奈良教育大学学術リポジトリNEAR
キルケゴールにおける倫理的実存(1)
著者 若松 謙
雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学
巻 35
号 1
ページ 101‑121
発行年 1986‑11‑25
その他のタイトル Die Ethische Existenz bei Kierkegaard (1)
URL http://hdl.handle.net/10105/2154
奈良教育大学紀要 第35巻 第1号(人文・社会)昭和61年
Bull. Nara Univ. Educ, Vol. 35, No.1 (cult. & soc), 1986キルケゴールにおける倫理的実存(1)
若 松 謙 (奈艮教育大学倫理学教室)
(昭和61年4月28日受理)
Iはじめに
昨年の『紀要』で述べたように、キルケゴールが1843年に匿名で出版した『あれか、これか』
という作品(1)は、2部に分かれている。第1部は、美的実存の立場に立つAという人物の作品を 中心として計8篇が寄せ集められて成り立っている。第2部は、倫理的実存の立場に立つBとい う人物(判事ヴィルヘルム)の長い手紙2通と、Bの友人の牧師の短い説教とから成り立ってい る。そしてBの手紙が、Aに倫理的実存の立場へ高まるよう勧告するという形式をとっているこ とによって、両部分の内的連関が保たれていたのである。美的実存が、人間における美的なもの (これは昨年述べたように、単に容姿の美しさといったものだけではなく、健康、快楽の享受、
あらゆる領域における素質や才能、富、名声、身分なども意味する)を何よりも重んじ、そこに 生きる目標を見出す立場であるのに対して、倫理的実存は一口で言えば、主体的努力の善し悪し を何よりも重んじる立場である(2)
。自分が現に置かれている具体的状況に即して、善の実現に努
力する立場である。(これは職業活動、結婚や友情などの尊重の形で、さらに臭体化される0)檎 理的人間Bは、こうした立場に立つことによって初めて人生は、意義に満ちた充実したものにな ると考えている。「倫理的に考察される時初めて人生は、美、真理、意味、恒常性を獲得する。
みずから倫理的に生きる時初めて、各自の人生は、美、真理、意味、登固さを獲得するのであ る。」(H.289)そこでBは自分より7才年下のAに対して、こうした倫理的実存の立場に高ま るよう、友人として手紙において勧告しているのである。昨年は、Aの美的実存の立場の描写と、
そうした描写がもつ現代的意義の解明を目指したので、今回は、Bの手紙(特に『人格形成にお ける美的なものと倫理的なものとの均衡』)におけるAへの勧告を拠り所にしながら、倫理的実 存の立場の描写と、その現代的意義を解明することに心かけたい。
Ⅲ選択と倫理的実存
美的実存の立場に立つAは、生きることが面白くないが故に定職にもつかず、その恵まれた素
質、能力を、唯自分の気紛れな関心に合ったものとの知的遊戯、美的戯れに費していた。彼は知
的、美的に如何に洗練されていようと、結局人生の遊び人、快楽追求者にしかすぎなかった。し
かしこのように気紛れな関心の充足を目指すことによって、人生がその意義を取り戻したかとい
うと、決してそうではない。彼はますます生きることに嫌気を感じ、人生の無意味さ、空虚さを
噛みしめざるをえなくなってきたのである。「退屈は、何と恐しいものだろう。一一僕がみる唯
一のものは空虚だoそれによって僕が生きる唯一のもの.は空虚だ。そこにおいて僕が動く唯一の
ものは空虚だ。‑‑たとえ僕にこの世のあらゆる立派さが示されようと、あらゆる苦痛が示され
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ようと僕にはどうでもよい。」 (I. 40)快楽というはかないものにすがって生きようとしても、
人生はかえってそれだけ、はかなく無意味に思われてくるだけなのである。ところがAは、こう した状態からなかなか抜け出ることができない。一方では無意味さ、空虚さを自覚しながら、し かもそれがますます強まるばかりだと意識しながら、他方では気紛れな関心に耽るといった中途 半端な状態にいつまでもとどまっていたのである。ところでBは友人として、 Aの精神状態を或 る程度察知している。 「君の思考は先走りしている。君は一切が空しいことを見抜いている。し かしそれ以上進まない。時折君は、そのことに思いを沈める。そして個々の瞬間に享楽に身を委 ねながら、それが空しいことを君の意識の中へ受け入れている。そのように君は、たえず甫ぶら りんに絶望の中にいる。」 (I. 207)そこでAが、 「精神の貢撃さに目覚めるために、美的なもの の幻想や中途半端な絶望の夢から身を離す」 (H. 233)ことを期待して、 Bは選択の重要性を強 調している。倫理的実存に高まるためには、選択が決定的に重要だと自覚しているが故に、そう するのである。 「一般に選択は、倫理的なものに対する本来の、厳密な表現である。より厳密な 意味で"あれか、これか"が問題にされる所では、常に倫理的なものが共に働いていることは、
確実だといってよい。」 (II. 177) Fahrenbachが主張しているように、 「倫理的人間は、選択と いう唯一のカテゴ・) ‑の導きの糸によって倫理的次元の解明を遂行する。それを‑・・・倫理的実存 の根本的カテゴリーとして展開させ、その複雑な作用構造において説明することによってであ る。」 (72‑3)そこでここでは、倫理的実存の本来の在り方(道徳的善し悪しを決定的に重要と 考える在り方)が成立するまでに関係する選択を取り出し、その具体的内容を紹介することにす
る。
(1)絶望の選択と永遠の妥当性における自己の選択
BはAに次のように述べている。 「私が"絶望せよ"と言う時、それは熱狂した若者が、君を 情熱の渦の中へ巻き込もうとしているのとは違う。嘱笑的な悪魔が難破した者に、この慰めを呼 びかけているのとは違う。否。私の呼びかけは、慰めを意図しているのではない。そこに君がと
どまるべき状態を考えているのでもない。魂の全力、全き真撃さ、全き集中による行為を考えて いるのである。」 (n. 22D 「それ故絶望を選択せよ。絶望そのものが一つの選択であるからであ る。 ‑‑・そして絶望することによって人は、再び選択しているのである。何を選択しているのか といえば、人は自分自身を選択している。ただしその直接性における、偶然的個人としての自分 自身ではなく、その永遠の妥当性における自分自身を選択しているのである。」 (H. 224)
まず絶望の選択を取り上げる。先程述べたようにA自身が生きることの空虚さ、無意味さを自 覚していた。こうした意味でAは絶望している。しかしBはAを糊笑するために、或るいはAが 現にある絶望状態にとどまり続けるために、 「絶望せよ」と言っているのではないと断っている。
それ故「絶望せよ」は特殊な意味をもっている。そこでそれを明きらかにしなければならない。
今ここに富や身分などを絶対視し、これらの獲得に生き甲斐を見出している美的な人々がいる
と仮定してみる。彼らは当然これらの獲得に夢中になり、幸運にも恵まれて願い通りこれらを手
にしている限り、人生を享受できるといえる。しかし不運が重なり幾ら努力しても富や身分が得
られないと、彼らは一般に絶望し易い。失意の内に人生を送ることになり易い(H. 204)彼ら
が富や身分に執着する度合いが強ければ強い程、そして幾ら努力してもこれらが得られる可能性
がなくなればなくなる程、そうなるといえる。しかし倫理的人間Bからすれば、富や身分といっ
た美的なものは、もともと相対的価値しかもたない有限なものである。生きていくために幾ら必
要であるからといって、これらが人生の最高の価値を形成する訳では決してない。むしろこれら
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103を絶対視することによって、人生の最高の価値(これはBからすれば、永遠の妥当性における自 己の実現である)が等閑にされる危険性もある。しかも富や身分の獲得、保持は、もともと我々 人間の努力によっては、どうにもならない面がある。自分が幾ら欲しいと思っても、不運のため に得られない。又幾ら永遠に保持したいと思っていても、予想外の出来事のために永久に失われ る。こうしたことが起こり易いという意味で富や身分は、快楽などと同様本質的にはかないもの である。しかもこうしたはかないものを絶対視していればいる程、これらが得られない時、我々 は絶望し易いのである。これらの点では程々に溝足し、本当に価値あるものの実現を目指してい る人々が絶望しないにも拘わらず、そうなのである。それ敢絶望するか否かは、自分の努力以外 の運、不運といった単なる外的事情だけに依存しているのではないo 「絶望している者が誤って、
不幸は自分の外の多様なものにあると信じるならば、彼の絶望は真実ではない。」 (H. 222)む しろ相対的で有限な価値しかもたないものを絶対視している我々自身の人間的不十分さというも のとも、絶望は密接に関係している。それ故富、身分といったものを絶対視している人は、自分 自身の人間的不十分さの故に(たとえ今絶望していなくても、突然これらが失われれば絶望し易 いという意味で)絶望の可能性をたえず内に秘めている。そしてこのことは美的実存一般につい ていえる。 「あらゆる美的人生観は絶望である。美的に生きる人は、知っていようといまいと、誰 しも絶望している 。」 (H. 205) 「それ自身の外部に条件をもつ人生観は、すべて絶望である。
‑‑その本質上消え去りうるものの内に人生をもつことは、常に絶望である。」 en. 25D そこでBは本当に価値あるものを重んぜず、 (富、身分、美、快楽といった)有限なもの、相 対的なものを絶対視している自分の不十分さを自覚し(これは自分が絶望状態にあるのを自覚す ることと同じである)、本当に価値あるもの(永遠の妥当性における自己)をそれ自体で尊重す る立場に高まることが重要だと考えている。そしてそのためには自分が有限なものや、それに基 づく相対的違いを絶対視し、それらに心を囚われていないかどうかを厳しく吟味し、こうした状 態から脱却しなければいけないと考えているのである。それ故絶望の選択は、みずからの絶望
(不十分さ)を自覚し、それを勝り抜けることによって、本当に価値あるものをそれ自体で尊重
する立場に高まる決意を意味する Fahrenbach が言うように絶望の選択は、 「有限なものへの
全面的絶望(有限なものを絶対視する在り方との訣別‑筆者付記)として‑・・.意志されねばな
らないという意味で、 Aの絶望の徹底化を要求しているのである。」 (70)相対的、有限的なもの
を絶対視している有限な自己が、みずからの不十分さを徹底的に自覚し、永遠の妥当性における
自己に高まるために、 Bは、 (単に自暴自棄の激情の表現としてではなく、それだからといって又
単なる知性的懐疑としてでもなく) 「魂の全力、全き真撃さ、全き集中による行為」として、 「絶
望せよ」とAに呼びかけているのである。臭体的にAに即して考えるならば、彼にはいろいろ人
間的欠陥があった。経済的に恵まれていたが故に、富や身分といった有限なものにそれ程執着し
なかったにせよ、彼は生きることが面白くないが故に、気紛れに快楽という相対的なものの充足
に耽っていた。そしてその限りAは、富や身分に執着している人々と同じ相対性、有限性に陥っ
ているといえる。 「君は実際有限性のすべてに愛想を尽かしてしまっている。しかし君は、それ
を放棄することができないのだ。」 (D. 215) Bからすれば、 Aの絶望は中途半端で不徹底な面
があるのである。さらにAは、生きることが面白くないが故に、又その耽美主義や快楽晴好の故
に、 (たとえ積極的に悪を望まないにせよ)とかく道徳的なものに無関心で冷淡な態度を取りが
ちであった。 Aにとって「倫理的なものと関わり合うことは、人生からその意味を、何よりもそ
の美を奪うことを意味する」 (H. 289)のである Stackは、 「あらゆる現象を、他人の苦しみ
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や最も軽蔑すべき人間の行為でさえも、純粋に美的観点からみることは、それ自体道徳的ニヒリ ズムの一種である」(38)と述べているが、トロイの戦火の模様を思い浮かべるためにローマを 焼き払った皇帝ネロを非難しようとしない限り(I.197)、Aはそうした道徳的ニヒリズムに現 実に陥っているともいえる。しかしBからすれば、およそ人間が人間である限り、誰もが善悪を 判定する能力を与えられている。その限り「善悪の問の区別は常に存続する。責任や義務も同様 である。」(汀.281)それ故BからすればAの立場は、人間として本質的に不十分である。そこ で意義や価値を徹底的に問い質すことによって、そうした立場が果たして正当といえるか否か、
厳しく吟味してみよ。「絶望せよ」ということによって、Bはこうしたことを考えていたのだと 思われる。
次に「永遠の妥当性における自己の選択」の問題に移る。永遠に妥当する自己或るいは「絶対 的自己」(n.232)は、富や快楽などに執着する有限な自己とは違う。それは、Stackが言うよ うに、「絶対的価値ないし意義をもつものとして」(121)唯単に手段としてではなく常に同時に 目的自体とみなされ、尊重さるべき自己であることは、言うまでもない,(3)Grimsleyの表現を用 いれば、それは人間にとって「真の存在としての自分自身」(36)である。Bは、真に価値あるも のは人間の外にではなく、人間自身の内にあると考えているのである0(先程述べたように富や身 分などの獲得は、人間の努力以外の運、不運に依存するといった相対性をもっていた。それ故こ うした相対性を免がれるためには絶対的価値をもつものは、人間自身の内に求められねばならな いのである。)永遠の妥当性における自己といっても、それはこの世界を超えた所に求められるの ではない。「真実の理想は、常に現実的なものである。」(fl‑223)それは素質としてはすべての人 間に与えられており、すべての人間が自分の努力で実現すべき「理想の自己」(E.277)である。
「自分自身の内にのみ人間は、それに向かって努力すべき目標を有するのである。」(E.276) Bからすれば生きる意義や目的の探求も、人間本性に具わる必然的要求である。「あらゆる人 間が一一日分で人生観を形成しよう、人生の意義と目標についての表象を自分で形成しようとい う自然的欲求をもっている。」(n.i9i)そこで富や権力を絶対視している人も、Bからすれば (たとえ不十分であるにせよ)とにかく人生観をもっている。これに対して生きることが面白く ないと思い、気紛れな快の充足に時を浪費させている限り、しかも憂欝や絶望に陥っている限り、
Aは末だ人生の確固たる意義や目的を何も見出していない。見出していないが故に、憂欝や中途 半端な絶望に陥っているのである(4)
。そこで自分自身の内に絶対的価値をもつものを見出し、そ
れの実現に遇進せよと、BはAに呼びかけているのである。この世の中にはさまざまな人間がい
るが、こうしたすべての人間に妥当する(しかもそれぞれの入間の個性や素質を全く無視するの
でもない)真実な生き方というものがあるかもしれない。そしてそうした生を営むように努めさ
えすれば、誰もにそれなりの満足と安らぎが得られるのかもしれない。ところがAは、残念なが
らそうした真実な在り方から逸脱してしまっている。それが故に憂欝や絶望に陥っているのかも
しれない。不十分な生き方をしているから、自分で自分の人生を面白くないものにさせているだ
けのことかもしれないのである。「精神が自分自身を見出す時、あらゆる些細な心配事は消滅す
る。若干の人々において一一憂欝を生じさせる諸理由は消滅する。即ちこの世に順応しえないと
か、余りに早く或るいは余りに遅くこの世に来すぎたとか、人生において自分の場を見出しえな
いとかいった理由などは、消滅する。というのは自分自身を永遠に所有している人は、この世に
来るのが早すぎも遅すぎもしないからである。そして自分自身を永遠の妥当性において所有して
いる人は、この人生においてその意義をすでに十分に見出しているからである。」(n.202‑203)
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105Bは、マタイによる福音書16章26を変形させて、 「たとえ人が全世界をもうけても、自分の魂を 損じたら何の得になろうか。何がその代価となろう」 (fl. 234)と述べているが、自分の魂の確 立、真に価値ある自己の確立の重要性を、 Bは何よりも強調したいのである。 「これないしそれ であることが、偉大なのではない。自分自身であることが、偉大なのである。そして誰もが、意 志するならば、そうでありうるのである。」 (n. 189)
(2)選択の選択
選択の選択ということで問題となるのは、選択されたものの実在性ではなく、 「選択すること が、それ自体として有する実在性である。」 (n. 188)人間にとっては選択することが決定的に 重要であると考え、選択する生き方をそれ自体で尊重する。これが選択の選択ということの意味 である。そこで倫理的人間Bが、選択の重要性を強調する理由を整理してみる。 (1)自分で自覚的、
反省的に選択しないことは、美的人間Aがこれまでと同じ状態(即ち気紛れな快楽に振り回され ている状態)にとどまることを意味する。しかしこれは決して望ましいことではない。すでに昨 年の『紀要』で述べたようにAの生き方には、さまざまな欠陥がつきまとっていた。例えば、 ① 正しい価値判断の欠如(単に気紛れな感情や欲求に振り回されているだけでは、物事の本性、価 値などは十分に把握されえない。そのため快楽に振り回されていると、とんでもない結果を招く
ことになり易い)、 ④剃郡的在り方(快楽だけを絶対視していると人間は、とかく「現在さえ楽 しめばそれでよい」といった気持に陥り易い。そのため将来に思いを馳せることもなく、瞬間に 身を委ねるといった剃郡的在り方が生じ易い)、 ㊥現実からの遊離(快楽に振り回されて好きな
ことを何でもやろうと思っていると、人間は自分の置かれている状況、事の是非善悪を十分によ く反省しない。そのためとんでもない現実離れに陥り、周囲の状況に合わないことをやりがちで ある)、 ④無責任(快楽を絶対視していると義務や責任は、外部から不当に自分を拘束する厄介 なもの、窮屈なものと思われ易い。そのためそれから逃れようといった無責任な在り方が生じ易 い)、 ⑤人格の不統一、人格の進歩、発展の欠如(快楽に振り回されていると、人間はとかく目 移りし易い。そこであれこれのことに手を出して、すぐ飽きてしまう、中途半端に投げ出してし まうといったことにもなりがちである。そこで単に快楽のみに振り回されていると、人間は気紛 れな関心の寄せ集め、中途半端な活動の寄せ集めとなってしまい、真の人格の統一、その進歩や 発展が成り立たない)といったことである。しかもこの内一番問題なのは、最後に述べた人格の 不統一、その進歩や発展の欠如である。 「君の本質が多様性に解消され、 ‑・‑そして君がこうし て人格の結合力である、人間の内の最も内的なもの、最も神聖なものを失うに終るということよ り恐しいことを考えることができるのか。」 (n. 170)この場合「人格の結合力」とは、物事の 価値を正しく判断し、自分の置かれている状況との関係で正しく選択する理性的意志である。こ うした意志がしっかり確立することによって初めて、日々の生活の正しい秩序付け、コントロー ルが可能となるから、これは人格の統一、その進歩、発展の根拠となるものである。しかしこう
した人格の結合力は人間に生まれつき与えられているのではない。人間が自分の努力で獲得すべ きものなのである。 Taylor が言うように「自己の統一は与えられたものでないが故に、それは 自己によって達成されねばならない。最初自己は、対立する諸欲求の東である。矛盾する諸可能 性の集合である。自己の統一は、それ自身の決断の関数である。」 (204)そこでBは、 Aに選択 の重要性を強調するのである。 「君の存在全体が、自己矛盾である。しかしこうした矛盾から、
君は̀̀ぁれか、これか"によってのみ抜け出ることができるのだ。」 (ll. 173) 「選択そのものが、
人格の内容にとって決定的である。一一もし人格が選択しないならば、それは凋んで消滅してし
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まう(5)。」(H.173‑4)(2)適切な時に適切な選択をしないことによって、人間は一生を台無 しにしてしまうことがある。「位置を変えねばならない瞬間における船中の舵取りを考えてみ給 え。彼はこうすることができるか、ああすることができるかだと、恐らく言うであろう。しかし 彼が万一平凡な舵取りでないならば、船はその間にも今迄通りの速さで進んで行くこと、それ故 彼が、ああするか、こうするかが、どうでも'よいのは、ほんの‑瞬間にすぎないことを同時に意 識しているであろう。人間の場合も同様である。その速さを考慮するのを忘れるならば、"あれ か、これか"が最早問題にならない瞬間がついにやってくる。彼が選択したが故ではなく、選択 を怠ったが故に、そうなのである。」(E.174)人々の思惑、願望が複雑に交踏し合っているこの 世の中で生きてゆくためには、適切な時に適切な選択をなし、自分の意志を表示することが、非 常に大切である。それを怠ることは破滅につながりかねない。例えば意志表示を怠ることは、周 囲の人々に暗黙の同意とみなされることがありうる。そのため(自分で決めかねている内に)不本 意な結婚相手や就職先まで押しつけられ、動きがとれなくなってしまうといったことは、現実に 起こりうる。意志表示しなかったばかりに、個人が周囲の人々の操り人形になり下がってしまう のである(6)
。しかし逆の場合も起こりうる。即ち意志表示をしないことが、周囲の人々に暗黙の
拒絶とみなされる場合である。そのために自分にとって本当に重要な人間関係が永久に失われる ことにもなりかねないのである。こうした意味で社会生活においては、適切な選択や意志表示が 非常に大切である。しかしそれだけではないo適切な選択は、先程も述べたように人格の統一、
その進歩や発展と不可分に結びついている。それ故適切な選択の意志的繰り返しが重要である。
「自分の人格を‑瞬間だけでも現状維持することができると信じるならば、或るいはより一層厳 密な意味で人格的生を静止させたり、中断させたりすることができると信じるならば、それは間 違っている。人格は選択する前から、選択に関心をもっている。選択を中止する時には、人格は 無意識的に選択する。或るいは人格の内の暗い諸力が選択するのである。」(n.175)自覚的、
反省的に選択しないことは、それだけ無意識的なもの、本能や衝動に身を委ねることにつながり 易い。それ故選択しないことは、Pieperが主張するように「人間が中立的にとどまることを意 味しない。」(88)選択の拒絶は、現にある状態の無気力で情性的な繰り返しになるだけではない。
再びAのような悠意的で気紛れな在り方を生じさせる可能性を強め、自己支配、自己統一の喪失 につながりかねないのである(7)
。‑倫理的人間Bにとって選択の瞬間は、「真撃で・・・‑厳粛な」
(I.167)瞬間である。そして選択が決定的に重要となるのは、勿論「一方においては真理、
正義、神聖さが、他方においては快楽、傾向、暗い情熱と堕落が示される時」(n.168)である が、しかし「それらの間で選択することがそれ自体どうでもよい事柄においても、正しく選択し、
自分自身を吟味することは、常に重要である」(IT.168)ときれるのである。Bにとって永遠の 妥当性における自己を得るか否かは、選択次第、或るいは選択の繰り返し次第だと考えられてい るのである。
(3)道徳的善意の選択と道徳的な善悪の問の選択
道徳的善悪の選択とは、「さし当たり善悪の間の選択を示すのではなく、それによって善悪が
選ばれるか、排除されるかの例の選択を示す。ここにおいて問題なのは、人々が如何なる規定の
下で現存在の全体を考察し、みずから生きようとするかということである。」(n.180)要する
に、人生にとって道徳的価値が決定的に重要であると考え、これを富、美、才能といった他の価
値以上に何よりも重んじる。これが道徳的善意の選択なのである。そこで善悪という道徳的価値
が、何故人間にとって決定的に重要であるかの理由が、当然問題になる。しかしながらB自身は、
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107それを述べていないので、 (すでに昨年の『紀要』でも述べたが)人間の価値の問題を考えるこ とによって、その理由をこちらで補足しておきたい。 ‑一般に人間の価値を決める基準となる ものは非常に多くあるが、これらは大まかに言えば、 (1)本人自身の努力によってはどうにもなら ない価値基準と、 (2)或る程度まで本人自身の努力に依存する価値基準との2つに分けられる(1) は例えば白、黒、黄色といった皮膚の色の違い、男性、女性といった性の違い、素質や能力の違 い、或るいはもっと卑近な例でいえば、顔の美醜とか身体の恰好の違いといったものである。我 々は無意識の内にもこうした違いによってさまざまな価値評価を加え、特定の性質をもった人を 現実に軽蔑したり、逆に尊重したりしているのである。例えば黒人を軽蔑したり、菜人を尊重し たりしているのである。しかしこうした種類の価値基準は、その人自身の努力によってはどうに もならない価値基準である。黒人に生まれた人は、自分の意志で黒人に生まれたのではなく、又 黒い皮膚を白い皮膚に変えようとしても、変えることはできないのである。他の性や容姿の違い などについても、そう言える面がある。そこでこうした人間の自由によってはどうにもならず、
努力しても変えることもできないような条件の違いだけで、人間の価値を決めてしまうのは、明 らかに不合理だといえる。それでは生まれた後何を考え、どのように生きようとも、そうしたこ とに関わりなく、いわば生まれた時の条件の違い、遺伝的素質などの違いだけによって、人間の 価値を決めてしまうことになるからである。しかしこれでは運、不運だけがすべてを決定するこ
とになってしまい、人間の努力は全く無視されてしまうことになるといってよい。
(2)の本人白身の努力に依存する価値基準とは、例えば富、権力、身分、名誉などの違いである。
勿論富や権力などをより多くもっている人々を、人間としてより価値があるとみなす考え方であ る。こうした価値評価は、或る程度まで人間の主体的努力によって獲得されたものを基準にして、
人間を評価しているといえる。従って(1)の種類の価値評価に較べれば、人間の価値を決める基準 として、まだましだと言えるかもしれない。しかし問題もある。富を得たり、よい身分にありつ くためには、確かに人間の主体的努力が必要である。しかしこれらを現実に得るか否かは、単に 人間の努力だけに依存するとも言えないO それ以外の運、不運にも依存している。この点で(1)で 挙げたものと同じ面がある。例えば全く同じように努力しても、幸運に恵まれて富などを得る人 もあれば、不運の故に得られない人も現実にあるのである。そうである以上、富なら富を得てい る、得ていないといった、単なる結果だけで人間の価値を決めるのは、不合理である。人間の主 体的努力を本当にそれ自体で尊重していないからである。しかも富や身分などは、道徳的に不正 な仕方で獲得される場合もあることに注意する必要がある。主体的努力といっても、人間として 正しい主体的努力もあれば、そうでないものもあるのである。しかも現実に富だったら富をもっ ている人が、いつでも正しい仕方で主体的な努力をなし、その結果そうした成果をあげていると は限らないのである。こうしたことを考える時,如何なる仕方で主体的努力が為されたか否かを 問題にすることなく、単にその結果として得られた富、身分などの違いだけによって評価するこ とも、本当に正しい仕方で人間を評価しているとは言えないといってよい。そこで今迄述べたこ とを逆から言えば、結局人間の主体的努力の善し悪しを何よりも重んじる道徳の立場、それが人 間の価値を決める一番望ましい立場であると言えると思われる。
こうしたことを考えれば、 Bが道徳的価値を人間にとって決定的に重要な「最も神聖なもの」
(l【. 253)と考えたことも、よく理解できると思われる。 Bにとって善悪の違いは、 「絶対的対
立」 (H. 237)であって、富の有無、美醜、才能の有無といった「相対的違い」 (H. 240)とは
質的に異なるのである。そこでBからすれば、 Thomteが主張するように、 「善意といった絶対
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¥m?i 引
的矛盾を統一させる、より一層高い統一について語ることは、倫理的なもののすべてを暗殺する 形而上学的な試み」(45)なのである。遺徳的価値を相対的なものとみなし、何かそれ以上に価 値あるものがあると考えること、他の価値を絶対視して、それに道徳的価値を従属せしめること ができると考えることは、Bにとっては絶対に許されるべきことではないのである。
ところでこのように道徳的価値が人間にとって決定的に重要である以上、(善を選び、悪を斥 ける)「善悪の間の選択」も当然重んじられることになる。善は何処までも実現さるべき望まし いものであり、これに対して悪は、何処までも斥けられるべきものであるからである。「人格を 倫理的にみる人は、直ちに絶対的対立、即ち善悪の絶対的対立をもつ。そしてたとえ彼が自分自 身の内に善よりも、より多くの悪を見出すにしても、このことは悪が優先さるべきことを意味し ない。悪が斥けられ、善が優先さるべきことを意味する。」(fl.240)それ故道徳的善悪の選択 は、必然的に「善を選び、悪を斥ける選択」につながるべきだといえる。ところが美的実存は、
人間にとって決定的に重要な、こうした善悪の違いを無視し、むしろ(富の有無、美醜といった) 相対的なものを「絶対的なものに高め、それから人生の意味と目標を規定しよう」(Pulmer143) とする立場であり、本質的に不十分である。そこでBは、Aに「絶望せよ」と呼びかけ、倫理的 実存の立場へ高まるよう勧告しているのである。それ故Bが述べた「永遠の妥当性における自 己」が、道徳的善を何よりも重んじようとする倫理的自己であることは言うまでもない。道徳的 素質を与えられている以上、絶対的価値をもち、それ自体で尊重さるべきものである「永遠の妥 当性における自己」を、誰もが可能的に自分自身の内にもっている。このことを自覚し、ここで 今真剣に、永遠に妥当する自己になろうと努める。それが倫理的実存の立場なのである(8)
。
Ⅱ道徳的に善い在り方の成立条件
これまで述べてきたように倫理的実存は、相対的で有限的なものと絶対的なものとを区別し、
後者としての道徳的善を、ここで今何よりも尊重する在り方を徹底させることによって初めて成 り立つ。倫理的実存と道徳的善の実現とは不可分に結びついていたのである。ところで倫理的人 間Bは既述のこと以外にも道徳的に善い在り方が現実に成立するために必要なこと、心すべきこ とについていろいろ細かい議論をつけ加えている。美的人間Aが倫理的実存の立場に高まるため には、こうした議論も重要であるからである。それ故ここではそれを順に紹介することにする<9)
。 (1)後悔
盗意的に生きることによって自分の人生をますます無意味なものにしてしまった美的人間Aは、
結局最終的には可能性の喪失という閉塞状態に陥らざるをえなくなった。そこでもし彼が人間と して立ち直ることができるとするならば、それは、自分のこれまでの生き方の不十分さを徹底的 に顧りみることによってだけである。とかく善悪に冷淡、無関心であった自分自身の不十分さを 徹底的に反省し、そうした自分の不十分な生き方が、人生をますます無意味なものにさせていた のではないかと、厳しく自己批判する。そうしない限り彼には、新たな(というよりも人間に本 来具わっている)可能性が開けてこないからである。それ故Aが人間として立ち直るためには、
後悔が絶対に必要だといえる。善悪に無関心、冷淡な在り方から、善悪の違いを何よりも重んじ る倫理的実存の立場への移行は、自分の在り方の不十分さの自己承認によってのみ可能となるか らである。「自分自身を後悔することによってのみ、人は倫理的に自分を選択することができる。」
(H.264)Bは、「後悔は、悪が私に本質的に所属することの表現であると同時に、悪が私に本質
キルケゴールにおける倫理的実存(1)
iOK的に所属しないことの表現でもある」(H.239)と述べているが、自分の力で斥けられるべきも のとして、自分の過去の不十分さが顧りみられない時、立ち直りはありえない。「もしも私が過 去を後悔しえないとすれば、自由は一つの夢である。」(H.255)なお倫理的実存の立場に高ま るためには、単にAだけにではなく、美的実存一般にも後悔が必要であることは言うまでもないO (2)責任の自覚
自分のこれまでの生き方が不十分であったことの自己承認としての後悔は、自分がかってあっ たものへの責任の自覚と一つに結びついている(10)
。自分の不十分さが自分のせいで生じたので
はないと考えられている限り、後悔は生じないからである。それ故後悔は、自分の責任の自覚と 一つに結びついている。そして人間が孤立した存在ではなく、常に与えられた環境の中で人々と の相互関係において生きている以上、こうした責任の自覚は、必然的に他人や社会に対する責任 の自覚でもある。それ故後悔した人が、自分の在り方の不十分さを改めようと努めることは、他 人や社会とのこれまでの不十分な関係を改め、本来そうあるべきであった道徳的関係を樹立させ ることに必然的につながる。「彼は、後悔して自分自身へ、家族へ、人類‑戻る。ついに神にお いて自分自身を見出すまで。(ll)」(n.230)(人を気紛れな快楽を満たすための手段とみなす利 己的在り方の不十分さを徹底的に自覚し、人を人として尊重しうるようになって初めて、美的人 間Aは真に後悔したといえるのである。)そしてこうして真に後悔した人は、自分の生き方次第 によってこの世に善いものも悪いものももたらしてしまう以上、2度と同じ不十分な在り方に陥 らないようにするために、たえず自分の責任を自覚して生きるようになるといえる。「選択する ものが、自分に決定的影響を及ぼす限り、倫理的な人間は人格的意味において自分自身に対して 責任があり、自分がその中で生きている事物の秩序や神に対して責任があることを‑‑意識して いる。」(E.277)人間として善く生きるためには、こうした責任の自覚が絶対に必要だとされ るのである。
(3)現にある自己の認識
責任の自覚は、(その環境を含めて)現にある自己を徹底的に自覚、反省する在り方に我々を 導く。善く生きるためには、自分がどのような人間であり、どのような環境の下で、どのような 影響を受けて生きているかを徹底的に知る必要があるからである。「一人の人間が倫理的に生き るためには、彼が自分白身を意識することが必要である。如何なる偶然も彼から逃れないほど、
徹底的に意識する必要がある。」(II.270)「それ故個々の人間は、これらの能力、これらの傾向、
これらの衝動、これらの情熱をもった一定の個人として自分自身を意識している。この一定の環 境の影響を受けるものとして、この周囲世界の一定の所産として自分自身を意識している。」(Ⅱ.
267)こうした自覚、反省が、現実を直視し、環境への適切な対応を可能にするばかりではない。
自分に合った仕事や仲間の発見につながることも否定できない。それ故善く生きるためには、環 境および自分自身についての正確な現状認識が絶対に必要である。
(4)課題としての自己の自覚
Stackも述べているように、責任の自覚は「人がかつてあったもの、現にあるもの、なりつつ
あるものに対する責任の心からの受け入れ」(119)を意味する。即ち、それは単に自分がかつて
あったもの、現にあるものに対してだけではなく、これからなるであろうものに対する責任の自
覚も含む。それ故自分の過去の不十分さを自覚した人間は、現在の自分を決して倫理的に絶対視
しない。決して自分の現状に甘んじることなく、むしろ自分自身に対して常に批判的であろうと
する。「倫理的に生きる人は、‑‑‑自分自身を認識する。その意識を自分の具体的存在の全体に
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若 松 謙
浸透させる。暖味な諸観念が彼の内でうろつき回ることを許さない。誘惑的な諸可能性が、その ペテンによって彼の気を逸らさせることを許さない。」 (II. 275)そこでこうした自己批判的在 り方は、瞬間の快楽に身を委ねる剃郡的在り方から人間を解放し、自分の状態を完全に支配、コ ントロールする可能性を開く。しかも項在の自分を、そこからより一層望ましい自己が形成さる べき素材、原料としてみる在り方も可能ならしめる。 「倫理的な個人は、それ故自分自身を課題 として有する。この課題が、 (諸能力、諸情念、諸傾向、外的影響などを‑筆者付記)秩序付 けたり、形成したり、程よくしたり、煽ったり、抑制したりすること、要するに魂の中に釣り合 いを、人格的諸徳の果実である詞和を、実現することにあるという意味においてである。」 (Ⅱ.
279‑80)こうした課題としての自己の自覚がなくては、人間はとても善く生きられないとされ るのである。
(5)あるべき自己の自覚
後悔や責任の自覚、現にある自己の自覚、さらには課題としての自己の自覚が生じるのは、人 間の内に善悪を判定する能力が具わっているからだといえる。良心が善意を判定し、あるべき自 己をたえず自分に課する。それが故に(後悔を初めとした)これらの自覚が生じるといえるので ある。そこで倫理的に生きる人は、自己白身の内に「それに向かって努力すべき目標」 (E. 276) である"あるべき自己''を可能的にもっている。 「個々の人間は、自分自身の内に目的論をもっ ている。内的目的論をもっている。 ‑・‑従って彼の自己は、彼がそれに向かって努力する目標な のである。」 (II. 292‑3) Bはこうした義務の自覚については、その強度ということを問題に している。 「私は倫理的なものにおいては、義務の多様性ではなく、その強度が重要であると信 じる一一。人格がその仝エネルギーをもって義務の強さを感じた時、個々の人間は倫理的に成熟 しているのである。」 (H. 284)単に或る状況で義務を自覚し、それを自分で為すだけではまだ 十分ではない。この義務を尊重しなければ自分が自分でなくなってしまうほど責重なもの、重要 なものだという自覚が、絶対に必要だとされるのである。善悪の違いが人間にとって決定的に重 要である以上、これは当然だといってよい。快楽や身の保全とは違ったものとしての、又これら 以上に決定的に重要なものとしての義務の意識に欠けるならば、義務も結局身の保全や出世のた めの手段になり下がってしまう。しかしそれではとても善い在り方は成立し得ないとされるので ある。(12)
(6)現にある自己とあるべき自己との綜合
Stackが述べているように、 「我々があるべきであると知っているものと、現に我々があるも のとの間の隔たりの主体的意識」 (68)は、人間にとって非常に重要である。それに欠けると、
人間の精神的進歩、発展はとまってしまうからである。しかし他方あるべき自己の自覚は、自分 や、自分がそこに置かれている状況から遊離したものであってもならない Taylorが言うよう に、 「自己の自由の行使において諸可能性は、現実性に常に関連付けられ、それによって制約さ れねばならない。」 (193)幾ら望ましいことでも、自分が置かれている状況に合わなければ何に
もならない。現実に実現しうるだけの地盤も条件も整っていないのに、やたら理想を掲げても無 意味である。さらにその理想像が自分の素質や能力に合わなくては何にもならない。 「あらゆる 人が優秀な学者、専門の競技者になる自然的才能を有する訳ではない。自己の現実性の認知によ って、人は如何なる可能性が彼に開かれているかの、より一層明白な自覚に達するのである。」
(Taylor 193)それ故道徳的に望ましくあるためには、徹底的に現実を直視する態度も必要であ
る。現にある自己とあるべき自己との綜合は、そうして初めて真に望ましい形で達成されるとい
キルケゴールにおける倫理的実存(1)
Illlえる。Bもこのことを自覚して次のように述べている。「個々の人間の自己は、彼が努力して目
指す目標である。こうした彼の自己は、しかし抽象的(現実との対応を欠いたもの‑筆者付 記)ではなく、絶対的に具体的である。それ故自分自身に向かう運動において彼は、彼の周囲世 界と否定的に関係することはできない。というのはその場合彼自身は抽象物であり、そうであり 続けるからである。彼の自己は、その具体的存在のすべてに開かれていなければならない。・‑‑
かくして彼の運動は自分自身から出発して、世界を通って自分自身に戻るであろう。ここに運動 がある。しかも現実的な運動がある。」(H.293)かくして後悔を媒介にした現にある自己とあ るべき自己との正しい綜合が達成されて初めて、本当に善い在り方が成り立つとされるのであ る(13)
。
(7)人格の統一、社会との結びつき
Bからすれば、現にある自己とあるべき自己との正しい綜合は、具体的状況に即した「永遠に 妥当する自己」の選択として、自己選択の行為において遂行される。そしてこうした自己選択は、
一度なされればそれで終るといったものでは決してありえないO「個人が一寸でも自分自身を選 択することをやめるならば、それに基づいて精神のそれ以上の発展が生じる根拠は、消滅する。
そしてそれと一緒にそれ以上の精神的発展の可能性も消滅するのである。」(Elrod139‑40)そ れ故自己選択は、状況との関連で繰り返し遂行されねばならない。後悔を媒介にしたこうした繰 り返しにおいて初めて、(美的人間Aにおいて欠けていた)「人間の内の最も内的なもの、最も神 聖なもの」である「人格の結合力」(n.170)がしっかりと確立されてくるのである。そしてこ れは、次の2つの点で望ましいといえる。①人格の統一、その進歩、発展‑後悔を媒介にし
た現にある自己とあるべき自己との正しい綜合としての自己選択の反復的遂行は、自分自身や他 人を含めたあらゆる事物の本性や価値を正しく判断し、しかもそうした判断を自分の置かれてい る状況との関連で具体化することを意味する。そこで自己選択の繰り返しは、自分自身の価値判 断に基づく日々の生活の秩序付け、コントロールにつながる。そこでこうした秩序付け、コント ロールが可能である限り、我々の為すことのすべては、我々自身の価値判断の表現(具体化)、
我々自身の人格の統一の表現(具体化)となる。そこで自己選択の繰り返しは、人格の統一をも たらす。しかも人間が不完全な存在である限り、自分のこれまでの不十分さを是正する努力も同 時に遂行される。そしてこうした場合には、「現在において為される諸決断は、自己の過去を考 慮に入れねばならない。そして自己の未来に向かって方向付けられる。決断の瞬間(現在)にお いて、自己の現実性(過去)と自己の諸可能性(未来)とは結合される。時間の諸時制と自己の これら3つの要素との統一は、倫理的人格が求める理想なのである(14)
。」(Taylor215)そしてこ
うした3つの要素の統一において、未熟な在り方からより一層望ましい在り方への進歩、発展が 可能となることは言うまでもない。それ故自己選択の繰り返しは、過去から未来へ向かっての人 格の連続性、その統一や進歩、発展を可能ならしめる。「倫理的実存において、時間の3つの時 制の相互浸透ないし一致があるO倫理的人間にとって過去、現在、未来はすべて意義がある。そ してそれらは結びついて統一されている。」(Taylor213)しかもこうした人格の統一、その進歩、
発展を達成するところに人間の生きる使命、価値があることは言うまでもない。(主体的努力の 善さが、人間にとって決定的に重要である以上、これは当然である。)「人間の永遠の尊厳は、彼 が歴史(15)を獲得することができることにある。彼における神的なものは、彼自身が意志するな らば、この歴史に連関を与えることができることにある。というのは歴史は、私に生じるもの、
或るいは私にふりかかるものの総体ではなく、私にふりかかるものでさえも私によって必然性か
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ら自由に変えられ、移されるといった仕方で私自身の行為である時に初めて、連関を獲得するか らである。」(丑.267)倫理的人間Bは、Aのように盗意、気紛れに振り回されないために「時間 と戦う。」(n.142)そしてみずからの統一をかちとろうとする。そこでこれが可能である限り、
彼にとって「時間は、自分の本質を撤わにする媒体とみなされる。」(Taylor211)彼にとって
「時間性は‑‑神のために存在するのではない。人間のために存在する。そしてあらゆる恵みの 賜物の中で最大のものなのである。」(H.266‑7)④現実の社会との結びつき‑至馴こある自 己とあるべき自己との正しい綜合を(後悔を媒介にして)具体的状況において繰り返し遂行する ことは、それだけ人間をますます社会と密接に関連せしめる。それ故あるべき自己といっても、
それは決して現実の社会から遊離したものではなく、むしろそれと密接に結びついている。「目 標であるこの自己は、一一抽象的な自己ではなく、これらの具体的環境、これらの生活関係、事 物のこの秩序と生き生きと交互作用する具体的な自己である。目的である自己は、唯単に人格的 な自己ではなく、市民的、社会的な自己である。」(H.280)具体的に言えば道徳的自己選択の 遂行は、自分に通した、自分の生き甲斐である仕事を現実の社会の場の中で見出し、それのため に自分を厳しく鍛え上げることにつながる。さらに善の実現‑の共同ということで、人々との恒 常的友好関係を維持することにもつながる。愛する女性との永遠の結びつき(結婚)を尊重する ことにもつながる。(こうしたことは来年もっと細かに示されるであろう。)そこでこうしたこと の達成に励む限り、人間は現実の社会の中でしっかりと自分を位置付けることができる。「彼は 世界の中に自分の場をもっている。」(U.268)彼は、これさえやっていれば自分が自分らしく なれるといった仕事や、この人と一緒に居れば自分が自分らしくなれるといった友人や妾を、現 実の社会の場の中で見出すことができる。この世の中の何処にも自分の居場所がないといった疎 外感を抱くこともない。そこで倫理的人間Bは、「倫理的に考察される時初めて人生は、美、(16) 真理、意味、恒常性を獲得する。みずから倫理的に生きる時初めて、各自の人生は美、真理、意 味、堅田さを獲得する」(H.289)と自信をもって言うことができたのである。
すでに述べたように美的人間Aは、生きることが面白くないが故に、盗意や気紛れに振り回さ れ、その結果さまざまな人間的欠陥をもっていた。そしてその端的な例が、'現実との遊離、人格 の統一やその進歩、発展の欠如ということであった。しかし倫理的に生きることによってこうし た欠陥も是正され、(17)人生は意義に満ちた喜ばしいものになる。Bはこのように考え、それが 故に、倫理的実存の立場へ高まれとAに勧告したのである。ところでBからすれば、それによっ て倫理的実存が成り立ち、今迄述べてきたことが可能となるのも、すべて(自己)選択に依存し ている。Bからすれば、選択およびその繰り返しが初めて善い人間を生み、真の精神的進歩、発 展をもたらすのである。そこでBは、選択の意義を強調するために次のように述べている。「選 択はここで一挙に以下の2つの弁証法的運動を遂行する。選択されるものは存在しない。選択に よって生じる。選択されるものは存在する。さもないとそれは、選択ではないであろう。即ち私 が選択するものが存在せず、選択によって絶対的に生じるならば、私は選択するのではなく、創 造していることになろう。しかし私は自分を創造しない。私は自分を選択する。それ故・‑‑私自 身が直接的人格として無から創造されたのに、私は自由な精神としては矛盾律から生まれた。或 るいは私は私自身を選択することによって生まれたのである。」(E.229)Bはキリスト者とし て、神による無からの創造を受け入れている。それ故我々が、ここに今、(道徳的なものを含め て)特定の素質、能力を与えられて、特定の環境の中で生きていることは、神の働きによる(18)
。
我々の自由、努力には依存しない。こうした意味で「選択されるもの(即ち自己)」は、初めか
キルケゴールにおける倫理的実存(1)
113ら存在している。しかし与えられた道徳的能力に基づいて、現にある自己を自分の責任において 引き受け、これとあるべき自己との正しい綜合を達成し、永遠の妥当性の自己になるか否か、現 実との密接な関わりの中で真の人格の統一、その進歩、発展を達成するか否か、これは、ひとえ に我々自身の努力、我々自身の自己選択に依存している。こうした意味で永遠に妥当する自己の 生誕、その成長、進歩、発展は、選択に依存している。そこで「選択されるもの(永遠に妥当す る自己)は、存在しない。選択によって生じる」と言われたのである。 Bからすれば、 「自分自 身と交わることによって、個人は、自分自身を革み、自分自身を生む」 (n. 276)といえる面が あるのである。 Stackの表現を借りるならば、 「断固たる選択の自己意識的繰り返しによってこ そ、個人は自己となる」 (107)といえる面があるのである。それ故Bは、人間にとって選択が決 定的に重要であることを、繰り返し強調するのである。
注
(1)ここではE.Hirschによる独訳(Gdtersloher Verlagshaus 1979)から引用する。なおこの小論で引用す るキルケゴールに関する文献も、ここで予め一括して紹介しておく。 ①J.L.Blaβ: Die Krise der Frei‑
heit. 1968 A. Henn, ②J. W. Elrod : Being and Existen乍e in Kierkegard's Pseudonymous Works. 1975 Princeton University, ㊥H. Fahrenbach : Kierkegaards existenzdialektische Ethik. 1968 V. Kloster‑
mann, ④R. Gnmsley: Kierkegaard. 1973 C. Scribner's sons, ⑤F. Hauschildt: Die Ethik S. Kierke‑
gaards. 1982 Gutersloher Verlagshaus, ⑥A. Paulsen : S. Kierkegaard. 1955 F.Wittig, ①A.Pieper:
Geschichte und Ewigkeit bei S. Kierkegaard. 1968 A. Hain, ⑧K. Pulmer : Die dementierte Alternative.
1982 P. Rang, ⑨G. J. Stack : Kierkegaard's existential Ethics. 1977 University of Alabama, ⑩M.C.
Taylor: Kierkegaard's pseudonymous Authorship. 1975 Princeton University, ⑪R. Thomte : Kier‑
kegaard's philosophy of Religion. 1969 Greenwood, ⑫A. Vetter : Frommigkeit als Leidenschaft. 1963 K.Alber, ⑱H.Vetter: Stadien der Existenz. 1979 Herderなお以下では、文中に著者名と引用真数だ
けを示す。
(2)ただしこれは、 Bの主張を全体として考えてみた場合に初めていえることであって、 B自身は倫理的実存 を別の形で定義している。この定義については、 Bの思想を全部紹介した後で触れることになろう。
(3) Bは、 「人格は絶対的なものであり、それ自体目標、目的である」 (D. 282)と述べているO
(4) Bは、 Aに「世界が、それがありうるものとは全く別の物であろうとするかのように思われるが故に、君 にとって重荷であるということが真実であろうとも、もしも君が絶望において自分自身を見出したならば、
世界をそれが現にあるものであるが故に愛するであろうということも又真理なのだ。」川. 222)と述べ ている。
(5)選択という言葉は、悠意や気紛れの許容、客観性を欠いた主観的自我の不当な絶対視といった悪いことば かりを連想させ易いo LかLBは、美的人間Aをまさにそうした慾意や気紛れに振り回された在り方から 離れさせるために、選択の必要性を強調しているのである。それ故Grimsleyが主張するように、 Bは選 択を強調することによって「非合理主義への突入を提唱しているのではない。」 (36)自分自身を含めて人 間や事物の本性、価値などを正しく把握し、それを踏まえた上での決断を重んじるといった理性的要素が 含まれていることにも注意すべきだといえる。 ‑なおここで序にHauschildの解釈を紹介しておくと、
Aのような美的人間の生は「多様性や不連続性において消散し、意味を与える全体‑の連関を欠く」 (33) ことになり易い。そこでBは、こうした生き方に反対して「さまざまな要素をそれ自体において包括する 全体としての人格」 (33)を対立させ、こうした人格になるために選択の重要性を強調しているのである。
換言すれば、これこそ生き甲斐であるといった目的を見出し、こうした目的の実寛を中心にして日々の生
活を正しく秩序付ける生き方が樹立されるために、選択の重要性を強調しているのである。さらにAのよ
うな美的生き方は、 「現実を真撃に受け取り、現実に重きをおく態度の正反対」 (28)になり易い。そこで、
HE!