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ドキュメント内 『宗教研究』232号(51巻1輯) (ページ 51-56)

︵ 舖 ︶ 存在︵ 法 リゴ pq 日の︶に固有の﹁超時間的・起因 果 的存在性﹂とでも言 う べ き ものである︒ところ で 通計 所執 自性は ︑  ︵ 田 ︶ ﹁自性とは不作法︵ りオ Ⅱ︵Ⅰ ゴ奔ウガ Ⅱ︵ キが ︶と毛 く ︒ 因縁を待って有るにはあらず﹂と定義されるよ うに自性とは︑ある  一般に︑外界に実在すると考えられる事物をサン スクリットで 曲の ミ 口 Hp4 せ曲 といい︑それらに 固有の存在性を ハ う 3 Ⅰ 3 ︶ のセ 申すず 曲 セ曲といと ノ 0  このの セ すず 曲セ曲 ︵台目 仲に ︶ とい う 語は﹁自性とは自から存在すること﹂︵の づ ヴ ゴ曲せ 建仁 のセ曲オケ卸づ斡廿 ︶ ︑ 

②ある事物を指示する名前を離れて︑その事 物を認識することはありえないから︵苦難二名 @ 二口 ‑ 役 覚不 ︒主政︶︒ ③名前は対象的事物に対して具体的に働くか ら ︵ 役 名言 依 ︒ 義転故 ︶︒ ﹁ 稔伽論 ﹂に端を発した・このような認識論的反 省は ︑無着に至って﹁顕揚聖教論日の中で次の ような 頗 としてま 

とめられるにいたった︒ 

   密 に考察することによって︑通計 所執 された 事 物すなわち概念に対応する実在的事物の非存在を 論証しょうとする 態 

度 がある︒ 

この傾向は︑すでに﹁ 楡伽論口 にその 緒端 をみる ことができる︒すなわち﹁ 楡伽論 ﹂ 摂 決択命中 間所 成意 地︵巻筆 

六十四︶で︑俊也 起 自性と 円 成美自性において 遍 計所執 自性が無である理由は﹁菩薩 地に 己に 略 して顕示した如くで ︵㏄︶ あり︑また彼の決択中にまさに広く分別する﹂と 述べ︑次いて 三 因縁によってその理由を略説し ている︒木地方菩薩 

地 における説示とは︑自尊 想事 ︵日忌 臼 ︐の㏄日日が オ p. づ のの tu ︶ と色等 仮説目性 キテ W4 曲︶ と 雑言自性 

︵ 田 チ 巨囲づ鵜 ︒ 留キずゅ 曲︶との 三 概念を用いた論 証 をいい︑ 摂 決択 分 菩薩 地 における説示とは ・ 名 ︐ 相 ・分別・ 真 

如 ・五智の五事︑あるいは三焦自性・ 三 自性に よる論証を指すのであろう︒ ム ﹁︑ここでは︑略説 として 列 ・記された 次 

の三 因縁を手掛りとして︑事物の存在がどのよ う な 理由のもとに否定されているかを考察してみ よ う ︒通計 所執 自性 

が無である三つの因縁すなわち理由とは次の如 くである︒ 

①ある一つの事物に対して数多くのさまざま な 名前で呼ぶことができるから︵種種井 一品類 々二目研二女正 ‑ 散︶︒ 

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ぅ 論理のみで論証されているのではない 0 この 他に ︑概念・言語︵ 名 ・名言︶と事物︵ 事 ・ 義 ︶ との二者の関係を綿 2   

  ここで︑この頗に対する世親の注釈および他の論 書の所説を参照しながら︑通計 所執 自性否定の 論理を展開させて 

みよう︒ 

㈹﹁ 通 計 所執 自性はなぜ無であるのか﹂ 

それは八五事に 摂 められない V からであるという ︒ 通 計 所執 自性が五事に 摂 められないというこ とはすでに﹁ 楡伽  論 ﹂ 巻 第七十円に説かれているが無着はこれを︵ l ︶ 通 計 所執 自性否定の統一的理由とみなしたのであ る ︒ 

㈹﹁では 遍計所執 自性は無であるのに︑なぜ︑ そ れを通計する執著が起るのか﹂ 

それは八名が義に於て転ずる 

からであるとい︵ 

柁 ︶ V ぅ ︒これは前記した 日楡伽 請口所説の三因縁の う ちの③に相当す  る ︒阿毘達磨仏教以来︑一般に ︑名 ︵ 忠日 

じに 

よって概念を・ 義 ︵ P ︵手が︶によってその概念が 指向する対象を表わ ハ父︒︶ 4 し︑ 名と義とおよび 語 との三者の関係において 我 われの認識構造を説明しょうと試みた︒唯識 楡 加 行派も同様の用語 

を 用いて我われの認識を考察したのであるが︑ そ の 考察が我われの認識の真偽性ないし限界性に 向 げられたことに 特  徴 がある︒すな ね ち︑我われはふつり︑﹁ある 対象︵ 義 ︶に対して概念を付与し︑しかもその 概念と対象とは一致  擬し︑かっその対象は実在する﹂と考えるが︑ 概念と対象とは一致せず︑対象は実在しないと い う のである︒そしてそ  潮 のような 誤 まった認識を起させる原動力を  ﹁言説 薫乱ド ﹂﹁諸名言薫習 之 思所建立 識 ﹂﹁ 船 長      ︵ 二リ 4 Ⅹ ︶ ハ 4 ヒ ︶  ホ︑ 貼 j 求める︒つまり・長きにわたって概念や舌ロ 説 が我われの心に植えっげられ︑我われは最早 や 概念なしには思考するこ  課 とができないのである︒ 

唯田 

﹁では︑なぜ概念と対象とが一致し対象 が 実在すると見る我われの認識は誤まっているの ︑ カ ﹂   

53  

(53) 

︵ 駝 ︶ 属すると謂 うが 如くには非ず﹂とそれぞれ注釈 している︒つまり︑たとえば︑ 八机 という名前 と﹁ 机 ﹂という対象と 

は 一定不変の結合関係︵ rtagtu プヴ r の︶つとにあ るのではなく︑両者は本質的に相異なり同一の 体 ︵ヴロがぬ 申 円仁Ⅱ 卸ゴづ の 臣 ︶ 

ではないというのが・相互客塵性の根本的意味で ある︒我われは 八机 という概念によって﹁ 机 ﹂という対象を認識 

し ︑入坑 という概念で表わされる﹁ 机 ﹂という 事物が実在すると考える︒しかし︑それは 誤ま りである︑つまり︑ 

概念と対象とは全く次元を異にするものであり ︑ある一つの概念に︑ある一つの実在的事物が対 応 するということは 

ないというのである︒とにかく︑この相互客塵 性 ということはは︑概念 

二 

@ ロま幅の虚妄性を一話 の 中に鋭く指摘したも ︵㏄︶ のとして注目される︒なお・﹁ 傍伽 経口では︑ 名 ︵ np 目 さと 相 ︵三ま︵︵ 曲 ︶とは︑相互に客塵性で あるから名と相とは 

不可得であると見るのが正智であると説がれて いる︒ 名 と義との相互客塵性がここでは︑五事由 名と相との関係と 

して把握されているのである︒  新釈では﹁︵ 名と 事とは相互に︶彼の体に 称う に りさる 

故に﹂﹁︒ 

@  力 ︵ー︶ @  ︑ 同無性 釈は ﹁一類が声と義と相 称して生じ左相に薬  それは八名と義との二つは相互に客塵である からであるという︒ 

この 名 と義の相互客塵性は︑唯識独自の観法であ る四 尋思のうちの 名 尋思・ 義ョ韓 思の中で成立し た 思想であろう 

が ・それを最初に打ち出したのは弥勒 作 といわれ る ﹁大乗荘厳経論 頚 ﹂であり︑︵ 仰 ︶無着はそれをそ のまま﹁顕揚聖教論 ︵ 8 4 ︶ 額口および コ 摂大乗論口の中で採用している︒ し かし︑客塵︵ 釦堺巳痔が ︶という概念を用いた︑ 概念と対象との不一 ︵ め ‑ 致の論証は既に﹁ 楡伽論 ﹂本地外車菩薩 地 に認め られる︒すな ね ち︑審決︵ 鐙 巨 寸曲田ず pH ョじ に 於て客愁︵ 卸的 リコ宮オ P. 

紺 田田 ぢが 働き︑さまざまの概念を設定するが ︑それら諸概念に対応する実体は存在しないとい ぅ ︒では名と義︵ 事 ︶ 

との相互客塵性︵貸せ 指 鉛銭目 客 甘さとは 具 体 的にはどういうことなのか︒﹁顕揚聖教論 ヒで は ﹁名は義に於て 体 

に称 に 非 ざるが故に之を説いて客と為す︒義も 亦 ︑名の如く無所有の故に之を説いて客と為す︵ 0 ︶い ﹂︑﹁摂大乗論 ヒ世 

(54)  

54 

  W 4w0  ︵ 言 ︶︑まゆ︵ 方 ︶ ︑す甘田 ︵ 地 ︶︑ qP ゅ日 〜︵ 光 ︶ ︑イ p 宵の︵金一剛一︶ ︑せ欝 いけ︵部 助 ︶ ︑麓ガゆ円 ︵ 温胚 ︶ ︑の せ曲 rga  ︵ 天 ︶ ︑づ ar ハ ︵ ル小 ︶ ︑の ︵㏄︶ 

︒梵音調同一の一つの自体をもつという不合理が %  九個の事物を表わすことがあげられる U 

  

︑相異なる多くの事物が       唯 以上の二一理由は︑概念と事物とを同一とみな せ ば ︑現実の認識のあり方に矛盾する点を三面より 指摘したものであ    

数多くの事物を指示する  ハ その例として的  0   ︵ 牛  ︶という一話によって 

  血 ﹁ではなぜ 名 と義とは相互に客塵であるのか﹂ それは次の三 つ 

①名の前には覚がないから︒ 

②多指であるから︒ 

③名は不定であるから︒ 

︵このうち前の二つの理由は︑前記した﹁ 楡伽論 ﹂の 三 因縁のうち ︵ 4 5 ︶ の中でも︑俊也 起 自性が通計 所執 自性と同一の 体 でない理由としてそ 

三 理由を順次検討してみよう︒ ︵ 防 ︶ ①もしも名と義とが同一︵同一 相 ・一体︶であ るならば︑義を直観し  ずである︒ところが実際は ︑ 我われはある事物 の 名前を知ってはじめ 

倖 圧覚︶ができるから︑名と義とは同一なるも   

②我われは一つの事物に対してさまざまな数多 くの名前を与える︒ と  が 多数であること より 義も多 体 となる︑つまり ある一つの事物に相異 

る ︒したがって名と義とは同一ではない︒  の 理由による︒ 所二つにあたる︒この 三 理由は﹁摂大乗論 ヒ 

のまま用いられている︶︒ 

た 時に既にその事物の何であるかを認知するは 

てその事物の何であるかを認知すること③目口︒ 

ころでもしも名と義とが同一であるならば・ 名 

なる数多くの自体がある︑という不合理に陥 い 

( ㏄ ) 

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ドキュメント内 『宗教研究』232号(51巻1輯) (ページ 51-56)

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