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フランス革命における保護主義(2)

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(1)

フランス革命における保護主義(2)

その他のタイトル The protectionism during the French Revolution (2)

著者 吉田 静一

雑誌名 關西大學經済論集

巻 8

号 4

ページ 253‑275

発行年 1958‑12‑20

URL http://hdl.handle.net/10112/15621

(2)

は︑たしかに︑事態の展開の核心をつくことができたと言えよう︒事実︑

的展開ー←その必要な経過点としての英仏通商条約の破棄へと︑事態は︑急テンポで旋回したのである︒この保護

主義政策への急旋回を例証するためには︑

フランス革命における保護主義︵吉田︶ ということであった︒

その時以降︑未だ陽の目をみることがなかったとはいえ﹁航海条令﹂の この方向に沿ったその後の動きを︑

それを契機として︑保護主義政策の急激 いち早く新関税率設定のなかに読みとったヘクシャー 当時の具体的課題からするならば︑

̲

一七九三年三月一日交戦諸国からの輸入禁止令

③︱七九一︳一年九月ニ︱日の﹁航海条令﹂

一七九一年二月の新関税率設定のなかにすでに深く潜在していた︑とヘクシャーが認めえた﹁新しい傾向﹂とは︑

一七八六年の英仏通商条約がおよぽした﹁有害な諸影響﹂を軽減︑

(2) 

フランス革命における保護主義︵二︶

いや払拭する

(3)

(1) 

フランス革命における保護主義︵吉田︶

( 2 6 )  

草案がくり返しねられていたという事実をあげるだけで充分であろう︒しかし︑

実を指示する指標を︑二︑三まえもってあげておくならば︑

一七九一年四月二四日—五月一三日、

日︑ドゥラットル︑農業︑商業委員会に﹁航海条令﹂に関する報告ならびに草案を提出︒

日︑ドゥラットル︑議会において﹁航海条令﹂に関して報告︹しかし︑当時議会においては︑

易港問題をめぐって︑保護主義者と自由貿易主義者との間に激しい論戦がたたかわされていたため︑

容そのものは︑ほとんど無視されたに近かった︺゜④さらに︑

(27) 出禁止措置︒⑥そして︑

いま少し史実に接近して︑

タバコ貿易をフランス船のみに制限する法令︒⑫

この期間に数度にわたって出された若千の商品の輸

一七九三年二月︑敵性商船の出港停止処分︑敵性商船の拿捕命令︒

これらの指標は︑保護主義政策への傾斜が︑底流として存在していたことを指示するものではあって

も︑それが積極的に実際の政策としてうち出されはしなかったことを逆に指示している︑と言えよう︒事実︑

にふれるように︑保護主義政策の底流が︑現実の政策としてその姿をあらわすことは︑経済的自由主義者がその指

導権をにぎっていたジロンド政権のもとにあっては︑きわめて困難であったのである︒したがって︑もしわれわれ

(2 8)  

が︑たとえばルフェーヴルのように︑現実の政策としてうち出された指標にのみ目をとどめるならば︑この時期に

おける保護主義政策への急旋回という基調を︑見失うことになるであろう︒そして︑かりに︑

現実の政策としてうち出された指標のみから︑保護主義政策の展開をとらえあげようとするならば︑その前に若干

の保留をつけ加える必要があるであろう︒その保留というのは︑第一に︑これらの指標は︑敵性諸国への原料輸出を

禁止し︑のちには敵性商品・商船を報復的に排除することを指示するものにほかならず︑革命期の通商立法が明らか

(3) 

その事

一七九一年九月ニ︱

一七九二年三月二五

のちにふれる自由貿

この報告の内

さきの諸指標のうち

(4)

は︑それとは逆に︑

に帯びていた二重の側面ーーl敵性商品・商船の報復的排除による敵性諸国への経済的打撃およびフランス産業に利

( 2 9 )  

益をもたらすべき積極的産業保護政策—ーl

の一方のみを標示するにとどまっている、ということである。この意味 では︑現実の政策として出されたさきの指標は︑敵性諸国︑とくにイギリスにたいする経済封鎮を志向するものと

して読みとることはできても︑必ずしも︑積極的な保護主義政策の展開としておさえることはできないのである︒

保留の第二は︑

これらの指標にあらわれた時期は︑国内においては反革命諸国にたいする主戦論が奔流し︑

は非戦論を押し切って︑

一七九二年六月二九日︑すでにい

オーストリアにたいする宣戦が布告され︑排外的感情がフランス国民の間に沸騰しはじめ つつあった時期であったことを考慮にいれなければならない︑ということである︒というのは︑

とにおいては︑積極的産業保護政策に先んじて︑報復的排外的諸手段がとられなければならなかったからである︒

﹃革命第二年の対外商業﹄でのルフェーヴルは︑まさにこうした視点から主題に接近し︑経済政策と排外的政策

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l i t i

q u e  

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e

とを密着せしめているのである︒

敵性諸国にたいする報復的経済封鎮と排外的国民感情に根ざした政策処置ーー

lさきにあげた諸指標のうち現実の

政策として実現された指標のみから保護主義政策の展開を読みとるためには︑

ればならない︒しかし︑

一見報復的︑排外的政策としてみられたものも︑

フランス革命における保護主義︵吉田︶

こうした情況のも

こうした二つの保留を必要としなけ

それは︑あくまでもさきの仮定的問題提起を処理するばあいに必要な保留であった︒事実

のちにみるように︑積極的産業保護主義政策 へのたえざる動きによって︑裏打ちされていたのである︒農業︑商業委員会をその保塁として展開された航海条令 への動きは︑そのことの動かし難い事実となりうるであろうし︑﹃モニトゥール﹄紙に依拠しつつ︑執拗にはられた保

( 3 0 )  

護主義政策要望の論陣も︑充分にそのことの証左たりうるのである︒たとえば︑

(5)

ち早く航海条令の採用をすすめたデュシェールの論説は︑議会におけるドゥラットルの報告とともに︑さきの諸指

標の奥底には︑国内産業の積極的保護政策への要望が横たわっていたことを示すものとして︑きわめて興味深いも

を︑その基底でつき動かしていた基動力は︑むしろ国内産業を崩壊の淵から救い出すことに利害をいだいていた﹁

人民の要望﹂であったことを︑われわれは知ることができるのである︒

それにもかかわらず︑われわれが︑さきの仮定的問題提起にことさらにふれたのは︑それなりの理由があっての

ことである︒というのは︑その問題をさぐることによって︑保護主義をあくまで推進しようとする国民的生産者層

︵マニュファクチュリエ︶の精神状況︑それと現実に政策をたて︑実現していく政治的主体︵当面の段階ではジロンダン︶

との関連性を明らかにしうる︑と考えられるからである︒そして︑そのさい︑前もって見当づけておくならば︑国

民的生産者層のうちにおいては︑保護主義的要求と排外的感情とは︑全く別個の存在ではなかったとしていいであ

( 3 1 )  

ろう︒そのことは︑保護主義政策が︑その完全な姿態をとるにいたったモンタニャール支配のもとでは︑同時に︑

( 3 2 )  

かなり屈折された形態をとったとはいえ︑排外的感情も最高頂にたっしたという事実を考慮にいれた上でのことな

のである︒とするならば︑革命の当初から︑保護主義的要求と排外的感情とは︑ナショナリスティックな運動の一

翼としてそれに連りつつ︑国民的生産者層のなかで︑固く結合していたと︑

ランス国内の国民的諸産業の保護・育成を叫ぶ﹁人民の要求﹂は︑ ほぽ推察しうるであろう︒いわば︑

ひるがえって対外的には︑排外的感情として自

らを表現していたとみることができるのである︒こうした動きは︑言うまでもなく︑

フランス革命が当時おかれて

いた国際的状況︵反革命的挑戦と﹁祖国の危機﹂︶によって規定されていた︒言いかえるならば︑さきの国民的諸産業 のがある︒こうしたより仔細にわたっての検討からするならば︑一見報復的︑排外的としてしかうけとれない政策

(6)

の擁護という志向は︑反革命諸国の挑戦という︑フランス革命が迫られていた国際的極限状況のもとにあっては︑

﹁人民﹂の排外的感情として反射し︑排外的政策として投影されざるをえなかったのである︒とするならば︑

序の維持﹂と﹁反革命陰謀﹂との撃破という名目のもとに︑反革命諸国との一戦をも辞さない主戦論を真向うから

ふりかざしていたジロンダン権力は︑のちにのべるように︑保護主義を原理的にしりぞけていた以上︑国民的生産

者層のもとめるその側面を切り落しつつ︑かれらの排外的感情という反射面のみを汲みあげ︑それを政策として実

現していった︑と考えられるのではあるまいか︒そして︑そのさい︑革命フランスが全世界に誇るべき自由︑平等

というような象徴が操作され︑国際政治における革命フランスの使命が鼓吹されたであろうことは︑言うまでもな

いであろう︒しかし︑国民的諸産業を保護・育成することが︑革命の﹁国民的﹂要望であり︑

ったとするならば︑ジロンド的政策は︑そのゆえにまさに﹁反国民的﹂であったと言いうるのであり︑かれらは︑

擬似的にしか﹁国民的﹂要望を実現しなかったと言いうるのである︒

こうして︑排外的感情・政策の基底をなしていた国民的諸産業の保護・育成という要望は︑

のもとにあっては︑積極的︑真剣にとりあげられることがなかった︑と推察しうるのである︒

ところで︑ジロンダン・イデオローグが︑経済的自由主義

l i b e r a l i s m e e c o n o m i q u e

の擁護者であったこと︑あ

るいは少くとも反重商主義者

a n t i

‑ m e r c a n t i l i s

t e であったことは︑誰しもが異論なしに認めうるところであろう︒

そのさい︑かれらが自らの立場の論拠としていたところのものが︑直接にはアダム・スミスの自由放任主

義であったことは︑およそ推察しうるところである︒こころみに︑ジロンダン・イデオローグの例として︑プリッ

ソーとクラヴィエールとをとりあげるならば︑このことは︑容易に理解されうるはずである︒

フランス革命における保護主義︵吉田︶

一 五

﹁国民的﹂課題であ

このジロンダン政権

(7)

方法は︑人口の増加によってである︒③一国内における貨幣量を正確に断定することは、不可能である。④•金

は︑むしろ不自然であろう︒事実︑かれは︑クラヴィエールと共著で︑

( 3 3 )  

合衆国について﹄をロンドンで出版し︑反重商主義者としての自らの立場を明らかにしているのである︒その主要

パランス・すブ・IVIF貿易差額は︑無

いまはかれ自身の要約にしたがって指摘しておくならば︑それはこうである︒い

意味な言葉にすぎず︑正貨で支払われた差額は︑それを支払う国民の貿易にとって不利であるという証拠にも︑そ

れを受け取る国民にとって有利であるという証拠にもならない︒ーーとの第一点は︑言うまでもなく︑重商主義者

の論拠であった貿易差額論を︑スミスとともに批判したものにほかならない︒②貿易の増大を測定しうる唯一の

属は︑真の富ではない︒ーー'みられる通り︑ここでのプリッソーの論点は︑それぞれ︑アダム・スミスを論拠とし

コ ロ

991たさいにみちびき出されうる系論にほかならない︒こうした原理は︑当然のことながら︑クラヴィエールによって

もふまえられ︑かれの政策立論の基礎になっていた︒クラヴィエールのばあいには︑その論理展開が︑現実の政策

論とのかかわり合いのなかでねられていっただけに︑われわれの当面の課題からするならば︑ブリッソーにもまし

( 3 4 )  

て興味深いものがある︒そして︑そのさい︑われわれは︑かれが︑モスヌロンの航海制限に関するパンフレットに

( 3 5 )  

﹃黒人友の会への公開状﹄第二版︵一七九一年六月︶に附した長文のノートを︑恰好の資料として取りあ

げることができるであろう︒それはまた︑ジロンダン・イデオローグの態度をみきわめることにもなりうるからで

モスヌロンの提案は︑もともと自由貿易港の廃止にかかわるものであり︑内容自体は︑明らかに︑のちの﹁航海 長い期間にわたるイギリス滞在中に︑アダム・スミスの影響を全く受けなかったと考えること

﹃フランスおよびアメリカ

(8)

フランス革命における保護主義︵吉田︶ 貿ことにその保護関税制度と航海条令とにたいする手放しの讃美によって︑特徴づけられていた︒こ

条令﹂の先駆とも言われるべきものであった︒これを反駁するクラヴィエールのノートは︑きわめてポレミッシュ

姿

モスヌロン提案の不備と理論的誤謬とをつきながら、自らの論理をそれにこう対置せしめるーー•O

﹁排他的航海条令

a c t e

de

  n a v

i g a t

i o n  

e x c l

u s i f

は︑困窮︑不満︑詐欺の原因でしかありえない︒イギリス国民

それが有利に仇いてきたにしても︑

無智に基づいてそうなったにすぎない︒もしその当時︑

々しく︑力強い精神をもち︑そして善政をしいていたならば︑条令は︑悪しき政策とみなされていたであろう︒﹂

イギリスのそれであれ︑ それは条令それ自体の功績に基づくよりはむしろ︑他の諸国民の

フランスが︑時勢に先んじて︑クロムウェルに比すべき雄

こうして︑クラヴ7エールにあっては︑イギリス初期資本主義の興隆期において航海条令が果した歴史的役割は

フランスのそれであれ︑航海条令そのものさえ︑自由貿易主義一般と対置せし

められることによって︑否定される︒イギリスの先例がこうであった以上︑文明国イギリスを控えたフランスの﹁

航海条令﹂が︑悪しき政策以外のなにものでもないことは︑明らかである︒したがって︑

クラヴィエールは︑

﹁より以上の自由﹂なのである︒ いま必要なのは︑排他的

こうした論拠に基づいて、当面の問題、モスヌロン提案の論拠に立ち向う。'~

﹁モスヌロンは︑古色蒼然たる理論にぶらさがっている︒排除︑独り占め︑妨害は︑古い辞書のものなのだ︒⁝

イングランドを参考にすることがつねに必要だ︑と考える︒その通りだ︒しかし︑あるばあいには︑

分別に反して行動することも必要なのだ︒隷従的模倣が幸いすることは︑まれにしかないことだ⁝⁝︒﹂

一七八六年条約後のフランスに逆流した﹁保護主義反動﹂

r e a c

t i o n

p r o t

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o n n i

s t e

は︑イングラン 航海政策ではなくて︑

(9)

革命の当初以来保護政策に反対し︑

関税法︑タバコ法等の上程を阻止していた一切の人々を含めてい

立たないこともないであろう︒ て ︑

かれらの政策的脊骨

議会に上程された一切の経済問題を考えるさいの基準となり︑ のことは︑後代の歴史家の誰しもが︑か︑それは保護主義政策に賛成したものであれ︑それに反対したものであれ︑同時代人自らが︑後代の歴史家以上

( 37 )

 

に強く意識していたところのことであった︒経済的自由主義者クラヴィエールは︑保護主義者のそうした側面をつ

き︑そのことによって︑保護主義政策全体を絆り去ろうとしたのである︒

モスヌロンに向って投げかけられた﹁隷従的模倣﹂は︑実はクラヴィエール自身にも投げ返されるべき

ものではなかったろうか︒かれの自由貿易論こそは︑

アダム・スミスの︑

視点となっていたのである︒

かれがそのリーダーであったジロンダン・イデオローグたちの視点もそこにすえられ︑

が︑それによって支えられていたことは︑疑いえないところなのである︒クラヴィエールの保険会社の一社貝であっ

J.B

・セーが︑その間にクラヴィエールに教えられてス︑>︑スを知り︑﹃国富論﹄を研究し︑それに刺戟されて︑

( 38 )

 

のちにはついに﹁大陸のスミス﹂とさえ言われるようになったというエビソードは︑その間の事情の傍証として役

こうしたジロンダン・イデオローグが︑すでに同時代人ドゥラットルによって﹁体系家﹂

ho mm es de s  sys

te me s 

テすリスト

( 39 )

理論家として非難されていたという事実は︑いまのわれわれにとって︑きわめて興味深い︒かれは︑そうした呼称

た︒したがって︑ その評価はともかくとして︑

﹁隷従的模倣﹂にすぎなかったのではなかろうか︒事実︑

この意味では︑ブリッソーにせよ︑クラヴィエールにせよ︑ジロンダン・イデオローグは︑

フランス革命における保護主義︵吉田︶

フランスの国民的産業の幼弱性とその保護の必要性とを抜き

スミスの原理こそは︑最後

( 3 6 )  

一様に認めるところであった︒

いやそればかり 一 八

(10)

らテオリストの後継者にほかならなかった︑と言うことができよう︒そして︑もしわれわれが︑

さらに視野を拡げて︑革命前にまでさかのぼらせるならば︑

発するものであったとすることに︑

さきにもみた通り︑その政策的結果が︑国民

的諸産業への打撃と破壊として立ちあらわれたという︑まさにそのことによって︑﹁反国民的﹂であった︒イギリ

ス産業資本の伝道害﹃国富論﹄における自由貿易主義は︑フランスの国民的産業の成長段階を抜きにして︑歴史的に

ではなく︑原理的に︑

事実そのものによって明らかにされたところであった︒イギリスの近代化が︑

その後者の脊骨を支えていたものが保護主義政策であったということが︑史実的に認められうるとするならば︑当

時の段階においては未だ幼弱なフランス資本主義は︑自由貿易をではなくて︑保護貿易を要求すべき必然性に直面

していたのであり︑

ずのものであったのである︒そして︑

ぞけられなければならない運命をになっていたと言える︒さきにみたジロンダン・イデオローグの﹁反国民性﹂と

は︑こうしたことを内容として含んでいたのであった︒ こうした流れは︑

それほどの困難はないはずである︒

このジロンダン・イデオローグを嫡子とする自由貿易論の系列は︑

フランスの自由貿易論者によってうけとめられたのであった︒そして︑

そのことは︑さらに︑

そうしたばあい︑

フランス革命における保護主義︵吉田︶

ドゥラットルより

八六年の﹁イーデン条約﹂締結者に

その初期資本主義の発展と相伴い︑

それがおかれていた世界経済的情況によって︑二屯に促がされるべきは︑︑︑︑︑︑︑︑︑フランスにおいては︑スミスの貿易政策上の主張は︑しり

さきに︑前もって︑われわれは指摘しておいたーーージロンダン政権の主戦論によって︑他の側面から切り離

されつつ︑国民的感情として一方的に吸収され︑そればかりか主戦論のための政策的基盤をも提供していた排外的感

情こそは︑革命の基動力であった国民的生産者層のうちに︑主戦論によって切り落された国民的産業の保護・育成

(11)

のちの﹁航海条令﹂ フランス革命における保蔑主義︵吉田︶

という側面とともに併存いや結合していたことを︒

一方では、自由•平 革命

1 1反革命戦争の勃発とともに︑それによってよび rivaこうである。!—ー英仏二大強国の対立 モンタニャール政権の政策的基盤を継承したば このことは︑さしあたっての主題から遠く離れるかのようには

みえるが︑しかし︑ここでの主題の底流と展望とを見きわめるうえには︑きわめて重要である︒というのは︑国民的

生産者層のこうした精神状況を背屎としてのみ︑三月一日の法令︑さらに﹁航海条令﹂は成立しえたのであり︑逆

これらの法令︑条令のなかには︑さきの精神状況が集約的に表現されている︑と考えられるからで

こころみに︑三月一日の法令が︑国際的極限状況によって促発されたとはいえ︑

へとなだれこむための槙枠となり︑

体制がその完全な姿態を整えることができたということ︑

かりか強固ならしめつつ︑国民的生産者層のもつさきの両側面を全ョーロッパ的規模において拡大実現せしめたの

コ ン チ ネ

ン ク ル ・

ッ ス テ ム

が︑ほかならぬナボレオンの﹁大陸制度﹂であったことに想いを致すならば︑さきの指摘の重要性も︑ほぼ推察し

うるであろう︒後論との関係上︑

いまいち度再整理しておくならば︑

おこされたショーヴィニズムの渦中に巻きこまれるにいたったのである︒そして︑

等・独立という︑革命フランスが全枇界に誇るべき優越性を示威的にふりかざしつつ︑

ランスの優越性が全世界に占めるべき地位と使命とを自党的に意識することによって︑ それが含む内容と現実的帰

モンタニャール政権のもとではじめて︑保護主義

l i t e

  b e l l i q u e u s e

が底流する状況のもとにおいて強行的に締結せしめられた八六年の通商条約は︑

生産者層間に︑排英感情│←ィイギリス撃滅の感情をすでに醸成せしめていたが︑こうした精神状況

e t a t

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p r i t

は ︑

少くとも国民的

革命

1 1反革命という政治的極限状況のもとに立たせられることによって︑さらに倍加せしめられた︒いわば︑すで

に﹁国民的﹂なものへ多分に傾斜していたフランス国民は︑

そのことが他方で︑革命フ

イギリス撃滅を 四〇

(12)

へ︑氣速に転回したのである︒そしてさらに言うならば︑こうしたいわは国民的感

基軸とする

e x p a n s 1 0 n m s m e

( 4 1 )

こよって裏打ちされてそれ自体︑﹁経済的国民主義﹂  

n a t i o n a l i s m e e c o n o m i q u e

  ̲ 

ま ︑

情としての

e x p a n s 1 o n m s m e ̲ 

(42) いたことも疑いえない︒

革命フランスの優越性が転形されたものとしての

e x p a n s i o n n i s m e

と﹁経済的

プロテクンす一ース︐tそのための政策としての保護主義政策とは︑革命フランスを推転せしめる車の両輪をなしていたので

ない︒事実︑革命戦争の勝利を触媒として︑国民感情は沸騰し︑盆激に

e x p a n s i o n n i s m e

へと奔流したのである︒

あげられうるであろう︒それは︑二つの側面においてである︒ー│上つは︑ そのさい︑三月一日の法令の直接的契機とさえなったベルギー解放︑併合が︑典型的事象としてとり

ベルギー解放︑併合が︑自然国埃説に

基づく国民感情によって正当化せしめられていたということにおいて︑

.への手がかりとして邸識せしめられていたということにおいて︒

e x p a n s i o n   e c o n o m 1 q u e  

V I X

﹁わが国がベルギーに入ると同時に︑国民公会の派辿委員︑接収係は︑マニュファクチュールを点検し︑機械を

( 4 3 )  

併合し︑製造方法に関する報告をパリに送り︑経済的な方法を略取した⁝⁝︒﹂

﹁この法令︹一七九二年︱二月九日︑

恐るべき激動については︑ シェルト河航行の開放に関する法令︺が︑若干の人々の間にひきおこした

フランスではほとんど考えもおよばないほどである︒イギリスの利益が︑オランダのそ

( 4 4 )  

れと同様︑危殆に頻しているということを︑かの国に党らせたるための一切の手段が︑使われはじめたのだ⁝︒﹂

当時の世人によるこの二つの証言は︑ベルギー解放の経済的背景を指示している点で︑きわめて興味深いものが

フランス革命における保設主義︵吉田︶

その激しさは︑その時以来︑みせかけの平和は︑無価値であり︑

革命フランスの経済膨脹 ﹁拙劣な政策﹂でしかありえなかったほどであっ

革命戦争の勝利が︑こうした傾向をさらに励長したであろうことは︑推察するにさほど困難では

(13)

れは重ねて注目しておかなければならない︒ . さきにも指摘しておいた通り︑ジロンダン政権は︑

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pa

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e

ある︒あきらかに︑

ベルギー解放lシェルト河航行の諸国民への開放︹九二年︱一月一六日︑

への移行を意 フランス経済の外延的発展の意図をのぞかせ︑他方では︑

仇敵イギリスの朝を断ち切るべき機会を提供したのであった︒それは︑まさに仇敵イギリスヘの経済的隷属にたい

( 4 5 )  

する﹁強烈な反動﹂であったのである︒さきの証言が示しているように︑このことは︑問題に関心をいだく同時代

人の誰しもが予見したところであり︑しかも︑同じ比重をもって︑問題の直接的反褥として︑イギリスが梢極行動

( 4 6 )  

心ある人々によって予見されたところであった︒こうして︑革命戦争自体は︑その当を開始するであろうことも︑

初から︑政治的国民的動機ーー・言うまでもなく︑

をかかげなければならなかったのも︑ その重要性については見誤られるべきではないーー̲を有していた

英仏通商条約の破棄 いやそれにもまして︑経済的に敵対する二大強国間の軋礫という様相を呈したのである︒イギリスの積

カウンター•アク>ヨンへの反対行動としての三月一日の法令が︑何よりも先ず︑

こうした事態の展開に由来していたと言うべきであろう︒

ただ︑しかし︑後世の歴史家によって︑﹁航海条令に結実した

r e s t

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i o n i

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の揺ぎなき前進にとっての欠くべ

からざる一段階﹂

1 1 ︵ナッスパウム︶として評価され︑事実︑内容的にも︑

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d e e

s   p r

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n s  

図として含んでいた三月一日の法令が︑経済的自由主義のテオリスト︑ジロンダンの政権のもとにあっては︑革命

ことに対英開戦という促迫的条件によるのでなければ︑提出されえなかったということに︑われわ

へと傾斜する国民感情のその側面のみを吸いあげることによって、革命フランスの国民的利益inten~t

n a t i

o n a l

ためにではなく︑ジロンダン的﹁自由と秩序﹂の維持のためにのみ︑'ーーしかも下からの大衆運動によって︑

は︑革命フランスの国民的感情に根ざしつつ︑

(14)

いわば内的動揺を外的冒険によって収拾せんとしていたのであっ

た︒そして︑そのさい︑さきのベルギー解放│←シェルト河開放がもつ経済的背景もまた︑フランス経済を外延的

に膨脹せしめるか︑仇敵イギリスに報復を加えるかの様相を幣びざるをえなかったのである︒のちに︑ルヴァッス

(47) ﹁たんなる報復的手段にすぎない﹂と言うとき︑それは︑われわれ

の言う意味においてのみ︑妥当性をもちうるであろう︒むしろ︑事態の核心は︑

に表現されている、と言えるー~「クラヴィエールとプリッソーとが指導者であったグルー。フにおいては、保護主

義政策にたいする支持を得ることは︑およそ不可熊であった︒したがって︑︹保護主義者デュシニール︺が︑ナショ

ナリスティック・アイデアヘの傾斜を示していた党派に︑自らの地位を見出さなければならなかったとしても︑不

( 4 8 )  

自然ではなかった︒﹂

ところで︑さきにも指摘しておいたように︑三月一日の法令は︑

動にたいする反対行動であったが︑

規定した︑と言える︒

11フォンフレード

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の動議にもとづき︑

の手段﹂をとることを︑

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このことが︑法令が国民公会を通過するまでの経緯をも︑法令自体の内容をも

その経緯を摘記しておくならば︑

仮行政委員会

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に認め︑二月二日︑ガラ

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の動議にも

一七八六年の条約破棄の宣言が︑行政委員会によってなされたのであった︒ところが︑公会では︑仮行

こうした処置をとる権限をもつかどうかが疑問視され︑国防委員会︑商業委員会に廻付されて︑

時間の討論後﹂そこで承認された︒それが︑二月の末のことである︒

フランス革命における保護主義︵吉田︶

一七九三年三月一日の法令を評して︑ 貫徹が動揺せしめられていた段階にあっては︑

﹁国家の利益がもとめる一切の安全と予防 シェルト河開放に促発されたイギリスの積極行

こうである︒ー'│九三年一月三0

日 ︑

つぎのナッスバウムの言莱のうち

(15)

266 

000

に ︑ フランス革命における保設主義︵吉田︶

八六年の条約破棄に関する報告が︑商業委員会︑国防委員会の名において︑ブリュテル

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ってすすめられた︒その報告は︑冒頭から︑

﹁一七八六年の通甜条約の惨めな影響をうけて︑長い間抑圧されたフランスのマニュファクチュールは︑

以来︑条約の破棄ないしは改正を要求したが︑空しかった︒共和国の到る処から出された多数の陳情害が︑諸君の

( 49 )

 

商業委員会に提出されている︒﹂︑︑︑︑︑︑︑ところが、何よりも先ず「政治上の諸理由」を重んずる衣憲議会は、さきにも見た通り、この条約ー—'それにつ

いては︑フランスの裔業は︑与り知りさえしなかったのだーーーの条項のみを云々し︑加えて︑きわめて長期間の敵︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑対的両国を︑平和の絆で結び合せようとするレヂスラティーヴの熱望が︑この大問題の論議を阻止してしまったの

であった︒しかし︑

の産業

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s の犠牲をつづけていくことはできない︒

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を︑現実に︑駆逐ないし衰滅せしめた条約︑

までー│すなわち︑ この根深い問題にも︑

フランスの産業を抑圧する通商条約を非難して︑こうのべているーー10

メスを加える日が来たのだーー

̲ 0

この条約に迎背した今日︑

フランス共和国は︑もはやこれ以上︑国民

フランスにおけるイギリスからの輸入を︑

00

00

0リーヴルに︑

000000にまで高まり︑他方︑

の最高は︑三六︑000000

すぎなかったのだーーー増大させた条約︑ この三年間を通じて︑

そのうち︑製造品

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000000

そして最後に︑他国を苦しめると同時に︑不正で︑不得策で︑

国民的産業

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を破壊する条約を︑破棄しなければならない︒﹂

一七八八年には︑六三︑000 つぎのところに フランス共和国は︑ 四四

その時

その製造業

(16)

(4)  (3) 

︱二彩の関税しか支払われなかったのである︒が︑イギリスからフランスに輸入されるさいには︑

アンジュスト第二に︑通商条約は︑不正であった︒なぜなら︑その製品についてはイギリス人もフランスの優秀性を認め

ざるをえなかった絹織物は︑条約規定のうちに含まれず︑また︑イギリスがその自然的優位性をかちえていた羊毛

および︑かれらイギリス人が当時の段階の機械をもってその生産の優越性を確保していた綿布の︑フランスヘの流

通商条約は︑また不得策でもあった︒というのは︑フランスの商業が輸出する以上の商品を︑

致し︑その結果︑国家は︑外国の負債に喘ぎ︑正貨を減少せしめたからであった︒ フランスに誘

ところで︑最後に︑それは︑国民的諸産業の利益に反していた︒というのは︑ブルュテルによると︑

フランス革命における保護主義︵吉田︶ 入を︑かの条約が許容していたからである︒

(2) 

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e s は ︑

二六彩の輸入関税を課せられたにもかかわらず︑

同じ商品 の対象については互恵関税

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がとられていたにしても︑

関税

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率の負担をうけないことを意味するー~の保留が規定されていたからである。染色ないしは着色織布 少くとも同 その他に︑傾斜

(1) 

不正であり︑③

的にはどういうことであったのか︒今少し内容に立ち入ってみることにしよう︒

プリュテルは︑先ず第一に︑ 不得策であり︑④ プリュテルの報告のこの箇所で︑われわれは︑八六年の通商条約がその内に含み︑その結果として︑こうむった四つの被害︑不利益を︑見出すであろう︒すなわち︑

一切の国民的産業を破壊する︑という四点である︒それでは︑それは︑具体

八六年の通商条約が︑他国を苦しめるものである︑とする︒というのは︑若千

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イギリス商品がフランスに輸入されるさいには︑ 他国を苦しめるものであり︑② フランスが

(17)

︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑﹁諸君の委員会は︑したがって︑つぎのように考えたーー̲︱七八六年の通商条約を破棄しなければならないばか

りではなく︑なしうる限りのあらゆる手段を使って︑共和国と戦争状態にある国々との通商をも︑妨げなければな

らない︒それは︑かれらの政府の野望が︑正当な動機なしに︑何らの国民的利益なしに︑かれら人民を誘いこむ悪

︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑

の重みを︑全人民に知らしめるためである︑と︒﹂ フランス革命における保蔑主義︵吉田︶

からであるー~正貨の総批は、需要羅に正比例する、ところが、

ンス裔品の購買から引きあげられ︑

約が国民的産業と相反するその原因は︑

の確保という問題が︑かかわりあっていた︒というのは︑

ガラス製造業において︑他の如何なる国の追随をも許さない優越性をかちえたのは︑イギリス国内に︑すぐれた原

料市場が存在していたことと無関係ではない︒というよりも︑

とづいて言うのだが︑イギリス人との競争において︑

らではなくて︑

﹁なぜなら︑経験にも

アンデュスト

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フランス人が立ちおくれているのは︑産業が欠如しているか

(50) イギリス人と同じ価格で原料を獲得することが不可能だからである︒﹂

八六年の通商条約が︑

イギリス裔品を購買する正貨は︑

フランスの産業は︑販路を失って︑衰滅していく︒しかし︑通商条

そこにだけあるのではない︒その他にも︑

そのことが決定的であった︒

フランス産業におよぼした弊害と︑ その分だけフラ

フランス産業のための原料市場

ことに︑羊毛業︑厚薙紗製造業︑陶器業︑

そのよってきたるところを明らかならしめ

ポリテイークつつ︑ブリュテルは︑通商条約の破梨こそが︑革命プランスの自主と正義と政策とを回復︑維持し︑同時に︑それ

をその華底において支えるべきはずの国民的諸産業を救済︑発展せしめることになるのだ︑ということを暗に仄め

かしたのであった︒そして︑かれは︑この報告をこう結んだー│贔0

ここでは︑八六年の通商条約の破菓と交戦賭国との通商阻止とが︑フランスの国民的諸産業を回復︑

(18)

269 

フランス革命における保設主義︵吉田︶ に輸入されえざること︑反すれば没収⁝⁝︒ 通商条約は︑廃棄される︒ 発展せしめるという意図をうちに含むものとしてばかりではなく、革命フランスの正義ー~それと千文を交える諸政府の悪を︑全人民に知らしめることをも意図していたことが︑看取されうるであろう︒まさに︑革命フランスの

ンムポル正当性その象徴としての自由•平等・独立ーとフランスの国民的諸産業の擁護とは、通商条約の破棄を要求

し︑推進した国民的生産者層のなかで︑しっかと結び合わされていたのである︒

さて︑ブリュテルの報倖を通じて︑われわれは︑八六年の通商条約の破棄が︑たとえ直接的にはイギリスの反革

(51) 命行動に促発されたものであったとはいえ︑革命フランスの世界史的優越性に哀づけられた広汎な排他的国民感情

を背景としつつ︑革命フランスを基底において支えるべきはずの国民的諸産業と国民的生産者層の利益に沿ってな

されたものであったことをみた︒

せしめるべき橋頭堡を︑ フランス革命の基動力11圏民的生産者層は︑

ここに築きあげたのであった︒そのことは︑何よりもまず︑法令それ自体のなかに︑見出

されるはずである︒法令は︑ブリュテルの報告にもとづいて提案され︑原案通り可決された︒

﹁国民公会は︑商業委員会︑国防委員会の報告を聴取したのち︑共和国にたいして同盟せる諸国の敵対行為は︑

以前の諸条約に違背するものであることを考應しつつ︑

第二条︑現法令公布の八日後より︑外国から来る︑ つぎの法令を出す̲│0

第一条︑旧フランス政府と︑共和国が現在交戦中の諸国との間に締結された︑現存のあらゆる同盟条約もしくは

ビロードおよび綿織物︑

カシミヤ織の名で知られている毛織

物︑ある種の洋品雑貨︑光沢鋼のエ作品⁝⁝等は︑裔後︑海上を経てであれ︑陸上を経てであれ︑共和国の頷域内 こうして︑自らの利害を政策に反映

参照

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