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番 茶 の 民 俗 学 的 研 究

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(1)

番茶の民俗学的研究

中村羊一郎

(2)

はじめに

茶文化研究のための新たな視点 お茶は急須から茶碗に注いで飲むもの︑という概念を大きく変えた缶入り緑茶が発売さ

れたのは昭和六

O

年であった︒のちベットボトルという簡便な容器が普及し︑緑茶の飲用 スタイルは大きく変化してきた︒テレビで報道される重要会議のテーブル上にもペットボ トル入りの緑茶が並んでいる時代である︒しかし︑飲用形態は異なってきても緑茶に対す

る日本人の噌好性は依然として強い︒

茶に関するさまざまな言い慣わしは枚挙にいとまなく︑﹁お茶にする﹂という表現は休憩

を意味する︒茶がこれほど日常の暮らしに欠かせない飲み物(じつは食べ物でもあるのだ が)となっているにもかかわらず︑庶民の暮らしに茶が普及していくプロセスは︑常に茶 の湯を中心とする歴史研究の延長線上で語られてきた︒しかし︑九州一帯で茶が結納に使 用されていることを︑茶の湯の発展過程から説明できるだろうか︒あるいは冬のさなかに 枝のまま採取して作る寒茶の由来を︑茶の湯研究者はおそらく語ることはできまい︒そも そもチヤという植物が︑いつ︑どのような経緯で日本に入ってきたのかについても︑帰朝

した留学僧がもたらしたものというだけでは︑実態に迫ることはできないであろう︒

茶の木は日本の西半分の山中に自生し︑山茶と呼ばれて自家用の茶の素材となってきた︒

全国各地には驚くほど多様な製茶法が伝承され︑市販の茶は客用とし︑自らはこうした自 家製の茶を飲んでいる人々もいる︒茶にかかわる多くの慣習は︑このような自家用の茶と

暮らしとのかかわりの中で形成されてきたものである︒

ところで︑煎茶といえば︑江戸時代中期に開発された製法による商品としての茶であり︑

生産が機械化された今日に至るまでその製法の基本原理は変わっていない︒つまり︑煎茶

という製品に対しては共通の認識が存在している︒また茶の湯で使われる礁茶についても︑

宇治を中心とした長い歴史とともに製︑法を含めて︑これにも明確な共通理解がある︒いっ

ぽう︑各地に継承されてきた庶民の茶は︑まさに多様であって︑産地名︑製造時期︑形状

などをもとに適当な呼称が付けられており︑それらを一括して表現するには番茶という一一一一口

葉があてられてきた︒しかし︑これには茶商から見た安価な下級品という商品としての評

価が付随している︒

それにもかかわらず︑本論文があえて番茶をもって庶民の茶の総称とするのは︑パンチ

ャがすでに中世末期の日本語を集成した﹃日葡辞書﹄に庶民の茶として採られており︑上

流の抹茶の対極に位置づけられているという歴史をもった言葉であるためである︒そもそ

も粗放で不均質な茶であったからこそ︑のちになって茶商が低品質の茶の呼称として使っ

たのである︒そこで︑本論文では︑番茶という一一百葉を︑茶商の評価と切り離し︑製造方法

に関わらず︑庶民の伝統的な日常茶という意味できちんと定義したうえで︑その概念を用

いて︑生活と密着した非商品としての茶のありょうを︑さまざまな面から追究していくこ

ととした︒つまり︑番茶を煎茶︑眼茶と同じレベルでの研究対象とすることで︑新たな研

(3)

究視角が設定できると考えたのである︒

茶はその源郷とされる中国西南部から東は日本列島︑西はインド東部のアッサムにまで 広がり︑照葉樹林帯のなかでもとくに文化的共通性が高いとされる東亜半月弧における主 要構成要素のひとつとなっている︒しかもそこには飲む茶︑食べる茶があり︑飲み方︑食

べ方も多様であるばかりでなく︑茶に関わるさまざまな習俗︑が伝承されており︑日本の番

茶とそれをめぐる民俗との共通点も少なくない︒このことは︑日常の茶である番茶をキー

ワードとして︑東アジア全域の茶文化を比較研究することが可能になることを示している︒

番茶の研究は︑このアジアの中に日本の茶を位置づけることにつながる︒そうなれば︑日 本の茶の湯文化も︑じつはアジア世界の東端において発達した︑きわめて特異な茶文化の

ひとつである︑という視点をも獲得することになろう︒

本論文は︑こうした問題意識のもとに︑民俗学及び文献史学の研究方法を以て番茶の全 容を解明することを目的とする︒まず緒論において筆者の問題意識を明確に示し︑研究史

をたどりながら問題点を明らかにしたうえで︑内容を大きく二部にわけで叙述する︒

第一部は﹁番茶製法の歴史と民俗﹂とし︑番茶の定義︑製茶技術の展開︑現代の煎茶へ

の発達過程を述べる︒その主要な論点は︑全国の番茶製法の事例を比較することで︑番茶

製法の編年を行って︑製茶技術の発展過程を明らかにすることにある︒本来自家用であっ

た茶が︑商品として大きな意味をもつにしたがって課税の対象となり︑並行して都市住民

の茶需要も高まっていく︒生産者はより高い付加価値をつけようと多様な番茶の製法のな

かから優れた技法を選択し︑こんにちにつながる煎茶製法を開発した︒やがて開国ととも

に煎茶︑が近代日本の主要輸出品として大きな位置を占めるようになると︑商品としての品

質の均一化が強力に進められ︑旧来の自家用茶としての番茶は排斥されていくことになる

ので

ある

11 

第二部は﹁番茶の民俗﹂として︑茶をめぐるさまざまな民俗とその意義を明らかにする︒

まず番茶は単なる飲料ではなく︑茶粥のように調理のべlスにも使用されたことを示すが︑

これは茶の聖典とされる中国唐代の﹃茶経﹄にも見える茶の基本的利用法を継承したもの

であり︑中国の少数民族の茶や︑モンゴル︑チベットなどの茶利用法にも通じるものであ

る︒日本の庶民社会では︑食べ物自体をも茶と呼んでいたことが明確になると︑囲炉裏の

座名の一つであるチヤニザの意味も理解でき︑茶がイエのなかにおいて食と火を管理する

主婦の権能の象徴とされたことが明らかになる︒その結果︑次のような対比が成立する︒

すなわち︑﹁茶・イエ・女﹂に対する﹁酒・ムラ・男﹂である︒

また︑蒸して熔炉で乾燥させる礎茶すなわち抹茶のもとになる製茶法は︑もっとも一般 的である蒸し製天日干しの番茶製法と共通している︒栄西の帰朝後︑宋式の抹茶法がまた たくまに寺院や貴顕の聞に普及したのは︑この製法による番茶がすでに民間で行われてお り︑茶の木も広く存在していたからである︒また︑泡立てに必要な茶築も形態としては楽 器や厨房用品として使われていたササラと同じであった︒この事実を知れば︑こんにちま

で民俗として伝承されてきた振り茶は︑栄西が日本にもたらした抹茶法を︑最先端の飲用

(4)

法として庶民が受容し流行させたのが︑そのが始まりであったろうことは容易に推定でき る︒しかも茶莞を振って茶を点てるのが主婦の役であり︑それが多くの女性が集まっての 大茶の集いになったことも自然の成り行きであった︒近世の農民統制の典型例とされる大 茶の禁は︑決して茶が賛沢品であったのではなく︑女性のおしゃべりの集いが批判された ものだと理解できる︒しかもそこには︑茶が有する﹁もてなし﹂﹁一座性﹂などの要素があ り︑上流の茶の湯文化が︑庶民の番茶文化と極めて深い類縁性を有していることが明らか になる︒この視点に立てば︑日本の茶文化研究もより広い視野から総合的に深めることが

できるであろう︒

もうひとつ重要な視点は︑茶にさまざまな意味での境界越えの意味があったことである︒

婚儀における一連の儀礼には︑茶が区切りとなる場面が多い︒とくに披露宴の最後に嫁が 普段着に着替えて客に茶を出すことは︑その家の主婦となったことを示すと同時にハレの

時聞からケの時間へと移行することを象徴している︒また︑墓地に茶の木を植える習慣は︑

茶がこの世とあの世との境界を示すものであるが︑植物としてのチヤの木は︑現実にも畑

の境界木として活用されている︒

最後に︑アジア全域をフィールドにした庶民の茶文化研究をいっそう深めていくことを 提案したい︒日本民俗学が閉塞状態に陥ってることを実感している研究者が多いと思う︒

すでに大正生まれの人すら激減しており︑この学問の原点である話者からの聞き取り︑景 観を含めての儀礼などの現地調査は困難になっている︒ところが︑かつての日本が伝承し{

ていた民俗の世界は︑いま東南アジア各地にある︒民俗学の方法は︑この新しいフィール ドで活用できるのではないか︒そのために最も大きな障害となるのは︑言葉の壁である︒

しかし︑具体的なモノを前にしての調査であるなら︑たとえ通訳を介してでも十分に調査 目的を達成できると思う︒本論文でとりあげた茶は︑眼前にモノとして存在し︑しかも製 茶用具︑利用法︑儀礼など︑すべて目に見える形で調査することができる︒

日本国内で鍛えた方法を活かし︑自らも一人の庶民として現地の人々と交流する中から︑

民俗学の新たな地平が開けるであろうことを疑わない︒

O

二二

年一

O

中村羊一郎

(5)

はじめに

茶文化研究のための新たな視点

緒 論 庶 民 の 茶 文 化 茶文化研究と番茶 日常茶飯の茶についての関心/アジア的視野に立つ庶民の茶文化研究一頁 緑茶の薬効と茶利用の契機 さまざまな薬効

茶の種類 不発酵茶と発酵茶 茶の原産地 中国雲南省/茶は南方の嘉木 茶利用の契機を語るアジアの伝説 インドミャンマー/中国 日本における茶の利用開始を語る伝説 天人・落人/行基/弘法大師/最澄と日吉茶園 史料に見る日本における茶の始まり 茶の史料上の初見/平安時代初期の茶の実態/平安後期の茶の実態¥王服茶/栄西 以後の茶

茶ではない﹁茶﹂

六頁

七頁

ームー/ ¥  

第一部

番茶製法の歴史と民俗

第 一 章 番 茶 と は 何 か 第 一 節 番 茶 の 由 来 と 定 義 番茶の認識/晩か番か 第 二 節 一 地 域 内 に 共 存 す る 多 様 な 番 茶 間山県英田郡大原町の釜妙り天日干しの番茶/釜妙り茶と陰子し番茶/フジの新芽で 作る茶/蒸し製番茶/美作番茶/多様な製法の混在 第 三 節 番 茶 の 分 類 桑原次郎右衛門の分類/大石貞男の分類/番茶は自家用 第 四 節 番 茶 と 地 方 茶

二四頁

二四頁

二七頁

(6)

地方茶/番茶を示す様々な呼称/番茶の定義 第二章番茶の製法とその発展過程

第一節現行の蒸し製煎茶(日本緑茶)製法 第二節番茶製法の発展過程

‑ 製 茶 の 前 段 階

1即時的な利用法

生葉を煮だす/焼き茶

2陰干し茶i薬草的な利用法

自然乾燥/食べる茶と直結

3蒸し製日干し番茶

l

商品化の始まり

蒸しによる殺青/足助の寒茶¥柴茶¥煎じ物/天道干しのいとまこわず/タテ茶

4

蒸 し 製 熔 炉 仕 上 げ の 茶 五

O頁

曝茶製法の基盤

5

釜 妙 り し て 探 捻 す る 技 術 の 渡 来 五 二 貰

(1)中国における釜妙り茶の発達

( 2

)

釜妙り製法の日本伝来と各地への普及

二つのタイプ/鍋(釜)で直接煎るだけで仕上げる/宮崎県五ヶ瀬の釜妙り茶/

和歌山県龍神村の釜妙り茶/遠州の釜妙り茶/岐阜県白川の釜妙り茶

蒸 し て 探 捻 す る 茶 五 九 頁

探む技術¥折衷的な製茶法/蒸し製煎茶製法への発展

O

O

四二頁 四三貰

6  第三章ヤマチヤと番茶

第一節柳田園男が見た山茶

‑柳田の九州旅行と山茶 柳田と山茶地域産業と茶業

2

山 茶 と 商 品 経 済 六 七 頁

開国時の九州茶輸出/焼畑と山茶/柳田が考えた日本における茶の起源

第 二 節 山 茶 の 研 究 史 六 九 頁

山茶の定義/谷口熊之助の山茶研究/山茶の製茶技術/山茶と釜妙り法

第 三 節 四 国 の 番 茶 の 多 様 性 と 後 発 酵 茶 七 六 貰 1 多 様 な 四 国 の 番 茶

特異な四国の番茶状況/四国の茶生産¥煙臭さを好む

2四国の後発酵茶

(1)後発酵茶への関心

後発酵茶とは何か/後発酵茶研究史

( 2

)

徳島県旧相生町(現那珂町)の阿波番茶

六四頁

五頁

六五頁七

六頁

八二

(7)

丹生谷で生産/阿波番茶の生産現場/徳島県上勝町の神田茶

( 3

)

高知県大豊町の碁石茶

自らは消費しない茶

( 4

)

石鎚黒茶

生産家は一軒のみ/黒茶の作り方四国以外の後発酵茶

( 5

)

東南アジアとの類似

二段発酵の茶とラオス/アジアの後発酵茶/後発酵茶の日本への伝来と国内分布

第四章番茶の商品化と茶に対する賦課 第一節茶園の拡大と商品価値の認識

荘園内での茶栽培と製茶/対馬の中世茶園¥駿河の今川氏と茶

第二節駿河・遠江領国における戦国末から近世初頭における年貢茶

現物年貢としての茶/年貢茶の売却/戦周期駿河山間部の茶閣の景観/現物納から

金納へ/年貢茶の品質

第 一 二 節 近 世 に お け る 商 品 と し て の 製 茶 法 一

O四

曝茶と煎茶/近世初期︑駿河国足久保村の製茶法/茶畑開墾と和紙製造/上納茶の

中止と高級煎茶の衰退/遠江国における寛政二年の煎茶製造状況

第 四 節 茶 樹 の 栽 培 形 態 と 賦 課 形 態 か ら 見 た 茶 生 産 の あ り ょ う 二

O頁

近世初期の畔畦茶園/茶株一本ごとに把握

第 五 節

﹁ 宇 治 製 法

﹂ 以 前 の 製 茶 法 二 三 頁

幕末期における駿河国の製茶技術/幕末期の製茶法の実態/排除すべき番茶

九六頁

九九頁

第五章宇治製法の完成と番茶の衰退 第 一 節 蒸 し 製 煎 茶 製 法 の 完 成 二 八 頁

宇治製煎茶前史/宇治製法の発明/茶胞で唐銅茶釜をたぎらかして上茶を売る/番

茶・山家茶

第 二 節 檎 山 茶 に み る 初 期 宇 治 製 法 二 二 頁

北限の茶/初期宇治製法の残存

第 三 節 商 品 化 の 進 展 と 庶 民 の 噌 好 一 二 ニ 頁

後戻りする技術/庶民が好んだ味とよそ行きの茶

第 四 節 幕 末 期 諸 藩 に お け る 茶 業 振 興 策 と 宇 治 製 法 の 導 入 一 二 五 頁

‑ 仙 台 藩 に お け る 茶 栽 培 の 経 緯 一 二 五 頁

茶輸出ブlム/奥州伊達藩の場合

2

越 後 村 上 藩 二 一 七 頁

村上茶の始まり/新たな製茶法の導入/茶輸出に努力/村上のへ一フ摘み

第五節美作番茶に見る番茶から煎茶への移行過程

一一

八頁

(8)

1  美 作 番 茶 の 現 状 一 三 二 頁

番茶と宇治製法/美作番茶の製法/海田茶の三タイプ/煮汁の利用

美 作 茶 の 歴 史 二 二 六 頁

美作茶の始まり/岡山後楽園の茶/江見農書にみる近世の茶生産

沼田藩の茶業振興策とその後の展開

海田茶の創始伝承/物産会所

一三

九頁

2  3 

第六章静岡式手もみ茶製法の完成と番茶の終駕 第一節静岡県における製茶技術の発展と手探み流派

‑静岡県における茶手探み技術の流派形成

茶師の誕生と伝習会/独自性の︑王張と流派形成

2手探み技術の文化財指定

茶手探保存会と手探み名人/流派名の由来

3煎茶製法の普及と発展

山本屋の戦略/宇治製法の県内導入/茶師︑和田伊作/庶民による技術開発と普及

/地域篤農家の努力/静岡デングリ/手探み技法の統一

4

蒸 し 加 減 の 表 現 か ら み た 八 流 派 の 差 異 一 五 七 頁

蒸しの要諦

5

静 岡 県 の 茶 手 探 み 技 法 一 五 八 頁

手採みの用具/手探みの工程/茶部屋から茶工場へ

第 二 節 茶 貿 易 の 拡 大 と 番 茶 の 排 斥 二 ハ 一 頁

開国と茶輸出/輸出茶の実態と不正茶取り締まり/残存した番茶製法/アメリカの

規制強化と静岡市場の影響力/番茶の意味

一四

五頁

一四

五頁

一四

五頁

一四

七頁

一四

九頁

第二部

番茶の民俗

第 一 章 茶 粥 と 茶 煮 座 第一節食としての﹁茶﹂

‑ 茶 粥 一 六 九 頁

中国唐代の糞/茶碗の民俗学的意味/茶粥常食地帯の食/奈良茶と茶米飯/周防の

茶粥/愛知県の蟹江町/茶粥常食圏と番茶

2茶漬け

焼き米と玄米茶/茶漬け/マゴチヤ

3尻振り茶

木頭村の尻振り茶/山口県阿東町の尻振り茶/妙り粉

一六

九頁

一六

九頁

一七

六頁

一七

九頁

(9)

振り茶

出雲のボテボテ茶/泡の効用

第 二 節 茶 は 食 事 の 別 称

食事の呼称/隠居免と茶代/茶と塩

第三節囲炉裏の座席名からみる主婦と茶の関係

茶煮鹿/お茶は女︑酒は男 4 

一八二頁一八四頁

一八九頁

第 二 章 婚 姻 儀 礼 と 茶 第一節結納・初聾入りとお茶

‑ 九 州 の 結 納 茶

九州の茶入れ/茶を贈る意味

2静岡県裾野市の近世の記録

祝儀帳の御茶

3新潟県の事例

十日町の多喜茶

4福島県会津地方

白河に越後と類似した儀礼

第 二 節 お 茶 吊 る し

‑ 静 岡 県 東 部 の 茶 袋

伊豆/裾野市/御殿場市

山梨県のオチヤツルシ 一九四頁一九四頁一九四頁一九七頁一九九頁二Oニ頁

二O三頁

二O

O五頁

吉田 第 三 節 イ ケ ツ 茶

披露宴の最後/ヨメゴのお茶

第 四 節 嫁 の お 茶 配 り

式後のあいさつ回り/神奈川県/箱根山塊周辺の類似

第 五 節 お 茶 振 る 舞 い

お茶よび/立茶振舞

第六節婚姻とお茶との関係

段階を踏む茶

第 七 節 女 性 集 団 と 茶

茶呑み仲間/茶講/茶呑み嬬/婚姻と茶はイエにおける主婦の権限と関係 O六頁

O八頁

一二四頁

第 三 章 大 茶 と 振 り 茶 第 一 節 振 り 茶 の 民 俗

富山県朝日町蛭谷のパタパタ茶/出雲のボテボテ茶/ボテ茶とオチラシ/南島の振

(10)

り茶/振り茶の起源をめぐる諸説 第 二 節 大 茶 の 意 味番茶を介しての女性の集いl

女性の集まりと大茶/中曽司の大茶

第 三 節 初 期 礁 茶 製 法 と 茶 箆

曝茶と番茶の共通性/番茶を挽いた抹茶と煎じ茶による振り茶/中国渡来のササラ

型茶築の使用/茶築の需要と近世庶民の飲茶法

第 四 節 近 世 資 料 に み え る 振 り 茶 二 三 六 頁 同 都 市 部 に お け る 振 り 茶 の 記 録 二 三 六 頁

振茶は都市の一般的飲茶法/高級煎茶の登場による振り茶の衰退

2

辺 土 に 残 っ た 振 り 茶 の 習 俗 二 三 九 頁

東国の振り茶/信濃と駿河︑西国の振り茶/桶茶の背景/振り茶と塩/振り茶の終

駕/抹茶法と振り茶は同根の習俗

二二

六頁

二 一 一

O

第 四 章 茶 の 境 界 性 第 一 節 霊 魂 と 茶

葬儀と茶/葬礼の会食とお茶/お茶講/盆行事とお茶/茶湯寺/茶湯の意味/茶飯

/茶の枝を彼岸に墓に供える/棺に茶を入れる/墓の印に茶を植える/タイ国ヤオ

族の事例/霊魂再生の願い/禁忌植物としての茶/祖霊接待のお茶

第 二 節 お 茶 が 仕 分 け る ウ チ ト ソ ト 二 六 九 頁

四国の茶堂/境界越えの茶/寺院と茶の木

第 三 節 空 間 と 時 間 を 区 切 る 茶 二 七 二 頁

境界木と土止め/婚姻の進行段階を区切る茶/別れの茶/時間を区切る茶

二五

二頁

第五章東アジアの食茶習慣と﹁番茶﹂

第一節東アジアにおける茶利用の諸形態

食茶に関するこつの類型/噛むから食べるへ

第 二 節 襲 の 茶

‑﹁喫・吃﹂と﹁喝﹂

陸羽が排した飲茶法/﹁喫・吃﹂と﹁喝﹂

2播茶

播茶の種類/播茶の作り方/中国南部に分布

3油茶(打油茶)

打油茶/油茶の木/もてなしの油茶

4

茶 汁 に 混 ぜ 物 を す る 方 法 二 八 五 頁

三道茶/八宝茶/妨茶(スl

ティ

l・チャイ)/献油茶とツアンパ(バタ1茶とツ

アン

パ)

二七

七頁

二七

九頁

二 八

O

二 八

O

二八

一頁

二八

三頁

(11)

古代喫茶法の残存

地域的特色

第 三 節 食 品 の 茶

生葉を食する

涼仲茶 漬物茶

漬物にして食べる茶

二八八頁

二八八頁

O

( 1

)  

( 2

)  

タイのミアン

( 3

)  

ミャンマーのラベソ!

3  国民的食べ物/ダヌ族のラペソ

l /パラウン族のラベソl

漬物茶ミアンの位置づけ

ミアンと若/チヤとミアン 二九七頁

結 番茶の意義付け/番茶製法の編年と日本の茶産業との関連/女性と茶/山茶と柴茶と茶 論 粥/後発酵茶の分布と東南アジアとの関連/東南アジアへの視野拡大

初出一覧

参考文献

使用した写真は注記なき限り

執筆者が撮影したものである

(12)

ラム面開

庶民の茶文化

茶文化研究と番茶

日常茶飯の茶についての関心

茶文化の研究といえば︑その対象は茶の湯の文化と歴史︑とみなされた時代が長く続い

てきた︒茶の湯は︑その成立過程からみて︑決して庶民日常のものではなかったにもかか

わらず︑日常茶飯事という言葉は︑ごく当たり前の出来事を意味する表現として︑まさに

日常的に使われている︒飯も茶もごくありふれた日常の暮らしに欠かせないものである︑

というのが語源とされる︒この語の初見については明確な例示がない︒日本語の単語につ

いての初見例を挙げている﹃日本国語大辞典﹄(小学館)においても︑一九一九年の﹃現代

新語辞典﹄や近代文学から採っている︒

では︑飯はさておき︑茶はいつから日常の存在だったのであろうか︒また︑日常茶飯の

もとになる茶は︑どんな形態の茶であり︑どんなふうに飲まれていたのだろうか︒その具

体的な様相は唆昧なままに︑語句だけが独り歩きをしてきた自体︑日常の茶についての関

心は低かったといってよいだろう

o J 4

一般的な理解でいえば︑日本における茶の歴史の主流は︑栄西以降︑日本に抹茶法が導

入されたことで本格的な普及の時代を迎え︑この抹茶法にさまざまな宗教・文学・美術な

どの文化要素が付与されることで︑茶の湯というものが成立した︒そして武家︑貴族︑寺

院など上流階級に普及していった茶が︑やがて庶民社会にも拡大していき茶は日常の飲料

として不可欠なものになったとされている︒だが︑庶民が日常的な飲み物として受け入れ

ていた茶が︑抹茶でなかったことは明らかである︒大方の体験に照らしてみても︑それは

急須を用いて茶碗に注ぐ煎茶であったり︑囲炉裏にかけた薬缶で煮出した茶を必要に応じ

て飲む番茶であった︒だとすれば︑抹茶がいつのまにかこのような茶に変容したというこ

となのか︑あるいは抹茶よりも簡便な製茶法を案出して日用に供するようになったのか︑

それとも異なる発展過程をとった別な茶が存在したのか︑というような素朴な疑問が生じ

る︒つまり﹁日常茶飯の基礎である茶﹂については︑なんら学問的な究明がなされてこな

かっ

たの

であ

る︒

こうした些細なことのように見えながらも︑茶の本質に関わる疑問に対して明確な解答

がなされてこなかったのは︑茶文化なるものに対する︑きわめて偏った観念があったから

である︒つまり︑庶民の日常の茶のありょうは︑いわゆる茶文化研究の時外に置かれてお

り︑それがたまたま注目された場合にも︑茶の湯文化周縁の話題ないし抹茶文化の派生的

なものという扱いを受けてきた︒たとえば︑角川書唐刊行の﹃図説茶道体系﹄(全七巻)の

第二巻﹃茶の文化史﹄は︑一九六二年の刊行時点における﹁茶文化﹂研究の水準を示し︑

(13)

茶の歴史を多角的にとらえた優れたもので︑本論文の筆者が関心を寄せる中世の図像や文

芸に見える茶も紹介している︒しかし﹁庶民のなかの茶﹂という解説で﹁喫茶の風習は武

家・寺院からしだいに庶民の聞に広がり﹂(同書九六頁)という程度の解説しかなされてい

ない︒根底にあるのは抹茶中心の茶の湯﹁文化﹂であり︑庶民の茶は︑あくまでもその余

波という位置づけしかなされていない︒同書には︑﹁女性と茶﹂という︑魅力的な標題をも

っ節もある︒しかし︑この場合の女性は茶会に女性が加わり︑やがて各流派において女性

が圧倒的な数を占めるようになる過程を追ったものであり︑近年の加藤恵津子の茶と女性

との関係を追求した研究も茶道と女性という視点にたっている①︒これらには︑女性が日

常の食や茶と深く関わってきたという視点には全く言及されていない︒つまり︑日常茶飯

の茶についての学問的関心は︑茶の湯研究者の聞には存在しなかったといっても過言では

なし

その意味で︑民俗学者である千葉徳爾の﹁茶の民俗﹂②は画期的な内容であった︒茶に

関する民俗︑という視点︑がこれまでほとんど存在しなかったからであるが︑とくに食と茶

との関連に着目し︑茶は単なる飲料ではなく︑食の意味でも使用された可能性があると指

摘している︒この視点は︑茶そのものの概念を大きく変えるものであり︑庶民は茶をさま

ざまな方法で食に取り込んでいると同時に︑茶にかかわる多様な民俗が研究対象として重

要な意義をもっということを示した︒

しかし︑これによって日常茶飯における茶の実態が解明されたわけではない︒ところが

庶民の茶とは︑いかなるものだったのか︑という疑問に対する答は︑歴史学や民俗学から

のアプローチではなく︑すでに昭和初期において茶業界から出されていたのである︒農林

省の茶業研究者であった桑原次郎右衛門は全国に伝承されてきた番茶を初めて類別し︑そ

れを伝承してきた地域の噌好について報告した③︒その目的は現行の茶を地域の噌好に合

わせてどのように加工していくかという視点にたったものではあるが︑地域ごとに驚くほ

ど多様な庶民の茶が存在していたことを明らかにした︒ついで︑鹿児島高等農林学校教授

であった谷口熊之助は︑現地調査と研究機関からの報告結果に基づき︑自生茶と目されて

いたヤマチヤ(山茶)について総合的な分布報告を行った④︒

このこ人の研究成果は︑庶民の茶がじつに多様な存在形態を示しており︑同時にその茶

の原料となる自然生の茶が全国に広く分布していたことを証明したのである︒すでに戦前

期になされていたこの研究成果に︑茶文化研究者は気づかず︑あるいは無視したまま庶民

の茶は上流の茶の湯文化に倣ったものという観念を持ち続けていたのであった︒

ここで桑原が使用した番茶︑という語に注目したい︒番茶について茶業界では次のよう

な理解がなされている︒すなわち新芽を素材にした煎茶に対して︑夏過ぎの硬化した茶葉

を素材にした下級品というものである︒客に茶を出すときにも﹁番茶で恐縮ですが﹂と謙

遜的

に使

われ

る︒

しかし桑原は︑業界における使い方ではなく︑各地の伝統的な製法によるまさに庶民の

茶というような意味で番茶を用いている︒番茶の実態については第一章で詳細に検討する

(14)

が︑この番茶をキーワードにすることで︑製法が千差万別である庶民の自家用の茶の実態

を比較・研究することができるであろう︒筆者は先駆者としての桑原に対する敬意を表す

ることを含めて︑庶民の茶を研究するにあたって︑番茶を定義しなおし︑より広い視野か

らこの語を位置づけることを企図したのである︒

アジア的視野に立つ庶民の茶文化研究

さて︑さきの千葉の研究以後︑庶民の茶︑民俗学の視点からの茶の研究は︑次第に市民

権を得るようになった︒その中心になったのは︑橋本実︑松下智︑小川英樹らである︒三

人はともに農学の研究者であるが︑庶民の茶についての関心が高く︑橋本を中心に﹃地方

茶の研究﹄(愛知県郷土資料刊行会︑一九七五年)を刊行し︑松下は個別の現地調査報告と

ともに︑﹃茶の博物誌﹄(東京書房社︑一九七四年)︑明お茶の百科﹄(同成社︑一九八一年)

などの啓蒙的な書もあいついで刊行した︒とくに松下はきわめて不自由な条件のもとに中

国における現地調査を精力的に継続し︑中国人でさえなしえなかった中国少数民族の茶の

実態を﹃茶の民族誌l製茶文化の源流﹄(雄山閣出版︑一九九八年)としてまとめることに

なる︒また小川は勤務校の興誠高等学校の紀要である﹃興誠論集﹄に農学的な茶研究のほ

かに茶に関する習俗について多くの研究成果を発表している︒

こうして茶についての総合的な研究に関心が高まっていくなかで︑茶文化研究における

画期的な成果が生み出された︒国立民族学博物館が主導した共同研究﹁茶の文化に関する

総合研究﹂(代表者守屋毅)の成果として刊行された﹃茶の文化その総合的研究﹄(梅梓

忠夫監修︑守屋毅編集︑淡交社︑一九八一年)である︒監修者である梅樟忠夫は﹁本書で

あっかわれる﹃茶の文化﹄とは︑日本のお茶あるいは茶道のことばかりではない(中略)︒

本書が解明しようとしているのは︑広く︑茶と人間のかかわり方の︑古今東西にわたる諸

様相なのである﹂とし︑茶の文化の全体像を轍密な実証的な研究によってえがきだす︑と

述べている︒この論文集の成果は本論文の各所で参照していくが︑本論文にとってもっと

も大きな関係をもち︑かつ重要な示唆を与えてくれたのが︑守屋毅の同書第H部収載﹁近

世常民の社会と茶の文化﹂という論考である︒守屋が分析の対象とした事項は︑筆者も関

心のあるところであるが︑最後に﹁結びに﹂として次のような要約がある︒﹁茶の常民社会

への普及は︑近世初頭にはすでに禁制の対象となる程度の段階に達していたが︑それが者

修(噌好品)のレベルから常用品へ展開するのは︑おおよそ十八世紀以降であろうと考え

られ

る(

O

四 貰

) ︒

この考えは︑日常茶飯という語︑が決して古くからの言い回しではなかったという点にお

いて︑妥当性をもつものかも知れない︒しかし︑現実に全国各地に驚くほど多様な番茶が

存在し︑かつ番茶の存在が前提になる茶にまつわる多様な民俗(婚姻との関連︑女性や食

との関連など)が伝承されていることにもっと注目しなければならない︒たとえば︑いわ

ゆる﹁慶安御触書﹂に見える大茶の禁令にしても︑大茶と呼ばれた女性の飲茶の会の存在

は中世末期においてすでにみられ︑しかもそれが単に茶を大量に飲むという意味ではない

ことを考えると︑庶民の日常における飲茶の習慣は︑少なくとも近世以前にさかのぼり︑

(15)

しかも女性が集まる機会をつくりだしていたことが判明する︒庶民社会における飲茶の習

慣は︑狂言や図像資料からもうかがうことができ︑日常茶飯はすでに実体化していたとい

える

なお守屋はこの茶の文化の総合的研究の一環として自らのフィールドワークの成果を ︒

﹃お茶のきた道﹄(日本放送出版協会︑一九八三年)としてまとめている︒とくにタイ国の

ミエン(ミアン)を食べる茶として具体的に紹介し︑茶文化をアジア全体で考察するとい

う視点を示して大きな影響を与えた︒さらに﹁喫茶の文明史﹂(﹃茶道衆錦﹄第一巻(茶の

文化)所収︑小学館︑一九八七年)と︑没後に編集された遺稿集﹃喫茶の文明史﹄(淡交社︑

一九九二年)において︑さらに体系的な茶文化研究を企図していた︒また吉村亨は中世史

料研究の成果の上に中国で一般化している茶俗という概念をもとに日本の茶に関する習俗

の多面的な研究を発表している(﹁日本茶俗史の研究(上下)﹂﹃人間文化研究﹄第二四・二

六号︑二

OO

九︑

O

年)︒本論文の筆者は︑このような視点から﹃茶の民俗学﹄(名著出

版︑一九九二年)︑﹃番茶と日本人﹄(吉川弘文館︑一九九八年)を上梓して庶民の茶につい

ての研究を深めてきた︒

本論文では︑こうした学問的蓄積の上に︑歴史的な史料と︑全国に伝承された民俗例を

合わせ考えることで︑日常茶飯といわれた庶民の茶文化の全体像を多面的に明らかにする

ことを目的とするものである︒

まず︑最初に茶という植物と︑茶がどんな契機で人間が利用するようになったのかにJ

いて

︑ま

とめ

てみ

よう

緑茶の薬効と茶利用の契機

さまざまな薬効

人聞はどんな契機で茶の有用性を知り︑生活の中に取り込んだのであろうか︒中国唐代

の陸羽によって著され︑一

O

章に分けて茶のあらゆる情報をまとめ上げ︑現代に至るまで

茶の聖典として尊重されている﹃茶経﹄には︑茶が飲料となったのは神農に始まるとする︒

神農は炎帝ともいう中国における伝説的な皇帝で農業︑医薬の神として信仰されている︒

神農は日に七

O

とも七二ともいう多くの薬草を試し︑毒にあたった場合は茶を噛んで解毒

したといわれる︒現在の茶の一般書には神農が茶葉を噛む姿の図像が掲載され︑日本でも

近世に発展した医者や薬種展の集いである神農講でも同様な姿をした彫像を杷る例がある︒

神農神話はさらに脚色されて︑たとえば︑神農が鍋で湯を沸かしていたとき︑たまたま

風に乗ってきた茶の葉が入ってしまい︑その湯を飲むことによって様々な効能を知ること

になったという話にもなり︑現在では漫画化された﹃茶経﹄などにも引用されているほど

であ

る︒

こうした話の真偽に関わらず︑茶に何らかの薬効があるために人聞が利用し始めたこと

(16)

は確かであろう︒﹃茶経﹄(一之源)では︑茶は漢方でいう寒に属し︑発熱による頭痛・自

の不快感・手足の疲れなどに効果があるとしている⑤︒

寝る前に茶を飲むと眠れなくなる︑飲むと気持ちがすっきりするというのは茶のもっと

も一般的な印象である︒ラオスにおいて︑生まれて初めて茶を体験したという四三歳の男

性の話を聞いたことがある︒ラオスには飲むだけでなく︑タイやミャンマーと同様の漬物

茶がある︒それを少年時代に初めて食べたとき︑酔っぱらったような感じがしたというの

である︒これは酒とは別な感覚であったというから︑一種の興奮作用を感じたのであろう︒

こうした茶の特性については︑ナルコチックスという表現を用いて人間の精神への働きか

けの機能が表現される︒ナルコチックスとは麻酔薬の総称で︑服用することによって精神

状態が変化を受けるような化学物質のことで⑥︑酒と茶の薬効もまさにそれにあたる︒た

だし︑飲酒が精神を高揚させるのに対して︑茶はむしろ沈静化させる方向に機能する︒眠

れなくなるという感覚は︑さきのラオスの男性がいうとこころの酔っぱらった感覚という

よりも︑精神を研︑ぎ澄ますような効果をさすのである︒

茶にはこのような興奮作用のほかに︑さまざまな薬効があることが知られる︒とくに摘

採後︑すみやかに熱処理をして発酵をとめてしまう縁茶にとくに多く含まれる渋み成分で

あるカテキンの効能として広く喧伝されている︒いわく︑長寿のもと︑癌を抑える︑腐敗

防止や防臭に効果があるなど︑まさに驚くべき効能が確認されており︑カテキンを用いた

数 多 く の 商 品 が 生 み 出 さ れ

︑ ま た 臨 床 研 究 も 行 わ れ て い る

︒ タ ぇ

日本に茶をもたらしたとされてきた明庵栄西はその著﹃喫茶養生記﹄(東洋文庫版)

頭において次のように茶の効能を述べている︒

茶は養生の仙薬なり︒延命の妙術なり︒山谷之を生ずれば︑其の地神霊なり︒人倫之

を採れば︑其の人長命なり︒

この書は﹃吾妻鏡﹄建保二年(二二四)二月四日条に︑将軍実朝が二日酔いに苦しん

でいたところ︑栄商が﹁良薬﹂と称して﹁茶一義﹂を勧め︑かつ一書を添えたと書かれて

いる︑その一書のことで︑﹁茶徳を誉める所の書﹂すなわち﹃喫茶養生記﹄であった︒わず

かな行数の聞に︑酔いをさまして爽快感をもたらすという茶の実際の効能と︑茶が良薬で

あることが述べられ︑さらに﹃喫茶養生記﹄がどのような目的の書物であるかが明確にさ

れている︒さらに﹃喫茶養生記﹄は︑上下二巻に分かたれており︑上巻は茶について︑下

巻は桑の効能を述べたものであることに注意しておきたい︒栄西は茶に対して︑薬として

の機能を重視していたのである︒そして彼が強調した茶の効能は現代化学において次々に

立証されている︒現代化学は栄西が指摘した薬効を追認しているといっても過言ではない︒

また鎌倉時代の無住の﹃沙石集﹄(弘安六年H一二八三)では︑ある僧が茶を飲んでいる

ところにやってきた牛飼に対し僧が﹁是ハ三ノ徳有薬ナリ﹂と言い︑その効能をごニハ

坐禅ノ時ネブラル¥ガ︑是ヲノミツレパ︑通夜ネラレズ︒一ニハ︑食ニアケル時服スレパ︑

(17)

食消シテ身カロク︑心あキラカナリ︑二一ハ︑不発ニナル薬也﹂⑦と説明したところ︑覚

醒作用があり︑消化もよく︑さらに不発となるなら︑毎日の労働に明け暮れる自分には何

もいいところはない︑と答える話が載っている︒この説話から当時茶の薬効が重視されて

いたことが読み取れる③︒

茶の種類

不発酵茶と発酵茶

一口に茶といってもその内容は製茶の方法によって多様である︒しかも茶は商品として

高い価値を有するため︑他と区分するために製法・産地名・形状・味わいなど︑数多くの

要素をもとに無数の呼称が生れている︒また︑生の茶葉は︑摘まれた瞬間から本来備わっ

ている酸化酵素の働きによって酸化が始まり︑色も香りも変化していく︒緑茶の製法の基

本は︑この化学的変化を避けるために︑蒸す︑妙るなどの熱処理をしてなるべく早く酵素

を失活させることにあり︑その工程を殺青(さっせい)と呼ぶ︒逆に酸化酵素を十分に機

能させ︑緑茶とは全く異なる色や香りを作り出すのがウーロン茶と紅茶である︒したがっ

て︑現在商品として流通している茶は︑チャ葉がもっ酸化酵素を失活(酸化作用を停止さ

せる)させるか︑あるいは活性化させるか︑という製造法による違いによって次のように

分類される︒なお︑ここで使用する発酵とは︑バクテリアによる真正の発酵とは異なり︑

本来は酸化であるが茶に関しては慣例として発酵という表現を使用している︒基本的な分

類は次のとおりである︒

茶の基本的分類不発酵茶(緑茶)

半発酵茶(ウーロン茶)

発酵茶(紅茶)

なお︑発酵の程度に応じて香りや味が醸成されるため︑不発酵の緑茶と発酵を極めた紅

茶との中間段階にウーロン茶をはじめとする無数の茶が存在することになり︑商品化を前

提にそれぞれ独自の命名がされている︒これらに対して︑後発酵茶と呼ばれるものがある︒

これは酸化酵素を失活させてから︑あらためて微生物の働きによってカビ付けをしたり︑

嫌気性バクテリアの働きによって真正の発酵をさせたもので︑上記の発酵と異なるプロセ

スをとっているために後発酵茶と表記している︒具体的には︑蒸してから床上に積んでカ

ピを付け︑さらに桶に漬け込むという︑高知県の碁石茶などが該当する︒

本論で扱う茶は︑基本的には不発酵茶と後発酵茶である︒その理由は︑ウーロン茶と紅

茶はもともと商品として定着したもので︑その始まりは明確ではなく︑おそらく十六世紀

より前にはさかのぼらないと考えられているからである︒すなわち︑十七世紀初頭︑初め

て茶がヨーロッパにわたり商品として高い価値があることが認められるや︑中国から大量

の茶が輸出されるようになるが︑最初は緑茶であった︒つまりこの段階までの製茶法は︑

P  6 

(18)

なるべく早く殺青することで茶の本来的な香りや味わいを保持することが重視されていた

ためである︒しかし摘採から殺青までに時間がかかったなどの偶然により発酵が進んでし

まい︑自然にウーロン茶的なものができ︑その延長線上に紅茶ができたと考えられている︒

その結果︑緑茶とは味も香りも全く異なる新たな茶が誕生し︑これがイギリスなどで評価

されたために︑特に紅茶の生産が増大した︒日本茶業中央会による二

O

一一

年の

統計

では

世界の茶生産量は年間四三三万トンで︑そのうち緑茶の占める割合は三二パーセントであ

G

さきに日本の緑茶生産について触れたが︑生産のほぼ全量が緑茶である日本では︑栽培

面積の減少や茶価の低迷などの諸要因のため生産量は減少傾向にあり︑同年の国内生産量

は約八万二千トンにとどまっている︒ちなみに中国の全生産量は世界一で一六二万トン︑

そのうち緑茶生産量は一一四万トンであるが︑中国緑茶の製法は日本が蒸しによる殺青法

をとっているのに対し︑釜妙りという特徴をもっている︒

茶の原産地

中国雲南省

チ介すという植物ーの原産地はどこであろうか⑨︒中国西南部の雲南省から四川省ナ帯にか

けては︑樹高が一

0

メートルを超える巨大な茶樹の存在が報告されている︒たとえば︑西

双版納の一角︑澗治県富東郷邦巌村(標高約一八

00

メートル)の通称千年古茶樹は樹高

一一・八メートル︑幹の直径が一・一四メートルもある⑮︒住民のラフ族は︑この木に梯

子をかけて摘採して釜妙り茶を作っていた︒また茶期前には木の根元に線香を供えてその

年の茶の出来を祈った︒動海県巴達郷大黒山の山中では一九六一年に樹高三二メートルを

超える巨大な茶樹が発見され樹齢は一七

OO

年といわれる︒一九九四年にこの木を現地で

実見したときには発見以後の落雷によって上部が欠損していたが︑三つに分かれた幹の一

本は直径六

0

センチあった︒その後︑周辺の密林中に同様の大茶樹が九本発見され︑いず

れも野生型と称されている︒周辺に住むアイニ族は釜妙り茶を作っているが︑茶葉は集落

周辺の茶畑から採取しており︑この木は利用していなかった︒同県の南嬬山の茶樹王と命

名された古木は︑樹高九・五五メートル︑直径が一・三八メートル︑樹齢は八

OO

年と推

定され実際に摘採されていた︒この木が中国における大茶樹発見の最初であり︑多くの見

学者が訪れた︒しかし現在は枯死してしまった︒周辺を踏み固めてしまったことが大きな

理由であるとされる︒この茶樹は人聞が利用のために植栽したものと考えられ︑栽培型と

され︑大黒山の茶樹は野生型︑邦巌村のものは両者の中間型といわれるが︑この区分は必

ずしも明確ではない︒カメリア族のシネンシス(のぬ因︒出ば民問自己明)というのが一般的な

チヤであるが︑これらの巨樹の一部は植物学的には近縁種のカメリア・タリエンシス

であるという見解もある︒茶葉の成分分析を行うと︑主要な薬効成

(忌

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)

(19)

9 0

謀議捕に近いほど︑同一

ある

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0

bは議﹁茶は端方の轟木﹂とし︑木の高

}事j説的 f 有 i1í 1:告!選 \rNti]~l'hl ti持者総ラブ依ド i 治祭)

(20)

かし︑松下はもうひとつ重要な指摘をしている︒それは︑茶が原産地と目される雲南省南

部から自然に広がり︑﹁雲貴高原を北上して北端の武陵山にまで達したものであり︑その茶

樹を活用し始めたのが巴の地︑武陵山の山地民族﹂であるという︒つまり人類の茶利用は︑

原産地の住民から始まったのではなく︑植物の自然拡大の結果︑原産地から隔たった所の

民族が有用性に着目して利用を開始し︑その民族の移動によって人為的に拡大したとする

のである⑬︒松下はヤオ族がその媒介者ではなかったかと考えているが︑当面はこの説の

当否を証明するには至っていない︒

茶利用の契機を語るアジアの伝説

こうした茶利用の始まりを説いた多くの伝説があるが︑それは大きく二つの契機に分け

ることができる︒すなわち︑いかなる偶然によって茶の薬効を知ったかという薬効説︑も

うひとつは︑神や英雄の思恵によって茶栽培を知った民族が豊かになったという経済説で

ある︒しかし︑薬効の認識があればこそ︑茶が商品として意味をもつのであるから︑

二つの説の先後関係は明らかである︒

インド

インドでは︑北アッサムに住むジュンポ

i

(

ジンポ

l )

族の兄弟が森の中で口にした木

の葉を口にしたことによって元気になった︒これは何の葉だという意味の﹁フアラップ﹂

が茶をさす言葉になった⑬︒ジンポl族は中国からミャンマー︑そしてインドの山岳地帯

にすむ焼畑民で︑ミャンマーでは竹筒茶を好んで作る︒しかしアッサムにおいては彼らが

漬物茶も作っていることが報告されている⑪︒つまりこの伝説は︑茶を食べるものとして

伝承していることになる︒筆者は二

OO

三年位ミャンマー国境に近い︑アッサム州ジャラ

ンプという集落のジンポ!族からも︑茶のことをファラップということを聞いたが︑ここ

では竹筒茶を作っていた︒ミャンマーのカチン州において︑いわゆるカチン族の中核をな

すジンポl族は︑筆者の調査によれば茶のことをパカと呼んでおり︑かつ漬物茶を作る習

慣は持っていなかったが︑漬物茶の存在をうかがわせるような報告がないわけではない︒

このことについては︑後述する︒

ミャンマー

ミャンマーのシャン高原に住むパラウン族は中国では徳昂族と呼ばれる焼畑民で︑いず

れの国においても茶つくりの民として知られている︒パガン朝の四代目の玉︑アラウンシ

ツ王(十二世紀)は諸国巡見の折︑パラウン族の本拠となっている現在のナムサン町のル

エサイにやってきて︑住民があまりに貧しいのを知り︑手ずから茶の種を与えたので︑パ

ラウン族は茶を作ることで生活が豊かになった︒玉が与えた種を片手で受け取ったことが︑

ピルア語のラべという語源になったという︒ルエサイには王から下賜された茶の種が育っ

たとされる茶の巨木(現在は二代目という)があり︑脇に王や家臣たちの群像が和られて

(21)

ただし︑ラベはぜんマ語であって︑茶を受け取ったパラウン族の言葉ではない︒パラウ

茶作ちの氏︑パラウン族が訴える茶の起濃伝説は︑貧国からの脱出の契機となったとい

ひとつはカチン州のジンポ

i

族の伝承である︒ミャンマーの母なる川ともいえるエ

l

i

ヂィ

i

川(イラワジ川)の源流舎なす二つの川のうち︑マリカ川川︑をはさんで若い男女

cある持︑娘の拙仰が奥の誠意を疑い︑妹に対し︑もし男

ο

や︑

がて

悲報

者知

った

娘︑

も嘆

きの

あま

り患

wフ ︒

伝承者によっては︑男から茶︑女からケシが生じたとなっているが︑茶の薬効を説く話

また︑シャン川内需部の山岳地需拡住むパラウン族も︑やはり茶作りで暮らしを支えてい

'?:i:.J!蓄ti'告とすムサンの後綴

10 

るアラウンシツヨさ

{ミャンマー・シャン州Jレヱサイ)

1 0  

(22)

は別に︑つぎのような話を伝えている︒ここでは茶のことをニヤウという︒それは︑ある

おばあさんが病気にかかり︑意識不明の重態に陥った︒そこで茶の葉を掃いて汁をとり︑

それを口に含ませたら元気になった︒パラウン語で老婆のことをヤl︑元気になることを

ユ!というので︑この二つを合わせてアニヤウというようになったという︒

このように見ていくと︑茶が受容された契機は大きく二つにわけることができる︒ひと

つは︑薬効によるもの︑ひとつは経済作物として暮らしの向上に役立ったというものであ

る︒しかし︑なぜ茶が経済作物になったのかといえば︑それは何らかの薬効があると信じ

られたからであるから︑まずは茶の薬効が評価され︑それが商品として価値をもっ原因と

なったのである︒

中国

茶の種あるいはよい茶を与えてくれたのは︑歴史上の人物(神)である︒雲南省のハニ

族の聞には︑仙女に教えられた茶の木から茶を摘み村が豊かになったという話がある︒

すなわち︑少年が三頭の雄牛と二頭の雌牛を与えられ︑百頭に増えたら山を下りてよい

と言われ︑山中での生活を始め持参した食料が尽きたころ︑雲霧に鎖されたある山の頂で

休んでいると︑雲の中から美しい仙女が現れた︒ご﹂れからは楽に暮らしていけるようにし

てあげますよ﹂と言って扇で三回あおぐと︑雲と霧は消え去り︑眼前に一本の大きな茶樹

が現れた︒仙女は﹁これは茶樹王です︒芽を摘んで飲み︑若葉を採って御飯をつくって食

べなさい﹂と言い残して仙女は白雲に乗って天空に飛び去った︒年月がすぎ︑彼は白髪の

老人になったとき牛の数は百頭を超えた︒そこで彼は︑茶の若い芽と葉を摘んで村に帰っ

た︒しかし彼を知っている人はもう誰もおらず︑やっと一人の老人が彼のことを思い出し

てくれた︒持ちかえった茶を飲ませると︑あまりの美味しさにみんな感激し︑茶樹玉を見

に連れていってほしいとせがんだ︒そこで若者たちを連れて山に登った︒茶樹王の梢は見

上げるばかり︑幹は五人が手をつないでやっと回るほどだった︒しかし︑突然白雲がわき

起こり山は霧が晴れると︑そこに茶樹王の姿はなく︑山と谷を埋めつくして茶の木が生え

ていた︒これ以後︑人々は茶の木を栽培して茶を作るようになり︑日々の暮らしを茶に頼

るようになったのである⑬︒神仙説話と結びついた物語であるが︑﹃三国士山﹄の英雄︑諸葛

孔明に茶を与えられたと伝えるのがやはり雲南省の基諾族である︒孔明は萄の英雄であり︑

その萄の地は茶の原産地にも近いから両者が結びつくのは容易であったろう︒日本におけ

る茶の起源伝説もまた神や高名な歴史上の人物と関係ある︒

ノ¥

日本における茶の利用開始を語る伝説

天人・落人

愛知県豊川市行明神社に伝わる話では︑天人伝説に結びついている︒昔︑男が釣りをして

いて天人の羽衣を見つけ︑それを隠してしまった︒天人は男と結婚して子供ももうけたが︑

(23)

やがてその羽衣を見つけたので天に帰る際︑下界に残していく我が子に茶の実を与えたと

いう︒その茶の実が生えた時︑不思議にも片葉の茶であった@︒香川県の石鎚には平家の

落人が茶を持ち込んだという伝承がある(第三章参照)︒

行基

実在の人物を主人公とするなかで︑もっとも古いのは︑行基に関わる伝説である︒天平

年中のこと︑聖武天皇が重い病気に擢ったので︑その原因を占わせたところ︑東国に齢千

年の大楠があり︑寿命尽きるにあたって自らを仏体に刻んで永くこの地に留まろうとして

いるからだという︒そこで命を受けた行基がはるばる駿河国に来て︑足窪(久保)の山中

にあった大楠を発見した︒その木を伐ってから行基が懸命に観音像を作っていると﹁杓子

婆姥なるもの日々来たりて湯を貸せしむ︑之れを味ふるに精神爽快たり︑以て終日の労苦

を慰せりといふ︑依りて婆に問ふに此山中到る処此樹あり︑春に至れば其枝葉繁茂す︑其

撒芽を摘み之を干して日々の常飲料となし居る旨を答ふ︑之れ仏説による茶ならん﹂とい

うのである@︒仏像製作にうちこむ行基の疲れを癒した飲物は︑実は地元産の茶であった

と解釈されている︒行基が観音像を刻んだ場所に建立した寺を法明寺といい︑その境内に

は伝説のシヤクシパパーだといわれる石像が現在も立っている︒これは﹃東大寺要録﹄に︑

行基が諸国に堂舎を建てこれに茶木を植えたとあることに影響された可能性が高いが︑同

書は鎌倉時代中期以降の成立とされるため︑行基による植栽は伝承の域を出ない︒

弘法大師

空海と最澄はともに八

O

四年に入麿︑二人が滞在中に唐の茶に触れた可能性は高い︒八

O

六年に帰国した空海が中国から茶を持ち帰って播いたのが︑大和の茶の発祥の地とされ

る奈良県宇陀市赤埴にある仏隆寺であるといい︑境内には﹁大和茶発祥伝承地﹂という石

碑が建てられている︒また伊勢茶の産地の中心︑四日市市の水沢では︑飯盛山浄林寺(現

一乗寺)の玄庵という僧の先住が空海から製茶の教を受けたのが最初だという︒ある日︑

里人二人がこの寺を訪ねたら玄庵が﹁頻りに木葉を火に熔り枯葉となせる﹂のを見て︑そ

の由来を聞いたところ︑先住の在世中に空一海︑がやって来て︑唐伝来の茶樹だといって当寺

に播いていったもので︑これを煎じて飲めば爽快になるものだ︑と教えた︒そこで二人は

実を貰い受けて畑の隅に播いて自家用茶としたのが水沢の茶の始まりである⑫︒静岡県浜

松市天竜区の熊は︑早くから﹁熊茶﹂の産地として知られるが︑ここには︑お茶は弘法様

が教えて植えさせたといい︑隣接の龍山にも同様な伝説がある︒また︑﹃熊野市史﹄⑫には︑

こんな話がある︒昔︑弘法大師が丹倉へ通りかかり︑ある家に立ち寄ってお茶を一杯所望

したところ︑その家の者は﹁ここのお茶は渋い﹂といって水を与えた︒次に赤倉に行って

水を一杯所望したところ︑その家の者は﹁お茶を飲んで下さい﹂といってお茶を与えた︒

すると︑弘法大師は﹁赤倉は山を伐ったら必ずお茶の木が出るようにしてやろう﹂と言っ

た︒そのため︑今でも丹倉のお茶は渋く︑赤倉のお茶はおいしいといわれている︒もうひ

とつ︑昔︑弘法大師が長原へまわってこられた時︑お茶を差し上げたので︑お茶の種を播

いておいてくださった︒そのため︑今でも種をまかなくてもお茶の葉が出るといい︑

この

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1 2  

(24)

お茶のことを﹁弘法茶﹂といっている︒この話は有名な弘法清水の伝説と同じパターンで

あるが︑焼畑のために山を焼いたあと︑必ず茶の木が出てくるという経験にもとづき︑そ

の理由を弘法大師の偉大さに結びつけて説明したものである︒ヤマチヤ(山茶)の起源伝

説といってもよいだろう︒また阿波番茶の産地である徳島県那賀郡相生町の丹生谷におい

ては︑弘法大師が茶の種を持ち帰り四国八十八ケ所の第二十一番太龍山に登り西方に向か

って種子を伝播するとともに製造の秘伝を授けたと伝えられている@︒九州にもヤマチヤ

の始まりは弘法大師によるという伝説がある︒

最澄と日吉茶園

滋賀県坂本の京阪電車坂本駅のすぐ前︑日吉大社参道に続く道沿いに﹁日吉茶園﹂がある︒

小さな木の柵で固まれた入り口に注連縄が張つである︒茶園は幅五メートル︑長さ一ニ

0

ートルほどで二

O

本ほどの茶の木が植わっている︒いずれも小さな葉っぱが主体の︑いわ

ゆる在来種である︒傍らに﹁日吉茶園之碑﹂と刻し茶閣の由緒をしるした大正十年建立の

石碑

があ

る︒

そもそも日吉茶園とは︑延暦二十四年(八

O

五)に最澄が唐から帰朝した際持ち帰った茶

の種子を播いたのが始まりとされる︒ただし同時代の史書にはこういう記述はない︒中世

に成立した﹁日吉社神道秘記﹂に︑その旨が書かれていることをもって伝承の裏付けとし

ている︒ただし︑後述する永忠の呈茶という史実があり︑空海の詩文からも︑平安初期の

宮廷において茶がもてはやされていたことは確実である︒日吉神社では︑この茶園の茶を

摘み︑祭礼時に神輿に供える茶を製している︒

日吉神社の社務所保管の昭和二十八年に書かれた茶園に関する資料によると︑茶園は何回

かの戦火に遭ったため︑古代からそのままの姿を留めているとは考え難いものの︑かつて

はかなりの面積にわたって大きな茶樹が生えていたされる︒同書記載の当時八五歳であっ

た高橋勇治氏の思い出では︑﹁昔は坂本のあたり一帯︑が茶園になっていたが︑日吉にある茶

樹が最大であった︒幹の太さは民家の床柱より太く︑木の高さは隣家の屋上に届くほどで︑

子供がよじ登っていた﹂という︒それ以前には茶樹は七株あり︑株の周囲は四尺︑高さ七

尺といい︑さらに昔には二ニ株あったとされる︒大正六年に日吉茶園保存会を設けて守る

ことにしたというのが︑さきの石碑建立の背景である︒この茶園は昭和二年に京阪電車の

坂本駅設置の際に掘り起こされ︑普通の茶畑になってしまったとされる︒

日吉神社は比叡山延暦寺の鎮守であり︑日本史上でも重要な位置を占めていて︑年間の

祭把は地域にとっても大きな行事である︒とくに山王祭は三月一日(現在は第一日曜日)

に金大巌という神社発祥の地に二基の神輿が担ぎあげられことに始まる︒二基は四月十二

日に本殿まで下り境内の二社の神輿二基を合わせた四基が宵宮場に奉安され︑十三日に献

茶祭が行われる︒このときに呈される茶がさきの日吉茶園の茶なのである︒茶は現在では

神職が献じるが︑以前は代々﹁山王さんの献じ元﹂といわれてきた茶之木家(旧称坂本本

町に子孫が居住)が務めていた︒神輿に献じる茶は抹茶であるが︑現在の日吉茶園の様子

を見る限り抹茶のもとになる磯茶を作れるような状態ではない︒実際には市内の茶屈に頼

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