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方申
「
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を
45 (45)
否定
という︒
以上の考察によって我われは少なくとも次の結 論を得た︒
﹁概念や舌口語によっては存在の木質︐本性︑つま り 存在そのものを把握することはできない﹂
この︑いわば認識論的否定は ︑ 裏を返せば︑﹁ 存 在の本性・究極的存在は概念・言語をはなれて 存在する﹂
いわば存在論的肯定となる︒後者については 枚 数の関係上︑割愛することにして︑本論文では・ 前者の問題
りあげて考察を進めてみよう︒ という︑ のみをと ︵ 4. ︶ ㈹ 不 ︒
嬰
言説︵㈲ 絶二 諸表示︵㈲ 絶二 諸評論 ‑ とい ぅ 五つの理由より﹁一切の尋思︵ 守キ P ︶の境を 超過した 相 ﹂である 在するもの︵ 法 ︶の本性︵性︶︑つまり﹁法性﹂︵ 如才銭目 曲 ︵ W ︶とは何か︑といえば・それは﹁雑言 法性﹂︵ 曲 pP プず ナ寸づ︶ 曲 ・宙才 Pq 日 P 団 ︶である︒つまり︑存在の本性は概念 やき口語を超絶し︑それによっては表現不可能な ものである︒しかる に 我われはその 離 言の法性を理解せず︑有為・ 血 ハ為 という概念に対応する事物が実在すると思い 誤 まっている︒しか し 事実は・ただ・有為・無為という 想 ︵のが千古 ゆ ︶つまり概念作用︵ 00 目 8 Ⅱざしがあるのみで︑ 概念に相応する実在
的 事物は存在しない︑という︒
また 雑 言法性は勝義︵ 玉 3 日 ar ︵ ァリ 白垂局の対象 事物・真理︶ともいわれ︑勝義は ︑ ㈲聖者内宮 所証︑㈲無相所行・
のづ 申す 才ゆぷ ︶である︒存在は人︵ せ / 宙 mpPp ︶と法
我を説くのに対して︑大乗は両者とも否定して
除いた存在一般を指すが︑唯識 楡 加行旅 は︑こ
︵﹁ 人 と法﹂のかわりに︑﹁ 人と 通計 所執 自性﹂ ︵ 伍ず 望日じとに二分される︒小乗はこのうち人の 存在を否定して大熱
人法二無我を主張する︒ 人 ・法のうち・ 法 とは︑ いわば生命的存在を
の 存在一般を穏︵ 守麓宙鯨 ・の 4 曲 サ ゴ 曲舌 という 一 で 総称しょうとする ︵ ll l ︶ と 記す例が多い︶︒そして・この通計 所執 自性の 存在を否定する︐﹂と 未 する︒ところで仏教は一般に概念的思考を強 く 否定する立場上︑ pp 日のに対する考察が深めら ね ︑部派仏教の説 一
切 有部にいたって ︑コ 曲目のは 名 ・ 句 ・文の名 ︑つ まり︑何らの意味をもつ最小単位のことば︵ 単 語 ︶を指す よう に な
った ︒しかもそれは不相応 行 の一つであり︑具体 的に声によって表出される 語 ? 洋 音声ことば ︶と区別される︐ っ
まり 宙日曲 とは︑言葉に発せられる以前の概念 ︵ no 口 c の づ ︵ ざ ことでも言 う べきものである︒これ に 対してこの概念が
昔 仝戸によって表現されたことばをサンスクリッ トは ︑ vac ︑ 注 三 % 瀋 ︒ づせ p 壷甘腎 P などという︒
ところで︑説一切有部は︑存在の諸要素︵諸法︶ を 実有であるとみる立場上︑当然︑﹁概念﹂︵ 名 ︶をも実在とみな
した︒この有部の概念実在論に強く反 挺 したのが ︑般若・中観思想である︒例えば コ 八千 頚 般若 L に ょ れば︑我われ ︵ く u ︶ がことばによって概念的に把握するものは︑﹁ 唯 だ 名字にすぎない﹂︵ 目日乱訂ぢ日緊 ra ︶︑しかも その名字さえもが 非 ︵ 8 ︶ ︵ り 1 ︶ ︵ り Ⅰ レ 有 ︵ 我乙悶 日り 目 P 臼 じであり不生︵目の手 ぎ pH4 Ⅱ ︵︵ 麓 ︶であるという︒また竜樹の﹁大智度論しに は ﹁名字の不可得﹂
が 力説されている︒つまり︑般若・中観は︑﹁ 因 縁生﹂を基本的理論根拠として︑事物︵ 法 ︶ と 概念・言語︵ 名 ・ 名
字 ・五 m@ ︶との二つの存在を共に強く否定する
唯識 楡伽行 派も基本的にはこの路線を踏襲する︒ しかし︑﹁ 唯だ 識のみが存在し・外界の境は存 在しない﹂︵唯識 無
境 ︶という根本的立場より︑概念や言語そのも のの存在否定よりも︑概念や言語によって把握さ れる事物の存在否定 ︵ 皿 ︶ に 力が注がれている︒ご め ﹁概念や言語によって 把握される事物﹂が︑三白性のなかの﹁ 通 計 所執 自性﹂︵で Pq 安生息︵ a.
(46) 46
︵Ⅱ︶ であるが︑具体的にはどのような意味であるかを も う 少し検討してみよう︒この語に対する直接 の 注釈は見当らない
が ︑今︑円成美︵ づ ar 三名 P コロ 曲 ︶自性の黒ま三 の 屡ロコ 欝に対する解釈から逆にお 曲 ︵レコ 抜ロ 出目のの 意味を推測してみよ ︵㌔︒︶ エ う ︒ 屯 pHP 田ゅづ倖 コロのに対して安意 は ㈹安東町︵ 不 変異︶と㈲が つぢ銭 名曲 甜 の一一つの ぉ思 味を付して いる︒つまり︑存在
轍
誤足
的には変化生滅しないこと︑認識的には 謬 のないこと︑を意味する︒また﹁成唯識論﹂ 巻 第八および日向 述記 L 巻 げ 第九本でま円満︵
6 l ︶ 一 ︵・・︵体は遍にして U 処 として 血 棚 きこと無し︶ ︑ ㈲成就︵体は常にして生滅に 非 ず ︶ ︑ ㈹諸法の実性︵体は お ︵ 7 1 レ ォ脱罪
︐ ・ 虚謬 にして諸法の真理なり︶という三面 をもつから真如を円成案︵ づ ar 巨ゅ口 P ロロ 入 ︶と名付 けると解釈している︒ こ 鯉 のようにせい立ちげで 麓コ 旨はいくつかの 観占一 より解釈されているが︑いずれにしても︑それは ︑究極的真理つまり﹁ 真 推知﹂︵︵ a ︵ ず ata ︶を形容する︑あるいは指示す る 語であるから︑この語は︑存在的にも︑かつ 価値的にも︑47@
(47)沙 とは存在的に不完全で︑真実に存在しないこと を 表わす語の よう 二つの語を用いていわれている︒
のコ
︶ず いせ 申す ゴ 卸せ 酋円轄﹁ 倫伽論 ﹂ 巻 第二一十六に﹁言説された︵キア二曲目 の ︶ものは不成美︵ る銭巨ゅで曲 コロが︵ せ じであるか ら有 ︵ ザず ava ︶で によって︑﹁ 法 ﹂つまり存在一般を否定しようと するのである︒
ここで通計 所執 自性︵通計 所執 相口笛守生宮守・ ず Fwp ゼ いともい う ︶がどのような論理のもとで 否 定 されている
唯識詰論書の所説によって考察してみよう︒
まず﹁解深密経﹂においては︑通計 所執相は ﹁ 真 実有ること無く︑無目性性であるⅠ︵ せ ︒打と 日 が幅Ⅱ 仁す曳ヰづ ︵は︶ サ 0 曲ド宙 日の宙で P 臣ぎ " 曲で曲〜 日 あづ曲コ コ が ヰ せ p 日日ずの 左手 ず卸づ P 繍 ︶であると説かれている︒つまり 通 計 折敷相の否定は か む 目 O
い
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