ことであるとしている︵二三︱二四頁︶︒これについては︑著者の旧著﹃白山・石動修験の宗教民俗学的研究﹄︵岩田書院︑一九九四︶ですでに詳細な説明がなされているが︑本書では﹁近世修験に関わる宗教文化﹂という対象について︑この手法が採られたことになる︒ゆえに︑近世修験に関わる宗教文化が﹁行われる時間・空間的な場との照応を追跡し︑その場に当該事例を定位することを目指し﹂︑﹁語りの継起性に注目する﹂︵七頁︶としている︒
いわずもがな日本民俗学の中にある︑日本全体における一種の古型を求める重出立証法的な研究は︑柳田國男以降長く継承され︑また批判もされてきた︒著者も先に挙げた旧著でその害悪について詳述し︑そうした研究法のために各地方・地域の社会的文脈を等閑視した研究が生じたと批判している︒その批判とも通底するように︑著者の各地方・地域研究への関心は﹃郷土史と近代日本﹄︵二〇一〇︶︑﹃郷土再考﹄︵二〇一二︶︑﹃郷土の記憶・モニュメント﹄︵二〇一七︶などの出版にもつながっているとみられる︒
本書は二部構成となっており︑第一部の前に序論︑第二部の後に結論が配されている︒第一部には一章から三章そして付論がある︒ここでは近世修験が携わった柱松行事について︑先行研究の批判的検討︑北信濃小菅権現︑妙高山関山権現︑復活した戸隠神社の柱松行事について述べている︒第二部には一章から三章があり︑近世修験の柱松行事以外の多様な活動について考察している︒また︑巻末には英文要旨が付されている︒
以下︑序論以降の各章の内容について順に紹介していく︒ 由谷裕哉著
﹃ 近 世 修 験 の 宗 教 民 俗 学 的 研 究 ﹄
岩田書院 二〇一八年三月刊A5判 三一七+九頁 七〇〇〇円+税 小 林 奈央子 かつて日本民俗学において見られた︑日本文化の基層や古態を求める本質主義的な研究︑理想型を追求し︑反証不可能な仮説を導く研究に対する痛烈な批判と︑そうした研究と﹁決別﹂する研究方法を自ら実践し︑具体的に提示しようとしたのが本書である︒著者の強い思い入れと︑それを支える緻密な調査・研究の姿勢が印象に残る︒
﹁決別﹂するための方法として著者が採用したのは︑﹁宗教民俗学的な手法﹂である︒この手法を採用した意図について著者は︑﹁儀礼などの民俗事象あるいは文書の形をとるテキストを取り上げる場合︑そこから遡及して何らかの古態を求めるのではなく︑そうしたテキストが含まれる文脈を重視する﹂ためであるとする︵七頁︶︒それは﹁個々の儀礼あるいは縁起などに書かれたテキストに即して︑それら個々の文脈の中でさらに細部の儀礼要素や叙述の語用論を考究すること﹂であり︑さらには﹁民俗学﹂が得意とする﹁儀礼や語りに関する形態論的な分析﹂︑すなわち﹁ナレーションの分析を主な手法として含む﹂
に定着した村の呪術師的な存在と捉えて﹂︵八頁︶おり︑それこそが問題なのであるという︒そして︑こうした近世修験に対する︑﹁和歌森︱宮本的なパラダイム︵研究者集団で合意された説︶の確立によって﹂︵九頁︶︑近世修験という対象が正しく把握されてこなかったのではないかと問いかける︒
続く﹁二 柳田國男の修験道論﹂﹁三 小林健三の神道史研究における近世修験﹂﹁四 島津伝道および戸川安章による羽黒修験研究﹂の三節では︑和歌森以前 00に著された近世修験に関わる諸研究を概観している︒
まず︑柳田國男の修験観については︑巫女に比べて断片的な記述に留まっているが︑修験者と村民の関わりなどの記述は︑その後の﹁和歌森︱宮本的な近世修験︵里修験︶像を準備したといええるかもしれない﹂︵一二頁︶としている︒ただ︑柳田には﹁中世を修験の盛期とし近世を堕落と見る﹂評価軸は存在しなかったとする︵一二頁︶︒
また︑一九三〇︱四〇年代に戸隠および英彦山の神社史に関係して近世修験について言及した神道学者の小林健三︑羽黒修験の出身で一九四六年に羽黒山修験本宗を設立した島津伝道の修験道研究については︑神仏習合や十界修行など山岳信仰の特色について述べられているものの︑特定の価値判断は加えられていないという︒ただ︑島津の息子である戸川安章による戦後の研究には︑和歌森などの既存の修験道研究を参照し︑﹁近世修験の定着︱祈禱師化︱堕落﹂が述べられている論考も一部見られるという︵一八頁︶︒
以上のような︑﹁和歌森︱宮本パラダイム﹂への批判︑和歌 序論﹁近世修験という対象について﹂では︑﹁一 問題の所在﹂﹁二 柳田國男の修験道論﹂﹁三 小林健三の神道史研究における近世修験﹂﹁四 島津伝道および戸川安章による羽黒修験研究﹂﹁五 近世修験という対象が発見された背景﹂﹁六 本書本論の目指すところ和歌森︱宮本パラダイムに対する代案として﹂という六つの節が立てられている︒﹁一 問題の所在﹂では︑前述したような宗教民俗学的な手法によって近世修験を分析することが示されるほか︑﹃修験道史研究﹄︵一九四三︶を著した和歌森太郎と﹃里修験の研究﹄︵一九八四︶を著した宮本袈裟雄の研究の共通性と問題性について言及している︒
和歌森は︑近世修験に対し︑山林で苦行・抖擻した中世修験が近世になり変質し︑市井の呪術者に堕したと低評価を与え︑その存在を否定的に捉えていた︒一方︑宮本は︑日光で実際に使用されていた﹁里山伏﹂という言葉から︑﹁里修験﹂という言葉・概念を提唱した︒宮本は民俗調査を通じて︑里修験は﹁山岳修行の稀薄化・懈怠以上に︑庶民との日常的な接触と恒常的師檀関係︑および広範かつ多様な宗教活動︑さらには庶民の修験化現象を生み出す契機﹂︵宮本袈裟雄﹃里修験の研究﹄一九八四︶を作ったとして︑里修験が村落の中で果した役割の大きさに着目し︑それを肯定的に捉えていた︒
しかし︑ここで著者は︑近世修験を否定視するのか肯定視するかということが問題ではないと強調する︒つまり︑和歌森と宮本は全く別の観点から近世修験を考察すべき対象として見ていたのに︑実際には同じように近世修験を﹁各地の霊山を渡り歩いて苦行する︑生き生きとした修行者ではなく︑地方の村落
わゆる﹁典型的な民俗学﹂である点︵三三頁︶や︑修験道教団の形成および維持の問題にはあまり関心がない点を問題視する︒柱松については︑和歌森がその起源を民間の盆行事に立てていた祭具だと位置づけ︑明らかに戸隠と異なる特徴がある小菅神社の柱松を戸隠柱松の残存と捉えたことの問題性と︑その後の影響力について言及している︒
五来重の修験道研究については︑﹁強い経験主義の志向と修験道はもはや解明されるべき対象ではなく︑既に五来の中で︵﹁野生の宗教﹂などとして︶結論が出ており︑⁝仏教史や仏教教理の知識から説明することが著述の目的と化していた﹂︵三八頁︶とし︑本質主義的な立論に拠っていると批判する︒柱松についての解釈も同様であり︑何の検証もないまま霊山にまつわる柱松を入出峰に際する験比べと関連付けることに終始しているという︒
こうした﹁反証可能仮説の形で提示されていない﹂︵四四頁︶和歌森・五来の研究をふまえ著者は︑和歌森・五来の論に代わる修験系柱松研究の方法を示す︒それが﹁現行の次第から直接遡行しうる近世に定位して探求﹂することと︑近世社会において修験系柱松が﹁権現社祭礼の中で執行されていた点﹂︵四五頁︶を考えに含めることである︒著者は中世の神仏習合世界とは違い︑近世では僧や社家︑修験などの異なる出自の宗教者が︑権現という共通する崇拝対象を︑それぞれの仕方で奉斎したのではないかと指摘する︒
以上のような著者の問題関心に従って︑続く章からは具体的な柱松行事の検証が始まる︒ 森以前 00の修験道研究を概観した著者は︑和歌森以前に﹁近世修験﹂という対象はすでに発見されていたことを指摘する︒そして︑発見の背景について著者は︑二十世紀前半に﹁郷土研究の進展のよって郷土の霊山に対する関心が生成﹂︵一九頁︶されていたこととや︑修験による山林修行が﹁同時代に継続もしくは名残が確認できた﹂︵二一頁︶ことによって注目が向けられたことにあると推察している︒
第一部第一章からは近世修験が携わったとされる柱松行事について具体的な分析が始まる︒柱松とは﹁切り出された樹木を柱のように加工したもの︑もしくは木の幹や枝などを縛って柱状にしたものを︑祭礼の場に一本または複数立ち上げた祭具︑およびその頂上の御幣などの部分に点火する行事を指す﹂︵三一頁︶︒夏の盆の頃に民俗行事として行われるものと︑近世において修験者が一山の行事として執行するものとあり︑後者を著者は﹁修験系柱松﹂と仮称する︒第一部ではこの﹁修験系柱松﹂について︑現存する長野県飯山市の小菅神社と新潟県妙高市の関山神社︑近年復活した長野県戸隠神社のものについて詳述されている︒
その三つの柱松の具体的な報告に先立ち︑第一章では和歌森太郎︑五来重による修験道と柱松研究について批判的検討がなされている︒和歌森の修験道研究について著者は︑﹃修験道史研究﹄が本邦初の﹁修験道についての纏まった通史﹂であり︑そのクオリティの高さを評価しつつも︑和歌森が里人の山に対する信仰を﹁民族的宗教感情﹂と位置づけ︑外来の宗教者などに対峙させる形で在俗農民の信仰を固有なものと想定する︑い
いるという︒二つめは柱松への点火に関わる所作と担い手︑柱松の大きさや形状の違い︑それに伴う柱松そのものへの意味づけについての違いである︒関山では︑小菅のように倒された後の柱松を参列者が縁起物として奪い合うことはないが︑大勢の若者が乗って松引きが行われるという︒三つめは点火前の御輿行列と御旅所の有無である︒小菅では御旅所への神輿渡御があり︑御旅所から柱松を仰ぎ見るようなロケーションをとるが︑関山では近世の権現社時代を含め︑御輿も御旅所も全く関与していないという︵一六七頁︶︒
第一部の最後の付論では︑復活した戸隠神社の柱松行事について考察されている︒前章の最後に︑関山神社境内の社殿︵旧権現社︶と柱松の位置関係について︑﹁復活した戸隠柱松と類似性が見られる﹂と著者は述べている︒戸隠柱松行事が復興したのは︑戸隠神社式年大祭に併せた二〇〇三年であり︑それ以降三年おきに行われている︒また復活に際し︑復活にかかわった関係者は︑小菅や妙高の柱松行事を見学し参考にしたようである︒本付論で著者は︑復活した戸隠の柱松行事に対する違和感を五つ挙げている︒紙幅の都合上︑その一つ一つは挙げないが︑一例を挙げれば︑復活時に参照された﹃戸隠祭礼絵巻﹄︑﹃三所大権現祭礼之次第﹄︵いずれも年代不明︶︑﹃善光寺道名所図会﹄︵天保十四年︶などの史料には全く言及のない入峰儀式の所作や験比べが一部行われているという︒
こうした発見は︑現行の柱松行事を複数地域において丹念に調査し︑同時に史資料や既刊の報告書などにも目を通し︑歴史的な変遷にも目配りしている著者だからこそなし得たものだと 第二章では北信濃の小菅権現の祭礼における柱松と修験者について著者自身の調査をふまえ考察しており︑まず和歌森が柳田の柱松論に依拠して提示した柱松の解釈に言及している︒著者は︑和歌森の柱松解釈について︑祖霊的な神霊の降臨︑通過儀礼︑年占︑山伏の験競べといった民俗事象に基づいた柱松の宗教的意味付けをしており︑それはもはや議論する必要はないとする︒そして︑柳田や和歌森が関心を寄せなかった﹁柱松を立てる祭礼﹂という文脈を考えること︑すなわち現行の小菅柱松の祭礼次第を概観しつつ﹁小菅柱松の文脈を構成する時間・空間・組織の変化を近世にまで遡って考究する﹂ことが重要であるとする︵五六頁︶︒そしてそうした考究の結果︑午後からおこなわれる﹁祇園行列と柱松行列によって今日の柱松柴燈神事が構成されていると考えることができ︑こうした構造のみが近世に遡りうる﹂と結論付け︑現在午前中に行われている例祭行列は現代に入ってからの﹁伝統の発明﹂であろうとしている︵六七頁︶︒さらに﹁小菅柱松は︑もともと講堂前に上下の柱松を立てることで山内における修験道復興の反映という側面を持ちつつ︑近世後半における修験︱社家の拮抗を背景として神輿︵祇園︶行列と柱松行列を主要な骨組とするように変化してきた﹂と考えられるという︵八五頁︶︒
第三章では妙高山関山権現の夏季祭礼における柱松について考察されている︒前章の小菅柱松とは異なる特徴が見られ︑特に点火に関する三つの違いについて詳しくまとめられている︒一つは︑点火前に行われる儀礼の有無であり︑関山には小菅には見られない仮山伏による棒使い二二演目︵試闘︶が行われて
単なる里の祈禱師ではなく︑山中修行も行っていた可能性を示すものとして重要であるとする︒
第二章では︑岐阜県郡上市の長滝白山神社の長滝六日祭︵旧称・修正延年︶を対象事例として︑近世社会の文脈において修験がどう祭礼に関与していたかについて考察している︒長滝白山神社はもと天台宗東叡山末の長瀧寺であり︑明治期の神仏分離によって︑長滝白山神社と長瀧寺に分かれた︒以降︑寺側は現在六日祭と呼ばれている修正延年への関与を止めたため︑明治以降の六日祭は長滝白山神社の神職と同社氏子による祭礼へと変化している︒しかし︑近世史料では﹁僧侶︵院主など︶や社家︑その他︑世俗の者たちと相まって祭礼が構成されていた﹂小菅権現・関山権現の柱松と同様︑権現社の祭礼として近世修験を含む複数の宗教者が関与していたのではないかと指摘する︒また﹁二 白山美濃側における長瀧寺の位置﹂では︑小林一蓁の説から通説化した︑同じ郡上市に所在する長瀧寺と石徹白の白山中居神社を﹁美濃馬場﹂として一体性を有するものとする見方は︑それぞれに奉斎されている神祇の違いなどから正しくないとの見解を示している︒﹁三 六日祭の現行次第と研究史など﹂では︑現行の六日祭の次第が概観され︑六日祭における延年が研究者によってどのように解釈されてきたか詳しく紹介されている︒続く﹁四 近世の長瀧寺における修正延年﹂では︑前節をふまえ︑近世の長瀧寺における修正延年の実態と修験の関与について﹃白鳥町史 史料編﹄に収められた諸史料の内容から考察されている︒それによれば︑一七八〇年前後を境として︑長瀧一山には山伏家がいなくなったのではない 思われる︒まさに序論で著者が示したような︑文脈を構成する時間・空間・組織の変化をダイナミックに把握しようとする姿勢が見られる︒
次に第二部に移る︒第二部では﹁近世修験の諸相︱里修験・修正延年・里山︱﹂と題し︑柱松行事以外の近世修験の活動について考究されている︒第一章が﹁岩手県宮古市の里修験﹂︑第二章が美濃の﹁六日祭修正延年と近世修験﹂︑第三章が﹁里山と近世修験﹂︑続いて﹁結論﹂という構成となっている︒
第一章では︑岩手県宮古市の津軽石地区・羽黒派慈眼院と長沢地区・本山派泉明院の二つの里修験について考究している︒これは著者が﹃宮古市史 民俗編﹄の調査の一環で一九八八年に写真撮影したものと︑その後出された﹃宮古市史資料集 近世﹄九︱一︵一九九六︶で翻刻された文書を用いており︑著者によればこの文書が今まで学術的に研究されたことはないという︒宮古市および津軽石・長沢地区の概要がまとめられた後︑先行研究をふまえながら盛岡藩宮古通りで里修験が活動するようになるまでの前史が概観されている︒また︑津軽石・長沢の二地区の寺檀関係を規定していた曹洞宗の展開と里修験が関与したとみられる小祠に関する事例が提示され︑両地区では寺檀関係以外の羽黒派・本山派修験の宗教者が住民の信仰を獲得する余地があったとする︒しかし一方で︑羽黒派・本山派の両派間で確執もあり︑それを示す文書も含まれていた︒ほかに泉明院文書には世代継承に関する記載が多いこと︑本山派の大峰入峰に関わる指示書などが含まれていたことなどが特色として見られたということである︒特に大峰入峰については︑里修験が
高低に拘わらず山の暗喩﹂ともなったと結ぶ︵二八五頁︶︒
以上をふまえ最終章である﹁結論﹂では本書における認識論︵近世修験をどう捉えるか︶と方法論︵﹁宗教民俗学的﹂アプローチ︶を再確認した上で︑事例分析で得られた情報を複数の枠組から再度まとめ直している︒以下︑結論の内容も交えながら︑本書に対する若干のコメントを付したい︒
まず︑著者は﹁和歌森︱宮本﹂によってパラダイム化した近世修験像の代案を求めようとした︒そして︑その方法論として︑﹁儀礼や文書における語りの継起性︵sequence︶に注目する姿勢を意味﹂し︑﹁個々の儀礼や文書が生成した空間的時間的な文脈においてそれらを定位する﹂という﹁宗教民俗学的﹂アプローチをとった︵二九七頁︶︒和歌森太郎が近世修験者を低く評価し本質主義的な立論をしたことはよく知られているが︑もう一方の宮本袈裟雄については︑︵本書の序論でも触れられているが︶近年時枝務による宮本の再評価の論考などもあり︵時枝務﹁修験道史における里修験の位相﹂二〇一三︶︑二人を同じ枠組みで捉え︑批判の対象とした著者の視点には驚き︑また考えさせられた︒確かに著者が言うように︑﹁里修験を一種の理念型と捉え﹂ていたという点で両者は共通するかもしれないが︑時枝が前掲書で指摘しているように︑宮本の里修験研究は︑単に里修験の用語を新造しただけでなく︑﹁近世修験像の見直しを企てたところに大きな意義があった﹂︵二四頁︶︒さりとて︑時枝も里修験の概念の登場によってかえって見えなくなった問題もあり︑﹁個々の里修験の実態を地域社会全体のあり方を視野に入れつつ解明する作業﹂が急務であると述べている かと推察されるという︒また︑本章の小括では︑﹃修正延年幷祭礼次第﹄の内容から︑延年の主体は若輩︵衆徒僧︶であり︑山伏衆から延年の主役は選ばれなかったことを指摘していて大変興味深い︒
第三章では︑﹁里山と近世修験︱白山加賀側と石動山の事例から︱﹂と題し︑﹁里修験﹂ではなく︑﹁里山﹂概念による近世修験の考察を試みている︒著者自身も﹁試論﹂と述べているが︵二七一頁︶︑ここまでの議論とは少し趣を異にする︒
はじめに里山概念の変遷について述べられる︒里山は︑一九六〇年代に四手井網英によって示された︑農地に続いていて容易に利用できる低山の森林︑すなわち農用林という意味から︑集落の景観まで含む広義の捉え方に変わり︑さらにはノスタルジックな景観として観光行政においても注目されるようになった︵二七一︱二七二頁︶︒そして︑そうした﹁里山的な場﹂を拠点して小菅神社︑等覚寺︑関山神社の柱松は行われているとする︒また︑一五世紀以降︑白山加賀側では﹁吉野・熊野スタイルの修験道が導入され︑山腹を含む山全体を霊場と捉える見方が登場し﹂︵二七五頁︶︑そこには里山地帯も含まれ︑実際に里山地帯を活動の拠点とする近世修験もいたという︒近世石動山衆徒の修行と里山的な場との関係については︑石動山集落という標高五〇〇メートル前後の高地にして里山的な場であった所に衆徒たちの拠点があり︑そこから平地に下りてきて修験行もしくはそれを模倣した儀礼を行っていたことを指摘する︒そして︑両者の例から︑高地に住むことが﹁里での修験的な宗教行為を正統化する要因の一つにな﹂り︑﹁里山的な場は標高の
って結びとしている︒中世段階の神仏習合状態とは異なり︑近世の権現は﹁霊山を表象する聖性﹂であると各宗教者が共通して捉えていたのではないかとする指摘は新鮮であった︒
大変雑駁であるが︑以上が本書の概要と所感である︒本書を通じ︑修験研究の複雑さと可能性︑さらなる研究の必要性を感じた︒評者自身の修験に対する思い込みや自明のものとしてきた枠組みを再検討し︑まずは目の前で観察される儀礼︑確認できる史資料に虚心坦懐に向き合っていきたいと改めて思わされる一冊であった︒ ︵二五頁︶︒その点で本書の研究は︑そうした作業の一つでもあり︑意義あるものであるといえる︒
また︑結論では︑修験道系柱松の柱の高さ︑柱がどこに立てられるか︑里山と近世修験の関係などを﹁隠喩としての高さ﹂というタイトルで﹁高︱低﹂の視点からまとめている︒中世末までの修験道系柱松が﹁入峰前の前行として行われ︑⁝これから入峰する修験者が山の隠喩のような高い祭具に上るという意味合い﹂から︑近世になると﹁権現にお見せする神事芸能﹂になった︵二九九頁︶という指摘は︑継起性を意識しつつ現行の祭礼を注意深く観察し︑資史料にも目配りした著者であるからこそ導き出せたものであり︑説得力がある︒ただ︑著者自身も﹁試論﹂とする里山と近世修験との関係については︑それまでの議論とはいささか趣が異なる展開で︵著者のなかでは地続きの問題なのかもしれないが︶一読者としてはつながりがみえにくく︑繰り返される﹁里山的な場﹂という言葉も︑具体的にどのような場所を指すのかなかなかイメージできなかった︒ともすると︑里修験概念同様︑﹁里山﹂という﹁一種の型﹂︵イメージ︶を手前勝手に頭の中に描き︑そこから理解するような過ちを犯しているような気になった︒
本書最後の﹁権現という奉斎対象﹂の節では︑﹁神祇と仏教とが習合して何らかの新しい宗教形態が生まれたのは中世までのことであり︑近世の段階では︑権現という共通の崇拝対象に複数の異なる出自の宗教者がそれぞれの仕方で奉斎した﹂︑つまり︑僧︑衆徒︑社家︑在俗の者︵修験︶などがそれぞれの方法で︑﹁霊山と同一視される権現を奉斎した﹂という仮説をも