歌 う童謡 ・読む童謡
- 白秋 童 謡 の音 声 表 現 と今 日的 意 味 -高 橋 正 道 は じ め に Blilg 本稿は前稿 「幼児 の音楽教 育 と幼児教育者 の関わ り- 子 どもの歌 をめ ぐって- 」に継 続す るものである。そ こでは,わ が国の子 どもの歌 の歴 史をのべ た。それ ぞれ の時 代に生 き た人 々の歌 に よせ る意味 あいや求め方の違 い,文 学的,音楽的基盤 の状況変化,歌 の横能 の 変化 な どが あ った。そのために,名称 も 「唱歌」
「童謡」
「子 どもの歌 」 と移 り変 わ っ て 来 た。昭和30年,意識的に 「童謡 とい うことばの持つ概念化 され た子 どもの うたの衣装を- ど (2) さっぱ りとぬ ぎす て よ う」 とい う 「子 どもの歌運動」か ら生 まれ て来 た子 どもの歌 と,歴史 的 に累積 され て来 たわ らべ唄等 も含め ると,今 日の子 どもたちは,おびただ しい数にお よぶ 自分 たちの歌 の レパ ー トリーを持 ってい ることにな る。 ところで,幼児教育 の場面 において扱 う童謡は, もっぱ ら 「歌 う童謡」 であ り, また完成 品を レコー ドや放送 な どで 「聞 く童謡」 となってい る。 さらに, テ レビか らのそれは,映像 を見 なが ら,聞いて,歌 い,かつ体 を動 かす, とい う総合的 な もので もあ るが,
常 に楽 曲 と しての童謡が主流 であ る。 従 って 「メロデ ィーのない (作 曲のない )童謡」についての話 な どを して も, 日日の保育 活動 との関連において,あま り興味のあ る問題 として聞いて もらえ ることは ないであろ う。 少 な くとも,幼児教育者養成機 関におけ る 「音楽 」に関す る専門科 目では,取 り合 って もら えそ うもないテーマであ る。 白秋 の言 うよ うに 「童謡は童心童語の歌謡」 だか らであ る。 そ して戦後, ラジオを通 して積極的に紹 介 された童謡は,確かに歌 とな った童 謡 であ った。誰 もが 「白状 してしま うのだが,私 のJLの中には, 曲のつかない童謡 なんて・・・- とい う気符が (3) あ る」 ことを認めざ るをえ ない部分が あ った よ うであ る。 ところが,
「日本 の童謡 の ことを考え るな ら,歌 にならない童謡 とい うのは,ほんらい存 在 しえない ものの よ うに思われ よ うが,童謡か ならず Lも歌 曲でない ところが,マザ ・グース (4) のかず かず の唄のひ とつ の特色」だ, といわれ るよ うに,英語圏伝承童謡 の世界には 「読む 童謡」や 「朗 話す る童謡」が あ る。 そ して 「マザ ー ・グース」の翻 訳者 であ る 谷 川 俊太郎 は,恐 ら くそ こか らの ヒン トと見 られ る 「ことば あそび うた」や 「わ らべ うた」を創作 して (5) い る。 これ らはいずれ も,声 を発 し,読 んで,そ して聞 くことが条件 となってい て,特別 に 作曲を必要 とす るものでな く,それ 自体 で 自立 し うる力を持 ってい る。 それ らは,
「読む」と い う表 現行為に よって,子 どもに も大人に も共有 できる 日本語 の響 きを楽 しむ,い きい きとした創造的な場面 を提供 して くれ る。谷川 は 「読 む童謡」 とい う表現は使わないが, まさし く 「読 む童謡」 なのであ る。 私は,以前 か ら白秋童謡に も,その よ うな意味 での 「読 む童謡」が あ ると感 じてい る。 白 秋 も 「まざあ ・く、・うす」を翻訳 してい るわ けだか ら,声 を出して読む とい う表 現 行 為の中 に,音楽を感知 していたのではないか と思われ るのであ る。 本稿 は,童謡 の持つ多様 な広が りの うち
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「読む童謡」とい う側面 で,白秋童謡 の一 部分 を とらえ直 し,同時 に童謡の現在 と将来 のために,幼児 教育の場におけ る 童 謡 の 取 り組み方 に,ひ とつの方 向を探 って見 るものであ る。Ⅰ
白秋 童 謡 の 自立 性 と 「読 む 」 とい う音 声 表 現 (6) 前稿 「幼児の音楽教育 と幼児教育者の関わ り- 子 どもの歌 をめ く、、って- 」で は,「赤 い鳥」童謡の項 で 「読むべ き童謡」について問題 を捉起 しておいた。 仁I秋が中心 にな って開始 された 「赤 い鳥
」童謡 は,その展開の経緯 の中で童謡の意味 あい が ,少 しずつ変化 して行 った。 この ことは,白秋童謡 を難か しい ものに してい る。初 めに, そ の雅か しい点 をあげ てみ よ う。問題点は三つ あ る。 (1)-童謡は歌 だ, と言 いなが ら作 曲を否定 してい る。 (2)-その歌 い方は,子 どもにまかせて自由に歌えば良い, と言 うが具体的な実例を示す ことな く童謡を作 り続 け る。 (3)・-r童心童語」を強調 しなが ら,彼 の 早い時期 に,童心にならな くて も詩 の心 で作れば 良い, と言 う。 順 を追 って,調べ ることにす る。 白秋が考え ていた童謡観は,次の よ うな,い くつかの言 葉か ら説 明 され る。 (7) ・ 「童心竜語の歌謡 であ る」 (8) ・「新 らしい 日本 の童謡は,根本を在来 の 日本 の童謡に置 く」 ・ 「童謡 も詩 であ らわばならぬOただ童心 董語の歌謡体 としての特殊 の表現 を 必 要 とす (9) る」 ・ 「もともと童謡 とい うものが, 子供 の感情か らに7然に生れ て出た言 葉な り謡 な りですか ら,ただ詩 らし く作 り過 ぎてはいけないのです。 全然子供になって しま うことが必要で (10) す」 こ こまでを簡単に言えば,:(・どもに分 か る言葉で作 られた歌 で,わ ざわ ざ作 曲した メ pデ ィ ーを伴 うのでほ な く,わ らべ うたの よ うに 自由に歌 えば良い, とい うことになろ うQ ところ が, 白秋 の次 の言 葉は, 難 かしい問題 を含んでい る。 「謡 う と 言 って も唱歌 の よ うに作 曲 された上 で謡 うとい うのでな く子供心の 自然 な発露か ら, と りど りに 自然に謡 い出す とい う .tl\ 夙 なのが本当でし ょう」 と言 う。 これを簡 単に言えば,作 曲す るのでな く,わ らべ うたの よ高橋 :歌 う童謡 ・読む童謡 うに歌え, とい うことになる。わ らべ うたの生成過程を白秋の ように考え るな ら ば
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「初め (12) に言葉あ りき」 とい うことになる。 ともか く,具体的に どの ようなメロデ ィーで歌えば良い のか,漠 として分か らない。「赤い鳥」童 謡 の読者は,歌 い方の寄 り所 がないので曲譜を掲 載せ よと催促す る。 当然の ことである。読者の方か ら先に曲が投稿 された りして後,成 田為 三が正式に作 曲担 当の専任 となった。そ して,白秋 と成 田の コンビの 「歌 う童謡」 として史 上初の第一作が公に された。「雨」である。人為的作詩 と人為的作 曲が結 びついての 「童謡」 の誕生,それが, この曲であった。 (出典 「赤 い鳥J復 刻版 よ り)「子供心の自然な発露か ら」でな く
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「作曲 された上 で」の童謡 となって具体的に示 きれた。 鳴 り響 く童謡,つま り 「歌 う童謡」の姿が これであった。今後の方向性が見えた ことになる が,白秋 の言 う 「子供心 の自然な発露か ら」は, どこかに消えてしまった よ う で あ る。事 実 , この点について具体的に示 され ることはなかった し,私 の知 る限 り,その後の白秋研究 において も問題 にされ てはいない。 彼が創作す る童謡は,その ように して,次 々に作 曲され るべ き素材 とな ってい っ た。「赤 い鳥」第一回音楽会のプログラムになった白秋の 「あわ て床屋」は,皮肉に も読者か ら (広 く一般 か ら 「自由な発露」で歌われた もの, とい う意味なのだろ うか-・-)の作曲で演奏 さ (13) れた。「新 日本の童謡を大成 させたい」 とい う情熱で始めた白秋は,成田の 「雨」,石川 (一 般読者 )の「あわ て床屋」を どの よ うな気拝 で聞いたのだろ う。 出来上 った童謡 に満足 したの だろ うか ?香,であ る。「あの曲の作者石川氏に申しあげたい ことですが,あ わ て床屋は, 私 の気持 とは可成 り相違 してい る・--<中略>-・・・ど うして も童謡は,作 曲しないで子供達 (14) の自然な歌い方にまかせたほ うが---」 とい うように,出来上 りに対 して不満足 とい うこと だけでな く, ここで も 「作 曲しないで」 と断 ってい る。子 どもにまかせ ることを強調す る。 「歌 う童謡」 としての形態が,今後,人為的に作曲 され てい くであろ うことを,承知 の上で なお,の発言である。 作 曲者不信のまま, しか し,童謡の理想を追求す る姿勢は,その後 も崩れ ることはない。 かえ って,自信 さえ うかがえ 「地方童謡」の収集 と 「募集童謡」に意欲を燃やす。募集童謡 の方は,特に「幼稚圏以下 の子供たちの謡 うようなのを」としてい る。童謡 の対象の中で も最 も幼い所-お りて来た。最 も単純な言葉を必要 とす る童謡の ことである。そ こか ら自由な発 露 としてのメロデ ィ-が--確かに理論的には考え られ るo 『夕焼けを見なが ら 「夕やけ (15) 小やけ あした天気にな-れ」 と歌 う, こ うしたのが児童の声 です』 と言 っているOそ して 次の ように断定す る。 「童謡 の全てが専門家の手で作曲された上で, 諸種の器楽の伴奏に連 れ て歌 うべ きもの とす るのほ謬 りである。時 には在来 の童謡 の如 く,児童 自身 の身ぶ り手指 (16) 子を もって自由に素朴に歌わ るべ きもの」 と。 この言葉か ら分か ることは,作 曲され るもの とそ うでない もの との区別があるように, うかがえ る。 しか し,
「自 由 な発露か ら」生 まれ た と思われ る実例の報告はない。い よい よ人為の詩に,人為の作曲 とい う形態 で社会の中に 流布 してい った。社会の中に流布 された童謡は,享受の仕方に よって多様化す る。流行 と量 の問題 は,いつの時代に もあるとお り,商業化 と結びつ き,
質の低下を招 く場合 もある。そ (17) れが白秋を嘆かせたのは言 うまで もない.そ こで彼が 目を向けた新 しい方 向 が あ るOそれ は,童謡は童謡 として 自立 させておいて,
「董詩」 とい う分野に も意欲を示 し始める。「--こ うした歌 うべ き童謡以外に,静かに読 ませ,または黙 して味わすべ き詩一 童詩- も児童に (18) 与 うべ きであろ う」 と。 ここか ら白秋 の創作分 野 は,
「歌 う童謡」 と 「読む童詩」の二つに 区分 された。本稿 のテーマである 「読む童謡」 と言 ってい るわけではな くて 上 州 読む童謡 とい うことは考え られぬ。 読む もの としては, --・<略>・--童語の童心 の詩体を 取れば いいのである。童謡は童謡 として,一方に童詩 の新境地を開拓す ることは,新人の よろこび高橋 :歌う童謡 ・読む童謡 (19) でな くて何だろ う」 とさえ言 ってい るのだか ら 「読む童謡」はない ことになって,私は迷路 に入 り込んだかの よ うである。 ところが,同文にあった 「童詩 の新境地」 とい うところが要 注意であ る。話 を先に進 め よ う。上 の引用に先立つ二年前に 「最近の私 の童謡」 とい うのが あるが, この文章は,白秋童謡 と詩の関係を解 く重要な鍵をに ぎってい る。要注意, と言 っ た ことと関係す る。「わた くLは この頃つ くづ く思 ってい る。わ た くし自身が童謡を作 るに ついても,別に今更児童 の心に立ち還 る必要 もないのだ と。詩 を 作 り歌を成す の と同じ心 で,同じ態度であって よいのだ と。-・・・<略>---詩に も歌に も,童謡に も流通す るところ はただ一つであ るべ きはずではなかろ うか。ただ童謡は,子供 の言葉で, しか も歌 うもの と (20) して作 らるべ きおのずか らの制約があるJ と。作 曲を積極的に認めず
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「自 然 の発露」の具 体例を示す こともな く,ついに童心に成 らず とも,詩の心か ら発 した子 どもの言葉であれば (21) よいとい うのであ る。「全 然 子供になって しま うことが必要」 と強調 していたではないか。 童謡 とは何か。 あとは,歌 うもの としての形式が残 るだけにな るのは,誰に も推察で きる。 引 き続 き彼 の文章 と読む ことにす る。 「で,結局は形式の問題だけになるのである。た とえば,わ た くLはあた くし自身 の短歌 としてこ う歌 った。 朝花 の黄のたんばははい とけな し 波揺 り来ればざぶ り濡れつつ 舟寄す と子 ら取っ組みぬ水 ぎはに とてもあざやけ き黄 の花たんばぼ また,わた くLは, このままの内容で, ことさらに児童に立ち還 って歌は うとい う何 らの成 心 も必要 とせず,ただ形式に言葉だけを換えて,左の如 き童謡 を作 った。 たんばぼ 沼の田べ りのたんばばは, たんばばは, 咲けば,ざぶ りと 渡が来 る。 たんばぼ,たんばぼ, 波が来 る。 沼の田べ りのたんばぼ よ,たんばぼ よ, 咲けば,子 どもが, 舟 で来 る。 た んばぼ,たんばぼ, 舟 で来 る。」 この童謡は 「童心 童語の歌謡」 なのだ ろ うか。 また, これを もって, どの よ うな 「子供 の 自 由な発露」 としての歌 い方を望む とい うのだろ うか。 童語は確かに認 め られ るが,童心を ど の よ うに説明で きるか疑問であ る。児 童の感情 に即 した とい うよ りほ,大人 の 自分, 白秋 自 (22) 身 の詩的境地 ,芸術的境地 に童心が組み込 まれ て しまて っい る。絵 の画面 の中に子 どもは見 え るが,童心は ないO従 って子 どもの 自由な発露に よる,わ らべ うたの よ うに歌 う可能性は 薄い。 この童謡は,白秋 の 「新境地」 であ る 「静かに読 ませ, または黙 して味わ す べ き 詩 - 童詩」 と同質 の ものではないか と思 うのであ る。声 を出すか,黙すかは別 に して, この まま味わ う静的 な童謡 であ る。 これに対 して,別 の例を示 そ う。非常に動的で声 を出 して読 んでい くことで,そのまま歌 にな る.第- の例 , (23) お祭 り わ っし ょい,わ っし ょい, わ っし ょい,わ っし ょい, 祭 だ,祭だ。 背 中に花笠 , 胸 には腹掛, 向 う針巻 ,そろいのば っぴ で わ っし ょい,わ っし ょい。 <第二 部略> わ っし ょい,わ っし ょい わ っし ょい,わ っし ょい, 真赤 だ,真赤 だ,夕焼 小焼 だ。 しっか り担 いだ。 明 日も天気だ。 そ ら探 め,操 め,挟 め。 わ っし ょい,わ っし ょい。 <以下略>
高橋 :歌 う童謡 ・読む童謡 まず読む,声を出して読む。発せ られた 自分 の声を聞 く。 あるいは他人 の声を聞 く。言葉 (24) の 「音その もの」が持 っているエネルギーに よって,躍動す る感覚が体内にみな ぎって来 る だろ う。 白秋研究家の佐藤通雅は 「近代音楽に よる曲を前提に しているのではない。 ---そ (25) うではな く,歌謡 としての生命を ことばに奪還 し ようとしている」 と評価す る。 第二 の例は,遊びの要素を含んでいる。 (26) 「五十音」 あめんば赤 いな ア,ィ, ウ,工, オ。 浮藻に小えび もお よいで る。 柿 の木,栗 の木, カ,辛, ク, ケ, コ。 きつつ きこつ こつ,枯れけや き。 ----<略> ---・
ま
い
ま
い禍
牛,ね じ巻,マ,ミ, ム, メ, モ。梅
の実落 ちても兄もしまい。 焼栗,ゆで栗,ヤ,ィ,ユ,-, コ。 山田に火のつ く宵 の家 ・・<以下略> ---(27) 白秋は, この童謡を 「将来の児童教育」 とい う文に,特別 の 目的で載せている。それは, 文字教育を,言葉の もっている音か ら始 め るべ きだ とい う下 りで示 している。音ひとつひ と つに色,味,香,蝕を感 じさせ る方を,文字の形を覚え ることよ り先に行 な うように, とい う提言なのである。 以上 「お祭 り」 と 「五十音」の二つの例か ら,「読む」とい う表現の重要性が分か って来 る だろ う。「五十音」をのせた文章 のタイ トルが 「将来の児童教育」 とな っているが,私は今, それを白秋童謡の現代性 とい う観点で見 ている。作曲されないで 「自然の 露 と し て--」 を, ここに見つけることがで きないだろ うか。 結論的には,作曲され るな らそれはそれで良い。 しか し,出版 された童謡集は,われわれ の手元にある。 まずそれを読む,声を出して表現 してい くうちに, ことばの音その ものの生 命力に よって次掛 こ感性に働 きかけ,体 内で燃え るものや魂 の躍動性を導 き出す。飛躍か ら飛 躍- とつ き進み,音楽 と同じ リズムを生み出 して行 くO これを 「歌 う」 と解釈すれば,必 ず しも作 曲を前提にせず とも
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「童」の 「謡」は 自立で きるのである。従 って,白秋童謡に限 らず,他 の童謡 について も言 え ることだが,音声表 現行為 (最近 の用語 でいえば,パ フ ォー マ ンス)を通 して も,音楽的に成 り立つ ものが あ る。言葉 を音声化す る, とい うことか ら, 白秋童謡 の 「謡」を捉え直す余地があ る。彼 のい う 「自由な発露」を私は, この よ うに捉 え た いのであ る。 ⊥ I ここまで述べ て来た私 の言 いたい意 味 は,
「読む」を 「詠む」 と置 き換え ることで,伝 え られ るか も知れないが,それは, あ くまで文字 で考えを伝 えただけの こと。 そ う で は な く て,声 を出して表現 して 「よむ」,それ に よって中身を伝 え る。そ うい う表 現行為を 重 視 し て,
「童謡」を捉え る方法があ るのではないか と思 うのであ る。 世 に,あまたあ る活字 にな った「
○
○ 童謡集」 のペ ージの上 に印刷 された童謡は,作 曲家 の名前が付かない限 り,子 どもと対面す ることはない。それ らは文字を読 む能 力の備わ った 世代に,あ るいは大人 の ロマ ンの中に呼び覚 され るまで,眠 った ままとな っている。藤 田圭 雄 は 「近代童謡 の最大 の詩人 であ る北原 白秋 で も,そ の生涯 の千数百篇に及ぶ 作品の中で, 今 日,繰 り返 し愛唱 され ているのほ数十篇 であ る。 -・・・< 中略>.・・- も う一度童謡が生 きて (28) 活躍す る場 がほしい」 とい うが,われわれは,確かに白秋 を も,過去 の遺産 のひ と つ と し て,一筋縄 で くくってい るか も知れ ない。 伝統 的童謡 の見直 しをす るために, この章 で と り上 げた新たな捉え方の可能性が戦後お よ び現代 の童謡 の中にあ るか ど うかを,次 に探 ることにす る。 I 「子 ど もの歌 」とい う広 が りと音 声 表 現 レパ ー トリー 戦後 の童謡運動 では,
「子 どもの歌」とい う広が りのあ る言葉 を用 いることにな った。その 動 きの中で特徴特な ことは,第一に,以前に もまして,作 曲 との結 びつ きが強 くな った ことで あ る。「曲のつかない童謡 なんて-I-」とい う状況が確かにあ る。時 には音楽が先にあ って, そ の譜面に歌 「詞」をつけ るとい う創作 も行 なわれ てい る。 ラジオ,テ レビに よる子 どもの (29) 歌普及 の推進力にな った のは,それを送 る側 の制作者た ちの プログラムに よった。「ぅた の おば さん」
「うた のおねえ さん」「
NHK
みんなの うた」「
ABC
こどもの うた」
「おかあ さん とい っし ょ」 などがそれ であ る。そ こか らは常 に鳴 り響 く 「子 どもの歌 」 として, しか も当 然 の ことなが ら,音 楽 としての独立性を持 って効果的に電 波 で送 られたO プロの歌 い辛, プ ロの音響制作者 ,時 には映像担 当者 も加わ って総合的な作 品 としての 「子 どもの歌」 であ っ た。普及 も早 く,イ ンパ ク トもあ る。 あ る面 で送 り手市場 の 「番組 ・子 どもの歌」 と 言 え る。そ してその動 きは,今 日において もさほ ど変わ っては いない と思われ る。制作者 の ヴィ (30) ジ ョンがあるか らであ る。その結果 といい うる第二 の特徴は,音楽全体が複雑 にな った こと で,特に ピア ノ伴奏 部についていえば,器楽的でみ ご とな出来ばえであ る。 しか しそれが,高橋 :歌 う童謡 ・読む童謡 か え って保育者泣かせの原因になってい ることは言 うまで もない。 ピア ノ技術修得 が養成校 において優先 している原因のひ とつが, このあた りに もあ る と私は見 ている。保 育 者 に は 「弾 き歌 い」 とい う技術が課せ られ るが,そ う簡単 な ことでは ない。一 方 テ レビ番組 で 「弾 き歌 い」を しなが ら子 どもの歌 を紹介 している姿 な ど見た こともない。 いつ も歌 は歌 , ピア ノは ピア ノ,そ して多 くの場合 ピア ノ伴奏 では な く, オーケス トラとい う豊かな音響が付け られ てい る。「番組 ・子 どもの歌 jほ制作意図に従 って,総合的な力で完成 された音楽を送 り 続 けている。 戦後 童謡 の第三 の特徴は
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「子 どもの歌」の対象が 「幼児」 の ところに向いている ことであ る。「幼児 童謡」 とも言 う。本稿 の副題 であ る 「今 日的意味」 の所 在は, ここにあ る。「幼児 童謡」へ の移行理 由は,幼児そ の ものについての学問的研究 と,それに ともな う幼児教育 の 発 展 と充実が もた らした。子 どもの 「発 達段階」 とい うことに,教育 の さまざ まな側面 が, 関わ って来たか らであ る。つ ま り,子 どもを社会 の重要 な位置に据 え,子 どもの世界 とい う ものを認 め, それを大切 にす る よ うになった。 従 って, 子 どもの歌 のテーマ も, 子 どもの 生活 に即 した もの,生活感情 に関わ る もの,あ るいは,心 をのびやかに解放 させ る遊 び の要 素 が強い ものに向け られた。 さらに, 子 どもは 「未分化」 であ ると, 捉 え る時 , 大人は, 彼 らに対 して 「全体」 で関わ らなければ な らない。つ ま り, ものの根元 とか最 も 大 切 な も の, さらに,人間 とは何か,世界 とは何か, とい うよ うなテーマを まるご とかか えて,子 ど も と対面す ることにな る。特に,文学の世界 では 「人間 の経験す ることで,子 どもに分か ら (3
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) ないテーマはない」 と言 うM・エ ンデの 「児 童」 とい う垣根を越 えた世界に 目が注がれ てい る。子 どもの歌 を作 り出す詩人において も, もはや 「童語 を持 って形式を ととのえれば童謡 にな る」 とい うような態度 ではな く,物 ご との本質 に,子 どもと共通 の問題 として迫 る こと が必要にな って来 た。子 どもに とっての 自然 の不思議は,大人に とって もそ うであ り,人 の 心 の深 さも,喜 び も,悲 しみ も,子 どもに とって も大人に とって も,共有す るものなのだ。 (32) この よ うな次元で とらえた 「子 どもの歌」 は 「万人 に開かれた共感性を持 つ」 ことにな る。 詩 人は 「自分 の中の子 ども」 のために作品を作 るOそれを扱 う大人は,今 も生 きてい る r自 分 の中の子 ども」 と共に享受す る。 よもや,幼 い 日の想い 出の世界を さま よい,感傷 に耽 る ことではない。今を生 きる 目の前 の子 どもの魂 との対話 である。だか ら, リアルで明快 な も の,躍動 し鼓動が聞 こえて くるもの,そ して遊 びや フ ァンタジーの広が る作品が,生 まれ て くる よ うにな った。 「童謡」と呼ばれていた小 さな世界が,実 は子 どもと大人に共通す る大 きな世界 と関わ って 来 た のである。今後 の 「子 どもの歌」 の行 くえは, この基盤 の上 に立 って進むべ きだ と思わ れ る。そ の場 合,詩 が まず作 られ,それを もとに作 曲家が 曲を付 けて-- とい うパ ター ンも あ って良いだろ うが,それ とは別 に,声 に よる表 現を通 して, 日本語 の音 を楽 しんだ り,吹 々に展開す るイメージの流れをつかんで行 く活動 もあ るだ ろ う。言葉 を声 に発 す る ところか (33) らの出発 である。その為には,そ の よ うな活動 に適応 できる レパ ー トリーが必要 とな る。 い くつか の実例 をあげ て,参考 に供 したい。(34) とっき っき とっきっきの とっぽ っぽが とっぽ っぽ を とっ くっ くが とっ くっ くの とっぴ っぴが とっぴ っぴ を とっせ っせ が 谷川俊太郎 ふ くろか ら とびだ した
た
たいた ら こぼれ でた かわむけば あ らわれ た わ ってみ りゃ ねむ ってた とっせ っせ の ゆめ のなか とっけ っけが うごめいた ほ じけ ろ ほ じけ ろ と っけ っげ かおだせ てをだせ わ らいだせ (35) そ っと うた 谷川俊太郎 そ うっと そ っと うさ ぎの せ なかに ゆ きふ る よ うに そ うっと そ っと た んばぽ わ たげが そ らとぶ よ うに そ うっと そ っと こだ まが たに まに きえ さる よ うに そ うっと そ っと ひみつを みみに ささや くよ うに高橋 :歌 う童謡 ・読む童謡 (36) 年 め ぐ り 阪 田寛夫 - し りと り唄 -か るた た こあげ げん きな こ こけ し しもやけ けや きのめ めだか かげふみ みずす ま L Lがつ つみ くさ さ くらもち ち まき きつつ き き りのげた た うえ えひが さ さ くらがい いなか か なかな なつやすみ み さき きいちご ごむぞ う り りんご ごい さざ ぎんやん ま まつ り りん ど う ど うわげ き きのみ み のむ し しか の こえ えいが が い と う おおみそか (37) ほた るの でんき 木島始 ち っさい お し り でん き つけば げ ん き わた しの ほた るは とんでい く ほ しを くあえる しる し ひろい そ らに だめ わ るい あめ わた しの ほた るほ とんでい く ほ しを くわ える しる L とおい み ちに げん き つけ る でん き まった しの ほた るほ とんでい く ほ しを くわ える しるし ll
(38) ひつ じの ぐるぐる ひつ じの ぐる ぐる なまえじゃ ないの しっぽ じゃ ないの つのなの く、、る ぐる うさぎの び こび こ みみ じゃあ ないの ひげ じゃあ ないの はななの ぴ こび こ 香 山美子 しってるかい く小る ぐるは ぐる く.,るは ぐる くやるほ しってるかい び こび こは び こぴ こは び こび こほ 以上 の実例 の表現結果を, ここで説明す ることは出来 ない。 どの ような創造的表現が行な われたであろ うか ?言葉 の持つ響 きや音に,全身を集中 させて表現す ることは,創造的活動 なのである。 これを拡大 させて行けば, ドラマ と一致 して来 る。大 岡信は
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「声 を とおさな ければ, どんな思想 も生 きて こない とい っていい くらいに,声 とい うものは思想を肉体化す (39) る うえで重要性を もっている。そ のことを 日本人は意外なほ ど忘れてしまってい る」 と言 う が, これに答え るひ とつの方法 として実例を示 した。 ま と め (40) 日本 童謡協会は「今後の童謡は手造 りの時代だ」と言 う。 この意味を,作詞 プラス作曲とい う従来 の/くターンで新 らしさを求めて行 く, とい う方法だけではな く, もう一つ,音声表現 に よる 「読む童謡Jを,家庭 で,教室で,手造 りで行な うことを私は提言す る.子 どもと身 近で共有できる芸術活動は,われわれの手中にある。 同じよ うに,中 ロ言直の言 う 「わ らべ 唄の歌詞を全部取 っちゃって,器楽だけや った ら,殆ん ど何 の歌かわか り ま せ ん--・<中 (41) 略>--わ らべ唄は,言葉がなければ音楽 としての独立性は殆ん どない」か ら大 きな ヒン ト を得 るな らば,全 く反対に童謡 につけ られた独立性のあるその音楽を取 り去 って,言葉 (塞 請 )だけの独立性を求めて,それを声に出して読む表現行為の中に見つけて行 くことも可能 だろ う。楽譜に示 された音符を正 しい ピッチで,美 しい声で,付 された伴奏を正 しく弾 く, とい うような問題だけでな く,音声に よって言葉 の持 ってい る,音 の高 さと リズム と調子 と 抑揚で表現 し,イメージを映 し出 して伝え合 う創造活動 となるよ うな,童謡 の取 り組み方が あ って良い。そ こに も童謡を通 した共有 の世界が広が るはずである。 児童文学の世界に 「読み聞かせ」 とい う表現方法があるO書かれた本を読む とい う表現を (42) 通 して,ファンタジーとス トリーを共有 してい るのである。 また,英語圏の童謡伝承におい高橋 :歌 う童謡 ・読む童謡 13 てほ ,親 が子 に読 んで 聞か せ る面 が強 く,そ の共有 の度 合 い は ,聖書 や シ ェイ クス ピア と同 (43) じよ うに, 日常 生 活 の中 に生 きてい る とい う。そ れ は 現 代 社 会 に深 く板 をお ろ し,彼 らの生 き方 の の基 盤 に な ってい る と分析 され てい る。 そ こには ,文 字 通 り 「ゆ りか ごか ら 墓 場 ま (44) で」 人 間生涯 のテ ーマが含 まれ , 現実 に生 きて行 くた め の 「精 神 のバ ラ ンス作 用 」 を持 てい る とさえ言 わ れ てい る。親 が子 - , 自信 を持 って伝 え て行 く共有 財 産 だか らで あ ろ う。 童謡 のひ とつ の側 面 を探 って釆 たが, と もか く,使 い捨 て 童謡 で な く親 と子 ,そ して大 人 と子 どもに とって共有財 産 とな りうる よ うな, 日本 の童謡 を今 後 と も探 る もので あ る。 注 (1) 高橋正道『清泉女学院短期大学研究紀要』第5号,pp.57-72,1987(昭和62年) (2) 小林純一「戦後の子どもの うた運動の性格」,『音菜教育研究』72号,p.81,1972(昭和47年) (3) お うち ・やすゆき「私 と童謡 と音楽」,『少年詩 ・童謡-の招待』,p.361, 日本児童文学者協 会, 昭和53年(1978) (4) 平野敬一『マザー ・グース童謡集』,p.4,ELEC SENSHO,1974(昭和49年) (5)(イ)谷川俊太郎/瀬川康男『ことばあそび うた』福音館書店,1980(昭和55年) (。) 谷川俊太郎『わ らべ うた』集英社刊,1981(昭和56) (6) (1)のp.86 (7
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「童謡私観」大正十二年『白秋全集20』p.52所収,岩波書店,1986(昭和61年) (8)同上,p.38 (9)「か らたちの花」序文,大正十五年(1926)(7)のp.77所収。 (10)「童謡選評」,『赤い鳥』三月号,大正八年(1919) (ll) 同上。 (12) 佐藤通雅は「人為作詩 と無為の世界-の解消は矛盾だ」としている。佐藤通雅『北原白秋』p.106, 大 日本図書,1987(昭和62) (13)「童謡選評」,『赤い鳥』四月号,大正八年(1919) (14) 「童謡選評」,『赤い鳥』二月号,大正九年(1920) (15)「児童 自由詩鑑賞」大正十四年(1924)0(7)のp.99所収。 (16)(7)のp.48所収。 (17)
「童謡の堕落」昭和2年(1927)。(7)のpp.87-88所収。 (18) (7)のp.52所収。 (19)「童謡」大正十五年(1926)0(7)のp.54所収。 (20)「最近の私の童謡について」大正十三年(1924)。(7)のpp.66-68所収。 (21)(6)参照。 (22)佐藤は, これを 「白秋の芸術境の一元化」と言 う。(12)の書p.229尚,同書の白秋の人間 像 と 詩の境地,特に 「東洋の心」の論理の進め方はみ ごとである。 (23)『赤い鳥』十月号,大正七年(1918) (24)「童謡私妙」大正十二年。『白秋全集35』pp.119-200所収,岩波書店,1986(昭和61年) (25) (12)のp.128 (26)『大観∠一月号,大正十一年(1922) (27)『婦人公論』二月号,大正十二年(1923)。(7)のp.280所収。 (28)藤田圭雄「童謡の現在」,『日本児童文学』4,400号記念,p.23,1988(昭和63年) (29)関根栄一は 「歌は番組の中の部品だ」と言 う。「対談 :詩 と童謡を見つ め て」,『少年詩 ・童謡-の招待』p.217, 日本児童文学者協会,倍成社,昭和53年(1978) (30)後藤田純生「子どもの求めている歌は何か」,『音楽教育研究』10号,pp.88-95,1978(昭和53年)(31) M・エ ンデ 「児童文学をこえて」,『子 どもの宇宙』海臨時増刊号,p.257,中央公論社,1982(昭 和57年) (32) こわせ ・たまみ「私に とっての童