博士論文審査要旨
Ⅰ.論文の主題と構成
小栗誠治氏が提出した博士論文のタイトルは『中央銀行の本質とは何か ―中央銀行論 の再構築をめざして―』である。論文は序章・終章を含め以下の11章で構成されている。
序章 中央銀行論の再構築をめざして 第Ⅰ部 銀行券の債務性とシーニョレッジ
第1章 銀行券の本質と債務性
第2章 セントラル・バンキングとシーニョレッジ 第3章 銀行券の会計的把握
第4章 政府紙幣の本質およびヘリコプターマネー、MMT 第Ⅱ部 中央銀行の「最後の貸し手」機能
第5章 「最後の貸し手」機能とバジョット再考
第6章 「最後の貸し手」機能についての日本銀行の考え方とその概念の拡張 第Ⅲ部 中央銀行の独立性と財務健全性
第7章 日本銀行の独立性再考-法的位置づけと新しい挑戦
第8章 中央銀行の債務構造と財務の健全性-銀行券、準備預金および自己資本 第Ⅳ部 金融調整と内生的貨幣供給
第9章 日本銀行の金融調整と「日銀流理論」
終章 中央銀行の本質を再考する-中央銀行の公共性、銀行性、独立性および一般原則
Ⅱ.論文の概要
序章は、まず中央銀行の本質と伝統理念に関して概説し、日銀法に則り日本銀行の目的 と役割を検討した後、セントラルバンカーや識者の見解の紹介と検討を通して中央銀行の 性格や課題を浮き彫りにしている。
第Ⅰ部(第1~4章)は、不換銀行券論争、ミーゼス、小幡道昭らの最新の信用貨幣論な ど、不換銀行券の債務性に関する諸見解を検討し、 その債務性を「物価安定という責務」
であり、債権・債務関係を通じて保有され、様々な商品の合成された中央銀行の資産の支 払約束であると把握している。続いて、シーニョレッジの概念や定義と具体的な会計方法 の整理・検討を通じて、現代の中央銀行に発生するシーニョレッジが「機会費用シーニョ レッジ」であることを示し、政府への納付方法等について論じている。さらに、信用貨幣 論の観点から銀行券と硬貨を統一的に処理する会計的枠組みを提示するとともに、銀行券 の資本性にも着目して中央銀行の債務超過を仮想した思考実験により広義の資本勘定の 考 え方も提示している。また、こうした不換銀行券の債務性やシーニョレッジの理解を基に、
政府紙幣発行やヘリコプターマネー、MMT(現代貨幣理論)等の最近の所説について批 判的に検討を加えている。
第Ⅱ部(第5章~6章)」は、中央銀行の金融システム安定化政策のコアである「最後の 貸し手(LLR)」機能について、バジョットの学説の詳細な分析と代表的な4つの見解の
検討を踏まえ、「バジョット原則」の「ソルベンシー」の識別、優良担保や高金利の各論点 の解釈を示している。そして、 日銀法におけるLLR機能の位置付けや日本銀行の考え方 とともに、グローバル金融危機以降の「最後のマーケット・メーカー」、「最後のグローバ ルな貸し手」という新たなLLR概念についても検討し、主要国の中央銀行がバジット原 則を拠り所としていること、そして中央銀行が問題先金融機関のソルベンシーの識別やシ ステミック・リスクの顕現化を評価する能力を高めることが不可欠であることが示されて いる。
第Ⅲ部(第7~8章)は、統治機構に関する憲法の「権力分立」の原理にまで立ち戻り、
行政府との単線的な関係のみならず立法・司法府や国民との複線的な関係まで視野に入れ て中央銀行の独立性を論じ、さらに中央銀行の債務構造の特質を踏まえた上で、中央銀行 の損失・インソルベンシー、自己資本の問題を検討している。
第Ⅳ部「金融調節と内生的貨幣供給」は、日本銀行の金融調節に焦点をあて、その技術 的側面を分析し、それが信用貨幣に基づく内生的貨幣供給論をベースとしていることを明 らかにし、小宮隆太郎らの「日銀流理論」 批判を検討している。
終章は、 本論文全体を総括する観点から中央銀行の本質を再考し、 中央銀行が政策や 業務を実施する上で保持すべき一般原則を提示している。
Ⅲ.論文の評価
本論文は、中央銀行のあるべき姿を、歴史的視点、実務的視点、法律的な視点を織り交 ぜ、多角的かつ多面的に考察したものであり、小栗氏の長年にわたる知的営為の結実した 独創的かつユニークな研究成果である。
まず、中央銀行が発行する不換銀行券とは何かとの命題に取り組み、中央銀行にとって の不換銀行券の債務性、シーニョレッジの本質、政府紙幣との差異、会計処理の問題点な ど、幅広い議論を展開したうえで、中央銀行券、ひいては中央銀行そのものの本質を解明 せんとしており、この考察は本論文の白眉ともなっている。
また、中央銀行の「市場の中にある(in the market)」存在であるという特質を踏まえ たうえで、その金融政策を評価するべきことが強調されており、この視点を欠いた怪しげ な金融政策論が多々横行している現在の政策論議の風潮の中にあっては、極めて貴重なサ ジェスチョンを与えている。シーニョレッジに関するさまざまな議論を多角的に整理して いる点も、これからの中央銀行デジタル通貨の創設の動きなどを考察するうえで欠くべか らざる視点を思い出させてくれる貢献である。中でも、発券業務、資金決済業務などにか かわるシーニョレッジと、金融調節、国債保管・振替業務などにかかわるものとの分別の 議論の必要性を強調していることは新鮮であり、議論を一段と深めることに貢献している。
中央銀行が果たすべき重要な責務という課題においても、金融システムの安定化政策、
とくにそのコアをなす「最後の貸し手」機能について、バジョットの学説 や様々な見解を よく整理したうえで、中央銀行とは何をなすべき組織であるかを主張している。とくに、
これまでわが国では議論されることが少なかった「最後のマーケット・メーカー」( MMLR)
機能や「最後のグローバル貸し手」(global lender of last resort)機能といった側面に ついては、リーマン・ショック以降の金融危機への対応の中で実施され、また現在も持続
している政策でもあり、その丁寧な紹介は極めて貴重で、示唆に富むものとなっている。
さらに、中央銀行の独立性、財務の健全性を確保することが強く求められるとの観点か ら、憲法の権力分立論にまで立ち戻りながら中央銀行という存在のあるべき姿を描いてい る。
中央銀行実務への深い理解のうえに、地に足のついた議論が展開されており、わが国の 中央銀行である日本銀行の政策のあり方に焦点を当て、その実務面の特徴を明らかにする とともに、いわゆる「日銀流理論」などの批判に対しても中央銀行業務(日銀業務)への 正確な理解のうえに、その問題点を浮き彫りにしている。
バブル経済崩壊後に迎えた90年代のわが国の金融危機、リーマン・ショック後の世界的 な金融危機、さらには新型コロナ・ウイルスのパンデミックによる世界経済不況、といっ た一連の金融経済危機が頻発し続ける中にあって、主要国の政府・中央銀行は正常ならざ る金融経済政策を迫られ、実施に移してきた。そして、こうした政策をどのように捉え、
どのように評価していくのか、どのように正常化への道筋をつけていくのか(つけられる のか)といった議論は、世界の政策当局は言うまでもなく、経済学界全体としても避けて は通れない重要な論点である。
こうした命題に関する検討が今後深められなければならない状況の下において、本論文 を通じてもたらされる研究成果は、極めて貴重かつ欠かすべからざる視座を提供しくれる ものであり、その意味で、筆者が企図した21世紀に相応しい中央銀行のあり方、「中央銀行 論(セントラル・バンキング論)」の再構築が見事になされていると見做すことができる。
ただし、本論文のタイトルの中核である「本質」の意味や定義-たとえば、‘nature’と
‘essence’との差異など-をより明確かつ多面的に表現することが望まれる。また多様な 文献が参照されてはいるが、日銀及び日銀関係者のものが多く、他の中央銀行研究者の文 献への言及が少ないように思われる。日銀業務の理解に基づいた生産的な論争の基礎とな るためにも、モデル分析や計量経済学的分析の文献についても積極的に言及するとともに、
日銀系の先行研究の限界や欠点についても、それに 対する本論文の貢献とあわせてより明 確にすることが望まれる。
「物価の安定」や「通貨価値の安定」の重要性についても、多角的な考察を踏まえてさ らに踏み込んだ言及があれば、「最後の貸し手機能」と「物価の安定」という中核的・中心 的な機能(役割)の関係もより明確になったものと思われる。さらに欲を言えば、本研究 の成果を基に、現状の非伝統的な金融政策への評価やデジタル通貨等の構想についての 詳 細な検討も示されていれば、本論文の意義をより鮮明に浮き立たせることになったであろ う。
Ⅳ.結論
以上のことから、小栗誠治氏の博士学位申請論文を「合格」と判断する。
なお、本論文がいずれ公刊されてその成果が広く学界、実務界に均霑されれば、然るべ き影響を強く及ぼすことができるものであると強調しておきたい。