――目次――
論文
1,
根本的経験論と宗教:ウィリアム・ジェイムズの宗教論, 村野宣男, Radical Empiricism and Religion,
Nobuo MURANO, pp.1-19.
2,
平田篤胤と民衆基層信仰, 井上順孝, Atsutane HIRATA and Basic Folk Belief, Nobutaka INOUE,
pp.21-42.
3,
唯識思想における否定, 横山紘一, Negation in Vijñaptimātra Doctorine, Kōichi YOKOYAMA, pp.43-69.
4,
カール・バルトの聖書釈義における歴史的-批判的方法, 宇都宮輝夫, Die historisch-kritische Methode in
der biblischen Exegese von Karl Barth, Teruo UTSUNOMIYA, pp.71-95.
書評と紹介
5,
鈴木秀夫著『超越者と風土』, 後藤光一郎, Kōichirō GOTŌ, pp.97-101.
6,
米地実『村落祭祀と国家統制』, 宇野正人, Masato UNO, pp.101-105.
7, Charles Y.Glock and Robert N.Bellah(ed.), The New religious Consciousness,
森村信子, Nobuko
MORIMURA, pp.106-109.
8, S.H.Nasr, Islam and the Plight of Modern Man,
鎌田繁, Shigeru KAMADA, pp.109-112.
Ⅰ㍉フラグマティズ
ムロ
の神
二
・﹁宗教経験の諸相
ヒ
の神
三
、﹁根本的経験論﹂と﹁プラグマティズム
ヒ
四
、純粋経験とプラグマティックな
神
五
、根本的経験論と宗教
ウィリアム・ジェイムズは矛盾する二つの視点
から神と人間の関係を立てる。一方において神は
、全知・全能なも
教
のではなく、神の世界の実現のために人間
の
助力を必要とする。ここでは、人間の意志的
活
動
が要請される。しかし・
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と
同士示教経験の諸相
L
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前書に見出されるが、﹁プラグマティズム
ヒ
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者の視点が強調され、
根
﹁宗教経験の諸相
L
では、後者が強調されている
。このように全く異った二つの観点から立て
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れた神と人間との
関
根本的経験論と宗教
ウィリアム・ジェイムズの宗教論村野宣男
1 て 1)る
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は 真理性を判定する方法であり、観念の真理性 は 、それがもたらす実際的効果によって決定され る 。すな む ち 、 観念の真理性は・われわれを取巻く世界の問題 を 、いかによく処理し得るかによって判断される のである。した て プラグマティズムの方法は実証的であり・ 観 念の検証化貧ミ ぃ Ⅰ ぃ op ︵ ざ口 ︶が常に問題となって くる。ジェイ ム 、﹁例えば、プラグマティズは 、 常に個物にかか わる点で唯名論に同調し、実際的側面を強調す る 点で功利主義 ハ 2 ︶ 言葉上の解決 や 、無音 ゅ 味な疑問や、形而上学的 抽 象 を避ける点で実証主義に同調する。﹂としてい る 。しかし、 ジ ︵ ll ︶ 概念の実際的効果を辿ることによって、概念を 解釈しょうとするのである。﹂フラグマティズ ム は 、観念の妥当性あ (2) 2 ぬ か に ズ
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観
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矢口 目 な ィ と 験 の の れ 白 し ん ぽ 、 現 包このようなプラグマティズムの方法によって
、ジ
エ
イムズがどのような宗教的観念を真としてい
るかをみたい。
ジ
教ェイムズは、形而上学的
神
観念に対して
一
応の意味を認める。例えば、汎神論的ヴェーダ
"'" 刀ド
緩 グマティックな価値をもつ宗教が存する。記者、そして私はその一者である。﹂という
︵ ド u ︶
卸
つの生命、一つの真理、一つも
焚
、一つの
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善
、一つの神口私はこれを
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り引用したのであるが
う
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ック
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3 (3) ︵ 4 ︶ 性が存している。こ観赤
る念
し ジェ りで な うがす
でなが
伺い
0 ェ ィ ムズ のい う 功利主義は 、 単に世俗的功利主義では なく、実証主義も論理実証主義的な意味に解 されてはならな シェイムズは、﹁真理を決定するに際してプラグ マティズ ム の唯一の検証方法は 、 何が最上にわ れわれを導くか、 生の各部分に適合するか、何が一切の経験の要 求 全休 と 結びつくかである。もし、神学的観念が 以上の要求を充 ら ・とりわけ神の概念がそうであることが判明 するなら、どうしてプラグマティズムは神の存在 を 否定すること きようか 0 プラグマティズムは、プラグマティ ック にあのように成功をおさめた観念を " 真でな い :と取扱 うよ ︵Ⅰ 3 ︶ 鮎生息味なことはしない。﹂として、宗教的観念の 意味を強調する。われわれを取巻く世界は 、 単に 物理的外界ばか なく、内面的精神の諸相も含むのであり、ここ から道徳的・宗教的領域もプラグマティズムの 課 題 となる。 又 、 イムズのい う 実証主義も、論理実証主義のよ う に 価値判断を捨象するものではなく、﹁実際的効 果 ﹂という語が ているよさに、観念がわれわれの生にもたらす ところの価値的意味が問題となっている。プラグ マティズ ム は 、 の 真理性をわれわれの生を軸として論ずるのであ るが、生は多面性をもち流動的で、一義的には 規定されないと より・一つの観念の真理性が一義的に決定され ないことになる。ここにフラグマティズ ム の真理 観の特徴と困難ており、次のように述べられる。﹁ 神 自身は 、簡 単にい うと 、われわれの信仰から力強さと押目 身の存在の増大を獲 得する。私自身としては、この世の汗と血の悲 劇は 、この考えを前提としない限り何を意味して いるか理解すること ができない。もし、この生活が成功によって 何 ものかが獲得される真の闘争でないなら、すぐ 席 を立ぅて 構わない 素 八割にすぎないであろう。しかし・この生活は 真の闘いのように思える。あたかも、われわれの 理想と信仰をもって われわれの精神から生命を奪 う ことを強調する のである。ジェイムズが真なるものとして呈示す るところの神は次の よう に語る。﹁私は・それが救済されることに 関 して不確である世界、すなわち・その世界の完 成は単に条件付きで - 托 ︶ ある世界を作ろ う と思 う 。その条件とは、それぞ れの人がそれ自身のべストを 尽 すということで ある。﹂﹁信ずる意志﹂ では次のように述べられる。﹁最上にして最良の 応答をもって神の創造の業に協同することが、 神 がわれわれに望ん でいるものと思われる。神を瀧げに思索し尽して しまうことではなく、又、神を理論的に解消し てしまうことではな ︵・ i , ︶ く 、この ょう に神の目的に協同することに、 わ れわれの運命の真の意味が存するのである。﹂ ナ ﹂ のような全能でない 神 ・人間の意志的助力を要求する神が、ジェイ ムズのフラグマティックな 神 なのである 0 ︵は︶ ンエ イムズは、ヴェータンタ哲学のような観念 を ﹁ 軟 かい型の思考﹂のものとして、病める魂は このような観念を ︵Ⅱ W ︶ 必要とするという。一方、人間と協同作業を行 ぅ 神の観念は、﹁硬い型の思考﹂による。ジェイ ムズ にとっては、﹁ 軟 い 型の思考﹂は受け入れ難く、﹁世界はともかく 全体的に救われているという観念は、あまりに も 甘く耐え難いもの ではあるまいが。﹂とする。世界にある程度の困 -4 ︶ 難 が存在する方が、われわれの活力を刺激する と ジェイムズは考え ハ山しし 無関心主義の方法である。これに反論するもの は 、この方法を精神的阿片にたとえる。﹂として 、このような観念が 念は精神的休暇を与えることを認める。︵ 8 レ シェイムズはこのような相観念に対して﹁これ は 有名な静寂主義との
を持っているのである︵
7
︶。﹂と述べる。ジェイ
ム
ズは
、意志的活動に疲れ果て、挫折した人間に
とって、これらの
観
4
記 イムズは コ 宗教経験の諸相口において、 宗 教の生きた姿は観念の中ではなく宗教的感情の中 にあるとして次のように 織 述べる。﹁私は、 感清 が宗教の淵源であり、・
・・︵
, 9 l ︶ 哲学的・神学的図式は、原文を他の言葉に翻訳 すると同じように二次的祁な
産物であると信じている。﹂ここに、プラ グ マティックな 神 観念が 、 果して コ 示教経験の 諸相 ヒに 述べられる宗教︵ 根 経験と接合し得るかという問題が生ずる。﹁ み 本数 経験の諸相口における宗教経験の分析をみるこ宗教
ノックな 神 観念は、たとえ検証の結果 真 となる 可 能 性を持つものであっても、哲学的概念に過ぎ ないといえる。ジェ マティックな相観念を過剰信仰として世界にかか わろ う とする。﹁プラグマティズム L では、 神 はあくまでも観念と して捉えられており、その神がわれわれにとって 有効なる生きたものとなるかはいまだ知られて いない。フラグ マテ -8 l ︶ ヘ 7 Ⅰ ︶ 信仰あるいは信仰への冒険は、事実上、証拠を もたらすのに必要であるとされるのである。﹂ ジ エ イムズは、プラグ ﹁ 生 ﹂の 基 ジェイム 能 性を持つ な神 観念を げる。何故 調は 、﹁硬い型の思考﹂に同調するものであり・ ここからプラグマティックな相観念が成立する のである。 スは 以上のようにプラグマティックな 神 観念を呈 示するが、ジェイムズにとってこの神観念は真 となる 可 ものに過ぎないのであって、具体的経験の中で 検証されたものではない。ジェ ィ ムズはプラグ マ ティック 検証以前に真とすることは独断であるとして 次 のように述べる 0 ﹁プラグマティズムは独断的な 答えを 避 ならわれわれは、どの宗教が長い目で見て最も よ く働くかをまだ知らないからである。人間の種 々の過剰 ︵ 埼 @ ︶ 傾向性があるであろう。﹂と述べられる。プラグ マティズ ム では・人間の﹁ 生 ﹂に有効な観念が 真 とされるが、その るとして、 人間には、 ﹁ , ﹂ れは ・実際的なことを行 う 上において、勇気 と よ ぶものと同じ精神的特質である。そして 活 力 のある 危険が世俗的活動に刺激を与える よう に、哲学 的 信条におけるある種の不確かさを享受する非常 に一般的 救われる必要のある真に粗野なるものがこの 宇 宙 に存在しているかのごとくである。:・このよ う に 半分粗野で、半分 ︵ 巧 ︶ 救われている宇宙が、われわれの性質に適合し ているのである。﹂ 又 、信仰とは、不確かなこと を 引受け ろ ことであ一 " 一 コ 示教経験の諸相口では、具体的データーに基づ き、宗教経験の有様が詳細に分析されている。 , ﹂の分析における 神と自我の関係をみるとき、神は人間の自我に 対して常に優越するものとして現われ・人間は自 我を放棄し 、 神に 服 従 するものであることが理解される。神は人間 に 慰めを与え・勇気づけ、エネルギーを与えるも のであり、自己自身 の 完成のために人間の助力を必要とするものでは ない。人間は 、 常にその意志を神の前に放棄し 、 神に服従するもの である。 シェイムズは・宗教経験を回心の結果における 神 秘 的経験として捉えている。回心に至る過程に おいては、 意 亡心的 努力が必要とされるが、︵ o 2 ︶ 回心そのものは、自己 放棄︵の 四 h. の 目 お臣 縛 ︶によって達成されるとし て 次のように述べら れる。﹁最も随意的に形成された再生の種類にお いても、部分的な自己放棄の過程がさし挟まれ ている。そして、 ほ とんどの場合、意志が熱望されている完全な統 ム ロ へと接近すべく最大の努力をしたときに、最後 0 段階は他の 力 に残 ︵何 れ ︶ されており、意志の助力なしに行わぬ ぱ ならない 23 に思われる。いい 換 れば、自己放棄が不可 欠 なものになる。﹂ 自 己 放棄において達成された宗教経験そのものに おいて・自我の意志的活動は存在し得ない。回心 の 結果における神秘 的 状態の特徴としてジェイムズは、﹁ 一 @m いカ の 支 配 ﹂と﹁受動性﹂︵ 3 2 ︶ を挙げているが、自我は宗教 的 対象の下に支配さ ︵㌍︶ れ 服従しているのである。この高 いカ の支配に より人間は次のような恩恵を受ける。﹁その中心 的なものは、悩みの 消失であり、全ては究極的に良しとされる感覚、 すなわち平安と調和である。そして、たとい 外 的な状態が同じであ を 検討したい。 (6) 6
根本的経験論と
宗教
観
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7 て 7) ろ う とも、生きようとする意志である。﹂すなわ ち 、人間は安らぎを与えられ生きる力を得る。﹁根本的経験論﹂は、ジェイムズの死後。一九一 二年に出版されたものである。しか ﹁心理学原論 口 ︵ごて㍉﹁∼さ い ∼も∼羽東㍉ めセぃオ も∼ 0 呵臣 ︶にすでに根本的経験論の繭 芽 がみられ、 ︵㌍︶ 点から研究対象となっている。﹁心理学原論 ヒに お げる方法の独自性は、あくまでも経験 観点から人間の精神現象の選択性および目的性 が 主張されている。しかし、﹁心理学原論﹂ し 、一八九 0 年に著された この書は最近、現象的学視 に 忠実であることで、この には、いまだ精神と物質、 一 一 一 いうことによって人間に働きかけている。ジェイ ムズ は、この神観念において古本教経験に基づく 宗教的生き方と意志 的 ・道徳的生き方の双方の調停を計ろ う とした とも考えられる。しかし・この調停は失敗に終り ・事実上プラグ マテ ック な 神 観念は道徳的色彩が濃いものとなって いる。ジェイムズ自身この試みに疑念を懐い ており、﹁私は、ここ で 公式にプラグマティストとして話すことはでき ない。しかし私がいえる全ては、私自身の ブ ラ グ マティズ ム がこの ︵㎝︶ ような道徳的見解をとり・全体的な和解を放棄 することに何等反対しないということである。﹂ と 述べている。 ﹁プラグマティズム ヒと ヱ % 教 経験の諸相口にお げる 神 観念の矛盾を、宗教経験の中にこそ宗教 の 生きた姿がある として、プラグマティックな 神 観念を単に観念 的なものとして排斥することによって解決すべ きであろうか。ここ で、これら 両 書の立場を包括する新たな視点を ﹁根本的経験論口の中に求めてみたい。プラグ マ ティズ ム は、その内 容 をみるとき、根本的経験論に同調するものと 解釈することができる。宗教経験もその淵源は 、 純粋経験の中にある と 考えられる。ジェイムズ自身は、根本的経験 論の下に体系的な宗教論を展開していないが、 ジ エ イムズの哲学と宗 教諭 は 、この視点の下に体系 づ げられるべく 方 向づ げられているとみることができる。 (8) 8
別は 、意識的経験において認められるにしても 実体的な意味での区別ではないとして、意識的経 験の背後に存在する 主 ・ 客 未分の純粋経験を立てる。主体と客体は 、 純粋経験が自から意識的経験の場に移行するこ とに よ りはじめて 生 ずる機能的存在であって実体的なものではない。 純粋経験はここで、内的観念的要因として考え られているものでは ︵ 5 3 ︶ なく、あくまで二元論的実体を超越した存在で あることに注意せねばならない。 ︵ 6 3 ︶ シェイムズは、﹁純粋経験は、生命の直接的流れ に 与えたところの名である。﹂としているが・ 更 に 純粋経験の性格 を 思考との関連の上に次のように規定している。 この直接的生命が支障なく進行している場合、 純粋経験の状態はそ のまま持続する。しかし、この直接的生命は 、自 己 充足的ではなく、自己の意識化の過程を通して 、自己を調整せねば ならない。﹁もし純粋経験が常に完全であるなら ぱ 、その経験の諸項を分離したり、言語化する 必要は生じなかった ・純粋経験の危機的状況において喚起される 磯 能 的存在である。﹁物質的 対比されるような思考の根源的素材は存在しない 。経験の中には、思考が 一 %
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根 かの経験の傾向は、生命に実際的関係をも っているなまの経験における諸要素が、その連続 性から分析され言語化さ 9 (9) 対象等が区別された二元論が消失している。 こ のような 主 ・客の区 主観と客観等の であろうとする ﹁根本的である 直接経験される 二元論を立てる古典的経験論の残 津 があり、論理 絢一貫性が見られない。ここにみられる経験に 忠実 方法を徹底的に推進したのが﹁根本的経験論 L である。ジェイムズは、根本的経験論の原則とし て、 ためには、経験論は。その構成要素に直接経験 されないものを認めてはならないと同時に、それ から ︵㏄︶ ものを除外してはならない。﹂と述べる 0 この 立 場は徹底され、㍉心理学原論 L においていまだ 存 在し︵ 2 4 ︶ 抹 している。﹂と述べており、純粋経験はわれわ れに知られる存在である。純粋経験は、意識的 認識の観点からは 濠 ヱ イムズは﹁直接的に知るということ、すなわち 直観的に知るということは、心の内容と対象が 同一であることを 意 ︵ 9 3 ︶ れ 関連 づ げられる程度に応じて軽減されるので ある。﹂といわれる。純粋経験は、思考の段階で カテゴリー化され、 思考は状況を認識する。認識に基づく行動の過 程を経て、危機的状況が消失するに伴い、再び 、 意識されない経験、 すなわち純粋経験の状態が取戻される。この ょ 5 に純粋経験の性格と思考の役割が規定されてい るのである。 以上がジェイムズの 日 根本的経験論 L の概要で あるが、反省的意識の前段階としての純粋経験と は 、具体的にはい かな スリ ものと考えられてい ス りかを 付 舌口 L していんこ う 。われわれに知られる経験は全て意識的経験で あるとすれば、純粋 経験は形而上的なものと思われる。ジェ ィ ムズ が 具体的に純粋経験に言及しているところに よ る と 次の通りである。 ﹁自分自身をこの論文を読むという行為の中に 捉 えてみよ。さて、この論文を読むということは 純粋経験であり、 =@ い操 れば、現象、データ、単なるそれ③ ョの ︵ の 手簿︵︶あるいは事実の内容である 0 読むという ことが単に存在しそ こにある。そして、そこに何ものかの意識がある か ・あるいは物理的性質があるかは、いまだ 問 われていない。その 瞬間においては・それはそのどちらでもない。後 になってわれわれは、それは双方のためにそこ にあったということ ︵ 0 4 ︶ を 判断するであろう。﹂﹁読むことが単に存在し てそこにある﹂という直接的生命の流れが純粋 経 験 である。しかし、 それを認識する段階に進めば、それはもはや 純 粋 経験ではなくなる。この意味で純粋経験は意識 の濠 味な状態に対比 され次のようにいわれる。﹁単に生れたばかりの 幼児、又は眠り・麻薬・ 病 、打撲により半睡 状 態 になりている人は 、 いまだ明確な何︵ 毛ゴ at ︶になっていないそれ︵ ︵ ゴ曲 ︵︶という文字通りの意味での純粋 総験 をもっ ていると想定され ︵・ 4 , ︶ る 。﹂対象を知るということをカテゴリー化する ことに解せば、純粋経験は形而上学的存在であ る 。しかし・ ヵテゴ リ ー 化をはみだした生命の流れを直観すること も 知ることであるとすれば、純粋経験は形而上的 なものではない。 ジ do) 10
根 直接的生命の流れたる純粋経験は、プラグ マテ イズムにおける観念がそこから出てそこに還ると ころのわれわれの
滑
にする機能的存在として理解することができる
0
観念は、ジェイムズの
織側
によれば、森の中で道に迷ったような
調
相酌生の破れ目に生ずるものであり、この観念の
正当性はわれわれの上に
和
よって
又
、決定されるのである。
1 ( ⅠⅠ ) き教 い う 論文においては、ある観念が世界との対応 において埋に適っている・つまりムロ 理的 ︵ hpd ざコ ニ ︶であるための 基 い う 主観的徴候が挙げられている。プラグ マテ イズムには、非概念 。﹂︵ る 34
︶
このように・プラグマティックな検証過程 は 主観的である。﹁信ずる意志 ヒに 収められてい る ﹁合理性の情緒と 展 的で調和的で満足なものとしてわれわれにや ってくるのである。この調和するところの導きが 観念の検証を意味す われが持っていた観念と一致関係にあるとわれ われが感ずる他の経験の部分にわれわれを導いて行くのであるこ
のような感覚はわれわれの能力の中に存在してい るものである。この連続性と移行性は 、一 点から一点へと・ 発 われを導いて行くものである。すな ね ち、観念 はそれが生みだすところの行為あるいは別の観念 を 通じて、最初われ う な価値判断を捨象したものではなく、観念が われわれの上にとっていかに有効であるかを 問う 為 のものである 0 観 念の真理性は、いわば観念化されていない生に 照し 合わされ、その観念がわれわれの生を如何に 効果的に導くか、 換 書 すれば、われわれの生にいかに調和するかに よって決定される。ジェイムズは次のように述べ る 。﹁観念は・われ 観念の真理性が問われ、その真理性は検証化に よって決定される。しかし、その検証化は論理実 証 主義が意味する ょ ここで・プラグマティズムの理論が根本的経験論 に 同調する関係にあることを指摘したい。プラ グ マティズ ム では ありこれより意識的経験界の全てが生ずるので ある。 味な状態とはいえ、直観にとっては確かな存在 と 思える。この生命の流れとしての純粋経験はあ らゆるものの根源で四 以上のように根本的経験論とプラグマティズム の 関係をみると き 、純粋経験とプラグマティック な 神との間に相応 関係をたてることができるのではあるまいか。 プ ラグ マティックな神は、﹁私は、それが救済さ れることに関して 不 確 である世界、すな ね ち、その世界の完成は単 に 条件付きである世界を作ろ 3 と思 う 。その条件 とは ・それぞれの 人 がそれ自身のべストを 尽 すということである。﹂ と 語る神であった。プラグマティックな神は 、 自己充足的ではなく 人間の意志的助力を要請するものである。しか し 、人間の意志的助力が存在する限り世界の完成 を 約束するというこ とは、神が人間の活動を導くものであることを 立 思抹 する。プラグマティックな神の非充足性は。 純粋経験の非充足性 に 対応し、神が人間活動を導く側面は、純粋 経 験の展開 相 である自我活動が 、 同じく展開 相 であ る 世界によって導か れることに対応するとするなら、純粋経験はそ れ 自体 神 であると結論づけることができる。純粋 経験が自からを自我 と 世界に展開する 23 に 、 神は。自からを人間 の 自我活動と世界へと展開するのである。プラグ マティックな神は 、 観念的なものではなく、純粋経験そのものであ り、 神と人間と世界との関係は、純粋経験として の神の展開 相 におい て 成立するものと考えられる。 と役割を説明するものである。﹁プラグマティズ ムヒ と﹁根本的経験論﹂はこのように調和的に 対応するのであり、 相補的にみることにより双方をよりよく理解す ることができる。 己 充足でないことより、機能的存在たる思考が喚 起されるのであるが、これはプラグマティズム における観念の発生め 生である。純粋経験が自己充足的でな い ことは、 われわれの生が自己充足的でないことを示して いる。純粋経験が自
根本的経験論と
宗教
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マテ
ノックな思考
法
に偏したものといえる。神の前に
自我を放棄する宗教
経験を考える時、純粋経験のプラグマティック
な規定性は妥当性を欠くのである。プラグマティ
ック
な展開は
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経験の一つの展開様式に過ぎない。しかし、
何
故に﹁フラグマティズムロと﹁宗教経験の諸相口
における矛盾した
二
つめ
経験様式がそれ等の根源を純粋経験の中に置
くことができるのであろうか。生命の流れとし
ての純粋経験は
、論
教理を超えた次元にあるからである。純粋
経
験は
、プラグマティックな神という径路と・
コ
ホ教経験の諸相口の神とし
利
い。もしこの
ょう
に考えるならば、純粋
経
験は
プラグマティックな方向に性格
づ
げられてし
まう
からである。現象
界
根
と
純粋経験との関係は、あらゆる論理を超えた
ものとせねばならない。したがって、純粋経験に
おいては、
神
・人間
15@ (15) 息と 助力を求めるであろう。ここには、 コ 小数 経 験の諸相口の神が要請されるのである。 日 プラグマティズムロと 日 根本的経験論白による と 、純粋経験はプラグマティックな神として 理 解されるが、純粋 経験は、﹁宗教経験の諸相﹂の神をも包摂するも のと考えることができるのではあるまいか 0 何 故 ならば、全ての 経 験的 現象は純粋経験より発しているものであり、 神秘的宗教経験も当然純粋経験を根源とするも のだからである。 純 粋 経験のプラグマティズム的展開様式は、純粋 経験の一つの様式に過ぎなく、全てではないと 考えるのが妥当であ る 。純粋経験は、﹁宗教経験の諸相口の神として も 展開し得ると考えねばならない。したがって シェアⅢ ムズぶか 同根 本 的経験論﹂の中で行った純粋経験それ自体の プラグマティックな性格 づ げを考え直さねばな らない。ジェイムズ は 、純粋経験を﹁直接的生命の流れ﹂として、 あ らゆる意識的経験の背後にある無規定なものと した 0 この見解は妥 当 なものと受けとられるにしても、純粋経験を 非充足的なものとして,その展開 相 における人間 の 意志的活動を侯 っ註 ︵ 1 ︶旧臣 - あヨ Ⅰが ヨ のの - ㌧ ベ祭晦 まぬ ト あき ぃコ隼ト 0 ⅠⅡの m のり せ の 申 o ヨ H 苗ぬ寒ぬぬ 支お 呵 0 主づ ﹁まき・︵ ヨ 0 ミ ペ 0 ﹁下目吹 @ ま p コ 00 援 屈のⅡ コ n : トのひ 0 ︶ - や ・ト ド ︵ 2 ︶出すぎ・ 、づ ・ 腱 ㍉ ︵ 3 ︶Ⅰ ヴ @ 宙 ・ - ㌧で・の ト ーの㏄ ︵ 4 ︶村野宣男﹁ウィリアム・ジェイムズの真理論﹂ ョ丘正女子大学短期大学部研究紀要﹂第一五集、一九 セ一 、参照。 ︵ 5 ︶ 憶ぺ Q 帽ま駐 ㌻ ま,や ・︶ 0 の ・世界は根源的に同一であるとも、同一でないと もいうことができない。 シェイムズは、生命に有効であるものを全て取 り 入れる態度をとった。ジェイムズは、一方にお いて宗教を倫理的 生活および自我の意志的活動と切り離すことが できなかった 0 ここからプラグマティックな宗教 観 が生れ、この宗教 親 はこの意味で生命に有効であった。しかし 他 方 、挫折した人間にとって宗教はさらに強く要請 されるものであり、 ここから口小数経験の諸相口の神が立てられるの である。これら二つの神は、その性格を論理的 に 分析すれば、両立 し 得ないものである。しかし両者は、論理を超 , えたジェイムズの生の中には共存し得たのではあ るまいか。ジェイ ム スは 、これらの二つの神を立てながら、これらの 神 が立てられる根源である生命の流れたる純粋 経験を見ていたので はないか 0 高木きよ子良 は、 ㍉ウィリアム・ジェ イムズの宗教思想口の中で、コジェイムズの 宗 教 思想をふりかえっ てみると・純粋経験に よ る宗教の解釈・分析より も 、純粋経験の思想そのものが、すでに、宗教 思想としてひとつの 様相を呈している よう に思われる。すな ね ち、 シエイ ムズ自身は宗教と考えなかった領域が 、 & 小 教 として考えられる ︵ 0 5 ︶ のではないか。﹂と述べているが、純粋経験の思 想 そのものの中に、ジェイムズの宗教観が包括 的に捉えられるので ある。ジェイムズは、純粋経験に基づく・いわ ぱ 哲学的宗教観を懐いていたと見ることができる (16) 16
︵ 6 ︶Ⅰ ヴ @ ロ ・ - つつ ・Ⅰ 0 ㏄ | Ⅰ 0 か ︵ 7 ︶Ⅰす い &.. せ口・ トつ Ⅰー トつ ㎏ ハ 8 ︶Ⅰ ヴ @ 年 ・ 、づ ・ 巨 ㏄ ︵ 9 ︶Ⅰ ヴ @ 口 ・、 b. Ⅰ㏄ つ ︵㏄︶Ⅰ ヴ @&. 、づ ・ P のⅡ ︵Ⅱ︶目 @ い - 目角︵ コざヨ窃 ・ づ蕊 ︶で﹁∼∼∼ り 0 市隠 む黒 、 p 口ロ 0 手の ﹁ 0 の 8 セの 0 コ ちづ三代 づ F@@o おづオヂ ︵ z の 毛ぺ 0 ﹁ 汀ま Ⅱ 培 ㌧ けヴ目り ㏄ ヱ 0 コの ・Ⅰ㌧ り ド の的 ひ ︶・ b. トト ︶ ︵ ほ ︶㍉Ⅰ 祭入き Ⅰ∼∼ い ま - ロ ・ トの 。 ︵ 穏 ︶ H 江 &..b.PgO ︵ M ︶片す∼ d. 、 b.Pg0 ︵ 巧 ︶ パ蕊 ゃ ︶ ﹁∼∼∼ わ 。㏄ 隠む寒 ・ ロ ・ P の ト ︵ 巧 ︶︶ ヴ @&. 、 0.0 の ︵Ⅱ︶ ジヱ イムズは特殊化された個人的信仰形態を過 剰 信仰︵ 04% まの -@oh ︶と呼ぶ。 ︵ 田 ︶㌧き心 ま a ∼∼ の ま・ b.l のの ︵ 比 ︶ 毛 @--@a ヨざヨ 8. パぎぺミむ驚 色色 トぬ ∼∼ 封ぎ浅 Ⅱ ぉ も " :∼::。: 、 ︵Ⅰ む , 口 0 : - Ⅰ。, m 臣 ,。 ロ " 、の 。。。 , 。, 口 no..p の o0 ︶ ㌧・ ミ ㏄ い ︵ 初 ︶﹁信ずる 普 生出では信仰の必要条件として 0% 早瓜が主題的に取り上げられている。 ︵ 簗 ︶ つ ぎ ぺミ ∼ ぬ ∼∼ めめ 0 ㌔お 亀 ∼ 肘 ∼ 0 悪め 憶お ㌧ ぬぺ ∼ ぬ さややめ つ怪 ︵ 2 ︶︵ す @ 口 ・ 、つ ・ い ㏄㏄ 教 ︵ % ︶ H Ⅰ @Q.b. の∼㎏ """ 刀て と ︵明ハ︶ Ib@ 口 ・・ づ ・ 242 ︵ % ︶Ⅰ す @&."bb.o のの 1 めのの 駁論 経 ︵ 為 ︶出す @&.. ち ・ い の㏄ 的 本 ︵ 笏 ︶Ⅰ ヴ @ 口 ・・Ⅱ @. ののの 根 ︵ % ︶ Ibi 口 ・, b. か ︶ の 17 (17)
︵ 豹 ︶ 憶 Ⅰロ恥 ま Ⅰ∼ 帝ま、つ ・Ⅱ㏄ ︵㏄︶ HF@ ・ ち ・︶ oN ︵ 綴 ︶Ⅰ び @ 口 ・ⅠⅠ・︶ 00 ︵㏄︶例えば次のような著作が見られる。 い rue の 韻目 の目お ・
ミ
d ∼ ま Ⅰまさままさ ミ荘 ㌧ 零 さま い d0 ︶ ∼も 咀セ 。︵白 8 き 卜 W@ バ レ 臣 ⅠⅠ トロ -D コ曲己日 y 田 ヰの Ⅱ 雀 任せ㌧Ⅰめの u. トの の㏄︶ オ -n すめⅡ ロ の侍の セ 0 コ m. ト め ぎいい Ⅰゑ生ま ぃ 牡馬ドナ︵ 帥り幅仁め @ 早田 キ ︵ @ コ 偉の之ごす ohh, トの Ⅱ 肚 ︶。 ︵ お ︶ 甘ぶ -- いり ヨ村ヨ 窃 ・ 憶 お a セ めぎ きさ まき∼ 曲 ま ちギぎ ㌻ ま Ⅰ ミ鮨 下 す Ⅰ 軋 ∼ め ∼ む目ミぎぬ ㏄。︵ z の 毛ボ 0 ︵打目口内 ヨぃコ 0. の﹁ 0 の コハコロ の 0 :田の臼㏄︶ , b. ムド ︵ 解 ︶思考 宙す 。 E の ぎ ︶は 、ジヱ イムズにおいて、感覚 も 含めた意識的精神状態一般を意味する。 ︵㏄︶ 力 ・ ロ, ㌧の ロさづ かめ ド ンも二心 ト ∼あさ黛のかⅠ ぺ Ⅰ ゑぬへ へ ヰぶ こぎ まさ ミ尽ク ︵メモ om 帝 ︵︶ 0 臣 - 寄お コ毛 8& ㌧ 5mm. 巾 年ヴ -@ 綜浅 m.P ゆ ド下︶・ づ 0 ︶Ⅰ 、 Ⅰ ポ目 . 参照。ここで。ヘリーは﹁ジェイムズにとって 根源的な経験は、本質的にいって心的でもなければ 物 的でもなく 中 立 的なもの両者に関係しないもの、非決定的なもの、 @ ア ータ、事実からなるものである。﹂としている。 ︵㏄︶ 馬 ㏄Ⅰ ヒ めぎ わ Ⅰ 潮 8 ∼ 芭まもや帝 ㌻ ま ・ ワの ㏄ ︵㌍︶ Ib@ 口 : せや ・のの 1 の㍉ ︵㏄︶ Hま
. 、つつ ・の ,朋 ︵㏄︶Ⅰ @ し @ 宙 ・・ⅠⅠ・ 0 の ︵ ゆ ︶ ロ荘 &.. づ p. ︶ 45-146 ︵ 伯 ︶︵ ヴ ∼ &.. やつのの 1 のか ︵ 蛇 ︶ 旧 ∼ --@ ドヨ Ⅰ ドヨ ㏄ 0. つ ぎ コ ヘ心Ⅰ n へミ晦 0 主 Ⅰ﹁ ま ∼ か 。 ハ 之の毛 せ O Ⅱ F@ の Ⅰのの︵ @ ミ 8 口㌧Ⅰ㏄のの - 巾仁ヴ 岸の す のⅠ n. トの の㏄︶ 、づ b. 本の l 旬 ︵㎎︶ セド Ⅰ 蝸ま a ∼∼ い ま・ づ ・ トの肚 ︵ 何 ︶ り蕊さ ﹁ 由 ∼ パ 0 田ぬ ∼∼ ぬ史ぬ , b. ㊨ ︵ 蝸 ︶Ⅱ㏄ 隠セ めぎ お Ⅰ 斗 no. ∼ 芭ま ㌧ す ぎ㌻ ま ・ やト の 丘目 のが㏄ o い ︵ 蝸 ︶ づ蕊 う ︶ ︵ 驚 ∼ パ 0 ㏄ 寵む隻ぬ 、 0.2 ∼ ︵ 好 ︶ づキぬ 六 % ∼ ぬ ∼ ご ∼ ぬめ Q ネカめ ∼∼ 入ぎ浅芭ハ ト ぬャ ∼雨蓋いつ つト の ㏄・ ト のの ︵㎎︶ 0 ∼ 0 くぃコ日セい や @ 毘 ハト㏄㏄トートのりの︶イタリアの ブ ラ ク マティスト。文芸批評家でもあり、 二 l チヱ 、ベル グソソ、ジヱイム ( Ⅰ 8) 18根本的経験論と
宗教
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シラーの思想に沿った雑誌
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三年に発刊。
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大明堂、昭和四六年、二四
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ぺージ。
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、罵倒 像 が鮮 抑 となるためには欠か すことのできぬ 篤 胤の生活史についての資料蓄積 0 間頭であった。しかし 研究﹂︵ 2 ︶が基本的資料を提出しており・また最近で は 、伊藤裕 著 ﹁大壁平田出駕風伝
ヒが 特に 篤 胤の幼年・少年時代に関 する新たな貸料を提示して、その人間像を よ り 明 確 なものにしている 0こは
駕 21辛う
いった積み重ねは研究の大前提であり、 その成果を土台としての 簡 胤の思想研究でなけ ればならない。もう一つ基層
信 るとは言い難い。これには・対象の側の要因の 他に 、研究方法においても問題点が存していたこ とが関係している。 ; 仰 り ら る 胎 L明 評 れ 評
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平田篤胤と民衆基層信仰
々しく出現した思想家の一人と捉えるのか、 のか、あるいは・神秘的な宗教思想家として ことにもなり得る。 篤 胤の思想は・多くの先行思想の重層的・ 仰いだ 官 長の説は勿論のこと、服部中庸等の ぅ 意味では、全く 篤 胤の独創になる思想とい 神道思想の体系化を図った者と捉えるのか、 国 学 上の異端として捉える 捉えるのかなどという問題は 、 問わず語りに 研 究者 自身の宗教観を示す あるいは並存的雑居状況であると言ってさしつ か えあるまい。その 師と 宣 長門人・和漢の儒学者などの説が自在に取り 入れられている。そ うい ぅ ものは極めて少ないので、 篤 胤の思想を分断 していって、影響を与え 況 でなかったことが 大 ぎく係っている。田原 嗣 郎 氏が指摘する よう ︵ 4 ︶ をょ みこむものが大半をしめている。﹂という 事 態も生じた。 驚風 に 対する評価が多様性に富んでいるという 背景にこれらの 妻 は 、評価の多様性は研究者の側の視点の置 き 方の 相違として捉え ろ 思想を素材として、そこにどのような問題点を 提起しょうとしたの いうこと自体が篤胤の評価にたとえ無意識的にし ろ 決定的な作用を 平田篤胤は・その形容 語 として、国学者、神道 思想家、復古神道 せられる。平田篤胤という固有名詞の前にこ う いった形容語を付す ような思想史的あるいは宗教史的脈絡の中で 篤 胤を研究しょうとし に 、このことはまた・研究者がどのような形で 篤 胤に 直面するが と に 、﹁平田単のなかに、皇国史観風の自己の意 見 因も少なからず関与していると思 うが 、基本的 ケ @ し れねばならない。つまり、研究者が篤胤の行動 や か 、あるいはそこから何を言お う としたのか、 と 及ぼすのである。 家 ・あるいは国学的神秘主義者といった名辞を 冠 るということは、一般的には、その研究者がど の ているかの指標を示すことになる。それと 同 時 いうことの表示ともなりうる。罵倒 さ 、近世に 華 る
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(22) 22平田篤胤と民出基層信仰
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こ た に 回 思 われる先行思想に還元してゆけば玉葱の皮を次 々にむいてしまった後のように何も残らなくなる 恐れもある。 ︵ 5 ︶ 孝雄の研究以来、 篤 胤の学問は神家・文案・ 医 家 ・ 易家 ・暦家・儒家・仏家・兵家の所謂﹁八家 の学 ﹂という なっているが、その内容はというと・ほとんど がこれらの思想に対する 篤 胤の注釈から成り立っ ている。こ う 事実を前にすると・ 篤 胤の思想が結局は単なる 寄せあつめに過ぎないのではないかという疑問も わいてこよう れだけの思想を包括しょうとした所には 篤胤が 独自に持っていたある凝集 力 が作用していたとみ るべきであろ の 思想を宗教的次元で凝集させているものは何か 、またそれはどういう外的要因と絡ませて考え ていくことが なってきているのか、という問題意識がこの 小 論の出発点である。この問題は篤胤の著した多く の 書で検討で れども、以下では仏教、儒教、俗神道への批判 と 、他界への関心とに注目して論を進めたい。 そ こには、 篤胤 社会への生の関心が写し出されており、驚風の 士 示教性の間 題 、 篤 風と民衆基層信仰の関係を考察 するに格好の 並んでいるからである。(24) 24
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乎の情に背くような戒律を定めても・所詮
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篤 胤の考え方であった
25 (25)
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即イテ ヰル 証抜 二八、此間中シタル通り 釈 迦ノ死ン ダト 聞ク カノ法師 ノ輩ハ、人ノ真ノ道ノオフ失ヒ 、兵甲 スル で。 トテハ、死 ンダル 先ノ ﹁ノミ 申 と朽ク微 ハ g ︶ シキ、人ノ 死骸 ナ ソドヲ、朝ョヒ二 取扱 ヒ、人ノキ ラヒ 棄 タル 物ナ サテ佛法ノ趣 、 澤迦ノ教ト云 モノ ハ 、 此 通り、 人 ノ眞ノ 桂二 % ッテヰル兵弟子
々リシ 羅漢 共 デス ラ、ヵノ阿 ウ @ レ @ キ れるものが釈迦の言ったことや行動をそのまま 伝えているとは考えられないとか とする、大乗非仏説的観点からのものもある。 し かし、後者の問題についてはこ 点 、それに仏教徒が我が国の神々を敬わぬのを 非難した点について取り上げるこ さて、では人情に合わないとは、具体的にど う レ ナⅠ ノ ことを山片帆して舌口ったのか。 舌口薬 をニ 、 三 引用してみよう。 サテ右ノ 通り 澤迦ノ ハジメタル仏法 ト云フ モノ ハ 、死生 ヲハテ レ、三界トイ ブ ルポ 故 、君父 ヲ モス テ 、妻子 ノ 愛情 ヲモ浄 クハ ナ レ 不バ 得 ランストイフ 乙教デ、 ・後代の教義が仏説によっていない こでは割愛し、人情に合わぬとした とにする。 ﹁出定笑語口の中から、 篤胤 自身の ヲ出テ ・天地 ノ外ノ 考ト テ ラフトス ︵ 8 ︶ 眞ノ 人間二八トント出来 ヌ ﹁ デム 。0
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云テ-
え し む ょ 喜三 ま韻 " 土 l じ @ が た と っ で レ 鍛 次に僧侶や仏教信仰者が日本古来の神々を崇敬 しないことへの批判については・その根底にほ。 ほ 二つの理由を認め ることができる。一 つは、 我が国の神々は﹁名も 実 もある﹂神々なのに、それを敬わず、妄説に 惑わされるとは 清 げ ないということであり、もう一つは、神はいわば 我々の祖先といってもよい存在であるのに、 他 人の如き仏を敬 50 は げしからぬことである、という論法である。 第 一の点は、釈迦が単なる神通力を有する人間に 過ぎぬとか、菩薩な どは実体のないものだとする説と表裏一体のも のだが・我が国の神々は・抽象的存在ではなく、 ちゃんと実体を備え ているのだという信念を示している。第二の点 ほ ついては、 コ 出定笑語附録目の中に面白いたと, え がひかれている。 世ノ人ノ、佛プ有 ガタ キ モノ二五ハ 、コ、ラデ ム 。大八人 モョク云 ﹁ ヂサ ガ、ノ光ヲ
常二 ナ ンテ居ルカ (26) 26平田篤胤と民出芸
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を 元 元 に 、 い る 一 あ デ な な 持 祖 と ま 今 る 丈 が @の 与
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た お う め で だ 誉 べ ろ 27@ (27)次に、﹁俗神道大意 三 における論述に耳を傾げて みる。この書の中で 篤 胤は神道を大きく五種類 に 分けている。 第 イサ ソレハ マツ第一二神 ヲ畏レ敬ッテ、生 タル八二位 ヘル 如ク、少 カノ物モ、初穂 ハ、 イ ソモプガ棚 ノ 市聖 二ソナヘ ・ マ ウ @ タ 十九歳 ノ トキ二妻 ヲ迎ヘテ 、白魚 ト云ヲ生セタ ルヲ見 レバ、 禧記 二三十二 シテ嬰 て @ トイ ブ 事ハア + レドモ 、一一十 マヘ 二女二合 ヒ、又 ウマキ物モ随分 二好ト見ェテ、山 梁ノ 雌雄時鼓人人 ト、キぐ スノ 旨 キサカリフ ホ メ、 ︵中略︶、マタ 秘蔵 ノ 弟子 ノ 顔淵 ガ死 ンダル 時ハ 、鳴呼大我 ヲ 亡ボ セリ 杯 Ⅱ ド ・ コ マイⅠ ロメ云テ 、 禧記 二八 芙 スレ ナゲキ メダガ 、ソノ 芙ノ 余 り二働 シテ正気 ヲ失ヒ、又ツ ョク 雷鳴り、 風ナドノ裂キ 時モ 、 コ ソ方ト同ジ コ 1 ニコ ハ ガット タ 見エ、色ヲ愛ジテ恐シ ガリ、マタ主殿 シノ タグ ヒ、凡テ道 テラス 事ヲ為ル者ガ アルト、イカウ 腹 ヲ立テ、タチ -H ︶ 神や祖霊を敬 う ことふ若くして結婚し、うまい 料理を好んだこと、弟子の死を深く嘆き悲しんだ こと、道をはずれ たことをする者にはひどく怒ったことなどが、 人 間味 あふれるものとして驚風 が 孔子に共感を覚 えた理由なのであ る 。ついには、我が師と仰ぐ 宣長 に心も行ない も 似た人であるとまで舌口っている。 篤 胤の儒者に 対する一般的評価 か らすれば、これは最大級の賛辞 と 見なすことが できる。 馬風 が 孔子の中に肯定的に見出した人間像と、 儒 若一般に対する批判を照らし合わせてみると﹁ 西籍 概論﹂の骨子 は 自ら明らかとなる。儒者の説く﹁聖人の教に 依て 禽獣に陥らず﹂といった考えに真向 ぅ から 反 旗を掲げ、聖人空教 えが必要なことこそ社会の堕落の結果と主張す るのは、換言すれば、一面で、人間のありのまま の姿、生き方の賛美 であり、他面で、我が国が古来ょり正しい道の 偏 った国であることの確認である。ここにもやは り 仏教批判の理由と が 、結局 篤 胤は外国の聖人君子をもちこんで、も 同根のものを感じとることができる。幾多の例 を 挙げながら、儒者の考えに反論するという形式 って尊しとする儒者の態度に論理以前の反感を 爪判 u ⅡⅥていたと舌口,える。 をとってはいるのだ (28) 28
斗む 毛を蕪 胤 ・ ナ @ 民牙 をま @@ 審 ィきィ In