1
論文審査の結果の要旨
氏名 西山智之
博士の専攻分野の名称: 博士(法学)
論文題名: 性犯罪抑止のための新たな刑事政策的視点に基づく諸施策の提言 審査委員: (主査) 教授 南部 篤
(副査) 教授 設楽 裕文
(副査) 中央大学教授 博士(総合政策) 四方 光
Ⅰ 本論文の内容 1 本論文の目的
本論文は,性犯罪抑止のための刑事司法を中心とする諸制度の現状を問い直すことによって,その 問題点と課題を明らかにし,より効果的な性犯罪被害防止のための施策を探求,提案することを目的 としたものである。
性犯罪は,いうまでもなく,それがもたらす深刻で回復困難な被害の点で,最大限の強力な公権力 行使による抑止が図られなければならない逸脱行為である。しかし反面,犯罪統制手段としての刑事 司法制度は,刑罰それ自体が自由等の法益剥奪を内容とし,また強制捜査など刑事手続が法益の侵害 をともなう点で,自由・人権の保障原則の枠内で運用されなければならないという強い制約の下にお かれるものでもある。そこで,本論文執筆者は,そうした条件の下でより有効な性犯罪抑止のための 施策を提言することを目指し,考察を行おうとする。
その方法として,筆者はまず,現在の性犯罪現象と性犯罪者についての一般的見方,認識のしかた を厳密に検証したうえで,新たな視点に立ってこれを読み解いて行くことから出発する。そうして,
従来当然とされてきた刑事司法のあり方をあらためて見直す作業を行い,現状を打破するための新た な施策に向けた考察を試みている。
2 本論文の概要
本論文は,提出された製本済冊子全145頁,注を含めた総文字数168,201文字からなるも のである。以下に,論文構成に沿ってその内容を概観する。
第1章においては,環境犯罪学に基づく事前予防策導入の奏効等から,2003年以降全刑法犯認 知件数の顕著な減少傾向がもたらされたこと,それにもかかわらず性犯罪については事情が異なり,
認知件数は減少幅が小さく現状維持傾向がみてとれることを指摘する。このように刑事政策的対応が 性犯罪については十分に効果を発揮しているとはいえないことを確認し,その対策の必要性が語られ る。ここでは,「性犯罪」,「性依存症」,「性嗜好障害」等の多様な性的問題行動について,早期介入の 必要性,現行の処遇制度の不十分さが指摘され,性犯罪者治療体制構築の必要性が示される。
第2章では,まず,性犯罪の現状を実証的に検討すべく,最近10年間の認知件数と検挙率の推移 の概観から,一般刑法犯が減少傾向にある中,強制性交等(旧強姦)と強制わいせつについては認知 件数は漸減傾向,検挙率は若干増加傾向にあることを確認している。
次いで,暗数の大きいことが知られている性犯罪について,筆者は,複数の犯罪被害調査結果を詳 細に再検証する暗数推計の手法により,実際に性犯罪被害に遭遇した可能性のある者の数が認知件数 の約20倍に達する可能性があるという注目すべき結果を明らかにしている。
多くの専門家は,性犯罪の再犯率が高いというマスメディアが取り上げがちな一般的印象が誤りで あることを述べている。これに対し,筆者は,殺人・強盗・放火等重大な人身侵害事犯に限定して比 較する手法によれば,性犯罪の再犯率はもっとも高いとの正反対の見解を明らかにする。とくに比較 的軽微な前兆事案から重大事案にエスカレートする再犯の割合と,年少者を対象として繰り返される 性犯罪の反復性の高さに警鐘を鳴らしている。
2
さらに,認知行動療法の不十分な点を踏まえて,国際疾病分類(ICD-10)の性嗜好障害等にあたる 性的依存や性障害犯罪者に対する精神医療面の治療的処遇の必要性を主張している。
第3章においては,性犯罪者に対する処遇の困難性,再犯防止措置の不備,予防的治療の視点の欠 落について指摘を行っているが,とくに,起訴猶予相当と判断されやすい前兆事案や初犯者の再犯率 をふまえ,猶予処分時の更生緊急保護制度の積極的な活用につき,踏み込んだ検討を加えている。刑 執行に関しては,刑期と執行後の措置の限界を見据え,リラプス・プリベンションモデル(Relapse
Prevention Model)等のプログラムの再検討を行い,その問題点を明らかにしている。
第4章では,イギリス,アメリカで社会実験の段階にある環境設計に基づく犯罪予防理論や予防医 学の手法がとりあげられる。ブランティンハム(P.Brantingham)とファースト(F.Faust)の医学的 3段階モデル,またトンリー(M.Tonry)とファーリントン(D.Farrington)の犯罪予防4モデルに ついて検証を行い,1次的予防として,予防教育と環境設計および状況的犯罪抑止論に基づく事前抑 止が,2次的予防として捜査機関による早期発見・対応が,3次的予防として判決後の矯正・保護処 遇が,それぞれ分析対象とされ,新たな施策の提言に結びついている。とくに力点がおかれているの は,早期発見・対応による性的逸脱のエスカレーション防止,再犯回避施策として,精神保健福祉法 に基づく措置入院手続の適用範囲を,性嗜好障害等の精神疾患を有する者に拡張すること等を主張し ている点である。
さらに,拘束を伴う治療につき,ポリスパワー(police power)ではなく,対象者本人の利益に立っ たパレンス・パトリエ(parens patriae)思想によって,同意無しの精神医療の強制がはじめて肯定 しうると考えるべきことを主張している。
第5章においては,前章までを総括し,さまざまな角度からの施策を提唱している。まず,①警察 段階での前兆事案頻回者への再犯防止講習,警察官通報に基づく措置入院制度導入,②検察段階での,
起訴猶予対象者に対する精神鑑定の実施と更生緊急保護の活用,③裁判段階での,性犯罪執行猶予者 への必要的保護観察,④医療観察制度の強化と,日本版民事収容制度導入である。こうした制度の拡 張・新設のほかに,⑤犯罪多発地点への警察力重点配置の予測型犯罪制御システムの全国的導入,環 境犯罪学に基づく防犯環境設計の活用等を提案している。加えて,⑥性犯罪受刑者の出所情報の警察 への提供,性犯罪者の専門的治療可能な刑事施設の創設,一部執行猶予制度活用による治療期間確保 などについても述べている。これらは,総合的・包括的に,効果が期待できる各種方策を性犯罪対策 に集約させる,という徹底した政策を断行することなしには問題解決を図ることはできないという筆 者の認識に由来する主張として展開されたものである。
Ⅱ 本論文の評価
1 はじめに,2000年以降4回行われた「国際犯罪被害調査」と1999年以降2017年までに7回 行われた内閣府による「男女間における暴力に関する調査」とを比較検討し,質問項目・内容に異同 がないこと,調査方法に高い信頼性があること等の点で取捨選択を加え,複数の調査結果を抽出し,
そこから得られた性犯罪被害者化率(各調査共0.3%)を用い,16歳以上の女性人口にこの数値を乗 ずる方法で推計を試み,認知件数の約20倍に相当する年間約34,000人の性犯罪被害者が存在する可 能性を指摘している。これは,従来,性犯罪は当然に暗数が大きいとされてはいても,その明確な根 拠や暗数の大きさについて明らかにされてこなかったことに照らし,着目点の新規性と推計手法の慎 重さ確実さを含め,注目に値するものと考えられる。
2 次いで,性犯罪の再犯率に関して,刑法犯全体のそれと比較するのではなく,重大事犯(殺人・
強盗・強姦(現強制性交等)等)の再犯率との比較を通じて評価すべきであることを指摘し,同一罪 名再犯率では強姦が最も高く9.4%,強姦と強制わいせつを含めた再犯率では16%と非常に高いこと を明らかにしている点は特筆すべきである。また,13歳未満の者を対象とする事案については,小児 わいせつ行為が 6.6%と他の類型と比べて高率であることを指摘し,初期・早期の対応を要すること を明らかにしたことは高く評価しうる。
次に,性嗜好障害等の精神疾患が,責任能力判定の基礎となる精神障害の指標に含められていない 現状の不都合を鋭く指摘している。加えて,精神保健福祉法上の措置入院要件である「自傷他害の恐 れ」に関して,物理的有形力のみではなく,恐怖や不安といった精神的圧迫の強弱を含めるよう見直 すべきこと,また性嗜好障害等の性的疾患も統合失調症とともに判断要素に含めるべきことを主張し,
3
治療による性犯罪予防の必要性を明らかにしているが,これは,被害者のみならず加害者の救済をも 視野に入れた施策でならなければ真の問題解決を図ることはできない,という筆者の一貫した立場と,
すぐれた着想から導かれたものといえる。
3 ところで,本論文は,従来の法執行モデルでは十分に対応できなかった捜査段階における早期 の予防措置の再犯抑止効果に着目している。しかし,警察段階での措置入院の積極的活用や性犯罪再 犯防止講習を提案しながら,前兆事案の重要性についての現場警察官等の認識の低さ,また他の身体 犯に比し被害が可視化され難い問題点にまで十分な検討が及んでいるとはいえず,精神科医や臨床心 理士配置の必要性についても十分とは言い難い。起訴猶予対象者への更生緊急保護の活用を提案する が,任意的措置である更生緊急保護を義務的なものに変更したとしても,対応期間が原則6ヶ月,最 長1年にとどまるという時間的限界があり,その後の保護的対応にまで考慮が及んでいない点が惜し まれる。他方,わが国でまったく馴染のない「民事収容制度(Civil Commitment for Sexually Violent
Predators)」の導入について検討し,保護観察付執行猶予,仮釈放,一部執行猶予による保護観察対
象者への特別遵守事項の一つとしての適用を提唱しているが,こうした執行刑の期間という司法的制 約,責任主義等の保障原則との厳しい対立緊張関係という困難な課題に目を向けること自体が新たな 一歩を踏み出す意義を有するとも評価しうるであろう。
4 最後に結論を述べる。
刑事司法制度は犯罪統制を主な目的とするものであって,しかしその役割が純粋に直接的な犯罪抑 止のみに限定されるものではなく,また制裁による抑止は,利害得失を冷静に判断して犯罪的意思決 定に出る合理的人格を前提とするものであるため,刑罰制度は他行為可能性=非難可能性が責任を基 礎づけることを政策的基盤とするものとして発展してきたと考えられる。さらに,その不適切な運用 が深刻な人権侵害をもたらす危険があるという認識からの「保安処分」制度等へのセンシティブな警 戒感が今日でも根強く存在している。
そこで,それらを乗り越え,あるいは回避することが極めて困難な桎梏となっているところ,本論 文は,刑罰(=害悪)を用いた犯罪統制手段の限界を率直に受け止めたうえで,処罰から,公権力の 作用に裏打ちされた治療的手段へと方法論的転換を図り,これを軸にして困難な課題の解決を模索し ようとする強い志向に貫かれたものとなっている。こうした点から,本論文は,これまで十分な検討 がなされてこなかった未開拓の問題領域に果敢に切り込み,近代刑事法制の保障原則と真摯に向かい 合いつつ効果的な性犯罪被害抑止施策の探求に意欲的に取り組んだものと評価しうる。すでに指摘し たとおり考察に若干の不十分,不徹底なところがみられる点が惜しまれるものの,それらの点は,も とより本論文の価値を損なうようなものではない。
よって本論文は,博士(法学)の学位を授与されるに値するものと認められる。
以上 平成31年1月18日