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和光幼稚園・和光鶴川幼稚園における 総合活動の成立と展開

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(1)

和光幼稚園・和光鶴川幼稚園における総合活動の成 立と展開 : 「幼年教育研究」に着目して (研究プ ロジェクト 近代日本の保育実践史研究)

著者 浅井 幸子

雑誌名 東西南北 : 和光大学総合文化研究所年報

巻 2012

ページ 164‑178

発行年 2012‑03‑19

URL http://id.nii.ac.jp/1073/00001273/

(2)

──

はじめに

本研究の目的は、和光幼稚園・和光鶴川幼稚園における総合活動の成立と展開 の過程の記述を通して、その歴史的な意義を解明することにある。小松福三が 1964年に行った「電車ごっこ」の実践とその展開である「のりものごっこ」の実 践を中心に検討を行う。

和光幼稚園は1934年 4 月、成城学園から分かれるかたちで小学校とともに経堂 に設立された。戦時中には一旦閉鎖され、1951年 4 月に前年度からコアカリキュ ラム連盟の実験学校となっていた小学校に付設されて再開している。和光学園の もう一つの幼稚園である和光鶴川幼稚園は、1969年 4 月に町田市に開設された。

学園史によれば、小松の実践のベースとなった「電車ごっこ」は、和光幼稚園の 開設直後から 9 月の活動としてカリキュラムに組まれ、1960年代には「中心にな る活動」の一つとして位置付いていた

1)

。小松はそのあり方を大きく変えた。

和光幼稚園の総合活動については、宍戸健夫が「戦後保育カリキュラムの展開」

(2008年)

2)

において検討を行っている。宍戸は二つの時代を焦点化して和光幼稚 園のカリキュラムの展開を記述した。一つ目は、1960年に幼稚園部長となった久 保田浩が、コアカリキュラム連盟の成果をとり入れつつ「基底になる生活」「中 心になる活動」「領域別活動─系列を主とする活動」の三層でカリキュラムを構 造化する過程である。二つ目は、小松によって生み出された「のりものごっこ」

の実践が、主要な「中心になる活動」として定着する過程である。宍戸はその特 徴を、戦前の東京女子高等師範学校附属幼稚園の「系統的保育案」との比較を通

──────────────────

1)和光学園四十年史編集委員会『ある私立学校の足跡─和光学園40年の教育─』明治図書、1973年。

2)宍戸健夫「戦後保育カリキュラムの展開─和光幼稚園を中心に─」『同朋福祉』14号、2008年3月、

51-105頁。

研究プロジェクト:近代日本の保育実践史研究

和光幼稚園・和光鶴川幼稚園における 総合活動の成立と展開

「幼年教育研究」に着目して 浅井幸子 所員/現代人間学部准教授

(3)

して検討し、文化遺産の系統的な教育を志向する「領域別活動」の積極的な位置 づけ、「話し合い」と「集団づくり」による三層のダイナミックな関連と展開、「の りものごっこ」の実践における問題解決への「試行錯誤」の重視を指摘している。

和光幼稚園のカリキュラムの変遷を記述した宍戸の研究は「のりものごっこ」

の展開の一面を描き出している。しかしもう一方で、「のりものごっこ」の実践 は幼年教育研究の展開の中に位置づける必要がある。幼年教育研究は幼稚園から 小学校 2 年生までの教育を一貫したものとして構想する幼小連携の試みであり、

和光学園と日本生活教育連盟によって1963年から推進された。和光学園では1964 年から1966年まで幼稚園と小学校が合同して「幼小部」として研究を行っている。

小松はこの時に幼稚園から小学校に担任を持ち上がって幼年教育研究に従事した。

具体的には、1964年に初めて幼稚園に赴任した際に五歳児を担任して「電車ごっ こ」の実践を行い、その後 1 年生、 2 年生と持ち上がりで担任し、1967年に今度 は部長として再び幼稚園に異動した

3)

「電車ごっこ」の実践が幼年教育研究と同時期に成立した意味は大きい。第一 に、最初の「電車ごっこ」の実践は、小学校から幼稚園へ異動した小松が幼稚園 教育に対して覚えた違和感を出発点として成立している。あるいは事後的に、そ の違和感によって意味づけられている。第二に小松が「電車ごっこ」を語る際に 使用した「労働的活動」「文化活動」といった語彙は、日本生活教育連盟におけ る小中学校の教育の議論と共有されている。第三に和光幼稚園の教師たちが「の りものごっこ」の実践を語る際には、「遊び」という幼児教育を特徴づける言葉 よりも「学ぶ」という言葉の方が多く用いられている。「のりものごっこ」の実 践とその語りに見られる小学校教育の痕跡は、異なる言葉で幼児教育の実践を構 成し記述する試みとしての側面を構成している。

なお研究の資料として、公刊された書籍や雑誌記事のほか、研究紀要や学級通 信などの和光幼稚園の内部資料を使用した。

1 ──

電車

ごっこ」の

実践

和光幼稚園・和光鶴川幼稚園におけるプロジェクト活動の代表的な事例は、

1964年に小学校から幼稚園に異動した小松が行った「電車ごっこ」の実践に見出さ れてきた。本節ではまずその特徴を、小松の著書『体当たり幼児教育』(1975年)

4)

に即して検討する。

「電車ごっこ」の実践は以下のように記述されている。「電車ごっこ」は 5 歳児 の夏休みあけのカリキュラムの中心であり、夏休み中の経験の話し合い、積木と

──────────────────

3)小松福三『和光と私と子どもたち─和光での38年─』1994年2月、非売品。

4)小松福三『体当たり幼児教育』あすなろ書房、1975年。

(4)

なわ電車による電車ごっこ、駅で働く人の見学、小道具を製作し役割を決めた電 車ごっこ、交通博物館の見学といった活動が計画されていた。小松もおおむねこ の計画に沿って実践を進めていくが、小道具と大道具をそなえ「楽しく」「生き 生き」と行っていたはずのなわ電車ごっこの 3 日目に、「もう、つまんなくなっ た」と取り組まなくなる子どもたちがでてくる。そこで小松はなぜつまらなくな ったのかを尋ねた。そして子どもたちの「本当に乗れる電車じゃないもん」とい う答えから、計画にはない「乗れる電車」を作るという活動が始まる。どうした ら乗れる電車がつくれるかをA、B、C、Dの 4 つのグループに分かれて話し合 い、そのアイデアをもとにダンボールとリンゴ箱の電車を製作する。ダンボール で作成した電車はすぐに壊れてしまう。一方、戸車を付けたリンゴ箱は、室内で は走ったものの園庭では走らない。子どもたちは再度どんな車を付ければいいか を話し合う。こうして最終的には、子どもたちの手で製作した長い箱電車一台、

リンゴ箱で作った電車三台が完成し、ほかのクラスの子も交えて全園で「電車ご っこ」が行われる。

「電車ごっこ」の実践については、既に先行研究による検討が行われている。

宍戸の「戦後保育カリキュラムの展開」

5)

は、「のりものごっこ」の特徴を「試行 錯誤」を重視した点に求めている。加藤繁美は『対話的保育カリキュラム』

(2008年)

6)

において、その特徴を保育者と子どもが「計画そのもの」を作り出し ていった点に指摘し、「プロジェクト活動の典型」として評価している。

以上の評価をふまえた上で、ここでは「電車ごっこ」の実践が生み出された文 脈、あるいは「電車ごっこ」の実践が意味づけられた文脈として、小松の小学校 から幼稚園への異動に着目したい。小松は『体当たり幼児教育』において異動の 経験を回想し、幼児教育に対する幾重もの違和感を語っている。一つ目は、子ど もを思考し学習する存在とみなさないことに対する違和感である。幼稚園への赴 任当初、小松は隣の「M先生」のクラスの子どもが静かで「お行儀」がいいこと に驚く。それは「手遊び歌」を多く導入することによって「さわぐ暇がない」状 態となっていたからだった。自分のクラスが騒々しいにもかかわらず、そのやり 方を真似ようと考えなかった理由を、小松は「子どもをだましたりすかしたりす るだけで、子ども自身に考えさせるチャンスを与えない」からだと述べている

7)

二つ目は、情操教育を中心とするカリキュラムへの違和感である。雑誌で確認 した保育カリキュラムについて、小松は「季節や行事さえ追っていけばいいので あって、指導内容の順次性はあまり問題にされていない」と感じたという。それ でも代替案がないまま行われた「母の日」の活動の記録は興味深い。「仕事をし

──────────────────

5)宍戸健夫「戦後保育カリキュラムの展開─和光幼稚園を中心に─」前掲。

6)加藤繁美『対話的保育カリキュラム〈下〉実践の展開』ひとなる書房、2008年、81-95頁。

7)小松福三『体当たり幼児教育』前掲、17-19頁。

(5)

ているおかあさん」の絵を描き話し合う活動において、小松は母親の仕事の「た いへんさ」を知らせ「感謝」を促すことよりも、子どもたちに「家事労働」と

「職業労働」の違いを理解させることに関心を向ける

8)

。また飼育や栽培の活動 では、「キンギョ」「アサガオ」といった観賞用の動植物から「ウズラ」「ジャガ イモ」といった食用の動植物へと教材を変更している。

三つ目は、しつけ中心の保育における「いい子主義」への違和感である。小松 は「いい子主義」を「どこが静かになったかな……、静かにしているいい子たち から渡しますよ」あるいは「あなたいい子でしょう。さあ、はやくお席につきま しょう」といった幼稚園の教師の言葉を指摘し、「おせじをいったり、おだてた りして教師の思いどおりに子どもをあやつっている」と批判している。それに対 して小松は、子どもの「わがままな自己主張」を認めるべきだという。それは

「わがままな自己主張」の中に「人間としての要求」が存在しているからである。

また「わがまま」とされる「常識的でない行為」の中に「個性的、創造的要素」

が含まれているからである。このような「わがままな自己主張」を集団において すりあわせていく教育を、小松は「人間要求の組織化」と呼んでいる

9)

小松は幼稚園教育を、子どもを知性的な存在として捉えず、知識、技術の収得 や思考よりも道徳や情緒の教育を強調する点において批判したといえよう。それ に対して、新たな幼稚園教育のあり方として提示されているのは、「労働・生産」

を軸とする教育である。とりわけ三輪車の小屋、入れる小屋、乗れる電車等を製 作する「大型造形」は、「自分で作って遊ぶ」という生産的な体験を可能にする 点、「集団としての取り組み」が必要とされる点で、積極的な意味づけが与えら れている。ノコギリやカナヅチを使った造形は、美術を専門としていた小松にと って自らの力を発揮できる領域である。同時期の幼稚園教諭の反町によれば、小 松は既にあるカリキュラムをふまえつつも、「大工仕事を取り入れる中で、子ど もらの自転車置き場をつくるやら、幼稚園の庭の入り口に門柱をたてるやら」と いったかたちでカリキュラムにとらわれない実践を展開していたという

10)

2 ── 幼年教育研究

展開

小松が幼稚園に異動した背景には「幼年教育研究」と呼ばれる幼小接続の試み があった。和光学園と日本生活教育連盟が共同で幼年教育研究を開始したのは 1963年である。小松は翌64年に 5 歳児担任となり、65年は 1 年生、66年は 2 年生 の担任となった。和光学園で小学校と幼稚園の双方を担任した教師は少なくない

──────────────────

8)同上、20-26頁。

9)同上、46頁。

10)反町守治「幼年教育の実践ノートから」『生活教育』204号、1965年12月、30-36頁。

(6)

が、幼稚園から小学校への持ち上がりは異例である。小松と同時期に持ち上がり を経験した反町によれば、この異動は「幼年期教育の本質を探求」するための

「実験的な方法」であったという

11)

本章では、幼年教育研究の展開に即して「電車ごっこ」の実践の意味を検討す る。

(1)幼年期の造形教育の構想

幼年教育研究は、1962年の日生連の集会において、幼稚園と小学校低学年との 関連をふまえて「幼年期の教育」を考える必要性が提起されたことから始まった。

翌1963年12月に日生連と和光学園が共催した第一回幼年教育研究会で、春田正治 は、一方で幼稚園の「おあそび」と小学校の「お勉強」が乖離し、もう一方で受 験準備体制が強化され幼稚園に「テスト主義」が入り込みつつある状況に、「幼 年教育」の問題を指摘している

12)

。分科会が「集団(あそび)」「造形(つくる)

「音楽(リズム)」「健康(からだ)」「母親」の五つであることから、幼稚園教育を 基盤として幼小接続が模索されたことが分かる

13)

小松は当初、小学校低学年の担任として幼年教育研究に参加した。美術を専門 としていた彼は、第一回研究会では「造形」の分科会で「幼年期の造形教育」を 発表する

14)

。その内容は、「電車ごっこ」の実践を準備する側面を有している。

発表資料とほぼ同じ内容の論考「幼年期の造形教育について」

15)

が『生活教育』

の「幼年教育」の特集に掲載されているので、ここではその記事を検討しよう

16)

小松はまず、幼児期の子どもたちの「造形的側面を持つ遊び」を、「物」を介在 させるという点から考察する。彼によれば、砂を集め棒をさして東京タワーに見 立てるような遊び、すなわち「非現実的な創造的表出活動」が、子どもの「創造 活動のコア」となるという。興味深いことに、彼はその先に、「絵画」「彫刻」と いった芸術の教育よりも、物を「支配」し「駆使」する「文化生活」の構築を見る。

あそびと造形活動の項で述べたように幼児期の子どもたちの遊びには、数多 くの造形的側面が内在している。このような遊びを教育の場で組織し、なか んずく材料的な経験を系統的に創造的に与え、そしてその造形的経験(学習)

をとおして、生産労働と教育を結合する方向にもっていくことはできないも のであろうか。ことばをかえて、多少割りきっていえば、「手の労働」をと

──────────────────

11)同上。

12)永田時雄「研究の経過」和光学園・幼・小学校『幼年教育研究会資料』1963年12月、10-13頁。

13)「幼年教育研究会の案内」『生活教育』15巻13号、1963年12月、54-55頁。

14)道家達将「幼年教育研究会報告 幼年期の造形教育」『生活教育』16巻3号、1964年2月、113-115頁。

15)小松福三「幼年期の造形教育について」『生活教育』15巻13号、1963年12月、35-45頁。

16)研究会資料の文章は小松と森迪子の連名になっているが、『生活教育』の「幼年期の造形教育につい て」は小松一人の名前で掲載されているため、前者も基本的には小松の手によると考えられる。

(7)

おして、材料の質とその機能とを結合する技術の科学的思考による定着を志 向することが幼年期における造形教育の目標ではないだろうか

17)

さらに小松は、作品以前の子どもの「表出のよろこび」を重視し、「子どもの 内にあるものをコトバ以外で(材料をつかい、手の働きと頭と目の働きとの統合によ って)吐き出させる教育的営みを幼年期の造形教育のコアにしていきたい」と述 べている。

この「幼年期の造形教育について」は、小松が小学校の低学年教育を論じた同 年 1 月の論考「芸術教育について」の内容を基本的に踏襲したものとなっている

18)

しかし12月の論考は、「労働」の語が新たに幼年期の造形教育の目標として導入 されているため、かなり趣旨が異なる印象を与える。労働の導入に際して小松自 身は、原正敏が『生活教育』に発表した論考「小学校低学年における『手の労働』

の意義と実際」

19)

に言及しつつ、「教育と生産労働の結合」や「総合技術教育」

が「進歩的教育運動の大きな指標」になっていると述べている。原の論考はソ連 における「手労働の教育」のカリキュラムを紹介しつつ、図工が「芸術教育的側 面」のみを強調し「感覚を通しての自然(科学)の認識」および「技術教育の基 礎である手先・指先の訓練」を欠いていることを批判するものだった。なお、小 松の 1 月の論考を含む「小学校低学年教育」の特集では、和光学園の校長の春田 正治が「労働」に言及している。春田は低学年教育の主題を「多様な経験の機会」

を準備し「知識や技術や人格を高めていく」ことに求め、その経験が「道具をつ かって事物にはたらきかける、広義の労働経験」であるときに子どもの身につく と述べていた

20)

小松による造形教育への「労働」の導入は、原の議論を基盤としつつ、教育に おいて「広義の労働経験」を組織するという春田の提起を引き受けたものとなっ ている。ただし小松の議論は、遊びを出発点に据え、その教育的な組織を企図し ている点で特徴的である。重要なのは、遊びがモノを媒介とする「創造的表出活 動」として把握されている点だろう。すなわち小松の議論は、子どもの遊びを、

モノとの関わり、想像性と創造性、表現において特徴づけ、その教育的な組織化 において労働の導入を意図している。ここに示されている遊びと労働の結合が、

労働のあり方を変革させる社会改革の志向を含んでいたことは、労働の疎外を問 題化しつつ「芸術を中心とした高度のアソビの生活」の必要を述べ「遊び中心の

──────────────────

17)小松福三「幼年期の造形教育について」『生活教育』15巻13号、1963年12月、35-45頁。

18)小松福三「低学年教育の内容その4 芸術教育について─主として美術教育について─」『生活教育』

15巻1号、1963年1月、43-48頁。

19)原正敏「小学校低学年における『手の労働』の意義と実際」『生活教育』14巻9号、1962年9月、14-20 頁。

20)春田正治「低学年教育の教科構造」『生活教育』15巻1号、1963年1月、15-22頁。

(8)

生活教育」の可能性を語った梅根悟の議論への言及にも現れている

21)

。梅根は

「現代生活教育の労働」と「社会的生産労働」の結合を提起する春田の議論を受 けつつ、「現代生活教育論者」は「あそび」の「現代的意義」を追究する必要が あるのではないかと示唆していた

22)

。また小松は、1964年の論考「美術」

23)

では、

ルイス・マンフォードに言及しつつ芸術を犠牲にした技術の発展を問題化し、バ ウハウスにおける芸術と工芸の統一をモデルとする「構作」を小学校教育に導入 するプランを語った。

「遊び」に着目すると、小松の議論の幼稚園教育に関する議論としての特異性 が際立つ。『生活教育』の「幼年教育」の特集には、当時和光幼稚園の主事だっ た久保田の「幼児の遊び」も掲載されているが、小松と久保田における遊びの論 じ方はかなり違う。久保田は、子どもにとって「あそぶ」ということは「生活」

そのものだという。そして子どもたちが三輪車を取り合う事例、共に大型積木で 遊ぶ事例、砂場における二つの遊びがつながり発展する事例を通して、共同的に 遊ぶことの意義を人間関係の観点から語っている。「のりものごっこ」について も久保田は、乗物への関心を深める、つくることを通して詳しくものを見る、工 夫して創る楽しさに触れるといったかたちで意義を列挙しつつ、「仲間でのあそ び、グループでの活動が、中核」だと述べている

24)

。久保田は子どもの遊びに、

自主的で共同的な活動の意義を見出しているといえよう。それに対して小松は、

子どもの遊びをモノとの関わりにおける創造的な表現として捉えている。彼の造 形教育の特徴は、そのような言葉以外の媒介による表現を基盤としている点、遊 びと労働、芸術と技術の統合が志向されている点を指摘できる。

小松の造形教育の構想は、1964年の秋に行われた「電車ごっこ」の実践の成立 を確かに支えている。「物」に働きかける「手の労働」を通した教育の構想は、

大々的な電車づくりの理論的な基盤といえよう。しかしながら、創造的な表現へ の視点、すなわち子どもの想像力に依拠した遊びへの視点は、「電車ごっこ」の 実践の語りには見出せない。実際に小松は、梅根のいう「高度のアソビ」を実践 化する難しさを語っている。1964年秋の「電車ごっこ」の実践を経て、同年11月 に開催された第二回幼年教育研究会において、小松は再び「造形」を担当した。

彼は前年の主張を踏襲し、もう一度梅根の労働への遊びの導入を示唆する議論に 触れつつ、労働と技術への志向が単なる生産の訓練であってはならないと述べて いる。しかし小松は同時に、梅根のいう「あそび」は具体的につかめず、「実際

──────────────────

21)小松福三「低学年教育の内容その4 芸術教育について」上掲、40頁。

22)春田正治・寒川道夫・梅根悟・海老原治善「生活教育セミナー(1)生活教育・生活綴方教育におけ る『生活』の今日的意義について」『生活教育』14巻7号、1962年7月、78-85頁。

23)小松福三「美術─ 構作 コースを構想する」『生活教育』16巻8号、1964年7月、16-21頁。

24)久保田浩「幼児の遊び─ひとつの覚書」『生活教育』15巻13号、1963年12月、27-34頁。

(9)

指導の場面」におろす時に「かなりのまよい」があると付言している

25)

(2)「ごっこ」の位置づけ

小松は幼年教育研究の展開において、幼年教育のカリキュラム全体を構築する 役割を担っていく。その中で「電車ごっこ」の実践は、造形教育の文脈ではなく、

「ごっこ」として、すなわち総合活動の文脈において位置づけられていくことと なる。

「電車ごっこ」の実践がカリキュラムに位置づけられ意味づけられるのは、

1965年10月に和光学園の教育研究集会内で開催された第三回幼年教育研究集会に おいてである。小松らは和光学園における二年間の共同研究をふまえて「幼年教 育の全体構造」を報告提案した

26)

。そこでは1964年に改訂施行された幼稚園教育 要領について、基本的な思想が「体制順応の躾主義」「態度主意」である点、「健 康」「社会」「自然」「言語」「音楽リズム」「絵画製作」の六領域が並列的で構造 化されていない点、各領域の系統や順次性が明確化されていない点、領域どうし の関連が不明瞭である点が批判されている。それに対して自身の考える「幼年教 育の主題」は次のように表現されている。

まず、幼年教育の主題であるが、原則的には、 子どもたちの年齢段階およ び個人的特性を考慮したうえで、体育、美育、知育、徳育(労働─生産、人 権─集団)の教育をおこなう ことであろう。あるいは 子どもたちのなか に能動的にうごめいているさまざまな身体的、情緒的知的諸能力が全面的に 開発されるように多様な経験の機会を用意してやることによって知識や技術 や人格を高めていく ことであろう

27)

小松はこのような「幼年教育」を可能にする諸体験を、「 労働的経験を軸に すえて構造化」するという。ここで彼は、前述の春田の論考を参照しつつ、「道

──────────────────

25)小松福三・大沢勝也・久保田浩「幼年期の造形教育の目標と具体的実践の視点─特に『機能』の問 題を中心に─」和光学園幼稚園小学校『第二回幼年教育研究会資料』1964年11月、30-33頁。文末に

〈文責・小松〉と表記あり。

26)提案資料は小松の名前で発表されているが、「ことば」「数」といった各領域については、それぞれ 他の教師が執筆に加わっている(小松福三「幼年教育の構造─その実践化への視点─」和光学園

『和光学園・教育研究集会要項(第三回・幼年教育研究集会)』1965年10月、123-152頁)。その内容 の一部は日本教職員組合の教育研究全国集会報告書として残されている(小松福三『日教組第16 次・日高教第13次教育研究全国集会報告書 幼年教育の全体構造─その実践化の視点をさぐる─』

1966年)。また同じ内容の記事「幼年教育の構造」が、雑誌『生活教育』の12月号の特集「幼年教育 の課題」の記事として掲載されている(小松福三「幼年教育の構造─具体的実践化の視点をさぐる

─」『生活教育』204号、1965年12月、18-29頁)。以下では幼年教育研究集会の資料に即して検討を 進める。

27)小松福三「幼年教育の構造─その実践化への視点─」上掲、130-131頁。

(10)

具をつかって事物にはたらきかけるあそび=活動」を「労働的経験」と呼んでい る。「労働的経験」という表現では、植物や動物を育てる、掃除をするといった いわゆる「しごと」のみならず、「文化活動」も含む広義の意味で「労働」の語 が用いられている。「幼年教育の構造」の主要な提起は、この「労働的経験」と いう軸を「労働」「人権」「集団」「ことば」「身体」を主要な柱とする「あそび」

「文化活動」として構成し、「体育」「社会」「自然」「数」「ことば」「音楽」「造形」

の七領域を配置して、小学校二年生までカリキュラム化するというものだった。

具体的な例としては、「運動会」「遠足」といった「行事的な単元」、「はたけのし ごと」「アルバムづくり」といった「直接労働的体験をする単元」、「でんしゃご っこ」「ゆうびんごっこ」といった「社会科的単元」が挙げられていた。

なお「文化活動」は、「学級文化」とともに当時の『生活教育』誌上に登場し ていた言葉である。1965年の日生連の夏季集会では、生活指導部会が「人間要求 の組織化と学級文化活動」を焦点としていた

28)

。提案者はテーマについて、4 、5 年前から子どもの「人間要求」が問題化され、前年の夏季集会で「文化的な創造 的な活動」を取り上げる必要性が認識されたと説明している。小松はその低学年 分科会において、学級づくりの基本として「わがままな自己主張」の許容と「要 求のぶつけあい」を通した「人間要求」の析出を提起していた。「文化活動」と して具体的に想定されていたのは、学級新聞や学級文集の作成、行事の企画と運 営等の活動である。1965年 9 月号の『生活教育』における「新しい学級文化の創 造」の特集では、中野光が戦前の生活綴方の実践を参照しつつ学級新聞や学級文 集を作成する活動を文化活動としてとりあげ、「学校教育の中に主体的創造的活 動の機会が意図的につくり出され、しかもそのことが、教育の基底としてとらえ られる」と評価していた

29)

1966年10月に和光学園で開催された教育研究集会では、「幼年教育の構造と実 践過程」

30)

というテーマで前年度の「幼年教育の全体構造」をふまえつつ議論が 展開され、「遊び」と「労働」の位置づけが再考されている。ここでは「幼年期 の子どもの基本的な活動」は「遊び」であると定位され、「中心になる活動」が ねらう「創造的あそび」、「ことば」や「かず」を扱う「教育的あそび」、組織的 ではない「自由あそび」に分節化されている。ここでは「遊び」の語が、子ども の活動の包括的な表現へと変化している。また「労働」については、「中心にな る活動」が「生産─労働」を軸とすることについて、「生産─労働」という言葉

──────────────────

28)池田貞雄、鈴木孝雄「生活指導部会の焦点─人間要求の組織化と学級文化活動─」『生活教育』17巻 9号、1965年8月、83-88頁。

29)中野光「新しい学級文化の創造運動」『生活教育』17巻10号、1965年9月、8-16頁。

30)幼年教育サークル「幼年教育の構造と実践過程」和光学園・幼稚園・小学校・中学校・高等学校

『和光の教育研究・集会要項』1966年10月、115-125頁。(執筆は前半が「反町」、後半が「田中」と 記名あり。)

(11)

が幼年期の教育で意味内容を持ちうるかということが問われている。その問いに 対しては、『資本論』に言及しつつ、「労働的経験」を通して「遊び道具」を作り

「遊びを創造」することを、幼年教育における「生産労働」として定位すること が可能だとの答えが示されている。「労働」の語は「道具をつかって事物にはた らきかけるあそび=活動」という広義の定義よりも、「生産」ということに重点 を置いて用いられている。

しかしこの後、幼年教育研究の議論において、次第に「労働」および「労働的 体験」という言葉は姿を消し、「あそび」に置き換えられていく。日生連の幼年 教育部会の1968年の研究テーマは「あそび、労働的体験を中心とする幼年教育」

であった。小松はその説明の文中で「あそび=労働的体験」との表現を用いてい る。翌69年のテーマは「あそびによる集団づくり」というかたちで「あそび」に 集約される。小松は「労働的体験」を「あそび」に置き換えたことについて、

「労働」をめぐって抽象的な論争になってしまうことを避けるためと説明してい

31)

この「あそび」が幼児の活動を包括する言葉として用いられ「労働的体験」が

「あそび」に置き換えられる過程において、労働とあそびの結合、労働の芸術化 といったことが主題化されなくなっている。小松も「大型造形」を幼稚園に導入 したとはいえ、おそらく低学年の造形教育を論じていた際の問題関心については 追究を断念したのではないか。彼は1967年に部長として幼稚園に赴任した際の心 情を回想した際に、「低学年教育」や「美術教育」への「未練」を断ち切らねば ならなかったと述べている

32)

3 ── 遊

びから

学習

小松は1967年に再び今度は幼稚園に着任し、69年に新しく開設された和光鶴川 幼稚園の部長となった。「のりものごっこ」の実践を洗練させる課題は、この和 光鶴川幼稚園において追究された。本節では「のりものごっこ」の1970年代にお ける意味づけを検討する。

1972年の研究紀要『幼児教育における ごっこ の問題』

33)

は、丸木政臣、小 松福三、本間英美子による「ごっこ」および「のりものごっこ」に関する考察と、

伊藤景子、今井洋子、古川正啓による 4 歳児クラスの実践記録、花沢公子、清野 山京子、宮津濃による 5 歳児クラスの実践記録からなる。活動の総称は「のりも のごっこ」となっているが、内容はいわゆるごっこ遊びに留まるものではない。

──────────────────

31)小松福三「幼年教育─部会研究のあゆみを中心に」『生活教育』21巻10号、1969年10月、63-66頁。

32)小松福三「ボクの『低学年教育ノート』から─第1回─」『生活教育』19巻5号、1967年5月、79-85頁。

33)和光鶴川幼稚園研究部『幼児教育における ごっこ の問題─ のりものごっこ の実践報告─』、

1972年2月。

(12)

5 歳児の 3 つのクラスの実践には、様々な素材の電車を使用した電車ごっこのほ かに、「のりもの」の種類と分類に関する話し合い、木材を用いた乗れる電車の 製作という相対的に独立した活動が含まれている。4 歳児のクラスでも同じよう にダンボール等を用いた製作活動が組まれている。ただし 4 歳児クラスでは、3 つのクラスのいずれもが最後に予定されていた製作を行っていない。伊藤と今井 のクラスでは何が「のりもの」かということを問いとした収集と分類が活動の中 心となっており、古川のクラスは縄を用いた電車ごっこが活動の中心となってい る。

まず小松の論考「私たちの『ごっこ観』について」

34)

を検討し、「ごっこ」活 動の位置づけを確認しよう。小松によれば、「 ごっこ の教育的意義と価値」は

「所有の欲求」と「創造の欲求」を組織的に満足させること、すなわち「模倣」

を体験させるなかで集団的に「創造」を行うことにある。より具体的には以下の 5 点が「ごっこ」の「教育的意義」として言及されている。一つ目の「①社会認 識の素地をつくることができる」ということについては、「おかあさんごっこ」

を通して他の家族の成員や役割分担を知るという例があげられている。二つ目の

「②問題解決思考の初歩をつくることができる」ということについては、特定の 子が運転手を独占する、二台の箱電車が衝突するといった時の集団的な解決が想 定されている。三つ目の「③集団の教育ができる」ということの具体的な内容は、

役割を持ち、ルールを守るといった点に求められている。四つ目の「④集中的な 取り組みと創造の喜びをもたせることができる」ということに関しては、「電車 ごっこ」と自由遊びの「ウルトラマンごっこ」との違いが、活動の持続性と発展 性によって説明されている。そして五つ目の「⑤ ごっこ は総合活動である」

ではカリキュラムが論じられている。小松は幼稚園教育要領の六領域を、「躾主 義」であること、各領域の内容・要素が整理されていないことの二点において批 判し、「総合活動」を軸にしつつ「系統的に指導することのできる領域」を位置 づけるというカリキュラム構想を示している。そして「総合活動」とは「生産・

労働の教育、集団・人権の教育、さらには文化活動の教育が主要な柱となった内 容」で構成された「具体的な活動」であり、「ごっこ」は「総合活動」として位 置づくという。

この論考「私たちの『ごっこ観』について」は、ほぼ同じ内容で『体当たり幼 児教育』(1975年)に収録され、「電車ごっこ」の実践の具体的な意味づけとして 機能している

35)

。その主要な観点は以下の三点で把握できる。一つ目は知的な教 育としての側面である。「社会認識」「問題解決思考」といった言葉や、教育を前

──────────────────

34)小松福三「私たちの ごっこ 観について─ ごっこ の教育的意味を中心にして─」和光鶴川幼 稚園研究部『幼児教育における ごっこ の問題─ のりものごっこ の実践報告─』、1972年2月、

4-11頁。

35)ただし別にカリキュラムの議論があるため、五つ目の論点は省略されている。

(13)

面に掲げる「総合活動」の意味づけは、知識の習得や思考を重視している。二つ 目は人間関係である。「集団の教育」では規則の遵守や作業の協力が照準されて いる。また「問題解決思考」の具体的な内容には、子どもどうしの関係における トラブルの解決が含まれている。三つ目は、目的的な活動における工夫としての

「創造」である。小松は電車づくりにおける「創造」について、一枚の板をどう 組み合わせて電車のボディーをつくるか、ライト等の付属品に何を使いどこへと りつけるかといったことに関する「発想」や「イメージ」の交流が、「創造性」

を引き出し「創造のよろこび」を体験させることを可能にすると述べている。

特徴的なのは「遊び」という言葉がほとんど登場しない点である。小松は「ご っこ」「ごっこ活動」といった言葉を用い、「ごっこ遊び」の言葉を用いていない。

また「学ばせる」「教えてやる」「考えさせる」といった言葉を多く用いている。

それはおそらく意図的な選択であった。小松は「ごっこ」における教師の働きか けの重要性を強調する文脈において、「 ごっこ をたんなる模倣的 あそび と して材料的刺激のみを与えればよい」とは考えない、「 ごっこ の中で 事実を 見せ 考えさせ 話し合わせ そしてさらに 知識を与え 、その知識をごっ この広がりと深まりに動員させていくべき」だと述べている

36)

。ここにおける

「あそび」の語の用い方は否定的でさえある。もう一カ所「あそび」の語が出て くる箇所も、「怪獣ごっこ」を「無計画で偶発的なあそびの域を出ない」と述べ る否定的な文脈である。すなわち「あそび」の語は「教育的意味」を帯びる以前 の活動の表現として用いられている。ここには教育への強い志向が感じられる。

教師たちによる記録は、この「ごっこ」の意味づけが持った可能性と限界の双 方を伝えるものとなっている。4 歳児における「のりもの像」をめぐる実践を検 討しよう。「月組(四才児)の指導計画」

37)

によれば、「のりものごっこ」の「ね らい」は「のりものに関する視野をひろげのりもの像をつくっていく」「自分た ちの手で遊び道具を製作しそれであそぶ」の二点である。前者の「ねらい」に対 応する活動は主として計画の前半に置かれ、子どもが知っているのりものを描き、

話し、見るといったかたちで予定されている。分類に際しては、「生活をささえ ているもの」として「のりもの」を把握することが強調され、項目として「レジ ャー」「交通機関」「輸送」「生産現場」が想定されていた。伊藤と今井の実践は、

子どもが思いつく「のりもの」をあげ、絵や切抜きを用いながら分類するという 活動の大枠を共有している。また子どもたちの議論においても、「ブランコ」等 が「のりもの」であるか否かが共通して焦点化されている。とはいえ探究の過程 には違いが見られる。

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36)同上、10頁。

37)本間英美子「 のりものごっこ についてかく考える─全教師の共同研究・討議をふまえて─」和光 鶴川幼稚園研究部『幼児教育における ごっこ の問題─ のりものごっこ の実践報告─』1972 年2月、12-18頁。

(14)

伊藤の学級では、「どんなのりものを知っているか、乗ったことがあるか」を 話すところから第一日目の活動が始まっている。絵を描くと、一般的な電車や車 ではなく、「こだま」「やまてせん」「カローラ」等の名前の付いた乗物の絵が描 かれる。第二日目には絵を切り抜いて模造紙に貼り、教師の提案で「仲間」を集 め、「でんしゃのなかま」「じどうしゃのなかま」「ふねのなかま」に分ける。こ の日は三種類におさまるが、第三日目の話し合いでは飛行機、働く乗物などが出 され、「のりもの」の概念に関わる議論が発生する。

朝の話し合いで、ロープウェイ、宇宙えんばん、ロケット、ゆうえんちのメ リーゴーランド、公園のブランコと、のりもののわくがどんどんひろがって いく。その中で、ブランコはのりものじゃないよ、のりものだよと議論がは じまる。「ひとがのるからのりものだよ」「てつぼうやすべりだいはのりもの じゃない。ひとがのるけどひとがうごくから」「うごくからのりもの」「くる まがないからのりものじゃない」─この時は結論が出ず賛否は半々ずつ

38)

子どもたちは「ひとがのる」「うごく」「くるまがない」といった言葉で、何が

「のりもの」かということの線引きを試みている。この議論がひとまず決着をみ るのは、絵の切り抜きと分類を行った第六日目である。どこを走っているかで

「①そら②せんろ③どうろ④みずの中」と分類した結果、ブランコやメリーゴー ランドが残る。考えた子どもたちは、これらを「⑤ゆうえんち」とし「のりもの」

ではなく「あそぶもの」として定位する。

今井の学級でも同様に、「ブランコ」をめぐる議論が行われている。

Ny

「ブランコはのりものだよ」/

Mt

「座るところがないじゃない」/

Ny

「座るところがあるじゃない、ほらが」と言って

Ny

が乗物だというブランコ の説明をする。

Ny

のブランコとは 1 人または 2 人で乗るものではなく、4 〜 5 人位で乗る舟型ブランコのことだということが皆にもわかった。/

St

「で もうんてんするところがないじゃない」/

Ny

「うんてんできるじゃない、

棒を持ってさ、足で板のところをこげば早くなったり、遅くなったりするじ ゃない、それに止めることもできるよ。」/「あ、そうか」

39)

こちらでは「座るところ」「うんてんするところ」が「のりもの」の線引きに

──────────────────

38)伊藤景子「『のりもの』─のりものの像を中心とした」和光鶴川幼稚園研究部『幼児教育における ごっこ の問題─ のりものごっこ の実践報告─』1972年2月、19-23頁。

39)今井洋子「生活と切り結ぶ ごっこ とは」和光鶴川幼稚園研究部『幼児教育における ごっこ の問題─ のりものごっこ の実践報告─』1972年2月、24-29頁。

(15)

用いられている。議論の対象となっているのは「ブランコ」だけではない。「自 転車」をめぐって「足でこぐ」ものは乗物かどうかという議論が、「ブルドーザ ー」をめぐって「人間」ではなく「物」をのせるのは乗物かどうかという議論が 行われている。

二つの学級の記録は、子どもたちが自らの経験に基づいて子どもなりの言葉と 論理で「のりもの」とは何かを探究していく興味深い過程を報告している。しか しながら教師たちは、この活動の意義に対して懐疑的である。伊藤は「のりもの の概念づくり」について、一方では「もっと社会的な、歴史的な意味について理 解させていく必要があるのではないだろうか」と内容が不十分だとの思いを吐露 している。もう一方では、電車を製作して遊ぶという後半の活動の欠落について、

「ここが一番中心的な活動になるべきであろう」とも反省している

40)

。今井もま た、「のりもの」を「社会の中で、人間生活を支えているという大きな役割を持 ったもの」として認識して欲しいと考えていたといい、話し合いについて「あん なものもあった、こんなものもあったというような意味の視野を広げる」でいい のかと問うている。半面ではやはり、計画の後半の実践ができなかったことにか かわって、前半はそれを「豊かに楽しくするための附属物」のはずではなかった か、「のりものに関する視野を広げる」というねらいは「何のためにあるのか」

と問うている

41)

伊藤と今井は「のりものの概念づくり」について、学ばせる内容や方法を社会 認識のあり方として吟味している。小松の議論と同様に、彼女たちの語りからも 教育への意志が強く感じられる。しかし同時に彼女たちは、話し合いよりも「役 割ごっこ」を活動の中心に置くべきだとも考えている。ここで、実践において実 現されながらも言語化されていないのは、子どもが子どもなりの言葉で世界を認 識し、子どもなりの論理を展開することの意義である。その意義を捉えるために 必要だったのは、話し合いそのものを創造的な表現としての遊びとして捉える視 点ではなかったか。教師たちが子どもの社会認識を意識的に主題化していた事実 は、一方で子どもたちの話し合いを支えつつも、もう一方でその展開の意義を限 定しているようにみえる。

──

おわりに

本稿では、和光幼稚園・和光鶴川幼稚園におけるプロジェクト活動の成立と展 開の過程を、当時推進されていた「幼年教育研究」と呼ばれる幼小連携の試みに 着目して記述し検討した。以下、明らかになったことを三点で述べる。

第一に、小松による最初の「電車ごっこ」の実践は、小学校教師だった彼が幼

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40)伊藤景子「『のりもの』─のりものの像を中心とした」上掲、22-23頁。

41)今井洋子「生活と切り結ぶ ごっこ とは」上掲、28-29頁。

(16)

稚園教育に対して抱いた違和感と懐疑によって意味づけられていた。彼は子ども を静かにさせることよりも、子どもに要求を出させること、子どもに考えさせる ことを求めた。また情操教育よりも社会的認識の教育を重視した。

第二に、1960年代初頭の幼年教育研究における小松の造形教育の探究には、子 どもの遊びをモノとの関わりにおける創造的な表現として捉え、そのような言葉 以外の媒介による表現を基盤としつつ、遊びと労働、芸術と技術を統合するとい う興味深い視点が含まれていた。しかし「電車ごっこ」の実践が造形教育として よりも「ごっこ」として意味づけられる中で、この造形教育の構想が孕んでいた 可能性は、部分的にしか引き継がれなかった。「物」に働きかける「手の労働」

を通した教育という点では「電車ごっこ」の成立を支えているが、「電車ごっこ」

の実践の語りでは子どもの想像力に依拠した遊びへの視点が見られなくなってい る。

第三に、1970年代初頭における「のりものごっこ」の実践は、子どもが子ども なりの言語と論理で世界を認識するという豊かな意義を持つ活動を含みながら展 開されていた。しかしながら、教師たちはその意義を表現するにふさわしい言語 を十分には得ていなかった。教師たちにおける教育への志向は、一方で子どもの 議論の展開を支えつつも、もう一方でその意義を社会認識の獲得へと狭く限定し 捉えることにつながっていた。

小松の「電車ごっこ」の実践は、幼小接続の試みの中で、子どもを学習者とし て捉え、その知性を信頼することによって成立していた。しかしもう一方で、遊 びよりも学習を強調した1970年代の「のりものごっこ」の語りは、子どもの活動 の意義を限定的に捉えるものとなっていた。「電車ごっこ」の実践が、子どもの

「あそび」の教育的な組織化として、すなわち小松が幼年教育研究において構想 した造形教育の議論に即して意味づけられていたら、その後の「のりものごっこ」

はどのように展開しただろうか。そこには、子どもが物に働きかける活動に創造 的な表現としての遊びを見出し、その遊びの導入によって教育と労働のあり方を 変革していく可能性が含まれていたのではないか。

付記:本研究に際し、和光学園資料の使用についてご助力いただいた小松福三 氏、大瀧三雄氏、沢里冬子氏に感謝いたします。

[あさい さちこ]

参照

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