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宗 教 的 な 宗 教 現 象 と 世 俗 的 な 宗 教 現 象 の あ い だ

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はじめに   本論では︑ある現象を宗教だと判断する際の基準はどのような要素になりうるのか︑という問題について考察す

る︒宗教の判断基準は﹁何か﹂という問題ではなく︑それが﹁どのような要素になりうるのか﹂を問うという本論

の態度は︑かなり回りくどく思われるかもしれない︒実際︑これまでわれわれは︑ある現象を宗教だと判断する際

宗 教 的 な 宗 教 現 象 と 世 俗 的 な 宗 教 現 象 の あ い だ

││

 

宗教の判断基準はどのような要素になりうるか

 

││

髙   山   善   光

(2)

の基準がどのような要素になりうるのか︑という問題を問う必要もなかった︒なぜなら︑それは当然一つないし複

数の宗教現象であると考えられ︑そのことは疑う余地などないと思われていたためである︒たとえば︑よく知られているようにM・エリアーデは︑宗教を定義することは︑すべての宗教現象に共通する本質的な現象を選び取るこ

とだと考えていた︒また︑M・ウェーバーは︑すべての宗教現象を考察した後にその定義が見つかるはずだと考え

ている︒彼らの試みは︑宗教現象に共通する要素を発見し︑それによって宗教の判断基準を特定しようというものである︒そしてこの試みは︑宗教の判断基準は現象的なものになるという前提のもとに組み立てられている 1︒

  しかし︑近年ではすでに︑ある本質的な現象を選び出して宗教を定義するという試みが挫折しつつある︒むしろ

宗教の判断基準を宗教現象の中から選び取ろうと試みること自体が忌避されるべきだというのが︑近年の宗教概念

に対する共通の認識でさえある︒T・アサドやT・フィッツジェラルドが︑ある特定の現象に執着して宗教を定義することを否定的に捉え︑そのように宗教を考えることをイデオロギー的だと考えたということは広く知られてい

る︒K・スシルブラックは︑近年の概念研究の動向を︑構築主義的なもの︑歴史主義的なもの︑イデオロギーの問

題にかかわるものという三つに分類しているが 2︑これらはどれも︑特定の現象と宗教概念との特定の結びつきを否定すべきだという立場に立ったものである︒特定の現象によって宗教は定義されえないというのが彼らの主張であ

る 3︒

  もし︑宗教が特定の現象によって判断されず︑ある現象を宗教だと判断する際の基準が現象的なものでないとするならば︑その基準はどのような要素になるのだろうか︒この問題を解くために︑本論では︑宗教現象が非宗教的

なものだと判断される場合と︑非宗教的な︑世俗的な現象が宗教的だと判断される場合の︑ふたつの事例を考察し

(3)

たいと考えている︒   従来宗教現象とされてきたものには︑大きく分けて二つの種類がある︒一つは︑本論で﹁宗教的な宗教現象﹂と

いうものであり︑これはキリスト教やイスラム教︑ユダヤ教︑仏教︑儒教︑神道など︑現代において﹁宗教﹂とい

う際に最初に思い出される種類のものである︒これらが本当に宗教現象であるかどうかには多くの議論もあるが︑今日﹁世界宗教﹂という際には︑通常これらの宗教現象が意図されており 4︑その点典型的な宗教現象の例といえる︒   もう一つのものは︑本論で﹁世俗的な宗教現象﹂と呼んでいる種類の宗教現象である︒これには︑本論で示され

るように︑科学や経済︑政治︑そしてそれらに関連するマルクス主義︑自由主義︑進歩主義など様々な主義主張が

含まれる︒これらは通常非宗教的な︑つまり世俗的な現象として知られているものであるが︑ある特定の見方をされたときに︑宗教だと判断される種類のものである︒たとえば︑物理学者として著名なC・ヴァイツゼカーは︑科

学やその技術を理解することなしに︑科学の力に対し盲目的な信頼を寄せていることを例に挙げながら︑これを

﹁科学宗教︵W 5issenschaftsreligion︶﹂と呼んで論じている︒科学は一種の宗教であると判断しているのである︒通常︑宗教と世俗とは相容れない二つの異なる概念として知られているが︑ここでは通常世俗的な現象だと判断されるも

のが︑宗教現象だと判断されている︒本論で﹁世俗的な宗教現象﹂と述べるときには︑右のような︑通常世俗的な

ものと考えられているものが宗教現象だとされているものを指している︒

  このように宗教現象を二つの種類に分類したとき︑﹁宗教﹂の判断の基準は︑世俗的なものが宗教的なものと判

断されている﹁世俗的な宗教現象﹂にのみ関わっていると思われるかもしれない︒しかし本論で見るように︑﹁宗

教的な宗教現象﹂の方にもその判断の問題がある︒それは︑田丸徳善の﹁人々が︑伝承された宗教的思考や習慣の

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中に何ら疑いもなく安住し︑埋没している限り︑宗教についての自覚的な問いなどは︑おそらく生ずべき余地もな い 6﹂という言葉によく表れている︒このことは︑祭りやお参りといった宗教的行事を行いながらも︑少なくない人々が︑自らを宗教的ではないと考えているという例にも表れている︒たとえ﹁宗教的な宗教現象﹂であっても︑

その宗教現象が宗教ではないと判断されることがあるのである︒

  右に見た﹁宗教的な宗教現象﹂と﹁世俗的な宗教現象﹂の例は︑﹁宗教﹂の判断に関する問題を解決するためには次の二つの問題を解かなければならないということを示唆している︒一つは︑宗教的な宗教現象が非宗教的な︑

すなわち世俗的なものだと判断されることがあるという問題︒もう一つは︑世俗的な現象が宗教的なものだと判断

されることがあるという問題である︒言い換えれば︑宗教の判断に関する問題には︑宗教現象の世俗化と︑世俗的

な現象の宗教化という問題があるということを示している︒以下では︑この二つの問題を扱い︑本論の最初に掲げた︑ある現象を宗教だと判断する際の基準はどのような要素になりうるのかということについて考えたいと思う︒

なお︑本論では﹁宗教概念﹂と﹁宗教的観念﹂という二つの言葉を用いているが︑前者が﹁宗教﹂という概念その

ものを指すのに対し︑後者は神や霊︑悟りといった宗教に典型的な概念︵実在︑観念︶を指している︒

宗教的な現象の世俗化

  普段あまり意識しないことであるが︑所謂宗教的な宗教も︑非宗教だと判断されることがある︒次にあげる例は︑一般に宗教研究の対象となっている有名な﹁宗教﹂であるが︑非宗教的なものだと捉えられているという例で

ある︒以下では儒教や神道といった︑特段宗教としても非宗教としても扱われている例を取り上げているので︑研

(5)

究者によってはそれらがまさに﹁宗教﹂的な宗教の例だと言えないのではないかと考えるかもしれない︵実際︑専門家の間でも︑これらが宗教かどうかは見解が分かれることがある︶︒しかし︑それらの例でも︑右に述べた様に

近年では世界の宗教として取り上げられることが通例であるため︑ここでは宗教的な宗教の一部として取り上げ

る︒

  宗教的な宗教が非宗教だと判断されることがあるその最初の例は︑儒教である︒通例︑世界の宗教と言った場合

に儒教は宗教の一部として取り上げられているが︑しかし歴史的にも生活的にも漢字圏の多くの人々にとっては︑

たとえそこに論理的な瑕疵があっても﹁儒教は根本的に理性的な教え 7﹂であり︑﹁儒教は宗教というより︑社会・ 人文的であり︑倫理的 8﹂なものと理解され続けているという指摘がある︒儒教を非宗教と捉える人々にとっては︑それは︑所謂﹁宗教﹂という特殊なものではなく︑社会の中心的な教えであり︑所謂一般的な倫理的規範を提供す

るものとして受け入れられているのである︒

  とはいえ︑漢字圏の少なくない人が儒教を世俗的な道徳や哲学の一部として扱っている一方で︑儒教を世界の宗教の一つであると判断するのには一定の根拠があるというのも事実である︒儒教を宗教と見る人々の主張によれ

ば︑儒教は﹁天﹂を信仰し︑祖先崇拝を促す﹁孝﹂という思想を持ち︑それらを伝える中心的な経典︵聖典︶があ

り︑さらにそれらの様々な要素によって﹁究極の変身の手段﹂を人々に提供している︒時に儒教における﹁天﹂の観念は︑多くの宗教的観念が有する超越性や内在性を有しているので︑儒教はまさに宗教であると議論されること

もある 9︒天は世の中の様々な事柄を調整している絶対的︑超越的なものであり︑また人間の心に徳として現れる内

的なものだと考えられるからである︒

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  しかし︑それらが宗教的なものだと考えることができる一方で︑右の要素の多くは││つまり天や孝という考え

や︑経典︑また場合によってはその儀礼の体系でさえも││儒教を宗教として捉えていない人々にとっても重要な観念であることを︑儒教に日常的に携わる研究者は自らの経験をもって既に知っている︒欧米では儒教が宗教研究

の領域で教えられ︑考えられることも多い一方で︑儒教を伝統的に学んできた国々においては主に一種の哲学とし

て捉えられ︑学ばれていることにもそれは表れている︒儒教を宗教だと考えない人々にとってみれば︑儒教の教えはすでに世俗的な教えの一つであって︑もし儒教が﹁宗教だというのならば︑実存主義も宗教だということにな

り︑論理実証主義も宗教 A﹂だと考えられると言われることもある︒   また︑たとえ天や孝といった超自然的な要素を有している観念を有していたとしても︑それは儒教が宗教である

確実な証拠になるわけではない︑という主張がなされている︒なぜなら儒教においては︑たとえ人々が﹁現在の現実世界を越えるものに対する渇望﹂を持っていたとしても︑その渇望は直観的︑直接的な︑所謂宗教的なものにお

いて満たそうと試みられるのではなく︑反省的な考察を要する﹁哲学において彼らの︑現在の現実世界を越える何

かに対する渇望を満たす B﹂と考えられているからである︒また︑ある観点からみれば︑現今の世界において実際に経験できない︑絶対的な真理というものを想定する﹁所謂プラトン主義よりも︑儒教は宗教ではない C﹂と主張され

ることもある︒学者によっては︑その死生観を含めて儒教の宗教性を認めつつも︑儒教を宗教だとする考えは世俗

と宗教を分離する近代人文主義な考えであって︑現代まで続く伝統的な世界観において儒教は宗教ではない︑と考える者もいる D︒儒教が宗教であるとする人々は︑儒教の考えにおいて︑人生の様々な問題は最終的に﹁天に帰すこ とができ︑儒家の天に関する言論を捨て去ることは︑儒家の学説の要を切断すること E﹂だと考えている︒しかしだ

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からこそ︑儒教が世俗的な教えの一つであり︑日常的な哲学だと考える人々にとっても︑﹁天﹂という観念は重要なものとして存在しているのである︒またそれに加えて当然儒教の﹁聖典﹂とされる四書五経やそれに基づく諸行

為も︑非宗教的なものとして考えられていると言える︒ある観点からみれば︑儒教は確かに宗教的だと言える観念

を多く有している︒このために︑儒教は宗教であり︑世俗的現象とは一線を画しているという判断もできるのであるが︑一方でそのような宗教的観念についてよく知っていたとしても︑それを宗教的なものだと考えず︑世俗的な

ものだと考える人々││大部分は︑儒教を日常的な教えとして捉えている漢字圏の人々であるが││がいるのであ

る︒

  次の事例は神道である︒磯前が指摘しているように︑明らかに神社や寺に祈りや願い事をしに行き︑定期的に神々や︑それを祭る神社を中心とする祭りをおこない︑さらに聖なるお守りを身に着けているにも関わらず︑日本 人は﹁自分たちは宗教的ではない F﹂と考えている︑という例がある︒自然神や祖先神という宗教的観念を有し︑家

に神棚や仏壇を持ち︑また生後まもなくしてお宮参りや七五三をして祈りを請い︑所謂彼岸的なものとの関係を有しているにも関わらず︑そう考える者がいるのである︒これらの動作は︑どれもこれもある程度超越的で︑所謂宗

教的観念という言葉で示される様々な実在が存在するということに基づかなければ行われないことを考えれば︑こ

れらの諸行為をおこない︑積極的に参加しつつも自らを宗教的でないとするのは奇妙に思える︒

  上述の儒教に関してもしばしば指摘されることであるが︑この事態を説明するために次のような指摘がされるこ

とがある︒それは︑自らの宗教を宗教でないとする日本人の見解は︑﹁宗教﹂が﹁キリスト教を中心にその意味を

形成されたもの﹂であるため G︑すなわちキリスト教的な現象こそが宗教の基準であるためだという指摘である︒し

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かし︑このような考えは一般的な﹁宗教﹂という概念を考察する上では︑厳密に言えば否定されるべきであるよう に思える︒実際︑すでに明治において︑﹁宗教﹂概念は神観念や創始者︑組織といったキリスト教的な要素を参照しつつも︑それのみに限定されない︑所謂非科学的なものという考えを包摂している H││非科学的なものという考

え方は︑キリスト教以外の要素をはるかに多く含むことができる︒また︑後述のように熱心なキリスト教徒は時に︑

キリスト教は宗教ではなく︑単に神と人との関係であり︑一つの生き方であると考えているという事例もある︒日本において代表的なキリスト教徒である内村鑑三は︑たとえばある時期において﹁無宗教無教会﹂という題の下

に︑神と人との関係に関するイエスの教えを深く理解しようとする﹁私の基督教は宗教でない﹂と述べている I︒さ

らにここには︑たとえ﹁宗教﹂がキリスト教的な出自をもつとしても︑﹁宗教﹂の判断基準までがキリスト教的な

ものであるということを︑どうして﹁宗教﹂の判断基準をこれまで一度も特定したことがないわれわれに断言することができるのか︑という問題がある︒概念の出自とその意味が一致しているという考えすら︑論証に耐えうる根

拠を有しているとは言い難い︒

  お守りを購入することは︑日常的な行為である一方で︑超自然的なものとの関係を築き上げる行為である││このことは購入者にも既知の事実であるように思える︒そして︑お守りを所有している少なくない人々が自らを非宗

教的だと考えているということも︑前の事例を見ても事実である︒われわれの生活を宗教という視点から捉えるこ

とに慣れてしまった宗教学者には困難かもしれないが︑われわれは通常︑ある視点から見ると極めて宗教的であるわれわれの日常的なあたりまえの生活が︑宗教的であるとは考えていない︒宗教的観念を有していたとしても︑非

宗教だとされるのである︒これを説明することに︑キリスト教的な宗教概念という考え方を持ち出すことは︑かえ

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って整合的な説明を阻むことになる J︒   また︑多かれ少なかれ神道的な生活をいとなんでいる日本人自身が自身を宗教的ではないと考える一方で︑﹁神

道にいくらかでも触れたことのある西洋人なら︑神道が自然に対する感性や浄らかさ︑簡素さを重んじる宗教的伝

統であること K﹂を知っている︑と指摘されることがある︒神道を宗教だと考えている西洋の人々も︑自らを宗教だと考えていない日本人と同様な形で﹁神道を感じとる L﹂こともある︒当然︑神道を宗教だと考えない人々が神道に

触れたり感じたことがないというわけではない︒ここでその宗教としての神道に触れるというのは︑主に﹁自然に

対する感性や浄らかさ︑簡素さ﹂がもつ︑所謂神聖な雰囲気といったものを感じ取ること︵この﹁感じ﹂は時に︑

注連縄や鳥居といった聖性を示すしるしによって誘発される︶を指しているが︑そのような雰囲気は︑少なくない

日本人の生活に入り込み︑写真や映像といった多くの世俗的なイメージと共に日常を包み込んでいる︒

  確かに︑所謂神道は︑宗教的観念を有し︑それに関する諸々の行為をおこなってはいる︒しかし︑右に述べてき

たような神道を宗教だと判断したり非宗教だと判断したりするために必要であるのは︑そこに神や天といった宗教的観念が見られるとか︑宗教的観念にまつわる思想や活動が宗教的だから︑というわけではないらしいということ

が︑右の記述から言える︒実際にある観点からみれば神道的な行為が世俗的な行為と区別され得るのは︑それが神

や聖性といった宗教的観念を明確に有しているからであるが︑それと同時に非宗教だと判断されることがあるのは︑その宗教的観念が﹁宗教﹂的なものだと捉えられていないためである︵自らを宗教的だと考えていない人にと

っては経験があることだと思うが︑お守りや祭りに関連する神が宗教的観念であるということを告げられると︑後

で納得するものの︑一瞬面食らうものである︶︒このとき︑神道が宗教であると判断するのに重要なのは︑そこに

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宗教的な現象や宗教的観念が見出せるからというよりも︑判断者がそれを自覚できるかどうかにかかっているよう に思える︒たとえば﹁人々が︑伝承された宗教的思考や習慣の中に何ら疑いもなく安住し︑埋没している限り︑宗教についての自覚的な問いなどは︑おそらく生ずべき余地もない﹂という田丸の指摘を考えてみよう M︒この指摘が

もっともらしく思われるのは︑われわれが所謂どのような宗教現象を目の当たりにし︑経験していたとしても︑そ

の中で生きており︑その現象しか経験したことがなく︑所謂外部からの相対的な視点がない限り︑それは所謂宗教としては捉えられず︑どちらかといえば日常的な生活として︑当たり前な特徴なき生活として現れているというこ

とが︑われわれの経験に合っているように思われるからである︒まったく他の宗教を知らない状態において一つの

宗教の中に埋没しているということは︑その埋没している宗教がわれわれにとって相対化され得ず︑無意識に執り

行われている日常的な生活習慣として表れているということを意味しているように思える︒そこから外に出て︑宗教概念によってその現象を切り取り相対化しなければ︑それは非宗教的な︑日常的な現象としてわれわれに現れて

いるのである︒

  そしてこのような形で︑キリスト教的な現象とある程度一致しているからという考えとは別に︑日本人が自身を宗教的でないと判断する理由が︑そしてそれと共に神道が宗教だとされる理由が説明されるように思える︒つま

り︑神社へ行き︑お守りを買い︑また神棚を拝む日本人が自身を宗教的ではないと考えるのは︑彼らが宗教的な現

象に触れていないというのではなく︑また自らをキリスト教的な要素によって分析する視点を持たないというのでもなく││たとえキリスト教的な宗教的観念を有しているとしても︑それが必ず宗教だと判断されるというわけで

はない││︑その習慣に埋没しているからなのである︒また先に触れたように︑たとえばキリスト教においてもキ

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リスト教は宗教ではなく単なる生き方であるという議論が展開される傾向があるが N︑それは彼らの想定する絶対的な真のキリスト教が︑所謂﹁宗教﹂のように組織や体系的な行為のシステムを有している特殊なものではないとさ

れるためである︒すなわち一種の個人的な信仰のみがそこにあって︑この個人的な信仰こそが彼らの日常︑すなわ

ち人生そのものであるために︑宗教ではないとされているのである︒北米における調査で﹁ユダヤ教徒は︑彼らの宗教をユダヤ的だとかユダヤ教だとは考えておらず︑彼らの七八%は︑彼らの宗教は﹁ない﹂と答えている O﹂とい うことや︑﹁多くのイスラム教徒は︑イスラム教が宗教ではなく﹁生き方﹂だと主張している P﹂というのも同様に

考えることができる︒それらは彼ら自身にとって︑自らが当然のように包み込まれている空気のようなものであっ

て︑確かに外から見れば宗教だと判断できるものであるが︑一種の生活様式や一般的な生き方として現れているの

である︒その主要な現象が︑個人的あるいは心理的なものだとか︑集団的で社会的なものだとかいうのは︑宗教か

どうかを判断する上では重要ではない︒この例を見る限り︑神への信仰を有しているかどうかも関係がないのであ

る︒結局のところ︑﹁宗教﹂概念なき宗教現象は︑ある人々にとって生活の一部︑一種日常的な生活として捉えられている︒これらは確かに近代的な﹁宗教﹂概念によって影響を受けたかもしれないが︑そもそも宗教概念以前か

ら人々の日常的な生活として存在してきたという一面がある︒そしてこれらは︑宗教概念によって切り取られさえ

しなければ今でも日常的な生活の一部として存在しているものである︒

  所謂宗教的な宗教が︑神や天︑魂︑そして時には仏教のように聖化される主体といった宗教的観念を有している

現象であるということには疑いがない︒かつて﹁原始仏教﹂について︑西洋の宗教者が信じるような﹁人格的な

神々をも認めない限り︑宗教としてではなく︑ただ哲学としてのみみとめられ得る Q﹂という発言がされたことがあ

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る︒しかし︑それでも原始仏教が後に﹁宗教﹂として認められるようになったのは︑そこにダルマや教義といった 聖的な││つまり世俗的なものとは一線を画する││宗教的観念が発見されたためである R︒しかし︑そのような観念を有していることと︑それが宗教だと判断されるかどうかは︑右の事例を見る限り別の話である︒次の事例にも

見る通り︑確かにある現象が宗教であると捉えられるためには︑宗教的観念がなければならない︒しかし︑宗教的

観念があるからと言って︑それが宗教と判断されるかと言えば︑そうでもないのである︒

世俗的な現象の宗教化

  右のように︑従来宗教現象と呼ばれてきたものは︑﹁宗教﹂概念成立以前にも宗教現象が存在していたように︑

﹁宗教﹂概念がなくても︑またそれによって記述されることがなくても存在することができる︒しかもその場合︑それは非宗教的な現象として存在することができる︒確かに︑右の事例はどれも﹁宗教的観念﹂︑すなわち神や天︑

聖性あるいは聖化された事物といったものを含んでいることが明らかであるために︑宗教的であることが一見明白

である︒だが︑そのことに自覚的でないものにとっては︑非宗教的なものだと考えられているのである︒このことは︑ある現象を宗教だと判断するためには︑その現象を外から眺め︑なんらかの形でそれが宗教であるということ

に自覚的にならなければならない︑ということを意味している︒しかし︑次のような事例はどのように判断すれば

よいだろうか︒次の事例は︑一見して宗教的観念を含んでいないように見える現象であって││この点において右の例とは一線を画している││一般的に宗教の一つとして数えられることのないものばかりである︒しかしなぜ︑

それらが﹁宗教﹂だと述べることが可能となっているのだろうか︒

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  この代表的な例として︑物理学者として著名なヴァイツゼカーの︑科学も宗教だという見解を最初に考えてみよう︒科学やその技術を理解することなしに科学の力に対し︑盲目的な信頼を寄せていることを例に挙げながら︑ヴ ァイツゼカーは﹁科学への信仰は︑現代を支配している宗教の役割を演じている S﹂と考えている︒このように彼が

科学は宗教であると述べるのは︑幾人かの科学者が神という宗教的な観念を有して研究しているからでもなければ︑神への信仰が動機となって調査を進めているからでもない︒この場合︑神を信じているかどうかは重要ではな

い︒その代わりに重要であるのは︑われわれが科学的な知識の正しさや︑普段何気なく使用している技術を︑われ

われが宗教的観念を信じる場合と同様に明確な理由なしに受け入れ︑それを根拠づけている論理的な筋道を理解し

ていなくとも︑それらの力を信じているということである︒すなわち︑われわれがそこに説明できない力を認識し ている︑と見ることができるという点にある T︒同様に﹁科学は宗教である︵science is a religion︶﹂と述べるP・ファ イヤアーベントは︑科学も︑証明できない教義に対するイデオロギー的な信仰に支えられていると考えている U︒彼

らは︑科学における様々な事柄も︑われわれが宗教的観念︵あるいは宗教的実在︶を捉えるような仕方で捉えられている︑と考えているのである︒

  これに加えて︑E・フェーゲリンやR・アロンを始めとする︑政治的な主義主張の﹁教義﹂を中心に特殊なイデ オロギーと世界観を形成する﹁政治宗教︵political r Veligion︶﹂に対する考察がある︒また同様に︑資本主義やマルクス主義にとどまらず︑﹁自由主義的教義﹂︑﹁合理主義的教義﹂など一つの﹁総合的世界観﹂を構成し︑﹁科学﹂の発

展した近代以降に﹁宗教﹂に代わって安定的な価値観や秩序の根拠を提供しているという︑S・モスコビッシの

﹁俗なる宗教︵religions p Wrofane︶﹂︑さらに︑R・ベラーの﹁市民宗教﹂という概念に︑それと類似した意味に用いら

(14)

れる﹁世俗宗教︵secular r Xeligion︶﹂という見方がある︒これらは︑右に述べたように︑政治的な主義主張の﹁教義﹂

を中心として一つの﹁総合的世界観﹂を構成し︑﹁科学﹂の発展した近代以降に﹁宗教﹂に代わって安定的な価値観や秩序の根拠を提供しているために︑宗教と呼べる︑と考えられている例である︒われわれが通常政治的な世界

観を宗教だとしないのは︑政治的な主義主張を宗教家が信奉している教義とは異なる︑と見ているためであるが︑

政治的な﹁主義﹂を有している人々にとっては︑それが一種の︑神聖な︑順守すべき教えとして︑宗教的観念を信じるように信じられているという考えのもとに︑この主張はなされているのである︒

  そして﹁経済成長﹂を無批判に信仰の対象とし︑理想的な社会の実現を目指す﹁経済宗教︵economic religion︶﹂ と︑それに対抗し︑環境の保護を中心にそれとは異なる理想的な社会を創造しようとする﹁環境宗教︵environmen-tal religion︶﹂という二つの﹁宗教﹂的な世界観の争いを描くR・ネルソンの見解がある Y︒また︑﹁自己理論︵self-theory︶﹂への信仰を中心に︑われわれの日常における新たな自分への気づき︑あるいは新しい自分への生まれ変

わりと言うべきものを提供する﹁宗教としての心理学︵psychology as religion︶﹂を記述するP・ヴィッツの例など がある Z︒これらの例は︑一般的に宗教だとは考えられていないし︑確かに神や魂︑聖といった所謂宗教的観念を有してもいないが︑ある知識に対する人々の特殊な認識や︑考え方に注目されて宗教だとされている例である︒それ

らは通常世俗的な︑一種の論証の過程を経て形成された知識だと考えられているが︑しかしある人々にとってはそ

うではなく︑時にそれらの論証の瑕疵をあばく致命的な批判によって攻撃された場合においても︑それは正しいと認識される︒すなわち︑ここでもやはり︑一種の神聖さが想定されており︑またその知識に従えば集団的であれ個

人的であれ人々を幸せに導くことができると考えられているのである︒いわば︑通常世俗的な観念であるものが︑

(15)

見る人によっては宗教的な観念として表れているということによって││このことを︑宗教的観念化︑または観念の宗教化と呼ぼう││︑それは宗教として捉えられているのである︒

  宗教多元主義の発展に大きく貢献したJ・ヒックやその他の研究者は︑実際に﹁宗教の広い輪の中にマルクス主 義などの世俗的なイデオロギーさえも含めてきた a﹂︒しかしそれは︑すでに見た例と同様に︑それらを宗教だと判断できない人が見つけられなかった現象を︑それらを宗教と判断する人々が見つけたからではない︒それは所謂宗

教的な人々が宗教的観念を認識しているように︑通常非宗教的だと判断される諸々の観念も見られている︑という

ことをその判断者が見つけたからなのである︒すなわち︑通常は世俗的だと考えられるマルクス主義の世界におい

ては︑宗教的な人々が終末論を信じるように﹁究極の無階級社会﹂という理想が信じられているし︑宗教的な人々 が﹁聖典﹂を認識するその仕方で︑マルクスの書物が認識されているということが発見されたからなのである b︒繰

り返しになるが︑このような見方をする人々が本当に所謂終末論や聖典といった資料をそこに新しく発見したわけ

ではない︒それは︑マルクスやエンゲルスの著作に解かれている内容が︑またその著作それ自体が︑宗教者が宗教的対象を見るように見られている︑と観察者が判断しているにすぎないのである︒人々が︑それらの考えを︑宗教

者が宗教的対象を見るように見ていると考えられたために︑そこに宗教的観念︵対象︶があり︑そのためそれが宗

教だと判断されているのである︒

  以上をまとめると︑宗教的な宗教にしろ︑通例世俗的な現象が宗教だと考えられる場合にしろ︑結局のところ何

らかの形で宗教的観念がそこに存在しているために︑それが宗教だと判断されるということができる︑と言えるだ

ろう︒つまり︑前者の場合は︑宗教的観念がそのまま宗教的観念として存在しているのに対し︑後者は通例非宗教

(16)

的な考えだと捉えられているものが︑宗教的観念化されて存在しているために︑宗教だと判断されるのである︒し

かし一方で︑宗教的な宗教が非宗教的なものとして理解されることがあるという最初の事例から導き出された次の事柄︑すなわち︑われわれは単にそこに宗教的観念が存在しているだけでは宗教と判断することはできない︑とい

うことを忘れてはならない︒だとすれば︑結局のところ︑われわれがある現象を﹁宗教﹂だと判断するのは︑どの

ようなものを見つけたからなのだろうか︒

宗教の判断基準はどのような要素になりうるのか

  右に見てきた﹁宗教的な宗教現象﹂であれ﹁世俗的な宗教現象﹂であれ︑宗教だと判断される現象は何らかの形

で宗教的観念を有しているが︑その一方で︑前者の例で見たように︑たとえ宗教的観念を有していたとしても︑その現象から一歩外に出なければそれを宗教だと判断することができないという事実は︑われわれがある現象を宗教

だと判断する際には次の二つの要因があるということを示唆している︒

  まず一つは︑宗教的な宗教現象であれ︑世俗的な宗教現象であれ︑宗教だと判断される現象には︑他の世俗的な観念にはないような要素を持つ宗教的観念がなんらかの形で存在していなければならないということである︒そし

て次に︑われわれがそれを認めるためには︑その観念を有する宗教現象の中に埋没していてはだめで︑そこから一

歩出て一種の観察者の視点からその観念を見つめる必要があるということである︒すなわち︑宗教的観念の宗教的要素を︑外部の観察者の視点から発見しなければ︑その宗教的観念にまつわる諸活動を含めて︑その現象を宗教と

呼ぶことはできないのである︒つまり︑ある現象を﹁宗教﹂だと判断するためには︑宗教的観念という︑所謂世俗

(17)

的な観念とは異なる要素を持つ観念が何らかの形で存在していなければならず︑さらにそれを外部の観察者の視点から発見する必要があるのである︒宗教的観念が有している宗教的な要素は︑外部からの視点を持たなければ発見

されることがないものなのである︒

  しかし︑ここで問題となるのが︑その非宗教的観念が持たず︑宗教的観念だけが持つ要素とは何かという問題である︒この問題を解くために︑まずは右にあげた︑通常世俗的なものとして捉えられている観念が︑宗教的観念化

されて宗教的観念として捉えられるという事例についてもう一度考えてみよう︒たとえば︑政治や経済︑ひいては

科学においてそれらが宗教とされる場合には︑そこで用いられている考えが︑宗教者が宗教的観念を受け入れてい

るように受け入れているということが︑観察者によって発見されたからだということを先に見てきた︒たとえば

﹁究極の無階級社会﹂という理想が終末論的に見えたり︑マルクスの書物が﹁聖典﹂のように認識されたりといっ

たように︑それらは︑一般的には世俗的な観念であったとしても︑ある人々にとっては︑宗教的観念として認識さ

れている︒そういう風に︑この出来事を見ることができる︑というのがそれらの活動を宗教だとする観察者の理由である︒結局のところ︑その非宗教的な観念が宗教的観念化されるためには︑宗教者が宗教的対象を見るような仕

方でその﹁世俗的な﹂対象を見ているということが︑そしてそれが観察者によって発見されていることが重要なの

である︒

  さらに︑右に加えて次のような事例がある︒たとえば︑一見なんともない木を﹁聖なる木﹂だと感じる人々がい るとしても︑そのような認識は﹁物理的な物質としての木の本来の姿︵reality︶﹂には関係しているものとは考える ことができないことをR・リーズは指摘している c︒実際︑通常より大きかったり︑奇妙な形をしていたとしても︑

(18)

それはある立場から見れば建材に見えるものである︒このことは︑個人的に大切なものが他者にはそれほど重要な

ものには見えない︑というわれわれの日常的な感覚から容易に類推できるものである︒

  また︑宇野円空や岸本英夫は﹁鰯の頭も信心から﹂という言い回しを用いて﹁鰯の頭のようなものでも︑それを

神聖と感じる人には立派に一つの宗教の対象になり得る﹂と指摘し︑﹁宗教的信仰の対象﹂やその価値について論

じている d︒さらに︑﹁世俗﹂的な領域に住まう人々にとっては﹁単なる書物︵just a book︶﹂であるものが︑キリスト教文化をはじめ︑﹁イスラム教文化︑ユダヤ教文化﹂など︑ある特定の認識の形式を有する人々においては︑そ れが聖なる書物と捉えられているという事実もその一例としてあげられるだろう e︒あるいはこれに︑H・アダムス

が単なる﹁発電機﹂を﹁初期のキリスト教徒が十字架をそう感じたとほとんど同じように︑道徳的力として感じ始

め﹂︑祈りの対象としたという例をわれわれは付け加えることができるかもしれない f︒彼が祈りの対象としたのは︑発電機を何かしら宗教的なものとして認識することができたということに基づいている︒しかしやはりわれわれ

は︑ここでそのマルクスの書物や木々︑鰯の頭や発電機を聖なるものと認識する人々自身が︑それらを﹁宗教﹂的

なものだとは捉えていない可能性がある︵例えばお守りがそうである︶︑ということを忘れてはならない︒

  右の例はどれも︑同様の事柄をいかようにも見ることが可能であるという点において︑もっぱら認識の問題に関

わるものである︒しかし︑たとえ祈りの対象を有していたとしても︑それを有しているその人自身は︑自らを宗教

的だと考えていないかもしれない︵神社にお参りに行く場合においても︑このような人が少なくないことを思い起こして欲しい︶︒結局のところ︑右の例がどれも宗教的な事例に思えるのは︑われわれ観察者がそこに︑もしかし

たら当事者が自覚的でないかもしれない︑一種の宗教的な認識の仕方を発見しているからなのである︒ある現象を

(19)

﹁宗教﹂的なものだと捉える観察者にとっては︑まさにそれらが一種の聖性をともなって認識されているということ自体︑それらが宗教的であることの証となるのであるが︑そのこと自体が自覚的でない当事者にとっては︑それ

は宗教としては映っていない︒それはつまり結局のところ︑宗教の判断基準は︑宗教的観念を宗教的観念としてい

る︑本人が自覚していないかもしれない︑ある特殊な認識の仕方を発見できるかどうかにかかわっているというということを意味しているように思えるのである︒

おわりに

  本論では︑宗教の判断基準はどのような要素になりうるかという一見回りくどい問いを解決するために︑次のこ

とを明らかにしてきた︒まず︑われわれがある現象を﹁宗教﹂だと判断するためには︑宗教的な宗教にしろ︑世俗

的な宗教現象の場合にしろ︑結局のところその現象の中に何らかの宗教的観念が存在していなければならないとい

うことである︒所謂宗教的な宗教の場合は︑宗教的観念がそのまま宗教的観念として存在しているのに対し︑後者は通例非宗教的な考えだと捉えられているものが︑宗教的観念化されて存在しているということから︑このことは

導き出された︒しかし一方で︑特に宗教的な宗教が非宗教的なものとして理解されることがあるという事例から︑

単にそこに宗教的観念が存在しているだけでは宗教と判断することはできず︑観察者がそこになにがしかの要素を発見する必要があるということを指摘した︒最後に︑宗教的観念化ということを参考に︑その観察者が発見する要

素は何かについて求めた︒ここでは︑所謂世俗的な観念を宗教的観念化して見る際には︑観察者がそこに︑宗教者

が宗教的観念を認識するのと同じような認識の仕方でそれを見ているということを発見したからだ︑ということを

(20)

指摘した││したがって︑もしわれわれが﹁宗教﹂というこの近代的な語を用いて何かを捉えているとすれば︑そ

れは究極的にはキリスト教的な何かではなく︑近代以降に発見された︵おそらく非科学的な知の体系を形成している︶認識の仕方だということになる︒とはいえ︑このことは一般に行われているように︑ある現象を宗教だと述べ

ることを否定しているわけではない︒ただ本論は︑本文中に取り上げた二つの﹁宗教﹂と呼ばれる現象を総合して

考えると︑宗教概念がその現れそのものを直接指し示しているとは考え難いということを示したのである︒

  従来︑宗教の判断基準は何かしら現象的なものになるはずだと考えられていたのに対し︑そうではなく︑それは

ある認識の仕方を発見できるかどうかにかかっているとする今回の指摘は︑新規性のあるものであり︑一見受けい

れがたいものかもしれない︒しかし︑﹁宗教的な宗教現象﹂と﹁世俗的な宗教現象﹂は︑実際に存在している事例

である︒この事例がある限り︑右の考察の結果には一定の妥当性がある︒なお︑宗教の﹁判断﹂の政治的あるいは権力的な利用を強調する傾向が近年主流となりつつあるが︑﹁宗教﹂を侮蔑的に扱ったり︑保身に利用したりする

場合においてさえも︑それらの言表が正当性を有するのはそれが宗教の﹁判断基準﹂に適っている限りにおいてで

ある││判断と判断基準は分けて考えなければならない︒そのため︑われわれがもし﹁宗教﹂の政治的︑権力的利用を問題にするならば︑われわれはこの問題に取り組むより先に︑この概念が何を指しているのかを明らかにしな

ければならない︒そうでなければ︑この概念の何が政治的︑権力的な問題に関与するのか︑あるいは本当に関与し

ているのかはわからないだろう︒本論は︑ある現象を宗教だと判断する際の基準はどのような要素になりうるのかという問題について考察してきたが︑これによって︑判断基準は何かという問題を直接扱うための基礎ができたよ

うに思う g︒

(21)

, Louisville and London: Westminster John Knox Press, 2006, p. 1︶ cf. Susan J. White, ︑﹁﹂︵ Bray, , Wheaton: Crossway, 2012, p. 443︶︑ cf. Gerald ︑﹁﹂︵   1︶

︵   K. Schilbrack, Religions: Are There Any? , 78(4), 2010, p. 1116.“”2︶

︵ New York: SUNY Press, 2001, p. xi. Cf. R. T. McCutcheon, , ︑   3︶

︒   Tomoko Masuzawa, , Chicago and London: University of Chicago Press, 2005, p. 2.4︶

  C. F. von Weizsäcker, , Stuttgart: Hirzel, 1964, p. 6.5︶

︵   6︶

︵   7︶椿﹂︵椿︶︑

︵   Rodney Leon Taylor, , New York: Rosen Publishing Group, 2005, p. 3.8︶

︵ ter, Paul Copan, London and New York: Routledge, 2013, p. 46.   Cf. Chen Chung-ying, “Chinese Religions,” in , edited by Chad Meis-9︶

︵ 10  ︶西﹂﹁西

︵ 11  Fung Yu-Lan, Derk Bodde (ed.), , New York: Free Press, 1948, p. 4.︶ 12  , p. 1.︶

参照

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