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「表現の場としての都市社会」

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「表現の場としての都市社会」

―幼児教育における「社会」概念の再検討のために―

原  野

 幼児教育のいわゆる6領域の一つである「社会」を再把握しようとする時,都市社会と のかかわりをぬきにして語ることは許されない。工業先進国にかぎっていえる事ではある が,都市はまさに「全般的生活様式」となっている(1)。階級分化は一層進展し,人口のプ

ロレタリア化と都市への集中があり,農村人口の激減と,その減少した農村の人々も都市 的な生活様式の中につつみこまれてしまっている。かかる都市社会は工業社会の産物であ りながら,その論理を大きく超える要素を洞察させる場としてある。なぜならば,複葉に 従属してきた「生活する事」が,その従属的地位をふりすて,少くとも工業的側面への対 抗力として自らを主張しようとしており,その契機を「集積」という特徴によって創り出

してきたのが都市社会であるからである。1         以下の小論は,諸々の都市現象を通して,都市社会に「生活するもの」としての自覚の 論理を入手するたあの試みである。幼児教育においても個々的な問題としての都市現象が 語られる事があっても,総体としての都市社会からのアプローチは目下のところ皆無であ

るに等しい。

A 工業化への還元を拒否する都市社会

〔1〕西欧型近代社会は,テクノロジーとデモクラシーとを二大支柱とする。言論・学問 の自由は科学上の諸発見,謬見の訂正に不可欠であり,科学,技術は自由を更に発展させ るという俗見は,一種の信仰めいた力を獲得して,分業のため分断化された諸領域をとり まとめていく力を隠然として主張しつづけている。帝国主義段階のイデオロギーである実 験主義・操作主義は,工業化による人間の疎外などという問題をもマイノリティーとして 排除もしくは併呑しかねないようである。

〔2〕だが工業の「民主的」管理のあり方は今や抽象的次元を越えて,「生活する事」の 中から根底的に問い直されている。テクノロジーと民主主義の調和の幻想は種々の難問

(破滅的な軍事技術,人類の生態学的な危機,生活機能の阻害等)の前で挫折し,新たな 統合原理への渇望を生んでいる。「生活する事」は,果して代表制民主主義を通じて実現 可能なのか,という問は従来の生活空間が抽象的にすぎなかった事を意味している。それ は個々人の成長の諸問題,欲望と欲求との間の葛藤等が具体的に投影される空間であった だろうか。都市社会を有効にコントロールするために,と称して操作化された空間は抽象 的なものにすぎず,「生活する事」は残余のもの,従属的なものとして捨象されはしなか ったか。官庁や専門家により技術的な理由で採用され正当化されてきたこの操作化は,具 体的な「生きる事」を抽象化し,抑圧する一種のイデオロギーを含んでいるようである。

〔3〕我々は工業生産を中心とする社会に拘束された日常性を超える事が出来るか。日常

(2)

化された美醜,善悪は,機能的要請をすべてに優先させ,具体的生活に座標軸をとること に後めたさを感じる秩序感覚のもとにある②。

 農業中心の社会においては共同体の生活空間は強度の個別性と質的性格をもっており,

命名された空間は具体的な生産の場と極めて個別的に密着している。かかる特殊性を工業 化は同質化する。各分業の特殊性は市場での交換に従属しなければならない。伺質性の優 位,即ち交換価値の使用価値に対する優位は,「法」 「理性」の内実を量的なものへと変 質せしある事によって,分業の合理的編成のための上位者として措定する(3)。技術的可 能性や最少の予算イコール現実性等という日常感覚はかくして工業社会全般に定着する。

有効性,能率という量的尺度は物神化される。一切が量化の浸蝕をうけるため,質的区別 が,分断隔離と同義になることを妨げることが出来なくなる。

 従って,自らが統合点であり,正当性の源泉である事を主張しうるシステムは,分業の 不均等発展の上に調停者としてかかわり,有力な分業部門による他の諸部門の同質化(支 配化)を正当化しているものにすぎぬ事は明らかである。この調停者は支配的イデオロギ ーの源泉として振舞うことも是認され,日常的意識や知識の秩序だてや生活空間の編成を 公的権力の行使として社会に受入れさせる。この秩序に適合しない部分は残余にすぎず,

排除されるか支配されるべきものだと通念化される(4)。

(4〕従って問題はこうなる。この分業の統合,調停者として通用してきた「法」「理性」

「国家」等のものを相対化しうる社会が現出しつつあるか否か,という事,これである。

「国家」による道徳教育等という構造すらも何ら疑問視ざせぬ「法」「理性」「技術」への 物神崇拝(5)を相対化しうるものは何か,つまり,同質化を拒否し,個々の質的差異を強調 しうる社会的マトリクスは現出しつつあるか,という問いかけ一都市社会がそれに応え

うる。

 都市社会は集積を最大の特徴とする。その中での「出会い」や様々な形での「群集」の 成立は,個々の対立,葛藤を通じて新たな媒介を模索する。それは工業化に見られる同質 化による個別的な事象の抽象化ではなくまさに「媒介」の名に値するものの模索である。

個々の要素の質的特殊性を保存しうる,より根底的なレベルでの統合の追求である(6)。あ る領域が,他の領域との対比(もしくは対立)によって規定され,この規定がより根底的 なものたりうるには,上方と下方との深層部分が洞察される(7)。それはモニュメントとし て,その社会を統合する。かかるモニュメントの多数性,並存性一これこそが都市社会 の特徴である。

(5〕別言すれば,都市社会とは個別者がそれぞれ「原点」として振舞える可能性をもつ 場でもある。集積としての都市社会は,その集中をきわめて突如として行う。多様な要求 が極度の流動性をもって緊張を高め,要求される対象の不在を耐え難いものとして,既存 のものに対する明らさまな侮蔑により,絶えざる変転を常態化する。異質性,特殊性が特 に痛感される。既存のもの一操作的思考の延長によってこの要求を満たそうとする試み が次から次へと行われる。日く都市計画,最少の予算による福祉の増進等。このエ業的な 試みが,たゴ同質的な時間一空間をつくり出すにすぎぬことを見ぬくには,日常性を超え る深層部分への洞察力が要求されるのである。かかる意味で個別者が「原点」を求める場 として都市社会がある。

〔6〕現代における都市を工業社会の成熟だとする見方がある⑧。農業社会を成立させた

(3)

技術とは質的に異る技術システム(人力,畜力から動力へのエネルギーの転換と分業の拡 大による産業の組織化の進展)を工業社会が有する,という事を指標にしてかかる発言が 行われれる。だが,都市を工業社会の成熟した生活様式だとすれば,どのようにして「都 市への工学的幻想をうちくだいて市民の都市を構成しなければならない」と提言出来うる のか。 (1)市民的共和観念 (2)市民的参加手続 を二大支柱とする市民的自治への志向⑨ も工学的幻想の中にとりこまれない,という保証は何か。なるほど松下氏がいうような

(1)自然の回復 ②自由の確保(1① がチェック・ポイントになりうるようにはみえる。

 しかし問題は都市社会を工業化によって規定するところにある。現代の都市社会が工業 化の結果(望みならば成熟と云ってもよい)生み出されたという事は正しいにしても,都 市社会から工業社会が規定される,という方向がとられないかぎり,工業化への外在的批 判としての性格が都市に帰せられるにすぎなくなる。そのかぎりでは工業化の幻想の中に 都市社会の諸問題が還元され,再び都市的現実に対して盲目になる,という事を防ぎ得な い。社会生活が経済的生産の従属物になりさがるというような見方は,「工業化の成熟と しての都市」という発想からは生れ得ない。かかるとらえ方では都市社会を犠牲にして自 己目的化する工業化に対抗する事は出来ない。松下氏がチェック・ポイントとしている

「自然の回復」にしても,確かに工業化を単に生産様式の面からのみ促えたものではな く,工業そのものの自然とのかかわりをその視角にとらえているようには見える。だがカ リカチュアライズされた自然の回復を如何なる論理によって拒否するのか。シビル・ミニ マムそれ自体が手段たる工業化の前に差出された目的のカリカチュアとなる事を防ぐ指標 がここからは生じえない。

(7〕都市社会が「媒介」的であるという事は,都市が作品とならぬばならぬ事を意味す る(11>。諸存在を即物的に集合させたものが都市ではなく,それらを社会的諸関係のたえざ る再構成の中に組織化してゆくことが都市社会なのである。都市は空間の中に書き込まれ たテクストして,そを空間一時間の質的差異を読みとれる場として喰えられる時,都市社 会といいうる。なぜならそれは都市を作品として読むことであり,従って日常生活を芸術 の下位におくことではなく,日常生活それ自体を作品化することを意味するからである。

かくて社会生活は自己目的化される。なぜなら作品とは目的であり,時間一空間の自己 内化であるからである。それは他による代弁を否定し,自己の時空を形成する個別者とな る。「自主管理」の源泉はここにある。J. Deweyが質的経験の完成は日常生活の高度 化にあり,これこそが「参加」を可能にする社会を形成するものであり,ここに日常経験 の芸術化が実現する(②,という文脈を彼の初;期操作主義克服の手がかりにしだ意味も,こ

こにある。

B  「市民の都市の構成」について

〔1〕それでは自分自身に時間一空間の原点をもつ人間像とは何か。ここで提起されるの が現代版「市民型」人間像である。それによれば工業的生産力の増大は,余暇の享受人 山を拡大し,それだけ自律的市民の形成の条件が生れた,というわけであり,各自の処 理可能な時間の増大による生活の多様化をどう組織し統制してゆくか,という問題の中か

ら新しい自律的市民が出来る,というのである。松下圭一氏によれば「この市民的人間型 とは,自由・平等という共和精神をもち自発性ある市民倫理をいう。今日の工業先進国に おいて,この市民倫理が労働者階級の生活倫理となる条件が生れてきたのである。レー二

(4)

ンが経済主義的階級規定をこえて階級の 精神的風格 乃至 文化水準 とよんだ論点が これである⑬」という事である。即ち労働者階級が実質的担手となった市民倫理が現代版

「市民」的人間像なのである。「文化革命」はここに位置づけられるとする。

(2〕この「市民」の内実を検討してゆく指標は一体何であろうか。都市社会を全般的生 活様式と見る事で,従来の農村と都市との対立という基本的矛盾の段階は歴史的に過去の ものとなった,という認識は「市民」像論者にも確かに踏まえられている。農村は郊外と して都市の周辺物とされ,都市に内在する問題領域と化した。全社会が都市化にくみこま れる時,都市社会内部での序列分化,収奪構造の造成,再編成が当然進行する。例えば地 価の上昇による不平等はそれにより資産増額をはかりうるものとそうでないもの(むしろ 様々な負担を強いられる者……長距離の通勤,狭い家屋等)との較差を生み居住地の分断 を生む。巨大都市の過集積を避け,その周辺地区に進出する企業群も,その内実は巨大都 市ではたちまち問題化する行動を周辺地に拡散しているという場合が多い。都市内部での 植民地的空間がつくられつつある。

〔3〕この都市社会内における較差,隔離,差別をこの「市民」倫理は果して捉えきれる のか。即ち都市の「媒介」的性格を変質させ原子的諸個人として住民を個別的に分断した 上での等質化をおしすすめ,かかる隔離,分断への対抗力を無力化することを理論的一実 践的に明らかにしうるだろうか。

 現代においては分業はもはや自律的に機能することは出来ない。国家による組織化が必 要である。だが個別者の「生活する事」は国家による同質化に裂け目をうがつ。社会とい うレベルはこの裂け目の増幅機能を担うか,それとも国家による等質化,原子的個別化に 従うか,という対立をめぐる戦場となる個。この戦場を「市民」像は内化出来ないように 思われる。市民像は,それが「生活する事」が起点となる以上,それは無限の課題性を生 み,かつどの課題も緊急性に富むものであるがゆえに,緊張感ある 「永久革命的」内容 を獲i得出来るものとして提示される㈱。だが,この「生活する事」から無限に発生する 要求,意識化,gapの形成は単に都市住民の側に有利だとは即断できない。それは国家 の企てにも十分利用されうる。それは国家が物財のみならず,情報をも独占しうる立場に あるからというだけではない。まさに社会生活自身が国家によるこの裂け目の調停に一役 買うのである。建築家は,その注文主の所得や価値観,世間の規範に応じて仕事をせざる を得ない。しかし,それこそ階級,階層の分断と支配関係を具体化し,固定化している活 動なのである。

 農業社会に見られたように「場を弁える」(場所が役割を規定していたこと)事が意味を 失い,あらゆる場所が空間一時間の原点となりうるという特性を理論上もつ都市社会一 において,この根拠となる「移動」を無意味化する事,これが「生活する事」に対立する 国家の機能である。移動を極度にプログラム化し,意外性を奪い平坦化し,等質化する。

裂け目は発見される前に隠蔽されるのだ。異質性を通して裂け目を見出す所にこそ,シン ボルや遊び,情報が成立するのだが,かかる機会を予め奪おうとするのだ。いずこに行こ

うとも,以前の生活とは少しも変らぬ居住空間一時間づくりのために建築家達は自発的に 仕事をする。わずかに許された変化,意外性は「生活する者」が見出したささやかなアイ デアの剰窃であり,カリカチュアライズされたものである。「科学」を装う権力は,裂け 目が狂気に至る前に,愛すべきアイデアとして賞賛し,健気さとして屡小化し,「大局」

(5)

の一部もしくは気晴らし部分として位置づける。しかもそのようなカリカチュアライズが

「問題の解決」であると信じさせる力ももっている。特に教育権の源泉として自らを位置 づける行為によって。

〔4〕現代版「市民像」が促えきれないのはこの社会の裂け目を通して,運動としての時 間一空間をつくってゆく,という「場所」の意識である。これは旧来の「国→都道府県→

市町村→住民」という下降構造から「市民→市町村→都道府県→国」という都市政策構成 の上昇構造㈱をモデルとするような事を云っているのではない。企業は法人格をもち,一 市民でもある。空間を商品として売買し,かつそこから剰余価値を生み出す人格こそ,都 市空間を分割,隔離し,内部植民地化をはかってゆくものなのである。r市民→市町村→

都道府県→国」という上昇構造を最も有効に昇ってゆけるのは,時聞一空間を剰余価値を 生み出すものとして利用しうる者だけである。日本における資本主義の発展が権力先行型 という特性をもつ事,更には現代の公権力が一般的にJ.バハーマスのいうように「操縦の ための統合原理」へと「公共性」の観念を転換させたという理由からも,この上昇構造に 下降構造を対置させることにも一応の有効性はあるだろう。たしかに,操縦のための統合 原理へと変質させられたからといって,公共性の観念には市民の意志決定への参加という 本来の意味は保有されているわけであり,その統合と参加のgapにくさびを打ちこむ事 は戦略としても正しいものを含んでいよう。だが,次のような指摘が市民の現実をなすの である。r法人(資本)は地域の開発の諸政策一法律で,あたかも人格を有するもののよ

うに権利,義務をもつ(法人格)のに対し,なまみの人間は人格ある権利者として生活空 間や生活者としての土地利用,所有の関係にあらわれてこない。これが生活空間の環境問 題の現実である㈲。」

C 生活の分断・隔離の止揚の論理

〔1〕追求さるべきは生活の分断・隔離をもたらす動きに対し,生活を全人格的なものと して捉えかえす否定の根源を見出すことである。この否定の根拠により既存のものの変形 transformationを行うためには,より根源的なradica1な否定の現実的マトリクスを探 求しなければならない。それは次の3つの指標において行われる。

  (1)絶えざる異議申し立て。

 ∫

/ll;膿惚無;萌二親鐸野.

 (1)異議申し立てについて……分断・隔離は社会的分業の特殊な編成法である。即ちそ れは目的一手段関係の固定化を意味する。下位レベルに固定されたものは上位レベル者の 手段である。だが如何にこの関係が固定されるとはいえ,その首尾一貫性は一枚岩的に定 着しうるものではない。既存の目的一手段の関係の亀裂にメスを入れ,この関係の再検討 や目的一手段の転倒を行うのが,異議申立てである。この異議申立ては従って目的一手段 の連続性の正当性を主張する計画の「科学」のもつイデオロギー性を明らかにする場を提 供する。都市が都市「社会」たるゆえんはまさにこの目的一手段の関係に個々的にかかわ る「媒介」的役割を果すからである。ここでは媒介とは外的手段をさすのではなく,目的 語は結果と合体した手段をさす。即ち目的一手段の関係の再検討の場を媒介といっている のである。この「媒介」なる角度から都市を読めば,そこには,単なる手段(単なる受身

(6)

の享受者,消費者等)たる地位に疑問を持ち,目的々な立場を争って,自発的グループを 形成し,力の拮抗を自己に有利に展開しようとする人々も見る事が出来よう⑬。

 (2)科学におけるイデオロギー性の究明……分業の組織化は時々刻々に様々な形で行わ れるとはしても,各部分のエネルギーを出来うるかぎり高度な形で解放する事が必須の課 題として統合を担うものにかかってくる。統合点は次の二面の統一としてあらわれざるを 得ない。即ちartisticな側面とestheticな側面との統一としてである。 artisticな要素 は所与の内容に一貫性のある形式を与える活動である。つまりこの側面は出来るかぎり多

くのeventsの内容の特性を捨象する事によってそれらを包摂しうるような一般的な形式 をつくり出す活動である。これに対してestheticな面は内容的である。それは行為にお ける選択の質的側面を意味する。それはesthetic suffering(受苦的)であり,選択の苦 痛を明らかにする。特定の選択を行い,一定の観念を受け入れることは,他の行為の断念

を意味する。

 このartisticな側面とestheticな側面との統一として統合点を見定める事は,科学に おけるイデオロギー性を明らかにする。というのは,選択は自らが規定的行為をする際に 導入する否定の契機の根拠を得るためにより上位のシステムによる正当化を行い,その正

当化を通じてこの上位システムの内側に自らの個別性を位置づけねばならぬからである。

つまり選択による断念をそれほどまでに強く意識しなくてもよかった単なる日常的な個別 性を否定して,より上位のシステムから否応なしに命じられる断念を主体的に選びとる,

という事で新たな個別性を獲得する,という苦痛にみちた過程(従って新たな個別性を得 る喜び)は,人々のより厳しい点検を上位者に向ける事を必然的なものにするからであ

る。

 artisticな側面とestheticな側面との統一という事は,抽象的一般性への還元を防ぎ,

また日常的個別性のもつ抽象性へ戻ることを防ぐという新たな個別的一特殊的(媒介的)

な質をもつ場を意味する。この媒介の次元は,上位目的が下位目的(手段)に変換される 場(もしくはその逆の場)を明示する。即ち具体化のレベルを明らかにする。そして(C.

1.Barnardが挙げたような)時間・場所・人間・対象物・方法といった分業の基礎的要素(19 が,明るみに出る場こそ,科学のもつイデオロギー的性格が明るみに出る場でもある。

 (3) 「変革」の意味を明らかにする事……都市政策の「方法論理」として「思考の計画 化」がいわれたりする。この「計画」とは一体何なのか,計画の実行が既存のものの変更 を意味するかぎり,計画の意味をさぐる背後にある「変革」とは何か,という事が明かに されねばならない。少くとも,「計画化」が工業化をおしすすめる最大イデオロギーであ

り,必ずしも「生活する事」に味方するものでなかった事は明らかだからである。工業化 の論理とは異る固有の合理性を都市社会が模索するには,この「変革」の意味が中心課題 として問われねばならぬ。

 H.ルフェーブルはいう。「工業化とその諸結果のく楽観視〉や工業社会における疎外 の慨嘆(アトム化する個人主義やsurorganization)ギリシャもしくは中世の古代的都市 共同体への回帰願望,そういったものに対するく都市の思想〉はもはや問題とはなりえな

い。モデルを標榜するこれらのものは,都市計画的イデオロギーの変種でしかない⑳。」

 ここに問われているのは,「生活する事」からの根底的批判である。日常的個別性への 埋没を拒否し,抽象的一般化への還元をも拒否し目的一手段の結節点における拮抗を意識

(7)

化する事,抽象的一般と抽象的個別と異る具体的個別(特殊)(典型)にまで自らの日常生活 を高める事,これである⑳。個別的な生活の中から,それを下位システムとして位置づけ てくる上位システムの普遍性の借称をあばき,目的一手段の拮抗の場を形成すること,こ れこそ「変革」の意味なのである。

〔2〕一体,「生活する事」を基点とする都市社会での実践を諸表象に置きかえる中から 生み出される「計画」とは何なのだろうか。具体的に云おう。個々の生活者が自らの時間 一空間を設計する能力を予め奪われた状態(たとえば,あれこれの時聞に,どこそこの場 所で子供達と散歩をしたいというささやかな望みすらも,散歩する緑地が手近かな所にな い事,そしてそのような時間も持ちあわせない事等々)の上にあぐらをかき,いわば空白 となっている個々の生活者の頭上に「計画」書をくりひろげる事がそれである。たとえ,

技術者達が,自らの設計をくり広げる抽象的空間として都市をみようとも,その空間はす でに一定の生産関係の反映であり,かつ実体化しているのである。社会的空間であるにも かからわらず,個別的に売買されている,といっているのでない。むしろそれを超えて,

都市空聞の極度の濃密化と再編成そのものによって剰余価値が生み出されるという事の中 に都市社会が問題となりはじめたのである。

 「参加」とは一体何か。一介の「参加者」,空間の購買者たる利用者,単なる「住民」,

彼らをどこにどう位置づけ一機能の担手とさせるか,そのような「計画」が一定のイデオ ロギーを含んでいる事は明らかである。しかもそれが何かを「創造」していると考えられ ているとすれば,生活の隔離・分断の止揚の方向は見失われるばかりである。

〔3〕「生活する事」がその語のもつ主体的意味にもかかわらず,受身の生活しかおくれ ないというパラドクスは何にもとっくのか。交換価値はその論理・言語・日常的気分をす っかり自分のものとしている。都市を設計し計画する者達は,「生活する事」の重みより も,生産諸関係(階級,階層)をそのまま空間的に定着させる設計図をつくる。「生活す る当事者」(それも多分十分な経済力をもたぬ者達)の願望を考慮するほど「非現実的」

なことがあろうか。つまり「生活する当事者」の意図は予め斥けられ受身化されているの である。勿論生活する者の意図に沿う計画もある様には見える。しかしその生活者の要求 もその人間に「ふさわしい」生活を考えるようにと予め指導され,手直しをされている事 が分る。そのように貧弱な生活しか享受出来ないのは本人の責任であり,社会に向って不 平を唱えるすじあいではないと考えざるを得ないようにされて,受身的になる以外にどう せよというのだろうか。即ち,社会的諸関係への視野を予め遮断する機能を科学的な計画 家達が行うとしたら,それは社会の隔離・分断・受身を形成してゆく強力な道具となる。

それは都市の住民を受身化し,管理する道具である。

 D 都市社会と教育

〔1〕都市が都市社会たりうるには,隔離や分断によって諸問題の調停ないし解決をはか ろうとする動きに絶えざる異議申立てが必須の条件である事,即ち「媒介」としての「社 会」性をとりもどすという事,を以上述べてきた。これは表現することを禁止され,沈黙 が強いられ,隔離する事を促す記号の支配下にある日常性をどう打開するか,という事で

ある。

 都市がすぐれて「集積」を特徴とする,という事は,次の事を意味する。即ち諸要素を

(8)

既存の関連づけからひき離し,新たな関連のもとにおくこと,それもその関連づけがきわめ て流動的であるために,諸要素を絶えず新しい関連づけ(意味づけ)の中に見出さざるを得 ない事,従って旧来の構造を否定し再構成する行為はその為の「表現」representation する事が必須の事として求められるという事,これである。都市のもっこの「否定の力」

は「表現」と一対をなすのである。

 自然のままにある状態(未分化・未開発・未熟)に手を加え,合理性を導入する事によ って一定の秩序を生み出すと自称してきた工業社会は一層の分離,カオスを生み出した。

そこにおける教育は,様々な諸関係への表現を禁圧し,工業的同質性のみに意味の支配を 許した。このもとでは多元的な関連づけは不可能となり,工業化への近接度合によって配 置され,隔離される「関係づけ」となった。「関係」のカリカチュアライズがなされたの

である。

 では「抑圧的空間」であるかかる隔離・分離はどういう表現の場を通じて克服されうる か。隔離のもとに否定的identityを背負され続けてきた人々が見出す表現の場の様式こ そそれである。それはまず第1に,自分が操縦される事に馴らされて,しかもその操縦す る者が不可視であるという認識が拒否されるという場である。論争する相手であるとすら 意識されなかった操縦者達を,論争の相手として会合する場の設定である。それは屋内の 会議場であるかもしれぬし,又は廊下であるかもしれぬ,また屋外の広場を埋めつくす群 集の中かもしれぬ。否定的identityを背負わされる人々は,自ら広場を創造しうる。

 第2に自らの否定的identityの源泉を肯定的identityの所有者と見定めうる表現の 場でなければならない㈱。公開の場は肯定的identityの中に憩おうとする人々を,事態解 決のためのagentとして,つまり過去の自分との対決を否応なしに迫られている人間と

して登場させ,苦痛に満ちながらも新しいidentityを模索する人聞としての役割を果さ せるであろう。

 第3にこの広場は旧来の肯定的乃至否定的identityの再検討の場として当事者達の喜 怒哀楽をrepresent出来る場であるが,それは,個々の否定的identityの克服に見え ながらも実は否定的identity一般の克服でもある,という「典型的represe航ative」な

「儀式」でもなければならぬ。それが多数派の「正常な」象徴体系への挑戦を意味する場 でないとすれば,隔離は艶然として続き,変革の瞬間を永遠化するモニュメントとしての 広場の建設は出来ないだろう。

注(1)

 (2)

 (3)

(4)

(5)

(6)

(7)

(8)

(9)

松下圭一 「都市をどうとらえるか」岩波講座「現代都市政策」1,ユ972p.4 J.Dewey:Art as Experience,1934, P.gff

J−P.Sartre:Critique de la raison dialectiqlle,1960, P.56平井啓之訳「方法の問題」

P.87

Henri Lefelvre:La r6volution urbaine:1970今井成美訳「都市革命」p.72

堀尾輝久 「現代教育の思想と構造」,1971

拙稿「J.Deweyにおける教育組織の自律性の根拠」(九州大学教育学部紀要第18集)

青井和夫「社会体系の深層理論」(社会学講座一ユー「理論社会学」東大出版会)1974,p.274

例えば 松下圭一前掲書,p.6

松下圭一 前掲書 p.17

(9)

(1① Ibid., P.21

α1}〈国=語〉批判の会「 都市革命 のためのいくつかのテーゼ」 (Henri:Lefebvre前掲訳の付   録として所収,p.261)

姻 拙稿「J.Deweyの教育学における Art の概念」1972(九州大学教育学部記要第17集)

⑬ 松下圭一 前掲書 p.14

㈹ Henri Lefebvre:前掲訳P.エ12

⑮ 松下圭一 前掲書 p.16

(16)同書 p.22

働 似田貝香門 「市民なき都市」( 現代思想 ユ975年ユ0月号所収)

⑬ 拙稿「組織論の観点からみたDeweyのArtの概念」(日本デューイ学会紀要1975)

(1g C.1. Barnard:The Functions of the Executive,1968, P.ユ29

⑳ Henri Lufehvre前掲訳P.173

⑳ 拙稿「教育組織における自律性の根拠(2)」1974(九州大学教育学部紀要第19集)

㈲ E.E.Erikson:The Concept of Identity Race Relations,1966栗原彬訳平凡社「現代

  人の思想」⑩p.311

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