奈良教育大学学術リポジトリNEAR
キルケゴールにおける美的実存
著者 若松 謙
雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学
巻 34
号 1
ページ 87‑106
発行年 1985‑11‑25
その他のタイトル Die Asthetische Existenz bei Kierkegaard
URL http://hdl.handle.net/10105/2214
キルケゴールにおける美的実存
若松謙
(奈良教育大学倫理学教室) (昭和60年4月30日受理)
Iはじめに
周知の如くキルケゴール(1813‑1855)は、人間の生き方を、その未熟な段階から最高の段階 に至るまで、順に美的実存、倫理的実存、宗教的実存(これはさらに宗教性Aと宗教性Bとに細 分される)と規定した。そこで彼の思想を研究する場合でも、まず最初は、こうした段階の各々 を正しく理解することが必要となる。キルケゴールの思想に本格的に取り組み始めてからすでに 3年ばかり過ぎたが、彼の思想研究の初心者として、私もそうした道を選んだ.寛在はどうやら 彼の思想構造の全体が理解できた程度であるが、この小論においては、いきなり三段階のすべて を一挙に扱うのではなく、まず一番未熟な在り方としての(『あれか、これか』において扱われ ている)美的実存を問題にしてみたい。新たな研究の結果をまとめる場合にも、矢張り麓から慎 重に歩みを進めるのが、最善の策と思われるからである。(1)
ところで1843年に出版された『あれか、これか』という作品(2)は、2部に分かれている。第‑
部は、美的実存の立場に立つAという匿名の人物の作品7篇と、(Aと同じく美的実存の立場に 立つ)ヨハネスという人物による『誘惑者の日記』1京とが寄せ集められて成り立っている。第 二部は、倫理的実存の立場に立つB(判事ヴィルヘルム)という人物の長い手紙2通と、Bの友 人の牧師の説教とから成り立っている。そしてBの手紙が、Aに倫理的実存の立場へ高まるよう に勧告するという形式を取っていることによって、両部分の内的連関が保たれているのである。
しかしこれらのすべてを寄せ集めて出版したのは、エレミタという匿名の人物であるとされる。
すべてがキルケゴールの創作でありながら、しかも彼自身が、『あれか、これか』において一人 称の形をとって登場することは決してないのである(3)
。そこでここでもどうしても必要な場合以
外には、キルケゴールの名を用いず、A、B、ヨハネスといった仮空の人物の名をそのまま用い て、議論を進めることにしたいOそのことによって、キルケゴールにおける美的実存の具体的内 容、その特徴、そしてそうした美的実存の描写がもつ現代的意義などを解明するのが、この小論 の目差す所である。く勿論キルケゴール自身が、美的実存を未熟な在り方と考えているO人間 が理想として追求すべき望ましい在り方として考えている訳ではない。しかしたとえ未熟な在り 方であるにせよ、それの描写が、現代においてもそれなりの意義をもつことは、当然ありうる。
そこでこうした点にも注意してみたいと思うのである。〉
II美的実存の定義
一般に美的という言葉は、Adornoも言うように「芸術作品や芸術理論的考察の領域」(28)を
示すために用いられることが多い。そして勿論『あれか、これか』においても、そうした意味で
美的という言葉が、しばしば使用されている。しかし人間の生き方との関連で使用される時、そ
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れは特殊な意味をもつ。倫理的人間Bは、美的なもの及び美的人間を次の様に定義している。
「人間における美的なものは、それによって彼が直接的に現にあるところのものである。 ‑一美 的なものにおいて、美的なものによって、そして美的なもののために生きる人が,美的に生きる のである。」 (n. 190)こうした定義からすれば美的なものは、人間に自然的に直接与えられた 身体的なものや、本能的欲求、感情などだけを意味するように思われる。しかし実はそうではな い。学問や芸術などに向かう素質、才能の外、さらに「名声、富といった社会的に制約された諸 性質」 (Pulmer 142)も含められる。このことはBが、美的なものの例として①健康、 ②美(容 姿の美しさ)、 ③欲求の充足(即ち快楽の享受)などの外、さらに④才能(実業であろうと学問、
芸術であろうと、あらゆる領域における才能)、 ⑤富、名声、貴族などの身分を挙げていること からしても明白である。そこで美的なものは、 Fahrenbachが言うように「人間にその自然的、
歴史的制約に基づいて帰属するもの」或るいは「人間の現存在に直接与えられた諸事実や、経験 的に知覚され得る諸事実、即ち直観ないし自己経験において知覚され得る諸事実」 (61)の総体 を意味するといってよい。そして美的人間は、こうした意味での美的なものにたえず関係し、そ の内のどれかを自らの生の根拠として生きる人、それを生きる究極目標にする人であるというこ とになる。例えば健康や富を自分の生の根拠とみなし、それを目標にして生きる人が、美的人間 の一例なのである。しかもこの場合、何故健康や富などが生きる目標にされるのかというと、そ れは「人生を享受する」 (n. i9i)ためである。そこで人生を享受するために、美的なもののど れかを何よりも重んじて生きる人、それが美的人間だということになる。
ところでこうした美的人間が、人間として未熟であり、不十分な面を有することは、明白であ る。ここではその理由を、人間の価値の問題と関連させて指摘してみたい0 ‑一般に人間の価 値を決める基準となるものは非常に多くあるが、これらは大まかに言えば(1)本人自身の努力に よってはどうにもならない価値基準と、 (2)本人自身の努力に依存する価値基準との2つに分け られる(1)は例えば白、黒、黄色といった皮膚の色の違い、男性、女性といった性の違い、素 質、才能の違い、或るいはもっと卑近な例でいえば、顔の美醜とか身体の恰好の違いといったも のである。我々は無意識の内にもこうした違いによってさまざまな価値評価を加え、特定の性質 をもった人を現実に軽蔑したり、逆に尊重したりしているのである。例えば黒人を軽蔑したり、
美人を尊重したりしているのである。しかしこうした種類の価値基準は、その人自身の努力によ ってはどうにもならない価値基準である。黒人に生まれた人は、自分の意志で黒人に生まれたの ではなく、又黒い皮膚を白い皮膚に変えようとしても、変えることはできないのである。他の性 や容姿の違いなどについても、そう言える面がある。そこでこうした人間の自由によってはどう にもならず、努力しても変えることもできないような条件の違いだけで、人間の価値を決めてし まうのは、明らかに不合理だといえる。それでは生まれた後何を考え、どのように生きようとも、
そうしたことに関わりなく、いわば生まれた時の条件の違い、遺伝的素質などの違いだけによっ て、人間の価値を決めてしまうことになるからである。しかしこれでは運、不運だけがすべてを 決定することになってしまい、人間の努力は全く無視されてしまうことになるといってよい。
(2)の本人自身の努力に依存する価値基準とは、例えば富、権力、身分、名誉などの違いであ
る。勿論富や権力などをより多くもっている人々を、人間としてより価値があるとみなす考え方
である。こうした価値評価は、或る程度まで人間の主体的努力によって生得されたものを基準に
して、人間を評価しているといえる。従って(1)の種類の価値評価に較べれば、人間の価値を決
める基準として、まだましだと言えるかもしれない。しかし問題もある。 ①富を得たり、よい
身分にありつくためには、確かに人間の主体的努力が必要である。しかしこれらを現実に得るか 否かは単に人間の努力だけに依存するとも言えない。それ以外の運、不運にも依存している。こ の点で(1)で挙げたものと同じ面がある(5)
。例えば全く同じ様に努力しても、幸運に恵まれて富
などを得る人もあれば、不運の故に得られない人も寛実にあるのである。そうである以上富なら 富を得ている、得ていないといった、単なる結果だけで人間の価値を決めるのは不合理である。
人間の主体的努力を本当にそれ自体で尊重していないからである。②しかも富や身分などは、
道徳的に不正な仕方で獲得される場合もあることに注意する必要がある。主体的努力といっても, 人間として正しい主体的努力もあれば、そうでないものもあるのである。しかも現実に富だった ら富をもっている人が、いつでも正しい仕方で主体的な努力をなし、その結果そうした成果をあ げているとは限らないのである。こうしたことを考える時、如何なる仕方で主体的努力が為され たか否かを問題にすることなく、単にその結果として得られた富、身分などの違いだけによって 評価することも、本当に正しい仕方で人間を評価しているとは言えないといってよい。そこで今 迄述べたことを逆から言えば、結局人間の主体的努力の善し悪しを何よりも重んじる道徳の立場、
それが人間の価値を決める一番望ましい立場であると言えると思われる。
ところでこのように考えれば、前述の美的なものの内のいずれを絶対視していようと、美的人 間は、すべて人間として不十分である。未熟である。当然こう言えると思われるPulmerが指 摘するように、美的実存は「何か制約されたもの、有限なものを、無制約的なもの、絶対的なも のに高め、それから人生の意味と目標を規定」(143)しようとする立場であり、決して全面的に 肯定され得ないといえるからである。主体的努力の善さを何よりも重んじて生きる、倫理的実存 の立場に立つBが、美的在り方を不十分とみなすことも十分理解できるといえる。
しかしここで注目したいのは、快楽の充足に人生の意義と目標を見出す在り方である。実はこ れが『あれか、これか』において、美的実存の代表として細かく論じられているのである。自分 に快楽を与えるものを追求する傾向が、人間本性に非常に根強く巣喰っているせいか、快楽追求 者は、時には非難の対象として、時には羨望の対象として、常に我々の話題になる。ローマ皇帝 ネロや中世末スペインの伝説上の人物ドン・ファンが、その典型的例である。そこで『あれか、
これか』においても特にドン・ファンは、本能的、衝動的に欲求の充足を求める生き方の理念と して登場してくる。しかしこれとほぼ同じ立場に立ちながらも『あれか、これか』の第‑部の仮 空の著者であるAやヨ‑ネスは、多少異なった面も有している。彼らは単に本能的、衝動的に快 楽を追求するのではない。もっと知性的であり、美的にも洗練されている。古代ギリシァの悲劇 を読み、近代ロマン派の文学やヘーゲルの哲学を理解しうるほどの能力を具えている.しかし生 きることに退屈を感じるが故に、(倫理的人間Bのように)ここで今、真剣に善く生きようと努 力しない。何ら定職も持たず、世間から孤立して、自分の恵まれた素質、能力を、唯自分の気紛 れな関心に合ったものとの知的遊戯、美的戯れに費やしている。簡単に言えばAやヨハネスは, ドン・ファンと同じ様に人生の遊び人であるが、知的、美的にもっと洗練されている。これが
『あれか、これか』の第‑部の仮空の若者達である。そこで以下において、こうしたAやヨハネ ス(ひいては間接的にドン・ファンやネロ)の立場について、もっと細かく追求してみたい(6)
。
その目的は次の様に3つある(1)Schragは、快楽追求者ネロとの関係において次の様に述べ
ている。(『あれか、これか』における)「ネロの本性のこうした記述は、我々がネロから異なっ
ているということを、パリサイ人と共に神に感謝する機会を我々に与えるために企てられたので
はない‑‑。キルケゴールは、ネロが"我々の肉の肉、骨の骨〝であることを強調している。即
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ちネロにおいて人間的実存の可能的様式が明白になると述べている。」 (87‑8)快楽を絶対視す る在り方が、主体的努力の善さを重んじる倫理的実存の立場より遥かに未熟であることは、確か である。 (富や権力の場合と同様)快楽を得るか否かも、やはり主体的努力以外の運、不運に依 存するし、しかも不正を働いて得られることがあるのは明白だからである。しかしおよそ人間で ある限り、誰もが快楽に執着する非常に根強い傾向を持っている。ネロを、我々と全く異質な人 間として突き離すことができない面が、現実の我々にはある。それ故快楽に対して正しい態度を 培うためにも、快楽追求者の在り方をよく調べる必要がある (2) Stackは次の様に述べてい
る。 「キルケゴールの思想の周辺にあるニヒリスティックな可能性‑・・・を見失うことは、彼の思 想や実存における弁証法的緊張を誤解することである。彼の思考や生が、人生の意義‑の情熱的 探求によって貫かれていたことを見担うことである。」(Preface x)これは主としてAとの関連で 述べられていることであるが、遊び人Aの心の奥底には一種のニヒリズムがある。そこでそれの 特徴、それの克服を問題とするためにも、 Aの在り方をよく調べる必要がある (3)Aのよう に一見現実離れした人物を、キルケゴールは、自らの著作の主要人物の一人として登場させた。
そこでそれの描写がもつ現代的意義を探求する必要がある。要するに美的実存の在り方の描写を 通して、キルケゴール思想の現代的意義を解明する必要がある。
III 反省的享楽者の間蒐
1 反省的享楽者の発生理由
このことは勿論『あれか、これか』において、まとまった形で述べられている訳ではない。し かしAの自分に対する発言、 BのAに対する批判などをもとにして、こちらで整理してみたい。
(1)この世との一体感の喪失‑ 『古代の悲劇的なものの現代の悲劇的なものへの反映』とい う小論文においてAは、次の様に述べている。 「我々の時代は、家族、国家、血族のあらゆる実 体的規定を失ってしまった。我々の時代はそれぞれの個人を、極めて厳密な意味で自分自身の創 造者にするといった仕方で、全く彼自身に委ねざるを得ない。」 (I. 160)又Bも同じ様な時代 批判をしている。 「我々の時代は、まさにギリシア都市国家の崩壊を思い出させる0 ‑切はなお 存続している。しかしそれを信じている者は、もう誰もいない。一切に妥当性を与える目に見え ない精神の粋は、消滅してしまっている。」 (n. 20)個人が、自分がそこで生まれ育った社会と の深い精神的結びつき、一体感を抱いている場合には、そうした社会との関係で、自分なりに意 義ある仕事を見出し、充実した生活を送ることも可能となる。又自分と同じ様に働いている人々
との連帯感も生じ易いo しかし社会との精神的結びつき、一体感が失われると、人々はとかく孤
立し、仕事や交際においても充実感や喜びが得られなくなることが多い。 「無数の交際仲間の他
に僕は、なおもう一人の親友をもっている。即ち僕のふさぎの虫である。僕の喜びの最中に,僕
の仕事の最中に、それが僕に目配せする。そして僕の身はその場にとどまっているのに、僕を脇
へ呼び出す。実際僕の憂欝は、僕が知るようになった最も忠実な恋人である。」 (D. 21) ‑‑と
ころでこうした何ものにも没頭し得ない自分、何ものにも専心し得ない空虚な自分の自覚は,生
きることへの懐疑に導く。 「一体全体、この人生の意義は何なのか。もしも人間が2つの大きな
階級に分けられるならば、一方は生きるために働くが、他方はそれを必要としないと言われるこ
とができる。しかし生きるために働くことは、確かに人生の意義ではあり得ない。諸制約のたえ
ざる産出が、この産出によって必然的に制約されているものの意義に関する問題に対する解答で
あるということは、矛盾であるからである。他方の人生も、人生の諸制約を食い尽くす以外,坐 く如何なる意義も有さない。人生の意義が死ぬことであると言われるとするならば、これはこれ で矛盾であるように思われる.」 (D. 33)しかも一度生き甲斐の喪失の意識に襲われると、懐疑 はこの世の意義を疑い、否定することばかりに向けられる。この世を肯定し、受入れることを拒 み、むしろこの世の無意味さ、空虚さを指摘することに意地の悪い喜びを見出したりする。 「僕 は、疑う勇気をもっている。すべてに対してそうだと信じている。僕は、戦う勇気をもっている。
すべてに対してそうだと信じている。しかし僕は、何かを認識する勇気をもっていない。何かを 所有し、自分のものにする勇気をもっていない。」 (D. 24)そこで懐疑は、善く生きることに対 して、積極的で建設的なものを何も生み出さなくなる。むしろそうしたものを否定することばか りに向けられる。 ‑しかもこうした懐疑は、平々凡々と生きる世間の人々‑の噸笑を生む。
「とても小さかった頃、僕は一一笑うことを忘れた.かなり大きくなって、目を開き環実を観察 した時、僕は笑うようになった。そしてその時以来、笑うことをやめない。僕は生計を見出すこ とが、人生の意義であるのを見た。法律顧問官になることが、人生の目標であるのをみた。裕福 な娘を手に入れることが、愛の豊かな楽しみであるのをみた。互いに経済的苦境において助力す ることが、友情の至福であるのをみた。多数の人々がそうしたものとして受入れるものが、知恵 であるのをみた。 ‑‑‑こうしたことを、僕はみた。そして笑った。」 (D. 36) 「すべての噸笑す べきことの内で最も噸笑すべきことは、世間において熱心に事を運ぶことであるように思われる。
食事においても仕事においても、最初に済ます人であることのように思われる。 ‑‑・こうした忙 しい卒先家達は、一体何を達成するのであろうか.彼らは、家が火事であったのに動転して、火 ばきみを救った例の女と同じではないのか。彼らは、人生の大火から一体それ以上の何を救うの か。」 (D. 26)そして懐疑は、ますます個人を孤立させ、社会への積極的働きかけを拒む。 「そ のことによって自分の運命が変えられるかのように、世間で叫んだりわめいたりすることが,幾 分でも意義があると信じるためには、実際大層な素朴さが必要である。人は、与えられるがまま に受取り、あらゆる苦情を断念すべきだ。一一今では僕は、決してもう叫ばない。」 (D. 35‑6)
‑このように社会との一体感の喪失は、懐疑、生き甲斐の喪失、世間への噸笑、孤立などと密 接に絡み合っている。そしてこれらが、 (客観的に意義あろうとなかろうと、そうしたことに頓 着せずに)自分に関心あるものへの気紛れな戯れに耽る反省的享楽者を生じさせるのだといえる。
(2)自由への願望(拘束の排除) ‑ 『輪作』においてAは次の様に述べている。 「人は決し て何か或る職務につこうとしてはならない。そうするならば、まさに月並な人間になることだろ う。国家組織の機構内の取るに足らない歯車になることだろう。人は活動の主人であることをや める。 ・‑‑それの下で君が奴隷になる法則は、昇進が早かれ遅かれ、同様に退屈である。」 (I.
318なお「歯車」は英訳を参考にした訳語である。 I. 294)さらに友人関係や夫婦関係も斥けら
れる。 「人は、それによって多数者になり得る生活関係に入ることに常に用心しなければならな
い。それ故すでに友情が、危険である。結婚は、より一層そうである。一一多数者になれば、人
はその自由を失う。気健に旅行靴を注文することも、放浪することもできない。」 (I. 317)し
かし如何に孤立しようとも人間は、他人との交際なしに済ますことはできない。しかもその交際
が一時的には極めて楽しいこともありうる。そこで「たとえ暫らく運動の進行を共にするにして
も、常に素早く逃げることができるだけの、より大きな速度をもつようにすればよい」 (1.316)
とされる。女性との関係においても、ロマン主義的な自由恋愛を楽しむのはいいが、しかし結婚
は断じて避けるべきだとされる。 「2人の人間が互いに愛し合い、互いのために定められている
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と感じるならば、関係を断つ勇気をもつことが重要である。というのは続行することによって、
単にすべてが失われるだけであり、何ものも獲得され得ないからである。」 (I. 318)更に生き ている以上は何もしない訳にはいかないから、特定の活動も肯定される。 「ところで職務を放棄 するにしても、それだからといって何もしないでよいのではない。閑暇と同一である、かのあら ゆる活動に重きをおくのがよい。あらゆる種類の生計に関わりのない業を為すのがよい。」 (I.
318)こうしたふざけた不真面目な発言の背後にも、社会との一体感や生き甲斐の喪失の意識が 潜んでいることは言うまでもない。しかし単にそれだけではない。月並な世間的在り方に埋没す ることへの反発、そうしたものがもつ拘束への服従の拒絶、そして自分に可能性を残しておきた いという願望も、はっきりみられる。それ故有限で相対的なこの世の在り方から逃れたいという 願望、それがAのような反省的享楽者を生み出したともいえる。(7)
(3)経済的豊かさ‑前述の如くAは、働くことは人生の意義ではあり得ないと主張し、定職 につくことさえ拒絶していた。しかしこれは、 A自身が経済的に恵まれていたからこそ初めて可 能なことともいえる。経済的に恵まれていない人は、意義があろうとあるまいと、生きるため に働かざるを得ないからである。快楽主義者ネロやドン・ファンは共に貴族であったが、 Aも励 かなくても生きてゆける程経済的に恵まれていたが故に、反省的享楽者になり得たといえる。(8)
‑反省的享楽者が生じる理由は、以上のように3つばかり考えることができると思われる.
2 反省的享楽者の生き方の特徴
ここではAのような反省的享楽者の生き方の特徴を整理してみたい。そしてそれとの関連でド ン・ファンのような本能的快楽追求者の生き方の特徴についても言及してみたい。
(1)無気力‑ 「僕は全く何もしたくない。僕は馬に乗りたくない。これは余りにきつすぎる 運動である。僕は歩きたくない。これは余りに疲れすぎる。僕は横たわっていたくない。 ‑‑‑価 単に言えば僕は、全く何もしたくはない」。 (D. 20)生き甲斐を喪失し、この世に居心地が悪い と思っている限り、とかく無気力な在り方が生じるのは当然である。生き甲斐の喪失は、人を憂 欝にさせ、何に対してもとかく「受動的、無感動に」 (McCarthy61)させるからである。そこで この点では、生き生きと常に活気に満ちている(本能的)快楽追求者とAとの間に、大きな違い があるといえる。 Aには本能のままに生きる直接性が欠けている。むしろそれは疲れ、萎え果て ている。それ故そうしたものに対する一種の羨望、憧景が、 Aには見出される程である。 「エー レンシュレーガーの『アラディン』は、この作品がその極端に恥知らずの願望においてさえも、
天才的な子供じみた大胆さをもっているが故に、我々を元気づける。本当に敢えて願望し、欲求 し、自然に請い求めるだけの勇気ある人が一一我々の時代にどれくらい多くいることか」 (D.
22) 但しこうした無気力な在り方は、 Aの生の一面にすぎない。彼も、自分の関心に通う事 柄を見出すと、人並外れた熱意で一時的に没頭する面はあるからである。それ故一時的な没頭と
それに続く無気力とのたえざる繰返しが、 Aの生のリズムだともいえる。 Bもこのことを証言し ている。 「君の生は、 2つの大きな対立の間に置かれている‑‑‑。時折君は、測り知れないエネ ルギーをもつ。そして時折君は、同様に大きな無気力をもつのだ」 (H. 207)
(2)窓意的、剃郡的な在り方(人格の統一、その進歩、発展の欠如) ‑これは、反省的享楽 者と本能的快楽追求者に共通にみられる特徴である。しかしそれを分かり易く説明するために、
とりあえず彼らとは全く反対の立場を考えてみたい。即ち「これこそ自分の生きる意義である。
これがなくなれば、自分が自分でなくなってしまう」といった社会的にも重要な意義ある仕事を
見出し、それの実現に一生を賭けるといった場合をである。そうするとこうした場合には(それ が貰徹される限り)、人格の真の統一、その進歩、発展が達成され易いといえる。例えば(Aの ように窓意的関心を充たすためにではなく)学問であれ、実業であれ、何か或る仕事に自分の生 きる意義を見出し、それの遂行のために日夜自分を厳しく鍛え上げようと努めたとする。そうす るとまず第一に、E]々の生活に秩序付け、一貫性がもたらされることができる。例えば朝起きて から夜寝るまでの時間を、意義ある目的の実現に相応しいように秩序付け、コントロールするこ とが可能になる。そして第二に(こうした努力が恒常的に繰返される限り)、過去から現在、将 来へ向かっての人格の同一性、さらにはその進歩、発展も可能になるといえる。意義ある目的と の関係でたえず自分の在り方を反省し、自分の不十分さを自分で是正しようと努める限り、(同 一の意義ある目的の実現に向けられているということでの人格の統一性のみならず)未熟な在り 方から、より一層望ましい在り方‑のく時間的)進歩、発展も可能になると言えるからである。
それ故社会の中で、これがなくなれば自分が自分でなくなってしまうといった、重要な意義ある 目的を見出し、それの実現に一生を賭ける場合には、人格の統一、さらには過去から将来へ向か っての人格の進歩、発展も達成されるといえる。‑そしてこのことは、善く生きることを何よ りも重んじる場合についても当然言える。例えば自分の素質、能力に適った善い仕事を社会にお いて見出す。そしてそれを中心にして、日々の生活においてたえず自分の不十分な面、望ましく ない面を斥け、より望ましいものを求めようと心掛ける。こうした努力をたえず繰返すならば、
自分の生活が、善の実現という観点から秩序と一貫性をもってくる。さらに道徳的により不十分 な自己から、より一層望ましい自己への進歩、発展も可能となってくるOそれ故一般に、これこ そ自分の生きる意義、自分の生き甲斐であるといったものが、しっかり確立した場合に、人格の 真の統一、その進歩、発展といったことが可能になるといえる(9)
。
ところが決楽追求者の場合には、事情が異なる。彼らの人生は、非常に剃那的で悪意的になら
ざるを得ない。何故かというと、環境や自分の状態との関係でこの世の中のものは、(それが客
観的に意義あるものであろうとなかろうと)何でも快楽の対象となり得るし、逆から言えば何で
も不快の対象となり得るからである。そして環境や自分の状態が変化する限り、或るものから
(たとえそれが客観的に意義あるものであろうと)永続的な仕方で快楽を得ることは不可能だか
らである。例えば卑近な例を挙げると、リンゴならリンゴに対して我々は、空腹である時には一
般に快楽を感じ易い。しかし空腹でない時には快楽を感じないといったことは、よくある。さら
にいくら空腹でも、毎日リンゴを食べていれば、それに飽きるといったこともある。リンゴその
ものが腐ってしまい、我々の食欲をそそらないこともある。それ故快、不快だけに囚われている
限り、我々はどうしても剃郡的、窓意的にならざるを得なくなる。例えば或る時にはⅩを求めて
いたのに、次の瞬間にはもう飽きて、その反対のYを求めるといったことが生じる限り、快楽中
心の人生は剰那的である。刻々と変化する快楽に身を委ねている限り、将来‑の見通しも失われ
て、瞬間に生きる在り方しか生じないからである。しかも我々に快楽を与えるものが、我々の人
生全体、社会との関係で、常に意義あるものであるとは限らない。快と道徳的善とは異なる。そ
れ故快楽に身を委ねている限り、目先きの利益のためにより一層大切なものを失うといったこと
も生じ易い。こうしたことを含めて快楽中心の人生は、生き方、考え方、人々の交際のすべてに
おいて、窓意、気紛れに支配され易い。何か客観的に意義あるものを恒常的に求めるといったこ
とは、不可能になってしまうのである。そこで決楽に振り回されている限り、日々の生活を一つ
の目的を実現するのに相応しいように秩序付ける、関連付けるといった恒常的努力も生じない。
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まして未熟な在り方から、より望ましい状態への進歩、発展も生じる筈がない。未来への発展の 見通しもなく、唯、瞬間に身を委ねる、瞬間の変化に身を委ねる。そうした剃那的、悪意的在り 方しか生じないといえる。 「ドン・ファンの生は、相互に如何なる関連ももたない互いに反発し 合う諸瞬間の総計である。彼の生は、瞬間として諸瞬間の総計である。諸瞬間の総計として瞬間 である」 (I. 103)快楽だけに振り回されていると、 「過去や未来のことは、どうでもよい。唯 寛在さえ楽しめばそれでよい」といった剃那的、窓意的在り方が生じる。そこで快楽だけを追求 していると、人間の自己は「互いに関係付けられない、バラバラの感覚の束」 (Taylor 152)に なってしまう。そしてその生には何ら統一、進歩、発展もなく、 (客観的に意義あるものも、そ うでないものも、互いに関係付けられることなく)バラバラに混在するといったことが生じざる を得ないのである。
そして今述べたことは、反省的享楽者の場合にも同様に成り立つ。生きることに退屈し, (物 事の客観的価値を顧慮せずに)自分の主観的、悪意的関心に振り回されている限り、彼もドン・
ファンと同じであるからである。 「如何なる産婦も僕よりも異常で性急な願望をもち得ない。こ うした願望は、或る時には極めて些細な事に関係する。或る時には極めて崇高な事に関係する。
しかしそれらのすべては、同じ程度の高さで魂の瞬間の情熱をもつ。僕はこの瞬間に一皿のそば 粥を願う。 ・‑‑僕は、その代わりに長子相続権以上のものを与えてもよい」 (D. 28) 「僕に何 を尋ねてもよい。しかし理由だけは尋ねないでほしい。 ‑・・.一般に僕は非常に多くの、しかも大 抵互いに内的に矛盾する理由をもっている。こうしたことのために理由を述べることが、不可能 な程だ。原因と結果も正しく連関していないように僕には思える。或る時には大きな強力な原因 から、本当に小さい些細な結果が生じる。 ‑‑・或る時には全く小さな原因が,大きな結果を生み 出す」 (D. 26)生きる意義や目的がしっかり確立していない場合には、物事の価値を理性的に 正しく反省する習慣も等閑にされ易い。そのため単なる思いつき、偶然の事情などに起因する諸
理由が、たえず心に去来する。しかもそのどれもが尤もらしく思えたりする。そこでその一つに 従った結果、より小さな利益は得られたが、より大きな利益を失う。より小さな扱矢は免がれた
が、後でかえってより大きな損失を被る。こうしたことも、どうしても起こらざるを得ないので ある。それ故こうした生き方を続ける限り、人間は瞬間の気分に振り回されて、もはや自分で自 分の在り方を支配、コントロールすることが、できなくなる McCarthyが言うようにAは、
「諸気分の犠牲者、移り気な欲求や瞬間的激情の犠牲者」 (115)になってしまうであろう。 「僕 は、あらゆる可能的気分を体験し尽し、あらゆる方向に経験を積み重ねねばならないことに規定 されているように思われる。あらゆる瞬間に僕は、外海の真申で泳ぎを習わねばならない子供の ように横たわっている。僕は叫ぶ。一一というのは僕は勿論、身体に縄をつけられている。しか し僕を海面に保つはずの棒を見ないからである。これは恐しい経験の仕方である」 (D. 34)
(3)忍耐の欠如と未熟さ‑ 「僕には一般に生‑の忍耐が欠けている。僕は草が生長するのを みることができない。しかしそれができない時、それをみたくもない。僕の見解は、大急ぎで人 生を突進して行く"遍歴の学徒〝 のはかない考察である。主なる神は我々の眼よりもむしろ胃を 満たすといわれる。僕はそうしたことに少しも気づかない。僕の眼はうんざりし、すべてに飽き 飽きしている。しかも僕は空腹である」 (D. 26) Aのように生き甲斐を喪失し目的意識に欠け ると、何をやる場合でも真剣さ、切実さが失われ易い。一寸困難にぶつかると、嫌気がさしてす
ぐに中途で放り出してしまう。こうしたことになり勝ちである。しかしそれでは何時までたって
も充実感は得られないから、慢性的な欲求不満が生じる。そこで生‑の充実感の欠如と忍耐の欠
如、中途半端な活動とは、常に一つに結びつくことになる。Bも、「月並という鉄道に乗り、社 会生活の雑踏においてアトムとして自己を喪失する」ことを嫌うことによって、Aの人生が「人 生への助走」(n.7)ばかりになってしまうと批判している。Aが何を試みようと、それはすべ て一人前の域に達しない中途半端さで終ってしまうというのである(ll)
。この世の中で一人前の
大人とみなされるためには、個人は自分を厳しく鍛え上げねばならない。この世の中が自分に要 求する課題を真剣に引受け、それを自分の努力で達成する。こうしたことが可能となって、個人 は初めて社会の中でしっかりと足場をもち、それなりの生き甲斐を得ることもできるのである。
ところがAのような人間には慈恵的、剃郡的熱意は期待できても、一つの目的に徹する永続的な 努力、向上は期待できない。そこで生きることへの充実感の欠如が、忍耐の欠如、中途半端な末 熱さを生じさせると同時に、逆に未熱さが、充実感の欠如を生じさせてもいるのである。くなおド ン・ファン的快楽追求者が仕事においては、とかく忍耐を欠き中途半端になり勝ちなことも否定 できない。彼らは仕事とは別なことに夢中になり、そこで生の充実を得ようとするからである)0 (4)社会生活における特徴‑次に反省的享楽者の社会における在り方の特徴を考えてみたい。
①社会的、政治的問題に対する無関心すでに述べたようにAは、世間の人々を軽蔑してい
た。そして職業活動を嫌い、夫婦や友人といった恒常的人間関係をも意識的に避けようとしてい た。さらに「まるで自分の運命を変え得るかのように思って、世間で叫んだり、わめいたりする こと」が、無意味であり、「物事を与えられるままに受取って」静観するとも述べていた。そこ でAは現実の社会における問題に対して、とかく無関心で傍観的になり易い。この世の中におい て何に対しても充実感を感ぜず、居心地が悪いと思っていれば、どうしてもそうならざるを得な いのである。そこでBは次のようにAを批判している。「君が、国王‑の請願書に署名するかど うか問われるならば、或るいは憲法ないし課税承認権を要求するかどうか、さらに慈善運動に参 加するかどうかと問われるならば、君は答える。『皆さん。あなた方は、僕を誤解しています。
僕は決して参加しません。僕は脱落します(12)‑‑・』。と」。(n.182)②現実からの遊離働
かなくても何とか生活ができるから、職業活動に従事しない。しかも厄介な拘束を加えられ、自 分の可能性が奪われるが故に、恒常的人間関係も努めて避けようとする。こうした在り方をして いる限り、Aは何時までも未熟で、中途半端な状態にとどまってしまうOく一人前の職業人とな るために自分を厳しく鍛え上げるといったことが欠けるだけではなく、社会や他人の正当な要求 に自分を合わせようといった努力も十分になされないからである)。しかし単にそれだけではな い。Aと他人や社会との結びつきは、その必然性を失って極めて希薄なものとなってしまう。A からすれば自分の窓意的関心に通うものが見出される場合に限って、他人や社会は相対的意義を もつのである。そこでAと社会との関係は、A自身の慈恵に基づく、極めて偶然的で希薄なもの にすぎない。しかもAはそうした関係を、自分の楽しみを充たすために結ぶだけである。それ故 Aの他人および社会との関係は、真聾さを欠き、悪意、戯れ、ふざけが横行するものとならざる を得ない(13)
。そして社会慣習や常識から逸脱した突飛さ、奇抜さも、たえず伴い易いといえる.
「僕の身体構造における不均衡は、前脚が余りに短かすぎることである。オーストラリアの小カ
ンガルーのように僕は、全く短い前加と無限に長い後脚とをもっている。一般に僕は全く静かに
坐っている。しかし僕が運動をすると、それは途方もない跳躍である。それでそれは、家族や友
情のか細い粋で僕が結びつけられているすべての人々を驚かすことになる」(D.41)こうした
発言は、「人格性の深刻な歪曲」(Grimsley31)と、それに基づく外的突飛さを表現していると
いえる。③無責任、悪の可能性今も述べたようにAにとって他人は、自分に楽しみを与え
96 若 松 謙
る限り意味をもつ存在にすぎない。そこでAと他人との関係は、唯Aの窓意だけに基づき、しか も唯それだけによってコントロールされる可能性がたえずある。それ故Aの在り方は、無責任、
不道徳と必然的に結びつく。自分を社会や相手の要求に合わせようとするのではなく、逆に相手 を自分の窓意のままに操ろうとする限り、そうならざるを得ないのである。そしてこのことは、
『あれか、これか』の第‑部の最後の『誘惑者の日記』においてはっきり示されている。 (Aの 分身である)主人公ヨハネスは、偶然17歳の少女コ‑デリアと出会し、その美しさにひかれる。
そこであらゆる方法を用いて彼女に近づき、婚約することに成功する。しかし結婚は(Aが主張 していたように)自分を拘束するので、断じて避けねばならない。そこで婚約から結婚といった 世間的にありふれた慣習に対する嫌悪を彼女に植えつけ、何ものにも拘束されない自由恋愛こそ 愛の極致だと彼女に信じ込ませる。そして彼女自身が自発的に婚約を解消させるように仕向ける のである。かくしてヨハネスはコ‑デリアを、自分のロマン主義的関心に完全に一致する女性に 仕立てあげることに成功すると同時に、 (彼にとっては退屈に他ならない)結婚をも免れる。ヨ ハネスはこうしたことを平然とやるのである。これは他人の心を踏みにじる非常に残酷な例であ
なま
る。そして道徳的に非難されるのが当然である。 「彼自身の血管に生の血を欠いてヨハネスは、
彼自身の詩的実存を維持するために、女性の生きた実質に養われねばならない。 ・・‑・彼は、彼自 身の衰弱した生の欠陥を救うために、コ‑デリアの本質を吸いとろうとする吸血鬼である」。
(Grimsley 35)しかしこうした無責任な不道徳さは、反省的享楽者の在り方から必然的に生じ ざるを得ないといえる。倫理的人間Bは、主体的努力の善さを何よりも重んじて生きる「倫理的 実存」との関係で、次の様に述べている。 「倫理的に自分自身を選択する者は、自分自身を課題 として有する。可能性、即ち自分の慈恵の気紛れのための玩具として、自分白身を有するのでは ない」 CE. 275)倫理的人間は現実の自分を決して絶対視せず、むしろそこからより一層道徳 的に望ましい自己が形成さるべき課題を負ったものと考えるとされるのである。ところがこれに 対して反省的享楽者は、自分を安易に肯定し、自分に課せられた道徳的拘束にも無関心、冷淡で あろうとする。そこで彼にとっては、自分自身のみならず、 (他人や社会的場実を含めた)一切 のものが、 「窓意の気紛れのための玩具」となり得る可能性がたえずある。それ故無責任、不道 徳といったものが、たえず彼につきまとうといえる。このことはドン・ファン的快楽主義者にも 当然成り立つといえる。
3 反省的享楽者の終末
このように反省的享楽者の生き方には、さまざまな欠陥が伴っている。従ってこうした生き方 をしている限り、当然望ましくない結果も生じざるを得ない。そこで次にそれをまとめてみる。
(1)可能性の喪失‑反省的享楽者は、生きることが退屈であるが故に世間から孤立し、客観 的に意義あろうがあるまいが、自分の関心に通えることとの戯れに日々の生活を賛していた。し かしこうした戯れが、常に思い通りの成果を得られる訳でないことは、欲求の充足の場合と同様 である。成果は、主体の努力以外の偶然の事情にも常に依存しているからである。女性を自分の 思い通りに操ろうと目差す誘惑者ヨハネスが、常に予期した成果を得ることはありえないのであ
る。しかも一度始まった人生‑の懐疑は,とどまることを知らない。懐疑は最終的には、その遂 行者自身の在り方にも鉾先を向ける。気紛れな戯れに耽るといった中途半端な在り方を決して許 容することはない。 「僕の魂の有毒な懐疑は、すべてを食い尽くす。僕の魂は、その上をいかな
る烏も飛ぶことができない死海に似ている。もしも烏が半分程進んだにしても、それは力尽きて、
死と没落の中へ沈んでゆく」。 (D. 40)そこで楽しみの充足も、ついには色槌せてくる。 「受胎 させた瞬間に死ぬ昆虫がいることは、よく知られている。あらゆる喜びの場合も同様である。人 生における最上で至上の楽しみの瞬間は、死によって伴われている」。 (D. 20) 「生存の悲惨さ
の最善の証明は、生存の素晴しきの考察から導出されるものである」。 (D. 30)こうした失望や 幻滅は、人をますます無感動にさせる。そこで何ものにも没頭しえない自分、何ものにもひたり 切ることのできない自分を、無気力にじっとみつめるといった事態が生じる。 「ワインは、僕の 心をもはや元気づけない。それの少量は僕を悲しくさせる。その多量は僕を憂欝にさせる。僕の 魂は疲れ果てて力がない。僕の魂の側面を快楽の拍車であおっても無駄である。 ‑・‑僕はあらゆ る幻想を失ってしまった。喜びの無限性に身を委ねようとしても無駄だ・‑‑」。 (D. 44) し かもおよそ人間である限り、誰もが自分の生き方の善し悪しに対する自覚、反省をもっている。
そこでこれまでの生き方を顧りみて、 「これでよいのか」と真剣に自問する時期が、何時かは必 ずやってくる。 「人生において直接性が、いわば成熟する瞬間がやってくる。精神がより高位の 形式を求める瞬間がやってくる。精神が、自分自身を精神として把起しようとする瞬間がやって くる。 ‑・‑今や精神は散漫状態から抜け出して、いわば自己集中する」。 (n. 201) (これは勿論、
倫理的人間Bの主張である。彼は快楽などに耽る在り方から、善し悪しを何よりも重んじて生き る意志的、精神的在り方への飛躍を問題にしているのである)。こうした時、これまでの自分を 安易に正当化しようとしても簡単にはできない。いい加減な生活をしていればいる程、 「これで よいのか」という不安が、重々しく心を支配するようになる(たとえ善の実寛が積極的に目差さ れないにしても、そうである)0 Bはネロとの関係で次のように言う。 「精神は常に現われ出よう
とする。しかしそうすることができない。たえず精神は欺かれる。そしてネロは、精神に快楽の 飽満を提供しようとする。その時ネロにおいて精神は、暗い雲のように結集する。精神の怒りは、
ネロの魂の上に覆いかぶさる。そして楽しみの瞬間そのものにおいても消えない不安となる」。
(n. 198)ところで現実にAも、く彼はこの世に充実感を感じていない限り、ネロより遥かに複 雑な面を有するが)こうした不安を感じ、それが彼を束縛している。 「僕を縛るものは何か。
一一僕も同様に暗い想像や、びくびくする夢や、安らいのない思いや、心配な予感、説明できな い不安からできた鎖によって縛られている」 (D. 37) 「僕の内的本質の上には地震を予感する 重苦しさ、不安が垂れ込めている」。 (D. 31)こうした内的束縛がある限り、何かに没頭して我 を忘れることは、ますます不可能となる。 「僕の魂は非常に重いので、如何なる思想も最早それ を持ちこたえることはできない。如何なる羽掃きも最早それを空中に押し上げることができな い」。 (D. 31)かくして何に対しても飽き飽きし、気晴しで憂さを暗すこともできなくなる。気 晴ししようとしている自分自身がすぐに自覚されてきて、気を紛らすことさえできないからであ る。そこで残るは、退屈、倦怠だけである。 「退屈は何と恐しいものだろう。一一僕がみる唯一 のものは空虚だ。それによって僕が生きる唯一のものは空虚だ。そこにおいて僕が動く唯一のも のは空虚だ一一。苦痛でさえも僕を奮い立たせない。たとえ僕にこの世のあらゆる立派さが示さ れようと、あらゆる苦痛が示されようと僕にはどうでもよい」。 (D. 40) 気紛れな可能性と 戯れることを目差した彼の人生は、こうしてかえって可能性を失ってしまう。彼に充実感を与え る可能性は、最早何もない。 「僕の魂は、可能性を失ってしまった。万一僕が何かを願うとした ならば、僕は富や権力を願わずに可能性の情熱を、永遠に若く永遠に燃えるように可能性をみる 眼を、願う。楽しみは欺すが、可能性はそうではない」 (D. 45)そして充実感を与えてくれる
もの、せめて退屈を紛らしてくれるものさえも何もない限り、人生は無意味さ、空虚さの単調な
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