• 検索結果がありません。

事  物

ドキュメント内 『宗教研究』232号(51巻1輯) (ページ 45-48)

を 

ナヒ 日 

小  す 

る 

方申 

「 

  

」 甘り 

   を 

  

45  (45) 

  否定 

という︒ 

以上の考察によって我われは少なくとも次の結 論を得た︒ 

  ﹁概念や舌口語によっては存在の木質︐本性︑つま り 存在そのものを把握することはできない﹂ 

この︑いわば認識論的否定は ︑ 裏を返せば︑﹁ 存 在の本性・究極的存在は概念・言語をはなれて 存在する﹂ 

いわば存在論的肯定となる︒後者については 枚 数の関係上︑割愛することにして︑本論文では・ 前者の問題 

りあげて考察を進めてみよう︒  という︑ のみをと  ︵ 4. ︶ ㈹ 不 ︒ 

嬰 

言説︵㈲ 絶二 諸表示︵㈲ 絶二 諸評論 ‑ とい ぅ 五つの理由より﹁一切の尋思︵ 守キ ︶の境を 超過した 相 ﹂である  在するもの︵ 法 ︶の本性︵性︶︑つまり﹁法性﹂︵ 如才銭目 曲 ︵ W ︶とは何か︑といえば・それは﹁雑言 法性﹂︵ 曲 pP プず ナ寸づ︶ 曲 ・ 

宙才 Pq 日 P 団 ︶である︒つまり︑存在の本性は概念 やき口語を超絶し︑それによっては表現不可能な ものである︒しかる  に 我われはその 離 言の法性を理解せず︑有為・ 血 ハ為 という概念に対応する事物が実在すると思い 誤 まっている︒しか  し 事実は・ただ・有為・無為という 想 ︵のが千古 ゆ ︶つまり概念作用︵ 00 目 8 Ⅱざしがあるのみで︑ 概念に相応する実在 

的 事物は存在しない︑という︒ 

また 雑 言法性は勝義︵ 玉 3 日 ar ︵ ァリ 白垂局の対象 事物・真理︶ともいわれ︑勝義は ︑ ㈲聖者内宮 所証︑㈲無相所行・ 

のづ 申す 才ゆぷ ︶である︒存在は人︵ せ 宙 mpPp ︶と法 

我を説くのに対して︑大乗は両者とも否定して 

除いた存在一般を指すが︑唯識 楡 加行旅 は︑こ 

︵﹁ 人 と法﹂のかわりに︑﹁ 人と 通計 所執 自性﹂  ︵ 伍ず 望日じとに二分される︒小乗はこのうち人の 存在を否定して大熱 

人法二無我を主張する︒ 人 ・法のうち・ 法 とは︑ いわば生命的存在を 

の 存在一般を穏︵ 守麓宙鯨 ・の 曲 サ ゴ 曲舌 という 一 で 総称しょうとする ︵ ll ︶ と 記す例が多い︶︒そして・この通計 所執 自性の 存在を否定する︐﹂と  未 する︒ところで仏教は一般に概念的思考を強 く 否定する立場上︑ pp 日のに対する考察が深めら ね ︑部派仏教の説 一 

切 有部にいたって ︑コ 曲目のは 名 ・ 句 ・文の名 ︑つ まり︑何らの意味をもつ最小単位のことば︵ 単 語 ︶を指す よう に な 

った ︒しかもそれは不相応 行 の一つであり︑具体 的に声によって表出される 語 ? 洋 音声ことば ︶と区別される︐ っ 

まり 宙日曲 とは︑言葉に発せられる以前の概念 ︵ no 口 c の づ ︵ ざ ことでも言 う べきものである︒これ に 対してこの概念が 

昔 仝戸によって表現されたことばをサンスクリッ トは ︑ vac ︑ 注 三 瀋 ︒ づせ 壷甘腎 P  などという︒ 

ところで︑説一切有部は︑存在の諸要素︵諸法︶ を 実有であるとみる立場上︑当然︑﹁概念﹂︵ 名 ︶をも実在とみな 

した︒この有部の概念実在論に強く反 挺 したのが ︑般若・中観思想である︒例えば コ 八千 頚 般若 に ょ れば︑我われ ︵ く u ︶ がことばによって概念的に把握するものは︑﹁ 唯 だ 名字にすぎない﹂︵ 目日乱訂ぢ日緊 ra ︶︑しかも その名字さえもが 非 ︵ 8 ︶ ︵ り 1 ︶ ︵ り Ⅰ レ 有 ︵ 我乙悶 日り 目 臼 じであり不生︵目の手 ぎ pH4 Ⅱ ︵︵ 麓 ︶であるという︒また竜樹の﹁大智度論しに は ﹁名字の不可得﹂ 

が 力説されている︒つまり︑般若・中観は︑﹁ 因 縁生﹂を基本的理論根拠として︑事物︵ 法 ︶ と 概念・言語︵ 名 ・ 名 

字 ・五 m@ ︶との二つの存在を共に強く否定する   

唯識 楡伽行 派も基本的にはこの路線を踏襲する︒ しかし︑﹁ 唯だ 識のみが存在し・外界の境は存 在しない﹂︵唯識 無 

境 ︶という根本的立場より︑概念や言語そのも のの存在否定よりも︑概念や言語によって把握さ れる事物の存在否定 ︵ 皿 ︶ に 力が注がれている︒ご め ﹁概念や言語によって 把握される事物﹂が︑三白性のなかの﹁ 通 計 所執 自性﹂︵で Pq 安生息︵ a. 

(46)  46 

︵Ⅱ︶ であるが︑具体的にはどのような意味であるかを も う 少し検討してみよう︒この語に対する直接 の 注釈は見当らない 

が ︑今︑円成美︵ づ ar 三名 P コロ 曲 ︶自性の黒ま三 の 屡ロコ 欝に対する解釈から逆にお 曲 ︵レコ 抜ロ 出目のの 意味を推測してみよ ︵㌔︒︶ エ う ︒ 屯 pHP 田ゅづ倖 コロのに対して安意 は ㈹安東町︵ 不 変異︶と㈲が つぢ銭 名曲 甜 の一一つの ぉ思 味を付して いる︒つまり︑存在 

轍 

誤足 

的には変化生滅しないこと︑認識的には 謬 のないこと︑を意味する︒また﹁成唯識論﹂ 巻 第八および日向 述記 L 巻   げ 第九本でま 

円満︵ 

6 l ︶ 一 ︵・・︵体は遍にして 処 として 血 棚 きこと無し︶ ︑ ㈲成就︵体は常にして生滅に 非 ず ︶ ︑ ㈹諸法の実性︵体は お ︵ 1 レ ォ 

脱罪 

︐ ・ 虚謬 にして諸法の真理なり︶という三面 をもつから真如を円成案︵ づ ar 巨ゅ口 P ロロ 入 ︶と名付 けると解釈している︒ こ  鯉 のようにせい立ちげで 麓コ 旨はいくつかの 観占一 より解釈されているが︑いずれにしても︑それは ︑究極的真理つまり﹁ 真  推知﹂︵︵ a ︵ ず ata ︶を形容する︑あるいは指示す る 語であるから︑この語は︑存在的にも︑かつ 価値的にも︑ 

47@ 

(47) 

  

沙 とは存在的に不完全で︑真実に存在しないこと を 表わす語の よう  二つの語を用いていわれている︒   

のコ 

︶ず いせ 申す ゴ 卸せ 酋円轄   

﹁ 倫伽論 ﹂ 巻 第二一十六に﹁言説された︵キア二曲目 の ︶ものは不成美︵ る銭巨ゅで曲 コロが︵ せ じであるか ら有 ︵ ザず ava ︶で  によって︑﹁ 法 ﹂つまり存在一般を否定しようと するのである︒ 

ここで通計 所執 自性︵通計 所執 相口笛守生宮守・ ず Fwp ゼ いともい う ︶がどのような論理のもとで 否 定 されている 

唯識詰論書の所説によって考察してみよう︒ 

まず﹁解深密経﹂においては︑通計 所執相は ﹁ 真 実有ること無く︑無目性性であるⅠ︵ せ ︒打と 日 が幅Ⅱ 仁す曳ヰづ ︵は︶ サ 0  曲ド宙 日の宙で P  臣ぎ 曲で曲〜 日 あづ曲コ コ が ヰ せ 日日ずの 左手 ず卸づ 繍 ︶であると説かれている︒つまり 通 計 折敷相の否定は  か む 目 

  

い 

と 

て  の 

も一 

ぅ 

俵君一    

少  に  の 

依  ‑ 

  

  

十 

   所 

ユム   

   由    

‑ 

ドキュメント内 『宗教研究』232号(51巻1輯) (ページ 45-48)

関連したドキュメント