Title 徳富蘇峰と帝国日本の魂
Author(s) 梅津, 順一
Citation 聖学院大学論叢,19(2) : 168-139
URL http://serve.seigakuin-univ.ac.jp/reps/modules/xoonips/detail.php?item_i d=62
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一、 はじ めに 二、
「 明治 の青 年」 と「 大正 の青 年」 三、 日本 帝国 の過 去と 現在 1
、開 国と 国辱 2
、維 新と 国民 的精 神 3
、帝 国的 自覚 四、 日本 帝国 の使 命 1
、日 本帝 国の 危機 2
、亜 細亜 モン ロー 主義 五、
「 大正 の青 年」 と「 日本 魂」 1
、積 極的 忠君 愛国 2
、「 日 本魂
」 六、 おわ りに
一
、 は じ め に
戦前 日 本を 代表 する ジャ ー ナリ スト 徳富 蘇峰 は、 言 論界 の雄 とし て 絶 え ず国 民を 鼓舞 した 存在 で あっ たが、そ の主 張の 振 幅の 大き さで も 知 ら れる
。明 治十 年代 の末
、急 進 的欧 化主 義者 とし て論 壇 に登 場し た 徳 富 は、 大東 亜戦 争主 戦論 のイ デ オロ ーグ とも なっ た ので ある
。一 九 一 六年
(大 正五 年) に刊 行し た『 大正 の青 年と 帝国 の前 途』 の序 文で
、 徳 富は 本書 が明 治十 九年 出版 の『 将 来之 日本
』、 お よび 明治 二十 年出 版 の
『新 日 本之 青年
』を 改作 した も ので ある と記 して い る。 明治 憲法 の 発 布 を目 前に 平民 主義 の 旗を 掲げ た徳 富は
、こ の時 点 では
、日 清戦 後 の
「力 の 福音
」へ の帰 依を へて
、帝 国 主義 者と して の面 目 をは っき り と 現 して いた
。徳 富自 身の 語 ると ころ によ れば
、大 正 二年 出版 の『 時 務 一 家言
』が 新し い意 見を 赤 裸々 に表 明し たも の であ り、 第一 次世 界 大 戦 の勃 発に 際し て『 世界 の 変局
』を 書き
、さ らに 国内 政 治に 関し て
徳 富 蘇 峰 と 帝 国 日 本 の 魂
―
―
「 大 正 の 青 年
」 の 使 命 を め ぐ っ て
―
―
梅 津 順 一
― 168 ―
『大 正 政 局 史 論』 を 著 し た
。こ う し た 内 外 の 情 勢 分 析 を 前 提 と し て
、
『将 来之 日本
』と
『新 日 本之 青年
』の 改作 と して
、『 大正 の 青年 と帝 国 の 前途
』が 著さ れた ので ある
。 端的 に 言っ て『 将来 之日 本』 は、 内外 の 状況 が平 民主 義 に傾 いて い る なか で日 本の 進路 を指 し示 すこ とで あり
、『 新 日本 之青 年』 は その 新 し い日 本 を担 う青 年の 資質 を 問う もの であ った
。明 治 の初 年、 古い 日 本 と新 し い日 本が せめ ぎ あう
「人 心の 騒乱
」の なか で、 次 代を 担う 青 年 が、 西 洋平 民社 会の
「平 民道 徳
」を 身に つけ
、社 会的 職 分を 果た す こ とを 求め たの であ る。 では
、「 力 の福 音」 に 帰依 し、 自由 貿易 と平 和 主 義か ら離 れた 徳富 は、
「 大正 の青 年」 に 対し てど のよ うな 資質 を求 め た ので あろ うか
。以 下で は、
『 大正 の青 年と 帝国 の前 途』 を 手が かり と し て
、徳 富 蘇 峰の 大 正 青 年へ の 期 待 を浮 き 彫 り にす る こ と にし た い
。 そ れは 帝 国日 本を 担う べき 青 年の 資質 であ り、 帝国 日本 を 担う 精神 的 な 基礎 の探 求な ので ある
。 徳富 の 主張 をあ らか じめ 見 てお けば
、帝 国日 本を 積極 的 に推 進す る
「日 本魂
」、
「 積極 的忠 君愛 国」 が 重要 であ ると いわ れる
。『 将 来之 日本
』 で
「明 治 の青 年」 に呼 びか け た「 平民 道徳
」が
、プ ロテ ス タン ティ ズ ム を 基 盤 とし た 西 洋 市民 社 会 の 道徳 で あ っ たの で あ る から
、「 大 正 の 青 年」 に 示唆 する
「日 本魂
」と い い「 忠君 愛国
」と いう の は、 いわ ば 伝 統へ の 回帰 であ り、 若き 日の 精 神を 脱ぎ 捨て た復 古主 義 であ るか の よ うに 思わ れる が、 必 ずし もそ うで はな い。 確か に蘇 峰は
「 忠君 愛国
」 を 日本 の伝 統的 思想 とし て求 めた が、 他面 では
「 ドイ ツ魂
」「 米国 魂」 に
学 んだ
「 日本 魂」 で なけ れば なら ない とも 言う から であ る。
『大 正の 青 年 と 帝国 の前 途』 の末 尾 で、 徳富 が「 自恃 の精 神」 の重 要 性を 力説 す る と き、 そこ で参 照さ れた の はニ ュー イン グラ ンド の 思想 家エ マー ソ ン であ った
。と すれ ば、 帝国 主義 の「 日本 魂」 には
、「 平民 道徳
」の 遺 産 も 入 り 込 ん で い る の で は あ る ま い か
。こ こ で は 徳 富 蘇 峰 に お け る
「平 民道 徳」 と「 日 本魂
」と の連 続と 断絶 につ いて も検 討す るこ とに し た い。
二
、 「 明 治 の 青 年 」 と
「 大 正 の 青 年 」
青 年 徳 富 蘇峰 は、福 沢 諭 吉 の『 文 明 論 之 概 略』 と『 学問 の す す め
』 の 主題 を継 承し なが ら、
『将 来之 日本
』と
『 新日 本之 青年
』を 書 いた
。 す な わち
、欧 米社 会の 動向 を 文明 論的 に位 置づ けた 上 で、 日本 もま た そ の 進路 をと るべ きこ と、 さら に それ を担 う知 識青 年 の役 割を 論じ て い た ので ある
。そ こに は新 し い社 会を 担う
、新 しい 世代 へ の期 待が 語 ら れ てい た。 徳富 自身 が明 治維 新 直前 に生 まれ
、熊 本洋 学 校か ら同 志 社 英 学校 と、 直接 英語 で教 育を 受 けた 経験 を持 つ新 世 代で あり
、し ば し ば「 明治 の青 年」 と 呼ば れる
。『 新日 本之 青年
』と は、 プ ロテ スタ ン テ ィズ ム の影 響を 受け
、新 日本 の 形成 に参 与し よう とし た 自ら の自 負 を 表 現し たも のに 他な らな い
。そ こに は世 代論 的な ア プロ ーチ が見 ら れ
、社 会 にお ける 青年 の役 割が 意 識的 に記 され てい る こと が注 目さ れ る
。
― 167 ―
蘇峰 は 将来 の社 会が どう な るか は、 現社 会の 青年 を手 が かり にす る こ と がで きる とい う。
「 人若 し日 本将 来の 社 会は 如何 なる かを 問は ば
、
… 彼 の 青 年の 社 会 に 来た り て 之 をみ よ
。そ れ 学 校は 青 年 の 社会 な り
。 試 み に渠 輩が 講読 する とこ ろ の書 籍は 如何
。渠 輩が 風 采は 如何
。そ の 討 論す る とこ ろは 如何
。そ の運 動 遊戯 する とこ ろは 如 何。 その 喜ぶ と こ ろ、 そ の愛 する とこ ろ、 その 憂 ると ころ
、そ の怒 る とこ ろ、 その 悪 む とこ ろは 如何
。… けだ し彼 の青 年な るも のは 社会 の継 続者 なり
」。
「 彼の 青年 なる もの は、 当時 の傾 向流 行を 代表 する に止 らず
、ま た 流 行 の 新奇 なる もの を代 表す る もの なり
。す なわ ち、 社会 流 行の 先登 者 な り」
「 彼の 老人 なる もの は、 社 会に 住す るに もっ とも 古、 且つ もっ と も 久し き が故 に」
、新 し い流 行に は反 発す る しか ない
。「 老 人は 旧き 空 気 に養 はれ
、青 年は 新し き空 気に 養は れ、 老人 は肉 体の 萎靡 とと もに
、 そ の精 神 に退 守の 傾向 を生 じ、 青 年は 肉体 の活 潑と とも に その 精神 に 進 取の 傾向 を生 ず」
。 いず れに せよ
、「 概し てこ れを 論ず れば 何の 時代
、 何 の 封土 を問 わず
、老 人は 秩序 の 味方 にし て、 青年 は進 歩 の朋 友た る は 決 し て 疑ふ べ か らざ る 事 実 なり と す
」。 し た がっ て 青 年 は社 会 の 新 し い傾 向を 看取 し、 柔軟 に対 応し
、積 極的 な行 動に 向う と考 えら れた
。 実際
、古 今 東西 の歴 史を 見て も
、新 しい 変革 は青 年の 手 によ って も た ら され たこ とは 明ら かで あ ると 徳富 は考 える
。た と えば
、イ ギリ ス の
「封 建 時代 の末 路に 際し
、… こ の制 度を 推倒 した る もの は、 オク ス フ ォ ル ド 大 学の 講 堂 よ り出 た り
」。 そ れ に宗 教 改 革 もま た
、ウ ィ ッ テ ン ボル ク大 学か ら生 まれ たし
、日 本に 例を とっ ても
、維 新 の改 革は
「 徳
川 氏 の親 藩た る水 戸の 弘道 館 より
、あ るい は徳 川氏 の 設立 した る江 戸 の 昌 平黌 より
」源 を発 する も ので あっ たし
、尊 皇攘 夷を 掲 げて 運動 し た 者 たち は、 松下 村塾 に学 ん だ青 年た ちで あっ た
。と すれ ば、 この 憲 法 政 治の 施行 を前 にし て、
「 我国 自由 改 進の 大運 動」 を推 進す る 上で
、
「先 登者 とな るは
、た だ我 が青 年書 生」 に 他な らな い。 した がっ て、 社 会 の 進歩
、文 明の 進展 のた め には
、青 年教 育が 最重 要の 課 題と なる わ け であ る。 結論 的に いえ ば徳 富は
、「 明 治の 青年
」に 対 して 平民 社会 の道 徳を 身 に つ け る こ と を 説 い た
。「 平 民 社 会 の 人 民、 な ん ぞ そ れ 快 活 な る や
。 身 を 終る 迄人 に膝 を屈 した る こと なく
、世 を没 する 迄 人に 憐れ みを 乞 ふ た るこ とあ らず
。不 尽の 乾 坤、 無辺 の風 月、 霊妙 活潑 の 能力 を施 用 し て 飽く 迄こ れを 占領 し
、仰 て天 に
、俯 して 地に 愧 じず
、毎 朝そ の 業 をは じめ
、毎 夕 その 業を 終う
。」 こ こで はロ ング フェ ロー の「 田舎 の 鉄 鍛 工」 の詩 が引 かれ
、「 明 治の 青年 よ。 若し 生 活を なさ んと 欲 せば
、 願 わ くは 泰西 自活 的の 人と な れ」 とい われ る。 徳富 に とっ て青 年が 崇 拝 す べ き 英 雄は
、文 筆 家 と し ては ミ ル ト ン、 軍人 と し て は ゴル ド ン
、 教 師 とし ては ホイ ット フ ィル ド、 政治 家と して はコ ブ デン
、ブ ライ ト な の であ り、 その 背景 には プロ テ スタ ンテ ィズ ムが 念 頭に おか れて い た ので ある
。 こ のよ うに
『新 日本 之 青年
』が 念頭 に置 く「 明 治の 青年
」が
、維 新 前 後 に 生 まれ 明 治 の 歩み と 共 に 成長 し た 世 代で あ る と すれ ば
、「 大 正 の 青 年」 は「 大正 五年
、二 十歳 と すれ ば」
、「 明 治二 十七 八 年日 清戦 役
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の 前 後に 生ま れ出 でた るも の なり
。明 治三 十七 八年 日 露戦 役の 前後 に は
、わ ず かに 小学 科程 の半 を過 ぎ たる もの なり
。彼 らは 実 に生 まれ な が ら にし て、 風雲 の気 を呼 吸 して
、出 で来 たり たる も の也
。彼 らは 実 に 国 運 興 隆の 雰 囲 気 に 抱擁 せ ら れ て、 出で 来 り た るな り
」。 徳 富 の 眼 か ら 見れ ば、 彼ら は「 あた かも 金 持三 代目 の若 旦 那」 であ った
。松 下 村 塾 で育 った 青年 が奔 走し て 実現 した 維新 の改 革 は、 国家 独立 のた め の 内 政の 統一
、国 運の 興隆 を 実現 する 以前 に、 一国 の独 立 を緊 急の 課 題 と した
。こ れに 対し て「 大正 の 青年
」は
「未 だか つて 日 本帝 国の 独 立 を心 配す べく
、な ん らの 事実 を見 出さ ざる なり
」、 彼 らは
「実 に安 全 と いう べし
。安 全な るが 故に
、ま た呑 気至 極」 なの であ る。 その
「金 持 ちの 若旦 那気 質
」に あふ れた
「大 正の 青 年」 にも いく つ か のタ イプ があ ると 徳富 は見 てい た。 第一 のタ イプ は「 模範 青年
」で
、 行 状 が円 満で 勉強 家、 それ に 自己 広告 も上 手な 青年 た ち。 第二 のタ イ プ は「 成 功青 年」 で、 大正 時代 の 成功 熱に 浮か され て
、「 カア ネギ ー
、 モ ル ガ ン は 固 より
、近 く は 岩 崎、 安 田 より
、あ る い は 現 在 の船 成 金
」 を モ デ ル と 考え て い る 青 年た ち で あ る。 第三 の タ イ プ は「 煩悶 青 年
」 で あり
、青 年特 有の
「功 名と 恋愛
」と に翻 弄さ れ、
「 落第 した るた めに
、 汽 車 に轢 かれ て自 殺し
、失 恋し た るた めに
、滝 つぼ に陥 り て自 殺し た る
」も の たち なの であ る。 第 四の タイ プは
「耽 溺 青年
」で あり
、そ の 哲 学は
「い わゆ る刹 那主 義」 で あり
、「 人生 いく ばく ぞ、 た とえ ば朝 露 の ご とし
。こ の瞬 間に おい て、 鹿 爪ら しき 理屈 を唱 え
、苦 虫を 噛み 潰 し た るよ うな る顔 色を なし
、自 ら 綯い たる 縄に
、自 ら縛 せ られ んよ り
10 11
も
、む し ろ面 白く
、お かし く、 楽 しく
、現 在を 送る に しか んや
」と い う のが 彼ら の信 条な ので ある
。 徳富 は もう 一つ
、「 無 色青 年」 とい うタ イ プが ある と見 て いた
。「 彼 ら は 中に 自ら 持す ると こ ろな くし て、 ただ 傍人 の真 似 をな すの み。 い わ ゆ る青 年会 が流 行す れば
、彼 ら はそ の一 員た るを 辞 せず
。政 党が 繁 昌 す れば
、こ れに も一 口加 入 し、 時と して 基督 教の 説 教も 聴き
、時 と し て 仏教 の講 演会 にも 出席 す
。必 ずし も勤 勉な らざ れ ども
、ま た目 立 つ 程 の 怠 惰 なら ず
」
。 彼 ら はい わ ば 不 和 雷同 す る 人 々で あ り
、徳 富 か ら 見れ ば「 我が 青年 の多 数が
、い わゆ る善 とも つか ず、 悪と もつ かず
、 た だ 社会 の風 潮、 周辺 の形 勢に 操 縦せ らる る」 状態 にあ る と映 った の で ある
。
「 現時 の 青 年 の 社会 教 育 に おけ る
、あ た か も活 動 写 真 を 見物 す る が ご と し。 彼ら が見 物し たる 活 動写 真中 には
、千 差万 別 の事 件あ り。 あ る い は殺 人強 盗も あり
、あ るい は 世界 的大 戦争 もあ り
、あ るい はユ ー ゴ の 哀史 のご とき
、面 白き 小 説も あり
。し かも 看来 看 去、 たち まち に 来 た り
、た ち ま ちに 去 る
。し か し てそ の あ ま すと こ ろ の 印 象幾 許 ぞ
。 観 客た る青 年の 頭脳 には
、た だ秩 序な き、 系統 なき
、拉 々、 雑々 たる
、 雑 駁 至 極 の 混 想 を留 む る の み。
」「 さ れ ば 彼 ら は 新聞
、雑 誌
、小 冊 子
、 講 演、 遊 説、 その 他あ らゆ る 目よ り入 り、 耳よ り入 る 学問 にて
、一 通 り 世 間と 応酬 する に差 支 えな き知 識を 得、 かつ 得 つつ ある なり
。し か も 彼 らは これ を一 貫す る の、 中心 思想 を有 せざ るな り
。し かし てこ れ を 駆使 する の根 本精 神を 有せ ざる なり
」。
12 13
14
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し か し、 それ で よ い の か。
「彼 ら に 深 奥 なる 経 世 的 の 見識 を も と む る は 無理 なら む。 該博 なる 世界 的 知識 を求 むる は難 題 なら ん。 され ど 少 な くと も彼 らは
、日 本国 民 とし て、 その 中心 思想 を、 有 せざ るべ か ら ざ る に あら ず や
」。 こ こで 徳 富 が 日本 国 民 と して の 中 心 思想 が 必 要 だ とい う のは
、世 界に おけ る日 本 国の 位置 自体 が安 定し た もの では な い か ら で あ る。
「い か よ う に贔 屓 目 に 見 ても
、日 本 帝 国 の世 界 に お け る 位 置は
、成 金的 なり
。日 本帝 国 の位 置は
、国 民自 らう ぬ ぼれ るほ ど に
、世 界 より は識 認せ ざる なり
。… こ の小 癪な る成 金国 の 鼻尖 を挫 か ん と、 心中 に業 を煮 しつ つあ るも のも
、決 して これ なし とせ ざる べし
。 日 本帝 国 の前 途も
、ま た岌 々乎 と して
、危 殆な らず とい う べか らず
」。 す なわ ち、
「 国際 的競 争、 人 種的 競争 は、 日に 月に その 激甚 を加 えつ つ あ る に 際 して
」、 日 本 国 民と し て 確 固た る 自 覚 をも た な い 状況 は 亡 国 の 兆し とい わな けれ ばな らな い。 もと よ り、
「国 家以 上 に世 界あ る」 を徳 富は 知 らな いわ けで はな い
。 し かし
、「 今 日の 世界 は、 国 を離 れて 家な く、 家を 離れ て個 人な し。
… 現 在 の社 会に おい ては
、国 家を 除 外し て、 人類 の有 力な る 団体 なき な り
。国 家 はす なわ ち吾 人の 安 心立 命の 地な り」
。 とす れば
、「 国 家は 意 識 的に
、そ の 国是 を定 めざ る べか らず
。国 民は 意識 的 に、 その 向ふ と こ ろ を定 めざ るべ から ず。 し かし て、 青年 は意 識的 に、 そ の準 備す る と こ ろを 定め ざる べか らず
。政 治 もこ こに 於て し、 産業 も ここ に於 て し
、軍 備 もこ こに 於て し、 教育 も ここ に於 てす
。こ のご と く一 切の 力 を あ げ、 一切 の力 を合 せ、 一切 の 力を 養い
、一 切の 力 を動 かし
、し
か 15
し て 後我 が日 本帝 国の 位置 を
、世 界列 強の 間に 占む る を得 べき なり
」。 徳 富 はこ のよ うに
「大 正の 青 年」 に対 して
、日 本帝 国を 担 う自 覚を 求 め たの であ った
。
三
、 日 本 帝 国 の 過 去 と 現 在
1、開 国と 国辱 ここ で徳 富は 過去 の日 本を 語る こと によ って
、「 大 正の 青年
」に 国 家 意 識 を持 たせ よう と試 み てい る。 端的 に言 って
、日 本の 開 国史 は国 辱 史 で ある こと を忘 れて はな ら ない とい うの であ る。 開 国を 求め て来 航 し たペ リー 提督 を、
「 開国 の恩 人と して
、そ の 日本 に対 する 好意 と、 親 切 と を永 記」 しよ うと 銅像 を 建て る動 きが ある が
、そ れは
「見 当違 い も はな はだ しい
」。 ペ リー は「 太 平洋 沿岸 に捕 鯨業 行は れ、 その 業者 た る 合衆 国民 を保 護す る為 に」
、ま た「 通商 貿易 の便 宜を 求め
」た ので あ り
、あ く まで も「 米国 のた め に」 来航 した
。し か も、 彼は
「四 隻の 船 艦 を 率い
、戦 闘準 備を なし て
、嘉 永六 年六 月三 日に
、浦 賀 湾に 乗り 込 み
、十 日 進ん で江 戸湾 に闖 入 し、 大砲 を発 して
、上 陸 せん とす るの 勢 い を 示」 した
。彼 は砲 火に 訴え て でも
、日 本開 国の 目 的を 達し よう と し た ので あり
、こ れを 徳 富は
「不 承知 の家 に押 婿 入り をな すは
、強 姦 と 殆 ど択 ぶと ころ なし
」 とさ えい うの であ る。 確か に これ は「 名誉 の 開 国」 では ない わけ であ る。 しか も
、ペ リー の使 命は 開 国だ けで はな かっ た
。当 時、 アメ リカ
は 16
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「太 平洋 およ びシ ナ 近海 にお いて
、海 洋の 覇 権を 英国 と争
」っ てお り
、 英 国の 香港 に対 抗し て、
「 日本 より ある 港湾 を割 譲せ しめ
、あ る いは 琉 球 を 占有 せん との 下心
」が あ った ので ある
。事 実、 ペリ ー は浦 賀に 来 航 する 以前 に、
「琉 球に 寄港 し、 小 笠原 に碇 泊し
、同 島に 貯炭 所を 設け
、 充 分 なる 戦闘 準備 をな し て」 いた
。そ れに 当時
、日 本の 領 土で 危機 に 瀕 し てい たの は、 この 琉球
、小 笠 原に 止ま らな い。 イギ リ スと ロシ ア は 地 政学 上の 要地 であ る 対馬 に注 目し てお り、 ロシ ア の「 シナ 海艦 隊 長 リハ チョ フ大 佐が
、… 対 馬占 領」 を くわ だて
、
「対 馬の 国主 宗対 馬守 に 向 て、 海 軍根 拠地 租借 の談 判 を開 始」 しよ うと した こ とが あっ た。 幕 府 は 英国 公使 オー ルコ ック の 力を 借り て、 ロシ アの 対 馬退 去を 実現 し た の であ るが
、そ もそ もロ シア の 対馬 占領 はイ ギリ ス の占 領計 画へ の 対 抗策 とい う側 面も あっ たの であ る。 また
、開 国 史に おい て イギ リス が鹿 児 島を 砲撃 し、 英、 米、 仏、 蘭 が 馬 関を 砲撃 した 事件 が あっ た。 前者 は、 薩摩 の大 名行 列 を乗 馬で 横 切 っ たイ ギリ ス人 を殺 傷し た いわ ゆる 生麦 事件 の 善後 処理 とし て、 イ ギ リ スが 薩摩 藩に 賠償 金の 支 払い を求 めた 行為 で ある が、 日本 の国 内 法 か らす れば
、そ もそ もの 行 為が
「非 常な る不 敬の 沙 汰」 に他 なら な い
。そ れ に、 長州 の砲 撃に よる 攘 夷の 決行 も、 馬関 が日 本 国内 の港 湾 で あ って 開港 場で はな く
、馬 関海 峡自 体も
「日 本の 領 海で あっ て、 世 界 航 海の 公道 にあ らず
」と い うこ とを 勘案 すれ ば、 その 砲 撃自 体は 正 当 な もの であ った
。こ の二 つ の事 件共 に、 日本 の正 当な 言 い分 が軍 事 力 を 欠く ため に無 視さ れた 結 果で あり
、開 国史
=国 辱 史の 一ペ ージ と
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な るも ので あっ た。 さら に
、徳 富が 国辱 と考 える の は、 幕末 の政 治に 外国 の 干渉 があ っ た こ とで ある
。小 栗上 野介 に 代表 され る幕 閣に は、 フラ ン スか ら借 款 し て 長州
、薩 摩に 対抗 する 動き が あっ たし
、逆 にイ ギリ ス は薩 長に 与 し て いた
。慶 応二 年、 イギ リス 公使 パ ーク スは 鹿児 島を 訪 問し てい る が
、薩 摩は こ の機 会に 幕府 とフ ラ ンス の関 係を 彼に 示 唆し
、イ ギリ ス と の関 係 を密 にし たも のと 想 定さ れる
。そ の後
、西 郷隆 盛 と勝 海舟 の 会 談に よ り決 着し たと いわ れ る江 戸城 開城 の局 面で も
、パ ーク スの 影 が 見ら れ ると 徳富 は考 える
。幕 閣 には フラ ンス に近 い小 栗 主戦 派に 対 し て、 勝 らの 恭順 派が いた
。進 軍 して きた 官軍 に対 し て、 パー クス が 居 留 地の 安全 確保 を理 由に 江 戸城 攻撃 に反 対し た こと は、 西郷 も無 視 で き なか った が、 この パー クス の 背後 には
、勝 海舟 との 連 携が あっ た こ と も想 定さ れる ので ある
。維 新 後こ のパ ーク スは 癇 癪も ちの 暴慢 公 使 と し て 知 られ て い た が、 そ れで も 新 政 府は 彼 を
「無 二 の 相談 相 手
」 と せ ざる をえ なか った ので あ り、 その 有様 は叩 頭的 政 府と 呼ぶ のが ふ さ わし いも ので あっ た。 2
、維 新と 国民 的精 神 徳富 は そう した 日本 開国 史 が、 他面 から 言え ば国 内 統一 史で あっ た こ と に 注 目 し てい る
。朝 廷
、幕 府、 薩 長 と いっ た 政 治 的 軸 があ っ て
、 そ れぞ れの 方策 は相 互に 交差 し、 紆余 曲折 を経 なが ら進 行し てい った
。 い ず れの 勢力 にも
「そ の相 互 の間 にお いて
、勢 力の 接触 衝 突あ りし の
20
― 163 ―
み な らず
、各 自の 中に おい て も、 また 異分 子の 交 闘こ れあ り」 で、 ま た どの 立場 も、
「 今日 は甲 党の 説に 傾き
、明 日 は乙 党の 論行 はる
。す な わ ち、 日 本を 通し て、 殆ど 始終 貫徹
、一 定 の輿 論な るも のあ らざ りし
」 有 様 であ った
。し かし
、そ のな か にも
「朝 廷を 尊崇 す べき 事」 それ に
「外 国に 対立 す べき 事」 とい う、 二つ の点 で は一 致し てい た。 問題 は
、
「如 何に して
、朝 廷を 尊崇 する か、 如 何な る程 度ま で尊 崇す るか
」で あ り
、ま た「 如何 にし て外 国と 対立 する か、 何を 以て 対立 する か」 であ っ た
。 徳富 はこ の二 点に 関す る立 場の 相違 から
、「 攘 夷的 尊皇 派」 と「 開 国 的 佐 幕派
」が 生じ たと 考え る
。た だし
、攘 夷の 立場 に たつ にせ よ、 開 国 が 必 須 であ る こ と は理 解 し て おり
、「 彼 ら は むし ろ 夷 を 払ふ の 名 を か り て、 幕府 を払 ふの 実を 挙 げ」 よう とし てい た ので ある
。ま た、 佐 幕 派の 場合 でも
、「 朝 廷を 圧迫 して
、北 条 氏の 承久 の故 事を 行は んと す る に あら ず」
、「 た だ徳 川氏 の社 稷 を保 存し うる 程度 に まで
、朝 権の 回 復 を 止め んと 欲し たる
」も の であ った
。と すれ ば、 幕末 の 政治 上の 争 点 は 攘夷 か開 国か では なく
、天 皇 親政 か幕 権保 存か に帰 着 して 行く こ と と なっ た。 ただ し、 万延 元年 の井 伊 直弼 の死 後よ り慶 応 二年 の孝 明 天 皇崩 御ま では
、公 武 合体 が世 論で あっ た。 当時 の「 老成 人、 有 力者
」 た ちは 冒険 に踏 み出 すこ とが でき ず、
「眼 前に 行ひ うべ き政 策」 と して
、 そ の妥 協策 に落 ち着 いた ので ある
。 しか し、
「如 何に 公武 合体 は、 穏 健、 平当 の意 見な りと はい え、 そ の 根 底に おい て、 恕 すべ から ざる 一大 矛盾
」が あっ た。 すな わち
、「 政 権
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複 本 位制
」で あっ たこ とで あ る。 ここ では 政権 は二 手に 分 かれ るの で あ るか ら、
「国 論を 統一 し、 国 力を 一致 する
」こ とが でき ない ので ある
。
「公 武合 体は
、一 定の 期間 にお いて
、一 定 の問 題に 就い ては
、あ るい は こ れ を行 ふを うべ し」
。 しか し、
「 これ を国 家恒 久の 制 度と して
、こ れ を も って 千変 万化 の内 外の 政 務に 応酬 する
」こ とは で きな い。 幕府 の 側 か ら見 れば
、公 武合 体は 幕 府の 延命 策で あっ た が、 幕府 は「 自ら 旧 態 を 維持 すべ から ず、 また 維 持あ たわ ざる
」こ とが 明ら か にな るに つ れ て、
「 皇政 の復 古
」す なわ ち、
「天 下 一新 の大 改革 を 断行
」へ と進 ん で い っ た。 徳 富 は、 こ の「 政権 複 本 位 説 制 を放 却 し て 政 権 単本 位 論
」 へ と 舵を いち 早く きっ たの が 岩倉 具視 であ り、 それ が 可能 とな った の に は孝 明天 皇の 存在 が大 きか った と見 てい た。
「 吾人 は維 新の 鴻図 が、 決 して 一人 一個 の力 にて
、成 就し たる もの に あ ら ざる を知 る。 しか も、 もし 個 人に つい て、 その 殊勲 者 をた ずね ん か
、恐 れ なが ら孝 明天 皇を も って
、そ の第 一位 に据 え奉 ら ざる を得 ざ る べし
」。 孝 明天 皇は
「幕 閣の 為す まま に、 唯 々諾 々と して
、そ の成 行 き に一 任し 給」 う こと はな かっ た。 孝明 天皇 は「 ペリ ー来 迫の 当初 より
、 幕 閣 の所 行に つい て、 厳 重な る監 視と
、督 励 と、 批評 と、 諭導 と、 し か して 遂ひ に命 令を 与え 給へ り」
。 孝明 天皇 の対 外的 な見 解は
「 尋常 一 様 の 攘夷 論」 に過 ぎな かっ た が、 その 結果
「幕 閣は
、自 か ら信 ずる と こ ろ に、 立脚 地を 定む るあ た はず
。外 は列 強に 脅さ れ
、内 は京 都に 責 め られ
、遂 ひ に内 外板 挟み の姿 とな りて
、自 滅 した り」
。孝 明天 皇の 攘 夷 論は
「 幕府 転覆 のて こ」 とな った ので ある
。徳 富は 孝明 天皇 が、
「 日
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本 天皇 陛下 とし ての 天職 につ いて
、十 二 分の 御自 覚」 をも ち、
「 国家 の 憂 を以 て、 御一 身の 憂と なし 給ひ
」、 日 本国 が一 体と して 列強 と対 立し
、 自 発的
、自 主的 に開 国す るこ とが 出来 たこ とに 注目 する ので ある
。 この よ うに 日本 は皇 政維 新 の過 程で
、国 内的 には 皇室 を 中心 に統 一 し
、対 外的 には 皇室 を中 心に 独立 する こと が可 能と なっ たの であ るが
、 そ れは 一面 では
「 国民 的精 神の 勃興
」で も ある と指 摘し てい る。
「一 国 の 独 立を 維持 せん と欲 せば
、国 力 を一 にせ ざる べか ら ず。 国力 を一 に せ んと す るに は、 国民 の仰 いで 以 て宗 とす ると ころ に、 そ の政 権を 集 中 せざ る べか らず
。か くの 如く し て皇 政復 古の 理想 は、 現 実的 勢力 と な れ り
」。 す なわ ち
、皇 室 を 中 心と し た 国 民的 一 致 が 可 能と な っ た の で あり
、そ れ によ って 徳川 幕府 は 崩壊 した だけ でな く、 幕 府を 倒し た 薩 長二 藩 もま た廃 藩置 県に よ って 消滅 して いっ た。 ペリ ー の来 航後 の 対 外的 な危 機の なか で、
「天 下の 人心 は、 期 せず して
、皇 室に 向ひ
、し か して 一 君の 下、 億兆 相い 集 まる
」こ とに なり
、維 新 が実 現し た。 こ れ は「 天 下の 無名 氏あ りて
、そ の 大勢 を馴 致し た」 こ とを 意味 し、 こ こ に国 民精 神の 勃興 があ った と見 るわ けで ある
。 とこ ろ で、 徳富 は日 本の 歴 史の 特徴 とし て
、「 尊皇 心」 と「 愛国 心
」 が 一致 して いた とも 述べ てい る。
「 我国 にお いて は、 尊皇 心と
、愛 国 心 と は、 そ の名 を殊 にし て、 その 実 を一 にせ り。 未だ 吾 君を 尊ん で、 吾 国 を 愛 せ ざ るも の な く、 未 だ吾 君 を 尊 ば ざる も の な し」
。イ ギ リ ス の 名 誉 革命 のよ うに
、君 主 国で は「 君に 忠」 と「 国家 に 忠」 との 間に 分 裂 す る場 合が 少な くな い が、 日本 は「 開闢 以来
、我 が 国民 をし て、 か
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か る 苦境 に立 たし めた 実 例は
、殆 どこ れあ らざ りし
」と い うわ けで あ る
。日 本に は「 シナ の史 上に 輩出 する がご とき
、人 君の 天職 を放 却し
、 国 家 民人 を、 私欲 の犠 牲た らし め んと した る君 主は
、一 人 も在 さざ り し な り」
。そ の意 味 では
、「 我が 帝 国の 歴史 は、 民本 主義 を 以て 一貫 せ り
」と も 言わ れる ので あり
、歴 史 をた ずね れば
、日 本国 民 の尊 皇心 が
「乾 燥 無 味な る 理 論 よ り来 ら ず し て、 情 誼と
、事 実 と の 湊 合よ り 来 れ る
」こ とが 知ら れる ので あっ た。 3
、帝 国的 自覚 この よ うに 明治 維新 は国 民的 精 神の 勃興 によ って 達 成さ れた ので あ る が、 し かし なお 日本 国 民は
「外 人恐 怖病
」と
「外 人 崇拝 病」 の二 種 の 病 に取 り付 かれ
、そ れか ら回 復 する のは 容易 でな か った
、と 徳富 は 考 え る
。「 ペ リー の 江 戸 湾 にて 放 ち し 砲 声は
、日 本 国 民 長夜 の 眠 を 打 ち 覚 まし たる と同 時に
、ま た 不安
、恐 怖の 念を
、長 へに 日 本国 民の 胸 底 に 印 し た り」
。こ の 外 人 への 恐 怖 心 は、 や がて 外 人 崇 拝心 に も な っ た ので あり
、「 我 が国 民が 自信 力に おい て、 大 いに 欠け
、自 尊心 にお い て
、大 い に欠 け、 いた ずら に外 人 の顔 色を 見て
、自 ら 喜憂 を事 と」 す る こ とに なっ た。 外人 恐怖 病 はと くに 恐露 病と し て現 れ、 その 絶頂 は 明 治 二 十 四 年 の湖 南 事 変( 大 津 事 件) に見 出 す こ と が 出来 た
。ま た
、 電 信 線の 下を 扇子 をか ざし て 通行 した とい われ る熊 本 神風 連の 極端 な 異 人 排斥
、洋 風排 斥も
、対 外的 恐 怖心 から する 発作 と見 ら れる ので あ る
。
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徳富 は 維新 の指 導的 政治 家 自身 が、 この 二つ の病 に長 く 犯さ れて い た と見 てい た。
「 吾人 は我 が維 新の 元勲
、明 治の 元老 等が
、愛 国 心の 分 量 に おい て、 ある いは 後進 の士 に 倍す るを 思ふ
。さ れど 彼 らは あた か も 一度 噛 みつ けら れた る犬 の 如く
、い やし くも 外人 と さえ 見れ ば、 た ち まち 首を 垂れ
、尾 を 掉り て、 ただ 屏息 す」
。 した がっ て、 彼ら の対 外 的 態 度は
「叩 頭的 外交
」で あり
、ま た
「自 屈的 外交
」で あっ た ので あ る
。「 彼 らが 叩頭 を以 て、 要 訣と し、 握 手を 以て
、方 便と し、 被 同化 を 以 て、 手段 とし
、遂 ひに 一方 にお いて は、 無差 別的 欧化 主義 を宣 伝し
、 他 方に おい ては
、自 屈 的外 交に 安着 して いる 所以 なり
」。 とり わけ
、条 約 改正 に 関す る対 外的 交渉 の経 緯 はそ のこ とを 語っ て余 り ある と見 ら れ るの であ る。 また
、徳 富 は明 治の 元勲 が日 本を 世 界の 強国 とす る将 来 像を 持っ て い な か っ た 点 を 厳 し く 批 判 し て い る。 岩 倉、 木 戸、 大 久 保 と い っ た 人 々は
「国 家 経営 の前 途、 すこ ぶ る艱 険に して
、む しろ 日 本が
、極 東 の 片 隅に
、独 立国 とし ての 生存 を 全う する を以 て、 望外 の 仕合 せと な し たり し もの に似 たり
。す なわ ち 彼ら の役 目は
、蓑 虫の 番 人な るに 止 ま りた り しが ごと し」
。 明治 の元 勲た ち は、 日本 をイ ギリ ス、 ロシ ア、 ド イツ
、フ ラ ンス
、ア メリ カと 肩を 並 べる 強国 とす る 志望 はな く、 ス イ ス、 ベル ギ ー、 オラ ンダ など の 小国 とし て「 蓑虫 的 独立
」を 維持 す る こと で 満足 して いた とい う ので ある
。し かし
、そ れは 日 本の 将来 に 対 する 当 時の 世界 の見 方で も あっ た。 訪日 した アメ リカ 前 大統 領グ ラ ン ト将 軍 は、 日本 が外 国の 干渉 を 甘受 する エジ プト のよ う にな らな い
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よ う にと 明治 天皇 に忠 告し た とい われ てい る。 その 日 本は 日清 戦争 が 転 機と なっ て、 強国 への 歩み を踏 み出 すこ とと なっ た。
「 若し 維新 改革 を以 て、 日 本国 民が 国民 的自 覚の 時期 とせ ば、 二十 七 八 年 役 は
、日 本 国 民が
、帝 国 的 自 覚 の 時期 と 称 す る も、 過 当な ら ず
。 け だ し日 本国 民は
、二 十有 余 年、 幾多 の曲 折を へて
、始 め て我 自ら 我 を 知 れり
。我 を知 れり とは
、我 が 力を 知れ るな り、 我 が天 職を 知れ る な り」
。 すな わち
、日 清戦 争を 機に 日本 は「 挙 国一 致、 国家 に向 って 献 身 的な らん
」と し、
「 縮小 的小 国民
」で は なく
「膨 張的 大国 民」 とな る こ と を 志 向す る よ う にな っ た の であ っ た
。「 ひ とた び 干 戈 を清 国 と 交 ふ る や、 国民 は期 せず し て一 致し たり
。こ の場 合 には
、敵 もな く、 味 方 も なく
、た だ日 本国 民 あり しの み。
…非 常の 場 合に おけ る、 非常 の 国 民 的行 為は
、こ のご とく し て立 証せ られ たり
。こ の ごと くし て我 が 国 民 は、 その 自信 力を 得 たり しな り。 自信 力と は、 単 に兵 力を 意味 せ ず
、ま た 国民 とし て、 国家 の大 事 に際 して の、 措置 につ い ての 自信 力 な り。 す なわ ち従 来の 行掛 か りを 抛ち
、己 を棄 てて
、公 に 殉ず るの 精 神
、お よび その 精神 の実 行こ れな り」
。 さ らに 日清 戦後 にお い て、 ドイ ツ、 フラ ンス
、ロ シア が 日本 に割 譲 さ れ た遼 東半 島の 還付 を求 め たい わゆ る三 国干 渉 は、 日本 国民 に屈 辱 を 与 え、 強国 たる べき 覚悟 を 与え るも ので あっ た。 徳 富自 身が これ を 機 に
、国 際政 治に おけ る「 力 の福 音」 に目 覚め たと い うの だが
、日 本 国 民 も「 空漠 なる 世界 主義 や
、感 情的 なる 人道 主 義の
、頼 むべ から ざ る や、 そも そも また 平和 と好 意と を以 て、 国際 政局 を料 理せ んと する
、
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マ ンチ ェス ター 派の 頼む べか らざ る」 を悟 るこ とに なっ た。 そこ で「 怖 外
、崇 外 の両 魔鬼 より 誘拐 せ られ
、自 屈、 自卑
、い たず ら に安 逸を 貪 り た る迷 夢」 から 醒め
、日 本国 民 は「 わが 力を もっ て 恃む べく
、し か し て 頼 む べ きは
、た だ 我 が 力 たる こ と を 覚悟 し
、さ ら に 前 途に 向 て
、 万 難 を排 して
、こ の力 を養 わ ざる べか らざ る」 を覚 悟す る こと とな っ た と いう わけ であ る。 事実 三 国干 渉は
、国 民の 間に 臥薪 嘗 胆の 言葉 を 生 み出 し、
「 我が 国民 が… 帝国 的に 活動 の準 備を
、開 始 した る時 期」 と な った ので ある
。 徳 富 は帝 国 主 義 を国 家
、国 民 の もつ 自 然 の 衝 動で あ る と 見て い た
。
「元 来帝 国主 義は
、主 義と いわ んよ りも
、国 民 的本 能な り。 火の 高き に 騰 る がご とく
、水 のひ くき に 就く がご とく
、い やし く も民 族た り、 国 民 た る も の は、 み な 膨張 を 求 む
」。
「 帝国 主 義 は、 国 民 の 本能 に し て
、 あ た かも 国民 をし て、 健全 に
、か つ自 然な る状 態に あ らし めば
、い か な る 時節 にも
、如 何な る場 合 にも
、必 ずま ず発 作す べ きも の」 なの で あ る。 し かし
、徳 川幕 府は
「日 本 国民 を、 植木 鉢に 窘 めて
、盆 栽た ら し め
、籠 中 に 飼 養 し て、 籠 鳥た ら し め
」る こ と と な った
。す な わ ち
、
「自 家 の 治安 を 維 持 する に 是 れ 急に し て、 民 族 的雄 飛 を 犠 牲と す る に 頓 着 せざ りし
」こ とに なっ た ので ある
。豊 臣秀 吉の 同 時代
、イ ギリ ス の エ リ ザ ベス 女 王 は 帝国 主 義 の 新紀 元 を 画 した が
、「 も し 日本 に し て 英 国同 様に
、其 時よ りし て、 航 海遠 略を 事と した
」の で あれ ば、
「少 な く と もわ が日 本国 民は
、黒 船 を見 て、 腰を 抜か す」 こと は なか った と い うわ けで ある
。
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四
、 日 本 帝 国 の 使 命
1、日 本帝 国の 危機 とこ ろで
、日 清戦 争に よっ て日 本国 民が 帝国 的に 覚醒 した とす れば
、 日 露 戦争 の勝 利に よっ て 日本 は「 帝国 的に 世界 より 承 認せ られ
」る こ と と なっ た。 日露
「戦 役の 結果 は
、列 強に 対し
、始 めて 我 より も大 使 を 送 り、 彼ら より も大 使を 送 る事 とな れり
。戦 役の 結 果は
、韓 国を 保 護 国 とし
、さ らに これ を併 合 して も、 誰し も異 存を 唱ふ る もの なき こ と と なれ り。
…列 強が 我が 日 本帝 国の 勃興 を悦 ぶと 否 とは
、別 問題 と し て、 誰し も極 東の 政局 にお いて
、我 を 無視 する 能は ざる こと と」 な っ た
。す なわ ち、 日 本帝 国は ここ に「 推し もお され もせ ぬ、 東 洋の 覇者
」 と なっ たの であ る。 では
、「 我 が国 民は 果た して
、こ の 東洋 の盟 主た る 大 責 任を 自覚 した るか
。… わ が国 民が 小成 に安 ん じ、 小功 に誇 り、 却 て そ の当 面の 大責 任を
、放 却 しつ つ」 ある こと はな い であ ろう か、 こ れ が徳 富の 憂慮 する とこ ろで あっ た。 実 際、 徳富 には
「我 が帝 国の 現 状が
、大 危機 に立 つ」 と いう 自覚 が あ っ た。 第一 次世 界大 戦下 の 国際 的状 況で
、日 本は 世界 に あっ て孤 立 し てい る。
「 日英 同盟 は、 半ば 死せ り。 日露 の関 係は
、今 な お浮 調子 な り
。日 独 は敵 也。 日米 は有 隣な れ ども
、油 断も
、隙 間も で きぬ 有隣 な り
。吾 人は 日本 を、 世界 の孤 立国 とい はざ るも
、殆 ど孤 立国 に類 すと
、 い い う べ き を疑 は ず
」。 と りわ け
、こ の 時 点 で徳 富 は す で に日 米 関 係
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を 危 惧し てい たこ とが 注目 さ れる
。ア メリ カは 建国 以 来、 戦争 によ っ て 領 土を 拡張 した 歴史 を もち
、そ の外 交方 針も
「本 来 無遠 慮」 であ る こ とは よ く知 られ てい る。 その ア メリ カの 政治 に大 きな 影 響を 持つ 世 論 は、 陸 海軍 の拡 張を 支持 して い るが
、そ れは 当面 ドイ ツ の潜 航艇 へ の 対 応で ある とし ても
、太 平洋 問 題も 念頭 に置 かれ て いる
。ア メリ カ に は 大型 駆逐 艦、 大型 潜水 艇 など
、海 軍増 強計 画が 進 んで おり
、太 平 洋 方面 の仮 想敵 国は 日本 に他 なら ない ので ある
。 日米 間 にお いて は、 カリ フォ ル ニア 州の 日本 移民 への 差 別的 取り 扱 い の 問題 があ るが
、そ れよ りも シ ナを めぐ る衝 突が 懸 念さ れる
、と 徳 富 は考 え る。 アメ リカ はモ ンロ ー 主義 によ って 南北 アメ リ カに おけ る 主 導 権 を 確保 し な が ら、 極東 問 題 に 対し て も 積 極的 に 関 与 して い る
。
「極 東問 題に つい ては
、日 本は 国力 を賭 して も、 自 らそ の解 決の 主人 公 た ら ざる べか らざ るの
、使 命 を感 じつ つあ る。 も し、 米国 にし て、 万 一 日 本の この 使命 の、 遂行 を遮 断 する がご とき あら ば
、吾 人は 日米 の 国 交 につ いて
、少 なか らざ る 危険 を感 ぜざ るを 得 ず。 しか して
、若 し 米 国 の武 装充 実せ んか
、吾 人は 少 なく とも
、こ れが 為に 吾 人の 使命 を 放 却 する か、 しか らざ れば 米国 よ り一 撃を 加え られ る るか の、 二者 を 択 まざ る の時 節の
、到 来す るこ と を、 今日 より 覚悟 せざ る べか らざ る な り
」。 こ こ には 確 か に、 太 平 洋戦 争 に 至 る 日米 対 立 の 道筋 が 見 通 さ れ てい る。 いず れ にせ よ、 徳富 はこ の時 点で 日 本帝 国は 岐路 に立 っ てい ると 考 え る
。「 日 本 は強 国 と し て 存す る か
、亡 国 と して 滅 ぶ る かの 十 字 街 頭
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に 立 てり
」。 すな わ ち、
「程 よき 程 度に て、 呑気 に一 国の 独 立を 維持 す る は、 明 治の 半世 紀に おけ る、 行 き掛 りの 上に て、 もは や 不可 能の こ と と な」 った
。と すれ ば、 我が 国 民は
、強 国足 るべ き 方針 を定 め、 強 国 足 る べ き準 備 を つ くし
、強 国 足 る べき 努 力 を しな け れ ば なら な い
。 し か し現 実に はそ うで は ない
。「 国家 の 無方 針は
、国 民を して 没 理想
、 無 希 望の 徒た らし む」 こ とに なっ てい る。 無方 針
、無 準備
、無 努力 は 三 位一 体で あっ て、
「吾 人は 実に 我が 帝国 の前 途を 思う て、 寒心 せざ ら ん とす るも 能は ず」
、 これ が徳 富の 偽ら ざる 実感 であ った
。 そも そ も維 新以 後の 日本 国 民の 対外 的態 度は 一 貫せ ず、 帝国 主義 的 志 向 も 間 歇 的な も の で あ った
。鞭 を 見 て 走り 出 す 馬 の よう に
、「 外 間 の 刺 戟 あ れ ば、 たち ま ち 発 作 する に 拘 ら ず、 一た び そ の 刺 戟止 め ば
、 ま たた ちま ち休 歇す
」と いう 有様 だと いう ので ある
。「 要す るに 我が 日 本 国 民 は、 国 家 が剃 刀 の 刃 を 渡る が ご と く、 ただ 帝 国 主 義 によ り て
、 こ の 国 運 を、 世 界列 強 角 逐 の 際に
、支 持 せ ざ るべ か ら ざ る 大道 理 を
、 未 だ 徹底 的に 会得 せざ る が如 し」
。た し かに
、日 本国 民は 国家 を 誇り
、 国 家 を憂 いて いる のだ が、 そう し た感 情も 外か らの 刺 激に 応じ たも の で
、突 発 的で ある し野 次馬 的 興奮 に過 ぎな い。 今日 の 帝国 主義 も、 日 本 国 民が 世界 の情 勢を 予 見し
、周 到な 計画 と準 備を 持 って 帝国 を築 い て き たと はい えな い。 むし ろ
、さ まざ まな 幸運 が重 な って 今日 の地 位 を 得 てい る。 日清 戦争 の勝 利 も「 吾人 の強 きよ り も、 シナ 人の 弱か り し 為
」で あ っ た し
、日 露 戦 争 の 勝 利 も「 彼( 露) は 千里 懸 軍 に し て
、 我 は地 利を 占め
、か つ もっ とも 我に 有利 なる 場合 に、 干 戈を おさ めた
」
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か らな ので ある
。 日 本国 民 は い まだ 帝 国 主 義を 正 し く 理解 し て いる と は い えな い し
、 正 し く実 行し てい ると も いえ ない
。国 民の 多数 は
「帝 国主 義と は、 巨 大 な る戦 闘艦 を作 る事 と思 ひ
、軍 備を 拡張 する 事と 思 ひ、 十年 に一 回 戦 争 する 事と 思ひ
、朝 鮮を 併 合し たる 事を 思ふ
」。 あ るい は、
「 帝国 主 義 を 活 動 を 以 て、 国民 的 虚 栄 心 の発 動 と
、同 一 視 す るも の
」も い る
。
「国 民的 虚栄 心」 は「 帝国 主義 の面 を被 りて
、勝 手に 増長 し、 つ いに 驕 慢
、自 か ら裁 する を知 らざ るに 至 るの 惧れ なし とせ ざ る」
。と りわ け
、 徳 富が 危 惧す るの は日 本の 帝 国主 義に は、
「 道義 的根 拠を 有せ ざる 事
」 で あっ た
。帝 国主 義を 悪事 と思 っ て遂 行す るこ とは で きな いし
、正 邪 の 判断 を 放棄 して 行う こと も でき ない し、 本能 のま まに 行 うこ とも 適 切 では ない
。徳 富は 帝国 主義 は国 家拡 大の 自然 の衝 動と 考え てい たが
、
「本 能的 に発 生し
」た も のを
、「 道徳 的 に鍛 錬」 しな けれ ば なら ない と い うの であ る。 2
、亜 細亜 モン ロー 主義 徳富 が 提起 する 日本 帝国 の理 想 とは
、世 界に おけ る白 人 の専 横を 打 破 し、 人 種間 の力 の均 衡を 回復 す るこ とで あり
、亜 細亜 人 のこ とは 亜 細 亜 人 の 手で と 提 唱 する 亜 細 亜 モン ロ ー 主 義で あ っ た。
「 日本 帝 国 の 使 命 は奈 何。
…手 の届 くか ぎ りに おい て、 我が 理想 を 求め しめ よ。 吾 人 は世 界 統一 に先 んじ
、世 界に お ける 黄白 人種 の均 衡を 回 復す るを 以 て
、む し ろ急 務と せざ るべ か らざ るに あら ずや
」。
「 亜細 亜 モン ロー 主
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義 とは
、亜 細亜 のこ とは
、亜 細亜 によ りて
、こ れを 処理 する の主 義也
。 亜 細 亜人 とい うも
、日 本国 民 以外 には
、さ しよ りこ の任 務 に膺 るべ き 資 格 な し と せば
、亜 細 亜 モ ンロ ー 主 義 は、 す なわ ち 日 本 人 によ り て
、 ア ジ ア を 処 理す る の 主 義な り
」。 と は い って も
、徳 富 は 亜細 亜 よ り 白 人 を 駆逐 する とい う偏 狭な 意 見を もっ てい るわ けで は ない とも 付記 し て いる
。た だ、 日本 は「 東洋 人種 より は、 敬愛 せら れ、 白人 種よ りは
、 少 なく とも 畏憚 せら る」 こと が望 まし いと 考え たの であ る。 徳富 は この 亜細 亜モ ンロ ー 主義 の構 想を
、小 乗的 使命 と 大乗 的使 命 と し て 説 明 す る の だ が
、ま ず 小 乗 的 使 命 と は 東 洋 の 自 治 で あ っ た
。
「亜 細亜 モン ロー 主義 は、 東洋 自治 主義 なり
。東 洋の 事は
、東 洋 人が こ れ を 処理 する の主 義也
。今 日 にお いて は、 欧州 の問 題 は、 欧州 人こ れ を 処 理し
、南 北米 州の 問題 は、 南 北米 州人 これ を処 理 し、 豪州 の問 題 は
、豪 州 人こ れを 処理 す。 ひと り 東洋 の問 題に 至り て は、 東洋 人概 ね 手 を束 ね、 た だ欧 米人 の処 理に 一任 す」
。 これ では 東洋 人は
、意 気地 な し で もあ り、 卑屈 でも あ り、 不見 識で ある
。実 際、 唯一 白 人に 対抗 し て 自 治能 力を 行使 でき る のは 日本 人で ある から
、そ こ に日 本人 の指 導 力 の 下に 東洋 の自 治を 実 現す るこ とが 課題 とな る ので あり
、そ こに 日 本 人の 使命 があ ると 考え られ るの であ る。
「 彼ら
(白 人) は…
…わ が 東洋 人士 を以 て、 世 界の 劣等 人種 とな し
、 こ れ を取 扱ふ に、 特殊 部落 を 以て す。 彼ら の同 胞主 義 や、 白人 間の 同 胞 主 義な り。 彼ら の平 等主 義 や、 白人 間の 平等 主義 の み。 彼ら の博 愛 主 義 や、 白人 間の 博愛 主義 の み。 彼ら も時 とし て は、 論理 の厳 正な る
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方 式の ため に、 不本 意な がら
、こ れを 世界 共通 的に 言説 する こと あり
。
… そ の 実 際に つ い て 見 れば
、な お こ れ 依然 た る 白 人独 尊 主 義 な り」
。 こ う した 現実 から すれ ば、 日本 人 が主 導し て亜 細亜 モ ンロ ー主 義を 実 現 す るこ とは
、い まは 白人 の 間で しか 実現 して い ない
、平 等主 義、 博 愛 主 義、 同胞 主義 を、 人種 の違 い を超 えて 実現 する こと に もな るの で あ る。 日本 人の 使命 は実 に、
「 自か ら黄 色人 種た るを 愧じ とせ ず、 自 家の 面 目 を、 堂 々露 呈し
、他 の長 を 採り
、我 が短 を補 ひ、 自 から 研磨
、精 進 し て、 すべ ての 点に 於て
、白 人以 上の 資格 を備 え、 事実 の論 理の 前に
、 白 人 を承 服せ しめ
、さ らに わ が東 洋人 士を 誘掖 して
、白 人 と対 等の 交 際 を な さ し むる に あ り」
。 徳富 は 亜 細 亜 モン ロ ー 主 義に は
、さ ら に 一 歩 進 んで
、日 本が
「東 西融 和の 仲 介者
」と なる とい う大 乗 的な 使命 が あ る と考 える
。日 本は
「東 洋人 の 急先 鋒と なり て、 白人 を 退治 する に あ ら ずし て、 白人 に向 て、 東洋 を 理解 せし め、 真成 なる 四 海兄 弟の 実 を 挙ぐ るの 手引 者と なる
」使 命が ある とい うわ けで ある
。
「 我が 日本 国民 にし て、 真に 世界 の長 を採 り、 列 国の 善を 択び
、虚 心 坦 懐、 自 ら拘 泥す ると ころ な くん ば、 その 行動 は、 期せ ず して 世界 一 和
、坤 球 一団 の先 を開 くも の」 と なる であ ろう
。維 新の 目 的は 日本 一 国 の 独立 の確 保で あっ たが
、今 日 の課 題は 帝国 の独 立 にと どま らず 帝 国 の拡 張で ある
。帝 国を 拡張 し、 亜 細亜 モン ロー 主義 によ って
、「 我 が 弱 小 なる 同胞 の為 に、 その 蹂躙 せ られ たる 権利 を回 復 する は、 東洋 に お け る先 覚者 たる
、大 和民 族 の責 任」 では ない の か。 その 上で
、白 人
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の
「人 種 的偏 見や
、宗 教的 僻習 を 打破 して
、東 西文 明 は、
…互 いに 平 等 の 立場 にお いて 握手 せ ば、 四海 兄弟
、万 邦一 家た る の理 想」 が実 現 す る であ ろう
。徳 富の 構想 に よれ ば、 これ が一 国の 独 立か ら亜 細亜 モ ン ロ ー主 義を 経て
、世 界平 和 に至 る道 なの であ り、 そ こに こそ 日本 国 民 の使 命が あっ たの であ る。
五
、 「 大 正 の 青 年 」 と
「 日 本 魂
」
1、積 極的 忠君 愛国 徳富 蘇 峰が 見る 日本 国民 の 現状 は、 その 重大 な使 命 を自 覚し てい る こ と から は程 遠い もの で あっ た。 国民 の意 志も 定か で はな く、 日本 帝 国 の 国是 もな く、 東洋 自治 の使 命 も、 その 天職 の自 覚も 持 って はい な い
。「 我 が帝 国の 一大 病根 は、 国家 的没 理想 にあ り、 国 民的 没志 望に あ り
」。 日 本は
「死 鯨の ごと く、 波 間に 漂流 し、 国民 が屍 肉に 集ま る蛆 虫 の ごと く、 蠢 動す るも
、ま こ とに やむ を得 ざる なり
」。 日本 国民 は不 勉 強 で はな いの か。 日本 国民 は 覚醒 し、 国是 を定 め、 日本 帝 国の 使命 を 担 い うる 人物 を教 育し なけ れ ばな らな い。 日本 帝国 は 愛国 教育 を必 要 と し、
「 日本 国民 とし ての 責任
、職 分
」を 教え なけ れば なら ない
。徳 富 は そ れを
「日 本魂 の涵 養」 とも 語 って いる
。日 本帝 国の 将 来を 担う べ き
「大 正 の青 年」 は、 まさ しく そ の「 日本 魂」 を身 につ け なけ れば な ら ない ので あっ た。 で は、
「日 本魂
」と は 何か とい えば
、そ れ は端 的に 言っ て、
「 忠君 愛
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