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保元物語にみる弓の名人・源為朝川崎伸太郎はじめに

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(1)

保元物語にみる弓の名人・源為朝 川崎伸太郎

はじめに 弓矢(ゆみや現在ではこの表記が使用されているが︑文献︑史料等では

﹁ 弓

箭 ﹂

と 表

記 さ

れ て

い る

ケ l

ス も

多 く

見 ら

れ る

の で

︑ 関

連 す

る 記

述 で

は ﹁

箭﹂の表記も併用して使用することとする)の歴史は古く︑一万数千年も前

の太古の時代から使われはじめたと推定されているが︑この弓矢の発明が人

類にもたらした利点は大きく︑文明の発達が加速されたといわれている︒日

本では︑最初は狩猟の道具であった弓矢は︑同時に︑弓の持つ神秘性から祭

肥の道具としても使われてきた︒狩猟の道具としては獲物を効率よく︑たく

さん取るために改良が加えられていったことは想像に難くないが︑そのうち

人々の聞に争いが起こり︑戦闘が行われるようになると︑飛び道具としての

有効な武器として使用され︑更に工夫が加えられ改良されて行った︒

戦闘においての弓矢は︑少なくとも南北朝期以前の中世前期では戦闘武器

の 主

体 で

あ り

︑ 特

に 馬

上 か

ら の

弓 射

で あ

る 騎

射 (

弓 馬

の 技

) が

重 視

さ れ

た 一

そして︑武士集団が形成され︑武芸が盛んに行われるようになると︑弓術は

その第一に数えられるようになり︑武士のことを﹁弓取り﹂﹁弓馬の士﹂な

ど と ︑ 武 家 の こ と を ﹁ 弓 馬 の 家 ﹂ な ど と も 言 わ れ て き た ︒

しかしながら︑やがて戦闘武器の主体が弓矢から万剣(打刀と鑓)に移行

し︑万剣による戦いが決着の場となり︑戦国期には︑鉄砲隊︑弓箭隊︑鑓隊

などの専門部隊による組織戦が主体となってきたことで︑弓射が戦闘の中心

ではなくなっていき一︑又︑飛び道具としての主体は鉄砲に変わっていった

く コ

ことで戦闘における弓矢の重要性は失われていったが︑そのために全くその

価値を失い使われなくなるということはなく︑その後も理念的ではあれ武芸

の第一として取り扱われてきた︒そして︑心と体を鍛える道具として︑或い

は時代によっては︑遊興の道具として使用され︑また︑競技の要素を活かし

た種々の競争の種目として取り上げられ︑今日に至っている︒

弓射の技術ということになれば︑当然狩猟に使われていたときから︑多く

の獲物をとる弓の名人・上手がいたことであろうが︑歴史に登場する弓の名

人は︑書物によりその名が刻まれたり︑伝説として語り継がれた人たちであ

り︑或者は戦闘に於いて活躍し︑或者は︑妖怪︑怪物のたぐいを退治したこ

とで名を残してきた︒また︑江戸時代には三十三間堂の通し矢が盛んに行わ

れ た

時 期

が あ

り ︑

天 下

一 を

競 っ

て 名

を 馳

せ た

名 人

も い

て 一

一 一

︑ 幾

多 の

弓 の

名 人

が 出

現 し

て い

る 四

o

本稿ではその名人たちの中から︑保元の乱(一一五六年)で崇徳院の側に

ついて敗れた悲劇の英雄として保元物語の中でその生涯が語られ︑記述も多

くある源為朝を取り上げることとした︒為朝について記述されている保元物

語は軍記物語に分類され︑その時代に係わった人々のいくつもの証言を集め

て物語として構成されたものであって歴史的事実を基にしているとはいえ

物語として構成されていることにより︑かなりの誇張された表現が多く使わ

れている︒そこで︑弓射の場面および弓射に関係する事柄についての記述に

ついて取り上げ︑現在までの記録との比較により︑事実関係についての考察

を行いながら︑為朝の弓のすごさと弓の名人といわれる所以について考えて

み る

こ と

と し

た ︒

これに合わせ︑今回の為朝に関する記述内容や考察を補完し理解を助ける

ものとして︑この時代の合戦における主な戦闘の方法や︑基本的な武装の内

(2)

容についても︑記述しておきたい︒そして︑記述に当たっては同時期に発生

した︑平治の乱(一一五九年)︑承久の乱(一二二一年)について書かれた

軍 記

物 語

で あ

る 平

治 物

語 ︑

承 久

記 も

合 わ

せ 使

用 す

る こ

と と

し た

ここで使用した保元物語は︑日本古典文学大系三一﹃保元物語平時物語﹄

(金刀比羅本保元物語)五を使用しその記述を元としているが︑付録の古

活 字

本 お

よ び

︑ 新

日 本

古 典

文 学

大 系

四 一

二 ﹃

保 元

物 語

平 治

物 語

承 久

記 ﹄

六 (

井本保元物語︑古態本平治物語︑慈光寺本承久記)も参考として使用

し︑平治物語︑承久記についてもこの本を使用して︑比較しながら考察を行

っ た ︒

第一章 為朝の時代の基本的武装内容と戦闘の方法

信用一般即 基本的武装内容

こ の 時 代 の 武 装 内 容 と し て ︑ 各 物 語 に 登 場 す る 主 な 武 者 の 行 粧 ( い で た ち )

に つ

い て

は 以

下 の

よ う

に 記

述 さ

れ て

い る

保元物語では︑為朝及び他の主な武者達の行粧について次のように表現され

て い

る ︒

かちんのひた﹀れに獅子まるを二三ぬひものしたる黒からあやをふと

くた﹀みて威たる大あらめのよろひの獅子まるのすり金物︑白ふくり

んなるをきたりけり︒ねりっぱの黒漆の太万三尺八寸有けるに︑熊皮

の 尻

鞘 入

て ぞ

は き

た り

け る

︒ 鎧

か ろ

げ に

着 な

し ︑

小 具

足 つ

ま や

か に

し て

弓 脇

に は

さ み

︑ 烏

帽 子

ひ き

た て

ゆ る

ぎ い

で た

る 形

勢 は

︑ (

以 下

略 )

義朝は︑赤字の錦の直垂に︑脇楯・小具足計にて︑太万はきたり︒烏

帽 子

引 立

︑ 庭

上 に

ひ ざ

ま づ

き ︑

畏 て

ぞ 候

け る

︒ (

中 略

) 下

野 守

本 陣

に 帰

物 具

ひ し

ひ し

と か

た む

︒ 家

に 停

る 八

龍 と

云 鎧

を ぞ

き た

り け

る ︒

嫡 子

中 務

少 輔

重 盛

( 中

略 )

赤 字

の 錦

の 直

垂 に

︑ 逆

面 高

の 鎧

︑ て

う の

丸 の

すそ金物しげううったるが︑白覆輪なるに︑白星の甲︑紅の母衣まっ

そ う

に 吹

か せ

て ︑

鴇 毛

な る

馬 に

鋳 懸

地 に

金 覆

輪 の

鞍 に

ぞ 乗

た り

け る

維行歳廿八︑身の盛とみえたり︒大の男のしたたか者也︒弓は三人ば

り︑矢束は十三束︑さげはりをも射んとおもふ者なりけり︒黒皮威の

大荒目の鎧のさかり過たるに︑黒づはの矢をい︑二所藤の弓鹿毛なる

馬 に

鞍 を

い て

ぞ 乗

た り

け る

平 治

物 語

で 登

場 す

る 主

な も

の は

︑ 次

の 通

り で

あ る

大将右衛門督信頼は︑赤地の錦の直垂に︑紫裾濃の鎧に︑鍬形うちた

る 白

星 の

甲 の

緒 を

し め

︑ 金

作 り

の 太

万 を

は き

︑ (

以 下

略 )

越後中将成親は︑紺地の錦の直垂に︑萌黄匂の介(よろい)に︑鴛鴛

の 丸

を 裾

金 物

に う

ち た

り け

り ︒

白 葦

毛 な

る 馬

に ︑

白 覆

輪 の

鞍 を

き て

︑ (

下 略

)

(3)

左馬頭義朝は︑赤地の錦の直垂に︑黒糸械の介に鍬形打ッたる五枚甲を

き た

り け

る ︒

清盛︑其日の装束には︑飾磨の褐の直垂に︑黒糸綴の鎧︑塗り箆に黒保

呂はぎたる矢の︑十八さしたるを負ま﹀に︑塗龍藤の弓をぞ持ちたりけ

る ︒

承 久 記 で は ︑ 次 の よ う に な っ て い る ︒

判官(伊賀判官光季のこと)其日ノ軍ノ装束ハ︑寄懸ノ目結ノ小袖ニ︑

地白ノ雌︑大口計ニテ︑白鞘巻ヲサシ︑十六サシタル胡銭・三要日サシ

タル胡篠二腰取寄テ︑出居ノ妻戸ニ矢タバネトキテ立置︑滋藤ノ弓三張

ハリ立テ︑敵ノ寄ルヲ待懸タリ︒判官宣玉ハク︑﹁寿王トクトク物具セ

ヨ ﹂

ト 有

ケ レ

バ ︑

生 年

十 四

ニ 成

ガ ︑

軍 装

束 ヲ

ゾ シ

ケ ル

︒ 小

連 銭

ノ 小

袖 ニ

地白雌︑黄ナル大口︑+盟県糸威ノ腹巻︑錦革ノ小手ヲ差テ︑七寸五分ノ

腹巻透ヲ差シ︑十六サシタル染羽ノ胡銭カキタテ︑重藤ノ弓ノ本拍ウラ

ハズシメテ︑紅ノ扇開キ持︑内柱ヲ木楯ニシテ︑敵ヲ待懸タリ︒

このように見てくると︑保元物語︑平治物語では︑登場する武者達は︑直

垂を着て鎧をつけ︑烏帽子を着けているが︑戦場では甲を着けて弓を持ち︑

矢を負い︑太刀をはいて馬に乗る姿が︑標準的な行粧と見える︒一方︑承久

記では︑小袖に惟子を着て大口袴を着け腹巻(鎧の様式)を着用した武者が登

場 し

て い

る ︒

保元物語︑平治物語に登場する武者の武装(行粧)については︑近藤好和

氏の著書﹃弓矢と刀剣﹄七の中にある︑騎兵に関する典型的武装構成として

の︑直垂︑大鎧︑兜︑弓箭︑太万︑鞍置馬であり︑記述はないが︑これに︑

片籍手︑腔当などの小具足︑そして腰万が加わるという記述とほぼ一致して

い る

一 方 ︑ 承 久 記 に 登 場 す る 武 者 の 武 装 は ︑ 小 袖 ︑ 雄 子 ︑ 大 口 袴 ︑ 腹 春 ︑ 弓 箭 ‑ ︒

太刀︑腰刀︑龍手などの小具足といった様子で︑少し異なる行粧となってい

る︒おそらくこの時代では前述の騎兵の行粧がまだ主に用いられていた事と

思われるが︑ここの記述に見られるように変化してきている事もうかがわれ

この大鎧と腹巻の比較については︑やはり近藤好和氏が﹃弓矢と刀剣﹄の

中 で

詳 細

に 一

記 述

し て

い る

が ︑

要 点

と し

て は

以 下

の よ

う な

こ と

で あ

る ︒

大鎧は︑中世︑そしてわが国を代表する甲であり︑中世では鎧といえば大

鎧をさしていた︒この大鎧は中国の南北朝期から随・唐にかけてさかんに使

用された騎兵甲を基礎に十一世紀頃に形成されたと考えられ︑総体に騎射戦

を考慮した構造である︒その重さは兜を含め最大四十キログラムにも及ぶ重

厚な甲であり︑付属具も多く攻撃の機能性を考慮した甲とはいいがたい︒あ

くまで騎射戦での矢に対する防御を第一に考慮し︑徒歩には適さない馬上用

の 甲

で あ

る ︒

腹巻きは︑軽快な歩兵用の甲であり︑徒歩での足の動きを考慮した構造と

なっている︒この腹巻きは身体を巻いた衝胴が右引合となっているが︑背中

に引合の有る構造のものもあり︑中世では背中に引合のある背割れ様式のほ

うは胴丸と呼ばれていたが︑戦国時代の混乱の中で名称が入れ替わり︑右引

合は胴丸︑背割れ式は腹巻きと成って現在に至っているということである︒

(4)

この腹巻きは︑当初歩兵用のものであったためか︑原則として兜や袖は付属

せ ず

鎌 倉

時 代

ま で

は 必

要 に

応 じ

て 袖

を 付

け て

い た

よ う

で あ

る と

あ る

こ れ

ら の

記 述

か ら

は ︑

承 久

記 の

判 {

目 ︑

寿 王

の 武

装 は

︑ 居

所 で

待 ち

受 け

弓 箭

で戦い︑最後は太刀で戦うことを考えた動きやすい行粧をしていたといえよ

う︒承久記の中では騎兵の武装についての記述は見受けられなかったが︑こ

の時期ではまだ騎射戦が中心であり︑前述の騎兵の武装が標準的であったの

で は

な い

か と

推 測

さ れ

る ︒

この大鎧の着装の図が︑新日本古典文学大系四三﹃保元物語平治物語

承久記﹄の付録付図七に掲載されているので︑参考として引用し︑(図│

一)として文末に添付した︒また︑馬具についても﹃弓箭と万剣﹄に解説が

あり︑図が掲載されているので参考として引用し(図│二)として文末に添

付 し

た ︒

第二節 戦闘の方法

戦闘の方法については︑この時代はまだ騎射戦が中心の戦いであったよう

だが︑保元物語︑平治物語︑承久記での記述を見ていくと︑時代が下るにつ

れ戦闘要員の数も多くなり︑地上での組み討ちによる戦いも増えていったと

推 測

さ れ

る ︒

以 下

に そ

れ ら

の 例

を 取

上 げ

て み

る ︒

保 元 物 語 で は ︑ 後 述 の 為 朝 の 弓 射 に よ る 戦 闘 場 面 で 記 述 さ れ て い る よ う な ︑

敵味方が互いに弓箭で相手を射落とす事が中心で︑射落とされたものに対し

て 歩

兵 が

と ど

め を

刺 す

よ う

な 戦

い 方

で あ

っ た

と 思

わ れ

る ︒

平 治

物 語

に な

る と

重盛の馬の草わき・太腹を箆深に射させ︑馬しきりにはねければ︑堀

川の材木の上︑下立ったり︒鎌田兵衛︑川をはせ渡して︑馬より下重

ツ て

重 盛

に 組

ま ん

と し

け る

を ︑

( 以

下 略

)

馬 の

腹 射

さ せ

て ひ

か へ

又 ︑

薄 手

お い

て ︑

な を

返 合

て た

﹀ か

ふ も

あ り

平山︑小鏑をとりて番︑よツ引てはなちけり︒敵の馬の太腹を追様に︑

はたとぞいたりける︒しきりに馬はねければ︑鐙をこして下立けるが︑

ある辻堂のうちへつッと入る︒平山も馬より下︑馬をば門の柱にしづし

づ と

つ な

ぎ ︑

太 万

を ぬ

き て

門 の

う ち

へ つ

ッ と

入 ︒

妻 戸 の 扉 に ︑ 敵 の い る 矢 が 雨 の ふ る ご と く に あ た り け れ ば ︑ ( 以 下 略 )

平家の郎等︑勝にのり︑いづくまでと追かけて︑散ざんに矢を射かけた

M

義朝︑つがふたる矢なれば︑ょっぴいてはなつ︒かの法師が腹巻の押

付 の

板 を

つ ッ

と 射

ぬ き

︑ あ

げ ざ

ま に

射 た

る 矢

な れ

ば ︑

胸 板

の は

づ れ

へ ︑

矢 さ

き 五

六 寸

ば か

り 射

出 た

り ︒

とあり︑保元物語と同じように弓矢で相手を射落とすことは同様にされてい

るが︑一方で︑馬を射て敵を地上に降りさせ︑組み討ちで戦うような戦い方

がされていて︑保元物語では見られなかった戦法といえる︒また︑人数をか

け て

多 数

の 矢

を 射

懸 け

る 戦

法 も

と ら

れ て

き て

い る

(5)

承 久

記 に

な る

と ︑

伊賀判官光季(中略)白羽ノ中差抜出シ︑思フ矢束引テ放タレパ︑平

判官ノ弓ノ取ヅカノ上︑一束ヲキテ射削リ︑二陣ニ引ヘタル草田右馬允

ガ 頚

骨 射

抜 タ

リ シ

カ パ

︑ 暫

モ タ

マ ラ

ズ 落

ニ ケ

リ ︒

寿 玉

︑ 父

ノ 命

ニ 随

テ ︑

十 六

差 タ

ル 染

羽 の

矢 カ

キ 負

︑ 大

庭 ニ

コ ソ

歩 下

ケ レ

( 中

略 )

思 フ

︑ 矢

束 飽

マ デ

引 テ

放 タ

レ パ

︑ 男

ノ 山

域 守

ノ 鎧

ノ 袖

ニ 箆

中 マ

デ コ

ソ 射

立 タ

レ ︒

蜂屋三郎申ケルハ︑(中略)上差抜出シ︑滋藤ノ弓ニ打クハセテ︑飽マ

デ引テ放タレパ︑武田六郎ガ左ノ脇ニ立タル一ノ郎等ノ胃ノ胸板︑上巻

マ デ

射 通

ケ レ

パ 暫

モ タ

マ ラ

ズ 馬

ヨ リ

落 テ

ケ リ

︒ 二

矢 返

シ テ

射 タ

リ ケ

レ パ

武 田

六 郎

ガ 小

舎 人

童 ノ

頚 骨

ヲ 後

ヘ コ

ソ 射

抜 タ

レ ︒

十九騎ノ兵︑十一騎ハ打物取︑八騎ハ弓取矢合シテ︑懸合入組ミ散々

ニ 戦 ケ リ ︒ 百 余 騎 ノ 討 手 モ 三 十 五 騎 ハ 被 討 ニ ケ リ ︒

となり︑同様に弓矢で相手を射落とす戦いもされているが︑歩射での戦いの

場 面

も で

て い

る ︒

ま た

︑ 複

数 の

兵 同

士 の

戦 い

で ︑

弓 矢

で の

戦 い

だ け

で は

な く

馬上での(十九騎の兵など何騎との表現からは騎兵と見て良いであろう)打

ち物(太刀︑長万など)による戦いも見られるようになっている︒それと︑

ここでちょっと面白いと思われるのは︑弓を引いて放すときの表現が違う事

で あ

る ︒

平 治

物 語

で は

︑ 前

述 の

よ う

に ︑

以 下

の よ

う な

表 現

が さ

れ て

い る

[1:9 

平 山

︑ 小

鏑 を

と り

て 番

︑ よ

ッ 引

て は

な ち

け り

義 朝

︑ つ

が ふ

た る

矢 な

れ ば

︑ ょ

っ ぴ

い て

は な

つ ︒

ま た

︑ 保

元 物

語 で

も ︑

以 下

の よ

う な

表 現

と な

っ て

い る

為 朝

さ き

ぼ そ

を う

ち つ

が っ

て ︑

( 中

略 )

暫 く

弓 た

ま っ

て ︑

面 に

す ﹀

み た

る 伊

藤 六

が ま

ん な

か に

押 当

て 放

ち た

り ︒

は げ

た る

矢 を

さ し

は ず

し ︑

又 表

矢 の

鏑 を

は げ

か へ

て ︑

( 以

下 略

)

案のごとく維行引まうけたる事なれば︑内甲をこ﹀ろざしてひやうど

射 る

為朝例の崎細さしつがって︑まっさきにす﹀んだる志保見五郎が頚の

骨 射

き ら

ん と

指 あ

て 放

た り

首 藤

九 郎

ょ っ

引 て

放 矢

に む

な 板

い さ

せ て

落 に

け り

一 方

︑ 承

久 記

で は

以 下

の よ

う な

表 現

が 使

わ れ

て い

る ︒

白 羽

ノ 中

差 抜

出 シ

︑ 思

フ 矢

束 引

テ 放

タ レ

パ ︑

矢 束

飽 マ

デ 引

テ 放

タ レ

パ ︑

上 差

抜 出

シ ︑

滋 藤

ノ 弓

ニ 打

ク ハ

セ テ

︑ 飽

マ デ

引 テ

放 タ

レ パ

これを比較してみると︑保元物語︑平治物語では︑﹁矢をつがえて(うちつ

が っ

て )

﹂ ﹁

は げ

た る

矢 ︑

鏑 を

は げ

か へ

て ﹂

﹁ ょ

っ ぴ

い て

放 つ

﹂ ﹁

ひ ょ

う ど

射 る

で あ

る の

に 対

し ︑

承 久

記 で

は ︑

﹁ 上

( 中

) 差

抜 出

シ ﹂

﹁ 弓

ニ 打

ク ハ

セ テ

﹂ ﹁

フ 矢

束 引

テ ﹂

﹁ 矢

束 飽

マ デ

引 テ

﹂ ﹁

放 タ

レ パ

﹂ と

い う

こ と

で ︑

作 者

の 表

現 が

徴 的

な の

か ︑

時 代

に よ

っ て

表 現

の 仕

方 や

戚 只

見 が

変 わ

っ て

き て

い る

の か

︑ 興

の あ

る と

こ ろ

で あ

る ︒

さて︑戦闘の様子は︑合戦の絵巻物に描写されているので︑ここでは騎射

の描写がされている場面を参考に添付する事とした︒騎射といっても︑馬が

静止している状態で馬上から射る﹁静止射﹂と駆けている馬に乗った状態で

(6)

射 る

﹁ 馳

射 ﹂

が あ

る の

で ︑

そ れ

ぞ れ

を 描

写 し

た 部

分 を

選 択

し ︑

図 ー

一 一

一 か

ら 図

│七として文末に添付した︒これらの図は︑望室内最来絵詞﹄八﹃後三年合

戦絵詞﹄九﹁前九年合戦絵詞﹂一 O から引用したものであるので︑時代的

なずれがあることになるが︑着装など描かれている内容は今回対象として取

上げた時期のものと対応しており︑参考としては問題ないものと考えられる︒

これらの戦闘の方法についても︑近藤好和氏の﹃弓箭と刀剣﹄のなかで色々

と 検

討 さ

れ て

い る

の で

参 照

さ れ

た い

以上のように︑保元物語︑平治物語︑承久記の中から︑武装内容と戦闘の

方法を見てきたが︑保元物語については為朝が登場する戦闘場面が中心であ

り︑これらについては︑今回の本題でもある為朝に関する記述の中で取上げ

ていく︒このように見てくると︑やはり保元物語では︑為朝は主人公であり

戦闘に関する場面では為朝を中心に描写されていて︑他の物語には見られな

い構成・記述となっている︒そこで︑第二章以降は本題である為朝の弓に関

す る

記 述

に つ

い て

み て

い く

こ と

に す

る ︒

信 用 二 血 早

為朝の体格と使用した弓矢について

第一節 為朝の体格

為 朝

の 体

格 に

つ い

て は

保 元

物 語

に は

以 下

の よ

う に

‑ 記

述 さ

れ て

い る

そのたけ七尺にあまりたれば︑不通の者には二三尺計指しあらはれたり︒

生付たる弓取りにて︑弓手のかいなめてより四寸長かりければ︑ この内容から︑身長については︑保元の乱が起きた当時に使用されていたと 推定される律令での標準尺の長さの一尺が二九センチ六ミリメートルであ るとして建鼻すると︑身長は二メートル七センチをこえる高さであり︑普通 のものより約六十 1

九 十

セ ン

チ ほ

ど 高

い と

い う

こ と

に な

る ︒

そこで︑骨の研究から現在推定されている当時の人の平均的な身長をみる

と ︑

一 五

六 1 一五八センチほどとなるこので︑実際には身長差で五十センチ

ほど高かったと推定される︒すると︑記述とは差が出てくることになるが︑

物語としては︑為朝の大きさを際立たせる記述として一︑二尺では迫力に欠

けるので二︑三尺と表現したと推察できる︒二メートルを超える身長は︑現

在のバレーボールやバスケットボールの選手をみるとそれほど珍しいとい

うことでもないので︑為朝は身長二メートルを超える当時としてはかなりの

大 男

で あ

っ た

と い

う こ

と に

な る

また︑生まれつき弓を引くのに適した体形で弓を持つ左手のほうが︑右手

よりも十二センチほど長かったというのは︑体形的にはあり得ない差という

ほどでもないと思われるが︑弓を持つほうの腕が長いという事が弓を引くた

めに取り立てて適しているとも思えない︒但し︑物語の記述としては︑弓を

も っ 手 ︑ が 長 い こ と が 矢 を 引 く 長 さ が 長 く 引 け ︑ 目 標 に 向 け て し っ か り 方 向 が

定まるイメージを読者に持たせる効果は出ていると考えられる︒

第二節 為朝の使用していた弓

為 朝

が 使

用 し

て い

た 弓

に つ

い て

は ︑

弓は八尺五寸︑長持ちの杭(あふこ)にもすぐれたり

三玉

(7)

と あ

り ︑

弓 の

長 さ

は ︑

二 五

0 セ

ン チ

ほ ど

に な

る ︒

そ の

頃 使

用 さ

れ て

い た

弓 は

平均で七尺二三寸士二 0

セ ン

チ 程

度 )

で あ

る 一

二 の

で ︑

長 い

弓 を

使 用

し て

たことにはなるが︑なかにはは九尺の弓が使用されていたという記述もあ

る 二

一 一

の で

︑ 特

別 に

長 い

と い

う こ

と で

も な

い ︒

為 朝

の 体

格 ︑

強 弓

を 引

い た

と い

うことから考えれば妥当な長さといえる︒太さについては︑長持ちを担ぐ樟

よりも太いとあるが︑いくら手が大きくても太すぎると思われる︒但しこれ

も太く強い弓であることを感じさせるには十分の表現であり︑誇張した描写

と 捕

え る

事 が

出 来

る ︒

近藤好和氏によれば︑弓は使われている材料によって︑木弓と合せ弓(伏

し 竹

弓 )

に 分

類 さ

れ る

︒ 木

弓 に

は ︑

大 木

を 割

り 削

っ て

作 ら

れ た

弓 が

あ る

ほ か

木の枝を払い樹皮をはいで磨いただけで作られた弓もあり丸木弓といわれ

るが︑一般に木製の弓を丸木弓と言う場合もある︒合せ弓は︑竹と木を加工

して張り合わせた弓で︑弓の性能を向上させるために︑いろいろな構造の弓

が工夫され作成されてきた︒合せ弓はもともとは儀式での必要性から平安貴

族によって︑竹を外側に張り合わせることで生み出され使用されはじめたの

が始まりといわれ︑十二世紀頃から文献にあらわれるということである︒武

士に採用されたのは︑治承・寿永期(一一七七 1 一 一 八 四 年 ) で あ ろ う と 推

定 さ

れ て

い る

と あ

る ︒

一 四

これによれば︑外竹弓が作成されはじめた時期と重なっては来るが︑武士

に採用されたとされる時期よりは以前であり︑弓の長さから見ても為朝の弓

は木弓であったと推定される︒木弓は︑矢束を長く引くとそれだけ弓が湾曲

するため破損しやすくなるので︑おのずと長い弓が要求され︑また強い弓で

あるためには太い弓であることが必要であり︑太くなれば湾曲に対しての破

~ ‑'、、

損のしやすさも更に増加することを考えると︑為朝の弓は長くて太い弓であ

っ た

こ と

は 疑

い の

な い

と こ

ろ で

あ る

弓 の

強 さ

に 関

す る

記 述

は な

い の

で ︑

半 井

本 の

記 述

を 見

る と

弓ノ長ハ八尺五寸︑フトサハナガ持柏ノ如シ︒弓ノカハ︑ナベテノ人三

人 シ

テ コ

ソ ハ

リ タ

レ ケ

レ ︒

と あ

り ︑

ま た

︑ 古

活 字

本 で

は ︑

五 人

張 の

弓 ︑

長 さ

八 尺

五 寸

に て

とあって︑弓の長さ︑太さについては同様の表記であり︑強さについて︑三

人 張

り ︑

あ る

い は

五 人

張 り

と の

記 述

が さ

れ て

い る

それではどのくらいの強さの弓であったかということについて考えてみ

たい︒弓の強さについては︑現在の様な竹と木を使用し貼り合わせて作られ

た弓では︑弓の握りの部分の厚さで弓の強さが表現され厚い弓が強いという

定 性 的 な 表 現 に な っ て い た が ︑ 現 在 は 一 定 の 長 さ を 引 い た と き の 張 力 ( 弾 力 )

で表しており︑例えば二十キロ(グラム)の弓というように呼んでいる︒ち

なみに︑木と竹の複合構造の弓では︑六分の弓というと張力が大体二十二キ

ロぐらいの弓であった︒現在では二十二︑三キロを引く人は強い弓を引く範

轄で︑十五から十八キロ位が一般的な男性が引く強さとなっている︒今まで

で︑著者が知る強い弓を引いた人としては四十二キロを引いた人がいて︑そ

の弓は厚さが七分四厘あり︑知る中ではもっとも強い弓といえる︒一方︑モ

ンゴルでも弓が盛んで国をあげての大会も催されているとのことであるが︑

そこで使用されている弓は日本の弓よりは短い弓ではあるが︑強さ四十キロ

位の弓は一般的に使用されていて︑更に強い弓を引く人もかなりいるようで

あ る

一 五

O

(8)

ここに出てくる三人張りという表現はどのくらいの強さに相当するか明

確ではないが︑三十から四十キロくらいの弓は一人で張っていたようなので︑

三人がかりということから推定すると五十キロ以上にはなるであろうと思

われる︒五人張りとなると実際には五人がかりで張るのはスペースから考え

て現実的ではないので︑非常に強い弓であることの表現として使用されてき

た よ

う で

あ る

以上の内容から為朝の強弓は︑長さ二メートル五十センチ︑太さ四から五

センチ角程度で︑強さは五十キロを超えるような弓がイメージされる︒

信 用 一 二 片 即

為朝が使用していた矢

為朝が使用していた矢については︑まず長さに関する記述があり︑その後

で箆(矢の軸の部分)の材料や矢尻︑矢羽根などについても記述されている

の で

︑ ま

ず 長

さ に

つ い

て み

て み

る と

矢づかをひくこと十五そく

とある︒矢づかとは︑弓道辞典によると

矢 の 長 さ ︒ 即 ち 射 手 に 最 も 適 し た 矢 の 引 き 込 む 長 さ ︒

と あ る 一 六 ︒ 従 っ て ︑ 矢 を 引 き 込 む 長 さ が 十 五 束 と い う こ と に な る の で 実 際 の

矢はもっと長い矢を使用していたといえる︒束という単位は︑

矢 の 長 さ を 計 る た め の 語 ︒ 射 手 の 手 で 一 握 り し た 大 指 ( 親 指 ) 以 外 の 四 本

の指の幅を一束という︒一束は指四つ伏せのこと(指一本分の幅を一伏

せといった)︒従って射手により異なるもその射手にとって何束と計る

た め ︑ お の お の が 計 っ た 長 さ と し て 表 さ れ る ︒ と 記 述 さ れ て い る 一 七 ︒ 人 に よ っ て 手 の 大 き さ が 違 う の で そ の 人 に よ っ て 多 少

の長短は出てくるが︑大まかな比較として一束の長さを普通の人の手で測っ

てみると大体八センチ位であるので︑是を基準として比較してみると︑矢を

引き込む長さは一二 0 センチ引いていたことになる︒この頃の矢の長さは十

二 束

( お

お よ

そ 一

00

セ ン

チ )

が 一

般 的

と 推

測 さ

れ て

い る

一 八

の で

︑ 矢

先 の

の部分と余裕を持たした分を約一五センチほど残して引いていたと推定す

ると︑おおよそ八五センチを引いていたことになり︑為朝は標準的な人に比

べると三五センチくらいは余分にひいていたことになる︒当時の合戦の様子

を 書 い た 絵 巻 が 紹 介 さ れ て い る 一 九 が ︑ こ れ か ら 当 時 の 射 法 は ︑ 馬 上 で 甲 を か

ぶったまま引くために︑めて(右手)は乳のあたりまで引き込んでいたこと

がわかる︒一般的に両手を広げた長さと身長はほぼ同じといわれているので︑

矢を引き込む長さは︑弓手は弓を握っているのでその分を考慮すると︑身長

の約半分が矢束に相当することになり︑為朝の矢束は約一メートル四センチ

ほどになる︒為朝は︑左手が右手より一二センチほど長いということなので

その分余分に矢束を引いていたと考えれば︑身長差で矢を引く長さが二五セ

ンチほど違い︑左手が右手より一二センチほど長いことからその分余分に引

いていたと考えれば︑矢束は一メートル一六センチほどになり﹁矢づかをひ

くこと十五そく﹂に対応し妥当な表現になっている︒また︑標準的な人との

身長差の半分と左手の長い分を足すと三七センチほどになり︑余分に引いて

いたと推定された三五センチとも対応するので︑ここでの記述は為朝の矢の

長さが長いことを表現してはいるが︑ほぼ実際とも合った表現になっている

と い

え よ

う ︒

半 井

本 で

は ︑

是 ニ

ヨ リ

テ 矢

ツ カ

ヲ 引

事 十

八 束

寸二

(9)

と表現されており︑矢束の長さが十五東に対して十八束と二割ほど長く表現

されていて︑矢を引くことについて誇張した表現がされている︒

次に︑矢の材料についてであるが︑通常の戦闘に使用する矢である征矢に

つ い

て は

矢 は 三 年 竹 の き は め て ふ し ち か き に 金 色 な る を ︑ あ ら ひ み が ﹀ ︑ は し ゃ う

やよはかりなんとて︑節ばかりかひこそげて︑とくさをもってをしみが

き︑なをもかろくておれもやせんとて︑鉄をのべて箆中のすぎまでふし

をとをして入れたりけり︒羽はとび・ふくろう・からす・庭鳥の羽をき

らわず︑藤作にまきたり︒筈こらへずしてわれくだくるあいだ︑つのを

以つぎて朱をさしたり︒矢じりは楯わり︑鳥の舌にもあらざりけり︒撃

のごとくなる物をさきほそに︑あっさ五分︑ひろさ一寸︑長さ八寸にう

た せ

て ︑

ま ち

ぎ は

を ば

箆 に

す り

き せ

た り

︒ こ

ほ り

の よ

う に

と ぎ

み が

き て

はもとにあぶらをさしたれば︑何にでもはたとあたらば︑あなたへっと

とをれとこしたへたり︒いかなる大磐石︑鉄の築地なり共︑たまるべし

と も

み え

ざ り

け り

と 表

現 さ

れ て

い る

そこで︑この矢は一般に使われていた矢と何がどのくらい違うのかを比較

してみる︒まず箆(矢の軸の部分)の部分であるが︑三年竹は︑強度のある

竹で一般的に使用されるが︑為朝は︑節近で金色と特に強度に優れたものを

選んでいる︒しかし︑この竹で作成した箆でも弓の強さに対して強度が不足

するということで︑通常は表面の皮の部分を削って平滑にするところを︑節

の箇所だけ削り取って皮の部分は残し磨いて使用している︒更に︑通常の矢

では織を箆に固定し︑強度も増すように中子(矢の中に差し込んだ矢尻から

つながる細い棒状の鉄製の軸)を矢の長さの一割から三割くらいの長さで差

ノ 、 、

し込んで作成しているが︑それではまだ軽くて折れてしまうであろうと︑矢

の強度を増すために矢の全体の長さまで差し込んでいるとある︒従って︑こ

こでは強弓に相応した重量と強度のある矢を使用していたということを表

し て

い る

次に羽については︑後述することにして︑筈であるが︑筈については通常

征矢は箆に直接切り込みを入れて筈としていたが︑それでは弓の反発力の強

さに負けて割れるので︑別に角で筈を作り差し込んで使用していたとある︒

その次の矢尻(鍛)であるが︑矢尻は楯わり︑鳥の舌などの細身で先の尖

った一般的に使用されている形状ではなく︑撃のような形の以下のような矢

尻を使用したとある︒その矢尻は先を細くした︑厚さ一センチ五ミリメー

トル︑幅三センチメートル︑長さ二四センチメートルの撃状に作成し︑

箆にかぶせるようにしてきっちりはめ込んだ矢尻を使用したとある︒通常の

矢は︑重いものでも二百グラムくらいではないかと推定されるが︑この矢は

矢尻のサイズ及び中子が箆全体に差し込んであることから推定して重さは

一キログラムくらいにはなる矢となる︒いくら強弓を引いた大男が使用した

と し

て も

︑ 実

用 的

に 飛

ば す

矢 と

し て

は 重

量 が

あ り

す ぎ

る と

考 え

ら れ

る ︒

ま た

鋭く光るように砥ぎ磨いて︑刃に油をつけたもので︑なんでも中れば射通す

ような︑非常に貫通力が強い矢になっているとある︒従って弓の強さと︑そ

れに相当した矢を使用し︑想像を絶するような矢を飛ばしたと言うことにな

る︒実際には現実的ではなく誇張した表現ではないかと恩われるが︑この弓

と 矢

で 射

を お

こ な

っ た

と し

た ら

ど の

よ う

な 矢

が と

ぶ の

か ︑

矢 の

速 さ

︑ 飛

距 離

そ の 威 力 な ど に ︑ 非 常 に 興 味 を 引 か れ る と こ ろ で あ る ︒

古 活

字 本

で は

︑ 後

述 の

戦 闘

の 場

面 で

(10)

三年竹の節近なるを少をみがきて︑山鳥の尾をもて作だるに︑七寸五

分の園根の︑箆中過て︑箆代のあるを打くはせ︑しぼしたもて兵ど射

る ︒

とあり︑ここでは︑鍛は長さが二十二センチ位有る園棒状の先を撃の様に平

らにして刃をつけたもので︑矢の長さの半分以上の長さまで中子が入ってい

るものになり︑これも前述の織と同じようにかなりの重さがある矢という事

に な

る ︒

最 後

に 矢

羽 に

つ い

て は

羽はとび・ふくろう・からす・庭鳥の羽をきらわず︑藤作にまきたり︒

と あ

る が

︑ こ

の こ

と に

つ い

て ︑

須 藤

敬 氏

は ﹁

源 為

朝 論

﹂ 一

δ の な か で ︑ 通 常 戦

場で使用する征矢の羽としては使用されない種類の羽であり︑狩のときに使

用する野矢の羽としては使用された種類の羽であって︑本来征矢と野矢は明

確に区別され使用されたものであるとし︑このことから野矢も征矢と同様に

戦場で使用したという記述に注目して為朝の人となりについて語っている︒

この矢に使用された羽の種類については︑ここでは弓具としての矢について

追 求

し て

み る

こ と

に す

る ︒

矢 の

用 途

と し

て 征

矢 と

野 矢

が あ

げ ら

れ て

い る

が ︑

弓 道

辞 典

一 一

一 を

み る

と ︑

征矢軍陣に用いる矢︒敵を征する矢であるが故にかく書くと云う︒(中

略)羽は三立︑鷲の羽を本とする︒(以下略)

野矢矢の一種︒矢を用途の上より分けた名称である︒征矢の簡略なも

の︒狩猟に用いる︒(中略)羽は何羽でもでも矧ぎ(以下略)

と記されている︒従って︑為朝は野矢に使用する羽を使用しており︑野矢と

して作られた矢も征矢と一緒に使用していたということになりそうである

が︑瀬尾石根氏の考察によると︑実際に矢羽について関心が深くなり︑故実 がいろいろと言われる様になったのは平安の中末期に至る過程においてで あり︑源頼朝により鎌倉幕府が聞かれ武士の時代になって武家故実が形成さ れていく過程で矢羽についても鳥の種類︑矢羽の文様などとその用途の関係 が明確化されていったと考えられている︒それまでは︑堆尾と黒羽(所謂鷲 類 を は じ め 諸 烏 の 雑 羽 を 総 称 し た も の と 推 察 さ れ る ) が 非 常 に 多 く ︑ ま た ︑

特別な用途以外の矢については︑堆や山鳥の如きは比較的容易に得られたと

見 へ

て ︑

甚 だ

多 数

に 使

用 さ

れ る

よ う

な 矢

に 矧

が れ

て い

る 一

二 と

い う

こ と

か ら

この時代ではあまりこだわらずに入手しやすいものも使用していたことが

推 測

さ れ

る ︒

ま た

︑ 矢

羽 の

価 値

に つ

い て

も 記

述 が

あ り

︑ 鎌

倉 時

代 に

な る

が ︑

又建久元年十一月︑威風堂々初めて上洛した頼朝は︑黄金鷲羽を朝廷へ

献 上 し て お り ︑ 或 い は 家 臣 よ り の 引 き 出 物 等 に 枚 挙 に 逗 が な い 程 で あ り ︑

これを容れるのに蒔絵の羽橿を使用するようなことも見えるのである︒

と記述されており︑鷲の羽は非常に高い価値を持っていて︑誰もが容易に使

用できる矢羽ではなかったことが推測される︒事実︑大将の矢として使用さ

れ︑時代が進むにつれ羽の種類も大将の矢はその他の武将が使用する矢と区

別 さ

れ 決

め ら

れ て

い っ

た ︒

一 一

為朝の矢について他本を見ると︑半井本では同様の記述がされているが︑

古 活

字 本

で は

五人張の弓︑長さ八尺玉寸にて︑つく打たるに︑三十六さしたる黒羽の

矢 負

と あ

り ︑

前 述

の 黒

羽 を

使 用

し て

い る

こ と

が 記

述 さ

れ て

い る

ま た

︑ 野

矢 に

つ い

て は

﹃ 座

右 書

﹄ 一

酉 に

L

(11)

一岡本記伝野矢と云うは白箆の征矢の事也他流也(貞丈云野矢をば

し﹀や共云うなり日本記に猟矢の二宇をし﹀やと云也し﹀は鹿也狩

の時射る故し﹀矢と云狩は野山にてする故野山にて射ると云儀にて

野 矢

共 云

也 )

とあり︑為朝はこのころ多く使用されていたと考えられる黒羽を使用し︑そ

のほかに記述にあるような狩に使用されるような羽も使用していたことに

なるが︑矢の数を確保する必要があったためいろいろな羽を使用したという

ことであり︑為朝の時代では決しておかしな矢羽の矢を使用していたという

こ と

に は

な ら

な い

と 考

え ら

れ る

現在では︑武家の時代に確立されていった矢羽の使用が受け継がれてきて

いるが︑一方で︑鷹︑鷲の類は減少し保護されて捕獲できないことから︑保

存されている羽を使用する一方で︑七面鳥などの羽を鷹や鷲の羽の模様に染

めるなどして見た目を整えることで︑一般の大量の需要に対応している︒こ

この記述については︑半井本では嫉の記述が以下の様になっていて少し違っ

て い

る ︒

矢ノ尻ニハ︑楯破︑鳥舌ニモサキボソニスリミガキテ︑油ヲゾサシタリ

ケ ル

と あ

り ︑

通 常

使 わ

れ る

嫉 が

使 用

さ れ

て い

る こ

と に

な る

矢には征矢のほかに

上矢のかぶらは︑生朴・ひら木なんどをもって︑目の上八寸八角にをし

けづり︑目九さしたるに︑薙歯一寸︑手六寸︑わたり六寸の大がりまた

ねぢすえたり︒三峯にすりたてへみねにもはをつけたりければ︑小長

万をこうちたがえて︑瓶子にたてたるにことならず︒からはしら箆に︑

山鳥のはをあわせはぎに︑こうの霜ぶりをまぜて︑もと四だてにぞはぎ

たりける︒廿四さしたるえびらの上に︑此大かぶらを四すじさしそえた

る は

︑ 森

の 中

に 高

き 梢

の 一

む ら

さ し

あ ら

は れ

た る

が ご

と し

と 記

述 さ

れ て

い る

鏑 矢

が 使

用 さ

れ て

い る

鏑 矢

は ︑

射 る

と ﹁

ヒ ュ

l ﹂という音がするので︑広い野で方向を指し示した

り︑合戦の開始の合図として︑あるいは矢合せの始めに互いに敵陣に射かけ

るために使われた︒また︑中世には鏑矢一手(二本)を﹁上差矢﹂として戦

場に携行する習わしがあり︑敵の大将をを狙うときに使用された︒上差矢で

はない矢で討ち取っても﹁流れ矢﹂にあたったものとみなされ︑射手の武功

に は

な ら

な か

っ た

と も

い わ

れ て

い る

こ 五

o

為朝の鏑矢はここでも一般に使用された鏑矢と比べると相当大きな物で

あったといえる︒まず鏑の部分であるが︑通常は﹁かぶらは長さ三ふせ目四

つぬた目なるべし﹂とされ︑長さは約六センチメートル︑目を四つ開けた鹿

の角製ということになる︒これに比べ︑目の上八寸とあるので少なくとも二

四センチメートル以上あり︑太さも相応の太さに作られていると推定される

かぶらなので︑材質も朴の木などを削った物が使用されたのは必然であった

といえる︒ちなみに︑通常の物でも朴の木は使用されていたようである︒更

に鍛のかりまたについても刃の部分が幅約三センチメートル︑長さ約一八セ

ンチメートル︑開いた二つの刃先の間隔が約十八センチメートルと巨大なも

の で

︑ 小

形 の

長 刀

の 刃

先 の

よ う

に 研

︑ ぎ

あ げ

で あ

っ て

︑ そ

の 長

万 を

大 き

な 銚

のような酒を入れる瓶に差し立てであるようなものということでかぶらと

織 の

大 き

さ を

誇 示

し て

い る

半井本でも同様の記述になっているが︑わたり六寸に対しナビパ八寸とあ

り 刃

の 部

分 の

幅 が

更 に

大 き

な 物

と し

て い

る ︒

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