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和光幼稚園・和光鶴川幼稚園の 1960−80年代

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和光幼稚園・和光鶴川幼稚園の1960‑80年代 : イン タビューから浮かび上がる実践史研究の課題につい て (研究プロジェクト 近代日本の保育実践史研究)

著者 太田 素子, 浅井 幸子

雑誌名 東西南北 : 和光大学総合文化研究所年報

巻 2012

ページ 148‑163

発行年 2012‑03‑19

URL http://id.nii.ac.jp/1073/00001272/

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2 年間のプロジェクト研究の間に、私たちは 2 つの幼稚園の元教師や関係者8 人のインタビューを行ない、そのうちの 2 人については既に昨年の『東西南北』

にその概要を掲載した。さらに今年 3 人分について掲載の準備を進めてきた。

しかし、本誌にインタビュー記事そのものを凡て掲載するのは無理があると考 え、いずれ凡てを資料集の形に編集し別冊などの形で公刊する準備を始めている。

本研究ノートでは、これまでに公表ないし公表準備の完了した 5 つのインタビュ ーのなかから、和光幼稚園・和光鶴川幼稚園の戦後実践史に関わる研究の課題を、

覚書として認めておきたい。なお、今年公表準備が完了している 3 つのインタビ ュー記事とインタビューアー 2 名それぞれのコメントは、総合文化研究所ホーム ページに掲載しておく。内容の詳細はそちらでご覧頂きたい。また、このインタ ビューと比較しながら、遺された文献資料を検討する作業は今後時間をかけてと りくんでゆきたいと考えている。

今回公開する 3 名のインタビューイーのプロフィールは以下の通りである。

小松福三氏 プロフィール

1931年、熊本県に生まれる。熊本市大江小学校、熊本大学教育学部附属小学校 を経て、1956年に和光小学校に赴任。1966年より和光幼稚園部長、69年より和光 鶴川幼稚園主事を務める。著書に『体当たり幼児教育:和光鶴川幼稚園主事の実 践』(あすなろ書房、1975年)、『これでは子どもは育たない:幼稚園現場からお母 さんへ』(あすなろ書房、1979年)、『子どもの発達としつけ』(三修社、1980年)

『きいてよねお母さん:現代の子どもの発達と家庭教育』(日本標準、1987年) ど。

研究プロジェクト:近代日本の保育実践史研究

和光幼稚園・和光鶴川幼稚園の 1960−80年代

インタビューから浮かび上がる実践史研究の 課題について

太田素子 所員/現代人間学部教授

浅井幸子 所員/現代人間学部准教授

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山内和子氏 プロフィール

1941年、長野県に生まれる。1965年、横浜市立大学文理学部卒業。1966年より 和光幼稚園に勤務。86年に同幼稚園主事となる。1992年に和光幼稚園・和光鶴川 幼稚園の副園長となり、93年より両幼稚園の園長をつとめる。2002年に退職。

日高聰氏 プロフィール

1946年鹿児島県指宿市に生まれる。中央大学、白梅学園短期大学を終了後、

1974年和光鶴川幼稚園に教諭として着任。1985年度から和光幼稚園教諭、同主事、

2005年退職。現在は郷里に近い鹿児島市喜入に在住している。

1 ── 小松福三幼年期教育

小松福三の保育実践と言えば「電車ごっこ」の実践が著名だが、その点に関し ては浅井の論考も別にあるので、ここでは氏の思想や人柄に関わって、インタビ ューの中で印象的だった語りを中心に、5 点ほど小松の実践の特質や背景理解に つながる研究課題を指摘しておきたい。

ひとつは、「野性」に関わる問題といったらいいだろうか。氏は、若い頃の自 身を「やんちゃ」だと評した。それは戦後日本社会が高度経済成長と共に、組織 的・機能的で、秩序に富んだ、高度に管理された社会に生まれ変わってゆくプロ セスの中で理解することが必要なのではないか。「野性的なるもの」が消えてゆ く時代だったと考えると、小松の教師としての資質が「可愛い野蛮人」である子 どもたちにとって貴重であったことが理解できると共に、親や管理する側にとっ てその厄介さも理解できる。若い頃赴任した熊本市内の小学校卒業生が、学校に 泊まって星の観察をしたことをいつまでも記憶にとどめ、「先生は運動場を逆立 ちして 1 周していた」と思い出を語る。そんな教育実践が、現代の公立小学校で どの程度許されているだろうか。貧しい時代だったから、銅のくず拾いを子ども たちと一緒にやって全員の修学旅行費用を捻出するというようなことも、親たち の共感を得られた。

しかし高度経済成長を経た首都圏では、小松の奔放さは時に軋轢をも生む。日 高聰は小松福三の後任として秋野勝紀が主事に着任した時の、前任者への批判を 次のように述べる。

秋野先生が鶴川の主事として入職し(1979年)、それまでの小松先生のや り方を厳しく批判しました。

教育を『体当たり』でやればいいという発想自体が誤りだと。つまり、体 当たりというのは厳密に教育の中身を検討してやるということじゃない。

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小松先生がリーダーとなって鶴川幼稚園が開設されて、私が 5 年目くらい に就職したのかな。園舎がとんでもない汚さになっていました。すごく汚い。

合同研究会のため世田谷に行ったら、世田谷の和光幼稚園はものすごくきち んとしていました。秋野さんが鶴川幼稚園の実践を批判するときに、その点 に関わって盛んに批判していた記憶があります。

「体当たり」というのは、決して秋野が批判したような非計画性や緻密さを欠 く実践だったということではないと考える。その点に関してはまた別の機会に検 討したいが、時間や建物の管理,清潔と言った事柄に関する世代間の感性の差は、

子どもの社会化のプロセスで,環境の問題として意外に大きな意味をもつ。近年 北欧で注目されている「森の幼稚園」の実践には、都市社会のなかで子どもを育 てることの限界が意識されており、保育における「野生と文明」の確執の一つの 解決策をそこにみることが出来る。もちろん子どもたちに清潔やものの整頓など 生活習慣が育たなくていいと言っているのではないのだが。

第 2 点は、主体的な人格を育てることへの意識性である。小松はコア・カリキ ュラム連盟を「すべてがスマート」「教育というのは……もっと泥臭いもの」と 語ってコア・カリキュラム連盟に参加しつつも一定の距離をもっていたことにふ れている。学園の教師が教科ごとに幼稚園から高校まで一緒に研究する体制がつ くられ、日本生活教育連盟(コア・カリキュラム連盟の後身、以下日生連)に幼年期 部会も出来た頃、小松らは「子ども像」を考えることで「スマートな」コア連と は異なる保育内容の立脚点を見いだそうとしていた。

究極的には、幼稚園や幼年期にはどんな子どもをつくればいいのか、どう すればいいんだと。そういうことが主テーマになりました。それまで久保田

(浩)先生が幼稚園のカリキュラムを日生連並みに三層に分けていたのです。

基底になる生活、中心になる生活、教科ですね。それは分かるんだけれども、

ではどんな子どもをつくればいいのかというので、僕がまとめたんです。幼 年教育の構造というので、集団と労働と人権の教育が軸になるんだというふ うにまとめて、日教組の教研大会でしゃべったんですけど。それが1966年で すね。(括弧、引用者)

生活教育連盟の考え方で三層四領域というのがあって、久保田先生がカリ キュラムを作られるときに、基本になる生活と、中心になる活動と、課業と いうのをやられた。僕はそれに対して、それはもうその通りだと思うんだけ ど、何のためにそういうことをやるのかという、何のためにどういう子供を つくりたいのかということで考えたんですね。そこで出てきたのが、労働を

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大事にする、人権を大事にする、それから文化(別のところでは集団と言って いる──引用者注)を大事にする。そういう子どもをつくる筋道を考えなき ゃいけない、それが私がたどり着いた幼年教育の構造というものですね。

「集団と労働と人権」が子ども像を考える軸になるという認識は、宍戸健夫に よって保育界に問題提起され、広く知られている「保育内容の構造」モデルの思 想とつながっており、宍戸のモデルが、和光学園の共同研究と内的に関わりなが ら生まれたものであることを示唆している。

さて、「集団と労働と人権」という子ども像、従って保育内容を考える軸柱は、

具体的にはどのようなことなのだろうか。「集団」と「労働」はダイナミックな 共同作業

1)

という点に面目を表している。もう一つの「人権」は、その一つの手 がかりが「電車ごっこ」をめぐる語りの中にみられる。

小松福三が1964年に行った「電車ごっこ」の実践は、子どもたちが試行錯誤し つつ乗って遊べる電車を製作するという展開をとることによって、従来の「ごっ こ遊び」を中心に構成されていた活動を超えるとともに、和光幼稚園・和光鶴川 幼稚園を代表する実践として定着した。今回のインタビューでは、小松自身によ って、その「電車ごっこ」の成立過程の一端が語られている。「電車ごっこ」の 実践の語りにおける小松と子どもたちとのやりとりは興味深い。あらかじめ計画 されていた「縄電車ごっこ」から乗れる電車の製作という予定外の活動へと展開 する過程を、小松は次のように語っている。

和光にある電車ごっこのカリキュラムは、縄電車ごっこをして遊ぶとか、

積み木で遊ぶとか、そういうものだったんです。その通りにやったらとんで もない。縄電車はぶつかるし転ぶし、「どうだ、面白いだろう」と言うと、

子どもたちが「ううん、面白くない」と言うんだ。「どうしたらいいんだ」

と言ったら、「箱電車がいい」と。じゃあ、やろうというので、何でやろう かということになって。そのころ段ボールというのが出てきていて、段ボー ルをつないでやると、確かに子供同士のぶつかりがなくてやれるんですね。

それで、「どうだい、面白いだろう」と言ったら、子どもが「自分でやらな きゃいけないんだもん。本当は乗りたいんだ」と。

小松は活動に十分満足できずにいる子どもに対して、どうしたらいいか、どう したいのかということを本気で尋ねている。この実践は小松が子どもたちの声を 聞くことによって展開していた。そのことを小松自身は「人間要求の組織化」と

──────────────────

1)宍戸健夫「和光幼稚園の保育──その歴史的な意義について」『和光大学現代人間学部紀要 3 』2010 年3月15日、250

-

256頁。

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いう生活指導から生まれたやや固いことばで説明する。小松は自らの電車ごっこ を例に、その「人間要求の組織化」を説明している。

人間要求の組織化ということを、生活指導の分野で、私のグループで問題 にしていたんです。子どもにはそれぞれ欲求があるわけですね。それはわが ままな場合もある。そいつをまず許そうと。わがままな要求だったら相手も わがまま、こっちもわがままだから必ずぶつかる。ぶつかる中で、僕も欲し いんだ、僕も欲しいんだ、じゃあ、どうすりゃいいんだという。妥協ではな くて本当に欲しいものは何かということ。それが人間要求です。…それが小 学校の学級集団づくり、生活指導の分野でようやくたどりついた結論だった んだ。だから幼稚園でも、普通だったら縄電車ごっこをやって面白くないと 言ったら、「そんなことないでしょう、さあやってみましょう」と言ってご まかして繕う保育が多いんだけど、僕は面白くないんだったら面白くないは ずだから、どうしたら面白くなるか、そこへつなげていこうとしたんです。

これは切実な動機と話し合いが子どもたちの活動の原動力になるということで あろう。「我が儘ではなく、妥協でもなく、本当に欲しいもの」を皆で創りだそ うという保育活動の作り方が、「人権」と結びついた子ども像から生まれる保育 なのだ。切実な動機、大人なら「深刻な問題意識」が活動の源泉であるような生 活、それはデューイの生活教育論をその根本精神において理解した実践といって もいい。直接デューイ思想との接点があったか否かはそれほど問題ではなく、こ の「電車ごっこ」の実践がプロジェクト活動だと研究者が共通に指摘しているの は、問題解決学習と良く似て、子どもが切実な必要感から目的意識を保持した製 作活動が進められているからだ。戦後の保育実践の中で、これだけ子どもの主体 性、能動性を活動の源泉として位置づけた実践は、皆無ではないが多くはない。

第 3 は、美術教師としての専門的力量が、幼児教育でも非常に生きているとい うことだ。小松が子どもの要求に応じて、皆で乗れて自由に曲がれる電車を作り 上げてゆく試行錯誤に満ちたプロセスは、「知恵は子どもから」とはいいながら も、教師が材料や技術的な見通しについて実現可能性を確信できなければ、この ように要求を採用して応援できるものではない。

幼稚園に赴任して以降、小松は、たとえば子どもたちと三輪車の小屋の製作を 行ったという。ちらばった三輪車という事実から、単に片付けを促すのではなく 三輪車の小屋作りへと活動を展開させることができたのは、小松が造形教育に関 する理解と経験を有していたからである。インタビューでは、小松が幼稚園に赴 任する以前の小学校においても大型造形を行っていたことが、それを公園に勝手 に設置したというコミカルなエピソードとともに語られた。

さらに、子どもの活動を実現するために素材および道具選択の重要性を強調し、

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技術的な準備を緻密に行なっている。

大人用の玄翁なんかを与えると、ほかの障害物に当たって思わぬけがをす る。そういうことをどうしたら避けられるかということで、とんかちは全部 柄を小手の長さより短く切ってやった。

版画を導入したときも、どうしたらけがしないかということで。…ベニヤ 板に版木を止める部分を作ればいい。それで細木を付けてやる。…これでい いなと思ったら、今度は台ごと動くんですよ。力を入れると。それで今度は 机に留め具をつける。だから版画をやるまでにずいぶん時間がかかっている んですね。私がそのころ好きだったのは、計画は緻密に行動は大胆にという ことです。

第 4 は、表現活動が表現する当人の認識の深化や子ども同士、子どもをとりま く人々の交流の発展と意識的につなげられていること。これは生活綴り方教育以 来、日本の民間教育研究のいわば「おはこ」になっているのではないかという印 象を受けた。例えば、小松は父母との話し合いの材料として「学級通信」をとて も大切にしており、それは民間教育研究の伝統でもあった。また今回のインタビ ューで話されたエピソードの中では、版画導入のきっかけなども興味深いものだ った。

小松は 1 年目の『卒業文集』をつくる時、子どもたちの絵をすべて原紙に書き 取ってガリ版で印刷して文集をつくった。小学校だったら当たり前に出来た作文 と版画による卒業文集がつくれないのが残念だったのだろう。作文は教師が子ど ものことばを書き取り、絵は写し取ったのである。そんな無理をしても子どもた ちの表現を親に伝えたかったし、遺したかったのであろう。それは、絵が子ども の人格の表現として重要だという確信がなければ出来ることではない。その後、

幼児にも版画を導入してみたという。絵画表現と版画では、子どもの内面の表現 のされ方が違うかも知れないという印象は持つが、いずれにしても、表現―内面 (要求の)意識化―交流という絵画とことばを媒体とした教育方法は、「集団」

づくりの重要な手法であるようだ。

第 5 に、幼年期教育という用語が用いられ、幼小の接続と幼児教育重視の視野 をもっていたことが印象的であった。小松が1964年に和光幼稚園に異動したのは、

小松によれば一方には、「スプートニクショック」に端を発する幼児期の教育へ の着目があった。日本生活教育連盟において幼児期の教育を考える必要性が確認 され、幼年教育部会が組織されたという。もう一方には、幼稚園から高校まで一 貫した教育を志向する和光学園の教育研究の試みのなかで、土台を作る幼児教育 の重要性を自覚し始めたことがあった。

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あんな小さい子どもは大嫌いだと思っていたのが、(熊本大学教育学部) 属小学校に行ったら 1 年生と言われて、これはもうあきらめるより仕方がな いなと。そして 1 年、 2 年とやっているうちに、小さい子たちの担任の面白 さみたいなものに気が付いて、和光へ来たら 1 年生だというので「ああ、結 構です」と。意欲を持って取り組んだと思います。

そのころ「新しいキャンバスに絵の具を付けていく幼年教育」と、そんな ことを言っていました。だから、怖い反面、勝負というのか。それは将来的 に非常に重要なことだから軽々にはできないという、そんな自覚がだんだん 出てきたと思いますね。

現在、幼小連携の必要性が叫ばれている。その中で、和光学園の幼稚園と小学 校は、幼稚園に小学校で学習するための準備を導入するというのではない方法で の連携を摸索している。小松と同時代の教師たちの経験は、これからの連携に貴 重な示唆を与えてくれる。

2 ──教育内容現代化時代幼稚園文化

─秋野勝紀の問題提起と保育実践

秋野勝紀は、和光・和光鶴川幼稚園のカリキュラムが洗練されつつ定着してい った時期に、その中心となって活躍した教師である。その話は、和光・和光鶴川 幼稚園の歴史をたどる上でも、現在のカリキュラムについて考える上でも、興味 深いものだった。既に『東西南北2011』掲載済

2)

なので、インタビューの語りの 引用は最低限にするが、とりわけ印象的だったのは、以下の点である。

一つ目は、女性化された幼稚園文化の問いなおしである。初めての男性保育者 である秋野は、教師や女の子の女性的な振る舞いや家庭の子育てのような活動に 違和感を覚える。女の子たちは、正座以外の座り方をしない、スカートをはくと いった慣習によって活動を制約されていた。先生たちは、頭に「お」を付けた美 化語を使い、子どもたちをあいまいな言葉で誘導していた。子どもたちの身体活 動は狭い範囲で行われ、思い切り体を動かすことはなかった。そして活動の中心 は、室内で行われる手遊びやままごと、伝統的に家庭で祝われてきた季節の行事 だった。

秋野は子どもの活動範囲を広げることから改革を始めたという。水を入れた砂

──────────────────

2)太田素子・浅井幸子「インタビュー〈戦後教育史のなかの和光学園〉02 秋野勝紀『たしかな力を つける保育』を求めて」『東西南北2011』和光大学総合文化研究所、2011年3月18日、177-196頁。

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場で遊び、運動場を駆け回り、「バドげり」に興じているうちに、女の子の服装 はスカートからズボンに変わっていった。手遊びや伝統行事など、それを行う理 由が説明できない慣習的な活動も、男性保育者ということでいぶかしげに見てい た親たちも、秋野の方針に理解を示し賛同するようになった。秋野は美化語を用 いなかったことについて、それを用いる感性が自分の中になかったと語っている。

その他のことについても、彼は自らの男性として育った感受性に依拠して振る舞 うことによって、幼稚園教育のあり方を改革してきたといえよう。

今の和光・和光鶴川幼稚園の様子からは、教師が美化語を使用したり子どもを 並ばせて移動させていた時代があったということは想像がつかない。女性化され た幼稚園の空間とは異なる和光・和光鶴川幼稚園のあり方は、このような改革の 歴史の上に成立しているのだということが分かった。

二つ目は、徹底した教材研究に基づくカリキュラム開発である。秋野の話によ れば、1970年代の和光幼稚園では、言葉、数、木工、絵画、音楽など、幼稚園教 育のすべての領域において民間教育研究運動と交流しつつ教材研究が推進された。

その一端は、映画『みんなでうたう太陽のうた』に窺うことができる。

中でも圧巻なのは、スポーツの導入に関わる教材研究である。水泳、スケート、

サッカーの導入と指導法の開発にあたり、秋野は体育教育の研究団体に参加し学 ぶばかりではなく、自らその種目に取り組んでいる。サッカーに至っては、自ら サッカークラブに入ってプレーし、小学生や中学生のクラブを指導し、幼稚園の お母さんたちのチームまでつくってしまう。休日は一日中サッカーという時期も あったという。そして着目すべきは、本物志向とも言うべき導入方法だろう。サ ッカーに含まれる動きからその意義を確信したならば、子どもの活動にもその本 質に即して組まれている。ボールは当たると痛いけれど皮のものを使用する。ゴ ムははねて技術が向上しないからである。蹴ることよりもまず、ボールを扱う技 術を教える。

今の和光・和光鶴川幼稚園にも、子ども向けでない、子どもだましでないとい う意味での本物志向が継承されているように思う。

カリキュラムが作成され実践が蓄積されたので、72年に公開研究会を開き ました。午前に保育を公開し、午後にそれをめぐって討論をするのです。テ ーマは「たしかな力を育てる」としました。早教育を批判しつつも、子ども の発達課題にあった保育を積極的にするという考えを込めました。規模はた しか150人としていましたが、申し込みがオーバーしてしまいました。

秋野が行ったカリキュラム開発、すなわち「たしかな力をつける保育」の創造 は、1970年代の保育に対するニーズ、とりわけ親たちのニーズに応えるものだっ た。そのことによって和光幼稚園が親に選ばれる園となったこと、経営状況が安

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定したことは確かだろう。しかしそれは、学校で学ぶことの意義が自明であった 1970年代だからこそ可能なカリキュラムであったように思う。

秋野が和光鶴川幼稚園でカリキュラム開発を進めた1970年代は教育内容の現代 化運動が日本に波及し、最先端の科学知や技術を初等教育においても発見的に学 習させてゆくことが可能であるし、必要だと強調された時代であった。また民間 教育研究運動も学力論争を経て、体系的な知識や技術の獲得を如何に助けてゆく か、実践者がカリキュラム開発の主体となって、活発に研究成果の発表と交流が 進んだ時期であった。秋野は「ぼくの中には幼稚園の現場を学校教育としてみて いる感覚がありました」と語っている。幼稚園と小学校を連続する教育の過程と して位置づけながら、幼児期の教育課題を探求できる背景が学園内にあったのだ ろう。

その際、秋野が「ぼくは子どもの自発性自体が社会的に作られるものであり、

教員が意図を持って知的好奇心や行動を誘発するように働きかけることによって 表面化すると考えています」と語る発達観は、とくに注目したい。この発言の前 半、つまり子どもの興味や関心が社会的な性格を持つことは今日では保育界に共 通する前提となっている。その点では、70年代に秋野が論争的な課題として意識 していたよりも、依拠できる子ども研究の認識は深まっているであろう。しかし 発言の後半部分、つまり子どもへの働きかけについては、今日の保育実践は全体 としては、教師の直接的な指導や働きかけのウエイトよりも、媒介として自然物 や遊具等の環境構成による間接的な働きかけや、年長の子ども達の遊びや活動を 見せておくことなどの人的な環境づくりに、より大きなウエイトをかけている。

それは、子どもが継続的で強い興味や関心を形成するプロセスをじっくり経験さ せるという主体的な人格形成、特に「つもり(意思)」の形成過程を強調すべき だと考える背景が社会的に広がっているからではないかと思惟する。また、保育 研究の中心課題が、教師の直接的な働きかけに集中しうる 5、6 歳児の保育だけ でなく、2 − 4 歳児へ、さらには乳児保育へと移動している事情も反映している であろう。

こうした視野から秋野の実践を聞くと、教師の意図的な働きかけのウエイトが 今日の保育実践より相当大きいのではないか、という印象を受ける。

総合活動も小松の実践にみられたような、自発的な「要求」を発展させてゆく より、教師の意識性が前面に出ているし、小学校の教科に繋がる課業的な活動に 研究が委しいという印象も受けるのである。

総合活動は、あるテーマに対して教員がプランを持ちながらも子どもの発 想を掘り起こし、ともに作り上げる活動です。図式化すると、テーマの提起

→子どもの関心にそって絵本で調べたり見学する→話し合い→必要なものを 作ったり行動する→遊びなどの活動→集約的話し合い→遊びなどの活動、と

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繰り返して発展させ最後は行事などにして収束する、というように進行して いきます。プランを持ちながらも、いかに柔軟に子どもの発想を活動に取り 込み、子どもの主体的意欲を基に活動を展開させていくか、教員にとって面 白くもあり難しくもある実践です。

秋野が現場を離れた1990年代以降の保育現場は、「ゆとり教育」時代の「幼稚 園教育要領」にリードされて、自由遊び中心の保育に傾斜を深めた。その少し前、

アメリカでは60年代に現代化運動をリードした

J. S.

ブルーナーが、教育内容の 現代化運動の限界を問題にし、教育課程改革を進めても「貧困」層の子どもたち が「落ちこぼれる」(drop out)という傾向にとりくんでいた。落ちこぼれ問題の 解決をめざす国家的なプロジェクト、就学前教育を充実させる

Head Start

計画に 取り組んでもなお

drop out

がなくならないという経験から、ブルーナーは、貧困 層の子どもたちは学力だけでなくもっと深いところで無力感という困難を抱えて いると指摘していた。

日本では、「無力感」の問題は貧困層に限らないが、家族の病理が拡大する中 で子どもの育ちの格差は保育者の共通して指摘するところとなった。90年代に和 光幼稚園でも、子どもたちが変化し、従来のカリキュラムに従った保育が困難に なってきた、と強調され始めている。「ゆとり」教育は、こうした背景とも無関 係ではない。

3 ── 文化どもの出会いをつめて─ 山内和子の保育実践

山内和子は、秋野勝紀とともに1970年代の和光幼稚園・和光鶴川幼稚園におけ る教育の再編に従事した教師の一人である。そのインタビューは、当時の研究的 な園の環境の中で可能になった実践の魅力を伝えている。

山内のインタビューで最も印象的だったのは、子どもとともに『ごんぎつね』

の劇を創作した経験の語りである。山内は子どもの読みの深さを示す印象的なエ ピソードを二つ語っている。一つは兵十が病気のお母さんのために釣ったウナギ をごんが川に捨てる場面の「ツヨシ君」について、もう一つは兵十が「ごん、お 前だったのか」と言い、ごんが息を引き取るラストの場面の「マイコちゃん」と

「ツヨシ君」についてである。

兵十が病気のお母さんのためにやっと釣り上げたウナギをごんが川に捨て ちゃうという場面で、ツヨシ君という子が兵十でゴウ君という子がごんだっ たんです。兵十が「ごんのやつ」と言って悔しそうな顔をして幕間に入るん だけど、そのときにふっと後ろを向いて、ごんが隠れているやぶの方向を見 て、「ごんのやつ」ともう一度言ったんです。せりふは決まっているんじゃ

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なくて、みんなで決めていくんですが、その中にもなかったせりふなのに。

見ていたお母さんたちから、あれは先生が指導したのかとかいう質問がきた んですね。そうじゃないんですよ。ツヨシ君が、兵十になりきった気持ちで、

おっかあのウナギをと思って言ったんですよね。もう感動しました。

最後の場面の兵十がマイコちゃんという女の子だったんです。ごんがクリ や何かをいっぱい持ってきて兵十のうちの土間に置いた。それを見た兵十が、

またいたずらをしにきたと思って、鉄砲で撃っちゃうわけですよね。そして ごんが倒れる。見たらクリなんかがいっぱいある。それで兵十が「ごん、お 前だったのか」と言って、ごんがうなずくかどうかぐらいのところでことん と息を引き取っちゃう。その場面で、マイコちゃんの「ごん、お前だったの か」というのがすごく小さな声だったんです。私は観客席の一番うしろで見 ていて、「聞こえなーい」と言ったんです。そうしたらマイコちゃんが、「だ って先生、兵十は声なんか出ないぐらい悲しいんだよ」と言うんです。……

「ごんはごめんねと思って、兵十のところにいろいろ持ってきてくれていた、

それなのに殺しちゃったんだから、声なんか出ないんだよ」と言うんですよ ね。それでみんなもそうだと言うので、私、ちょっと言葉につまりました。

そうしたらツヨシ君が、「ごんって出るんだよ」と言うんです。そしてやっ てみせるんです。「ごん」って言ってごんに近づき、ひざをぱたっとついて、

それから小さな声で「ごん、お前だったのか」と。そうしたら、どうして後 の声が小さくなったのか、みんな分かると言うの。でも最初、「ごん」と言 うのは大きく言った方がいいと言うんですよ。

山内はこの出来事について、「劇づくりをやると、そこまでは読み込んでなか ったなと思うようなことが、劇を作る過程で、つまり体を動かす過程で分かって くる」と語っているが、まさに子どもたちは自らの身体を通すことによって兵十 やごんを、そして『ごんぎつね』の物語を理解しているといえよう。『ごんぎつ ね』は小学校四年生の国語の教科書に掲載されている。言葉のやりとりで読みと るには、10歳前後が適当なのだろう。しかしそれは幼い子どもには不適当な作品 だということではない。山内の語りに登場する幼稚園の子どもたちは、劇を通す ことによって、幼い子どもなりに『ごんぎつね』を読んでいる。

インタビューの内容は、このような劇の成立が、当時の和光幼稚園における徹 底した教材研究によって支えられていたことを示唆している。『スガンさんのヤ ギ』を研究したときのエピソードは圧巻である。

岸田衿子さんの訳した文章の中に、「やぎは山へいきたかったのです。だ から、おおかみにたべられました。おおかみは、やぎをたべるのが、当たり 前なんですよ」という一文があるんですけど、それについておかしいという

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提案があったんです。それで私は原文に当たってみたんです。そうしたらド ーデの書いた原文にその言葉があった。岸田さんが作ったものじゃなくて、

その通り訳したものだった。それでどうしてだろう、と。ある先生は「スガ ンさんのヤギ」が食べられちゃうのは理不尽だと言うんです、じゃあ、うそ を教えるのか、ということになる。無事に山に行って、山の上から何かを見 て、楽しんでヤギは帰ってきましたという話だと『スガンさんのヤギ』じゃ なくなっちゃう。話し合いの中で、そういう形で子どもに与えてはだめだと いう結論になるんですね。子どもにおもねったり、子どもはこういうのを受 け止められないんじゃないかと言うのではなく、このお話はいいお話だと思 ったらちゃんと子どもに提供しようよ、と。

フランス語の原文にあたるというところで、まず驚いてしまう。単に『スガン さんのヤギ』という絵本を子どもに与えるのではなく、ドーデが著し岸田衿子が 訳した文学作品と子どもを出会わせようとしているのだと感じる。このような教 材を教材としてのみならず文化として扱うような教材研究は、幼児教育では珍し いのではないか。それは「どの子も伸ばしていこう」という方向性の中で、一つ ひとつの教材について徹底的に討論を行い、多様な試みを行ったという研究的な 園のあり方において可能になったのだろう。

ただし、『ごんぎつね』の成立を支えているのは教材研究だけではない。山内 のインタビューには、子どもの名前がよく出てくる。そしてその語りからは、単 に子どもの姿が見えるばかりではなく、子どもと教材との出会いの様相が見えて くる。たとえば木工に関するエピソードの語りでは、「ヒロタ君」が自分で木の 電車を製作したことの、彼にとっての意味が、鮮明に伝わってくる。

ヒロタ君という男の子がいたんですけど、階段なんか上れない子だったん です。一歩ずつ苦しそうにしか上れなかった子なんですけどね。家庭訪問す ると、おもちゃに埋まっているような状態で生活しているんです。その子は、

もう四苦八苦してその電車をつくったんですけど、神経質なところがあるか ら車も真っすぐ付いていて、本当によく転がるんですよ。それで後ろにこう いう止め金を付けてやると、後ろと前でこうやってやるとつながりますでし ょう。そうやって友達のと連結したものが転がるのを見て喜んで、おもちゃ を買ってほしいと一言も言わなくなったんです。

このような語りは山内が、一人ひとりの子どもの発達における課題を捉えると ともに、子どもが教材と出会い活動を通して変化する姿を捉えていることを鮮明 に伝えている。

山内のインタビューは、和光幼稚園における教材研究の蓄積が、園にとって貴

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重な歴史的財産であることを示している。同時にその財産は、子どもとその教材 が活動において出会う瞬間を捉える教師のまなざしによって生きることを示唆し ている。それは当時の和光幼稚園において、カリキュラムや教材のようには明文 化しえないながらも、実践を支える共有財産となっていたのではないか。

4 ── 幼児教育てるか─日高聰の思索

和光幼稚園の保育内容研究に積極的に貢献しながら、惜しまれつつ学園を去っ た教師がいた、という話を現在の幼稚園関係者から聞いたことがあった。和光幼 稚園の実践史を研究するうえで、迷いや課題を深く受け止めながら身を引いた教 師の存在はとても気に懸かった。2011年 2 月、私たちは思い切って、氏の郷里に 近い鹿児島市喜入の山中に日高聰氏を訪ねた。約 3 時間にわたるインタビューは、

和光学園の幼児教育実践史を学ぼうとしている私たちには、非常に重い課題を孕 むものとなった。

まず衝撃的だったのは、教育加熱の時代状況の中で私立幼稚園を維持発展させ ることの大変さを改めて通感させられたことだ。日本の幼稚園はその 7 〜 8 割が 私立(園数の61%、園児数の81%、2008年)だが、公的補助が限られているために 授業料収入に依存せざるを得ず、父母の評判が私立幼稚園の存亡を左右する仕組 みになっている。良い保育をめざすことで地域社会の支持を得ようと努力した和 光幼稚園だったが、しかし、何が良い保育かという問いを父母と共に模索するこ とは簡単では無かった。

普通幼児教育というのは、のんびりと子どもが幼稚園で楽しく遊んで仲良 くしてくれればというぐらいで済んでいたのに、和光幼稚園のある意味では 積極的な取り組みが逆にプレッシャーとなり、そのプレッシャーが保育研究 の方向付けに影響して、本来必要な知的教育の内容を考えるようなことがな かなかうまくいかない。ということもあったんではないかというのが私の感 想です。

目に見える部分に対する親からの評価や、教師集団の内部評価、「あの先 生は実際何をしているの?」というような、そういうぎくしゃくが生まれる ということは客観的な事実ですね。

いま学校教育全体が少子化と学校選択制のなかで過当競争を強いられているよ うな状況があるが、幼稚園は定員が少人数であるだけに採算も取りにくく、いつ も父母との価値観の共有が園経営上の重要事になりかねない。その上、何が良い 保育かということは、教科書があり到達度が明確になり易い小学校以上の学校教

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育と比べてさらに共通理解を形成することが難しい。発達研究に造詣が深く、意 欲的な教育実践を開拓し続けてきた和光幼稚園の保育者から、このような悩みを 聞くことは、保育関係者として大変衝撃的であった。

また、この語りで印象的なのは、和光幼稚園の教育の中で「目に見える成果」

が問われる部分が大きくなってしまったのではないかという言葉である。子ども が縄跳びをできるようになる、泳げるようになる、そういう「目に見える部分」

に対する親からの評価や教師集団での評価に縛られてしまっているのではないか、

というのだ。

当時の和光幼稚園は、すべての子どもを伸ばすことのできる教育を目指して、

教育の内容と方法の研究を進めていた。日高の批判はむろん、その方向性が「で きる」ことを過剰に重視する成果主義と結びつく危うさに向けられている。しか しそれだけではない。重要なのは、教育の内容と方法の研究が固定化されたカリ キュラムによる教師の個性の抑制に結びついていたという指摘である。日高は、

当時の園を主導していた秋野の信念を、「一人一人の先生の個性に左右されるん じゃなくて、共通化されたカリキュラムで吟味された、そちらの方が基本」とい う言葉で表現している。

すべての子どもを伸ばすことのできるカリキュラムは、どのような教師でも子 どもを伸ばすことのできるカリキュラム、すなわち特定のカリキュラムに従うこ とで一定の教育水準を保とうとするティーチャー・プルーフ・カリキュラムでも あったことが分かる。

しかしそれは日高にとって「本物」ではなかった。彼は「先生がその先生らし さで子供と丸ごと対峙したり、関係をつくっていくようなものがない中では、教 育内容がどんなに優れた文化であっても、それは本物にはなっていかない」とい う。日高は、一人ひとりの教師の重要性を強調する。一方には、固有名を持つ教 師と固有名を持つ子どもの出会いがある。またもう一方には、固有名を持つ教師 と教材との出会いがある。文学作品の検討において、日高は次のように述べたこ とを語っている。

1 つの教材をこう分析すべきだということじゃなくて、僕なら僕という人 間がこの教材について、例えば『おおきなかぶ』についてはこう考えると、

その議論に誰かが参加して、自分はこの本の方が面白いと思う、子どもたち とこの本を一緒に読んでみたいと思うようなヒントをつかめるというか。そ れはある意味ではその人の文化論になるわけですよね。よく保育研究では、

一緒に教材研究をすると、この本はここはこうだああだみんなでやって、こ の本はこういう部分が大事だという話をすると、次にはすぐそれを無理して 教え込もう、一生懸命そこに持っていこうとする傾向がある。

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日高の言葉は教育における「真正性」の剥奪の問題を提起している。「本物の 文化」といったときに、その「本物」であるとは何を意味するのか。文学であれ ば、権威によって評価されていること、文学の世界のいわばアカデミックな裏付 けを有していることが「本物」なのか。佐藤学はこの「真正性」について、

authenticity

の語源が

author ship

すなわち「著者性」と結びついていることを指摘

している。教育における「真正性」の剥奪の問題は、単なる学校における文化の 教材化の問題ではなく、教師と子どもの「著者性」の剥奪の問題として把握され る必要がある

3)

。和光幼稚園が「本物」の文化と子どもたちを出会わせようと試 みたことは重要である。その日々の中で日高が感じた戸惑いには、そのような教 育が直面する「本物」とは何かという難問が含まれている。

また、「目に見える成果」が問われる部分が大きくなってしまったのではない かという日高の疑問には、幼児期の教育目標のあり方という、もう一つの大きな 検討課題が含まれていると考えられる。

幼児期の場合には何々を、例えば算数なら算数の何かができるようにとい うことよりも、全体としてどんな子どもに育てていくのかということが大切 です。やはりその先生の人間性が丸ごと出てくるというのがベースにあると 思うのです。

一番問題にしたいことは、例えば和光のカリキュラムでいうと、ある技術 を獲得する、獲得できたことによってうれしかったとか、面白かったとか、

楽しかったとか、感性レベルの体験をするわけですね。そこの部分がないま ま育つことがあっては本末転倒だということです。

面白かった、満足したというようなこと、ときにはいい気持ちになったと いうのもあるだろう。そこが保障されるような体験とは何なのかということ が大切だと考えるのです。

当時の和光幼稚園でめざしていた発達が、学校教育に直接つながるような知識、

技術だったとは考えない。また、幼児期の充実した経験が技術や知識の獲得につ ながることを軽視するのも違うだろう。しかし幼児教育として体系的な技術や知 識の獲得それ自体より、自主的な人格や社会性・コミュニケーション力、感性と 外界に働きかける能動性など人格の土台の育ちをまず大切にしなければならない ときに、特定の技術や知識の達成だけが保育内容全体に拘束力を持つ傾向が生じ たことへの批判、それが日高の真意だったのではないか。幼児期に「自己肯定感

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3)佐藤学「教育という政治空間」森田尚人・藤田英典・黒崎勲・片桐芳雄・佐藤学編『教育学年報3 教育のなかの政治』世織書房、1994年、3-30頁。

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を育てる」ことは、「無力感」の増大に対する最も有効な対処であろう。

研究熱心であるからこそ生まれる多様な疑問と試行錯誤、和光幼稚園・和光鶴 川幼稚園の保育研究のあゆみを理解することは、戦後保育実践史研究の豊穣な領 野を切り開く確かな小径になるようだ。

[おおた もとこ/あさい さちこ]

参照

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