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キルケゴールにおける倫理的実存(2)

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奈良教育大学学術リポジトリNEAR

キルケゴールにおける倫理的実存(2)

著者 若松 謙

雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学

巻 36

号 1

ページ 23‑43

発行年 1987‑11‑25

その他のタイトル Die Ethische Existenz bei Kierkegaard (2)

URL http://hdl.handle.net/10105/2063

(2)

キルケゴールにおける倫理的実存(2)

若 松   謙 (奈良教育大学倫理学教室)

(昭和62年4月28日受理)

Ⅳ 倫理的実存の社会的実現

前回の最後で述べたように、道徳的自己選択の遂行の地道な繰り返しは、自分に適した、自分 の生き甲斐である仕事を現実の社会の場の中で見出し、それのために自分を厳しく鍛え上げるこ と必然的に結びつく(労働尊重、職業尊重)。愛する女性との永遠の結びつきを尊重することにも つながる(結婚の義務)。さらに善の実現‑の共同ということで、人々との恒常的友好関係を維持 することにもつながる(友愛の義務)。倫理的人間Bはこのように考えているのである。体系的な

「義務論を提出することが私の意図ではなかった」(II. 345)と述べられているように、残念なが らこれらについての説明は省略も多く、唆味な点も少なくない Fahrenbachが言うように、精々

「倫理的に営まれる生の輪郭」(99)が示される程度である。そこで注釈者達も‑‑ゲルの思想な どとの関係を示唆するに留まり、これまでのような細かい解明は省略している。しかしこちらで 多少補いながらBの主張の全体を捉え直してみたい。

1.労働尊重、職業尊重

Bは、 「生きるために働くことが、各人の義務である」(II. 299)、 「天職をもつことが、各人 の義務である」(II. 311)と主張している。人間が社会的存在である以上、労働は社会生活を維持

してゆくために必要な職業的役割の遂行という形で具体化されるが、倫理的な人間は、労働を重 んじることによって自分の職業的役割を重じるとされているのである。そこでこれに関連してB が主張していることを整理してみる。

(1)それぞれの人間は、それぞれ独自な素質、能力、好みなどをもっている。それ故こうした自 分に与えられた素質、能力などによく留意し、それを正しく伸ばすのに相応しい職業を選ぶこと が大切である。職業選択のためには「人格全体における美的なものについての詳細にわたる知」

(II. 311)が必要なのである。職業につくことによって一回限りの人生が台無しにされる、個性 が抹殺されてしまうのでは駄目である。それ故現にある自己を直視することなく、単に報酬が多 いとか世間から持て雑されるといったことばかりに心を奪われるのは望ましくない。 「個々の人 間が理想の自己を自分自身の内に有することを固守しないならば、彼の努力は抽象的となる。他 の人間を真似ようとする人、標準的な人間を真似ようとする人は一一両方とも間違っている。 」 (II. 227) (2)この世の中においては分業が成り立っている。そしてそれぞれの職業が社会生活 を維持するために、それぞれ独自の役割、使命をもっている。それ故職業選択の場合にはこうし た社会的役割をよく理解し、それを十分果たし得るように自分を厳しく訓練、陶治しなければな らない。 「唯一の人間であるということは、それ自体では偉大なことではない。 ‑しかし唯一

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24 i¥一 任   .汰

の人間であることにおいて普遍的なものであるといった仕方で唯一の人間であることが、真の生 き方である。 」(II. 273‑4)それ故素質や能力といった美的なものの「変容」(II. 270) 、 「洗 練化」(II. 279)が、たえず強調される (3)道徳的善を何よりも重んずべきだと主張する倫理的 人間Bにとっては、どんな職業に就いていようとも、常に善を為すように心掛けることが、人間 の一一番根本的な義務である。それ故Bは、職業的役割を神によって自分に与えられた使命、天職 とみなすべきだと主張する。 「天職として理解されないと=一・才能は端的に利己的なものである0 それ故その生を才能に基づかせる各人は、可能な限り盗人嫁業を営んでいる。 」(II. 312)自分 の素質や能力は、社会生活を維持するという普遍的目的のために神によって与えられたものであ るという意識に欠けると、人間はどうしても自己中心的になり易い。肝心の善く生きることを等 閑にして自分の能力を誇示したり、自分の利益や出世を図るための道具として悪用したりしがち である。そこでこうしたことが赦しく戒められるのである (4)この世の中には色々な職業があ り、それぞれの職業がそれぞれ独自な社会的役割を果たすことによって初めて共同生活が成り立っ ている。従って相互依存的な共同生活を成り立たしめる必要不可欠な条件であるという点におい て、どのような職業も同じように尊重されねばならないO職業に極端な貴購、優劣の違いを設け るべきではない。又職業の違いによって人を極端に優遇したり、冷過したりすべきでもないと言 える。どのような職業に就いていようと真面目に働く善い人は同じように尊重されるべきだから である。 「彼の労働が天職である時、彼はそのことによって実際他のあらゆる人間と本質的に同 じ段階に置かれている‑・。それ故彼は、その労働によって他の各人と同じことをする。 」(II. 31 2) 「各人は、定められた仕事をもっている。そしてすべての人々は、各々その仕事を為すという 表現において互いに宥和し合う‥‑ ・。 」(II. 315)真面目に善く働いて共同生活の維持、発展に 役立つという点からすれば、職業の違いをこえてすべての人が対等であり、同じように尊重さる べきだとされるのである。 (5)働く場合、成果をあげるために常に最善の努力をしなければなら ないことは言うまでもない。しかし努力しさえすれば常に望み通りの成果があげられるかという と、決してそうではない。成果をあげる場合には人間の努力も絶対に必要であるが、しかし努力 以外の運、不運の影響も極めて大きいからである。例えば生まれつきの素質、能力、それらを伸 ばし、発揮させるのに都合のよい環境といった好運に恵まれないと、幾ら努力してもなかなか望 み通りの成果がえられないのである。そこで(一方からすれば常に最善の努力を尽くしながらも、

しかし他方)成果をあげる場合には、主体的努力以外の運、不運の影響が働いていることも決し

て忘れるべきではない。 「 "何かを達成する''という言葉は、私の行為と、私の外部にある何か

他のものとの間の関係を示している。こうした関係は私の力を越えており、その限り最もつまら

ない人間についてと同様最も卓越した才能の持ち主についても、彼は何も達成しないと、同じよ

うに言ってもよい‑ 。 」(II. 315)従って我々は成果を収めた場合にも、あたかもそのすべて

が自分の功績であるかのように自負したりすべきではないことになる。成果は「確かに私が喜ん

でよいが、しかし無条件には私のものにし得ない幸運として、私の仕事に付随するもの」(ibid.)

であるからである。そこで逆から言えば、成果を収められない時にも極端に意気消沈すべきでは

ないことになる。そして人と接する場合にも当然成果だけに心を囚われないようにすべきだと言

える。要するに成果の有無に拘わらず、真剣に正しい仕方で努力した人は、同じように尊重され

るべきなのである。 「最も卓越した才能の持ち主も、その仕事を遂行することができる。最もつ

まらない人間も同様である。両者ともこれ以Lのことは為し得ない」(ibid.)からである。 Bはこ

うした考え方の内には「人生に対する如何なる不信もない。むしろ私自身の取るに足らなさの承

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謡と、他のあらゆる人々の意義に対する尊敬とがある」(ibid.)と述べている。こうした考えが、

かえって相対的違いをのりこえた一体性、連体性の自覚につながり人々の間に宥和をもたらすと 言いたいのである(19)

ところで最初に述べたようにBは、「生きるために働くことが各人の義務である」と述べてい たが、さらに働くことが人間の完全性の表現でもあると付加している(II.300‑1)しかしそ の理由を細かく説明していないOそこでこちらで補足しておきたい。①人間は我流に好き勝手 に振る舞っているだけでは決して十分な成果を収めることができない。分かり易くするために農 業の場合を考えてみる。例えば種を播き取り入れをするためには、種が育つのに相応しい気候条 件、土壌、肥料、耕し方、手入れの仕方などについてさまざまな知識や技術が必要である。こう した知識や技術なしに好き勝手に振る頻っていては、決して十分な収益は望めないのである。そ れ故収穫をあげるためには、たえず事物の本性や、事物相互の間に支配する自然法則を認識し、

忠実にそれに従うといった厳しさが必要となるOそこで働くことによって人間の安易な思い上が りや自負が除去される。さらにあらゆる欲望を満たし心の趣くがままに生きるといった我が侭、

悉意、気紛れも除去される。こうしたことでは収穫は望めないからである。②幾業なら農業に 一生を賭けるといった意志が確立されてくると、農作という労働を中心にして(その日的の実現 に相応しいように)日々の生活を秩序付け、コソトロールすることも町能になる。しかも最初は 失敗を繰り返しながらも、理論的実践的に努力、工夫を積み重ねることによって、未熟な農夫か ら熟達した農夫に向かっての進歩、発展も可能となる。それ故労働‑の専心は、人格の統一・、そ の進歩、発展をもたらすTaylorが主張するように、「倫理的理想に専心することによって人 は、永続的にその目標に忠実であり続ける責務を負う‑‑‑。諸欲求は追求される目標に照らして コソトロールされる」(207)からである。そこで働くことにはr形成するもの、洗練させるものJ (II.302)が含まれており、人間は労働によってこそ「自分自身を獲得する」(II.304)と主張さ れるのであるGO)(蝣

。v釘働くことによって、常に「自分の力の限りを尽くそうとする自覚」(II.305)、

困難に耐える「勇気」(II.318)、さまざまな事態に適切に対処する「注意深さ」(II.305)などが 培われてくる。自分の働きに応じたもので満足する「謙虚さ」(IL305)も養われてくる。さらに 自分と同様骨折って生きる人々との連帯感、一一体感(II.315)、互いに助け合い励まし合って生 きる「人間愛」(II.305)も培われてくる。このように働くことは徳の育成につながる。④一般 に快楽追求者には、自分の労働によって生計を立てようという意欲が欠けがちであるから、彼ら は経済的に他人に依存、寄生し易い。さらに倫理的人間Bからすれば、働くことは「喜び」(II.

317)であり「人格全体に対する満足と結びついている」(II.312)が、快楽追求者にはこうした喜 びや満足が分からない。そこで労働は人間を自立させ、人格の深い喜びと結びついている♂1)

⑤農業の場合には、自然の法則を正しく認識し、それに基づいて人体に有害なもの、収穫の妨げ

となるものは環境から排除し、反対に有益なものや豊かな収穫につながるものは積極的に助長す

る地道な努力がたえず繰り返される。そしてこうした努力は、当然環境改善、自然支配につなが

る。それ故労働は一一‑・椴に自然法則を正しく把握し、それに基づいて自然を支配するという意味を

もっている。「まさに労働によってこそ人間は自分を自由にする。労働によって人間は、自然の

主人になる。労働によって人間は、自分が自然より高いことを示すJ(II.301)‑このように

労働によって人間は、真の自己支配、自己形成、能力や徳の教化を達成するばかりではなく、自

然支配も可能にする。そしてこれさえやっていれば自分が自分らしくなれるといった仕事や、こ

の人達と一緒に居れば自分が自分らしくなれるといった仲間を現実の社会の場の中で見出し、喜

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びにみちた人生をおくることができる(22)

。そこで倫理的人間Bは、働くことが単に義務であるば

かりではなく、人間の完全性の表現でもあると主張することができたのである<23)

2.結婚の義務

Bは働くことと同様、「結婚することが各人の義務である」(II.322)と規定している。2人の 男女が豊かな時も貧しい時も、楽しい時も苦しい時も、お互いに助け合い補い合って一体となっ て生きることは、人間の義務だとされるのであるOそこで次にこの問題に向かうことにする(24)

(1)これまでBは「倫理的なものが美的なものを排除しないこと、成る程それを絶対的なものと しては排除するが相対性においては明白に承認すること」(BlaB109)を‑一貫して主張してきた。

それ放男女が互いに相手に対して見出す快や喜び、一体感といった美的なものを、Bは全面的に 否定することはしない。「初恋の内にあるのと同じ美的なものが、結婚の内にもなければならな い。」(II.64)愛などは幻想にしかすぎないと考えて結婚の際に美的、感性的なものを無視する ことは決して望ましくないとされるのである。しかし他方、快や喜び、一一・体感などを絶対視して、

それの瞬間的充足、剃邪的陶酔だけを求めていたのでは、再び美的実存に舞い戻ってしまう。そ こで何処までも善く生きることを重んじ、それと両立し得るようにお互いに喜びや快をコソトロー ルすべきである。一体感にしても単なる‑‑一・時的感情陶酔だけに留まることなく、もっと精神的な ものに深められ高められる必要があるgS)(2)Bにとっては、「̀結婚において互いに愛し合う決 意は、愛においで恒常的であり続ける意図を表明している。」(Taylor207)それ故永遠の結び つきを前提しない結婚は望ましくない。例えば後に不快なことが判明したならば、或いは嫌気が さしたならば即座に別れようといったように条件付きで結婚すること(II.321)は望ましくない。

さらに「愛を・定の年令に制限することは‑・‑愛の永遠の力に対する最もひどい侮辱を意味するo それは絶望である。」(II.150)押悪的な大はrその生涯においてII‑度そうである夫ではなく、

毎Hそうである夫」(II.144)である。それ故Bからすればよい夫、よい妻であること自体が永続 性の要求を含んでいるのである(3)結婚する双方は、互いに相手をそれ自体で愛し尊重しなけ ればならない。そこで献身は相互的かつ全面的であらねばならない。相手からは全面的献身を要 求するが、しかし自分の方は条件付きにしか愛さないといったことでは、相手を本当にそれ自体 で愛し尊重しているとはいえないからである。それ故同時に2人以上の女性を愛するといったこ とは許されないO「魂の全体をもってではなく、その一部だけで愛そうとすることは、侮辱であ る‑0」(II.321)又相手から何らかの利益を期待するがゆえに結婚するといった場合も、相 互的、全面的献身が成り立ちにくい。利益を与えてくれる限り、相手を条件的、手段的に愛する にすぎないからである。快楽だけに振り回されている場合も同様であるoさらに同じ理由に基づ いて、結婚する双方は単に才能の違いだけに心を囚われていたのでは駄目だとされる。例えば

「 自分は有能だから相手に奉仕しなくてもよい。相手の方だけが自分に献身すればそれでよい」

といった思い上がりは厳しく戒められるO愛においては才能の違いは問題にならず、「相手の愛 に根ざす要求をみたす唯一の仕方は、その柏手を愛し返すこと:n.in)しかないとされるので ある。(4)双方の間に真の精神的一体性が確;Z二し、全面的相[{.的献身が成り立つためには、互い に相手を正しく理解し合うことが絶体に必要である。「正直、素直、あらわであること、了解、

これが結婿の生命原理である。これなくして結婚は美しくなく、本来不道徳である。というのは

その場合には愛が‑一つにするもの、即ち感性的なものと精神的なものとが切り離されてしまうか

らである。一一・緒に暮らす人が‑‑・・精神的な点においても私に同様に身近である時初めて、私の結

婚は道徳的であり、それ故又美的にも美しいのである。」(II.123‑4)そこで双方に秘密や隠し

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立てがあってはならない。ところが人間に自負や気取りがある限り、現にある以上に自分をよく 見せたい、とりわけ愛する人の前ではそうしたいといった願望が誰の内にもある。それ故正直、

率直であるこ‑とには常に勇気が必要であるO「ある隠し立てによってそうすることができる時に、

‑一寸した屈辱から身を救おうとしないことには勇気がいる。」(II.Ill)しかし倫理的人間Bから すれば、あるがままの自己を隠し、偽りの自己を気取って相手の心を掴もうとすることは、愛で はなく誘惑の一種である。(H.117)それでは相手を本当に尊重しているとも愛しているともい えない。「愛する人は、他の人と混同されたいという願望をもたない。よりI‑一層善い者ともつま らない者とも混同されたいという願いをもたない。自分白身や愛する人に対するこうした敬意を もたない者は、愛してはいないJCII‑117)むしろ率直にあるがままの自分を示し合い、FIIい に相手を理解し合うことを喜ぶ。それで初めて本当に愛しているとされるのである。「"よく了 解し合え''ということはこの了解において双方が、その喜び、平和、安らぎ、その生命を見す べきであるということのみを告げたいのである。」(II.123)そしてこうした相互理解は、夫婦 愛の歴史的発展を可能にする。善いことも悪いことも、あるがままに「‑・切を共同の意識のトに 保持し」(II.116)助け合い補い合って相互の向上に寄与し合う(,そのことによって「結姉愛は、

それ自身の発展を体験するのである。」(II.104)「結解の歴史的性格は、この相互理解が存在 すると同時にたえず新たに生成するということを実現する。このことは個人の生の場合と同様で ある。」(II.125)すでに昨年「倫理的に善くあるための条件」の所で述べたように、現にある 自己をlf̲しく理解し、それとあるべき自己とのiE二しい綜合を具体的状況に即して繰り返し達成す ることを目指すことによって初めて人格の真の統一一、その進歩、発展が可能であった。夫婦の場 合も同様である。すべてを共同の意識の下であらわにし、互いの協力の下で正しく解決してゆこ うと努めるOそのことによって初めて夫婦愛の進歩、発展、真の精神的一体性の確立も可能とな るとされるのである(5)夫婦愛を貫くためには現実に色々な障害がある。貧困、病気、第3 者の余分な干渉、介入といった外的障害ばかりでなく、当事者双方の内部に巣喰う障害もある。

(例えば感情や欲求の思うがままに生きたいといった願望や浮気心、利害の対立、考え方の対1JL などである。)しかし結婚を決意した以上、互いに相手を尊重し、心の底から愛し合うことは、

双方の義務である。「義務は唯一つ、真に愛すること、心の切実な感動において愛することだけ である。」(II.157)しかも一時の感情的陶酔とは違い、双方が真に愛そうとする限り、個々の 状況で義務が命じることは、双方が心の底から望んでいることである筈である。「義務が語る時、

双方は慎ましく服従する。しかしまさにそのことによって同時に高められる。義務が命じること は、彼ら白身が欲することであり、義務が命じることは、彼らの欲求が実現されうることを表現 する一層尊厳、崇高で真に神的な仕方にすぎないと確信することによってである。」(ll.155)か くして愛の義務に従って互いに尊重し合う時、双方の人間的成長も可能になる。忠実、謙虚、忍 耐、寛大、思いやり、正直、自足、注意深さ、従順、快活といった徳も培われてくる。(II.148) 倫理的人間Bにとって自分の結婚生活は、「地上の生活が与える最も親密で最も美しい共同生活」

(II.66)であるが、それが結果として人間の道徳的教化とも結びつくとされるのであるG7)

3.友愛の義務

最後にBは友愛の義務を肯定している。「友人をもつことは各人の義務である。」(II.344)

しかし残念なことに自分で事細かに友愛論を展開せず、唯(後にも述べるように究極的には彼自

身とかなり立場が異なる面も有する)古代ギリシアのアリストテレスに賛意を示しているだけで

ある。「倫理的に現実が獲得されることに友愛も寄与していることを、アリストテレスも又洞察

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していた。 」(ibid.)そこでここではアリストテレスの『ニコマコス倫理学128)』における友愛論の

‑一部を紹介し、それとの関係でBの主張を把握することにしたい。

アリストテレスは友愛の特性として、 (D現実に生活を共にし、共に楽しむことができること(469)、

②生き甲斐の一致(29) ③相手をそれ自体で尊重し(459)、相手の善の実現のために協力を惜しま ないこと(461)、 ④友好関係が簡単に解消されず、安定性、永続性を有すること(483)などを挙げ ている。ところで一般に人々は相手に何らかの価値あるもの、愛すべきものを見出すが故に友好 関係を結ぶのであるが、アリストテレスによると、その愛すべきものは善、快、有益さのいずれ かである。(455)そこで次に彼は、現実にこの世の中でみられる友好関係を愛されるものの違い に応じて3種類に分け、その各々について次のように述べている (1)利益(富、名誉、地位な

ど)を期待するが故に友好関係を結ぶ人は、自分に或る利益が獲得される限り、手段的に相手の ことを配慮するにすぎない(459)それ故こうした友好関係は、友愛の特性で述べた③を充たさ ない。さらに自分の利益に執着している限り、こうした友好関係においては柏手に対する不平不 満、苦情も生じ易い。 「何となればここにおいて友は、互いに利益のために結びつくからであるO そして各々が常により多くのものを欲し、自分に相応しいだけのものを得ていないと思っている からである。 」(505‑6)又利益になるものが変わるといったこともある,(459)それ故こうした 友好関係は、友愛の特性の④も充たさず、不十分だとされる (2)自分に快楽が与えられる限り において相手を尊重するのであるから、快楽故の友好関係も手段的なものになり易く(459)、友 愛の特性の(郭を十分満たさない。しかもこうした友好は長続きしない。(461)同じ人から常に同 じような仕方で快楽をえることはできないからである。飽きがきてしまうのである。それ故友愛 の特性の④も充たさず不十分だとされる (3)お互いに相手の善さを認め合うことに基づいて成

り立つ友好関係の場合には、双方が共に人間として善く生きることを何よりも重んじている。従っ て彼らは、人生観という最も根本的な所で完全に‑‑・一致しているOそれ故友愛の特性の①と②を充 たすことが容易である。又こうした友好関係に入る双方は共に人間として善く生きることを何よ りも重んじている人々であるから、互いに自分にもたらされる利益や快楽といったものだけに心 を惑わされることがない。それら以上に人間としての善さを重んじる人々なのである。しかも互 いに相手においてそうした善さが実現されているのをみるのである。それ故互いが(自分にもた

らされる単なる利益や快楽を度外視しても)相手をまさにその人柄の故に、それ自体で愛し尊重 することも可能となる。(461)しかも互いの善が青くまれるために協力し合うことも容易である。

さらにこうした人々の間では人生観の一致に基づく深い信頼感が成立し易いから、その友好関係 は当然非常に堅固で永続的である。第3者による中傷などによって簡単に解消されることもない。

(467)それゆえ友愛の特性の③、 ④も充たされる。しかも利益や快楽故の友好の場合には、色々 悪が生じる可能性がある80)のに対して、善い人々同士の友好からは常に望ましいもののみが生

じるといえる。例えば善い事柄の実現に協力が為されるから、社会的にも望ましい。そして又互 いに励まし合って人間として益々よくなることは、双方自身の人間的成長にとっても望ましい。

(575)しかも相手を尊重し、善い仕方で尽力し合うことによって、互いに望ましい仕方で決楽を 味わい、利益の交換を図ることも可能になるO かくして善い人々の友好からは、あらゆる善いも のが生じる。そこでこれこそ真の友愛だとされるのである。

以上アリストテレスの友愛論の一部を紹介したが、こうした彼の思想は、快楽や利益だけを絶

対視せず(かといって全面否定することもなく)倫理的なものと美的なものとの正しい均衡、釣

り合いを重んじるBの立場とおのずから‑・致する面があることは明白である。しかもBは「友愛

(8)

の絶対的条件は、人生観における一致である61)」(II.341)、「一致する人生観は、肯定的な人 生観でなければならない」(ibid.)と述べた後、さらに次のように主張する。「従って友愛は、肯 定的人生観を要求する。しかし倫理的契機を内に含むことなしに、人生の肯定的考察は考えられ えない。‑・・それ故人生観における倫理的契機が、友愛の本来的出発点である。そして友愛がこ のようにみられる時初めて、それは意義と美を得るのである。」(II.343)それ故アリストテレ スと同様、Bも人間として善く生きることを何よりも重んじ、自分の職場や家庭を中心にした善 の故の友好関係の樹立の重要性を強調したかったのだと思われる。そしてこうした友好関係の樹 立によって人格の統一とその進歩、発展が益々現実の社会との密接な関連におかれ、そのことに よって人生の意義と喜びも深まると考えていたのである。「私は、他の人々の個人的生活が私に とって意義をもつことに喜びを感じている。人生観全体において共鳴し合える彼らにとって、私 の生活も又そうであってほしいと願い、希望している。」(II.346)

Ⅴ意義と問題点

キルケゴールが1843年の『あれか、これか』においてB(判事ヴィルヘルム)を介して述べた倫 理的実存の立場は、以上のようなものである。しかしキルケゴールからすれば、実はまだこれが 人間にとって望ましい究極の立場とは言えない面がある。それが故に彼は1846年に別の匿名の著 者JohannesClimacusの下で出版した『哲学的断片‑の完結的、非学問的後書き82)』などにお いて宗教的実存の立場を改めて問題にせざるを得なかったのである。そこでキルケゴール自身が 倫理的実存の立場の意義ばかりでなく、問題点もよく自覚していたといえる面があるのである。

(BとClimacusとは、思想的に一致する面もあれば、そうでない面もあるのである。)そこで ここでは、後に宗教的実存を扱う際にとりあげた方がよいと思われる点は省いて、それ以外の点 で倫理的実存の立場の意義と問題点を考えてみたいo但しBの思想と一致し、それをより一層徹 底させている面がある限り、Climacusの思想もここで利用することにしたい。

1K.Pulmerの批判

まず最初にPulmerの批判を紹介し、それを検討しながらBの立場を吟味してみたい。

(1)労働は自然支配ばかりではなく、人間の自己支配、人格の統一や進歩、発展を可能ならしめ る。それ故働く事は自己の獲得につながり、人格全体に対する満足、喜びを生じさせると、Bは 主張していた。しかしPulmerは、こうしたBの発言は「彼の時代の社会的現実、即ち彼の同時 代人の大部分の労働条件を一一無視している」(199)と批判するPulmerよると、1日10時間以 上も働き、しかも生活維持さえままならない貧窮者達が当時多数存在していた。(ibid.)こうし た人々は当然雇人であるから、労働において自発的に創意、工夫などを凝らす余地は全くない。

むしろ雇主の無理な要求や悪意に振り回されて、生計の糧さえ奪われかねない危機に常に噂され ている。こうした人々にとって労働は、生き続けるために止むを得ず為される苦役、強制労働で あって、これが自己の獲得、人格全体に対する満足、喜びと結びついているといったBの主張は 問題となり得ないG3)

。さらにはBは、職業選択の自由を肯定し、自分の好みや素質に合った職業

を選ぶべきだと主張していたが、社会的に低い地位に置かれ、貧しければ貧しい程、実際には選

択の余地はない。どんなに不利であろうと、生き続けるためにはこれまでの小作人や日雇いであ

り続けるしかないからであるPulmerは当時のデソマーク国民の大多数がこうした状態に置か

れていたと主張する。Cibid.)Bの発言などは経済的に恵まれた教養市民だけに妥当するのであっ

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30 r, fcさ    謙

て、当時の社会的現実を無視した視野の狭さは覆うべくもないとされるのである。しかも、 Pulmer によると産業プロレタリアートの数は当時のデソマークではなお僅かであった(195)とはいえ、

徐々にもたらされる産業構造の変化は、貧困の問題を決して十分に解決しえなかったばかりでは なく、さらに別の問題も生じさせる。その‑一つが分業の徹底化である。機械で交換可能な程単純 化された労働を繰り返していると、労働者はとかく生産活動全体との関連を見失い、自分がやっ ていることが、どれ程の意義をもっているのか分からなくなる。そのため益々無気力、無精神的 となり、人間の機械化が助長される。 『あれか、これか』の‑年後に書かれたせいか、 Pulmer は、 Marxの『経済学・哲学草稿』から以下の引用をしている。 「労働の外化の本質は、一一労 働者がその労働において肯定されるのではなく、否定されることにある。幸福と感じず、不幸と 感じることにある。自由な肉体的、精神的エネルギーを展開させるのではなく、彼の肉体を傷つ け、彼の精神を害なうことにある。そのために労働者は、労働の外部において初めて自分らしさ を感じ、労働の中では自分の外に居ると感じるのである0 ‑‑・それ故労働はI‑一つの欲求の満足で はなく、労働以外の所で諸欲求を満たすための手段にすぎない。 」(194‑5)こうしたMarxの 発言は、労働が自己の獲得、人格全体に対する満足、喜びと結びついているといったBの主張と 全く反対のことを指摘しているといってよい64)が、(美的人間Aのように遊んで暮らしているが 故ではなく、真面目に働いていても)こうしたことを身にしみて感じざるを得ない人々は、当時 だけではなく、それ以後も数多く存在し続けたのである。それ故ここにBの立場の問題点の一つ があるといってよい。できるだけ多くの人々にとって、働くことが人格全体の喜びにつながるよ うになるためにも、労働の実態や貧困の問題を直視し、それにどのように対処すべきかといった 社会的配慮を加える必要があるといってよいからである。経済的に恵まれた美的人間Aの人間的 立ち直りへの勧告が中心テーマになっているから止むを得ない面があるにしても、こう言えると 思われる (2)ところでこの関連においてPulmerは、永遠の妥当性における自己の選択、歴 史(人格の統一とその進歩、発展)の獲得といったBの主張をも批判する。 「発達した市民社会の 複雑さの増大によって人格の統‑‑‑が、互いに結合され得ない役割‑自我の多様性に瓦解してしま う。労働分割の増大が、もはや意義あるものとして経験され得ない諸部分‑の労働過程の分散と ともに、個々の能力の徹底的特殊化、一面的形成を生じさせてしまう。こうした場合に、それ自 体において中心的な人格の統一を要求することは無意味である。個人が益々他者によって規定さ れ、見通し難い事物強制に属する所において、人格の倫理的中心からの決断を要求することは無 意味である。 」 (213) Bは美的人間Aのように出任せの生き方をしていると、 「自分の力ではど うにもならぬ生活関係に訳が分からない仕方で巻き込まれて、自分をあらわにすることが殆ど不 可能である」(II. 170‑1)といったことになると述べているが、しかし(個人からすればその実 態が簡単には見極め難い)巨大で複雑な社会機構の中で、多様な役割関係の絡み合いにおいて部 分作業を担って働くこと自体が、永遠の妥当性の自己の選択や歴史の獲得を阻止する面があると、

Pulmerは主張するのである。そしてBは、結局「充実した生の偽りの像」(208)を示しているに すぎないと批判するのである。しかしこうなると Pulmer 自身にも問題が生じると思われる。

Bからすれば生きる意義や目的の探求は、人間性に具わる必然的要求であった。 「あらゆる人間

が・‑一日分で人生観を形成しよう、人生の意義と目標についての表象を自分で形成しようという

自然的欲求をもっている。 」(II. 191)そしてその限り、自分で意義ある目的を見出し、それの

実現に倫理的に正しい仕方で努力すること、現実の社会との密接な関連において人格の統一、そ

の進歩、発展を達成することは、人間の永遠の課題である。 Bは「人間の永遠の尊厳は、彼が歴

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史を獲得することができることにある。彼における神的なものは、彼自身が意志するならば、こ の歴史に連関を与えることができることにある」(II. 267)と述べていたが、こうした可能性を否 定することは、確かに人間が人間であることを放棄するに等しいといえる面があると思われる。

人間の価値が主体的努力の善し悪しによって決まるという考えが、現代でも正当といえる理由は すでに示した。古代ギリシアのソクラテス以来西洋の伝統のなかに深く根ざしたこうした考え方 を簡単に否定することは許されない。しかも人格の統一、その進歩、発展は、子供の成長にとっ て決定的に重要なことである Taylorも主張しているように「責任ある決断の自己意識的中心

としての自己の出現」(211)を焦点に、 Bは人間の人格形成にとって決定的に重要なことを述べて いるといってよいPS)さらにこれこそ生き甲斐であるといった目的を見出し、それを現実の社会 との関連で倫理的に正しい仕方で実現することに一生を賭ける人間が、各々の職場において存在 しなかったならば、この世の中の進歩、発展は望みえない。現状維持さえ難しいといえる。先程 述べた貧困や労働の問題にしても、これらを真剣に考え、その社会的是正にI‑一生を賭ける人々が 存在するようになったからこそ、現代は以前よりもまLになったのだと思われる。試行錯誤を重 ねながらも 一歩一歩物事の核心に迫ってゆくことができる人間が存在しなければ、世の中の進歩、

発展もありえないのであるO 確かに誰もが健全な仕方で人間的に成長するためには、社会的配慮 が必要である。個人の努力だけではどうにもならない面があることは事実である。しかしそれを 理由にして、(人間のあるべき姿を説く)Bの主張を完全に否定することは決して許されないとい える。 (3)すでに昨年の紀要で述べたようにBは、美的人間Aに対して「絶望している者が誤っ て、不幸は自分の外の多様なものにあると信じるならば、彼の絶望は真実ではない」(II. 222)と 主張していた。絶望するか否かは、(例えば富なら富が得られるか否かといった)自分の努力以外 の運、不運という単なる外的事情だけに依存しているのではない。何よりも尊重すべき遺徳的善 をそれ自体で尊重せず、(富、身分、快楽といった)有限なもの、相対的なものを絶対視し、それ に過度に執着している我々自身の人間としての不十分さとも、絶望は密接に関連している。それ 故富なら富が得られないが故に絶望している人は、こうした自分の不一「分さを顧りみるべきであ る。本当に善を重んじている人ならば、たとえ富が得られなくても、ヤケを起こしたり、絶望し たりしない箸だからである。 Bはこのように主張していたのである。しかしPulmerはこうした 考え方も批判する。 Bは、「絶望を‑‑‥社会状態によって媒介されている諸経験‑の反作用として 把握することができず、私的問題として曲解している」(209)というのである。そしてこうした Pulmerの批判には確かにもっともといえる面も含まれている。人間が常に社会という場の中で 生きている以L、個人の絶望も実際には社会の状態と密接に関係していることがある。それ故絶 望した場合、単に(自分が人間として望ましい在り方から逸脱し、善をそれ自体で尊重していな いか否かと)自分の不十分さを顧りみるだけでは問題だといえる面があることは否定できない。

例えば幾ら真面目に働いても生計が維持できず、それが故に絶望する場合、さらに不当な差別や

抑圧の故に絶望する場合には、その絶望は、社会や他人の不十分さとも密接に関係している。そ

れ故こうしたことを無視して自分の内に閉じ寵っているだけでは、明白に問題である。自分が不

卜分であるのは事実であるにせよ、しかし他人や社会にも不十分な面があるからである。それ故

Bのような絶望解釈だけでは問題を含む場合があることは、否定できない。しかしこうした場合

社会的実践が必要であるにしても、善を真剣に重んじていないと、自分自身が不正や悪に加担す

ることにもなってしまい易い。例えば不正に不正をもって報いることによって、自分自身も人間

として堕落してしまう。人間として善く生きることを重んじていないと、社会的実践そのものが

(11)

32

若 松   謙

4く1‑分で堕落したものになってしまい易いのである0日分は善いが、他人や社会は不十分である と思っていると、とんでもない不正を犯してしまいかねないのである。そこで社会的実践が重要 なことは言うまでもないが、しかし常に厳しく自分を顧りみる態度も絶対に必要だといえる。こ うした意味で絶望を自分の不十分さとの関係で捉える態度は、何時如何なる場合にも重要である。

それ故Bの主張を全く無意味だときめつけてしまうのが、かえって問題だといえるサ>(4)Pulmer は、絶対主義から議会制民主主義‑の移行期にあたる当時の社会において(新旧いずれの側にも 加担せず、そのことによって社会から疎外されてしまった人間が美的人間Aであるのに対して)、

倫理的人間Bは古い秩序の擁護者であると主張する。「倫理的人間が存続する絶対主義的国家一社 会形態の代弁者、弁明者、それ故脅かされ解消されつつある古いものの代弁者であることは正し いO」(189)Pulmerによると、時代の進歩的イデオロギ‑としての政治的自由主義に反抗し、

どこまでも存続する秩序を擁護しようとする保守的な教養市民達(役人、教授、聖職者など)が当 時首都コペソ‑ーゲソにはいた(204)が、結局Bもその一一人であったとされるのである。そして これまで紹介してきたBの主張の背後には、(国家の本質と個人の本質との究極的一致に基づいて、

国家の課す義務に忠実であることによって初めて個人は、その理性的本質に到達すると主張する) ヘーゲルの思想07)が潜んでいるとみなされる。(190,211)しかしこうしたPulmerの解釈も不 十分である。Bは(友愛論との関係でのべた)アリストテレスが、国家の理念を最高とみなしてい たことに反対している(II.344)Hauschildtが主張するように「国家は『あれか、これか』に おいで目立って後退している」(32)のである。さらにBは、義務の普遍性をたえず強調していた が、Fahrenbachが指摘するようにこの場合「倫理的に普遍的なものは、実存する者にとって (抽象的に)外的なものとしてではなく、個々の人間の最も固有で内的な可能性として」(94)理解 されねばならない。「自分自身を普遍的人間にかえることは、私がその可能性からいってそれを すでに自分の内にもっている場合にのみ可能である。即ち普遍的なものは、独自なものを消滅さ せることなしに、これにおいて、これとよく両立しうるのである。」(II.278)それ故Bは、普遍 性を常に尊重しながらも、しかし同時にそれが個人的、特殊的なものの不当な抑圧、無視につな がらないようにと警戒もしている。又「個々の人間が契機であると同時に全体である時初めて、

君は彼をその美に従ってみる」(II.291‑2)といった発言も同様である。Bは、現実の国家が

(ヘーゲルが主張するような)「倫理的理念の現実性」(398)、「具体的自由の現実性」(406)ではあり えず、個人の正当な権利を不当に抑圧する面があることを意識していたが故に、こうしたことを 述べたのだといえる。それ故Bを削こ体制‑の順応者とみなすことは誤りである08)

c新体制への

変換を求める改革者ではないにせよ、現実の体制に批判的な面もあるからである。さらにBの思 想の現代的意義にも注意する必要がある。Bは、道徳的善を重んじ義務に忠実であろうとする限 り、誰もが対等な存在であると考えていた。しかも成果は、人間の主体的努力以外の運、不運に も依存する面があるから、真面目に努力する限り、たとえ十分な成果を収められない人でも、人 間として同じ様に尊重されねばならないと考えていた。こうしたBの考え方は、成果に関わりな く、すべての人間の基本的権利(例えば健康で文化的な生活を営む権利、選挙権、結婚や職業選 択の自由など)を尊重する平等な民主主義社会の理念と結びつきうる09)

。さらに人生においては主

体的努力以外の運、不運が大きな比重を占めていることを承認し、不運な人をも人間として軽視

すべきではないという考え方は、発想法としては今日の社会福祉、社会保障の実施と結びつきう

る面をもっている。例えば病気や事故にあった人々の救済、(真面目に働きながらも不景気、倒産

などの憂き目にあった人々に対する)失業対策、貧者の救済を目指す生活保護制度や義務教育制

(12)

度の導入などが、その一例である㌘)すでに述べたように『あれか、これか』の第2部は、経済 的、素質的に革まれた美的人間Aを立ち直らせるためのBの勧告が中心テーマになっているため、

現実の社会における労働の実態や貧困の問題を直視し、それにどのように対処すべきかといった 配慮は、全く為されていない。 B自身も経済的に恵まれているせいか(II. 302)、かなり楽観的

な面も多い。しかしBの発想法そのものには、現代の民主主義社会の理念につながるものが明白 に含まれている。こうした側面を無視して、単に斥けるだけでは不十分だと思われる。

2 学問と倫理的実存

すでに一昨年の紀要でも述べたように倫理的人間Bは、美的実存の一例として、生まれつき与 えられた才能の発展において人生の楽しみ、充足を見出す在り方をあげていた。ところがこうし た在り方は、学問という精神的価値の実現に遠進する在り方とも密接に関係してくる。そして世 間では学問探求は無条件に首定されることが多いといえる。しかしBは学問探求の意義は認めな がらも、これだけを絶対視することには断固反対している,(II. 182)しかもこうした立場は

『後書』のClimacusにも受け継がれている。 「倫理的なものは各々の人に指定されている最 高の課題であり、又そうであり続ける。学問に専心する人にも、その専門に没頭する前に、自分 自身を倫理的に理解しておくことが要求されるといってよい。その仕事のすべての間中倫理的に 自分自身を理解し続けることが要求されるといってよい。というのは倫理的なものは永遠の呼吸 であり、孤独の最中においても各々の人と宥和させる‑一体性であるからである。 」(U.N.I. 141

‑2)そこでその理由をまとめてみる♂l) (1)すでに昨年の紀要でも述べたようにBにとって善悪 の違いは「絶対的対立」(II. 237)である。富の有無、美醜、才能の有無といった「相対的違い」

(II. 240)とは質的に異なる。そこで「善悪といった絶対的矛盾を統 一させる、よりI‑一層高い統 一一について語ることは、倫理的なもののすべてを暗殺する形而上学的試み」(Thomte 45)である。

道徳的価値を相対的なものとみなし、何かそれ以上の価値があると考えること、他の価値を絶対 祝して、それに遺徳的価値を従属せしめることは、 BやClimacusにとって絶対に許されるべ きことではない。しかし学問探究は、こうした絶対に許されるべきではないことを肯定し、肝心 のここで今真剣に善く生きることを等閑にすることがある。(過去を探求する歴史学や歴史哲学と の関連において)この例が4つばかり示されている。 (彰善人が栄え、悪人が滅びるといったこ とは、歴史において単純に成り立っていない。むしろ善悪などに頓着しない強者が弱者を摘み欄 じる例も数多く見出される。それ故歴史の探求に没頭することによって、かえって善悪に無関心 になるC.むしろ(権力、富、才能などの)量の大きさがすべてであり、それに較べれば善悪の違い など、どうでもよいと考えてしまう。「世界史に関係するか否かの区別は、鼻的一弁証法的であり、

それ故善悪の絶対的倫理的区別も又、 "偉大なもの''、"重要なもの"といった美的‑形Ini上学的 規定において無効にされる‑・・‑o 世界史的なものにおいては、倫理的‑弁証法的なものとは別の 種類の要素が、本質的役割を演じている。 」(U.N.I. 123‑4)当然(善をそれ自体で尊重して行 為が為されているか否かといった)心の内面の意図、動機の善し悪しなども等閑にされてしまう。

(U.N.I. 145)しかしこれも道徳的には非常に危険である。 (彰国家や集団のために個人の生命

が犠牲にされる、虫境のように踏み欄られるといったことは、過去によくおこった。ところがttl二

界史のテーマは、国家や集団の動向であって、平凡な個人の運命などは直接的には問題にされな

い。 「数知れない人間の生を残虐に浪費することは、何て恐ろしいことであろう!しかし歴史考

察者はそれに頓着しない。 」 (U.N.I. 149) 「世界史的弁証法にとっては、個人は人類の中にFE

縮されてしまう。 」 (U.N. II. 54)そのため同家や集し』の前に個人は全く無価値な、取るに足

(13)

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らない存在にすぎないとみなして、個人の尊厳性を無視した国家中心主義、集団優先主義に陥っ てしまう。こうしたことも起こりかねない。しかしこれも道徳的には非常に危険である。 ③過 去の歴史を学ぶと、国家や集団の前に個人が如何に無力であるかも、ひしひしと実感されてくる。

そのため歴史を探求することによって、かえって無力感に襲われる。歴史は個人の力ではどうに もならない力によって動いているのだといった宿命論に陥って、ここで今真剣に善く生きようと する決意、行動力が失われてしまうのである。 「哲学者も参加しない。彼も脱落する。彼は手を つかねて、昔の歌を聞きながら老衰する。 」(II. 182)さらに歴史家は、過去の出来事を必然性 の規定の下で考察し、 「一一一切が別様でもありうることに注意させる、あらゆる反省を遠避ける。 」 (II. 185)原因と結果、理由と帰結との関係を徹底的に探求して、すべての事態が生ずべくして 生じたことを明白にさせようとする。しかしこうした態度を徹底させてゆくと、現在存在するも のは、すべて過去のさまざまな出来事からの必然的帰結として存在すべくして存在したものであ るということにもなり、まかり間違うと一種の現状肯定論が生じかねない。現存するものは、過 去の諸事態の絡み合いの必然的帰結として成立したのであり、個人はそれを甘受するより仕様が ないといったことになりかねないからである。しかしこれは問題である。現実の不十分さを直視 し、それを是正する努力が等閑にされてしまうからである。すでに昨年述べたように現にある自 己を直視し、自分の不十分さを真剣に反省する。そして現在の選択において、こうした自己とあ るべき自己とのif三しい綜合を目指す。このことによって初めてより一層望ましい未来が形成され る。ところがBからすれば、こうした真剣な倫理的努力が、歴史探求によってかえって等閑にさ れてしまうように思われるのである。 Climacusもこうした危険性に注目し、倫理的に実存する ことの重要性を忘れた現代を嘆いている。(U.N. ll.20 ‑1) ④さらに(善人が栄え、悪人が滅 びるとは限らない)歴史的事実に注目することによって、歴史全体を構成する必然的契機として、

悪を容認する立場も生じかねない。善悪の絶対的対立を媒介し(中和させ)、悪にも相対的意義を 認めようとするのである。しかしこれは、 Bからすれば「倫理的なもののすべてを暗殺する形而 l・̲学的試み」であり、断じて許されない。 Bは「自分白身を後悔することによってのみ、人は倫 理的に自分を選択することができる」(II. 264)と述べて、後悔の重要性を強調していたが、善悪 の対在を媒介し相対化することは、これと端的に対立するからである0 ‑このように歴史的探 求だけを絶対視することの危険性が強調されているのである。しかし学ぶ者の在り方次第によっ て、こうした危険があるということであって、歴史探求そのものが悪とLて斥けられている訳で はないことにも注意する必要があるO 「世界史的関心が=‥‑端的に不道徳な神経衰弱的好奇心と みなされるとすれば、これは恐らく不愉快な倫理的固桁さであるといってよい。 」(U.N. I.141) (2)気紛れに快楽に振り回されて生きることによって美的人間Aには、さまざまな欠陥が付き纏っ ていたo例えば(物事の本性や自分白身についての)正しい価値判断の欠如、別邸的生き方、現実 からの遊離、無責任、人格の不統一‑、人格の進歩、発展の欠如などが、その例であった。こうし た欠陥のためにAは、生きることの意義を味わい得ず、憂彰や絶望に苦しんでいたのであるO と

ころがBやClimacusからすれば、学問探求そのものがこうした欠陥を生じさせる可能性を秘 めているO(A自身にも好奇心に駆られて学問に従事する面があったが)I‑一般に探求者は、 「その 考察が客観的であり、主観的雑念から離れることを欲する。 」(U.N. I.18)しかし(学問探求に おいて常に心掛けるべきこの大切なことから) 「思考する主体や実存に対して無関心である」(U.

N.I.65)在り方も生じ易い。そのため現実から遊離し、ここで今真剣に善く生きるための正し

い価値判断が十分に形成されない可能性は、たえずある。(たとえ特殊な学問領域における真偽の

(14)

判定ができたにしてもである。 )対人関係においても煩わしさから逃れたいために、無責任な在 り方が生じ易い。さらに(ここで今真剣に善く生きることに心掛けることなく)自分の気紛れな関 心に振り回されて、あれこれの学問に手を出していると、「散漫」(U.N. I.275)が益々ひどくなる。

そのためその人の生の内容は、単なる気紛れな関心の束、 Ifいによく関連づけられないバラバラ な知識の寄せ集めにすぎないといったことも起こりかねない。かくして「中国を終えるとベルシ アに取り組むことができる。フラソス語を研究するとイタリア語を始めることができる。そして それから天文学、獣医学をやることができる」( U.N.I.254 )にしても心の中は空っぽで、虚無 感に襲われたりする。要するにAとl司じ自己喪失が生じるのであるo 「我々の時代は、内面性が

‑一見乏しい内容を、より一一層豊かにするということ‑の信仰を失ってしまった.外的なものにお ける変化は心の散逸にすぎず、生の倦怠と牛の空しさを掴むにすぎない。 」( U.N.I. 283)‑

以上2つばかり理由を縮介したが(42)こうした主張は現代でも意義があると思われる Climacus は、「我々の時代の不幸は余りに多くのことを知ることができて、実存することが何を意味するか、

内面性が何であるかを忘れてしまったことにある」 ( U.N. I.253)とも述べているが、 20世紀の 我々の時代にもこうした可能性は常にあるといってよい。但し学問探求や真理を重んじることが、

道徳的にも非常に重要といえる面があることも絶対に忘れるべきではない。自然を合理的に利用 し、豊かで健全な社会を築くために必要不可欠であるばかりではなく、道徳的に善く生きるため にも知は絶対に必要である♂3)かつての宗教裁判のように独断や偏見に振り回されて、真理の探 求者を弾圧するといったことは、 2度と繰り返されてはならない。しかし幾ら重要であるからと いって、学問探求に望ましくないことが付随するのは明白な事実であるし、学び方次第によって 人間が堕落しかねない危険性も決して忘れるべきでないといえる。

以上キルケゴールにおける倫理的実存の内容と、その意義や問題点を扱ってきた♂4)しかし中 途でも述べたようにキルケゴール自身が、倫理的実存を人間の最高の在り方と考えていた訳では ない。そのためにさらに宗教的実存(宗教性AとB)が、 Cimacusなど別の匿名者の下で論ぜら れることになるのである。そこで近い将来(ここでは扱わなかった倫理的実存の立場の問題点を 含めて)、宗教的実存の立場の解明にあたることにしたい。

(19) ここで2つばかり補足しておきたい. ①Bは事物の理性的秩序というものを強調しているO

「それ故各人が天職をもつという倫理的命題は、事物の理性的秩序が存在するということに対す る表現である。こうした秩序において各人は、意志しさえすれば普遍的一人間的なものと同時に 個性的なものを表現するといった仕方で、その場をみたすのであるO 」(II. 311 ‑2) R分の素 質に合った職業を選び、その社会的使命を十分果たし得るように厳しく鍛えあげるならば、普遍 的なものと個性的なものとの間の正しい均衡が、それぞれの個人において達成される。そこで['1 分を厳しく鍛えあげる限り、本来誰もが対等な存在としてこうした理性的秩序の中に場を占める ことができるとされるのである。ところが人々が自分達の才能を絶対視し、それを誇る場合には、

「この世で何かを達成する幸運は、少数の選良にのみ与えられる。一一それ以外の者は単なる数、

人生の余計者、創造主の浪費である」(II. 314)と考える思いLがりが生じ易い。又優劣を競うた

めに人々の間で対立や争いも生じ易い(II. 312)そこで人々の問で真の対等性も、真の宥和も

成立しないとBは考えているのである。 ②キルケゴールとほぼ同時代のイギリスの功利主義者

J.S.Millは、価値に応じた配分(人間が努力してあげる成果に違いがある以上、そうした違いに

(15)

36

〜., t:   漁

応じて富、地位、権力などが配分されるべきだという原理)を、とかく絶対視しがちであった。

(この点については、本学の紀要第30巻第1号における拙論を参照されたい。 )しかしBが価値 に応じた配分だけを絶対視していないことは明白である。但しBも人々の間の素質や成果の違い を全く無視してよいと考えていた訳ではない。 「違いを忘れようとする程私は馬鹿ではない。 」 (II. 313)そこでBも、成果に違いがある人々に全く同じ給料を払うべきだといった不合理なこ とを考えている訳ではない。 一方では価値に応じた配分の妥当性を認めながらも、しかし人間の 根本的対等性を無視してよい程決定的な価値の違いは、人々の間にないと考えているのでる。

(20) さらに「生きるために働くことは美しい。そこにおいて人間の尊厳が感じられる」(II. 301)と も述べられている。この「美」や「尊厳」の意味については、昨年の紀要ですでに説明した。

(21) Bは自分でこうした喜びを体験している。 「私は、私の天職を貴んでいる。それが私の能力や 人格に相応しいと信じている。私は、それが私の力のすべてを要求することを知っている。私は、

それのために益々自分を鍛えあげようと努め、そのことによって自分自身を益々発展させると、

同時に感じている。 」(II. 345 ‑6)

(22) こうした面があるが故にBは、義務の遂行において「人生の幸福と充実」(Pulmer93)をもみ ることができたのである。(これは以下で述べる他の義務についても妥当するO )そこでBは、

「倫理的なものが人生に平和、堅実さ、親しみを与える」(II. 345)とか、 「倫理的に生きる時初 めて、各自の人生は美、真理、意味、堅固さを獲得する」(II. 289)と主張し、美的人間Aに倫理 的立場‑高まるよう勧告を繰り返すのである。

(23)最初にも述べたようにBの主張とヘーゲルの思想との関連がしばしば指摘される。そこでここ では‑‑ゲルの『法哲学要綱』 (Grundlinien der Philosophie des Rechts 1821)を取り上げて、

それとBのtl.張との類似点を3つばかり述べておきたい。なおここではSuhrkamp Verlagの G.W.F.Hegel・Werke 7 " (Frankfurt am Mein 1970)から引用する。 ①‑‑ゲルもB と同様に人格の統一、その進/歩、発展を重んじている。「子供達は道徳的意志をもたないo親達に よって規定される。しかし教義ある、内面的となる人間は、自分が為すすべてにおいて自分自身 が居ることを欲する。 」(206) 「個別的なものの真鞘は、普遍的なものである。行為の規定性は それ自体、外的に個別的なものに切り離された内容ではなく、多様な連関をそれ自体の内に含む 普遍的内容である。 」(223) Bは「人格の結合力」(II. 170)(物事の価値を正しく判断し、自分の 匪かれている状況との関連でIKLく選択する意志)によるE]々の生活の止しい秩序付け、コソト ロールを尊重していた。こうした秩序付け、コソトロ‑‑ルが可能となれば、一切の行為が自分自 身の価値判断の具体的表現となり、人格の統 一・、更にはその進歩、発展も達成されることになる からである。 L述の‑‑ゲルの発話は、これと同じ内容を含んでいるといえる。 ②‑‑ゲルも 労働が理論的、実践的教養の発展と結びつき(352)、自然支配を可能にすることを認めていた()

③ヘーゲルも職業選択の自由を百足し、次の様に述べている。 「個人が‑‑・特殊身分(職業の

意‑筆者付記)に所属する決心をするという考え方に反抗し、このことを彼の普遍的使命の制

限、単に外的な必然性とみなすのは、抽象的思考による。 」(359) 「身分なしの人間は単なる私的

人格であり、現実的普遍の中に存在しない。 」(360)特/!」の一つの職業に適応し得るように自分

を訓練することは、自分を不当に制限し拘束することであると考えられるかもしれない。 (美的

人間Aは現実にそのように考えていたO )しかしこうした考え方は不十分である。自分の素質に

合った職業を選び、その社会的役割を果たして得るように自分を厳しく鍛えあげることは、人格

の真の統一、その進歩、発展と密接に結びついている。しかも現実の社会の中にしっかりと自分

の足場を築くことも可能にする。美的人間Aのように悪意的に何にでも手をだし、しかも中途半

端にやめてしまうといったことを繰り返していると、これをやっていれば自分が自分らしくなれ

るといった仕事や、ここに厨‡れば自分が自分らしくなれるといった居場所(職場)がなくなってし

まう。それでは(人格の統一‑、進歩、発展が不可能となるだけではなく)現実から遊離し、疎外感

に苦しむといったことにならざるを得ない。そこで‑一一ゲルもBと同様に特殊な職業を自分の意

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