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日記に見るキルケゴールのキリスト教理解 : 「本来のキルケゴール」の問題に寄せて

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Academic year: 2021

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(1)日記に見るキルケゴールのキリスト教理解 -「本来のキルケゴール」の問題に寄せて小. 一串. Christentumsverstandnis. Kierkegaards -Ein. 謙. 林. Beitrag. zur. Frage. nach. Een'ichi. den. TagebGchern. in den neigentlichen. Kierkegaardu-. KoBAYASⅡⅠ. キルケゴールほ数多くの偽名を用いて多彩な著作活動を繰り展げたが,これは,林 「思想劇」である,と言う1)の 夫がプラトンについて,その作品は哲学を題材とした文学, と似た意味で,全体として一億の哲学的・神学的文学作品,. 達. 「ひとはいかにしてキリスト. 老となるか」という問題を巡る「問題劇」であると言えるのであって,そこからキルケゴ ールその人の思想を直接に抽出することはできず,また彼自身,自分がそれら偽名の諸著 作の著者と見なされることを拒否しており2),彼自身の肉声を聞くには本名で著わした講 ●. ●. ●. 話,および彼の遺稿(日記)によらなければならない。以下本稿ではその一つの試みとし て,彼の日記の中でキリスト教に触れたものを取り上げ,特に「律法と福音」の問題を中 心に,キルケゴールのキ.)スト教理解を探ってみたいと思う.ただ日記の記述の中にほ後 に偽名の著作に取り入れられる,互いに矛盾し合う考えも多数含まれており,日記という 性質上(もっとも彼はそれが死後公刊される羊とを予想しているが),その記述ほ様々な 可能性なのであって,その中からキルケゴール本来のものを見出ださなければならない。 Haecker選訳による"Die. テキストとしてほTheodor verlag,. Schlechta選訳による"Christentum. 1953, 4. AuA.およびEva. K8sel-Verlag,. TagebBcher. 1834-1855",恥selund. Christenheit",. 1957を用い,これらの引用および参照は本文中に前者はHと略記してそ. のべ-ブ数を,後者ほSと略記してその記事の番号を,それぞれカツコの中に示すo. 第1章 第1節. 律法と福音. カトリシズムとプロテスタンティズム. キルケゴールほ日記の中でルターおよびプロテスタソティズムをしばしば批判している. ルターは教皇との闘いにおいてジャーナ、リストのようになってしまって内面化ということ (H 366) 「彼はわ を忘れており,辛.)ストが模範(Vorbild)であることを閑却しているo ざの功績ほ亡ぼしてよかったが,わぎそのものは残すべきだった。」 *ドイツ語教室(Dept.. of. German). (S521-522)すなわ.

(2) 2. 小. 林. 謙. 一. ちルターほ「行き過ぎた」のであって,彼ほ「規範」になってはならず, Korrektivにとどまるべきだったのである.. 「第二のもの」,. (同)プロテスタソティズムもまた「それぞ. れの状況に必要なⅩorrektiv」でなければならない。. (S 718)それゆえプロテスタソテ. ィズムは逆に修道院を必要としている. (H 284)それはキ7)スト者が「隠れた内面性」の 蔭に隠れてその実全き世俗性の中に沈んでいるか,それとも完全性に向かって上昇してい de. るかを定めるpoint. (H 476) しかしキルケゴールは何も中世カト1)シズムへ還れ,と言うのでほなく,それへの批判 vueである.. もまた見られるのである。. 「カトリシズムにはキリストと同じになろうとする方向におけ. る絶望せる思い上りがあった,ということは確かである。」. (S705)またキリスト自身 「荒野へも修道院へも行かなかったoそれほ彼にとって軽減(Milderung)でしかなかった だろう。」. (冗 286). このようなpro. 「中世の誤謬は修道院でも禁欲 eontraから何が言えるであろうか。 でもなく,誤謬ほ,修道僧が異常な程度のキリスト老として国家を作り,それによって世 俗性が勝ちを占めたことである。」 (H 598)すなわちキルケゴールの新旧両教に対する批 et. 判は,両者が形こそ違え共に世俗化している点に向けられているのである。彼ほ新旧両教 の正しい関係を,両者が共に支え合う一つの家に誓えている。 (H 554)しかし彼ほ彼の時 代の現実のカトリシズムを知ってはおらず,彼が言うカトリシズムとはIdeeにほかなら ないのであって,彼ほ決して歴史家として両教を批判し,両者の新たな総合を示唆してい るのではなく,あくまでもデンマークの新教世界の中にあって,それがもほや新旧両教の 違いを超えた真実のキリスト教を再獲得することを願っているのである。すなわち「ルタ (H 556)ルターが求めたも ーが敢えて求めたものは,彼の状況の下でほ,正しかった.」 のは精神の最高の原理,ひたすら内面性を」であった。 (Ⅱ559)しかし「最高のものは最低 のものによく似ている」のであり,プロテスタソティズムは世俗性に転化し易い。. (同)辛. ルケゴールは内面性が真に精神となることを求め,それが外面に表われる形態として「修 道院」のイデーを導入しているに過ぎないのである。 ●. ●. ●. 以上のことを内容的に「律法と福音」の問題に即してまとめたキルケゴールの言葉によ って見れば,ルター沢プロテスタソティズムほ模範としてのキリストを忘れてしまい,逆 に中世カトリシズムもまた,キリストと等しくなることを実現可能と考え,その結果行為 義認主義に陥ってしまい,共に批判を免れないが,ルターその人ほ賜物としてのキリスト を模範としてのキリストから区別して際立たせ,信仰と行為とを区別した点で全く正しい (S 394)のであって,キルケゴールはルターを肯定するのである。. このように本節の問題ほ決してそれ自体でキルケゴールの主題だったのではなく,すな わちプロテスタソティズムとカト1)シズムのどちらが正しいかといった問題ではなく,一 方でほ彼の著作家としてのキリスト教界への関わり方の問題に,他方では律法と福音とい う本質的な問題に,帰着する。前者は後に扱うことにして,後者の内容的な問題を次に考 察することとしたい。.

(3) 3. 日記に見るキルケゴールのキリスト教理解 第2節. 律法と福音. まず気のつくことは,キルケゴールにほ律法を強調する記事が多い,ということである。 キT)スト教界では「いつも子供っぽい意味ですべて恵みだ,という子供っぽい甘さ(Wilde) ばかりだ.」 (S677) 「キ7)スト教界ほ≫恵みiの教説をまる一段階高くし過ぎている。」 407). (S. 「ひとはキリスト教を余りにも慰めにしてしまい,それが要求であることを忘れた。」 ●. (S417). ●. ●. 「今日では人々は福音また福音をしか聞きたがらないo」. ●. (Ⅱ476)この批判ほルター. にも向けられることは前節に指摘したところであり,彼の「まず信仰,次にわざ」という 「′1ウロほ和解をこ 宣教に疑問を呈しているo (S 573)批判はさらに.くウロにもおよび, 「パウロは (S 655)と言われ, の上なく強調し,服従(Nachfolge)を殆ど看過している」 福音書に比べて退歩を意味する」 (S 794)とまで断言されるのである。でほ積極的にほど. うせよとキルケゴールは言うのか。恵み・和解・「罪の赦しとは,神がいわば一撃の下に 「キリ. (S 61)のであり,. あらゆる沓を消去し各の結果を廃棄する,ということでほない」. (H289)「キリストほ スト教とほ,キリストと等しくなれという教えであり導きである。」 (H 280)同じ趣旨の主衷ほ 本質的に模範であって,我々は彼と等しくなるべきであるo」 ●. 多数見られる。. (冗 363. f., S 152,. ●. ●. ●. ●. 262Ⅶ・a.). しかしこういう律法と模範との強調に反する言蓑もまた見られるo. 「キリストが唯一の. 犠牲である」 (S735)という言葉は,キリストと等しくなるべしという主張と相容れない。 (S 898)という勧告も同 「人間ほ人間以上のものになろうなどと思い上ってはならない」 様であり,これとほぼ同じ言葉ほ他にも見られる.. (S 595,. H. 293u・a・)さらに「キリス. トの死は私が彼にならって果たすべき課題でほなく,彼ほ和解である。. --であるから,. キリストは模範であって私はひたすら彼に等しくなろうとする意志だけを持たねばならぬ, (S 325)のであるoまた,ヤコブ書2章26節を道にした「信仰のな とは言い切れない」 「神を思うことが罪を想起させず,罪の (S 372)との言葉, いわざほ死んだものである」 (Ⅱ 276), 「神は赦しにお 赦されたことを想起させるとき,人間は罪の赦しの中に休らう」 (H いて杏を忘れて下さったと信じる信仰」 (H 278), 「すべてほ善であり神ほ愛である」. 245)という1846・47年の言葉は純粋に福音的であり恵みを無条件に受け容れている。 「愛は命令より勧め(Rat)に喜んで従おうとするものだ。すべてを棄てよという要求もキ 1)スト教の勧めでありキ1)ストの願いなのである」. (冗 296)というこの記述は先の服従へ. の要求の厳しさとほ全く調子を異にしている。 「?恵みi,. これらのほかに,律法と福音との双方に等しく重点を置いた言表も見られるo. ほかならぬ恵みは,その生が最も厳密な意味で服従であるような人間によって説かれなけ (S 557)ここでは人間の実存において恵みと服従とが統一されるべきこと が主張されている。 「慰めと苦しみの両方がキリスト教とともに来る」 (S247), 「キリ、スト ればならない。」. 教は厳しいが,また甘く(milde)もある」. (H 470), 「≫恵みiほ通常ある死んだもの,一. 度きり起こるものと見なされているが,それは努力に結びつくべきものなのである」 422)といった言明ほ恵みと腺従とが等価であることを示し,. (S. 「君が人間に行なうと同じi'. うに神ほ君に行なう」 (S 106-107)という言葉は福音とわざとが夢Gleiches. ftir Gleichesi.

(4) 4. 小. 林. 謙. 一. の関係にあることを表わしている. 「律法一碍音」と屈した短章では, 「恵みが一段高まる ごとに律法も内面性において鋭くされなければならない」と言われ(H524),さらに「神キリスト」という題の断章でほ第一にキ1)ストほ服従を要求するが,第二にキ1)ストはし かし同時に恵みであり,第三に,しかも人間の努力を助ける恵みである,という弁証法が 展開される。. (S 552)このことのより動的な表現として次の二つの言蓑が注目に値する。. 「神およびキリストの観念が理想的になればなるほど服従は困難になり,それだけいっそ う恵みへと逃れ行くことが強調されなければならない。」. (S687) 「君はキリストすなわち 宕の模範と同時的になれば,君が彼に全然似ていないことを発見する。 --だからこそ君 (S228). ほ,恵みの信仰へと逃れ行くことを徹底的に学ぶのだ。」 (S461,. いう表現は他にも見られる。 りもし浅薄になりもするのである。. 「恵みへと逃れ行く」と. 471)このように恵みと服従とほ常に相伴って深ま. このような,律法と福音のどちらもいわば他方に先行してはならず,一方が先に出れば他 方もぴったりとついて行く,といった関係とほ異なり,福音が先立って服従のわざを見守 り包み込む,という形を示している言表を次に検討してみたい。. 「天の神ほ人間の努力を. 辛抱強く待ち給うとは何という忍耐の奇蹟であろうか。」. 「服従から始まるのでは. (S422). ない,恵みからである。それから服従が,可能な限り,感謝の実として続く。」 (S585)服 従のわざとほ,言葉で表現し切れなくなって行為で表わす感謝のしるしなのである。 (H 563f・). 「キ])ストが求めるもの。何よりもまず,信仰.次に,感謝。」 ●. ●. 目すべきことに, 「服従ほ強い弟子における感謝の強い表現」. (S600)しかも注 ●. ●. (同)であって,. 「弱いキリ. スト者」忙ほ服従は要求されないのであるo こういった関係をキルケゴールは「書きわざ と信仰との関係」を題する短章に分析している.書きわざは≫功績iという意味でなら唾 棄すべきものである。しかし書きわざほそれを行なう当人に知られてはならない。書きわ ざほ,だから,存在しかつ存在しない。書きわざは謙遜と信仰との中に提出さるべきであ る。こうして書きわざほ,両親からすべてを受けている子供が両親に贈るプレゼソトのよ うなものである。. (S 81)すなわち恵みは人間の努力でほ獲得できないほど高いものであ. り,だからこそ恵みなのであるが,しかも,それを与えられた感謝の余り,無駄であって ち,滑梧であっても,をこであっても,神のためにせずにほおれないが努力・服従なので ある. (I 567)キルケゴールはまた別の断章では遣った比愉を用いて「服従」を説明しよ うとしているo. 「≫キ7)ストと等しくなるよう努力すべし名とほ言われていないo. --そう. ではない,キリストを着るべきである。借りた着物を着るように,彼を着るのだ.これが satisfactio. vicariaであるo. -. ・キ1)ストほ彼の着物(satisfactio)を下さり(geben),そ して君が彼を再現する(wiedergeben)ことを要求し給う。」この再現が服従である。 (S 432) ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. さらに進んでは,恵みが圧倒的に大きくなって,服従が無に等しいまでに小さくなるこ. とを表現する言表がある。「キリスト教ほすべてを要求する。君がそれを満たすとキリス ト教は,君がそれにもかかわらずにひたすら恵みによってのみ救われるのだということを 理解せよ,と求める。」 (S548)ここでは恵みとわぎとほ,これまでの両者のように相応.

(5) 日記に見るキルケゴールのキ1)スト教理解. じあるいは恵みがわざの目標であったりする関係にはなく,いわばかみ合わず食い違い, わざほ目標を失なうのである. 何もしなくてよいのか?. 「≫まず神の国を求めよi -・その次にほある意味でほ全く その通り,ある意味でほ確かにそうである。」 (S194). 福音と律法とに対するこのような様々な,互いに対立し合う見方を統一するキルケゴー ≫私ほ喜ばしき音信だ.i私のうちな ル本来の考えほ何であろうか. 「キ1)スト教ほ言う, るgeistigな部分はこのことを無限に高い意味で把えるべきことを理解するo -とそこ へSinnlichな部分が現われて,喜びをsinnlichに曲解し,そしてキ7)スト教は喜びであ ると解説するのだ。」 (S669) 「キリスト教は律法を宣教するのではない。反対に,神が無 限の愛をもって人間のためにして下さったことを告げ知らせるのだ。 -・そうすれば人間 ほおのずと(eo ipso) Absterben -と決意する.」 (H 559 f.)このように,キルケゴール 自身ほ,福音・恵みがキリスト教のすべてであり,律法のわざ・月臣従ほこれに比較して無 限に小さいものに過ぎない,と考えているようである。ただここで二つのことを注意して おく必要がある.第一は,彼の解するキ1)スト教すなわち福音はGeist. (霊)と或定され. るものであり,人間を超えた無限に高いものであり,であるから人間は なもの sinnlieb Geistに生まれ変わらなければならないのだ,ということである。 に死んで(absterben) 第二に,キルケゴール自身にとってはこのように,神の国(Geistの国)を求め,恵みに よって罪を赦され,霊的な喜び(Seligkeit)のうちに生きる,という福音がすべてであっ たとしても,他方キリスト教界に向かって発言する彼の使命を自覚する場合には,世に対 する呼びかけ,また時にほ攻撃として,苛酷な要求の面を強調せざるを得なかったという 「キリストの和解が無条 ことである。このことから彼の次のような発言も理解され得る。 件にすべてであって,人間が何をするかほ根本的にどうでもいいことである。しかし,こ の和解の無限性が人間を怠惰にしたり幼な児のような純な気持を押えつけることになって ほならない。」 (S 380) 「信仰者の行なうわぎは修練のわざである。相続人が財産を所有し ているように信仰者ほすでにすべてを所有しているのだ.」. (S 198)キルケゴールは自分. にとって相対的に意義の小さい律法のわざ,服従の行為の要求を世に向かって繰り返さな ければならず,しかも頑なな「キリスト老」たちに対してその要求をいよいよ極端にして いかざるを得なかったのであり,その結果,彼にとって意義の大きな神の愛・キリストの 和解が人々の日に見えにくくなっているのである8)o しかしこのようなキルケゴール自身の福音理解,したがってまた世への関係にも,問題 が含まれている。そこで次に問いを彼のキリスト教観全体に拡げ,それを規定している彼 の考え方の特質を探ってみたいと思う。. 第2章. キルケゴールのキリスト教. 第1節「メソデイズム」4). この用語は第一に,キ1)スト教にほ順序がなければならないというキルケゴールの考えを 「苦悩・悲惨・悔いがキリスト教の前提である.」 (S492) 「プロテスタソテ. 表現するo. ィズムの原理ほ特別の前提を有する。すなわち死の不安とおそれとおののき,数多くの.

(6) 6. 小. 林. Anfechtungのうちにある人間である.」. 謙. 一. (Ⅱ 559) 「キ1)ストの恵みと憐れみに信頼する前. (S 375-376) 「キ1) にまず彼と彼の聖さに対する畏れがイエスを求める老の中にある。」 (S97)このように,死や罪, スト教は罪の恐ろしさを措定した後に慰めることを始めるo」. また絶望があってほじめて,恵みと赦しが宜べ伝えられるし受け容れられるのだ,という 考えは他にも多い. (Ⅱ 331, 382, S 159, 510, 520, 531, 533) 「メソデイズム」ほさらに進んで,そういう条件を積極的に創り出さなければならない 「異教 という主張をも意味する。キリスト教界ほキリスト教そのものをひとまず措いて, から始めなければならない」 (冗 295),あるいは「ユダヤ教的宗教性」の「学校を通らな ければならない。」. (S 400)別の比倫を使えば,いつでも満腹している人間は,食物がな. ければ飢えてしまうのだということを知ることがない,だから彼に空腹を教えなければな らない,すなわちキリスト教界でも確かさを与えるのではなく,■不安にさせなければなら ない。. (S168)直哉に言えば,. 重きが置かれるのだ。」. 「まず不幸になれ・-・そうすればキリスト教的に永遠性に. (S 249). このメソデイズムの板拠は,キリスト教は実存(Existenz)を要求する,ということで あり,キルケゴールほキリスト教より先にまず人間に実存せよと要求するのである。. (H 234) 「信仰一乗存」. 摂理・和解等々は実存する老にとってのみ現実に(da)存在する。」 ●. ●. 「神・. ●. と題する断章を見ると, 「ふつう,まず信仰を持たなければいけない,次に実存が続くだ ろう,と想像されている・-・まるで実存ぬきで信仰を持てるかのように! --信仰を得 (S613)この関連で次の言明も るためには,まず実存が,実存的な現定が必要なのだ。」 注意に値する. 「最高のものへの可能性はどの人問の中.にもある.それに従うべきだ.」. (H. 334)ここには現代の実存論的神学に通じる考え方が姿を見せている。 Propadeutische)」,次いで信仰,の「後にさらに第 しかしこのような「基礎部門(das 二の実存が来る」 (S613)のであり,すなわち服従の行為であって,信仰・恵みはその前 も後も実存によって規定されなければならないのである5). 第2節. キリスト教とは何か. ここでいくらか角度を変えて,キルケゴールの日記の中に頻出する「キリスト教と ほ--」という定義の形式の文章から,彼がキリスト教をどのようなものと見ているかを 調べることとしたい。 (S. 「キ1)スト教とほ慰めである.それは確かだ.しかしそれがその究極目的ではないo」 テ. ロ. ス. 225)ここでは既述の律法と福音との等値が主張されている。これほ永遠と時間との対立 にその理由を持つ. 「キリスト教とはUnruhe. (不安)である.」. (II6芦5)「キ1)スト教は. (S128) 「キリスト教とはUnruhe, この世ではRuhe(休らぎ)と考えられてはならない.」 (S 776)この世でほキリスト教は恵みとして休らっているこ 永遠性のUnrubeである。」 とほできない.. 「休らっている,. Bestehendes. (既存社会)と考えられたキリスト教はユダ. ヤ教であるo動いているキリスト教がキ1)スト教であるo」. (S251)さらに「キリスト教. 「キリスト教は私にほ殆ど戦闘的過ぎるものだ。」 (Ⅱ 611) ほ闘う真理」であり(S189), また、「キ1)スト教とは神から課される試験」 (S209), 「生の試験である.神は愛される.

(7) 7. 日記に見るキルケゴールのキリスト教理解. (S802)試験であるから,キ1)スト教ほ人間を ことを欲し給うが,これが試験なのだ。」 教育し,強くするため,また其の信仰者とそうでない者とをふるい分けるためのものとい うことになるoであるから人間ほ試験に合格するよう絶えず努め気づかわなければならな い。. 「キ1)スト教は講義されるべきでほない. 人ほその中に生きるべきである。」. (S219). --キ1)ストの教えほ体得されるべきであり, 「キリスト教とは何か。キリスト教ほ教えでは ●. ない.. ●. ・-・キリスト教は信じることであり,それに応じた,実存の特別の種類,服従であ ●. ●. ●. ●. ●. ●. る。」 (S280)このようにしてキリスト教とは生き方である。. ●. 「キリスト教とは,キリスト. 教の諸々の要求を日ごとの生活の中で充たすことであり,したがってキリスト教ほ気違い ざただ。キリスト教とは理想および理想性を実生活の中に保持することである。」. (S 290). (S502)ということにも. であるから場合によってはキリスト教とは「苦しむ真理である」 なる。. これらすべての言表に共通しているのは,キ1)スト教ほ人間の生き方であるとして,人 間の側からのみ把える見方である。このことをよく表わす言葉として次の二つが挙げられ よう. 「キリスト教とは教えの命題の総計ではない一性格の発展である。」. リスト教とほ実存の伝達である。」 ●. ●. ●. ●. (S404,. ●. (H. 586). 「キ. 405)すなわちキリスト教は実存において生き. られ,また実存に表現されることによ,,て他人に伝えられるべきなのであり,この後老の 意味でキリスト教は自己を人間に伝達すべく「気づかう真理」 (S363)である.とも言える のであるo. 第3節「人間の関心のキリスト教」 本節でほこのようなキリスト教理解の特徴をいくらか詳しく考察することとしたい。 「参私ほキ1)スト教を必要とするiと言うのほキ1)スト教的だ。」. (S543). 「自分の平安・. 安らぎ・至福のために人間ほ天に一人の神を必要とする--さらに人間ほ一人の救済者・ (S. 和解者を必要とする・-・次に人間は努力を助け力づけてくれる聖霊を必要とする。」 519)このようにキリスト教また恵みを「必要とする」という言い方ほ他にも多数見られ る(S 433, 518, 542u.a.)が,これは一種のエゴイズム・自己愛ではないか? ゴールほ事実自己愛を肯定するのである。 その人にほ何が残るか?. キルケ. 「神を畏れる人は,世の愛するものを愛さない。 (S 120). 神の愛と自己愛だ!」. 「キリストと等しくなるべし」 次にSollenの強調が挙げられる。 (H280u.a.)との要 求についてほ1章1節で触れたoただ要求するだけでほなくその根拠を示す言蓑としてほ ●. 以下のものがある.. ●. 「≫君は信じるべきだiというのが本来,罪の赦しの教えにおいて慰め. なのだ.. (S230) 「祈れば祈 --?・忘れるべし,自分の罪を思うことをやめるべし-・・。i」 るほど確実になるのは,究極の慰めは,祈るべしと神が命じ給うたことだ,ということで ●. ある。」. ●. (Ⅱ 323) Sollenの厳しさが救うカなのであるoそれゆえキルケゴールにとっては. 「権威」,またこれにつながる牧師,使徒,説教といった「客観的」概念が重要性を持つの であるo. 「絶対的なものは何を要求するのか?. 絶対的服従,?Solleniに根拠をおく服従. であるo. --?汝なすべしi,これこそキリスト教界の畳教書が説教すべきことである.」.

(8) 8. 小. 林. 謙. 一. (S158)ここにカト1)ヅク的超越性への親近が見られることほ確かであるが,しかしキル ケゴールの場合にはそれよりもSo11enの主体の実存への訴えかけの方に重点がおかれ, すべき Sollenの強調はすぐにWollenの強調へと移行するのであるo 「信仰とは何か? ●. ことを,すべきであるがゆえに,欲することである。」 ●. ●. (S350)次の短章も同じ事柄を述. ●. 「信じるために私ほ白からは何一つできないのであるか?」という問いに対し. べているo. てキルケゴールほ「宿命論を持ち出したくないのなら,主体性を排除することほできな 「完全になることを妨げるも い」と答える. ・(S438)借仰ほ主体の自由意志なのであるo (S637)それゆえ, のほ倫理的にはただ一つ,正しく意志しようとしない私自身である。」 「意志の人だけがキ1)スト者になり得る.なぜといえば,意志の人だけが,破られ得る意 志を持つからである。しかし無条件者またほ神によって意志を破られた意志の人こそがキ リスト老なのだ。. ・-・キリスト老とほ,もほや自分の意志をではなく,破れた意志の情熱 (S 854) をもって一根底から変えられて-別の意志を意志する,意志の人である.」 「おそら 意志の人ほ少ない.であるから,キルケゴールが新約聖書を解するところでは, くほ何百万人に一人も救われないであろう。」. (Ⅱ 587)この点でキリスト者ほ一種のA-. Menschとなり6),ニーチェの超人に近づくのである.. 「Peterにとっては神関 キルケゴールの兄Peterがかつて二人の間の宗教的な違いを, 係とは愛されることであり,セーレンにとってほ愛することである」と言ったとキルケゴ (H 421)彼にとって「神が愛であるとは,君が神 ールは述べ,かつそれを肯定している. を愛するよう助けるために何でもして下さる,という意味」であって(H 622),神が人間. を愛することではない.. 「神と人間の関係ほ,神が愛される老となることに終わる.」. 768)それゆえこの点でもルターが批判される.. (S. 「そもそもルターは愛をただ隣人愛として. しか説明しない。ちょうどまるで神を愛することが義務でほないかのように。」. (Ⅱ 421). それゆえキルケゴールの「お気に入りの福音」は「誰も二人の主に兼ね仕えることはでき ない」であり(Ⅱ. 477),総じて彼のキリスト教理解はマタイに強い親近性を示すのである。. 「神は無条件に愛されたいと欲し給うo」 ●. ●. ●. ●. (S270). 「もしそう言ってよいなら,神はそばに. 座って私の良心に≫ただ私だけを気づかえiと噴く.」. (S312)このような表現には,神. への愛のうちに神を恐がる気持がひそんでいるように思われる. 「私が求めることは,倫理的性格となる方向で人々を鼓舞することだo」. (Ⅱ 482) 「人間. がキリスト教を真実に把握しようとするなら,彼の本質の最奥の根底で変化が生じなけれ ばならない.」. (S508)すなわち人間からキリスト老への変化であるo. ことに努め,憧れよ。」. 「キリスト老となる. (S238)キルケゴールほキリスト老をふつうの人間とほ違った特別. の人間というように考える。 「真のキリスト者ほロメオとジュリニットよりも稀である。」 (S216)キルケゴールはちょうど哲学者や政治家になるよう努めるのと同様に「キリスト 老」となるよう努めよ,と言い,キリスト着であるためにほ他の何ものでもあり得ないか のようである.. 「ひと-ほ(そしてこれがキリスト教界の不幸な錯覚であるが)キ7)スト着. たることと人間たることとを混同し,この両者を無雑作に同一視している。」 ルケゴールほ「キリスト者」を「人間」から際立たせることに努める。. (S243)辛.

(9) 9. 日記に見るキルケゴ-ルのキリスト教理解. このようにキルケゴールほ「キリスト者」に,その実存に,注意を集中する.これを主 題とする記事が量的に多いというだけでなく,彼の思想構造そのものが神の行為よりも人 間のあり方に向かっているように思われる。彼ほ「神の関心(Interesse)のキリスト教一 「キ1)スト教は,もしそう言 人問の関心のキ.)スト教」と題して両者を対比し(S588), (S 508)と言い, 「≫使徒i ってよければ,神の関心において宣教されなければならない」 はキリスト教を神の関心において表現し,神の権威をもち神の関心において登場する。ル. ターほキリスト教を人間の関心において表現し,本来的に神の関心におけるキリスト教に 「キリスト教とほ神的なる 対する人間性の反動である」 (E 643)とルターを批判するア'。 (S691)しかし「神的なるもの」すなわ ものであって,人間的なるものの逆転である。」 ●. ●. Geistほまた人間の目標であり,それへ向かって人間が. ち理想,模範,完全性,永遠性, 努めるべきもの,意欲すべきものであり,神から人間(および世界)に向かう方向は稀薄 である.また人間が世俗性の中に怠惰に安逸を余るためのRuhekissenやZuckerbrot8). としての「人間の関心のキリスト教」を排してキルケゴールが措定するものもSollenで あり倫理であり実存であって,これは別の意味で明瞭に「人間の関心」にほかならないo このことが,. 1章の終わりに示唆した点すなわちキルケゴールの戦術的自覚に全く帰せら. れるのか,それともそれだけでは説明できず,彼の限界を示すのか,という問題ほ本稿の 後続の部分でなお考察した上で結論を出したいと思うが,いずれにせよキルケゴールほキ リスト教をその人問的側面から見た,ということは明らかであろう。 次にこのようなキリスト教理解ほ何にその原田を有しているかという問題を以下の二節 で考察してみたいと思うo 第4節. 神へのおそれ. キルケゴールほ1846年の日記に次のような句を書き誌している0. 「神に知られている. (S46) 「誰も神を ということほ私には,生を限りなく重荷とするもののように思える。」 おそれない。」 (S48)キルケゴールのキリスト教理解の基調ほまずこのような神への畏怖, 「『あれかこれか』をもって著作を始めたとき私ほ, 時には恐怖,であるように思われるo. わが国のどの聖職者にもまさって深いキリスト教の恐ろしさの感覚を持っていた。私ほお (E 398) そらく誰も知らないようなおそれとおののきを持っていた。」 ●. ●. ●. ●. 「われわれ人間ほ神にとって この怖れはまた神に対す畠負い目の意識として表われる。 何という厄介であることか,ささやかな心配事や喜びでもっていかに神に重荷を負わせて (Sl12) 「どのような真の神関係の底にもある,限りなく神に値しないとい いることか。」 う感情が圧倒的になり,神関係が神をいっそう強く喜ぶことにほならず,人間に重荷とな (S 258) 「真実の深い愛の最初の表現は自分の無価 ることからAnfechtungが生じる。」 (S 187) 1 値の感情である. --真実に愛する人は自分をいっそう大きな罪人と感じる.」 559 f・)において Absterben」という短章(I 章2節で引用した「神ほ愛である-das Absterbenによって何とか少しでも返 ち,父なる神の愛という限りなく大きい借りを, そう,という発想が読み取れる。こうしてキリスト老ほ絶えず神の限を気づかわなければ ならない。「信仰とは,自分が本当に信仰を持っているかという限りない気づかいである。」.

(10) 10. 小. 林. 謙. 一. (S201). キルケゴ-ルにとってほ福音の甘さ(Wilde)さえも怖れを惹き起こす. 「キリスト教で 私を最も不安にするものはそのMildeである。」 (S 513) 「キ7)スト教のMildeの宣教に 関して私は誰にもまさって情熱を持っている。」. (Ⅱ 507)しかしMildeほ感情と同じで,. Mildeが「深くなればなるほど,それを表わすには不安が大きくなる.どんなに途方もな い勢いでそれがやがて溢れ出て来るかよく知っているからである。」. (H 508)それゆえ人 ほ恵みのMildeを安んじて受け取ることほできず,むしろそこから弾き返されるのであ る。 「キリストは招く方であり,その招きほきわめて真剣(ernst)なので,他面でほ人を 尻込みさせる(abschrecken)のである。」. (S 202). このような神への怖れ・気づかいは,神の近さの意識から生じている。 「人々が神や神 関係について話すときに奇妙なのは,彼らが神もまたその話を聞いているのだということ をすっかり忘れているように見えることだ。」. (Ⅱ 314) 「神ほ愛である。愛であったでもな ●. ●. ●. ●. ●. く愛であるだろうでもない。」 (H 466)神ほ今,ここにいます。. 「神ほそこに居合わせる。 高貴な無関心着でほなく,われわれとともにすべてに関与する愛として。」 (S 208) 「神の ●. ●. ●. 現在・それが説教であり,君は神の前に立っている,これがその内容だ。」 は一刻もゆるがせにできない.. (S338)人間 「すべてが,ごく些紳なことでさえ,私の永遠の幸いの問. 題に関係し得るのだ。ああ,このことほ正気を失なわせる。」 どうかが決定的なことであるo. (Ⅱ 470)神を近く感じるか. 「人間と人間との問の最大の違いは,神がかたわらに立っ. ていると思うはど近く,各瞬間ごとに近く,神を感じるか,それとも神ほ1800年も遠く 離れており神の近さは歴史的問題にとどまると空想して幸福にその日その日を送るか,で ある。」. (Ⅱ 387). このような神の近さとほ逆のように見える神と人間との隔たりを表現した言表もまた日 記の中には見られる. 「神がいかに無限であるかということを,無限の距離を,発見する。」 (H 414) 「神と人間との問の深淵のような質の違い。」. (冗 285)この差違は両者の間を無. 縁にするのでほないo 「神と人間との問ほ闘争であるo」. (Ⅱ 505)しかしこの質的隔絶は神. の近さの感覚と矛盾するものでほなく,逆に,神が身近に感じられるからこそ,人間の卑 小さに比してその無限の大きさ,隔たりが強く意識されるのであって,神と人間との質的 隔絶が神の近さから生じる神への怖れの原因、なのである。. このように怖れ,気づかい,そして苦悩によって特徴づけられるキルケゴールのキ.) スト教は,喜ばしき音信と言うにほ余りに苦行僧的でほなかろうか。彼自身そのことに 「私の宗教性の中には何かしら自虐的なところがありほしないか」と自問し,. ついて,. 「どうせそうならば,キリスト教界の異教性よりもこの少量の自虐の方を選ぼう」と答 えているo. (H. 337)もっとも彼はまた「苦悩が究極目的であってほならず,苦悩を求め テ. ロ. ス. てはならない。それは思い上りであり神を試みることだ」. (冗 562)と言い,自虐的なこ. とを肯定しているわけでほなく,苦行僧的なものが彼のキリスト教の本質だというので もない。.

(11) ll. 日記に見るキルケゴールのキリスト教理解. このような神への怖れを惹き起こす神との隔絶の意識の底にあるものは何であろうか。 この問題を次節で検討してみよう。 第5節 永遠性と霊(GeiBt) 「キリスト教は本来,人間は永遠性に絶対的にかかわるということを前提している。」 479). (S. 「。キリスト教ほ常に永遠について語り,永遠わことを考える。. --使徒は言う, ?絶えず喜ベiと。つまり永遠を思ってであって,この地上には十分悲惨があるからであ る.. --キ1)スト教ほ言う,恵みによってすべて,幸福・喜び・祝福が贈られる,と.そ の際キリスト教ほいつも永遠を考えている。 ・-・キリスト教界も同じことを言うが,それ (S535)このようにキルケゴールは永遠と時間とを峻別. によってこの世の生を考えるo」. 「恵みとはこの世の生にあっては罰を苦しみ し,キ1)スト教を永遠性の世界に属させる. (S836) 「この世の生」ほ「エビキュリズム」で 耐え,永遠性へと救われることである。」 はないのである.. 「永. (同)ここにはキルケゴールの永遠への憧憤が読み取れるであろうo. 遠ほ影の国でほなく,明澄と透明の国であり,そこではすべてが明るく,開かれている。」 「キリスト教のこの世への出現」は (S594)これに対して時間の世は「影の国」である。 「最高の意味で現存在の破局」である。. (.S 676) 「?重複i. (別言すれば,. Wieに注目する. (S519) 「重複」 (信仰 こと)ほゆっくりした行程であって,本来永遠性の行程である。」 を実存において表現すること)というキルケゴールにおいて重要な概念も,その背後に透. 明に永遠性が望見されているのである。 「永遠性の観念はユダヤ教で こういう観点からユダヤ教および旧約聖書が批判される。 はきわめて微弱である。」 (S366)旧約聖書では,アブラ-ムのイサク献供の物語に表わ (S662)しかし「私ほこの世的なも. れているように,結局?生の享受iに戻って行くo」. (同) 「ユダヤ のの放棄から始めるo この苦悩の中で永遠が私にとって現実となるのだo」 教ほまさに結姫の神化において絶頂に達するo -処女降誕は根底では全旧約聖書の否定 -. もしくは無力化を意味する.」. (S736)この世における喜びであり,この世の生命の継続. である結婿をキルケゴールは永遠のゆえに否定する。また彼が共同体に否定的であるのも 永遠性のゆえである. 「?Gemeindeiをもってまたひとは永遠を時間の中に組み入れよラ とする。」. (S301). Gemeindeほ「休らっている」が,単独老ほ「生成の媒体のうちにあ. る」のであり(同),すなわち共同性ほこの世に,単独性ほ永遠に属するのである。なお 「永遠が キルケゴールがヨ-ネ16章16節のイエスの言葉「しばらくの間」に関して, (S280)と述べてい 近ければ,あらゆる苦しみ・不幸・悲惨も?しばらくの間iである」 るのは彼の終末論を示していて興味深い。これほ実際に終末が近づいているというのでほ なく,人が地上的生から遠ざかって永遠性を目ざして努めれば努める托ど,そのゆえに世 から受ける苦難も軽く感じるようになり,永遠の至福が彼を満たす,ということであろう。 キルケゴールはまた「霊」. (Geist) -の憧慣を示すo. 造り変えられなくてはならない。. 「君ほ神の気に入るために絶対的に. --君ほ霊になったのだ。」. (S550). 「結婿」と題する断. 章で彼ほ言う, 「子孫を残すということほ不死でほない存在にとって慰めである。生殖ほ 個人の不死の代用物である。. --そこ-キリスト教が現われて童貞をもたらす。すなわち.

(12) 12. 小. 霊の宗教であるo」. 林. 謙. 一. (S 734)キルケゴールが結嬉を否定するのは永遠性のゆえであるとと. もに霊の不死のゆえである.. 「サクラメソトに与えた地位とその用い方のためにキ1)スト. 教はユダヤ教に逆戻りしてしまった.」 霊に訴える彼の願いが表われている。. (S791)ここにもsinnlichなものを斥けて純粋に 「キリストは絶対的なるものをもって我々の生活す. る相対性の全体を破砕した。それは我々を霊にするためである。」. (S574). 「キリスト教は. 人間は堕ちた霊であると主張する.」. (S739)キルケゴールほ霊をもといた高みへ押し上 げたいのである。最古の教会について彼は述べる。 「天使の堕落によってその数が不完全 になった。それゆえそのような堕ちた天使に代わることがキリスト老の限りなく高い目標 だと考えられた。」 (S846)そして彼ほ「しかしともかくも,天使になることが可能だっ たのだ」とこの断章を霊となることへの憧憤をこめて結ぶのである。なお共同性はまた霊 のゆえに否定されるo 「単独老の中で単独性の神関係が虚弱になると,社会性や≫他人iが 中間規定として出てくる。」. (S258). 「教会と社会性」と題する文(S626)によれば,. 「キ. I)スト教ほ霊にかかわる。しかし社会性は本質的に. seelisch-leiblichな統合にかかわ ?霊iから社会は --キ1)スト教ほ,永遠の生ほまさに社会的でほない,と教えるo 導き出せず,教会は,はかでもなく我々が真実のあるいは純粋の霊でほないがゆえに存在 る.. するのだ。」. (S620)こういう教会観ほもちろん「キリストの体」という正統的教会論と. は相容れない。. 先に引用した「永遠性の観念がユダヤ教ではきわめて微弱である」に続けてキルケゴー ルは「ユダヤ人および一般の人間は神を余りに卑小に見ており,十分に霊として見ていな (S866)このことからも,また本節の叙述からもすでに知られるように,辛 い」と言うo ルケゴールにとってほ永遠も霊も同じものの表現であったと言えよう。永遠性における人 間のあり方が霊なのである。. 「よく訓練された射手の矢が弓からひとたび放たれれば的を. 射るまではいかなる休止も白からに許さないように,人間も神を目的に神に創られていて, 神の中に来るまでは休らぎを見出だすことがないのである。」. (H 297)人間は霊として創. られ,再び霊となって永遠の世界に還るべきであることを,このアウダスティヌス的な文 章はよく示している。 永遠性また霊と同じものの表現としてまたAbsterben. (死に切ること)が挙げられる。. 「いつか肉中の嫌が取り去られ,生を楽しむ条件が突然私に提供される,いな殆ど押しつ けられるであろう.その時に,いやそれはいらないと自発的に言う力を持てるほどに死に 切っていること,それほどまでに霊に成熟していることがおそらく私の課題であろう。」 (Ⅱ 563)キルケゴールほ彼の憂愁から解放され,例外者たることを免除されるとし.ても,. もほや(彼自身かつてほ考えた)一般人の幸福,結嬉し田舎牧師となって隠れた内面性の うちに送る生活,を選ぼうとほしない。彼ほこの世を一切断念し,霊の喜び(Seligkeit) のみを求めるであろうo. 「≫霊iとほ何か?. (そしてキリストほ霊であり,その宗教ほ霊. の宗教である.)霊とほ,死んだように生きること(すなわちabsterben)であるo」 「あらゆるものを,死の瞬間に見るであろうように,眺める 644) Absterbenとは何か。 ことoだから死をできる限り近く引き寄せること」. (S544)であるo. (H. 「≫ステパノの顔は天.

(13) 13. 日記に見るキルケゴールのキリスト教理解. 使の顔のように見えた。i-・・キリスト教的にほ死に行く老の姿はそのように見えるo死ぬ とは生まれることだo」. 勧めでもないo. (S 158) Absterben. とほ全く滅びてしまうことではなく,無為の. 「蝶がさなぎからかえって(absterben)羽根を得るとき,蝶が失なうすべ. (S290)人間が肉的な て,すなわち繭,ほ無であって,蝶ほ何も失なわないのである.」 人間に死んで(absterben)霊に生まれ変わることの美しい比暁であるこの句によ/れば, 人間はその際何も失なわず,むしろ天使のような霊の透明な生が豊かに展開されるであろ うo ただキルケゴールほその生の描写はしていない.. 「キ7)スト教は本来余りにも喜ばしすぎるo. ・-・たいていの人は死ぬ時になってやっと. キリスト教の印象を得ることができる。」 (S276) 「時間性においては,人間的に言えば, 真理のための闘いは喜びではなく,労苦と重荷である(いっそう深い意味でほ常に喜びで あるが)。」 (S263)福音もまた服従の行為もともに本来,人間を超えて高く,すなわち霊 を日ざすものであり永遠の至福であり○),それゆえまた肉的な部分を持つ人間に怖れを喚 び起こしもするのである。. 「しかし神ほいわば突然人間を襲って,霊になれと要求するこ. とはしない(そうだったら人間ほ死んでしまう)。このように神は限りなく愛である。神 (H 545) はたいそう穏やかに始める。それほゆっくりした過程であり,教育である。」 以上のように,キルケゴールにnegativには神への怖れを生じさせ,神との隔絶を意 識させるものは, positivにほ永遠の世界-の憧慣,霊的存在たらんとする願望であるが,. このような心性が彼の生い立ちと密接に関係していることを示す句も日記中に見られる。 (S 182) 「例外者の不幸な少青年時代ほ栄光化されて霊へと変貌する。」. 第3草 第1節. 本釆のキルケゴール. Korrektiv. キルケゴールは白からの使命を強く自覚しており,それについての反省も日記中の至る 所に見出だされるo 「私ほ私の民にとって≫神の贈り物iかもしれない。」 (H 227) 「キ1) (H 263)しかし彼ほ何をしようとい スト教は産婆術師を必要としており,私がそれだo」 うのか。 「何も新しいことをもたらそうというのでほない。古いもの,全く古いものが再 (H 286) 「私は既 び新しくなるために,至る所で跳躍バネを再び働かせようというのだo」 (H 471)より具体 存の世界(das Bestebende)に対してただの一つの提案も持たない。」 的には, 「私の取るに足りない活動はいつでも,注意を喚起するということだ.」 (H 517). 何に対してか。 「私は私の著作をもって一つのことを達成したいのだ。すなわちキリスト 教の特質とその世界における状況との厳密な記述を残すことである.」. (S 299)ここに提. 示された二つの目標のうち前者の「キリスト教の特質」についてはすでに述べたので,級 者のキリスト教界におけるキリスト教の現状を批判するキルケゴールの方法を以下に検討 しよう。. 「ソクラテスが無知の人であったように,キリスト教を吟味する者も,自分ほキリスト 着ではないと言わなければならない。ソクラテスの問いの果実が知識のいっそう強力な規 定であったように,ここでも果実ほキリスト着たるこ\とのいっそう強力な規定である。」.

(14) 14. 小. 林. 謙. 一. (S408)キルケゴールはいわばキ1)スト教の外側に立ってキリスト教を眺め,キ1)スト教 を検討し,その上で改めてキリスト教の中へ人々も自分もほいって行こうというのである。 「私はキリスト教を理想性の栄光の姿で描き出すことができるし,したのだ。」 (S607)外側 から,・キT)スト教をその歴史と現実とから引き離して,理想型・純粋形態において規定し, 人々に突きつけるのであるo この方法論ほボン-ッファ-の「究極以前のもの」および Arkandisziplinの意味づけ・評価10)とは対鋲的であり,. 「道備え」10)なしに理想性の要求. を最高度に高めてあjtかこれかの決断を迫るのであり,. 「弱者」を「滅過」して「英雄」を. 鍛え上げよう(E492)というのであり,前述の「メソデイズム」につながるものである11)0 しかしキルケゴールはDialektikerであり,彼自身の言によっても「あらゆる実存的な 命題に関してほ,どの証明もまた反対証明であり,そこにはproもeontraも共にある」 (H. 251)のであって,彼ほことさら意図的に極端を表現するのである.. 「Korrektivたら. んとする老ほ,既存のものの弱いところを厳密に徹底的に研究し,その上で一面的にその 道を提示しなければならない。したたかに一面的に!. 」. (S888). 「ひたすら弁証法的な契 機を表現する実存がどの時代にもいるということが既存社会にとって重要である。 -・ひ たすら神的であるものの一面的かつ絶対的な表現が全く欠けている.」. (S 125)彼は十分. 「Korrektivたらんとする老にとって,もう一方の面を付け加えること. に意図的であるo. ほど容易なことはないoしかしそれでほKorrektivではなくなり,既存のものと同化し てしまう.」. (S388)1乏). こうしてキルケゴールが既存のキリスト教界に対して提示するキリスト教ほキリスト教. の現状とは正反対のものである。. 「キリスト教の真理ほ,寝ぼけてだらけた既存社会より. ち,諸ゼクテの誤謬の中にこそ,限りなく多く存在する。」. (S862). 「今日では聖書を拒否 する宗教改革が,ルターが教皇を廃したと同じ効果を持つかもしれない。 -・このことほ, キリスト教に反対して説教がなされるのとちょうど同じように重要である。」 ●. ●ノ. ●. (S297). ●. 「私の全著 このような激しい批判ほキルケゴールの社会と人々とへの愛のゆえである。 作活動ほ既存社会の弁護なのだ。」 (H 523) 「いかにかして隣人-の愛を表現することが私 (H の無上の喜びであった。」 (H 462) 「私はこの憂愁の中にあっても世を愛していた。」 300)キルケゴール自身の世に対する関係はこの愛に尽きるように思われる. 「今や私は神. の助力を得て私自身となるべきだ。私の憂愁に打ち防つようキリストが私を助けてくれる と私ほ信じ、ている。そしてそれから私ほ牧師になるのだo」. (同)キルケゴールが牧師とな. ってキリスト教界や人々と調和した関係に入り,そのようにして世に対する愛を表現する のが「彼自身となる」ことであったとすれば,キリスト教界に対する「虻」のような覚醒 の役乱「背後から傷つける」18)策略,とりわけMynster監督が死んだ後の直接の激しい キリスト教界攻撃,といったことは,キルケゴールの世への愛の本来の表現でほなかった と言えよう14)oいずれにせよ彼ほKorrektivとして自己を限定していたのであり,彼自 身「?次の時代iほ必ず≫対立物iをKorrektivとして必要とする」と記している(S695) ように,キルケゴールのキ1)スト教理解も後代には批判されなければならず,その「対立 物」が捷出されなければならない。彼ほ自己をKorrektivまた例外者として知っており,.

(15) 日記に見るキルケゴールのキ1)スト教理解. 15. 彼のキリスト教を既存キ1)スト教界に押しつけようとはしなかったのであるo 第2節. 客. 観. 性. キルケゴールほ人間の実存に目を向け,キ1)スト著すなわち霊になること,さらには天. 使にさえなることを望むoしかしこのような主体他のみがキルケゴ-ルのすべてであろう か.彼のキ7)スト教に主体を超越する客観はどのような位置を占めるのであろうか1さ). 「キリスト教をめぐる争いはもはや教えの争いでほなくなるだろう。 --実存としての キリスト教が争われるであろう。 --キリスト教ほ本質的にキリストの生との一致への方 向で強調されるであろう。」 (S 546)これは「1848年に触発されたキリスト教理解の転換」 と題された断章の一部であり,今後の見通しを述べるという形になってほいるが,キルケ ゴール自身の日ぎすところと一致している。. 「私のテーゼはこうである。宣教はキリスト ●. 教ではないo?Wiei,重複(Reduplikation)のために私は闘うo」. ●. (S 562)こうして見る. Sollen と,彼においてほ教義の占める位置ほないように見える。しかしすでに2章3節, について述べた所で触れたように, 「権威」を始めとする客観的概念ほ彼にとって重要な. 意味を持つのであるo. 「重複」も,教えを実存と重複させ,信仰を生において繰り返L,, ●. ●. 恵みが服従において表現される,ということなのである。. 「教えに倫理的なカを与えるた. (S166) 如こ闘われるべきであろうo --であるから教えの内面化が問題なのであるo」 「キ1)ストが神であることを居ぜよ!」 (S173)このように「教え」ほ不動の前提であっ. て,キルケゴールはこれを問題とほせず,教義の内容上の争いを無用のものとして斥け, むしろその先の教えの実存における表現の問題に彼の使命を見出だすのである. 「必要な 順序に従って人ほまずキリストについての最少限の知識を得なければならない。」. (同). 「自分をキリスト者とほ呼ばない」キルケゴールほ教えの内容に立ち入る神学的議論を 極力避けているが,他方教えの客観性を確立しようとする努力をも見逃すことほできない0. 「キリスト教の伝達ほ最後にほ?証人iをもって終わらなければならず,産婆術ほ究極の 形式ではあり得ないoなぜといって,辛.)スト教的に理解すれば,真理は(ソクラテスが 理解したように)主体の中にあるのでほなく,啓示の中にあり,そしてこれは宣教されな (I 325) 「我々人間は殆どエゴイスティックにキ1)スト教を 支配しようとしており,キリスト教が神の発明であり,いい意味で神の関心であることを ければならないからである.」. 考えない。 --神の情熱のキリスト教ほ神の神自身との闘いであり,それゆえある意味で 人間ほ蟻のようになって消えるのだ(しかしそれでもそれほ人間への限りない愛である が).」. (H 519f.)これほ「アンセルムス」と題された断章の一部であって,彼に関する. 読書の感想として善かれており,どこまでがキルケゴール自身の意見であるか完全にほ明 らかでないが,今引用した句がアンセルムスに共感を覚えつつ肯定的に記されていること ほ間違いがない。また彼ほ「ヨ-ネス・クリマクスほ主体性だけだ,云々というよく聞か 「内面性はまさにその極致において再び客観性であるo れる評」に関してこう述べるo してこれが,私の知る限り未だかつて一度として遂行されたことのない,主体性原理の転 換である.」 (H 434)さらに, 「時代ほ理性を通り抜けて無制約的なものに到るべきだ,と いうのが私の信念である。」(Ⅱ558)これらの言表では「客観的なもの」また「教え」ほも. そ.

(16) 16. ・」\. 林. 謙. 一. はや「最少限の前提」ではない。キリスト教は絶対的なものであり,神の愚かという揺が しがたい事実なのである(第1コ1)ソト1章18節以下).キルケゴール自身は主体性・ 実存を通り抜けて,その究極に主体を超越する客観的な神の啓示を見るのであるが,世に 対するKorrektiv. としての使命から発言する時には,いわば戦略としてまた教育的配慮. として,その前半の実存の行程にだけまず注意を喚起するのである18). 第3節『瞬間』のキルケゴール 「本来のキルケゴール」の問題を考えるにあたって避けて通れないのは1854年末から 55年にかけての『祖国』紙上の論説と『瞬間』とに表われた激しい教会攻撃である。こ れほそれ以前の偽名の諸著作および本名の講話の中で表現されてきたキリスト教理解と様 相を異にするのであるが,この違いほどのように説明されるのであろうか,またどちらが 本来のキルケゴールであろうか。この問題は本稿の主題を超えており,. 『瞬間』また『自己. 吟味のために』さらに偽名を撤回された『キリスト教の修練』を詳しく検討した上で答え らるべきであって,後日の課題としたい。ただここでほ簡単な見通しとして,これまでに 指摘された日記におけるキリスト教理解と『瞬間』におけるそれとが違うものかどうかを ざっと見ておきたいと思う.なお引用および参照ほGerdes訳の. Ges.. Werke. 34. Abt.. により,カツコの中にそのページ数を示す. 「恵みは要求について沈黙したりそれを小さく まず「律法と福音」の問題に関してほ, するために用いられてはならない」 (49)という言葉に代表されるように,両者が切り離 されてはならず,等価でなければならないことを主張する。また「新約聖書のキリスト教 はまさしく不安(Unruhe)である」 (90)と神への怖れも読み取られる. 「永遠の至福のた fr.),. めの気づかい」についての叙述も,至福は人間の獲得すべき目標として措かれ(114 二度にわたって「命に至る道は細く,門は狭い。そしてそれを見出だす老ほ少ない」の堅 句を引用する(116,. 120)のも,彼が人間の側からキリスト教を措いていることを示す。. さらには人間に二種類が区別される.. 「霊の人」と「我々のような人間」である.. (180). 「新約聖書の意味でのキリスト教は,人間存在が下方に向かって動物存在と異なっている (254)この「我々のような人間存在」 のと同様,上方に向かって人間存在と異なっている.」 ぼ情熱を持たないが, 「それなしにはおよそ宗教を,ましてキリスト教は,持つことがで きない.」. (256)キリスト教界ほ異教からやり直すべきなのであ1る.. 1851年に説教され55. 年に『瞬間』第7号と8号との間に出版された『神の不変性』という講話においても,慰 め・平安・休らぎが告げられるが,人間がそれを望み,我意を殺し,すなわちそれを得る (273 ∫.) 「この休らぎを妨げるも 条件を作らなければならない,と勧められるのである。 のほ君自身だけだ。」 (274)また「キリスト教は霊であり,霊の非陶酔性であり,永遠の 誠実である」 (41)と霊-の憧慣が語られる。キルケゴールほミュソスターやマルチソセ ソとの対諭において「一般的で詳細で広範囲にわたる学術的解明」を求め望んだのではな (25, 91 I.) く(23), 「問題ほ性格であり生であり実存」なのであるo 「私ほキリスト着たることのこの真のキリスト教的規定をただ発見者としてのみ注視す る.」. (210)この句に註として「それゆえまた私は自分をまだキリスト者とほ呼ばない。.

(17) 17. 日記に見るキルケゴ-ルのキ1)スト教理解. 香,私ほまだそこから遠く隔たっている。」ここでもまたキルケゴールは自己をキリスト 教の外側に立つKorrektivとしてことさらに自分を非キ1)スト老の位置に置く戦術をと るo彼ほ『キ.)スト教の修練』の新版に寄せた『祖国』統上の一文で,彼の以前の方法は 恵みを高調し,服従や努力からの磨宥をさえ許し,それによってかえってキリスト教界が 白からの堕落を悔い,恵み-と逃れ行くようにさせようというものであって,この意味で 既存社会の擁護であったが,今や考えを変え,既存社会は犯罪であって恵みに値せず,そ (72 fr・)変わったのほ既存キ1)スト教界につ れゆえそれほ攻撃されねばならぬ,と言う。 「ミ. いての見方であり,したがって彼のそれへの戦術であって,彼の思想内容ではない。 Korrektivとしてことさらに一. ュソスターは享楽を求めている」と批判する(24)のも, 面的に表現しているのであるo彼はまたプロテスタソティズムがKorrektivにとどまろ. うとせずにキリスト教の総体になろうとすればそれは非真理になるが,かといってカトリ ック教会-移るのは早まっている,と述べ(44),新旧両教のどちらがいいと言うわけで はない。. 『瞬間』のキルケゴールの思想内. 以上瞥見してきたところからすでに明らかなように,. 容および使命の自覚は日記に表われたものと違いがない17)。ただ,. 『瞬間』において新し. 「誠実」の要求であると思われる。キルケゴールの批判を「ミュソ (21) 「『我々ほキリス スターが認容すると表明していたら,私は彼の弁護であったろう。」 く際立っているのは,. ト教の力に屈服しようと思わないしできもしない』と時代が正直に,誠実に,率直に,明 らさまに,まっすぐに,辛.)スト教に反抗して神に言うならば--私はそれに味方するo」 (48) 「私はキリスト教的厳しさ (50f.)すなわち「全く単純だ。私は誠実を求めるのだ。」 でもなく甘さでもない-私は人間的誠実である。」. (48) 「私はキリスト教のために犠牲. (51) とはならないだろうが,誠実を求めるために犠牲になるだろう。」 『瞬間』のキルケゴールにほ日記に比べて内容に新しいことは見受けられな こうして, い。ただそれが一面的に尖鋭化されて批判が直接的になり,要求が単純化され引き下げら れて「誠実」の一点に絞られているだけである。日記に比べてキリスト教の内容理解に触 れることが少なく,世-の働きか桝こ集中している点で,偽名の著作の系列を引くもので あり,本稿の問題関心からすれば,キルケゴール本来の直接の思想内容は日記および講話 に求められるべきであろう.. 第4章. 結. 論. 4月19日の日付の日記に彼は キルケゴ-ルは1848年復活節に転換を経験している. 卑している.「私の全本質ほ変えられた。私の隠蔽性・閉鏡性は破られた一私は語らね ばならぬ.」 (H 299 ∫.)それに続く日記の記述から引用する. 「神ほ私を赦されたo」 (I 802). 「私は,神が愛であるという永遠の真理をつかんだo」. 深い意味で知った.」. (H 303) 「今や私は信仰を最も. (I 804) 「神にはすべてが可能だ,この考えが今や最も深い意味で私. 「今からこれまでよりもさらにいっそう厳密な意味で決定 の合言葉だ。」 (同)こうして, 的なキリスト教の叙述が始まる。」 (Ⅱ319)確かにこの後福音把握の深まりが見られ,そ.

(18) 18. 小. 林. 謙. 一. れとともにキ1)スト教界に対する批半すも輪郭を鋭くするように見える.本来のキルケゴー ルを求めるにほこれ以後の著作および日記を基準にすべきであるかもしれない。 (なお本 稿で用いたテキストのうちSchlechta選訳のものではこの時期ほS 180と181との間 1848 にあたる.)もっとも,きわめて初期の,著作家として出発する以前のものを除桝ご, 年を境として,思想の深化や発展ほ見られるにしても,内容的に変化したとは思われない。 「信仰は不条理なものの力によってこの世の生にも望みを抱く.」 (S21-22)や「′くウロ. ほ沈みそうな船に乗っていたとき,単に永遠の至福だけでほなく,時間の世の救いをも祈 り求めた。」 (I 171)といった文(共に1843年のもの)に表われているような,旧約聖書 的な,この世をも肯定するキリスト教理解が後にほ否定されることと,. 「隠れた内面性」が やはり後にほ否定されて外面の行為に表わされなければならぬと主張するに至ったこと (H 480. u・a・)とが内容的に大きく異なっている。. キルケゴールのキリスト教理解の内容的側面をどのように評価すべきであろうか。彼は 「神の関心のキリスト教」を捷示するのだと言う。 (2章3節)しかしそれが高いもの,哩 想性と規定され,神が霊であるように人間も感性的・肉的存在を離脱して霊へと上昇すべ きであると要求され,人間が主体となる実存の問題に帰着し,神が愛されることを求める 客体の位敵ごとどめられる限り,これほかえって「人間の関心のキリスト教」にほかなら ない.キルケゴールほKorrektiv. としてこのようなキ.)スト教を押しつけようとはしな. いが(3章1節),しかし彼自身の思考の構造はこのようなプラトン主義的・グノーシス 主義的な,エロ-スの衝動に似た上昇への欲求を有しているのである。また彼が客観的・ 事実的なものをキリスト教の究極に見ていることは確かである(8章2節)が,彼の関心 ほこれに至るまでの実存を歩み尽くすことであり,客観的な神の啓示が主体的に働くとい う面の稀薄なことほ争えないと思われる.言い換えれば,キルケゴールほ「神の人間性」 (K・バルト)を見ないゆえに,神が人間と隔絶した怖るべき神,彼がよく用いる誓えを借 りれば,専制的・絶対的な王となり,その意に沿うべく人間は努めねばならず,その怒 t. りに触れぬよういわばそっとしておかなければならない,ということになって,世界と 人間に対する神の圧倒的な善意,神の力強い行為(創造・受肉・十字架・復活・歴史支配) の面が殆ど消えてしまうのである。さらに言えば,キルケゴールにとって最高の価値ほ永 遠および霊(Geist)であって神そのものでほなく彼の「キリスト教」も人間を霊へと高め るための手段ではないのか,とさえ疑えるのである。 的存在の厳密な形式である.」. 「自由意志的であることが質的な霊. (S414)その他これと同趣旨の発言を見ると,彼はルタ-. とエラスムスの論争でユラスムスの側に近いようであり,彼にとってほキリスト教によっ ●. て得られる霊的な自由が究極目的だったかのようであるo. 2章3節で触れた,. ●. めにほ-・主体性を排除することができない」 (S438)という言表も,微妙ではあるが, 「純粋受動性」としての信仰のあり方とほ相反する。キルケゴールの批判するパウロの言 葉であるが,キリスト教とは,. 「福音とほ,救いに入れる神のカ」 ●. なかろうか.このロマ書に即して言えば,キルケゴールには1. 以降ほない,と言えよう.. ●. (ロマ1章16節)でほ. ●. ・. ●. ●. 「信じるた. 2章ほあるが3章21節.

(19) 19. 日記に見るキルケゴールのキリスト教理解. キルケゴ-ルはキ1)スト着たることのいっそう強力な規定に自己の使命を見出だし,自 ●. 覚的にその方向へ進んで行った。もしもこの特殊の使命がなければ彼は田舎牧師となって 神の言を説教していたであろう。そうならなかったのはなぜか,というのほ究め得べから ●. ●. ●. 「摂理」はこのような一面的なキル. ざる問いであるが,ただ,神学的な言い方をすれば,. (なお,彼はやはり他 ケゴールを我々のためのKorrektivとして用い給う,と言えよう. 者・世・教会との関係については不幸な関係にあったと言えるが,これほ,その時代の世 と教会の状況にのみ問題があるのでほなく,上述のような,個人としての霊という人間の 把え方にその原因があると思われる。). キルケゴールのキリスト教理解の内容を主題とした太稿はここで終わってもよいのであ Ⅹorrektiv. るが,キルケゴールの場合,その. としての策略を離れてほ内容も正しく理解. できないので,以下この形式的側面について簡単に触れたい。 キルケゴールほ最終的にはキ1)スト教界に対して「試乗」という形式だけを求めた.す なわちキリスト教理解の内容ほ求めず,また彼自身のそれを教えようともしなかった。こ のように. Korrektiv. ほついには無に帰し,その自己ほ消え(それゆえ偽名の他人となる),. ひたすら読者の自己の内部での対話のきっかけ,その一方の実機となる18).. Korrektivを. 正しく受け取れば;それは消えてしまい,読者自身がキリスト教と向き合い,キリスト着 たることへの反省を始めるに至るoそれゆえキルケゴールにあえて独自の「内容」を求め てそれを批判するのは彼自身の意図を正しくとる所以ではな(19),彼は,自分ではなく君 自身に目を向けよ,と告げるのである。こうして,本稿の場合も,筆者自身のキリスト教 理解がキルケゴ-ルから問われて来るoそうすると,我々の状況,すなわちキルケゴール がすでに知っており乞0),ニーチェにおいて明らかになり,ボン-ッファーによって決定的 な表現を与えられた,非宗教的になったこの時代にほ,キルケゴールの抱いていたキ1)ス ト教理解(言うまでもなくそれに学ぶことは大きい)とは道のことが主菜されなければな らないのではなかろうか。彼自身ひたすら状況の中で考え状況に向かって発言したのであ るから。 註. 1) 『林達夫著作集』1 (平凡社)所収の「『タイス』の饗宴」 133頁以下o (『東京女子大学論集ⅩⅠⅤ-2, 1964) 42貢参照。 2)小川圭治「キルケゴール解釈の問題」 AnnaPaul8en…S6ren 3) 「恵みが軽々しく要永される場合にのみ,状態ほ忌わしいものとなる。」 Existenz", Hamburg, 1955, S Kierkegaard, Deuter unserer 429.彼女はまた,恵みが (a.a.0.) ZuckerbrotやRuhekissenになってほならない,という言い方もしている。 D.ボン-ッファ『抵抗と信従』参 4)この語のこのような解釈の仕方ほボン-ッファ-による. 照。 Paulsen. 5). も,キルケゴールにおいて要求とそれに応える努力がぎりぎりの所にまで追いつめら れたときに初めて恵みが介入するということ,および彼にとってあくまでも恵みが第一で神の (Paulsen, a.a.0., S 428) 安永の実現は第二の位置しか占めないということ,を指摘している。. 6). Vgl.. a.. 1971,. S lき7.. 7). Ⅱansen,. "Der. andere. Kierkegaard``. in:. "S6ren. Kierkegaard",. 「後期の日記では赦しの教義ほ≫人間の関心のキ')スト教4:として現われる。」. I)armstadt, W.. Anz,.

(20) 小. 林. S.. Kierkegaard". 20. Glaube. und. "philosophie. Lei. 謙・. -. in:. ,,S6ren. Kierkegaard",. S. 288.. 8)註3参照。 9) 「人間の透明さは神の絶対的な臨在の写像であり,信仰の喜びほ神の至福を反映するふ」 Roos,. Eierkegaard. "S8ren 1961,S81.. auf. der. Suche. mach. den. wahren. 『抵抗と倍従』参照。 D.ポソ-ッファー『倫理学』 ll)註4参照。 Kierkegaard. Eine Einf馳rung", 12) Vgl. I. Diem, "S6ren. ChristentumLE,. H.・. Wiesbaden,. 10). Reden. 1848``. C:. Gedanken,. die. hinterrncks. G6ttingen,. 1964,. S. 106.. Erbauun革・. 13). "ChriBtliche. 14). 20. Ab上.) (Kierkegaards Ges. Werke Diemは,日記に見られるキルケゴールの過激な傾向がキルケゴール本来の意図であるが,し かし彼の著作活動をそれに反した正しい方向に導いたのほ神の摂理であった,と言うo Diem,. ,,Die. Existenzdialektik. von. S8ren. Kierkegaard",. verwunden-zt)r. Zollikon-Ziirich,. 1950,. H. S 182. f.,芝olf. S 2$7. 「信仰は信仰として教えを前提するのではないか?」 W. Anz, a.a.0., (Diem, Diemも実存弁証法が客観的なもの(権威)と不可分の関係にあることを指摘する。 S 195) "ExistenzdialektikEL, selbst !")の内容もほぼ同じである。実存における「重複」を求 17) 『自分で判断せよ』(,,ロrteilt. 15) 16). AbsterbenとGeist -の祈求があり,誠実な告白を促しているo Pa.ulsenも前掲書の末尾で, 「対話ほ今はじめて始まる」と言う。 (S 4$7). め,. 18) 19). Vgl.. W.. Rest,. Kierkegaard",. 20). Relevanz S8ren Eierkegaard8E`, Kontroverstheologische ,,Die S 155-172.彼はキルケゴールに「内容」はない,と言う.. in:. "S6ren. 「被造物が神から余りに離れてしまったので,そしてそれをキルケゴールは徹底的に苦しんだ S 431. a.a.0., ので,もはや恵みの勝利を信じ得なかった.」 Paulsen,.

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