奈良教育大学学術リポジトリNEAR
キルケゴールにおける宗教的実存
著者 若松 謙
雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学
巻 37
号 1
ページ 15‑35
発行年 1988‑11‑25
その他のタイトル Die Religiose Existenz bei Kierkegaard
URL http://hdl.handle.net/10105/2015
奈良教育大学紀要 第37巷 第1号(人文・社会)昭和63年 iull. Nara Univ. Educ, Vol. 37, No.1(cult.& soc.) ,l
キルケゴールにおける宗教的実存
'{', '∴ ,1!' (奈良教育大学倫ftB学教室)
(昭和63年4月28日受増)
I はじめに
1846年2月27日にJohannes Climacusという匿名の著者の下で出版した『哲学的断片への 完結的非学問的後書き̀1'』 (以下『後割と略す)において、キルケゴールは宗教的実存を宗教 性AとBに分けている(n. 266以下)両者とも全知全能にして道徳的にも完全な神‑の信仰 を重んじることは言うまでもないが、この細分によると宗教性Aの方は「内在の宗教性」 (Ⅱ.
270)であり、神的で永遠なものがすべての人間の内に可能的に存在しているとみなす立場であ るとされる。 「各個人は本質的に同様に永遠の印を与えられている。そして本質的に永遠なもの に関わっている。」 (皿. 285)この場合人間と神とを結びつけるのは、倫理的なものである。 「倫 坤的なものにおいてのみ、君の永遠の意識がある。」 ( I. 139) 「倫f那勺なものは、個人が神と共 有する知である。」 (I. 145)そこで「自分と神との間には倫王那勺なもの以外の何もありえない」
(I. 126)と考えて、ひたすら倫理的努力を重んじる。そしてそのことによってすべての人間 が永遠の浄福(これは不死、永遠の生と一つに結びついているとされる n. 270)に与り得
るとみなす立場が、宗教性Aなのである。これは「実存することを倫理的に強調する」 (n 284) ことによって「倫理的貞撃さをそれ自身の内に有する」 (Hirsch 202)立場であるといえる。
これに対して宗教性Bは、キリスト教信仰の立場であるとされる。この立場も宗教性Aと同様 に倫理的なものの重要性を自覚しているが、しかし自覚していればいるだけ、それだけに倫理的 なものが個人の努力だけによって単純に実現可能だとは考えない。 「義務は絶対的なものであり、
その要求も絶対的なものである。しかし個人は、それを実現することを妨げられている。」 (I.
262)キリスト教の立場からすれば、人間は罪の故に倫理的なものを実現する力を失ってしまっ た。 「倫理的なものの遂行からの途方もない解放、個人と倫王那勺なものとの異質性、倫理的なも ののこの中断が、人間における状態としての罪である。」 (ibid.)そこで人間は自分の努力だけ では永遠の浄福に与り得ない。歴史の中に現われた神としてのイエスと、その購いによる罪の赦
し(神の愛)を心の底から信じることが決定的に重要である。こうした信仰によってイエスのま ねびとしての隣人愛の実践も可能となり、永遠の浄福も初めて可能となるとされるのである。
ところで『後書』の匿名の著者クリマクスは、未だキリスト者ではなく、しかも(生誕と同時 に洗礼を受け、過に一度教会へ行けば立派にキリスト者として通用するといった)当時のコペン
‑‑ゲンの現状には疑問を感じているo又現世的御利益を期待するが故に神を信じるといった不 敬虐な態度にも反感を抱いている。そこで彼は、 「宗教的なものが貢に宗教的なものである時、
それは倫理的なものを通過し、それを自分の内に含み、それを忘れることができない。倫理的な ものを通過せず、それを自分の内に含まない宗教性は、それ故美的宗教性である。 ・ ‑・そこでは 神は、自分の幸福憧憶の実現の保証者とみなされる」 (Paulsen 276)と考えている。この意味 で彼は、倫理的真筆さをその内に必然的に含む宗教性Aの重要性を十分認めている。キリスト教
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信仰が問題となる前に、 「まず宗教性Aが個人において存在していなければならない。」 (n.267) しかし彼は宗教性Aの立場に生きることによって、同時にその限界も意識するようになった。個 人と倫理的なものとの異質性を強調するキリスト教信仰の立場に、宗教性A以上の莫撃さが含ま れているのではないかと考えるようになったのである。 「キリスト者になることは、人間がなる ものの内で最も決定的なものである。」 (n. 315)そこでここにおいて(これまで2回にわたっ て紹介してきた『あれか、これか̀2)』の)倫理的人間Bとクリマクスとの立場の違いがはっきり してくる。 『あれか、これか』の中心テーマが、美的人間Aの人間的立ち直り、社会復帰‑のB の勧告であったにせよ、そのB自身が神への信仰をもち、自分の努力で事物の理性的秩序に参与
し、永遠の妥当性における自己に到達しうるという確信をもっていたことは既に述べた。 (本学 の紀要第35号第1号118注‑18)それ故Bが、クリマクスと同じように既に宗教性Aの立場に 立っていたといえる血があるのである。両者の決定的違いは、 Bが何処までも宗教性Aの立場に とどまり、自分の努力で永遠の妥当性における自己に到達しうる(このことはクリマクスの言葉 でいえば永遠の浄福に与りうることを意味する)と主張するのに、クリマクス自身はそれを疑問 視していることにある。そこでこの小論の目的は、両者のいずれが正しいかを自分なりに解明す ることにある。しかしそのためにもまず宗教性Aの立場を肯定するクリマクスの議論、宗教性A の立場を疑問視する彼の議論を、倫王那勺人間Bの主張と比較しながら紹介しなければならない。
Ⅲ 宗教性Aの立場
ここでは宗教性Aの立場に立ち、それを肯定しているクリマクスの議論を、その人間観(倫理 観を含む)、神への信仰、永遠の浄福の問題(不死の信仰を含む)の3つに分けて紹介したい。
(1)クリマクスは人間を2つの対立する要素の綜合ということで把える。 「現実の人間は無 限性と有限性とから構成されており、実存することに無限の関心を抱いて、これらを関連させる ことにおいてまさにその現実をもっている‥‥‑。」 (皿 3) 「実存とは何か。これは無限な ものと有限なもの・‑‑から生まれ、それ放たえず努力する子供である。」 ( I. 85)この場合有限 性とは、 20世紀なら20世紀のE]本の一定の歴史的社会環境の中で一定の外観、一定の素質、能 力を与えられ、特定の好み、欲求などを抱いて、男なら男として生きていることを意味する。あ らゆる素質や能力をもち、あらゆる時代のあらゆる場所で生きることができないことは、人間の 生き方を制限する要素である。そして又このことが、他の人問からそれぞれの人間を区別するゆ えんとなるのである。こうした人間における限界付け、制限する要素が有限性である。これに対
して無限性は、与えられた有限な事実を想像力に基づいてのり越え、さまざまな可能性を思い描 くことである。例えば烏のように空を飛ぶ自分、現在とは違った時代、場所に生きている自分、
或るいは現在とは違った職業、身分についている自分を思い浮かべることがその一例である。
こうした可能性を思い浮かべることが、現状を打破し(望ましい場合には)人間の進歩、発展に つながる限り、無限性は拡張的要素、限界を除去し新たなる「空間を生み出し、可能性を開く」
(Fahrenbach 16)要素ということができる。そこでこうした両要素は、当然矛盾や対立を含む。
「実存することは、主体的思考家が無視することができず、 ・ ・‑・その内にとどまらねばならない 途方もない矛盾である。」 (n. 54)そして「有限なものと無限なものとが容易に結合されえず、
実存の統一においても絶えず区別され、切り離されねばならない」 (BlaO 150)ことによって、
人間に緊張をもたらす。しかし両要素は正しく綜合されねばならない。有限的要素だけを絶対視
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17し、可能性を思いみないならば、人間の進歩、発展はありえないし、逆に無限的要素だけに心を 奪われていては、極端な現実離れに陥ってしまうからである。それ放矛盾や対立による緊張に耐
え抜いて、 「対立するものからの統一」 (Theunissen 43)を望ましい仕方で達成することが、
実存の課題なのである Grimsleyがいうように実存は、 「単に現にあるものであることの代わ りに、より一層高いものになることによって内的諸矛盾を越えようとする絶えざる努力」 (72) を含むのである。
ところでクリマクスは可能性を模索し、それの実現を目指す在り方の内、倫理的実践が最高の ものであると考えている。 「倫理や倫理的なものは、個々の実存の本質的支え、確固たる根拠で あることによって、各々の実存する者に拒絶され得ない要求をもつ。」 (I. 123)それ故与えら れた環境の中で自分の有限的要素を直視しつつ、それに相応しい倫理的可能性(無限的要素)を 模索し、それを実現することが、人間の課題となる(SID 「2つの構成要素の質的違いの故に、人 間は2つの要素を正しい仕方で関係させるという実存の課題に初めから直面している。」 (ThuL strup 267)そこで次にクリマクスが倫理的在り方との関連で主張していることを整理してみる。
㊥倫増的人間Bと同じようにクリマクスも倫理的なものの電要性を繰り返し強調する。 「倫理 的なものは、各々の人間に諜せられている最高の課題であり、そうであり続ける。」 (I. 141) 彼にとって倫理的なものは「絶対的」 (I. 132)であり、その命令や要求も「絶対的」 (I.
262)である。それ故彼にとって善悪の区別は、富や権力の有無、快楽の多寡といった他の相対 的違いとは質的に異なる「絶対的区別」 (I. 123)である。何か他の相対的違いに心を奪われ て、善悪の区別を等閑にすることは絶対に許されないのである。 ②無限性と有限性とから構成
されている以上、人間はこの両者を結合させることにおいてその現実をもっている。しかもこの 両者をどのように結合させるかによって、倫理的に望ましい現実も生まれれば、そうでない現実 も生まれるのである。それ故クリマクスは、両要素をどのように結合させ、どのような現実をもっ ているかが、それぞれの人間にとって一番重要なことだと主張する。 「個人自身にとって自分の 倫理的現実は、その内に含まれる一切のものをもった天と地よりも ・倫理的により一層重要で あらねばならない。 ‑・‑もしそうでないならばその個人自身にとって最悪である。」 (n. 46)ク
リマクスによると人間の生き方には2つの道がある。 1つは実存しているという事実を忘れるた めに一切のことを試みる道であり、他の1つは自分が実存しているという事実に、そのあらゆる 注意を集中させる道である(I. 113)後者が望ましいとされるのは当然である。 「実存の監 視者」 (n. 237)である倫理がこれを命じるとされる。 ③自分の有限的要素と無限的要素と を正しく綜合することが何よりも重要である以上、個人はその注意を自分の内に絶えず向けなく てはならない。外部に心を奪われているだけでは、自分の有限的要素を直視することも、それに 相応しい「あるべき姿」を模索することもできないからである。こうした意味で倫理的に生きる ことは内面性を要求するとされる。 「現実とは、実存することに無限に関心をもつ内面性であ る。」 (n. 27) ④無限的要素と有限的要素との綜合は、異体的には決断によって成り立つ。決 断は、 「それにおいて実存するために、考えられたもの(倫理的理想‑筆者付記)と自分を同 一化させること」 (n. 42)であり現実の人間が倫理的に不完全である以上、 「主体のそれ自身 における変革」 (I. 34)としての決断(4)とその繰り返しがたえず必要となる。 「実存する者に とって運動の目標は、決断と繰り返しである。」 (n. 13)従って「継続的努力が実存する主体の 倫理的人生観の表現である。」 ( I. 114)しかも幾ら努力しても遺徳的不十分さが完全に是正、
除去されることがありえない以上、実存する主体は絶えず「生成の内にある。」 (I. 72)これで
18 ?', kt .、点
目標に到達したと過信することは許されない。そこで死が訪れる前に自分で人生に片をつけるこ とは、まさに「課題を片づけていないことを意味する」 (1. 155)とされる。 ⑤既に述べた ように倫理的人間Bは、富や権力の有無、容姿や職業の違いといった相対的違いに関わりなく善 を為そうと努める人は、同じように尊重されるべきだとして人間の平等性を肯定していた。クリ マクスにも同様な面がある。 「他人との相違の助けを借りたり、それの力に頼ったりして単独の 人間であろうとすることは一一柔弱である。しかし他の各々がそうでありうるのと同じ意味で単 独の人間であろうとすることは、人生に対する、あらゆるまやかしに対する倫理的勝利である。」
(n. 6i)又富や身分の獲得といった成果は、人間の主体的努力だけではどうにもならない運、
不運にも依存するが故に、それだけに心を囚われずに心の内面の動機を重んじる考え方も、 (倫 理的人間Bの場合と同様)クリマクスの場合にも見出される。 「頁に偉大な倫理的個人は、ノJの 限りをJさくして自分自身を発展させるであろう。この際彼は恐らく外部に大きな結果を生み出す であろう。しかし彼は、このことに心を奪われない。というのは、外的なことは彼の力の内にな く、それ故何も意味しない‑‑‑ことを知っているからである。」 (I. 125) このように人間 や倫理の把捉の仕方において倫王削勺人間Bとクリマクスとは基本的に一致するといってよい。
(2)一昨年の紀要で述べたように(118以下、注‑18)倫理的人間Bの神への信仰は、義務 の絶対的意義、その永遠の妥当性の意識と一つに結びついていたが、クリマクスの場合も同様で ある。彼は自然現象の観察によって神への信仰に到るといったことは木可能だと考えているO
「神を見出すために私は自然を観察する。確かに私は、全能や知恵をそこに見る。しかし同時に 私は、私を不安にさせ妨げる他の多くのものを見る。客観的不確さだけが・‑‑これらを総括した 帰結である。」 ( I. 195)本来神への信仰は、個人の内面においてのみ成り立つ。 「個々の個人 が自分自身に戻る時初めて(それ故自己活動の内面性において初めて) ‑‑・神をみることができ る。」 (I. 236)しかもそれは、最初に述べたように何処までも倫理的なものを介してである。
クリマクスにとって「倫理的なものは、個人が神と共有する知」 (I. 145)であり、 「善悪の 区別は‑‑‑本来各々の個人の神関係においてのみある。」 ( I. 146)既にBとの関係で述べたよ うに人間は事が自分の思うように運ばない時、とかく絶望し易い。生きることの無意味さを呪い、
善悪などどうでもよいと思ったりし易い。しかしそうした善悪などどうでもよいと思っている自 分自身を自分で肯定できるかというと、決してそうではない。道徳的素質を与えられている限り、
善などどうでもよいと思っている自分を、人間は自分で是認しえなくなってくる。まして善悪を 完全に無視し、悪を平気で喜んでやるといった立場に立とうとしてもできるものではない。 「彼 (善いものを善いものとして受入れない人‑筆者付記)は、敵を自分の外にではなく、自分の 内にもっている。」 (%H. 282)神によって善悪を識別する能力が与えられている限り、善いも のを悪いもの、悪いものを善いものに人間が慾意的にすり替えるといったことはできない。幾ら 自分の不利になろうとも善いものは何処までも善いものであることを自分で認めざるをえない。
Bはこうした体験をもっていたO絶望を介して、かえって(自分の慈意、気紛れではどうにもな
らない)善悪の違いや義務の絶対的妥当性の意識、神に対する永遠の責任の自覚が生じてきたの
である。 「人格が絶望において自分自身を見出し、 ‑‑‑後悔するや否や、個々の人間は自分自身
を永遠の責任のIFにおける課題として有する。そしてそのことによって義務が、その絶対性にお
いて措定されている。」 (E/00. 288)彼にとって「神関係は、神的命令としての自分の倫理的課
題に直面していることの表現である。」 (Elrod 161)道徳的であることと、自分を神に関係させ
ることとは一つに結びついていたのである。クリマクスの場合も同様である。神‑の信仰と義務
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19の絶対的妥当性の意識が一つに結びっいている限りj彼にとっても「人間を人間たらしめるもの は、本来神関係である。」(I.237)良心の事実として神の存在は否定すべくもない。そこでこ うした道徳体験を無視して、神の存在を理論的に証明しようとすること自体が、的外れでB3 a通的
な試みにすぎない(n.256)彼は人間の倫理的発展を、神ひとりを観客席に迎えた舞台で自 分をあらわにすることにたとえている(I.147‑8)が、「神の前における個人の自分自身‑
の関係、自分自身への反省」(n.144)としての内面性を重んじ、善く生きることが、彼の課 題だったのである。それ放ここで今真剣に善く生きる在り方と一つに結びついた形で神への信仰 をもっていたという点では、倫理的人間Bとクリマクスとは全く一致するといえる。彼らにとっ て「神は自己の基底そのものである。そこで神の否定は、神の破壊ではなく、自己の破壊に終る」
(Elrod155)と考えられていたのである。
しかしこうした根本的一致にも拘わらず、クリマクスと倫理的人間Bとの問には強調点の違い もある。Bは、(生きることが面白くないが故に盗意や気紛れに振り回され、その結果ますます 現実から遊離し、絶望に陥っていた)美的人間Aを立ち直らせるために、社会生活の重要性を強 調し、環境との適切な対応においてのみ貞に望ましい自己の確立、その進歩、発展があることを 強調していた。「目標であるこの自己は、i‑抽象的な自己ではなく、これらの具体的環境、こ れらの生活関係、事物のこの秩序と生き生きと交互作用する具体的な自己である。目的である自 己は、唯単に人格的な自己ではなく、市民的、社会的な自己である。」(%n.280)勿論クリマ クスも社会生活の重要性を否定する訳ではない。しかし社会の中で生きることが、逆に人間に望 ましくない影響を与え、道徳的自己喪失につながる危険性があることも意識しているのである。
彼は具体的に次の2つのことを主張している。㊥人間が社会の中で一人前の人間として成長す るためには、他人の模倣をすることも大切である。職業活動においても、人に接する仕方などに おいても、自分より秀でた人の所作を模倣し、それを勇に体得しなければ一人前の人間にはなれ ないからである。しかしこの模倣が余りに極端になると逆に問題も生じる。個性や独自性を喪失 し、マリオネットと同じように自発性を欠いた無気力な人間が生じるからである。こうした人は
「決して何も卒先してやらない。他の人々とは違うかもしれない意見を決してもたない。という のは彼が何よりも重んじるのは、まさにこの『他の人々』であるからである。」(I.236‑7) しかも周囲に同調し、付和雷同的在り方をしている限り、無責任な在り方もとかく生じ易い。
「皆ながやっているのだから構わない」と考えて、責任を回避する在り方が生じ易いからである。
こうしたことは、本人自身にとっても社会全体にとっても望ましいことではない。④「紙幣は 人と人との売買のための重要な手段である。しかしまさかの時に備えて正貨準備がないならば、
それ自体では無価値である。それと同じように倫理的なものについての相対的、慣習的、外的、
市民的把握は、日常生活においては全く有益である。しかし倫理的なものという正貨準備が‑〜
個人の内面において存在しなければならぬということが忘れられるならば、しかも世代全体がこ のことを忘れたとしたならば‑‑.こうした世代は倫理的に本質的に衰弱し、本質的に破滅してい る。もはやただ一人の犯罪者も存在せず、全く善い人々ばかりが存在していると想定されていた にしても‑‑・。」(口.256‑7)例えば殺人や盗みといった法的に禁じられていることさえしな ければ、それでよい。慣習や仕来りさえ守っていれば、それでよい。心の中で何を考えていよう と上辺だけ丁重で愛想がよければ、それでよい。人目に立たぬ悪をこっそりやってでも立身出世 さえすれば、それでよい。社会生活を送ることによって人間はこうした安易な気持にも陥り易い。
クリマクスは、それを心配しているのである。倫理的なものの重要性の自覚や責任感、行動力、
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本当に道徳的に望ましい基準や理想との関係で厳しく自分をみつめることによって初めて可能な 後悔、こうしたものが日常生活の慣れ合い、妥協の中で抹殺されてしまう危険性を意識していた のである(n. 255)そしてこうした危険に対処するためにも神への信仰がより一層強調され ているのである(5)。
(3)クリマクスは永遠の浄福を、 「絶対的目的」 (皿. 92)、 「絶対的善」 (ibid.)、 「最高善」
(廿. 95)などと規定し、 「相対的目的」 (n. 92)と区別している。この場合後者の相対的目 的の例として、よい収入、美しい妻、健康、地位などが挙げられている(〟. 97)から、これは 人間の有限的要素(ここで今、一定の環境の中で一定の素質、能力、好みなどをもって生きてい
ること)と密接に関係するものである。 (美的実存との関係で述べられた美的なものに相当する といってもよい。)これに対して永遠の浄福は、最高善として「それ自体のために」 (汀. 99)、
しかも「絶対的に」 (ibid.)求められるもの、 「如何なる瞬間にも」 (ibid.)求められるものと いったように抽象的に規定されている。しかし「神の表象ないし自分自身の永遠の浄福の表象が 一人の人間において生じさせるものは、彼がその実存全体を、それとの関係で改造さすべきだと いうことである」 (n. 192)とか、 「時間性においては永遠の浄福の期待が最高の報酬である」
(n. 108)と述べられているので、永遠の浄福は人間の神との関わり(従って遺徳的努力)と 密接に関係していることが分かる。クリマクスは人間の不死の信念(I. 164)と神による賞罰 の信念(r. 86)とを受入れているので、永遠の浄福はBla13がいうように「自然によって直接 与えられる」 (140)ものではない。クリマクスにとっては、 「倫理的なものは各々の人間に諜せ られている最高の課題」 (I. 141)であったが、こうした課題の遂行、達成によって神に義とみ なされることが、永遠の浄福である(6)彼にとっては「神の前において一一絶対的に自分自身に 関わることが、真の幸福の唯一の源泉なのである。」 (Elrod 162)既にカントの不死の信仰との関 係で述べたように、道徳的であるか否かが決定的に重要であるということが本当に心の底から確 信されてくるならば、遺徳的善悪は死に屈しない、永遠の価値を有しうるはずである Marshall が主張するように、 「我々に対して為される道徳的要求が貞則に受取られねばならないというこ とと、それらは実在に何の根拠も有さず、空虚ではかないということとを、同時に信じることは、
全く不可能だからである(7)。」そしてそうした永遠の妥当性を有する善の実現に参与する限り、
自分も不死に与ることができるという確信も生じてくるといえる。かくして道徳的であるか否か が決定的に重要であるという自覚は、道徳的価値の(死を越えた)永遠の妥当性、そしてその実 現に参与しうる人間の不死の(実践的)信念を必然的に伴う。クリマクスの場合も同様である。
「不死の問題は、本質的に学問の問題ではないOそれは、主体が主体的となることによって自分 自身に措定しなければならない内面性の問題である。 ・ ‑・不死はまさに発展した主体性の高揚、
その最高の発展である。正しく主体的となろうと意志することによって初めて、この問題が正当 に現われうるのである。」 (I. 164)クリマクスにとって永遠の浄福や不死の問題は、死をも越 えた永遠の価値を自分が体現していると主張しうる権利をもつか否かという、全情熱を傾けた問 題であったのである。 「自分の永遠の浄福に対する無限に情念的な関心において、主体性は全力 を集中する。その極点に立つ。」 ( I. 49‑50)
それ放クリマクスは、 「絶対的目標(目的)に絶対的に関わると同時に、相対的目標(臼的)
に相対的に関わること」 (II. 92)を重んじるo絶対的目的(永遠の浄福)を達成するためには
常に神と正しく関わり、善を何よりも重んじる在り方を貫かねばならない。そこで相対的目的を
絶対視することは許されないとされるのである。例えば富なら富を獲得した時一切を獲得したと
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21感じ、それを失った時一切が失われたと感じるといった在り方は厳しく斥けられる(II. 129) そこで時には富や地位といった相対的目的の追求そのものの放棄が要求される。善の実現に対立 する限り、 「絶対的関係は、相対的諸目的のすべての放棄を要求しうるからである。」 (n. in) しかし「課題が絶対的区別を訓練することにあるということから、実存する者が有限性に対して 冷淡になるということは帰結しない。」 (皿. 120) Arbaughが言うように「この世から離れる 理由は、この世が悪であるからではなく、人がそれを不当に偶像視することにあるからである。」
(221)富や身分を不正を犯してまでも自分のものにしようといった貧欲は厳しく斥けられる。
しかし善を重んじる在り方と両立する仕方でこれらを獲得することは決して悪いことではない。
こうした意味で誰であろうと同じように、絶対的目的に絶対的に関わることは可能であるとされ る。しかし快楽や利益ばかりに心を囚われ、それらが得られる限り善を為すといったことは許さ れない。 「時折絶対的目的に関係することは、絶対的目的に相対的に関係することを意味する。そ して絶対的目的に相対的に関係することは、相対的目的に関係することを意味する。というのは 関係が決定的であるからである。」 (n. ii4)クリマクスからすれば(人間が無限性と有限性と いう2つの対立する要素の綜合であり、しかも両要素をどのように秩序付けるかによって善し悪 しが決まる以上)意識しているか盃かは別にして人間は常に永遠の浄福に関係している0 「個人 が実存することが知られるや否や、彼が永遠の浄福に関係しているか否かも知られる。即ち彼は、
それに関係しているかいないかのどちらかである。第3の場合は存在しない。」 (n. 99)それ故 クリマクスにとっては日々の生活が、永遠の浄福を賭けた決戦の場なのである(8)。
ところでここでクリマクスが述べていることは、倫理的人間Bの永遠の妥当性における自己 の主張と内容的に全く一致する。 Bは、 「自分自身の内にのみ人間は、それに向かって努力すべ き目標を有する。」 (%n. 276)と主張し、倫理的努力によって実現さるべき「理想の自己」
(ibid.)を永遠の妥当性の自己であると述べていたが、こうした自己が、 (クリマクスの主張 する)永遠の浄福に値いするといえるからである。又Bは倫理的なものを優位にした上で、これ と美的なものとの均衡を重んじ、 「倫理的なものにおいて人格は、その中心点をそれ自体におい て保持している。それ故絶対的な観点からすれば美的なものは排除されている。或るいは絶対的 なものとしては排除されている。しかし相対的観点からすれば、それは絶えず保持され続けてい る」 (E/on. 189)と主張していたが、 Elrod も認めているように(143‑4)これがクリマク スの「絶対的目的に絶対的に関係すると同時に、相対的目的に相対的に関係すること」の強調と 原理的に一致する面があることは否定しえない。それ放B自身が既に宗教性Aの立場に立ってい たのである。
Ⅲ 倫理的人間Bとクリマクスとの遠い
ところで永遠の浄福をえるためには「絶対的目的に対する絶対的尊敬」 (n. ii6)が必要で
あり、それに基づいて無限性を優位にしたLでの、これと有限性との釣り合い、均衡を保つ決断
が何時如何なる場合にも為されねばならない。しかしこれは簡単なことではない。 「現実の人間
は直接性(9)の内にある。そしてその限り相対的諸目的において絶対的である」 (n. 139)から
である。それ故永遠の浄福をえるためには、こうした相対的諸目的に絶対的に関わろうとする自
己の直接性に対する拒絶という意味での断念がたえず必要である。断念は、クリマクスからすれ
ば「個人が絶対的目的‑の絶対的方向をとっていること」 (n. i5i)の印しである。永遠の浄
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福をえるためには、こうした断念によって「個人の実存の地盤に入ってくる新しい出来事、関係、
観念の各々が相対性の資格に格下げされねばならないのである。」 (Elrod 152)しかもこれは生 きている限り続く。 「人間が断念の瞬間に直接性からその情熱を奪ったように、課題はこのこと を繰り返すことにある。」 (n. in)こうした断念の決断とその繰り返しは、自分自身との絶え
ざる戦いであり、生に緊張をもたらすことは言うまでもない。しかしそれは単なる抑制や否定だ けに終るのではなく、本来積極的意義をもったものであったはずである。倫理的人間Bの言葉で いえば、選択や選択の繰り返しによって美的なものの変容、洗練化、高揚が為されるばかりでな
く、人間の内の最も神聖なものである「人格の結合力」 (%n. no)もしっかり確立され、人 格の統一が可能となる。しかも人間が「時間と戦い」 (%fl. 142)、自分の不十分な点を少しで
も是正しようと努める限り、人格の進歩、発展も成り立つ。人間の永遠の尊厳の象徴である「歴 史の獲得」 (%H. 267)も可能となる。かくして人間は倫理的なものと美的なものとの正しい 釣り合い、均衡を達成し、 「事物の理性的秩序」 (%n. 312)の中で克ち足りて生きることが可 能となるように思われるからである。それが故に倫理的人間Bは、絶望に陥っている美的人間A に対して「倫理的に考察される時初めて人生は、美、真理、意味、恒常性を獲得する。自ら倫理 的に生きる時初めて、各自の人生は美、真理、意味、堅固さを獲得する」 (%廿. 289)と自信 をもって言うことができたのである(10)。
しかしこの点においてクリマクスとBとの違いがはっきり現われてくる。彼も永遠の浄福を得 るために倫理的努力を何よりも重んじていた。それ故美的人間Aのように倫理を無視する在り方 を人間として決して望ましいとは考えていない。この点ではBと全く同じである。しかし彼は倫 理的努力を何よりも重んじながらも、それが美的人間Aの苦痛や絶望を癒すとは単純に考えない のである。 「美的に生きる者が苦痛に坤き、倫理的なものに慰めを求めるならば、これは確かに 慰めをもっている。しかしこれは、美的に苦しんでいる者を以前以上に一層苦しめる。」 (n.i36) 一言でいえばクリマクスはBの立場を「倫理的楽観論」 (Thulstrup 108)にすぎないと考えて いるのである。そこで次にこれに関係する彼の主張を2つに分けて紹介することにする。
(1)クリマクスにとっては絶対的目的に対して絶対的に関わることが決定的に重要であった。
しかし相対的諸目的に絶対的に関わってしまう傾向が人間に根強く巣喰っている限り、絶対的目 的に対する絶対的尊敬を心の内面でしっかり確立することは非常に難しい。それ故永遠の浄福を 得るために神の面前で道徳的に努力することは、心の内面で深刻な対立、矛盾を惹き起こさざる をえない。外的障害を克服して欲求の実現を貫くことも物理的に困難なことには違いないが、欲 求に基づく相対的諸目的を絶対視する在り方から、絶対的目的を絶対的に尊敬する在り方‑の倫 理的、宗教的転換は、個人自身の実存の「内的変革」 (Thomte 93)であり、いわば自分自身の 本性を作り変えるに等しいからである。しかし「個人は自分自身を作りかえることはできない。」
(n. i4i)そこで自己の内面の「矛盾の意識」 (n. 192)としての苦しみは、永遠の浄福(神) に関わっていることの印として、宗教体験の本質的表現であるとクリマクスは主張する。 「断念 が、個人が絶対的目的に対して絶対的方向をとるように注意したように、苦しみの継続は、個人 がその立場にとどまり、そこにおいて維持されていることの保証である。」 (n. i5i)しかも人 間はたえず生成の途上にあり、その道徳的不完全さを除去しえない限り、苦しみは一生続く。
「実存にあることは常に多少の苦悩を伴う。そして問題は、実存する者が、それによって苦しみ
が喜びに変えられる弁証法的改造をなし得ないことが、その重苦しい困難の一つではないかとい
うことだ。」 (丑. 160)クリマクスにとっては「苦しみの欠如は、宗教性の欠如を意味する」
キルケゴールにおける宗教的実存
23(n. 144)といってよい程である。そこで彼は、倫理的人間Bの主張を単純に肯定しない。 B は義務を「人間の最も内的な本質の表現」 (7oll. 271)だと規定し、労働の義務との関係にお いて、働くことが「喜び」 (%n. 3i7)であり、 「人格全体に対する満足と結びついている」
(%II. 312)と主張していた。又結婚の義務との関係においては、 「義務が命じることは、彼 ら自身が欲することであり、義務が命じることは、彼らの欲求が実現され得ることを表現する一 層尊厳、崇高で貢に神的な仕方にすぎない」 (%n. 155)とも主張していた(ll)。しかしクリマ スからすれば、こうした主張は余りに楽観的であり、遺徳的厳しさに欠ける。彼からすれば、自 分を善い人間とみなすことは「一見神と親しげに交わろうとしているが、しかし実際には決して 神と関わっていない」 (n. 163)美的生意気に等しい。自分の努力で神に義とされ得るといっ た信念も惑わしにすぎない。 「最大の努力は、人がそれによって無となることにおいて認識され うる。もしも人が何ものかになるならば、努力が当然足りないのだ。」 (打. 172) Thulstrup が指摘するように(Ill)クリマクスの場合には、人間の現実の実存と、それに諜せられた課題
との問の隔りがより一層鋭く自覚されているのである(12)。
(2)絶対的目的に絶対的に関わると同時に相対的諸目的に相対的に関わるという課題を与え られておりながら、直接性に死に切れず正しい関係を達成しえない以L、自己の内に絶対的目的 への絶対的尊敬を拒むものが初めから根強く巣喰っており、従って自分には永遠の浄福ではなく、
むしろ永遠の有罪判決が相応しい(H. 243)のではないかといった、神との断絶の意識が、全 面的罪責意識であるとされる Elrod が主張するようにこれは、 「個人が自己としての根本的 存在において何であるべきかを表現する統一の‑‑・実存的対立者である」 (188)ことの自覚だと いってよい。既に苦しみにおいて自己と、その課題との間の矛盾が意識されていたが、貞則に努 力すればする程この矛盾がますます深く自覚され、遂に全面的罪責意識が生じざるをえないとク リマクスは主張している。最早自分の努力で自分に諜せられた課題を達成しえず、どうにもなら ないといった意識を伴う限り、これは「自由の自縄自縛」 (Fahrenbach 141)を意味するとも いえる。
クリマクスによるとこうした全面的罪責意識は、世間で非難される悪行や犯罪を何度以上やっ たといった経験的事実とは全く関係しない(H. 239)心の内で善を真剣に尊重しようとせず、
法律で犯罪とみなされていること、世論や慣習によって斥けられていることさえしなければよい といった安易な考え方をしていたのでは、全面的罪責意識は決して生じない。道徳的に絶対的な 基準としての神の面前で厳しく自分をみつめ、自分に諜せられた倫王削勺課題を自分の努力で真剣 に追求する在り方が成立して初めて生じるとされる。 「絶対的基準によって自分自身に対処する 人は、当然幸福に生きて行くことができないであろう・‑‑。反対に彼は繰り返し罪責を見出す。
しかも全面的規定においてである。」 (皿. 260)それ放全面的罪責意識をもたない人がいるから といって、その人が何も善い人とは限らない。既に注(5)でも述べたように責任感の欠如、遺 徳的な理想を貞則に追求し、それとの関連で自分を厳しくみつめる内面性の欠如、大衆的在り方 における社会への埋没、これらが安易な自己肯定につながっている場合がありうるからである。
こうした意味で全面的罪責意識が、かえって神と関わっていることの(苦しみ以上に) 「高次な」
(D. 244)、 「決定的表現」 (n. 239)であり、実存への深まりの印であるとされる。 「罪責の本 質的意識が、実存‑の最大限の深化である。」 (n. 24i)クリマクスによると、こうした全面的 罪責意識は慈善、自己犠牲といった悔い改めの行によっては決して拭い去りえないものである。
(n. 249)そこで個人が罰金ないし刑罰の形で公けに償うことによって、自分の罪責を自分で
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若 松 謙
克服しうるといった考え方は甘すぎる。 (Elrod 177)同様に「今君は罪責がある。しかし今は そうでない」といった表現も受入れられないことになる (Elrod 178)たとえ盗みといった臼 に見える犯罪が為されなくとも、全面的罪責意識は存続するからである。 「罪責の永遠の想起は、
時間内において何処へでも引きずってゆかねばならない重荷である。」 (H. 244)それ放「ここ においては新たに始めるとか、再び愛すべき子供に戻るといった幼稚なことは問題にならない。
あらゆる人間がそうであるといった一般性による免罪も問題にならない」 (II. 243)とされる。
かくして厳しい道徳的努力の結果は、クリマクスによれば永遠の浄福の期待ではなく、自分が死 すべき存在として「神の前に無であるという宗教的意識」 (Fahrenbach 142)にならざるを得 ないのである。
ところで倫理的人間Bは、 「義務は人間の最も内的な本質の表現である」 (E/on. 27i)とか、
「善は自由である」 (%n. 239)とか主張していた。そして後悔との関連においても、「自分自身 を後悔することによってのみ、人は倫理的に自分自身を選択することができる」 (%山 264)と か、 「もしも私が過去を後悔しえないならば、自由は一つの夢にすぎない」 (%皿. 255)とも主 張していた。既に一昨年の紀要で述べたように、 Bは過去の不十分さを自分の努力で是lF.し、人 格の統一、進歩、発展をなしとげ、 (人間の尊厳の象徴である)歴史の獲得が可能である限り、
後悔は「自由の最高の可能性」 (Fahrenbach 89)を示すと考えていたのである。しかし「白山 の自縄自縛」としての全血的罪責意識を強調する限り、クリマクスがこうした倫理的人間Bの主 張を楽観的にすぎないと考えていたことは明白である。彼は、 Bとほぼ同じ立場から出発しなが らも、 「個人が・‑‑神関係に深く入れば入る程、それだけ一層彼は自分が有限的なものに拘束さ れているという事実」 (Thomte213)を認めざるを得なくなった。そこで「宗教的なものは、
それを目覚めさせるために決裂が必要になるといった程に、人間本性に異質的ではない」 (%皿.
95)といったBの主張を斥ける。一言でいえば彼は、 Bの立場が自己理解の点において末だ不十 分だと考えているのである。それが故に「実存に深まりながら、後戻りする」 (n. 236)こと によって、自己の根底に倫理的なもの、神的なものと異質的なものがあることを指摘するのであ る。彼からすればこうした後戻りも、自己理解の深まりという点からすれば「一つの前進なので ある。」 (n. 237)しかもそれ自体としては否定的で、希望のないこうした全面的罪責意識の承 認において、キリスト教的立場への信仰の決断も可能となるように思われる (H. 270‑1)イ エスとの内面的出会いにおいて自らの罪を自覚する。そして歴史の中に現われた神としてのイエ スと、その購いによる罪の赦し(神の愛)を心の底から信じる。こうした信仰によってイエスの まねびとしての隣人愛の実践も可能になり、再び人格の統一、進歩、発展も回復される.永遠の 浄福の期待も可能になる。こうした意味でも(課題を達成しようとする)自己の根底に後戻りす
ることは一つの前進、しかも決定的な前進であるように思われたのである(13)。
Ⅳ Bの立場の問題点
このようにクリマクスは、自分の方が倫埋的人間Bよりも自己理解の点において一歩前進して いると考えている。しかし残念なことに彼は、 Bの主張を具体的にとりあげ批判、吟味するといっ たことはやっていない。そこで最後にBの立場の問鑑真をこちらで指摘しておきたいO
( 1)倫理的なものと美的なものとの間にjf̲しい釣り合い、均衡を達成し、永遠の妥当性にお
ける自己を実現することが可能だと考えている限り、倫理的人間Bは道徳的善を何よりも重んじ、
キルケゴ‑ルにおける宗教的実存
25絶対的目的に絶対的に関わることが、自分の努力で人間に達成可能だと考えていたといってよい。
しかしこのことは容易ではない。異体的例を挙げながら考えてみたい。 ㊥例えば家なら家を建 てるために金が欲しいと思っている。しかし他人の金を盗むといった不正を働くことはよくない。
そこで出来るだけiKしい仕方で金を得ようと努力する。この程度のことならば、普通の状況に置 かれている人間に可能である。しかしこれが可能であるからといって、道徳的善を何よりも重ん じ、その実現を生きる主要目標にしている(絶対的目的に絶対的に関わっている)とは単純に言 えない。家なら家を建てたいといった欲求は、何処までも自分の幸福と密接に関係しているから である。それ放こうした場合主要目標は何処までも自分の幸福に置かれている。そしてそれの実 現が遺徳的善と対立しないようにコントロールされているだけであって、道徳的善が/t=.きる主要 目標にされているとは単純に言えない。自分の幸福中心に生きながら、それの達成が善と対立し ないように秩序付けているだけのことかもしれないからである。 ②例えば敗戦後の混乱といっ た衣食住の充足が困難な場合を考えてみる。こうした場合困難が増せば増す程、とかく人間は道 徳的善‑の配慮や他人‑の思い遣りを失い易い。自分だけ生き残りさえすればよいと考えて、他 人を無視する、場合によっては他人の権利を不当に侵害したりする。こうしたことが起こり易い。
このことは人間にとって衣食住の充足が如何に切実であるかを、はっきり示している。或る程度 衣食住の充足が確保されないと遺徳的善や他人への配慮が失われてしまい易いのである。しかし こうしたことがある以L、道徳的善を生きる主要目標にすることは容易ではない。 「衣食足りて 礼節を知る」といった言葉があるが、その程度のことでは善が生きる主要目標であるとは言えな いからである。 ③現実に人間が苦しみ悩む場合を考えてみると、それは一般に自分自身の幸、
不幸に関係することが多い。クリマクスは、よい収入、地位、よい妻や健康に恵まれることなど を相対的目的の例として挙げていたが、こうしたものが確保されるか否かに人間は一番苦しみ悩 み易い。この世に悪や不正が存在すること以Lに切実に苦しみ悩むのである。しかしこのことは 結局善を生きる主要目標にしておらず、自分の幸福中心に生きていることの証拠だともいえる。
④今述べたように人間は、自分の幸、不幸の問題にとかく苦しみ悩み易い。しかも「不幸が続
くと、絶望に陥るO」 (II. 141)特定の相対的「川勺を絶対視していればいる程そうなり易いので
ある。しかし不幸が続くと絶望に陥るといったことは、厳しく言えば善をそれ自体で尊重してい
ない証拠だともいえる。本当に遺徳的善を何よりも尊重していたならば、所期の成果が得られな
くてもそれ程意気消沈することはないはずだからである。 B自身が、絶望は(本当に善を何より
も重んじようとはせず、富、身分、快楽といった相対的なものを絶対視している)我々自身の道
徳的不十分さとも密接に関係していると考えていたO 「絶望している者が誤って、不幸は自分の
外の多様なものにあると信じるならば、彼の絶望は真実ではない。」 (%n. 222)しかし現実の
人間は相対的Ej的の達成にとかく過度に執着し易く、そのため(思うように事が運ばないと)絶
望し易い面があることは否定できない。 ⑤自分の利益に関係することだと夢中になり興奮する
が、そうでないと冷淡、無関心になる傾向は、誰にでもある。自分の利益が奪われると大騒ぎす
るが、他人が自分と同じ状況に置かれても、自分の利益に関係しないと知らぬ振りをする。不正
や抑圧が為されていても、自分に関係しないと知らぬ振りをする。こうしたことがとかく起こり
易い。しかもこのことは善との関係についてもいえる。自分の気に入った善、或るいは自分の利
益になる善だと夢中になる。しかしそうでないと極端に冷淡で無関心になる。こうしたことも起
こり易い。しかしこのことは(自分の意に適う善のために如何に刻苦勉励が為されようと、厳し
く言えば)善を為すか否かが、自分の幸福への配慮によって無意識の内にも制約され、コントロー
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若 松 謙
ルされていることを意味するともいえ、人間が(道徳的善の実現を生きる主要目標にしているの ではなく)自分の幸福中心に生きている証拠と考えることもできる。 ‑以上5つばかり異体的 例を挙げたが、遺徳的善を何よりも重んじ、絶対的目的に絶対的に関わることは容易ではない。
既に述べたように「神関係に深く入れば入る程、個人はそれだけ一層自分が有限なものに拘束さ れていること」 (Thomte 213)を認めざるをえなくなる可能性は絶えずあると思われる(14)
(2)倫理的人間Bは、現実の社会との関連において善く生きるための必然的契機として結婚 や友愛の義務を尊重していた。そこで次に愛や友情の問題を考えてみたい。 ㊥愛を抱いている が故に特定の人だけを不当に優遇する。その結果それ以外の人を不当に冷遇、無視する。こうし たことはよく起こる。愛を抱いているが故に人間はかえって不当な選り分け、差別を青くんでい るともいえるのである。例えば誰もがそれぞれ特殊な性格、気質、好み、意見などをもっている。
そのためこれらによって愛や一体感を抱き易い人と、そうでない人とをどうしても色分けせざる をえない。そこで人間として秀でた立派な人でも、自分の好みに合わないために本当に避ける、
斥けるといったことはよくある。又そうした人が困っているのをみると、 (憐むどころか)かえっ て「いい気味」と喜ぶといったことも生じる。それ放単に自分の好みに合う、合わないといった ことだけを絶対視していると、かえって人間は道徳的に堕落し易い。 Bは善く生きることを何よ りも重んじ、こうした観点から快や喜びを絶えずコントロールする在り方を強調していたが、結 婚そのものが偏愛に基づく以上、不当な差別や依惜ひいきはなかなか是正されにくい。かえって 助長される危険もある。そしてこのことは友愛の場合にもいえる。アリストテレスは関心や興味 の一致、ひいては生き甲斐の一致を友愛の特性の一つとみなしていた。しかしこうした友愛は、
裏からいえば関心や興味の一致しない者に対する冷淡、無関心、場合によっては敵対を必然的に 伴う。人々の利益、関心、好みなどが多様化され、互いに対立し合うこの世の中において、関心 や興味の一致に基づく友愛だけを尊重することは、不当な差別を育くみ、対立や敵対を助長する ことにもなりかねない(15)。 t5はどんな職業についている人でも真面目によく働いている限り同じ ように尊重されるべきだと主張していたが、こうした平等性重視の主張と、関心、興味の一致に 基づく友愛を重んじる考え方とが、矛盾、対立する面も含むことは否定できない。 ②人間は自 分がそれに所属し、日頃から慣れ親しんでいる集団とは一体感を抱き易い。そしてこうした集団 のためには一緒自分の利害を度外視したような献身がなされることもよくあるといえる。しかし こうした麗わしい献身、自己犠牲がかえって道徳的に有害になることもある。自分が一体感を抱 いている集団の邪魔になるものは、事の是非善し悪しを問わず断固排除、抑圧しようといった危 険な在り方が生じ易いからであるO偏狭な党派心や愛国心などの場合によく指摘されることであ
るが、こうしたことは結婚や友愛の場合にも当然起こり得る。 Bが重んじていた結婚、友愛、職 務遂行の義務を幾ら忠実に果たしたにしても、その基本的道徳判断の不十分さのために結局全体 としては偏狭な党派心に基づく分派活動にすぎず、社会全体の進歩に逆行する危険性がないとは いえないのである(16)。 ③恋愛や友愛の根底には自己愛が強く働いており、それが双方に有害な 結果をもたらしたりする.例えば恋愛の場合でいえば、自分の気に入った相手を一人占めしたい といった独占欲が強く働いたりする。又(愛していればいる程相手のやること、為すことが気に なり、しかも自分の思い通りにしてくれないと気が済まないために)無意識の内にも相手を自分 の期待通りの人間、都合のよい人間に仕立てあげようといった支配欲、権力欲が働いたりするこ
ともある。そしてこうしたことが、本当に相手を対等な存在として尊重することを妨げるばかり
ではなく、その人問的成長を阻むこともありうる。もっと酷いのは怒りや嫉妬の場合である。こ
キルケゴ‑ルにおける宗教的実存
27れだけ自分が愛しているのだから、相手も愛し返してくれて当然と誤って思い込む。そのため相 手が期待通りに愛し返してくれないと激しく怒りを感じざるをえない。そしてその結果(相手の 喜びを自分の喜び、相手の苦しみを自分の苦しみとするどころか、まさにその反対に)相手を苦 しめて喜ぶ、 (たとえ自分の身がどうなろうと)相手を少しでも傷つけなければ気が済まないと いった悲惨な事態が生じたりする。こうしたことが起こるのも愛に利己的なものが含まれている からである。友愛の場合にも自己愛が煽られ、有害な結果が生じることがある。人間は誰しも自 分を肯定し誇ろうとする気持を自然的にもっているが、友人と協力して価値あるものの実現に向 かう場合でも、こうした気持は働く。何かの事情で互いの問に(関心、興味の一致に基づく一体 感よりも)対抗心、競争心が強まると、優越性を確保したいために互いの反感、憎しみ、嫉妬な
どが強まり、敵対関係が生じかねない。自分がより一層価値ある人問に高まるための手段とみな して、相手を本当にそれ自体で尊重する在り方が無視される危険もある(17)。倫理的人間Bもアリ ストテレスも共に、相手をそれ自体で尊重する在り方を強調していたが、恋愛、友愛いずれの場 合にも、それを実現するのは容易ではない(18)。 ④実際に結婚する場合には容姿、好みや関心の 一致、生活能力といった有限性の要素が大きな比重を占め、生活の確保を中心にして双方の幸福 が何よりも重んぜられることになりがちである。そこで献身、犠牲を惜しまず互いに協力し合う
ことによって、双方に深い一体感が成立したところで、それは相対的諸目的を絶対視し、それの 実現のための共同に終ることが多い。クリマクスは人間が無限性と有限性とからなる以上、絶対 的目的に絶対的に関わると同時に相対的目的に相対的に関わることが人間の課題だと主張してい たが、まかり間違うと結婚生活はそうした課題の達成を阻止しかねない。それ放彼は、結婚は絶 対的目的ではなく(n. us)、結婚する双方が絶対的目的に絶対的に関係することの反映である 場合にのみ意義があると主張している(n. 164)結婚牛活の与える満足が、人間に諜せられ た課題の無視、否定につながる場合があるからである (I. 170‑1)友愛の場合も同じであ る。相対的目的の絶対視、大衆的在り方‑の埋没を促進することによって、友人関係がかえって 理想性の喪失、自己の喪失につながりかねないと彼は心配しているのである。 (江. 259)そし てその危険性は現実にあるといってよい。
(3)自分で自分の生活を維持してゆかねばならない以上、人間が自分を愛し労ろうとする自
己愛をもっていることは当然である。しかしともすれば、それが度を越し易い。そのためにこれ
迄述べたような問題が生じるのだともいえる。例えば過度な自己愛をもっているが故に、人間は
善をそれ自体で尊重することができず、とかく自分の幸福中心の生活を送り易い。そこで自分の
利益や好みを絶対視し、それに適うか否かによって人を不当に差別したり、自分だけを重んじる
不公平な在り方が生じ易い。時には不当な抑圧や虐待も生じたりする。更に善い行為を利益目当
ての打算にすり替えるとか、人を利益を得るための手段とみなすといった不純な在り方も生じた
りする。又過度な自己愛は、事の是非善し悪しを問わず自分を肯定したり、自負したりする在り
方も生ぜしめ易い。そのため他人によって示される軽蔑や過小評価には我慢がならず、そうした
素振りを示す者を無条件に斥けるといった在り方が生じたりする。更に人を自分の思い通りに操
ろう、牛耳ろうといった在り方も生じ易い。こうした他人以上に、道徳的善以上に自分を重んじ
る過度な自己愛は、誰の心の内にも非常に根強く巣喰っていると思われる。但し勿論Bが認めて
いたように、人間は誰しも善し悪しを判断する能力を与えられている。それ故善悪の区別を否定
したり、悪を喜び善を忌み嫌うといった在り方を徹底しようとすれば、そうした自分を自分で是
認しえなくなってくるのは事実である。しかしこうした体験に基づいてAのように永遠の妥当性
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