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(1)

九 二

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シ ア の 若 者 の 生 活 世 界

はじめに一ネップ期の青年労働者に関する予備的考察

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若者の年齢的範囲

ニネップ期の青年労働者の日常生活

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住宅事情 三日常生活における社会的﹁病理現象﹂

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松 井

ーーモスクワ・レニングラードの青年労働者を中心にー—|

六七

14‑2 ‑263 (香法'94)

(2)

であ

る︒

ジが存在する︒多少単純化して言えば︑

一九

年代末からの﹁上からの革命﹂により成立するスターリン二

0

体制とは異なり︑政治︑経済︑社会︑文化の各局面で一定の自由度と多様性が保たれたネップ社会というイメージで

ある︒すなわち︑当時政治的には共産党の権力独占状態が成立したが︑党内反対派の存在もあってまがりなりにも議

論の多様性がみられ︑労働組合などの社会団体も共産党から相対的にではあれ自立したポジションを占め︑経済的に

策が保持されたというものである︒こうして︑ネップ社会は︑ は基幹産業の国有化を前提にしながらも市場経済システムがそれなりに機能し︑加えて︑かなり寛容な文化︑学術政

スターリン型の社会主義ではない︑オールタナティブ

ロシア革命からスターリン体制へいたる過渡期としてのネップ期ソヴィエト社会のイメージ

ロシア革命と﹁上からの革命﹂という二つの革命の狭間にあって︑

息継ぎとして位置づけられる︒特に︑ネップのはらんだ諸矛盾が強調され︑

因と把握され︑ネップの限界性が示される︒

もちろんこの二つのイメージが戟然と分離しているわけではないし︑明確に対立し合うものでもない︒

欧米では一九七

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二つの代表的なイメー

ネップ期はスターリン時代へむかう幕間︑

それがスターリン体制への移行を導く原

とは

いえ

そしてソ連ではペレストロイカの時期にソヴィエト社会主義の起源としてのスターリン

体制の問題が論議されたとき︑その前提となるネップ期については︑多かれ少なかれこの二つのイメージをめぐって な社会主義のモデルの一っとしてイメージされてきたのである︒

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とりわけネップ期(‑九ニ︱

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は じ め に

のソヴィエト・ロシアに関しては︑

六八

14‑2 ‑264 (香法'94)

(3)

一九二0年代ロシアの若者の生活世界(松井)

かったように思われる︒

Jレ 近年注目されるのは︑この種の枠組みを前提とした上で︑ネップ社会の実像に迫ろうとする詳細な実証研究が欧米

を中心に続々と著され始めていることである︒ダンスや映画などの娯楽・大衆文化の領域︑労働者や農民の労働や日

常生活︑女性︑子供︑家族生活の世界などとテーマの多様性も著しい︒

こうした近年の研究状況をうけて︑本稿は︑モスクワやレニングラードの青年労働者を中心に彼らの日常生活の実

(3 ) 

態をできる限り明らかにすることを通じて︑ネップ社会を再考する試みである︒さらにその作業を通じて︑

年代末からの工業化路線の社会的背景を探ることも課題としたい︒

このようにテーマを青年労働者の日常生活に限定した場合︑直接に関連する先行研究はかなり限られたものになる︒

フィッツパトリックを中心とする﹁社会史派﹂はネップ社会やその後のスターリン革命︑

ソヴィエト社会について新たな知見を積み重ねるなかで︑ソヴィエト体制の政治過程︑社会過程におけるコムソモー

(4 ) 

や若者集団の重要性を示唆してきたが︑しかし︑その具体像を描く作業は十分にはすすめられな

︵青

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六九

一九

二〇

そしてスターリン体制下の

数少ない仕事の中では︑黒宮広昭の修士論文が︑青年労働者の労働生活を中心に検討する中で︑関連領域に言及し

た先駆的仕事として注目される︒青年労働者の日常生活に直接からむ仕事としてはグッダーハムの仕事が欧米ではそ

の先鞭をつけ︑そしてようやく一九九二年に︑アメリカのゴーサッチがこのテーマでの本格的な博士論文を発表した︒

ここで︑本稿との違いをあらかじめ指摘しておけば︑彼女の仕事は︑体制の価値規範とは異なる当時の若者の文化的

特色︑例えば映画︑ダンス︑衣装︑などに表現されるサブカルチャーの析出に力点をおいているところに特徴がある︒

日々の日常生活そのものの具体的局面にはそれほど分析が及んでいない︒そこで本稿では︑彼らの労働生

(l ) 

議論が展開されたように思われる︒

14‑2 ‑265 (香法'94)

(4)

ペレ ス

活を含めた予備的考察を前提にして︑住宅事情︑食事︑消費生活など日常生活の諸側面をできるかぎり描写し︑

サッチの仕事との重なりをできるだけ回避しようと試みた︒

ゴ ー

一方︑本国旧ソ連における研究状況について一言述べておく必要があろう︒労働者の日常生活研究は以前から注目

されてきた研究領域である︒しかし︑青年労働者の日常生活の問題に限定すると︑かなり限られた数の仕事しか存在

しないという印象である︒代表的なものは︑

(9 ) 

活について研究したレビーナの著作である︒発表時期がペレストロイカ以前であるため視角に限界があるのは否めな 一九ニ︱年から二五年までのレニングラード青年労働者の労働と日常生

いが︑豊富な内容をもつ貴重な仕事である︒ただし︑二六年以降が分析対象から外されているため︑本稿が注目する

一九二六年以降の社会的﹁病理現象﹂に関してほとんど記述がない︒もちろんこの﹁病理現象﹂のテーマは︑

( 1 0 )  

トロイカ以前のソ連では︑研究対象にはなりにくかったであろう︒

最後に︑資料について一言触れておきたい︒本稿が主として依拠する資料は︑当該期のコムソモールが発行した新

聞︑

雑誌

ー﹂と

そして近年公開が著しく進んだアルヒーフ資料である︒ここでは︑

サンクトペテルブルグの﹁サンクトペテルブルグ歴史・政治文書中央国立アルヒーフ﹂を︑特に後者を中心

に利用した︒同時に歴史資料として重要なのは︑当該期にコムソモール中央委員会の経済委員会や国家機関で活動し

た青年労働問題︑衛生問題などの専門家︑活動家により実施されたアンケート調査及び彼らの分析であり︑また一九

二三年以降全ロシアで実施された未成年労働者健康調査に関する資料および分析である︒彼らは︑ソヴィエト・ロシ

アの若者の日常生活の改善に多大な関心を示したが︑

は︑若者の間で︑

モスクワの﹁青年組織文書保存センタ

そこにみられる彼らの問題意識は明確であった︒すなわちそれ

より文化的︑合理的な生活様式を広め︑定着させていくことである︒それ故︑彼らが行うアンケー

トには︑若者が毎日手や顔を洗うか︑歯を磨くか︑自分のタオルをもっているか︑といった類の質問項目も並んでい

七〇

14‑2 ‑266 (香法'94)

(5)

一九二0年代ロシアの若者の生活世界(松井)

( 1 )  

料としても貴重なものであり︑

付記本稿は︑北海道大学スラブ研究センター地域部門研究会(‑九九三年一月二八日開催︶で報告した折りに提出したペーパー︵スラ

プ研究センター研究報告シリーズ第四六号

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所収︶に︑大幅に加筆・修正を加えたもの

欧米およびペレストロイカ期ソ連における議論や研究動向については︑塩川伸明﹃終焉の中のソ連史﹂朝日新聞社︑

( 2 )

近年の研究動向については︑

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,   及び本書についての中嶋毅氏の書評を参照︵﹁国家学会雑誌﹄第百六巻第十一・十二号︑︱二三\︱二六頁︶︒近年の代表的

な作品をいくつかあげれば︑

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( 3 )

わが国におけるネップ期ソヴィエト社会の研究についていえば︑農村社会の研究に比べて︑都市の社会史︑都市の各社会層の研究

が少ないという印象をうける︒労働者については︑塩川伸明﹁ネップ期労働者の生活実態ーエレーナ・カボ著﹃労働者の日常生活概 いこうとする

本稿でも彼らの仕事に大いに依拠している︒

﹁科学的﹂態度が充満している︒

その

点が

後のスターリン時代の学問のあり方とは大きく異なり︑資 イアスを濃厚に帯びているともいえるが︑ともあれ彼らの姿勢には︑事態を客観的に認識し︑それを政策につなげて た価値観が前面にでている印象を受ける︒近代そのものの問い直しが進む現在からみれば︑ ないわけではなかったが︑

しか

し︑

その種の視点はどちらかといえば後景に退き︑ロシア社会の近代化の推進といっ

彼らの分析はその種のバ

る ︒

これらの専門家はソヴィエト体制と共存していたので︑﹁共産主義的人間﹂を育成するといった観点が彼らに全く

14‑2‑267 (香法'94)

(6)

( 1 0 )  

( 9 )  

( 8 )  

( 7 )  

( 6 )  

( 5 )  

( 4

)   大学出版会︑一九九一年に再録︶︑技術者については︑中嶋毅﹁一九二0年代ソ連社会と技術インテリゲンツィヤ﹂﹃史学雑誌﹄第九 要﹄紹介﹂和田春樹編﹃ロシア史の新しい世界﹄山川出版会︑一九八六年︵後にこの論文は塩川著﹃ソヴェト社会政策史研究﹄東京

八編第一︱号︑がある︒一九一七年革命期においては︑辻義昌﹃ロシア革命と労使関係の展開﹄御茶の水書房︑一九八一年︑が労働

者の消費生活について検討している︵第二章第五節︶︒

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1928‑1932, 

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19 88 . 

なお︑フィッツパトリックら﹁社会史派﹂の仕事については︑﹃政治研究﹄︵九

州大学政治研究室︶第三五号(‑九八八年︶に掲載したチェイスとヴァイオラの著作への書評において検討したことがある︒

黒宮広昭﹁突撃運動と労働競争一九二四\一九三0﹂︵東京大学・修士論文︶︑一九七八年︑第一章第二節︒

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19 92 . 

竿ヂ者は︑ゴーサッチ氏の仕事と相前後して本稿の作業を進めており︑彼女の学位論文を入手した時︑

本稿の基本的骨格部分の作業は完了していた︒しかし︑もちろん︑彼女の研究から多くを学んだ︒なお︑ゴーサッチ氏の仕事の存在

について︑土屋好古氏と吉田浩氏から御教示頂いた︒

塩川前掲論文︑参照︒

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ノヴゴロド教育大学のニコライ・ドゥブロフカ氏が︑﹁若者の雇用保障へのコムソモールの参加一九ニ︱│︱九三0

年 ﹂

というテーマで学位候補論文を執筆中であることを︑一九九三年八月にペテルブルグで本人よりうかがった︒すでに執筆を終えてい

ることと思われるが︑さしあたりまだ入手していない︒草稿段階で︑原稿の一部を拝見し︑また全体の構想をうかがったところによ

ると︑氏は一九二0年代の青年労働者の労働と日常生活に関する包括的な研究を試みており︑おそらくこの論文がロシアにおける代

表的研究という位置づけになるものと思われる︒

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1928‑1931. 

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14‑2 ‑268 (香法'94)

(7)

一九二0年代ロシアの若者の生活世界(松井)

( 1 1 ) 青年組織文書保存センター

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以下注に引用する際︑UXLlMO

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が改称されたものである︒

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本稿で中心的検討対象とされるのは﹁青年労働者﹂層であるが︑﹁青年﹂ないし﹁若者﹂という言葉が表現する年齢

ことの性質上︑厳密に年齢の範囲を区切まず始めに一定程度確定しておかなければならない︒もちろん︑

ることは困難であるし︑またその必要性も必ずしもない︒それゆえ︑以下示される定義は︑若者という集団のイメー

﹃レニングラードの青年労働者労働と社会的相貌

定の歴史的時期における社会的・人口学的グループとしての若者を研究するに際して︑

その若者の概念を︑平均寿命︑

それ

ゆえ

労働開始年齢︑家族形成の時期︑社会的成熟の到来︑といった指標により確定しなければならないとし︑次のような

年齢枠を提示した︒すなわち︑一九二六年の資料によれば︑当時のソ連国民の平均寿命は四四歳であり︑

人生の四世代

11

子供︑青年︑成人︑老人の区分を考慮すれば︑青年期が二五歳を越えて続くことはおそらくあり得な ジを得るためのひとつの手掛かりにすぎない︒

(一)

一九

ニ︱

I二五年﹄を著したナタリア・レビーナは︑

ネッブ期の青年労働者に関する予備的考察

ある特

14‑2 ‑269 (香法'94)

(8)

においており︑ ﹁

年少

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﹂と分類する場合もあった︒ れることがほとんどであった︒すなわち︑一八歳未満

一四歳\一六歳未満を特に ところで︑当該期のソ連においては︑一八歳未満 `~、~ふヽしカ いこと︑労働開始年齢は法的には一六歳以上であったが︑事実上一四歳になると多くの若者が雇用労働に従事しはじめたこと︑結婚は一八歳で法的には可能であったが︑ネップ初期には平均二四・五歳であった料による︶こと︑ ︵ペトログラードの資

さらに青年組織コムソモールの年齢枠が一四歳\二三歳であったこと︑以上のことから︑

(2 ) 

は当時の若者の年齢範囲を一四歳\二四歳に設定している︒

以上のレビーナの見解に本稿は基本的に従うことにするが︑しかし年齢の上限をここでは二三歳未満に設定したい︒

コムソモール年齢の上限をレビーナは二三歳以下としているが︑組織の規約上は二三歳に達した場合同 盟を離脱するか︑あるいはオブザーバー資格でのみとどまることができると定められており︑

専従ポストにあるものを除いては正規のメンバーとは見なされなかった︒実際︑統計上でも︑

超過年齢者として分類されている︒さらに︑筆者が入手した諸資料においても︑青年労働者の上限を二三歳未満に設 定している統計がほとんどである︒専門家であるレビーナが︑これらの事情を考慮にいれなかった理由は判然としな

いずれにせよ本稿では︑若者

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b )の年齢枠を一四歳\二三歳未満の範囲でおおよそ考えておきたい︒

一八歳になると選挙権が付与され成人とみなされた︒それゆえ︑

と一八歳以上とでは法的保護の扱いが異なり︑統計上も同じ若者として区分されるのではなく︑別々な項目で処理さ

一八歳以上二三歳未満の若者については﹁青年︵歪HO

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︑ については﹁未成年

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﹂という言葉がよく用いられ︑さらに未成年については︑

本稿では︑断わりなく青年労働者という言葉を用いるときには︑基本的に一四\二三歳未満の年齢の労働者を念頭

一八\二三歳未満の狭義の青年労働者について叙述する場合には︑

その旨明示することにする︒未成

二三歳を越えたものは 二三歳以上のものは︑

とい

うの

も︑

七四

レビーナ

14‑2 ‑270 (香法'94)

(9)

一九二0年代ロシアの若者の生活世界(松井)

は︑低い水準にとどまったということである︒ 占める割合は著しく低下し︑ 合計すると一︑

八五

七︑

限のデータ提示にとどまらざるを得ない︒ 本稿では︑今示した年齢の範囲の若者︑特に青年労働者を基本的な対象にするわけであるが︑ィエト社会において︑彼らが数的にどれくらいの割合を占めていたのかを概略把握しておく必要がある︒しかし︑包括的なデータをさしあたり入手できておらず︑のソ連ではあまり整備されていなかったという印象である︒それゆえ︑ここでは︑

一九

二五

年一

0

月一日時点でのあるデータによれば︑全ソ雇用労働者中の若者の数及び全体にたいする比率は︑未

成年が四六二︑

00

人︵五・一%︶︑青年︵一八歳以上二三歳未満︶が一︑三九四︑三

00

人(‑五・ニ%︶であり︑

( 5 )  

一九二五年七月一日時点でのセンサス工業におけ

る若者の雇用労働者数及び比率は︑未成年が一

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であり︑総計で五一六︑二八七人︵二三

・ O

% ︶  

センサス工業の未成年労働者数及び比率の年次変化データである︒先にあげた数値とあわせて見れ

ば次のようなことが言えよう︒すなわち雇用されて働く未成年及び青年の比率は雇用労働者全体の二

0

%を越えるこ

と︵センサス工業では比率はより高い︶︑また︑一九ニ︱年におけるネップヘの移行とともに︑未成年労働者の全体に

一九

0

年代を通じてその絶対数は増大したものの︑しかし労働者全体に対する比率で

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二三歳未満の青年層については確たるデータを見つけることが

0

青年労働者数・比率の推移 年という言葉については︑断わりなき場合は︑

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一八歳\二三歳未満の青年層に関する統計データは︑当時

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一八\二三歳未満の青年が四一三︑二三

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指す

一定のイメージを得るための最小

14‑2 ‑271 (香法'94)

(10)

これまで実際に働いた経験のない︑ 表3は︑職業紹介所に登録された失 業者数が増大していったのである︒

1

比例するように︑未成年者の間での失 働者の比率が著しく低下したことと反 くにネップヘの移行とともに未成年労

一九

0

て︑失業が最も深刻な社会問題の一っ

(7 ) 

であったことは良く知られている︒と

業者総数及び未成年失業者数︑及びその比率である︒ネップの導入とともに企業の生産効率をたかめるために独立採

算性が実施された︒それに伴って︑技術をもたない未熟練工である未成年労働者が真っ先に削減の対象となり︑ある

いは新規採用の対象からはずれ︑彼らが失業者の列を築いたのである︒

はじめて労働市場に現れた若者たちだということである︒すなわち︑彼らは

仕事を得ることができず︑かつ学校で学ぶこともできない状態におかれていたのである︒ 代のネップ期ソヴィエト社会におい とも密接に関連している︒ このことは︑若者の間での失業問題 たことがうかがえる︒ その生産現場での比重が明確に低下し できていないが︑未成年者に関しては︑

ソ連のセンサス工業における未成年労働者数の 推移

1923 1924 1925 1926 1927

人 数 87,872  85,078  90,864  133,992  139,368  出典:《KOMCOMOJlbCK851np8B.ll8,19  H0516p51  1927,  CTp. 3. 

2 ソ連のセンサスエ叢における未成年労働者

比率の推移

一九二二年のモスクワでは︑

と く に 注 目 さ れ る の は

、未成年失業者の大半

比率(%) 比率(%)

1913 12.9  192207 5.5  1916 14.7  192210 5.9  1917 13.9  192301 6.5  1918 13.1  192401 5.5 

1919年 前 半 8.5  192501 5.1 

1919年 後 半 10.0  192601 5.6 

1920年前半 10.0  192701 5.7  192107 9.1  192801 4.8  192201 6.5  192901 4.2  出典:

u r A v t n

cj).l,on. l,Jl.376,.JI. 71(1913年〜

19221; C. EpMO.Jiaes.  6pOHH ITOJlpOCTKOB.  M., 1929,  CTp. 10(19227‑19271 Tpy!l  s CCCP: CnpasolfHHK  1926‑1930. M., 

1930,  CTp. 10 (19281‑19291

七六

14‑2 ‑272 (香法'94)

(11)

一九二0年代ロシアの若者の生活世界(松井)

てみ

るよ

うに

ネップ期ソヴィエト社会におけ 仕事を求める巨大な規模の若者群は︑後に改め 一九二三年の国勢

さらに一八歳\二三歳未満の失業青年を

考慮に入れるならば︑失業状態にある若者の数

(9 ) 

は膨大な規模に達することを指摘した︒

こ の

O

え ︑

力 こ

と ︑

ま た

︑ これに約三

0

万の浮浪児その他を わけでもないものは総数一

00

万人以上に上る なる仕事にもつかず︑かつ学校で勉強している 住む一四歳から一七歳の未成年者の間で︑

し)

調査資料に依拠しながら︑都市及び都市近郊に たペレムイスロフスキーは︑ されている︒未成年者の間での失業問題を論じ るよりもはるかに多かったことがしばしば指摘 しかし︑実際に失業状態にあった若者集団は︑

職業紹介所への登録というかたちで数字に現れ 三年のレニングラードでは︑

(8 ) 

同じ状態にあった︒ やはり四分の三が 失業未成年の九三%がこうした若者であり︑

3 ソ連の未成年失叢者数(単位1,000 とその比率の推移

七 七

全失業者数 未成年失業者数 比率(%)

192212 540.0  58.8  9.8  192301 641.0  58.8  9.2  07 1,050.0  76.8  7.3  192401 1,240.0  106.2  8.6  07 1,344.0  128.8  9.6  192501 901.6  127.0  14.1  10 920.4  122.1  13.3  192601 951.2  116.0  12.2  04 1,058.5  127.9  12.1  07 1,065.5  133.1  12.5  09 1,023.7  146.0  14.3  10 1,070.8  144.1  13.5  192701 1,477.9  163.3  15.5  10 1,041.2  168.6  16.2  192801 1,576.4  197.4  12.5  10 1,364.6  240.3  17.6  出典:〈BonpOCblTpy Aa,N o.2, 1923,  cTp. 24 (192212UA1‑1nn,.K‑601, on. 1, 

,'l. 579, JI. 89(19231‑19251月);〈KoMCOMOJJbCK8Anpaa,21  HOA6pA  1926,  CTp. 4 (192510‑19269Tpy.ll CCCP, CTp. 36(192610‑192810

14‑2 ‑273 (香法'94)

(12)

未成年労働者保護

若者の間での失業の広まりの一因には︑皮肉にも︑革命後実施されたある種手厚い労働者保護政策があった︒すな

わち︑未成年者に対して労働時間の短縮︑夜間・有害労働の禁止︑休暇やその他の面での様々な保護立法が適用され︑

そのことが︑未成年者を雇用することが不利益を伴うと経営側に意識させ︑彼らの雇用を狭める原因の一っとなった

ので

ある

ボリシェヴィキ政権の未成年労働者保護の諸立法は︑十月革命直後から策定された︒

未満の未成年を雇用することが禁じられ︑ 労働人民委員部による﹁八時間労働及び労働時間の継続と配分に関する決定﹂によれば︑その日付をもって︑

さらに︑来る一九二

0

年一月一日をもって︑二

0

歳未満の若者の採用が禁

じられることまでも予定された︒またこの布告において︑同時に︑革命来の青年運動の要求であった一八歳未満の未

( 1 0 )  

成年者に対する六時間労働制の導入が決定された︒さらに︑ネップ導入後に編纂された一九二二年の労働法典では︑

( 1 1 )  

一六歳未満の年少者に対しては一日四時間を超えて労働を課すことも禁じられた︒

一四歳未満の年少者労働の禁止や未成年者に対する六時間労働等を実際に現場に導入する試みは︑内戦渦中で戦時

体制下にある各工場でも実施にうつされた︒しかし︑年少者労働禁止が守られていないという指摘はしばしばなされ︑

また短縮労働時間にたいしても︑それが八時間分の給料を受け取ることができる措置ともあいまって︑経営側の抵抗

や成人労働者の間での反感を呼んだ︒また︑労働時間短縮により得られた空き時間を利用して教育を施すための学校

システムの未整備なども原因となって︑ネップ導入以前においては︑未成年労働者保護政策が現実のものとなること

(三)

る不安定要因を構成することになる︒

一九

一七

年一

0

月二九日付の

七八

一四

14‑2 ‑274 (香法'94)

(13)

一九二0年代ロシアの若者の生活世界(松井)

づけた︒これはプローニャ 者を削減対象の第一順位に置いたのである︒ 満の未成年労働者にはひと月︑ 効力を発揮しはじめたのである︒ 件が整備されていったようである︒

七九

一八

歳未

( 1 2 )  

は困難であった︒コムソモール指導者シャツキンの言をかりれば︑﹁革命後一年たっても︑未成年者の状態は以前のま

( 1 3 )  

まであった﹂のである︒

しかし︑二

0

年代に入り︑戦時から平時へと移行するにつれて︑これらの未成年労働者保護規定を実施にうつす条

しか

し︑

一九二四年に行われた全ソ未成年労働者健康診断時の労働時間調査によれば︑

四\一五歳の年少者の七四・ニ%が四時間以下の労働に従事していたし︑未成年者︵一六\一七歳︶の九ニ・六%が

( 1 4 )  

六時間以下のみ就労していた︒完全にとはいえないまでも︑以前の時期に比べれば︑未成年労働者保護はある程度の

また︑未成年労働者保護の一環として︑夏期休暇制度も導入された︒一九ニ︱年の国防会議決定により︑

( 1 5 )  

一八歳以上には二週間の有給夏期休暇を付与することが決定された︒

さきに述べたように︑こうした一連の未成年労働者保護規定は︑経営側に未成年労働者の削減︑新規不採

用の理由として用いられる傾向をもった︒ネップの導入以後︑独立採算性を迫られた各企業の経営者は︑未成年労働

一方︑未成年者の失業がもたらす社会的影響は無視できず︑事態を放置

したままにしておくことはできなかった︒未成年労働者を将来の熟練労働者の予備軍と位置づけるソヴィエト国家は︑

ネップの導入後急速に低下した未成年労働者比率を改善するために︑

︵確保枠︶制度といわれる︒

入されたこのブローニャ制度は︑各産業別に︑未成年労働者の義務的雇用比率を定めた︒例えば︑金属工業では八%︑

( 1 6 )  

印刷工業一三%︑木材加工業五%などとなっており︑全産業平均でそれは七%に設定されていた︒

ブローニャの採用は︑表2

にあ

るよ

うに

一定程度の未成年労働者の雇用を各企業に義務

一九二二年五月二日付の全連邦中央執行委員会決定により導

一次的に未成年労働者比率の下げ止まりに貢献したし︑表1にあるよう

14‑2 ‑275 (香法'94)

(14)

(四)

に︑未成年労働者の数は︑絶対数としては一定の上昇をみせた︒しかし︑比率的に見ると︑

られたとはいい難いものであった︒というのも︑経済効率を優先する経営サイドは︑未成年労働者は不採算労働力で

( 1 7 )  

あり︑ブローニャは﹁工業への力不相応な課税である﹂と認識していたからである︒それ故︑経営側は定められた枠

を満たすことに積極的ではなかったし︑逆にブローニャ比率の切下げをもくろんでいた︒例えば︑

人民委員部にたいして最高国民経済会議が提出した覚書のなかでは︑経営側はブローニャ規定を﹁法外な負荷﹂と位

( 1 8 )  

置づけ︑比率の見直しを率直に提言した︒

一方︑青年労働者の利益擁護機能を担うことを自負したコムソモールは︑ネップ期を通じて一貫してブローニャ実

現に努力した︒彼らは最高国民経済会議や経営側の目論見に抵抗し︑反対の論陣をはった︒しかし︑結局のところ︑

表2に見られるように︑ブローニャ義務が果たされることはなかったし︑

率の引き下げという譲歩すら強いられたのである︒

青年労働者の賃金 その後著しい改善がはか

それどころか二

0

年代末にはブローニャ比

次の章で検討する日常生活のありかた及び生活水準に直接影響を及ぼすものとして︑青年労働者が獲得する労働賃

金の問題がある︒当該期の労働賃金やそのレベルについては︑度重なる通貨改革や現物支給制度の残存などとも関連

して︑包括的なデータをえることがきわめて困難である︒そこで︑以下では︑未成年労働者及び青年労働者と成人労

働者の賃金比較︑労働者の家計データなどを参照しながら︑当該期の青年労働者の賃金水準について若干のイメージ

をつかみたい︒

表4︑及び表5は︑未成年労働者と成人労働者のネップ期における平均賃金︵月収︶データであり︑また未成年労 一九二三年に労働 八

14‑2 ‑276 (香法'94)

(15)

一九二0年代ロシアの若者の生活世界(松井)

心をよせざるをえなかった︒

働者賃金の成人労働者賃金に対する比率の推移である︒これを見ると︑内戦期からネップ初期にかけては︑賃金の現

物支給や平等主義の高まりにより成人労働者と未成年労働者の賃金格差は顕著に縮小したが︑ネップヘの移行ととも

に賃金格差は拡大しはじめ︑ネップを通じて未成年労働者の賃金比率は低下していったことがうかがえる︒未成年労

働者であっても技能水準が成人と同じであれば同じ賃金を受け取ることになっていた加︑未成年労働者の多くは勤続

年数

も短

く︑ 4

ほとんどは熟練度が低いため︑下位の給与ランクに位置づけられることは不可避であった︒しかし︑給

与格差が拡大し︑未成年の賃金比率が戦前水準より悪化したことに対して︑青年労働の専門家たちは事態に大きな関

未成年労働者と成人労働者の平均賃金

(月収)

(R=ルーブリ、 K =カペイカ)

未 成 年 成 人 労 働 者

1923‑24 16RlOK  35R20K  1924‑25 18R70K  43RlOK  1925‑26 21R40K  52R70K  1926‑27 24R30K  * 

1927‑28 *  67R83K  1928‑29 *  74R25K  出典:《KoMCOMOJlbCKaHnpaa,19  HOH6pH 

1927,  CTp. 3(1923‑24 1926‑27 TpyJl s CCCP, CTp. 38(1927‑28年〜

1928‑29

5 未成年労働者の平均賃金

の成人労働者の平均賃金 に対する比率

比率(%)

1914 47.6  1916 48.2  1920 81.0  1921 63.2  1923 47.1  1924 44.5  1925 43.4  1926 40.3  1927 41.1  出典: A. WoxHH. KpaTKaH HCTOpHH 

BJJKCM. M., 1928,  CTp. 98 

14‑2 ‑277 (香法'94)

(16)

るまでさらなる賃金上昇がみられ︑ る ︒

その後ネップが終了す 一八\二三歳未満の青年労働者に関するデータはまとまった形ではほとんど得ら

一九二六年六月時点でのレニングラード金属労働組合資料によれば︑そ

れはおよそ四六\五七ルーブリとさ江︑成人労働者とほぼ同水準の賃金を得ていた

もようである︒

年労働者調査︑

一九二七年のレニングラードのカール・マルクス工場における青

および一九二八年のモスクワの青年労働者調究における賃金データ

である︒この調査対象は基本的に一八\二三歳未満の年齢層であった︵前者で八四・

り高水準の賃金を受け取っており︑成人労働者との差はあまりないと言ってよい︒

問題はこうした賃金でどの程度の生活を送ることができるのかということであ

一九二六年頃︑実質平均賃金は大戦前レベルに到達し︑

一九二七\二八年には戦前水準より二

0

%程度

実質平均賃金は高くなったといわれる︒すなわちネップ後半においては︑労働者の

( 2 1 )  

生活水準は大戦前を上回ったのである︒それを裏付ける当時の労働者家計データが

表7

であ

る︒

食事の家計に占める比率が︑その家計の生活水準の指標になりうると仮定すれば︑

確かに︑ネップの前半から後半にかけてその比率は低下し︑大戦前水準をも下回っ 者の賃金水準をおおよそうかがうことができる︒これを見ても︑青年労働者はかな

三%︑後者で七四・六%︶︒従って︑

このデータからも一八\二三歳未満の青年労働 また︑表6

は ︑

れな

いが

6 青年労働者 (18~23 歳未満)の賃金分布 (R= ルーブリ)

1928年モスクワ青年労働者調査 1927年レニングラード・カール・マルクス工場

青年労働者調査

39R未 満 … …16.2% 30R‑60R・・33.6%

40R‑79R・・51.9%  60R‑90 R・・・・・・49 .1% 

80R‑119R28.2% 90R以上……17.3%

120R  3.6% 

}¥ 

出典:6. 6. KoraH H M. C. Jle6eHHCKHii.6bIT  pa6o'‑leii  MOJIO)le)l{H,  M., 1929,  CTp. 16  (1928年モスクワ調査); n. 1‑1. 6epe3HH H Jlp.  Pa6o'‑laH  MOJIO)le)l{b  KaK  OHa  eCTb.  Jl.,  1930,  CTp. 33‑34 (1927年レニングラード調杏).

14‑2 ‑278 (香法'94)

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