隠伎之三子嶋考 : 古代地名研究の方法
著者名(日) 服部 旦
雑誌名 大妻国文
巻 6
ページ 1‑20
発行年 1975
URL http://id.nii.ac.jp/1114/00001683/
Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja
隠 伎 之 三 子 嶋
︱
︱ 古 代 地 名 研 究
方 法
︱
︱
月艮
部
要
約 古代 地名 研 究 の方 法 と し ては 従︑ 来
︑ 名地 の言 語 的考 察
︑ 中央 の古 代文 献及 び そ の地 の地 誌 類 によ る歴 史的 考察 地︑ 図 に基 づ く考 察等 が採 ら れ て いる が︑ 最 も重 要 な のは 現︑ 地 の地 形︑ 景観 を実 際 に見 て行 な う実 地踏 査 の方 法 だと 思 う︒ 私 は か つて
﹃記 紀・
﹄ の
﹁隠 伎 之 三子 嶋
﹂ と いう 名称 の由 来 に つい て︑ そう し た従 来 の机 上 の研 究 法 で考 察 たし こと があ る け れど も︑ 現 在 から 見 ると そ の結 論 は妥 当 では な いと 思 う︒ 本年
︵一 九七 四年 再︶ 度 隠岐 島 に渡 航 し て︑ そ こで 見 た景 観 と航 海 の体 験 と に よ てっ 次 のよ なう 結 論 を得 た︒ 即 ち︑
﹁三 子嶋
﹂ と は 子双
︑ 子三 と いう 場合 の
﹁三 子﹂ であ てっ 隠︑ 岐 の島 前 の焼 火 山を 目標 と てし 船 が進 ん で行 く時 に︑ 島 前 の三 島 が各 々裾 を接 なし が 対ら 等 の量 感 横で に三 つ並 ぶ景 観
︵二
〇ペ ージ 国図 参照
︶ に起 す因 るも のと 思わ れ る︒ 隠伎 之三 子嶋 考 一
の 考
旦
二 一
﹃記
・紀
﹄ イザ ナキ イ・ ザ ナミ 神ニ 大の 八嶋 生 み の条 に︑
﹁隠 伎 之 三子 嶋
﹂∩ 記し
﹁︑ 億岐 三子 洲﹂ 曾紀
﹄第
一
・第 九 の 一書
︶ と いう 島 名 が出 くて る︒ いわ ゆ る隠 岐島 を指 てし いる のだ が︑ なぜ 隠岐 島 が
﹁三 子
﹂嶋 あで るの か︑ 従 来 の諸 説 は 完 全 な解 答 を出 てし いな いよ う に思 う
︒ ま た︑ 私も か つて 論文
﹁続
・
﹃国 生 み神 話﹄ 批判
﹂ 以︵ 下 旧﹁ 論
﹂文 とす る︶ に お いて こ の点 にも ふれ た こと があ るけ れど も 現︑ 在 で 訂は 正 を要 す る点 を含 ん で いる ので
︑ ここ に再 考 し てみ よう と思 う︒ 注1
﹃記
・紀
﹄ は岩 波書 店︑ 日本 音典 文学 大系 本に よる 以︒ 下同 じ︒ 2 拙稿
﹁続
・﹃ 国生 み神 話﹄ 批判
﹂
﹃中 央大 学国 文﹄ 第 一二 号︑ 中央 大学 国文 学会 ︑ 一九 六八 年︑ 京東
︒ 二
この 大 八嶋 生 み の条 の
﹁隠 伎 を﹂ 宣 長 現が 在 の島 根 県 の隠 岐島 であ ると し︑ そ の語 原を
名﹁ 義ノ は︑ 海 原 の奥 中 にあ る 島 と 云な り﹂ と解 釈 たし よう に
﹁沖 の島
﹂ の意 であ ろう と考 え ら れ るが
︑ 日本 国内 で
﹁沖 の島
﹂ と称 す るも のが 吉︑ 東田 伍
﹃大 日本 地名 辞 書
﹄ によ てっ も 十 一例 存 在す る︒ けれ もど
︑ この 隠伎 は
﹃記 紀・
﹄ 国生 み神 話 の条 の
﹁大 八嶋
﹂ の中 に 数 え られ てお り︑ 当 時 の官 廷人 は この
﹁大 八嶋
﹂ を日 本 の主 な る八 島 の意 味 に考 え て いた と認 めら れる から
︑ この 八島 の 一つ に数 えら れ る
﹁沖 の島
﹂ は︑ 現在
の島 根県
に属 す る隠 岐 島 の他 には 考 えら なれ いの で︑
﹁隠 伎﹂ は島 根 県 の隠 岐 とす る従 来 の説 に従 てっ よ いと 思う
︒ そ こで 問 題 とな る のは
︑ この 隠 岐島 がな ぜ
﹁三 子嶋
﹂と 称 さ れ た かと いう とこ であ る︒ 図 0 に示 たし よう に︑ 隠岐 島 は いわ ゆ る
﹁島 前
﹂ と呼 ば れ る三 島 と
﹁島 後
﹂ と呼 ば れ る 一島 の計 四島 から 成 てっ いる
︒ それ が なぜ
﹁三 子
﹂ と称 さ れ る の か︒ 以 下︑ 私 が 本年
︵一 九 七 四年
︶行 な たっ 二回 実の 地 査踏 基に づき 自︑ 己 の旧 説並 び に従 来 の諸 説 を検 討 し つ つ私 見 を
提 出 し て み た い︒ 注 1 本居 宣長
﹃古 事記 伝﹄ 巻 五︒ 2
﹁沖
﹂ は︑
﹃古 事記
﹄ に
﹁於 伎
・沸 岐﹂︑
万﹃ 葉集
﹄ に
﹁意 吉﹂ とあ り︑ 伎
・岐
・吉 は共 甲に 類 あで る︒ 隠伎 の伎 も甲
.類 三 ま ず
︑ 可 能 な限 り 記﹃ o紀
﹄ の注 釈 書 類 を 探 索 し た と こ ろ で は
︑ これ に つ いて は 簡 単 に ふ れ て通 過 す るも のが 多 く
︑ あ る い は全 く ふ れず に済 ま せ て い る注 釈 書 も 相 当 数 あ たっ
︒ そ の中 で︑ 実 際 に は四 島 から 成 てっ い る隠 岐 を 三 島 と す る よ う な 誤 説 は こ こ で は と り 上 げ な い︒ 例 え ば
︑ 谷 重 遠 の
ニ テ
′ 卜注 1
﹁億 岐有 姜 一島 一故 名 日≡ 一子 洲 こ であ り︑ 他 に著 者 の説 明不 足 な のか
︑ 誤り な の かは 明ら か では な いが
︑ 小野 高潔 の﹁隠 岐者 減中 在之 名︒ 三 子ッ 者国 也状
﹂︒ であ る︒ 宣 長が
﹁三 子 島ノ と は︑ 或人 此︑ 国ノ 三 島ノ あ る故 と云 と云 り﹂ と し たの が︑ 誰 の説 であ る かは まだ 調 べが つい て いな いけ れ もど
︑ 谷 川士 清 が
﹃日 本書 紀通 証
﹄ で
﹁隠 岐有
≡ ワ島 一故名
≡曰 一子 洲′ ト 艶 群鵬 脚詩 師画 職 言ど てっ いる のが そ れ あで ろう か︒ これ は︑ 山 田孝 雄 が
﹁通証 の説 は言 ひ方 が足 り な いの で︑ 誤 解が 起 り 易 い﹂ と弁 護 たし よう に︑ 島後
に対 す る島 前 三島 を
﹁子 の如
﹂し と 言 いた か たっ のか も れし な いけ れど も︑ 十 分 明ら か で はな いの で︑ ここ では とり 上げ な い︒ こう
し た誤 説 や説 明 不足 の説 を踏 襲 し たり 誤︑ 解 し たと 思 われ る注 釈 が︑ 私 の見 た限 り で は︑ 大 久保 初雄 の
﹁三 子島 国 形 は三 つに 分 れ たる 故 に此 く 云 るな り﹂ 以 下 三 つほ あど たっ
︒ 注 1 谷 重 遠
﹃神 代 巻 塩 士 伝﹄ 巻 二
︵東 京 大 学 宗教 学 研 究 室 蔵 本
︱ 写 本︑ 奥 書 な し︒
﹃国 書 総 目 録﹄ 2 小野 高 潔
﹃古 事 記 註 裏 書﹄
︵文 政 二年 完 成︶︑ 翻 刻 版
︑ 吉 沢 義 則 編
﹃未 刊 国 文 古 註 釈 大 系﹄ 第 一 部 発 行 ︑ 一九 三 八年
︑ 東 京
︒ 隠 伎 之 三子 嶋 考
によ れば 版 本 は享 保 三 年 刊︶ 二 冊︑ 七 ベ ー ジ︑ 帝 国教 育 会 出 版 三
四
﹃古 事 記 伝
﹄ 巻 五
︒ 谷 川 士清
﹃日 本書 記通 証
﹄ 国 民精 神 文 化 研 究 所 発 行 本︑ 一四 ペ ージ ︑ 一九 三 七年
︑ 東 京
︒
﹃通 証
﹄ は序 によ ると 延 享 五 年
︵一 七 四 八年
︶ 成 立︑
﹃記 伝﹄ の起 稿 は明 和 一年
︵一 七 六 年四
︶ であ る から ︑ 宣 長 は士 清 の説 を 引 いて いる 能可 性 が強 い︒ 山 田 孝雄
﹃古 事 記 上 巻 講義
﹄ 0 一一
〇
〇 ペ ージ
︑ 塩 竃 神 社 ︑ 一九
〇四 年︑ 宮 城 県︒ 大 久 保初 雄
﹃古 事 記講 義
﹄ 八七 ベ ージ
︑ 吉 岡書 店 ︑ 一八 九 二年
︑ 大阪
︒
﹁三 子島 と は隠 岐 は天 之島
︑ 向 之島
︑ 知夫 の島 の三 島 より 成 り れた ば かく い ふな り︒
﹂
︵千 秋 季隆 古﹃ 事 記 選 釈﹄ 四五 ベ ージ ︑ 一 九 一〇 年
︑ 東 京
∧ 奥 附 な し︑ 序文 に よ る∨
︶
﹁隠 伎 之 三 子嶋 は 単な る 一嶋 の如 く であ り ま す る が︑ そ の実 は 三 つ の島 であ る ので あ まり す︒
﹂
︵水 谷 清
﹃古 事 記 大
﹄講 第 四巻
︑ 一〇 四 ペ ージ
︑ 古 事記 大 講刊 行 会 ︑ 一九 二 八年
︑ 名 古 屋
︶ 隠﹁ 岐諸 島 は主 と し て知 夫 里
・西 島の
︒中 島の の三 つ の島 から 成 る ので いう
﹂︒
︵尾 崎 暢 狭
﹃古 事 記 全講
﹄ 四 四 ペ ー ジ︑ 加 藤 中 道館 ︑ 一九 六 六年
︑ 東 京︶ 四
私 はか てつ 旧論 文 の第 章四 に次 のよ う に述 べた
︒ 億 岐諸 島 は火 山島 で︑ 島前 の三 島 は︑ 焼火 山 を中 央 火 口丘 と たし 外輪 山 で あ っ た︒ そ し て島 前 西 島ノ の西 北部 及 び知 夫 島 の西 部 に存 す在 る断 絶崖 壁
︵天 然記 念 物
︶ は
﹁冬 期 猛烈 な る西 北 風 の斎 らす 怒 濤 の破 壊 作 用﹂ によ るも ので
︑ そ の為 焼 火 を山 囲む 外輪 山 は
﹁歳 月 の久 きし 風 化水 浸 を受 け て甚 くし 崩壊 し︑ 旧火 口は 内海 と変
﹂じ た ので あ る から
︑ 嘗 ては 島 前 が 二個 の島 から 成 てっ いた 可能 性 があ
たっ 訳 であ る︒ こ の二 島 に島 後 の 一島 を加 え れば 億 岐 は都 合 三島 で あ たっ 事 にな る ので あ る︒ 筆 者 は︑ こ かゝ ら 三子 島 の名 が起
たっ と推 定す る︒
⁝
⁝弥 生 時代 から 古 墳時 代 にか け て三 水道 の内 のど れ かが 陸 続 き で︑ 島 前 が 二島 であ たっ 可能 性 をお 尋 ね たし 所︑ 遠 藤 氏 は海 図 を検 討 たし 結 果︑ 次 の様 な
6 5 5
4 3
判定 を下 され た︒ 波浪 によ 侵り 蝕を 受 け る のは 水 深 20
m迄 あで る︒ 赤 灘瀬 戸
︵西 島 と知 夫島 の間
︶の 水深 40は
1 5︒
mで ぁ り︑ 且 つ附 近 侵に 蝕 によ る沖 積 物 が存 在 なし い事 から み て︑ 近 い時 代 に この 瀬戸 が連 結 し て いた 可能 性 はな い︒ 寧 ろ中 井 口
︵西 島 と中 島 の間 水︑ 深 2 0
mに 達 なし い︒
︶ の方 が水 深 から 見 てそ の可 能性 があ る︒
︵傍 点 は服 部
︶
⁝⁝ 該 神話 の成 立 たし 時 代 に西 島 と中 島 が連 結 し て二 島 を形 成 し︑ 島後 の 一島 を合 わ せ て︑ 億岐 は主 に三 島 であ たっ 蓋 然性 が強 い訳 であ る︒ 私 は︑ 隠 岐 と いう 語 が島 前島 後 を合 わ せ た称 であ る こと から 島︑ 前 島 後 を含 めた も のと し て この
﹁隠 伎之 三子 嶋﹂ を解 決 よし う と てし いた そ︒ こで ︑ 島 前 の西 島ノ と中 島ノ と の間 の水 道 が ︑
こ の神 話 の成 立 たし 前 後 の頃 に地 続 き であ たっ 実 際 の地 形 に関 す る当 時 の人 々の 正 確な 知 識 に基 く 名称 と解 釈 よし う と たし の であ る︒ 私 は︑ 当時 地図 と地 誌 類並 び に隠 岐 を望 見 たし こと のあ る人 の報 告 のみ によ てっ
︑ この 解釈 をし た ので あ たっ
︒ それ ば かり でな く︑ 右 の引 用文 中 の遠 藤 邦彦 氏
︵当 時東 京 大学 大学 院 生 の地 理学 研究 者
︶ が︑ 西 島ノ と中 島ノ と が地 続 き であ
たっ とは 断定 さ れ たわ け で なは いの に︑ 私 の頭 の中 に既 に出 来 上 てっ いた 想構 有に 利 な よう にこ れ を解 釈 し た ので あ たっ
︒ し かし 実︑ 際 に現 地を 見 てみ ると ︑ 一九 ペ ージ の写 真 に明 ら かな よう に︑ 西 島ノ
︵手前 左︑ 図O X地 点
︶と 中 島′
︵手 前 右︑ 図O X 点地
︑ 両島 の間 の遠 方 に見 え る のは 後島
︶ と の間 隔 私は が 地図 想で 像 てし いた より も︑ 遥 か に大 くき 両︑ 島 が 地続 き だ たっ のは 弥生
・古 墳時 代 と いう 近 い時 代 では あ り得 ま いと 考 え るよ う にな たっ
︒ ま た︑ 両島 連が 結 てし いた かも れし な い太 古
︵例 えば
一万 年 以 上︶ の隠 岐島 の住 民︑ あ る いは それ を見 た人 々が そ の地 形 に の とっ り
﹁隠 伎之 三子 嶋
﹂ と 名 づ け︑ そ の名 称 が
﹃記
・紀
﹄ に到 るま で伝 承 され たと も考 え る こと も 極 度 に困 難 であ る︒ 私 と し ては
︑ さら に別 の解 釈 が 必要 だと 考 え る に至 たっ
︒ 注1 第 章一 注
︵2
︶論 文︒ 引用 文中 の註 10 11・ は
﹃島 根県 誌﹄ 六六
〇2 六六 一ペ ージ を指 てし いる
︒ 隠伎 之三 子嶋 考 五