社会主義のもとでの労働力範疇(?)
その他のタイトル The Category of Labour Power under Socialism (I)
著者 長砂 實
雑誌名 關西大學商學論集
巻 19
号 5‑6
ページ 668‑687
発行年 1975‑02‑25
URL http://hdl.handle.net/10112/00021110
50 (668)
社会主義のもとでの労働力範疇
(I)長 砂 宵
は し が き
私は,かつて,社会・共産主義のもとでの「直接に社会的な必要生産物と
※
剰余生産物の生産の法則」を論じたさいに, 「労働力そのものの特有な経済 的形態規定性」を積極的に追求することの重要性にふれて, 「社会・共産主 義のもとでの労働力は,単に労働カ一般ではな<,また単に商品でないので はなく,まさに, 『直接に社会的な労働力』なのである」と規定するととも と,それが, 「社会主義段階の補足的な性格」としての「相対的な個人的・
集団的孤立性」をもたざるをえない,と主張した。そして同時に, ソ連の経 済学界において,労働力範疇の考察がいちじるしく立ちおくれていることに 不満を表明しておいた。
ところが近年,ソ連の経済学界で,かなり大きな論争がこの問題をめぐっ て展開されている。
1972年
11月には, 「社会主義のもとでの労働力の社会・
経済的諸問題」をめぐって,全連邦的な学術討論会が組織され,そこでは,
労働力範疇の規定,労働力の再生産,労働力の利用改善,労働力発展の社会
※ 『関西大学商学論集』第
13巻第
4• 5号
(1968年
12月 ) ,
pp.217 236.および拙
著『社会主義経済法則論』,青木書店,
1969年 ,
pp.176179.社会主義のもとでの労働力範疇 ( 1 ) (長砂)
(669) 51※※
的計画化の諸問題が論じられた。この討論会に前後して,これらの問題につ いてかなりの数の論文が公けにされている。これは無条件に歓迎すべき動向 である。
だが,これらの問題について,論者たちの見解はひじょうに大きく分かれ ている。とくに,もっとも重要な意義をもつ労働力範疇の規定にかんして,
見解の対立がはげしい。ところが;この問題の解決なしには,社会・共産主 義と資本主義との本質的差異も,社会主義と共産主義との段階的相異も,真 に経済学的に解明されえない。なぜなら,マルクスの資本主義の経済学休系 においてあれほど重要な位置をしめている労働力範疇について,社会構成体 の転換とともに,単に労働力は商品ではなくなった,という,それ自体では 無条件に正しい命題を反趨するだけでは,社会・共産主義の経済学休系に大 きな空白地帯が残されていることになるからである。ソ連での論争は,社会 主義のもとで労働力を商品として駆める見解から労働力を経済学的範疇とし ても認めない見解にいたるまで,また,労働力所有関係を駆める見解からそ れを駆めない見解にいたるまで,きわめて大きな対立を抱えており,問題解 決はけっして容易でない,と思われる。
本稿の目的は,冒頭に述べたようなわれわれの見解をいっそう具体化し前 進させようとする立場から,近年のソ連経済学界の主要な諸見解を検討の素 材にしつつ,社会・共産主義のもとで,①労働力範疇が消滅しない論拠,
R労働力所有問題が消減しない論拠,⑧労働力が商品でなくなる論拠,④労 働力がうけとる特有な経済的形態規定性の内容,をたちいってあきらかにす ることである。
※※ この討論会の内容は,
Cou11aJ1bHO‑aK0HoM11qecK11e !lPO血
eM&t paf5oqeA CIIJl&l llpll C01lll8Jlll3Me. ̲ Te3HC&l,!lOK孔aAOB.H紐•JITY,
1972,として公け
にされているが,この文献をわれわれは入手していない。だが,討論会の概略
は,
<{:aKOH. H8YKH}>, 1973,浪
3に紹介されている。
52 (670)
社会主義のもとでの労働力範疇 ( 1 ) ( 長 砂 )
I 社 会 主 義 は 労 働 力 範 疇 を 消 滅 さ せ な い
社会・共産主義のもとで,その生産諸関係の理論的表硯としての,すなわ ち経済学的範疇としての労働力が存在するかどうか,という方法論的問題 が,まず問われている。広義の経済学の立場にたつならば,社会・共産主義 が労働力範疇を消滅させない,ということは,いわば自明の理である。
マルクスが指摘したように「生産の社会的形態がどうあろうと,労働者と 生産手段とはいつでも生産の要因である」 (マルクス『資本論』邦訳,大月 書店版⑧
p.49)が,人的生産要因としての労働者=直接的生産者は,つねに 労働能力=労働力の人格的担い手である。このような意味での労働力をマル クスはつぎのように定義している一ー「われわれが労働力または労働能力と いうのは,
1人の人間の肉体すなわち生きている人格のうちに存在してい て,彼がなんらかの種類の使用価値を生産するときにそのつど運動させる肉 休的およぴ精神的諸能力の総体のことである」 (同上,①
p.219)。 す な わ ち,ここでは,あらゆる生産に共通して存在する生産諸力の不可欠の構成要 素としての労働力がいわれているのである。そして,いかなる生産様式のも
とでも直接的生産者が所持•発揮するこのような労働力そのものがただちに 経済学的範疇ではない,ということは自明である。そのような労働力は,ぃ かなる意味でも「生産関係の理論的表現」 (マルクス)ではない。
しかし,このような労働力は,現実にはつねに特定の生産諸関係のもとに おいて機能するのであり,労働力の人格的担い手としての直接的生産者は,
つねに特定の生産諸関係の当事者である。だから,労働力はつねに特定の経
済的形態規定性をうけとったものとして実在するのであり,そのようなもの
としてつねに経済学的範疇である。マルクスの表現をかりるならば,資本主
義的生産過程と同様に社会主義的生産過程もまた「社会的生産過程一般の歴
史的に規定された一形態」 (同上⑥
p.1049)であり,社会・共産主義的生産
様式は, 「他のどの生産様式とも同様に,絶えず物質的生産物を再生産する
社会主義のもとでの労働力範疇 ( 1 ) ( 長 砂 )
(671) 53だけではなく,社会的経済的諸関係を,この生産物形成の経済的形態規定を,
再生産する」 (同上⑥
p.1114)のである。資本主義のもとでの労働力は,
経済学的範疇としては,商品としての労働力あるいは可変資本としての労働 力として実在している。そして,このような,資本主義に特有な歴史的な形 態規定性は,社会・共産主義のもとでは新しい別の形態規定性に席をゆずら ないわけにはいかない。マルクスはつぎのように述べている一「労働過程 がただ人間と自然とのあいだの単なる過程でしかないかぎりでは,労働過程 の単純な諸要素は,労働過程のすべての社会的発展形態につねに共通なもの である。しかし,この過程の特定の歴史的な形態は,それぞれ,さらにこの 過程の物質的な基礎と社会的形態とを発展させる。ある成熟段階に達すれ ば,一定の歴史的な形態は脱ぎ捨てられて,より高い形態に席を譲る」 ( 同 上⑥
p.1129)。これは,生産諸力と生産諸関係, 「生産の物質的発展と生産 の社会的形態」の照応および矛盾とその克服の必然性を論じたものである が,われわれの問題に即していえばつぎのようになる。あらゆる生産様式に 共通な生産諸力の一要素としての労働力は,特定の生産諸関係のもとでつね に特定の経済的形態規定性を受けとるのであり,資本主義から社会・共産主 義への移行は,労働力そのものの「物質的発展」を基礎にしたその「社会的 形態」の根本的転換を意味する。社会・共産主義のもとでは,労働力の「社 会的形態」すなわち経済的形態規定性,したがって経済学的範疇としての労 働力,は消減せず,資本主義のそれとは本質的に区別される,より高い形態
、規定を受けとった労働力として,すなわち新しい経済学的範疇として存在す る 。
だから,マルクスが「労働力」なる術語を用いて,つぎのように社会・共 産主義社会の根本的特徴をえがきだしたのは,けっして偶然ではないー一
「共同の生産手段で労働し自分たちのたくさんの個人的労働力を自分で意識 して
1つの社会的労働力として支出する自由な人びとの結合休」 (同上①
p.105)―。われわれは,このような「個人的労働力」と「社会的労働力」
を,社会・共産主義に特有な経済学的範疇として積極的に展開しなければな
54 (672)
社会主義のもとでの労働力範疇 ( 1 ) ( 長 砂 ) らないのである。
このような観点から,ソ連での現在の論争を検討しよう。この問題につい
(1)
ては
3つの立場がある。第
1の立場は,労働力は資本主義のもとでのみ経済 学的範疇であって,社会・共産主義のもとではそのようなものとしては存在 しない,とするものであり,第 2の立場は,経済学的範疇としての労働力は 資本主義と社会主義のもとでのみ存在する,とするものであり,第 3の立場 は,経済学的範疇としての労働力は,あらゆる生産様式のもとで存在する,
とするものである。それぞれを検討しよう。
第
1の立場を代表するのは,工ヌ・チャプキンである
((30J,〔
31],〔14))~ 彼はつぎのように断言している。 「社会主義の勝利とともに, 生 き た生産力にたいする所有は存在しなくなる。 『労働力』という経済学的範疇 は歴史の舞台からしりぞく。生きた生産力は,自らを労働力に転化すること なく直接にあらわれる。……労働力の担い手としての労働者も存在しない…
… 」 〔 (
30JCTp. 105,〔
31)CTp.44)。さらには,「社会主義社会には,労働 力というような経済学的概念はないし,•またありえない」(〔14J
CTp. 11,ほか に 〔
30JCTp. 102108)。ここでチギプキンのいう「生きた生産力」とは「人 間カ一般」のことであり,資本主義のもとでは労働力をふくむがそれにはつ くされない人間力を,また,社会主義のもとではその一部分たりとも労働力 には転化しない人間力を意味している。このような主張の論拠は,要する に,労働力は商品である以外に経済学的範疇ではありえない,とするところ につきている。すなわち, 「一方の側は生産手段の所有者となり,他方の側 は自らの労働能力の所有者である」ような「諸関係」のもとでのみ, 「人間 カの労働力への転化」がおこるのである(〔
30JCTp. 104,〔
14)CTp.11)。 彼によれば,奴隷や農奴の人間力は労働力に転化しなかったが,資本主義の もとで賃金労働者の人間力の一部分が労働力に転化して商品となり,社会主 義のもとではふたたぴ「人間の生きた生産力は,…直接にそのものとして,
労働力という形態をとらないで硯われる」のである(〔
30JCTp.102106)。
(1)
この区別については.(2
5Jcrp.6の指摘が有益である。社会主義のもとでの労働力範疇 ( 1 ) ( 長 砂 ) (
673)5 5 ‑ まず,チャプキンが「生きた生産力」あるいは「人間力」.とよんでいるも のは,直接的生産者を念頭におくかぎりは,結局は,あらゆる社会に共通し て生産の人的要因である労働者が所持•発揮する労働能力=労働力である。
たとえば,奴隷が事実上の生産手段として人格もろとも売買されたのも,奴 隷がそのような労働能力=労働力を所持していたからに他ならない。だか ら,そのような労働力が人格から分離されるかされないかがいかに重要な意 味をもっていようとも,生産力の共通的範疇とし・ての労働力の存在を事実上 否定して, 「生きた生産力」そのものか,それとも経済学的範疇としての労 働力か,というふうに問題をたてるのは誤りである。
つぎに,チャプキン自身が駆めているように, 「自然的労働能力としての 人間の労働力と経済学的範疇としての人間の労働力とは異なった概念であ る 」
((30) CTp. 103)が,しかし,後者は資本主義のもとでだけ存在する,
とするのは根拠のない独断である。 2重の意味で自由な賃金労働者を生みだ す資本主義に特有な社会・経済的諸条件は,たしかに労働力を商品に転化す るが,資本主義以外の生産諸関係もまた,それらに特有な経済的形態規定性 を労働力に刻印するのである。
だから,ほとんどの論者がチャプキンに批判を加えているのは当然であ
岱
第
2の立場は, ヴェ・セメネンコ(〔
25), お よ ぴ <{BecTHHK MfY),
1967, M 4, CTp. 42)に代表される。彼によれば, 「経済学的範疇として の労働力の規定性が発生するのは,第
1に,生産者が自由に労働力を処分 し,社会的生産の体系のなかでの労働支出の場の選択が生産者しだいである こと,第 2に,生産者は,自分自身では生産手段を自由にしないこと,とい った諸条件のもとでである。労働力が経済学的範疇に転化する過程は,生産 者自身が生産の客観的条件として領有されるような諸関係の崩壊に条件づけ られており,そのような諸関係の崩壊と関連して,労働力にかんして特別の
(2)〔
1〕
CTp.31,〔
5J crp. 85, (21J crp. 62, (22J crp. 20, (23J crp. 8 9,
〔
25Jcrp.34,〔
32Jcrp. 31.56 (674)
社会主義のもとでの労働力範嘲 1 ) ( 長 砂 )
諸関係が発生するのである」(〔
25)CTp. 34)。このような観点からすれば,
資本主義以前の生産様式では, 「個人の経済的形態」と「労働力の経済的形 態」とが区別しがたい状態にあって, 「労働力にかんしてはいかなる特別の 諸関係も形成されなかった」ので, 労働力は経済学的範疇としては存在せ ず,資本主義のもとではじめて労働力は経済学的範疇となる(〔
25)CTp.31 34)。社会主義のもとではどうか。 「社会主義社会における個人は, 共同所 有者として社会全体の規模で結合しているが,彼が自分の労働力を自由に処 分すること,およぴ,企業のレベルで彼を社会的生産過程に具体的にふくめ る問題が存在することと関連して,社会主義のもとでの労働力は,経済学的 範疇の諸特徴を獲得している。この範疇は,社会と生産者自身との利害に応 じて労働能力を利用することにかんして働き手と社会との関係を表現する」
((25) CTp. 35)
。つまり,労働力を経済学的範疇に転化するための
2つの条 件が資本主義と社会主義とに共通して存在している,とされるのである。こ れと基本的に同じ見解を, ア・プチェンコも展開している(〔
1)CTp. 3133, (2))。
このような見解については,少なくともつぎの 3 点が問題となる。
第
1に,資本主義以前の生産様式では,はたして労働力にかんしての特別 の関係は形成されなかったか。セメネンコの論拠は, 「生産者自身が受けと る経済的形態」から独自に区別されるような「労働力の経済的形態」はなか った,という点にある。だが,われわれの意見では,労働力が生産者の人格 全体と未分離である_その未分離の状態は各生産様式によって異なる一~
ことそれ自体がまさに,労働力の特定の経済的形態である。直接的生産者が 問題であるかぎりは,資本主義以前の生産様式においても, 「労働力の経済 的形態」ぬきの生産者「個人の経済的形態」なるものは存在しない。
第 2 に,労働力を経済学的範疇に転化する 2 つの条件なるものを云々する
ことは妥当であろうか。それらは要するに, 2重の意味で自由な労働者の規
定から,特殊資本主義的な諸特徴を捨象することによ って得られた抽象的な
諸条件である。そしてそのような条件を社会主義にもみいだそうとするので
社会主義のもとでの労働力範嘲 1 ) (長砂)
(675) 57ある。しかし,ここには重大な方法論的難点がある。まず,労働力は資本主 義のもとで,はじめて経済学的範疇となる,という前提そのものが,すでに みたように正しくない。つぎに,資本主義に特有な経済学的範疇としての商 品労働力を規定する諸条件から,.経済学的範疇一般としての労働力の規定的 諸条件をみちびきだし,その尺度から社会主義のもとで労働力が特有な経済 学的範疇であることを論証しようとするのは逆立ちした議論である。資本主 義と社会主義とに共通して労働力を経済学的範疇に転化する諸条件がかりに 理論的に想定しうるとしても,その妥当性は,社会主義のもとでの労働力範 疇の解明をまってはじめて論証されうるものなのである。
第 3 に,社会主義のもとでの労働力が 2 つの条件に照らしてみてどのよう に「経済学的範疇の諸特徴」をもつか,という問題意識は,必然的に,社会 主義のもとでの労働力範疇を一面的に考察することになる。たとえば,個人 的労働力の範疇的規定性は問われるが,社会••共産主義のもとでのみ実質的 な範暗的規定性をうけとるはずの社会的労働力についてはなにも論じられな ぃ,といった限界が存在する。
第
3の立場は,ア・コトリャール c c
9 J,〔
10])に代表される。彼によれ ば , 「労働力はつねに具体的な社会・経済的内容でみたされている」のであ って,その「内容は,人びとが勤労者(労働力の担い手)と非勤労者とに分 かれている体制か,労働能力をもった社会のすべての成員が労働力の担い手 であるような労働の全般性の体制であるかをとわず,結局のところ,各構成 体にとって特有な体制である…•••社会構造を反映する」 (ClOJ
CTp. 32)。
「機能的概念」としての「労働能力」と「社会・階級的概念」としての「労 働力」とは区別されねばならず,前者は搾取階級もふくむすべての人間にそ なわっているが,後者の担い手は勤労者=直接的生産者だけである,と彼は 主張している
(ClOJCTp. 31 32)。
(3)
これと基本的に同じ見解を多くの論者が述べているが,ここではもうひとつ
(3) ‑
C
5 J CTp. 85, (2゜ 〕
CTp.4, (21J CTp. 62; (23〕
CTp●8 9,(29〕
CTp.6264, (32J CTp. 30.58 (676)
社会主義のもとでの労働力範疇 ( 1 ) ( 長 砂 )
ヴェ・プリャーエフからの引用にとどめよう。 「社会的生産における労働力 の状態を条件づける歴史的に一定の生産諸関係の体系は,経済学的範疇とし ての労働力の内容を規定する。労働力の社会・経済的本質,その経済的形態 は各生産様式にとって特別,特有である。主要な生産力を抽象的に,具休的 な生産関係形態との関連の外で考察してはならない。.経済学的範疇としての 労働力は各生産様式にとって特有である。それは,歴史的な,特有な範疇で あって,共通的な範疇ではない」 〔 (
2.3JCTp. 8 9)。
すでに述べたことからあきらかなように,われわれはこの立場を支持す る。広義の経済学の立場にたつかぎりは,これはいわば自明の理であって,
実をいえば,いまさら強調するまでもないことなのである。
ただ,ここでつけくわえておくべきことは,経済学的範疇としての労働力 は , 異なった生産様式で異なった規定をうけとるだけでなく, 同一の生産 様式のもとでもいくつかの規定をうけとりうる,ということである。マルク
スは, 「生産の社会的形態がどうあろうと,労働者と生産手段とはいつでも 生産の要因である。しかし,一方も他方も,互いに分離された状態にあって は,ただ可能性から見てそうであるにすぎない。およそ生産が行なわれるた めには,両者が結合されねばならない。この結合が実現される特殊な仕方 は,社会構造のいろいろな経済的時代を区別する」と述べている(『資本 論』,前出⑧
p.49)が,ここからわれわれは,生産手段との「可能的」「浩 勢的」結合の次元での労働力,生産手段との「硯実的」結合の次元での労働 ヵ,およぴ前者から後者への転化の次元での労働力,を区別することができ
る。資本主義の場合には,それらは,商品としての労働力,可変資本として の労働力,および労働力の売買である。労働力範疇規定の多面性は,社会・
共産主義のもとでも十分に考慮されるべきである。
もうひとつつけくわえよう。社会主義のもとでの労働力範疇の経済学的展
開にあたっては,それが共産主義の高い段階にも共通する内容を規定的要素
としてもっていることを第
1義的にあきらかにするとともに,社会主義段階
にのみ固有な内容を補足的要素としてもっていることをあきらかにしなけれ
社会主義のもとでの労働力範疇 ( 1 ) ( 長 砂 ) (
677)59 ばならない。このことは社会主義の客観的な過渡的性格に規定されているの であって,この点でも,社会主義のもとでの労働力の範疇的規定性は,けっ して単純ではない。
だが,これらの問題は,のちに,節を改めて論じることにしよう。
] [ 社 会 主 義 は 労 働 力 所 有 関 係 を 消 滅 さ せ な い
すでにみたように,社会・共産主義のもとで経済学的範疇としての労働力 は存在するのであるが,労働力の所有関係もそこには存在するであろうか。
われわれは,社会・共産主義のもとでもそれに特有な労働力所有関係が存在 する,と考える。その論拠はつぎのようなものである。
マ)レクスによれば,「いつの時代にも消費手段の分配は,生産賭条件そのも のの分配の結果にすぎない。しかし,生産諾条件の分配は,生産様式そのも のの一特徴である。たとえば資本主義的生産様式は,物的生産諸条件が資本 所有と土地所有というかたちで働かない者のあいだに分配されていて,これ にたいして大衆はたんに人的生産条件すなわち労働力の所有者にすぎない,
ということを土台にしている。生産の諸要素がこのように分配されておれ ば,今日のような消費手段の分配がおのずから生じる。物的生産諸条件が労 働者自身の協同的所有であるなら,同じように,今日とは遮った消費手段の 分配が生じる」 (『マルクス・エンゲルス全集』,邦訳, 大月書店⑲
p.22)。 また, 「生産手段や生活手段の所持者が市場で自分の労働力の売り手として の自由な労働者に出合う」ことこそが「資本の歴史的存在条件」なのであり
(『資本論』, 前出①
p.223),「・・・・・・労働力の売買は, それ自身また,社会的
. . .
生産物の分配に先行し,その前提となっている生産要素の分配にもとづいて いる。すなわち,労働者の商品としての労働力が非労働者の所有物としての 生産手段から分離されるということにもとづいている」 (同上⑧
p.474, 傍 点ー原文)。
われわれがマルクスのこれらの叙述に注目するのは,第
1に,「生産諸条
60 (678)
社会主義のもとでの労働力範疇 ( 1 ) ( 長 砂 )
件」の所有関係が「物的生産諸条件」すなわち生産手段の所有関係と「人的 生産条件すなわち労働力」の所有関係との統一としてとらえられ,それが生 産様式の「土台」とみなされていること,第2 に,そのことが資本主義につ いて論証されていること,第
3に,そのことが「いつの時代にも」すなわち すべての生産様式にあてはまるとみなされていること,第 4に , 「物的生産 諸条件が労働者自身の協同的所有である」将来社会にもふれている(ただ し,労働力の所有については言及がない)ことがその理由である。すべての 生産様式について,生産手段の所有関係だけでなく労働力の所有関係も存在 し,それらの統一として生産諸条件の所有関係が存在する,というのがマル クスのひとつの方法論的な結論であることはあきらかだと思われる。
だが同時に,生産諸条件の所有関係のなかでは生産手段(労働条件)の所 有関係が労働力の所有関係にたいして規定的役割を果すことも,またあきら かである。マルクスは,資本主義について,こう述べている。 「そもそも彼 が資本家であるのは,また,そもそも労働の搾取過程を企てることができる のは,ただ,彼が労働条件の所有者として単なる労働力所持者としての労働 者に相対しているからでしかない。……非労働者によるこの生産手段の所有 こそは,労働者を賃金労働者に転化させ,非労働者を資本家に転化させるの である」 (同上④
pp.5152)。 マ )
yクスはまた, 労働条件の「分配関係」
が , 「生産関係そのもののなかで直接生産者に対立して生産関係の特定の当 事者たちに割り当る特殊な社会的機能の基礎」であり,」生産条件そのものに
もその代表者たちにも特殊な社会的性質を与え」, 「生産の全性格と全運動 とを規定する」, と述べている(同上⑤
pp.11231124,および⑤
p.1015)。 以上がこの問題についてのわれわれの基本的見解であるが,以下で, ソ連 での論争にふれよう。経済学的範疇としての労働力を社会・共産主義に認め る論者たちのなかで,社会・共産主義のもとでなんらかの形態の労働力所有 を認める見解と,労働力所有の欠如こそが社会・共産主義の特徴であるとす る見解とが,鋭く対立している。
労働力所有説をもっとも体系的に説いているのは,ゲ・プラポトーロフ
社会主義のもとでの労働力範疇 ( 1 ) ( 長 砂 )
(679) 61 ((22〕)である。その主張は,つぎのように要約できる。①生産手段と労働 カの 2つの生産要因についてそれぞれ独自的な所有・領有関係が成立してい るのであって,生産手段の所有関係に労働力の所有関係を溶解させてはなら ない。生産様式の差異は前者だけでは十分に特徴づけることができず,後者 を考慮することによってのみそれは可能となる(〔泣〕
CTp.184186)。③奴隷 制およぴ封建制生産様式に人格の所有・領有関係はあっても労働力の所有・
領有関係はないかのように主張することは誤りであって,前者は本質的には 後者である
((2幻
CTp.187191)。⑧労働力所有関係のもっている意義は大 きいが,しかし,生産手段所有関係が決定的役割を演ずることを強調すべき である。同時に,前者から後者への反作用も無視できない
((2幻CTp.192 195)。④各生産様式は生産手段と労働力の所有の観点から,つぎのように特.
徴づけられる。原始共同体ー一「生産手段と労働力の共同的・集団的所有」,
奴隷制社会一「生産手段と奴隷の労働力にたいする奴隷所有者の私的所 有 」 , 封建社会ー一「農奴の労働力にたいする領主の不完全な所有によって 補足された,生産手段とりわけ土地にたいする封建領主の所有」,資本主義 社会一~資本主義的所有と賃金労働者による労働力の所 有,さらに単純商品生産ー一「自らの生産手段と自らの労働力にたいする働 き手の私的所有」
((2幻
CTp.196)。⑥社会主義のもとでは労働力は「個人的 所有」であるが,それは共産主義のもとでは消減する(〔泣〕
CTp.198262)。
この最後の点についていっそうの検討は保留するとして,われわれにとっ ては,プラポトーロフの議論は大体において説得的である。社会主義のもと での労働力所有の意義を方法論的に強調する論者としては,ほかに,ヴェ・
コルニエンコ(たとえば, 〔
7〕Cれ .
8,〔
8〕
CTp.1213)およぴア・ド オドロワ(〔
2的
CTp.32をみよ)がある。
しかし,多くの論者が労働力非所有説の立場にたっている。たとえば,ヴ ェ・プリヤーエフによれば, 「労働力所有の範疇」は労働力の「商品形態」
とだけ結ぴついているのであって, 「それ以外に労働力所有の問題は発生し
えない」
((23) CTp. 5)のであり,エヌ・コレソフによれば,「労働力にた
62 (680)
社会主義のもとでの労働力範疇 ( 1 ) (長砂)
いする所有は,資本主義のもとでのみ存在する」
((25JCTp. 88)のであり,
ィ・ソローキナによれば, 「労働力の領有関係は,社会成員の一部分にとっ て彼らの労働力の譲渡の必然性をひきおこすような生産手段所有関係にもと づいてのみ発生」
(C27J CTp. 72)し , 「社会主義のもとでの労働力所有の 欠如は, 生産手段の社会的所有の諸関係の直接的表現である」
(C27J CTp. 75)のであり,エム・プリネルによれば, 「社会主義のもとでは,労働力に たいする所有が誰に属するか一働き手にかあるいは社会全体にかーーとい
う問題提起はあらゆる意味を失なう」
((21J CTp. 62)のである。
労働力非所有説をとる論者たちの論拠は,つぎのものに帰着する。①資本 主義以前の生産様式においては,なんらかの形で生産手段と直接的生産者と が癒合しており,直接的生産者自身が全体的あるいは部分的に客観的生産諸 条件に属しており,また,直接的生産者の人格と労働力との分離は存在しな い。だから,そこでは労働力について特別な関係はなく,労働力の譲渡はな く,直接的生産者の人格そのものの領有・所有関係はあっても労働力につい ての独自的な領有・所有関係はない
((l7JCTp.131, (23J CTp. 56, (25J CTp.39)。 ②社会・共産主義における生産手段の社会的所有のもとでも,生 産手段と直接的生産者との直接的結合が存在し,人格からの労働力の分離も ないのであって, 「個人的労働力の譲渡と領有の諸関係のいかなる客観的必 然性も基礎も欠如している」
((27JCTp. 75, (21) CTp. 62, ・ (23J CTp. 6, (25J CTp. 33)。③方法論上の論拠としては,労働力所有説が,第
1に,労働 カ所有を生産手段所有と同等に扱かう点で誤っており
((5J CTp. 89),第
2に,労働力範疇と労働力所有とをつねに不可分のものとしてとらえるのは,
「所有関係を生産諸関係一般に溶解させる」ことにもとづいている点で誤っ ている
(C27JCTp. 74),と指摘されている。
‑これらの論拠については,われわれはつぎのように考える。①資本主義以
前の生産様式における生産手段と直接的生産者との癒合および人格からの労
働力の未分離は,たしかに資本主義と区別される点であるが,そこで労働力
所有が存在しない,とする論拠とはなりえない。それは労働力所有の独自的
社会主義のもとでの労働力範暗
(1)(長砂)(
681) 63形態を規定する要因ではあっても,労働力所有を客観的に生みださない要因 ではない。たとえば,奴隷制の場合,奴隷の労働力は客観的生産条件として 人格もろとも奴隷所有者によって私的に所有されるのであり,奴隷の全人格 の所有それ自体は自己目的ではなく,奴隷の労働力を所有・領有するための 歴史的に規定された一形態である。ここでの労働力所有関係の欠如は,外観 にすぎない。②社会主義のもとでも,われわれの見解では,労働力所有問題は 消減しない。そこでの生産手段と直接的生産者との直接的結合および人格と 労働力との非分離は,そこでの労働力に直接に社会的な性格をあたえる。し かし,そのことは労働力所有関係を消減させない。個人的労働力については 個人的所有が,社会的労働力については社会的所有が,そして両者の相互関 係が存在している。だが,この点にはのちに立ちかえろう。⑧方法論上の
2つの点についていえば,労働力所有説は,すでに述べたように,けっして生 産手段所有関係の労働力所有関係にたいする規定的役割を軽視するものでは なく,ただ,労働力所有関係の独自的存在を主張し,生産手段所有関係に労 働力所有関係を帰着させることに反対しているのである。また,労働力所有 関係もやはり,生産諸開係の理論的な表現としての労働力範疇の展開をつう
じてのみの経済的内容を解明することが可能となる。
要するに,われわれは,労働力所有関係を労働力の商品形態だけに結びつ けるような見解には同意できない。
皿 社 会 主 義 は 労 働 力 商 品 の 範 疇 を 消 滅 さ せ る
社会主義が経済学的範疇としての労働力と労働力所有関係とを消滅させな いことが,すくなくとも方法論的にあきらかである以上,それらの積極的な 考察にすすむべきであるか,それに先立って,まず,社会・共産主義は労働 力商品の範疇を消減させることをあきらかにしよう。
資本主義のもとで労働力が商品となり貨幣が資本に転化する歴史的かつ構
造的な諸条件について,周知のようにマルクスはつぎのように述べた。
64 (682)
社会主義のもとでの労働力範翡 ( 1 ) ( 長 砂 )
第
1の条件は,労働力の所持者が人格的に自由であることである。 「労働 カの所持者が労働力を商品として売るためには,彼は,労働力を自由に処分 することができなければならず,したがって彼の労働能力,彼の一身の自由 な所有者でなければならない」 (『資本論』,前出①
p.220)9第
2の条件は,労働力の所持者が生産手段と生活手段からきりはなされて いることである。 「貨幣所持者が労働力を市場で商品として見いだすための 第 2 の本質的な条件は,労働力所持者が自分の労働の対象化された商品を売 ることができないで,ただ自分の生きている肉体のうちにだけ存在する自分 の労働力そのものを商品として売り出さなければならないということであ る 」 (同上①
p.221,⑧
pp.4345, 49)。マルクスは, これら
2つ の 条 件 を , 「
2重の意味で」「自由な労働力」とも表現した(同上①
p.221,③
pp.933934)。これら
2つの条件のうち,第
2の条件すなわち,直接的生産者があらゆる 生産手段(および生活手段)から分離されていることが,規定的な役割を果 す。それは,生産手段の私的・資本主義的所有であり,それに規定された労 働力の私的・個人的所有である。生産の 2要因すなわち生産手段と労働力と が ,
2つの対立的な階級によって,すなわち,生産手段の所有者であるが非 労働者である資本家階級と,生産手段の非所有者であるが労働者である賃労 働者階級とによって,担われている。これは,しかし,決定的条件ではある が,なお必要条件のひとつであって,それ自身では十分条件ではない。勤労 者が生産手段の非所有者であり非勤労者が生産手段の所有者である関係は,
けっして資本主義にのみ固有ではなく,なんらかの程度と形態において,ぁ らゆる搾取社会に固有である。だが,奴隷や農奴の労働力は商品とはならな い。労働力が商品となるためには,労働力所持者が人格的に自由でなければ ならない。こうして,第
1の条件がもうひとつの補足的な必要条件となる。
そして,これら
2つの条件はその統一において,労働力が商品であるための 必要にしてかつ十分な条件となるのである。
では,このような条件が社会・共産主義に存在するであろうか。
社会主義のもとでの労働力範疇 ( 1 ) ( 長 砂 )
(683) 65これら
2つの条件のうち,第
2の条件が社会・共産主義のもとで消減する ことはあきらかである。そこでは,社会的規模で生産手段と労働者とが直接 的に結合している。そこでは, 「自由な人ぴと」が, 「共同の生産手段で労 働し自分たちのたくさんの個人的労働力を自分で意識して
1つの社会的労働 力として支出する…結合体」 (『資本論』前出①
p.105), を形成している。
ここでは,社会全体,生産単位(企業)および個人のどのレペルにおいて
•も,生産手段の所有者は同時に労働者(労働力の所持者)である。だから,
ここでは,社会成員である個々の労働者が所持する労働力が商品に転化する に必要な条件は決定的に欠如している。
もうひとつの,第
1の条件については,事情は異なる。奴隷や農奴とちが って賃金労働者が有している人格的自由は,社会・共産主義に発展的に継承 される。マルクスが社会・共産主義社会の成員を「自由な人ぴと」とよんだ のはけっして偶然ではないであろう。だが,いうまでもなく,そこでの労働 者の人格的自由は,資本主義のもとで賃金労働者の人格的自由がうけとって いる階級的制約からは,解放されている。賃金労働者の人格的自由は,なに よりもまず,自らの所持する労働力以外に売るものがないという「自由」に よって規定されており,賃労働者相互の競争の「自由」と失業の「自由」に よって制約されており,人格からの労働力の分離の「自由」をふくみ,資本 家階級とのあいだの形式的な平等のなかにひそんでいるきわめて大きな実質 的不平等ときりはなせないような「自由」である。これらの階級的制約は,
社会・、共産主義のもとでは消減する。それは, 「各人の自由な発展が万人の 自由な発展の条件であるような •1 つの結合社会」 (『マルクス・エンゲルス 全集』,前出,④
p.496)である。したがって, 実質的内容からみれば, 資 本主義のもとでの労働力所持者の人格的自由は,社会・共産主義に発展的に 継承される,というよりも,むしろ,そこで発展的に克服される,というペ きかも知れない。こうして,この第
1の条件は,社会・共産主義のもとで,
ある意味では存在するし,ある意味では存在しない。
だから,社会・共産主義のもとで労働力が商品となるための必要かつ十分
66 (684)
社会主義のもとでの労働力範疇(
1)(長 砂 ) な条件が欠如していることには,議論の余地がない。
したがって,社会主義のもとで労働力が商品である,と主張する見解は,
たとえごくかぎられた論者たちのものであっても,検討に値する。そのよう
(4)
な見解の代表者はヴェ・コルニエンコ
([6]〜
[8])である。彼は,社会主 義のもとで「労働が商品形態で現われる」ことを指摘し,そのような「場合 には,現実には労働力が商品なのである」
(C6JCTp. 30),と述べ, また,
社会主義のもとでは, 「動労者と社会とのあいだの交換は,商品・貨幣的諸 関係の形態をとっておこなわれる」 ( [ 7
J CTp. 9 10),と述べている。当 然のことながら,この見解ははげしい批判の対象となった。
いく人かの批判者たちの要約するところによれば c c
3 J CTp.93, C 5 J CTp 85, C32J CTp. 31),コルニエンコの労働力=商品説の論拠は,つぎのようで
ある。①社会主義のもとでは商品生産,商品・貨幣的関係が存在している。
R労働に応じた分配が貨幣形態をとって,すなわち賃金形態でおこなわれて いる。⑧商品である生活手段の消費によって労働力が再生産されている。④ 労働力の「雇傭」という現実が存在している。⑥労働力は勤労者の個人的所 有となっている。
(5)
以下これらの論拠を検討しよう。
①社会主義のもとで商品・貨幣的諸関係が存在するかぎりは労働力も商品 として硯われるのであり, 前者を認めて後者を認めないのは論理矛盾であ る,とする論拠は正しいであろうか? まず第
1に社会主義のもとでの商品 生産, 商品・貨幣的諸関係をどう把握するかが大問題である。われわれの 見解によれば,社会主義的生産は本質的かつ規定的には直接に社会的な性格,
をもっており,その商品的性格なるものは補助的・補足的な意義しかもって いない。だから,われわれは,生産物だけでなく労働力さえも商品と認める
(4)
ソ連以外にもこのような論者が存在する,といわれる。たとえば,ハンガリー のテ・リシカ,プルガリアのゲ・コストフ(〔
3J
CTp. 92を参照のこと)。
(5)
労働力商品説への反論としては,
(32JcTp. 3134, C 3 J crp. 9298,〔
5J crp.8587, (17J crp.130134, (23J cTp.78,などをみよ。
社会主義のもとでの労働力範疇 ( 1 ) ( 長 砂 )
(685) 67ことによって,社会主義的生産の本質的性格を商品的性格に帰着させてしま うような見解には同意できない。第
2に,商品生産が存在するところかなら ず労働力が商品となるわけではない。歴史的にも論理的にもそうではない。
商品生産が労働力を商品にするのではない。商品生産は一般的前提とはなる が,生産手段と生活手段からの直接的生産者の「自由」こそが,労働力を商 品とするのである。だから,なんらかの意味で社会主義のもとでの商品生産 あるいは商品・貨幣的諸関係の硯存を承認することと,労働力を商品とは認 めないこととは,けっして論理矛盾ではない。第 3に,だが,本質的に非商 品である労働力と現存する商品・貨幣的諸関係とがまった</無関係であるこ とを意味しない。後者は,直接に社会的な労働力に,その運動の諸段階にお いて,種々の商品・貨幣的形態を付与する。たとえば賃金形態など。しか し,このような形態は,労働力自身がなんらかの商品的性格をもっているこ との現われではない。われわれは,社会主義的生産(物)の 2 重性—直接 に社会的な生産(物)と非本来的な商品(生産)との統一一を承認する立
(6)
場にたつが,労働力については,たとえ補足的・従属的であれ非本来的な商 品的性格を認めることには同意しない。われわれのいう社会主義的労働力の
(7)
2 重性ー一直接に社会的な性格と相対的な個人的・集団的孤立性との統一 一における相対的な個人的・,集団的孤立性とは商品的性格と同義ではな い。このことは論理矛盾ではない。生産と生産物の性格規定と労働力の性格 規定とは,すでにみたように,異なった論理次元の問題である。
R社会主義のもとで労働者が賃金を受けとっていることは,労働力が商品 として売買されていることを意味する,という論拠は成立しない。周知のよ うに,社会主義のもとでの賃金は,労働力の価値の貨幣的表硯ではなく,必 要生産物の基本的な部分が,社会主義のもとでの商品・貨幣的諸関係の存在 に規定されて,労働に応じて分配されるさいに受けとる貨幣形態にほかなら ない。また,貨幣形態それ自体は,等価的交換を規定しない。さらに,分配
(6)
拙著『社会主義経済法則論』,青木書店,
1969年,第
3章第
1節 。
(7)同 上 ,
pp.177179.68 (686)