道徳的自由︵自由込
一自由論︵一 繭補遺こ 三︶一
大
谷
恵
教
︵1︶ 拙稿﹁〃自由の哲学的意味﹂1自由論︵一︶1において指摘したように︑人間は理性的性格と非理性的性格と
いうまったく安い反する性格を同時にもつ二律背反的な二元的性情の持ち主であるゆえ︑人間の内面において両性格
の激しい葛藤が演じられている︒そのような内面的葛藤において︑理性的性格が非理性的性格をコントロールして︑
悪魔の誘惑に負けたり欲望の奴隷になったりすることなく︑神の命令や理性にしたがって生活するという〃精神的自
律が︑人間にとっては不可欠である︒このような精神的自律を〃道徳的自由︵5PO円㊤一 h﹁OΦ傷05P︶というのである︒
この道徳的自由を︑たとえばJ・ロックやJ・S・ミルやJ・J・ルソーなどが主張している︒
Jニッタは・人間を宥限の知的存象しすなわち不完全な存在とみなし︑それゆ多ラ・スト・がその著書
﹃政治的対話篇﹄のなかのシャフツベリ卿との対話においてロックをしていわしめているように︑人間はその無謬性 ヨ を認め︑その懸念をもつだけの充分な知識を身につける必要があるし︑かつ﹁人格は思考する知的存在であって︑理
性と反省を鶴巳﹂ており︑そしてその理性は︑人間が他の動物より優先し︑かつ道徳を知り︑生活を便宜にして神の ︵5︶法にしたがって生活するために︑神から与えられた神の声であり︑人間の生活における羅針盤であって︑それゆえに
早稲田社会科学研究 第28号(S59.3)
65
こそ﹁心はもろもろのあるものを遂行し満足させることを停止する力をもっており﹂︑そして﹁心は自由にこれらの
欲望の対象を考察し︑これらをあらゆる面において吟味し︑また他の欲望との軽重を比較することができるのであ ︵6︶る︒ここに人間の自由がある﹂と述べ︑人間がこの理性にしたがうべきことを﹁もし理性の指導から脱出し︑われわ
れをしてより悪いことを選んだり行なったりしないようにさせる吟味と判断力との拘束を欠くことが自由であり︑真 ︵7︶の自由であるならば︑狂人と愚者のみが自由人である﹂と論じ︑そしてこの理性によって人間は限りなく神に近づ
き︑神の法を知るのであり︑その神の法は人間にとって外在的なものから内在的なものになり︑また神の法は理性の
法・自然法で碗・人間はこれらの法にしたがわなければならないのであり︑国法は神の楚一致するように制定さ
れなければならないと主張した︒すなわち︑ロックの理論体系の頂点には神の法︑理性の法︑自然法が厳然として存
在したのである︒
このようにロックは︑人間が欲望の奴隷になったり悪魔の誘惑に負けたりすることなく︑神の命令や理性にしたが
って生活すべき〃道徳的自由を説いたのである︒
またロックは︑人間が自然に存在する自然状態においては︑人聞は完全ではないがかなりな程度理性的な〃理性的
翰︵邑︒邑︒塁§︶であ・て・自然状芝おいてはかなりな程度程の法である自然法が支配し︑し奈・
て自然状態において理性的動物である人間が享受する自由の状態は〃自然法の枠内において﹁適当と思うままに自 ︵10︶己の所有物と身体を処理し︑他人の鼻息をうかがったり︑その意思に依存したりしない状態である﹂といって︑自然
的自由も神の法であり理性の法である自然法の制約を受ける〃道徳的自由であることを指摘したのである︒
ロックのこの道徳的自由の主張は︑かれの﹃教育に関する考察﹄のなかにおいて︑さらに良くあらわれている︒
66
道徳的自由(自由論補遺一)
かれは︑教育の目標について︑﹁教育において目標とされるべき︑困難ではあるが価値のある部分は︑徳︵<一﹃εo︶ ︵11︶であり︑徳そのものである﹂と述べて︑徳性の酒養であることを指摘し︑教育の重要な仕事は﹁身体を︑精神︵ヨ一民︶
の命令にしたがいかつそれを実行することができるように︑丈夫かつ活力ある状態に保つように適切な配慮がなされ
た﹂ならば︑﹁精神を正しくすること︵8ω雲普⑦巨巳憎お簿︶︑すなわちあらゆる場合に理性的被造物︵簿益江︒ロ巴 ︵12︶oお碧⊆お︶の尊厳と優越性にふさわしい事柄以外のいかなるものにも同意しないような気質の精神をつくること﹂で
あり︑このような精神の強健という点に﹁あらゆる徳性と価値との偉大な原理と基盤﹂があるのであって︑その意味
は﹁ひとが︑自分自身の傾向性に反対して自分自身の欲望を否定しうること︑そして欲望が他の方向に傾斜している ︵13︶にもかかわらず︑理性が最善のものとして指示するところのものに純粋にしたがいうるということである﹂と主張し
て︑教育の目標が欲望の奴隷となることなく︑理性の命令にしたがって生活するという精神的自律︑すなわち道徳的
自由を子供の身につけさせることであることを力説している︒
﹃教育に関する考察﹄においては︑これらのほかに︑たとえば次のような道徳的自由の強調がみられる︒
﹁これらの年齢の理解力と興味に適合した欲望をもつということは︑罪ではない︒しかしその欲望を理性の支配と
抑制にしたがわせないということが︑罪なのである︒相違は欲望をもつかもたないかということにあるのではなく ︵14︶て︑欲望において自分自身を統御し否定する力をもつかもたないかにあるのである︒﹂
﹁あらゆる徳性と優越性の原理が︑理性がわれわれの欲望を正当なものと認めない場合には︑その欲望の満足をみ ︵15︶ずから否定する力にあるということは︑わたくしには明白であるように思える︒﹂
︑﹁自分の傾向性に対する支配力をもっていないひと︑行なわれることが適切だと理性が命じる事柄のために︑いか
67
にして現にある快苦のしつこい要求に抗すべきかという方法を知らないひと︑このようなひとは徳性と勤勉の真の原 ︵16︶理を欠ぎ︑その道徳的性格がまったくなんの役にも立たないという危険にさらされているのである︒L
﹁善良で賢明な有徳の人間を形成するためには︑自分の理性がその反対のことを勧告し︑自分の義務がそれを要求
するときはいつでも︑子供は︑自分の欲望にさからって︑富や美服やあるいは美味なものを楽しむことなどを拒絶す ︵17︶ることを学ぶべきであるということは︑正当である︒﹂
﹁徳性の真の原理と規準は︑人間の義務を知ることであり︑また受容と報いとの希望をもりて︑神がかれに与えた ︵ε1︶光の指示にしたがって創造主に服従することの満足である︒﹂
次に︑J・S・ミルは﹃自伝﹄のなかで︑若き日に陥ったある精神的危機を契機として︑自分が父ジェームズ・ミ
ルから受けた教育を顧みて︑ただ単に知的教育だけではなくて︑〃内的教養︵冒8ヨp︒一〇巳け震Φ︶や〃感情の陶冶〃 ︵19︶︵oEけぞ舞δ口oh荘Φh①Φ一凶昌ゆq︶をも重視して︑諸能力間の正当なバランスを維持すべきことを強く説いており︑これ
が﹃自由論﹄においては〃性格の多様性と並んで〃教養の多様性︵Oぞ①邑蔓oh︒巳けξΦ︶の強調となってあらわ
︵20︶れている︒
このようにしてミルは︑人間を量的にしか取り扱わなかったべソサムを︑ ﹁ベソサムによっては︑人間は精神的完
成︵ω且鼻§一〇①議Φ︒江︒旨︶をひとつの目的として追求しうる存在とは︑決して認められなかった︒また人間は︑自分
自身の内的意識以外の源泉から出てくるところの善を希望したり悪を恐れたりすることなく︑自分自身の卓越性の基
準に自分の性格を合致させることを︑ただそのこと自体のために望むことができる存在とは︑決して認められなかっ
た︒良心というより限られた形式においてさえも︑人間性におけるこの偉大な事実は︑かれから見のがされている︒
68
道徳的自由(自由論補遺一)
かれの著作のどれにおいても︑良心が︑博愛とも異なり︑神や人間に対する愛情とも異なり︑現世や来世における私
利とも異なるものとして存在しているということが認識されないでいるが︑これほど奇妙なことはない︒他の人びと
が口にしたら︑そのような事実の承認を意味する成句のどれもが︑故意に避けられている︒われわれは﹃行為の動機
の表﹄のなかに〃良心︵Oo昌ω9①口8︶︑〃主義︵牢猛禽覧①︶︑ 〃道徳的公正︵窓︒舜一幻①9津&①︶︑ 〃道徳的義務
︵冨︒惹一︼︶仁蔓︶という言葉を見出すとしても︑それは〃名声に対する愛︵一〇<Φoh話百雷鉱︒旨︶の周義語にほかな
らない︒⁝⁝︵中略︶・⁝−また︑かれが見落しているのは︑言葉の厳密な意味において︑人間性の道徳的部分一す
なわち完成への欲求や是認したり非難したりする良心の感情1のみではない︒かれはまた︑人間性におけるひとつ
の事実として︑他のどんな理想的目的をもそれ自体のために追求する・とを認めることが・きわめて弱いので乾﹂
と厳しく批判して︑人間の精神的完成や道徳性を重視する質的功利主義者︑理想主義的功利主義者ないし批判的功利
主義者となっていったのであるが︑これが﹃功利主義論﹄においては﹁満足した豚であるよりは不満足な人間である ︵つ臼2︶ほうが良く︑満足した馬鹿であるよりは不満足なソクラテスであるほうが良い﹂︵雪囲ωσo暮①汽8σ①磨げ仁道9ロσo言σq
&ωω舞圃ω艶①自昏§鋤嘗αqω象一ω津①89茸興8σo僧ωoo轟8ω象ωω象一ω雌︒匙けず9︒昌鋤hoo一ω舞一ω欺Φ畠︶という有名な言
葉となり︑またキリスト教の〃隣人愛が功利主義道徳の理想であることを力説して︑﹁ナザレのイエスの黄金律の
なかに︑われわれは功利の倫理の完全な精神を読みとる︒人びとにして欲しいとあなたが望むことを︑人びとにもそ
の通りにしなさい︒そしてあなたがた自身のようにあなたがたの隣人を愛しなさいということは︑功利主義道徳の理 ︵23︶想的極地である﹂と断じ︑知的教育と並んで諸徳を身につけるべきことの重要性を各所で強調し︑利己心に次いで人
生を不満足なものにする主要な原因は〃精神的教養︵含Φロδ一2三く9江︒口︶の欠如であることを指摘し︑〃教養のあ
69
る精神︵O信=一く㊤R①匹ヨ一⇒畠︶とは﹁哲学の精神を意味せず︑知識の泉が開かれていて︑かなりな程度その能力を行使 ︵42︶するように教えられている精神を意味する﹂と主張している︒ ︵25︶ さらにミルは︑人間を〃知的ないし道徳的存在︵雪言け①=①葺二巴︒﹃餌筥︒巴巴げ①巨σq︶としてとらえ︑しかも人間
︵26︶ ︵27︶は不完全で可謬不存在であると同時に︑その誤謬を訂正しうる存在であって︑これこそが知的ないし道徳的存在 ︵28︶としての人意のなかにある尊敬すべきあらゆるものの源泉であるといって︑人間を二律背反的な二元的性情の持ち主
とみなし︑そのような人間の諸能力を完全で矛盾のない全体へと最高度かつもっとも調和的に発展させる一すなわ
ち〃人格の成長にほかならない一という﹁人聞の目的︑すなわち理性の永遠ないし不変の命令によって規定され
ていて︑あいまいな一時的な欲求によって示唆されていない目的﹂を達成するためには︑〃自由と〃境遇の多様性 ︵29︶が不可欠であると強調し︑とくに人間にはいかなる個人や団体や権威からの介入も許されないところの︑個人が主権 ︵30︶者である神聖な領域が存在することを主張し︑とりわけ精神的領域における自由を力説し︑かっこの領域における少 ︵31︶数者の自由を﹁地の塩﹂であるといって高く評価している︒
そのほかにミルは︑功利の原理がもつ制裁に関して︑ベソサムが挙げた物理的︑宗教的︑政治的な制裁である外的
制裁︵昏⑦Φ×8ヨ巴鈴口︒江︒口ω︶だけで満足せず︑それらと同時に内的制裁︵9①ぎ8ヨ巴ω碧9δp︶をも挙げ︑
それは義務の内的制裁であり︑ ﹁われわれの義務の基準がどんなものであろうと︑まったく同一のもの一われわれ
の心のなかの感情である︒すなわち義務に違反したときに付随する強弱さまざまの苦痛﹂であって︑その感情が利害 ︵32︶を離れて純粋な義務観念と結合するとき︑〃良心の本質 ︵一げ① ①ωωO昌O① Oh O◎コωO一①口OO︶となる︑と述べている︒
このようなことはべソサムにはなかったものであって︑ここにもミルが人間の内面性へ深く目を向けていたことが
70
道徳的自由(自由論補遺一)
わかる︒つまりベソサムの功利主義が立法を通して社会の変革を目指す行動の原理であったのに対して︑ミルの功利
主義は人間の内面の深奥において究極的に求められる倫理的な規範であったのである︒この点に︑両者の決定的な相
違があったといえよう︒
以上のように︑J・S:ミルにおいてもやはり︑悪魔の誘惑に負けたり欲望の奴隷になったりすることなく︑理性
や倫理規範にしたがって生活するという精神的自律すなわち道徳的自由が説かれているのである︒
さてJ・J・ルソーは︑人間には自由があるという点に︑人間と他の動物との決定的相違点があることを︑﹃人間
不平等起源論﹄のなかで︑﹁獣の行動においてはひとり自然のみがすべてをなしたのに反して︑人間は︑自由な行為
者として︑自然の行動に協力するという点で︑相違がある︒ ︷方は本能によって︑他方は自由の行為によって取捨選
択し︑このことによって︑獣は︑命じられた規則から逸脱することを︑そうすることが自分の利益であるような場合
でさえできないし︑人間はしぼしば損になっても逸脱することになる︒⁝⁝︵中略︶⁝⁝それゆえ︑動物の間で︑人
間をとりわけ区別しているのは理解力ではなくて︑自由な行為者という人間の性質である︒自然はあらゆる動物に命
令する︑そして獣はこれにしたがう︒人間は同じ印象を受けるが︑しかしかれは自分が同意するのも抵抗するのも自
由であると自認しており︑そしてとくにこの自由の意識のうちにおいてこそ︑かれの魂の霊性があらわれるのであ
︵認︶る﹂と︑述べている︒
このようにルソーが自由のうちに人間の特性を認めた結果︑自由が人間の自然であるとみなすにいたるのは当然で
ある︒﹃社会契約論﹄第一篇でかれは︑﹁自由は人間の本性から生じるものである︒人間の第一の本分はかれみずから
の保存に気をかけることである︒人間のなすべき第一の配慮は自己に対する配慮である︒そして人間が理性の年齢に
71
達するや否や︑人間だけが自己を保存するための正当な方法を弄る判断者となり︑それによりて自分みずからの主人 ︵34︶となるのである﹂と主張している︒
そしてルソーは︑自由には三種類あって︑しかもそれは農階的なものであるとしている︒
まず第一の自由は︑自由の土台ないし初歩的自由ともいうべき〃自然的自由 ︵一〇 一ぱ︶①﹃一① コ騨ゴ﹂﹁①=①︶であって︑ ︵鉤︶これについてルソーは﹃社会契約論﹄で︑ ﹁個人の力以外に制限をもたない﹂自由だと述べている︒すなわち︑それ
は自分の力の範囲内で外的強制から解放されていて︑自分が欲すること︑なしたいことを他者から妨害されずになし
うる自由︑つまり消極的自由であるといえよう︒
第二の自由は〃社会的自由︵一9一一σ①﹁けひO一く一一一〇︶であり︑これに関して﹃社会契約論﹄のなかで︑﹁一般意思︵冨 ︵36︶<oざ昌審αq曾遊巴ρ常に正しいもので︑かつ公共の利益を志向する意思i筆者註︶の制限を受ける﹂自由である
と︑ルソーはいっている︒ルソーの自然状態は︑最後の段階にいたると自分のみでは生活でぎず︑他人の労働を必要
とするようになり︑そうなると不平等が生じて不幸な状態に陥り︑争いが生じてそれが激しくなり︑人びとは自然状
態のなかに住みえなくなるという︑T・ホッブズの自然状態に酷似した状態になる︒そこで︑人びとは社会契約を結
んで社会を形成するにいたるのだが︑その社会契約によって解決されるべぎ根本問題は﹁個々人の結社の力の全体を
もって︑各個人の生命財産を維持し︑各人は全体に結合しているが︑やはり自己にしか服従せず︑以前と同様に自由 ︵37︶であるようなひとつの結社状態を発見すること﹂であり︑社会契約の本質は﹁われわれはおのおのその身体と力と
を︑共通に︑一般意思の下にゆだね︑そしてあらためてもう一度われわれ全体が各人を全体の不可分として受けいれ
︵鵠︶る﹂ことだと︑ルソーは主張している︒すなわち︑人びとが社会を形成して社会のなかで共同生活を円満に営むこと
72
道徳的自由(自由論補遺一)
ができるためには︑各人が自分の力の範囲内でそれぞれ自分の欲望のままに好き勝手放題のことをするならば︑ホッ
ブズの﹁万人の万人に対する闘争状態﹂か弱肉強食の世界かに陥らざるをえず︑そこには自由はありえないかあるい
は強者の自由のみしかありえない一生命と財産の保証がありえないことはいうまでもない一ということになるの
で︑常に正しくて公共の利益を志向する一般意思に各人が権利を全部譲渡して︑それに無条件に服従すべきだという
のである︒社会における自由とは︑そのような一般意思やそれに合致する法律の制約を受けるものだというのであ
る︒ このようなルソーは︑自然状態における自然的自由と社会における社会的自由とをはっきりと区別すべきことを︑
﹁人間が社会契約によって失うものは︑かれの自然的自由とかれの心をひきつけるもの︑そしてかれが獲得すること
ができるものすべてに対する無制限の権利であり︑かれが得るものは社会的自由と︑かれが所有するあらゆるものの
所有権なのだ︒この得失を誤解しないようにするためには︑個人の力以外に制限をもたない自然的自由と︑一般意思 ︵お︶の制約を受ける社会的自由とをはつぎりと区別しなければならない﹂と力説している︒
第三の自由は〃道徳的自由︵一餌 一一げ①﹁一① bPO門下一︶である︒この道徳的自由に関して︑ルソーは﹃社会契約論﹄にお
いて︑﹁社会状態によって得たものとして︑上述のもの︵社会的自由を指す一筆者註︶のほかに︑道徳的自由をつ
げ加えることもできる︒この道徳的自由こそ︑人間を自分の主人にするところの唯一のものである︒なぜなら︑単な
る肉体的欲望の衝動に駆られることは奴隷状態にあることを意味し︑われわれが自分でつくった法律にしたがうこと ︵40︶は自由を意味するからである﹂と述べている︒ここに︑かれが︑肉体的欲望の奴隷となることなく︑理性の命令にし
たがい︑みずからつくった法律iルソーの場合︑法律は常に正しくて公共の利益を志向する一般意思に合致したも
73
︵41︶のでなけれぽならない一によって生活するという精神的自律が道徳的自由であり︑これこそが人間を自分の主人公
にする唯一のものであるところの最高の段階の自由であるといっていることが︑わかるのである︒
このことは︑ルソーが社会状態における人間と自然状態における人間とを比較して︑﹁この自然状態から社会状態
への移行は︑きわめていちじるしい変化を人間に与える︒従来人聞の行為を支配していた本能を正義に変え︑人間の
行為にそれまでになかった道徳的意味を与える︒このときにいたって︑はじめて肉体的衝動が退いて義務の声がこれ
に代り︑法が欲望に代るようになる︒そのときまで自己のことのみしか注意しなかった人間は︑他の原理にもとづい
て行動しなければならなくなったことに気づき︑自己の好みに聴きしたがう前に自己の理性に相談しなければならな
くなったことに気づく︒人間は︑この状態において︑従来自然から得ていた若干の有利な立場を失うけれども︑その
代りにきわめて大ぎな有利性を得る︒かれの能力は発揮されて発達し︑かれの思想は広くなり︑かれの情操は高尚に
なり︑かれの精神全体が高められるから︑この新しい条件の濫用が︑しばしば以前の自然状態以下にかれを堕落させ
ることさえなければ︑かれは︑永久にかれを自然状態から離脱させ︑愚かで知能の劣った野獣︵毒㊤三ヨ巴ω一ξ乙① ︵42︶〇一げ︒昌ひ︶を叡智的存在︵二口ゆ言①一三Φ=黄Φ三︶である人間としたこの幸福な瞬間を絶えず祝福しなければなるまい﹂
と述べて︑自然状態における人間の特徴は本能︑肉体的衝動︑欲望︑自己中心︑自己の好みなどによって動機づけら
れるところの野獣的存在である点に存し︑これに対して社会状態における人間は正義︑義務︑法︑理性などによ
って動機づけられるところの〃道徳的︑叡智的存在である一現実に照らしてみれば︑ ﹁である﹂というよりは
﹁でなければならない﹂といったほうが適切であろう一ところにその特質があるというのであるから︑自由が社会
的自由の毅階にとどまらないで︑道徳的自由の段階にまで到達するのが当然の帰結であろう︒
74
道徳的自由(自由論補遺一)
︵43︶ いずれにせよ︑ルソーは︑道徳的自由を力説し︑かつA・D・リソゼイも指摘しているように︑9自由の要求は道
徳的要求であるゆえ︑自由を要求するひとはすべて同じ自由を他の人びとに許す用意をもたざるをえず︑したがって
そのような自由を確保するのに必要な諸規則に服さざるをえない︑口一般意思に合致している法律は自由と両立する
と︑正しく主張したのである︒
ルソーの道徳的自由の最重視や社会的自由と道徳的自由との関係に関する見解は︑かれの教育論である﹃エミー
ル﹄において︑さらによく表明されている︒かれはその第五篇で﹁おお︑エミールよ! 自分の国になにものも負う
ところのない善行のひとが︑どこにいるであろうか︒それがどんな国であろうと︑かれは︑その国に︑人間にとって
もっとも貴重であるもの︑すなわちかれの行為の道徳性と徳に対する愛を負っているのだ︒森の奥に生まれていたな
らば︑かれはもっと幸福に︑もっと自由に生きられたかも知れない︒だが︑自分の性向にしたがって生きるためにな
にものとも闘う必要がないので︑かれは善良ではあってもなんの値打ちもなかったであろう︒しかし︑いまやかれ
は︑かれの情念にもかかわらず有徳の人間であることができるのである︒秩序のただ外見を見るだけでも︑かれは秩
序を知り︑秩序を愛するようになる︒他人にとっては口実としてしか役に立たない公共善は︑ひとりかれにとってだ
げは真実の動機となる︒かれは自分と闘い︑自分に打ち勝ち︑自分の利害を共同の利害のために犠牲にすることを学
ぶ︒かれが法律からなんの利益をも引き出さないというのは︑本当ではない︒法律はかれに悪人の間にあってさえも
正しくあるための勇気を与える︒法律がかれを自由な人間にしないというのは︑本当でない︒法律は︑かれに自分を ︵44︶支配することを教えたのである﹂と︑述べている︒
すなわち︑ルソーは︑社会的自由は自分の欲望や情念を抑制し︑自己中心の原理よりも高い原理にしたがうところ
75
の道徳的自由にまで高められることによって︑そのなかで開花するというのである︒
そしてルソーは︑ ﹁自然的秩序のなかでは︑人間はすべて平等であって︑その共通の天職は人間たること︵一.9髪
傷.ー︒ヨ日︒︶である︒そして人間として立派に教育されたものはだれでも︑人間に関することをうまくできない筈はな
い︒わたくしの生徒を軍人にしょうと︑僧侶にしょうと︑弁護士にしょうと︑そんなことはわたくしにはどうでもよ
い︒両親の職業より前に︑自然は生徒を人間としての生へと召し出すのである︒生きることこそ︑わたくしがかれに
教えたいと欲する職なのである︒わたくしの手から離れたときには︑かれは法律家でもなけれぽ︑軍人でもなく︑僧
侶でもないであろうことを︑わたくしは認める︒かれはまず第一に人間であるであろう︒ひとりの人聞がそうあるべ ︵45︶ぎすべてに︑かれは必要とあればどんなものにも劣らずなりうるであろう﹂といって︑教育の目的は人間として立派
な人間をつくること︑すなわち道徳人をつくることであることを指摘し︑そのためには教育は漸進的教育︵Φqβ09・謡8
鴇︒σqおω巴く︒︶であると同時に自由な教育であることを主張している︒
その漸進的教育の初期は純粋に消極的なものでなければならず︑第一段階は二歳までで︑体育の教育を︑第二段階
は二歳から十二歳までで︑感覚の教育︵ひ◎二〇9↓一〇﹈P ◎¢ω ω①一Pω︶を行ない︑第三段階の十二歳から十六歳までは心胸と
理性との教育︵①〇二8鉱︒ロ◎二8①霞Φ一ぽ①轟凶ω8︶を行ない︑そして最後の第四段階において道徳的自由と徳との
教育を与えて︑教育は終るのである︒
﹃エミール﹄において︑教師はエミールに道徳的自由や徳は自分の情念の制御からなることを教えて︑﹁わが子よ︑
勇気なしには幸福はありえず︑闘争なしには徳はありえない︒〃徳︵<①二二︶という言葉は︑〃力︵︷o零①︶という言
葉から出たもので︑力はあらゆる徳の根底である︒徳は︑かれの本性によっては弱いが意思によって強いという人間
76
道徳的自由(自由論補遺一)
にのみ属する︒・⁝..︵中略︶⁝⁝それでは︑徳ある人聞とはどういう人間なのか︒それは︑自分の愛情を克服するこ
とができる人間である︒という理由は︑そうすることによって︑かれは自分の理性に︑自分の良心にしたがい︑自分
の義務を行ない︑秩序のうちに自身を保持し︑なにものもかれをこれから引き離すことがでぎないからである︒これ
まで︑君はただ外見上においてのみ自由であったにすぎない︒君は︑まだひとから命令されたことのない奴隷の一時
的な自由しかもっていなかった︒いまや︑本当に自由になるがよい︒君自身の主人になることを学ぶがよい︒君の心
に命令するのだ︑エミールよ︑そうすれば君は徳あるものとなれるであろう︒それゆえ︑ここで新たな修業をしなけ ︵46︶れぽならないのだが︑この修業はいままでの修業よりもずっと骨が折れるであろうしと語り︑エミールは二年間のヨ
ーロッパ旅行の間に︑自由は徳の酒養︑すなわち自由の最高形態である道徳的自由であることを学ぶのである︒
ルソーは︑右の教師の言葉を通して︑単に外的強制からの解放という自由だけではなくて︑本能や情念や衝動の奴
隷になることなく︑良心や理性の命令にしたがって生活するという意思の自律あるいは精神的自律であるところの︑
自由の最高形態である道徳的自由を︑人びとは心の内に確立しなければならず︑それこそが教育の究極的目的だと主
張しているのである︒
以上述べてきた道徳的自由は︑別言すれば︑W・リップマンが近現代人の最大の特徴を指摘して︑かれらにあって ︵47︶は﹁欲望が主人公で︑理性が欲望に奉仕し︑それを満足させるための道具﹂になっていて︑ ﹁かれらはたとえ高いサ ︵48︶ラリーを得ていたとしても︑言葉の正確な意味でプロレタリアだ﹂と断じているように︑近・現代人は筆者のいわゆ
る〃精神的プロレタリアに陥っているが︑そうではなくて︑常にみずからに高い義務を課して︑不断にみずからの
資質や人格の向上・完成に向って欣求精進するところの筆者のいう精神的貴族になることが肝要である︒道徳的
77
自由とは︑まさに﹁ノブレス・オブリージュ﹂なのである︒
ホセ・オルテガ・イ・ガゼットが﹁人間の社会は︑好むと好まざるとを問わず︑その本質上おのずから貴族主義的
であり︑また人間の社会はまさに貴族主義的である程度において社会であり︑この性格を失う程度において社会をや ︵49︶めるほど不可避的に貴族主義的である﹂といい︑故ロシアソ卿が﹁民主主義は︑それが貴族たちをうみ出すところで ︵50︶はじめて成功しうる体制である﹂と論じている〃貴族の意味は︑まさに筆者のいう〃精神的貴族なのである︒
以上述べてきた意味において︑道徳的自由とはまた﹁内的障害の欠如﹂といってよいであろう︒
78
註︵1︶ 拙稿﹁自由の哲学的意味﹂︑﹃早稲田社会科学研究﹄第十六号︑昭和五十二年二月︑一〇一1一一四頁参照︒
︵2︶旨い8犀ρ︾昌国田亀8p8ヨ圃謁=信ヨβ︒昌d巳①冤麟昌a轟噂F筈・⑳翼
︵3︶ 竃・O鑓諺εP勺︒葺ざ巴U芭︒σq偉①ω一8︒︒山下重一・中野好之・岡和田常忠訳﹃政治的対話篇﹄︑昭和四十八年︑七九頁︒
︵4︶︸・ピ8冨8.鼻二︒ゴ.卜︒S⑳㊤の
︵5︶匂●い8吋ρ目ぎ⇒︒きω︒ω︒hΩく譜O︒<①諺日︒塁7濫㎝G︒噂︒︒①⁝閏ゐN①●
︵6︶ いピoo吋ρ﹀昌国︒︒ωミ8づ8∋ぎぴq国ロ∋雪d巳2望蝉昌αヨ︒笥−質9.圏・㊧ミ・
︵7︶昌ζ−伽8.
︵8︶崖ζ一畠.卜︒︒︒鴇⑰⑰①山卜︒.
︵9︶9ピ︒葵ρ↓≦︒早8臨ω①ω︒h9乱O︒く①;ヨ①塁閏曽誘ゆG︒脚H・︒合H①幽・︒︒︒ρ
︵10︶ ぎ乙二⑳心.
︵11︶旨ピ︒爵ρω︒ヨ①↓ぎ二〇q巨ω8旨9巳旗国含︒9二︒P..一︒ごい︒︒冨.O昌℃︒=膏ω麟旨巨国含8ぎP①α二乱9ぎ#︒含?
菖︒昌ξ国︒≦9乙因.団窪巳ヨ雪.︑りμOミ矯㈱刈9喝.N零.
.︵12︶同σ置二㈱ω﹃宕・b⊃N︒︒φ
A
1ggeesre
m
.[Ilv m m $
wa mp
(‑pt
(N (9 (9 (:
(ee
(2 (8 (N
( ge
(ge
(g (8 (R
( $i
(ge
(R (8 (8
(za (gg
) Ibid., g 33, p. 229.
) Ibid., g 36, p. 231.
) Ibid., g 38, p. 233.
) Ibid.,g45, p. 237. '
) Ibid., g 52, p. 240.
)Ibid.,g61, p. 244. ‑
) J. S. Mill, Autobiography, ed. by Jack Stillinger, 1971, p. 86.
) J. S. Mill, On Liberty, Three Essays by John Stuart Mill, The World's Classics, rep. 1952, p. 128.
) J. S. Mill, Bentham, Collected Works of John Stuart Mill, 1977, vol. X, p. 95.
) J. S. Mill, Utilitarianism, "John Stuart Mill, Utilitarianism, Liberty and Representative Government", ed. by H. B. Acton, l972, p・ 9.
) Ibid'., p. 16.
) Ibid., p. 13.
) J. S. Mill, On Liberty, op. cit., p. 2z ) Ibid., p. 70.
) Ibid., p. 29.
) Ibid., p. 27.
) Ibid., p. 71.
) J. S. Mill, Principles of Political Economy, Collected Works of John Stuart Mill, 1977, vol. I, pp. 937‑8.
) J. S. Mill, On Liberty, op. cit., p. 79.
) J. S. Mill, Utilitarianism, op. cit., p. 27.
) J. J. Rousseau, Discours sur L'origine, et Les Fondemens de L'inegalit6 parmi Les Hommes, Oeuvres Comp16tes
de Jean‑Jacques Rousseau, 1969, vol. g, p. 141. R
( ( ( ( ( ( ( ( ( ( (
( ( (
( (
(
wca
n
co
o
co ptcacoco
a
co
o
w‑
wcuw
cow wsu
nw
o
wFwcow aw
on
) ) ) ) ) ) ) ) ) ) )
) ) )
) )
)
J. J. Rousseau, I]hi Contrat Social, liv, I,ch. ll. o.
Ibid., liv. I, ch. vr.
Ibid., liv. I, ch. ve.
Ibid., liv. I, ch. M.
Ibid., liv. I, ch. M.
Ibid., liv. I,ch. ve.
Ibid., liv. I, ch. va.
Ibid., liv. rv, ch. ll.
Ibid., liv. I, ch. va.
A. D. Lindsay, The Modern Democratic State, 1951, p. 263.
J. J. Rousseau, Emile ou De L'Education, Oeuvres Comp16tes de Jean‑Jacques Rousseau, lg69, vol. IY, liv. V, p. 858.
Ibid., liv. I, pp. 251‑2.
Ibid., liv. V, pp. 817‑8.
The Essential Lippmann, A Political Philosophy for Liberal Democracy, ed. by Clinton Rassiter & James
Ibid., p. 44.
Jos6OrtegaYGasset,LaRebeli6ndelasMasas,1930.vassWgKr‑<ex3U<kQIIss ‑Kgi(QptWigeall+<lil‑'
1 A( pi(o
N. Micklem, The Idea of Liberal Democracy, 1957, p. 75.