 」 誤 為「 是 」。 皆 失 韻。亦失「延」字守歳之意。今就 韻 、 形 、 義 、 三者為之訂正。此詩博士偶以与他詩多首。雑入伝中。而未列入詩選。余以既別 有詩選。皆宜移置。但於伝中。必要処註見詩選。以求篇幅整潔匀配。皆承領納。 東 皐 愛 国 深 情。 散 見 於 詩 文 者。 多 難 枚 挙。 其「 読 蘇 武 伝 」 詩 云「 孤 臣 心 固 如 金 石。 不 枉 漢 庭 有 大 賢 」。 蓋 坦 然 自 況 矣。其対家庭亦極孝友。故将其「萱堂設帨之辰」 。「先厳七週之期」与「思親自責」各詩。移於「人」部之首。而「至崎 得晤兄家」詩因与「謝非文(張非文)居士」詩及「和穆迓居士鷓鵠天詞」有関。略依年次排於後。余詩繁不備指。 禅師手訂「不願共住三十六條」 。開首即為「不敬三宝。不孝父母。所為犯官府禁制者」 。与其他遺稿参看。皆足証東皐 儒 仏 弁 修。 入 世 出 世。 惟 心 所 現。 無 不 円 通 自 在。 真 所 謂「 欲 着 袈 裟 為 多 事。 一 着 袈 裟 事 更 多 」。 非 不 通 所 謂 出 家 人 自 了 漢也。其中尤以「法華三昧塔銘」 「不二法門念仏宣指篇」 「復水戸侯(光圀)大檀護法啓」 「日本来由両宗明辯」 「寿昌清 規」等。皆為東皐禅師諸法具足。衆善奉行之極致。 博士之留心東皐自琴始。余之懐疑心越自名始。校読既竟。余諦観東皐凡正式疏啓多署興儔。僅私柬酬唱用心越等号。 則「 両 宗 明 辯 」 中 所 謂「 唐 山 賤 名 聞 之 京 省 久 矣 」 者。 当 為「 興 儔 」 其 名。 但 伝 云「 初 名 兆 隠 」 則「 興 儔 、 」「 心 越 、 」「 東
高羅佩と東皐心越(永井) 二一 皐 」 三 者。 皆 為 具 大 知 識 後 所 自 取。 古 人 自 名。 莫 不 有 其 義。 余 以 為「 興 儔 」 者「 敗 類 」 之 対 称。 以 彼 博 学。 当 取 毛 詩 「 以 莫 不 興 」 及 韓 文「 孰 与 為 儔 」 之 義。 明 末 雖 多 忠 臣 義 士。 然 自 洪 承 疇 以 下。 為 虎 作 倀。 認 賊 作 父 者 皆 敗 類 也。 故 興 儔 之 名。 当 取 於 禅 師 立 志 抗 清 之 日。 高 伝 亦 渉 及 明 太 祖 微 時。 嘗 為 皇 覚 寺 沙 弥 一 事。 或 亦 東 皐 抗 清 之 遠 縁 耶。 未 可 知 也。 「 心 越 」 当 為 義 軍 敗 後 所 取。 不 僅 禅 師 越 人。 以 示 身 離 故 郷。 心 仍 在 越 之 義。 且 越 者 勾 践 嘗 胆 治 呉 之 地 也。 師 之 心 当 在 於 此。志恢復也。迨抵長崎。即厄於宗派之難。幾被逐。旋被幽。知事不可為矣。余以為東皐之号。当取於東渡以後。阮藉 奏記「方将耕東皐之陽。輸 東 (黍ヵ) 稷之税。以避当塗之路。 」至此事既不可為。故禅師有避秦遯世之念。此消極之義也。且禅 師衣鉢実受於浙之皐亭寺闊堂方丈。今東鄰延之宏法。則皐亭之道東矣。此積極之義也。大知識兼摂。仁者見之謂之仁。 智者見之謂之智。不可方物。況囿於一孔乎。余始疑心越東皐□号。倶不似禅門素習。今得略窺一孔。雖未具足。宜若可 釈然矣。 余雖能読琴譜。但無暇習指法。曩遭張宗昌之難。与魯紳夏渠園間道走青島渡日。因得習彼邦古語之間。曾遍観各収蔵 家珍品。渠園雅善操琴。秋在京都。有浦上玉堂。後人邀往聴琴。謂係家伝心越琴法。世守不替。観其按譜無誤。但琴則 啞不成声。諦讅始知其大小絃。均以無法購得。時以意度仿製者。且僅絞成縄形。未加外纏。故難成声合度。然如此者且 墨守二百余年。其守家法固可嘉。倘日人於孔孟中庸之道能如此恪守。則七年之戦。将無由起。所謂不可大受而可小知者 耶。噫。 原 稿 以「 東 皐 心 越 禅 師 伝 」 及「 詩 選 」 為 主。 余 統 為 附 録。 其 中 東 皐 遺 著。 博 士 新 著。 与 日 人 諸 作 并 列。 因 就 商 於 博 士。以年譜附於伝。将伝中各詩移於「 「東皐詩選」 。其附録中。除「東渡述志」長編移弁詩選外。別立「東皐文選」而以 日 人 有 関 東 皐 之 詩 文。 彙 為「 東 皐 善 縁 輯 要 」。 俾 与 博 士 所 篇「 東 皐 琴 学 東 伝 系 略 」 等 各 為 一 巻。 並 商 同 輯 補 如 干 篇。 総 名「 明 末 義 僧 東 皐 集 刊 」。 意 在 主 賓 有 序。 名 実 相 符。 但 忙 隙 粗 校。 恐 多 未 当。 承 博 士 不 以 為 僭 越 割 裂。 反 笑 謂「 我 乃 張 華 望 気。 君 如 雷 煥 掘 得 龍 泉 太 阿 矣 」。 其 冲 虚 謙 遜 之 懐。 愧 余 時 力 均 未 足 以 副 之。 博 士 与 余 夙 為 道 義 友。 今 深 患 難 交。 他 日止戈嚢筆。発蘊拾遺。再求於閩浙遺献。父老口碑之間。或更有所補益。届時余亦獲太平之民。当重為之精校。稍補今 日之疏漏。博雅君子。幸蒙察宥。 中華民国三十二年十一月。欧戦休戦第二十一届紀年日。淥江王芃生校後識
高羅佩と東皐心越(永井) 二二 【私訳】 「 之 を 知 る 者 は、 之 を 好 む 者 に 如 か ず。 之 を 好 む 者 は、 之 を 楽 し む 者 に 如 か ず 」 (『 論 語 』 雍 也 ) 。 朱 子 に「 四 時、 読 書 に楽しみ」という言があり、それ故、朱子の学問が完成したのである。およそ諸々の学芸というものは楽しんで疲れを 感 じ な い 心 が あ っ て、 始 め て 緻 密 で 他 の 追 随 を 許 さ な い 境 涯 に 到 る こ と が で き る の で あ り、 「 ( 孟 子 は ) 浩 然 の 気 は 義 を 集 め て は じ め て 生 ず る も の で、 義 を ち ょ っ と 借 り て き て ち ょ っ と と り 行 っ て 得 ら れ る も の で は な い ( と 言 っ て い る ) 」。 一家をなすようなすばらしい言は深い意味を蓄えており、偶然に到達できるようなものではない。 オランダの高羅佩博士は私が東京の大使館参事の任にあったときの旧友で、時に博士もまた東京のオランダ大使館に 勤 め て い た。 年 は や っ と 二 五 歳 に な っ た ば か り で あ っ た が、 す で に 数 カ 国 語 に 精 通 し、 と く に 中 国 の 学 芸 を 嗜 ん で い て、 自 ら「 笑 忘 」 と 号 し て い た。 「 一 笑 す れ ば 百 慮 忘 る 」 の 意 味 を と っ た も の と 言 い、 そ の 心 根 の 恬 淡 恢 嚝 ぶ り を 知 り う る し、 世 事 に と ら わ れ ず そ の 好 む と こ ろ を 行 っ て、 能 力 を 発 揮 し た。 博 士 論 文 は「 馬 頭 明 王 古 今 諸 説 源 流 考 」 で あ る。馬頭明王はバビロンの廃墟から出土した、仏教以前の遺物であり拝馬教が供養したものであったが、この方面の権 威者も詳細にしきってはいなかった。しかし博士は若いながらも優秀で改めて立証し確実な見通しをたてたのは驚くべ き こ と で あ っ た。 ち ょ う ど 出 会 っ た 時 は 米 南 宮 ( 米 芾 ) の「 硯 譜 」 を 研 究 し、 ま た 七 弦 琴 を 習 っ て い て、 休 み や 湯 浴 み の時、たまたま私のために「高山流水」の曲を演奏してくれたが、まだ雅というわけではなかった。しかし彼は興味が 尽きない様子で、真剣なまなざしで手を揮い、琴の演奏を終えたのであった。私に笑いかけて言うには「貴国の琴の道 は深淵静寂で、演奏しようとするには、必ずや心に高山流水を保って始めて妙趣を得ることができる」と。彼の傾倒ぶ り に 私 は 心 酔 し て し ま っ た。 し か も 博 士 は つ い に 琴 に 精 通 し た の で あ る。 中 秋 の 夕 べ の こ ろ、 月 は 明 る く 人 静 か な 中 で、 彼 の 婚 約 者 で あ る 水 世 芳 女 史 と ア メ リ カ の 中 国 学 者 艾 維 廉 ( ア イ ビ レ ン ) が 拙 宅 に や っ て き た。 嘉 陵 江 の 岸 辺 で 瓜 などを供え、彼は宋琴を弾じ、アイビレンは鉄笛を吹き、声を張り上げて歌い互いに応酬し、管弦は響き合い、興趣の つきることがなかった。 七年来、このような清福はなかったが、往年の「高山流水」の音を思うに、ますます「 (韓愈が言う) 学業は勤めるほ ど 精 通 す る 」 を 信 じ る に い た っ た。 今 で は 琴 を 上 手 に 弾 く だ け で な く、 英 文 の 大 冊『 琴 道 』 を 完 成 さ せ た の で あ る。 「之を好む者は、之を楽しむ者に如かず」は虚言ではない。
高羅佩と東皐心越(永井) 二三 近年、彼は新たに「東皐心越禅師伝」の原稿を書き、その年譜、雑録、及び詩選を付し、私に校訂と題序を依頼して きた。机に向かって苦労しつつ作文したが、たちまち「(潘大臨の故事の)満城の風雨、重陽に近し」の時となり、博 士 も ま た ( 故 事 の よ う に ) 税 金 を 催 促 す る よ う に 文 章 作 り を 催 促 し て き た。 こ こ に い く つ か を 校 訂 し、 い く つ か の 字 を 加除して、考えを述べておきたい。 心越禅師の名は日本においてはほとんど知らない人がいない。醤油の微妙な味を料理人や商売人ならだれもが知って いるように、禅師の功徳を讃えている。その俗姓は失われたが、彼の仏教学者の間では、誰もが皆な心から敬愛し耳に な じ ん で い る。 法 悦 は 広 く 被 い、 頌 声 は み ち あ ふ れ て い る。 唐 の 鑑 真 上 人 が 東 渡 し て 以 後、 ( そ の 事 は「 鑑 真 上 人 東 征 伝 」 に 見 え る。 吾 が 国、 唐 の 僧 顕 理 が 著 わ す 所 で あ る。 日 本 に は 尚 お 存 し て い る ) 、 東 皐 の よ う な 人 は お ら ず、 中 国 を 見 て も 東皐を知る人はほとんどいない。日本においては、俗流の人はその文化に感じ入り、知識人はその多芸なることに満足 し、僧たちはその教化を尊んだ。しかしその抗清護国の懐い、忠君孝親のあとかたとは逆に衣をまとって出家したけれ ども、書に堪能で琴を善くし、詩を歌い偈を作ったが故に、世間では東皐の心が孤忠亮節―自分の信ずるところを貫き とおす―ところにあることを知っている人は少なく、名を隠し彰われなくなってから殆んど三百年を経たのである。 私は以前、心越、東皐の名前は禅門の習慣に似つかわしくないと疑っていた。しかも彼の東渡の時は、又たちょうど 鄭経が清に抵抗して、まさに敗れんとした時であった。もしや別に徳を隠し人に言えない苦衷の心が有って、闡揚の時 を期待していたのであろうか。然るに世の中の変化は日々急であり、私にはほとんど研究の暇がなく、また考証のより どころも乏しかった。いま博士の編輯された成果を読むと、禅師の全集ではないが、しかし私の考えが誤っていなかっ たことを証明するのに十分であり、机を叩いて心底喜んだのである。外国の学者が、吾が明末の義士について明らかに しようとして、家々を訪ねて資料を借用し、日本中の寺院や公私の書架を広く捜しまわったのである。その寄せる心の 篤いこと、力を尽くしての努力は大変なものであり、私たち中国人の顔を汗させたのである。すばらしい輝きの一部分 で あ る に し て も、 禅 師 の 風 儀 を 想 い は か る こ と が で き、 い つ の 日 か 全 集 が 完 成 し た な ら ば、 前 賢 ( 高 羅 佩 ) の 当 初 の 思 いが、さらに紙上に躍動するはずである。 浙江には勾践の遺風があって、もともと苦節孤忠の士が多かった。外族の侵略や国家存亡の瀬戸際に遇うたびに、時 代 ご と に す ば ら し い 人 物 が 出 た。 た と え そ の 時 は 屈 服 し て し ま い、 あ る い は、 事、 敗 れ て 隠 迹 し、 草 木 と 同 じ よ う に
高羅佩と東皐心越(永井) 二四 腐ってしまったようであっても、終には名剣が豊嶽に埋められても、紫気が天に徹し、張華や雷煥といった人たちが尋 ね掘ることになったのである。特に日本に関係する事柄は、たとえば蒋洲や陳可願などは一介の秀才だが、国難を心に かけ、遠く日本の状況を究めようとし、命令を受けるやその身を顧みることなく、計略して渠魁に降伏したふりをし、 賊将たちを分断しようとした。しかし逆に誣告され牢獄にいれられそうになった。諫臣の力添えですんでのことで難を 免れた二人は、得失にとらわれず、行はいつもと変わらなかった。これが孟子が言う所の「遺佚せられ怨みず。阨窮し て憫えず」 (公孫丑) ということだ。私はかつてこのことを褒めたたえたことがある。 満州族が建国し国境を侵して以後、東南の義士たちで奮起して清に抵抗する者は、明が滅びて後もなお止めることが な か っ た。 あ る い は 東 に 渡 っ て 軍 を 頼 ん で 恢 復 を 謀 り、 あ る い は 未 開 の 地 に 逃 げ、 海 を 渡 っ た り し た の は、 「 正 義 を 貫 くために秦に仕えなかった」のである。 東 渡 し た 義 士 の 中 で、 余 姚 の 朱 舜 水 や 張 非 文 は、 世 に よ く 知 ら れ て い る。 今、 さ ら に 浦 陽 ( 今 浦 江 県 ) の 義 士 で あ る 蒋興儔その人を得た。なお恐れるのはまだ知られていない人物がいるのではないかということである。蒋興儔とは心越 禅師の俗姓で本名である。その全部の事跡については、なおその全集や中日の野史など、遺された文献の傍証を待たね ばならない。高博士の著作のおかげで鍵を開けて壁の向こうをのぞき見ることができ、あとは珠を捜し剣を掘る人の出 現を待つのみとなった。 禅師の「東渡述志」という長い詩は、自伝の片鱗となるものであり、ほぼ明末の遺聞の欠落を補っている。康煕十二 年 以 後、 三 藩 に よ る 反 清 の 運 動、 鄭 経 が 台 湾 で 兵 を 起 こ し、 海 を 渡 っ て 福 建 に 入 っ て か ら、 義 民 は 蜂 起 し て こ れ に 応 じ、劉国軒もまた挙兵して抵抗したが、これが明人による反清の最後となったのである。この詩は康煕十五年七月、鄭 経が大敗して僅か半年の後に作られている。詩中に言う「疇昔渡海時。沿海繋艨艟。蒼生何顚沛。赤子尽飄蓬。塗毒劫 民物。堪悲使祝融。楼台皆灰燼。城市成故宮。……」とは、清の兵による閩浙の沿海における劫掠焚殺の残虐さを目前 に あ る が ご と く 述 べ た も の で あ り、 「 舟 中 戎 器 少。 餉 供 提 来 多。 人 人 称 将 佐。 威 風 怎 奈 何 ……」 は 義 軍 の 長 所 は、 反 清 という淳樸な民意を象徴したことにあり、さまざまな職業の人々が、軍資金を提供し、元気一杯であったが、残念なこ とに兵器を入手できなかった。だから「船中戎器少。餉供提来多」と言うのである。軍に投じた者は義憤にかられてお り、集めるのは容易であったが、結局、長く訓練統制された軍ではなく、命令の伝達のルートが確立しておらず、その