近世末期から明治期における佐渡内浦の村落社会の動向について : 両津市玉崎区を中心として(その1)
18
0
0
全文
(2) . 第 19 巻 第 2 号. 北海道教育大学紀要 (第一部B). 昭和43年12月. 近世末期から明治期における佐渡内浦の 村落社会の動向について. -- 両津市玉崎区を中心として (その1) -- 黒. 崎. 八 洲 次 良. 北海道教育大学函館分校社会学教室. Yasu i l l j tyinSad UchiuraCoas t(1) ro KURosAKエ : on vi age Communi. は. し. が. き. 本稿は, 昭和34年から3 6年にかけての3か年に わた って, 九学会連合 「佐渡」 調査に参加した ことを契機とするものである, われわれは, この調査について, すでにいくつかの報告をおおや ) し か し, い ず れ も, 紙 幅 の 関 係 も あ っ て 大 幅 に 割 愛 し, 縮 小 し て い る さ ら に け に し て い る1 , .. 上記の調査の終了後も, われわれの調査は続行している, ここで, 先に割愛した部分の復元と, その後の資料の補充とを合せて, 再 度, 中間報告をしておきたい. 註. 1) 黒崎八洲次良, 柿崎京一 「両津湾北岸部落の階層構造とその動向 隣接二部落の比較研究」 (九学会連 合網 『人類科学』 第1 4集, 1962年,) 中野卓, 黒崎八洲次良, 柿崎京一 「内浦沿岸における村落社会の変化」 (九学会連合佐渡調査委員会編 『佐渡』19 44年, 東京 ‐平凡社. この他に, 共同研究の首班である中野草教授の 「漁場をめぐる村落社会の変化--近世の石高階層と現 代の収入階層を手がかりとして--」 (九学会連合編 『人類科学』 第15集, 1 963年) 「漁協連合の協同経営と漁民組織」 (村落社会研究会編 『農民層分解と農民組織』1963年, 東京, 時潮. 社). たまさき. われわれが対象とする玉崎部落は, 新潟県両津市の一行政区である, それは両津湾にのぞみ, 海岸線に沼 って南北にのびる県道伝いに集落を展開させている(五万分一地形図相川12号 「相川」 きたい か り. 参照), この行政区の北には和木と馬首が, 南には白瀬と北五十里が位置している, 近世には, こ の部落は二つの藩制村--玉川 村と坊が崎村とにわかれていた, それらは, それぞれ, 玉川と坊 が崎川とを飲用およ び田用の水源としており, 別々に共有林野をもち, 玉川 は諏訪神社を, 坊が 崎は熊野神社を鎮守とし, 双方に念仏堂を管理してい た. 両村の各家は, 玉川および坊が崎川の. 狭い流域や引水可能な高地を開田し, さらに, 玉川の各家は隣村小松 (現在の白瀬区の一部) へ 坊が崎の各家は和木へ出作するな どして耕地を拡大して農業をいとなんだ,. 坊が崎村の資料が未見であるので, 玉川村にかぎって近世の耕地面積の推移をみ たのが, 第1 1694 ) をはじめとして, 明治6年 (1873) までの各年次をみると, 水田は 表である. 元禄7 年 ( --155一‐.
(3) . 黒 崎 八 洲 次 良. 4 5・9反から52・2反の範囲で, 畑は7・7反から8・5反のそれを増減している. また, 屋舗 登録人は13人から14人とこれもわずかな変化を示 しており, 地籍内の耕地面積は元禄7年からほ とん ど変化していない, とみてよいほ どである, さて, 地租改正以後の 推移をみると, 明治21年 18 (1888) には水田が8 1・2反, 同30年 ( 97) には102・6反と増加して, 近世にみられる停滞を 大きく打ち破 っている. この傾向 は畑の面積においてとくに顕著 であ って, 明治30年の畑総面積 は22・ 0 反 と な っ て, 明 治 6 年 の そ れ の 約 2 ・ 7 倍 に 拡 大 し て い る,. <第1表> 玉川村--玉崎区玉川組の耕地及び屋舗の推移 元禄7年 宝暦2年 女化11年. 明治6年. 1873 や セ フ 201 26. 1年 明治2. 1888 セ フさ. 明治30年. 1897 セ ブ. 1694 や セ フ 229 04. 1752 ぐ セ フ 203 26. 1814 セ フ 196 16. 上 田 田 中 下 田 下 々 田 計 仰. 102 14. 99 28. 102 14. 102 14. 100 26. 70 02. 100 26. 100 26. 49 18. 49 14. 49 18. 49 18. 40 17. 35 29. 40 17. 40 17. 522 19. 459 09. 490 01. 495 11. 上 々 畑 上 畑 中 畑 畑 下 下 々 畑 計 回. 19 03. 20 09. 19 03. 17 25. 6 27. 5 21. 6 27. 6 27. 33 00. 30 25. 47 12. 32 13. 10 10. 11 08. 10 10. 10 10. 8 01. 12 07. 8 01. 13 05. 77 11. 80 10. 85 23. 80 20. 123 15. 220 15. 18 10. 19 22. 18 11. 20 06. 71 16. 87 09. 618 10. 559 11. 594 05. 上 -々 田. C ) 仰十( )+( B. 屋舗登録人. 13人. 14人. 13人. 812 17 1026 20. 596 07 1007 18 1334 14. 14人. 18人. 15人. 註 「元禄7年 佐渡国加茂郡玉川村田畑屋舗御検地帳」 「宝暦2年 「女化11年 「明治6年 「明治21年. 田畑分米仕出割帳」 田畑屋舗反別書上帳 佐州加茂郡玉川村」 田畑反別取調書上帳 加茂郡玉川村」 名寄帳 加茂郡玉川村」 による,. 水田および畑の面積にみられる明治6 年から30年までの変化 --2倍以上の耕地面積の増加が なにによるもの かについては, 十分な検討をしていないので明確にのべることはできない が, そ. の一つの理由は, 開墾によるものであろう, そして, その事情 はおそらく和木部落に類似するも のであろう. もう 一つ考えられることは, 丈量の精密化であろう. いわゆる 「縄延び」 の是正で ある. しかし, この点については今後の調査に まつよりほかはない. さて, 元禄7年の玉川村戸 数を屋舗登録人 (13人) の数と一致す ると仮定す ると, 1戸当りの水田は4・ 0反で畑が0. 5. 6) 戸籍には18戸が登録されており, この18戸が玉 187 反, 合計して4・5反となる, 明治9年 ( 成している 川 組の共有財産の権利者として財産区を構 . そこで, この18戸を玉川村の全戸数とみ なすことにして, 明治6年と明治30年との 1戸当りの耕地面積を計算すると, 前者は水田2・7. 反と畑0・4反で合計3・1反となる. 後者は水田 5・7反と畑2・1反で, 合計6・9反とな る. 近世においてはもちろん, 明治以降にしても, 各戸平均の耕地面積は狭小であ って, かなり 生産が向上した明治期の後半においてすら, ようやく, 飯米の自給が可能になるとい っ た程度の ものにす ぎない. しかも, この耕地は狭く急峻な谷間を利用 して造成されており, 束面している -156-.
(4) . 近世末期から明治期における佐渡内浦の村落社会の動向について. ことを考慮すれば, 当然, 日照時間に恵まれず, 冷水がかりの用水とい っ た劣悪な条件にあっ た とみなければならない, したがっ て, 多くの家にとっては飯米自給すらおぼつかないものとみた 方 がよ い か も し れ な か っ た の で あ る,. 1・3石とあるから, 反当収 量は0・ 明治8年の 「物産品書上帳」 (第2表) によると, 米が4. 83石となるが, これは明治10年代の全国水稲反収の1・02石--1・4 3石よ りも0・2石以上 も. 下廻る低い水準にあっ たことになる, これに大麦を合計すると4 5・4石になる, その量は明治9 2人に平均すると, 1人あたりわずかに0・32石にすぎないのであっ た. 米と 年の玉川村 人口14. とち. 大麦をのぞくと雑穀類にはみる べ きものがない. 果実類として一括してあるところに, 栗実と棚 がみえる, とくに, 後者が記載してあることに, この村の農業生産の劣悪な様子が如実に示され てい る の で は あ る ま い か.. く第2表> 玉川村の産物 (明治8年) 物 穀. 品 類. 名,. 数 量. 米 大 麦 大 豆. ば. 園疏類{ 藷畢 繰綿麻類 麻 苧 明治8年. 41 ,30石 4 ,10 3 ,20 2 ,00 3 .50 0 ,15. 7 ,00 0 .40. 1800本 950. 物. 品. 竹 木 類′. 名. 数 量. 竹. ※蓋太. 、? 炭. 果 実 類ノ栗 実 ー. 禽 獣 類. 200. 230枠 1 0俵 0 ,30石 0 ,40. 梱 牛. 3 9頭 53 0札 10斤 3 50枚. 魚 類 署 f。 。. 1か斎. 2 ,000貫. 00本 15. 8貫. 産物品書上帳による.. <第3表> 玉川, 坊が崎漁業届 (明治15年) 玉 川 「漁業人」 じつは漁家. 刺網 延縄 イカ釣具 タモ. 1 8人. 9人. 3. 3. 2. I. 18. 9. I. 拝借地先海面 幅 沖へ. 坊が崎. I. 2町 15 2間 15. 660. 1200間. 1200. 264. さて, この村の人びとは集落の前面にひろがる海面を利用することによ って, 背後地の狭い耕 地を利用する貧弱な農業を補なって, 家計を維持してきた, それが第2表の魚類の項に賜な どが. 掲載されていることから知られる, そして, 元禄8年にすでに銀納を喜ぶほ どの状態が内浦沿岸 諸村にあっ たのであるが, それの裏 づけとなる現金収入の途は主として漁業にあっ たのである, 漁業税はただ近世以来のイカ税だけとなっ ているが, それよりも佐渡奉行大久保石見守によ っ て 佐渡に導入されたという 「沖漁」 が重要であ った. 沖漁というのは, スケト機縄・サメ網な どを 示す もののようであるが, 玉川 と坊が崎の両村の各家もこれに従事していたようである. そして 一157一.
(5) . 黒 崎. 八 洲 次 良. それは第3表に示した漁業届からうかがう こと が できる, 玉川と坊が崎の漁業人の人数は, 実は 漁家戸数を示すのであるが, これはこの当時の両村の全戸数なのである. このうち, 刺網と延縄 するめ. については沖漁と関係するものとみてよい, イカ釣具は第2表に示した腸530札と関係する. イ カを釣り, 賜に加工して市場へ販売する ことが行なわれてい たのであろう. なお, イカ釣具だけ は両村の全戸が届出て いる が, 刺網・延縄・タモの三種類の漁具についてはそうではない. いず れも, 全戸数の3分の1に もみたない戸数のもの が届出ている, そこで, 近世末から明治初期の 各家ごとの事情を把握する必要がでてくるのである.. 玉川 村も坊が 崎村も, 内浦沿岸の諸村と同じように, 長 百姓と称する家格階層があった, 宝暦 6年 (1 ・長百姓廻り相勤申候」 とあり, さ 756) の 「明細 指出帳」 に 「一, 名 主給米無御座 是ノ ・中百姓廻り相勤申候」 とある (傍点は黒崎).さて, 伝承 らに, 「一, 組頭使夫給米無御座 是ノ によると, 玉川の長百姓 は8戸で, 中百姓は3戸というが, 元禄7年の検地帳の屋敷登録人は1 3 人であるから, 元禄以前に長百姓, 中百姓, 平百姓 (水呑もしくは譜代) の三階層が, 村落自治 と村外の他村や相川奉行所との交渉の必要から家格 階 層として制度化したのかもしれない, なお 『白瀬村臼杵氏先祖井村中由来記』 ( 1965年) によると, 天正17年 ( 1589) 上杉景勝の佐渡以前は 「佐渡代と号して ……村々に七人の長百姓 あり」 というから, これらはその制度化の起源を中世. 末にさかの ぼることが できるのかも しれない, 坊が崎村においても, 伝承では4戸の長百姓があ っ たというが, 玉川から白瀬, 北五十里をへてさらに南の椿村にあ って, 吉住城主本間山城守道. 正の後室を開基とする利済 庵のオモ ダソカである古玉本家風は, な ぜか長百姓に列していないの. である, 国は近世末から現在にい たる,まで坊が崎をふくむ内浦諸村の村落連合的組織体の中枢的 位置に座を占めて, 指導的な活動をする家であって, 9戸からなる坊が 崎村では村内での格付が 意味をなさなかっ たのかもしれない.. 18 49) の宗門人別改帳に 資料がのこさ れてい た玉川 村についてよ り詳しくみよう, 嘉永2年 ( は16戸が記載されている (第4表). 長百姓が8戸, 中百姓3戸, 平百姓の5戸がその内訳で, 姓. 別では後藤姓 5戸, 児玉姓1戸, 長嶋姓4戸, 池野姓2戸, 加藤姓2戸が長百姓と中百姓とをも ち, 坂野姓 1戸と浜田姓1戸は平百姓のみからなる. また, 後藤, 長嶋, 池野, 加藤の諸姓の諸 ・しは数組のオオヤ--イ ンキョ集団 (同族団) を構成していた. 属地主義による各 家は一組なし 家の特高の合計 は62・70石で1戸平均は3・91石余であ って, 最高が10石余 (回) で最低は0・ 2石未満 (⑩) の間に分布している. 概していえば, 家格階層と特高との間に明確な相関がある. とい ってよい. すなわち, 長百姓層の平均が6石余であるのに対して, 中百姓4石未満, 平百姓 0・6石未満というのがそれである, しかし, 長百姓の下限と中百姓のそれには殆ん ど差がない こ と に 注 意 して お き たい. と く に 中 百 姓 の/再\は 特 高 6 ・ 石 で あ っ て, こ れ は上 位 5 戸 のう ち に 入 る の であ っ た.. 家族構成 (より厳密には家成員構成) をみよ う. 男子72人, 女子58人, 合計130人が当時のこ の村の総人員であるから, 1戸平均人員は8・12人である. これは寛政2年 (1790) や弘化2年 (184 5) の白瀬村の10石以上所持の諸家の平均人員よりも0・4 人以上 も多い. しかも, ここで. は石高所持の小さな平百姓の1戸平均人員が9・0人と最高で, 長百姓がこれを次ぎ, 中百姓の 順と なって, 白瀬村 の諸家のように石高階層と家成員平均員数とに 「比例的」 な関係 はない ので ある, 白瀬村の例と して, 弘化2年をとれば, 1石未満の層の1戸平均員数が5・5人であ って -15 8-.
(6) . 近世末期から明治期における佐渡内浦の村落社会の動向について. 10石以上層のそれ の6・8人まで, 石高所持が増加するにつれて家成員数の平均もま た増加して い る の で あ っ●た,. 続柄別構成をみる ために, 総 人員を100としてみると次 のことがわかる 直系成員については , どの層も大差はなく69一70%をしめているが, 傍系成員については長百姓層が12・3%である の に対して平百姓層が20・0%と最も多くなっている, これに対して, 養子は逆に平百姓が最も小 さ な 割 合 の11・ 1 % で,. こ れ に 中 百 姓 が 次 ぎ, 長 百 姓 は18・ 4 % と な っ てい る こ こ で 養 子 と い ,. うのは, 「為職業育 ス」 ものであ って, 家督相続のため の直系 (嫡系) を 欠く場合のそれではな い. 家成員のなかの養子 のしめる割合は, 各階層の諸家の経営規模と相関するものとみてよいか もしれない. 牛の飼育頭数にいたってはまさにそのことを示すも のであろう 長百姓の全戸と中 . 百姓 の2戸はそれぞれ3頭ずつ牛を飼育しているが, 平百姓 の家は1戸も牛を飼育していなか っ た.. <第4表>. 嘉永2年の特高・家族構成・牛頭数. 長百姓. 中百姓. 平百姓. 合. 計 16戸・. 総戸数. 8戸. 3戸. 5戸. 特高合計. 48 .515石. 11 ,450石. 2 ,494 6 .084. 3 .816. 2 ,736石 1.264 0 ,165. 62 ,701石 10 ,230 0,165. 130人. 最 最 平. 高 低 均. 家成員数 男子 女子 1戸平均. 同上男子 女子. 10 ,230. 6 .154 2 ,373. 20人. 45人. 36. 14. 22. 72. 29. 6. 23. 58. 6 ,66人 4 ,66. 9 ,00人 4 ,40. 8 ,12人 4 .50 3 ,62. 70 ,0% 15 .O. 68 .8%. 69 .3% 15 ,3. 8 ,12人 4 ,50 3 ,63. .00 , 2. 18 ,4 100 ,0. 牛. 3 .918. 65人. 69 ,2% 12 .3. 1戸平均. 0 .547. 15 ,O 100 .0. 2 4匹 3 .00. 6匹 2 .00. 4 ,60 20 ,O. 11 ,1 100 ,0. 15 ,3 100 ,0. 30匹 1 ,87. 宗門人別改帳による,. これよ り2 7年間を経た 明治9年 ( 1 87 6) はどうな っ たか, 平百姓層が2戸増加して総数が18戸 きゆうこ. と な っ た, そ し て, こ の18戸 が 現在 n日戸」 と称している玉川組の共有林野 の権利者団 体を構成. している. 特高 の合計は6 3・6石余とわずか1右 弱増加したが, 村外への出作分については不明 である. しかし, 村外分はそう大きく ないといわれている 特高 の合計の増加が僅小であったか , ら, 1戸平均 の石高は3・53石余と0・4石弱の減少 を示している 特高 の最高が12石余 (回) , であ って, これも嘉氷2年の最高 (回) にくらべると2石余も増加しているが 無高のものが平 , 百姓層に2戸 (①と④) が数え られることは注目すべき である この2戸は自家 の屋敷地を所有 , していないが, 嘉永2年の宗門改帳に登録されてい なかったから 家創設が嘉永2年以降のもの , であ ったとみてよい であろう. 各家の特高 には僅小の増減があ ったが, 大差はなかった 役畜で , -1 5 9-.
(7) . 黒 崎. 八 洲 次 良. ある牛の飼育は長百姓はもちろん, 中百姓の全3戸もおこなうようにな った. なお, 平百姓の⑥ が 2 頭, ⑭が1頭を飼育して, 嘉永2年に平百姓層の飼育頭数が皆無であったことに大きな変化. をもたらした, また, 嘉永2年には長百姓層の8戸がひとしく3 頭ずつ飼育 していたのに対して 明治4年には, 国の1頭があるのに対して国・回・回・国の4戸のように, それぞれ4頭を飼育 する家があるのである, このように, 石高所持や牛飼育頭数をくみあわ せて検討すると, 長百姓 ・中百姓・平百姓の家格階層の境界が, 嘉永2年当時よりも明 ,治9年現在において ますます暖味 に な っ て き た の で あ る.. 8人 明治9年の玉川村総 人口は142人, 男子81人, 女子62人であるから, 1戸平均 人員は7・8 2年よりも0・ 2 4人減少 男子4・50人, 女子3・38人ということになる. 平均人員において嘉永. している. 平均人員の減少は, ここでは, 養子の相対的, 絶対的減少に直接に結びつい ている. すなわち, 嘉永2年に総数の15・3%と傍系成員と同等の割合をしめていた養子が, 明治9年に 0人が後者の5人に減少したのであ は僅かに3・5%と大幅に減少している, 実数でも, 前者の2. る. それにひきかえてか, 直系成員は79・5%とこれも前者の69・3%よりも10%以上もその比 率を増加 している, 傍系成員も15・3%から16・9%へとわずかながら増加 している. したがっ て, 近 世末期から明治初期にかけて, この村の諸家はその家成員を直系成員に集中させ, とくに 養子 (非親族的成員) を排除させる方向に あったとみてよいの ではあるまい か (第5表). <第5表>. 明治9年の特高・家族構成・牛頭数. 長百姓 総戸数 特高合計 最 最 平. 高 低 均. 家成員数 男子 女子. 1戸平均 同 男子 同 女子. 8戸. 中百姓 3戸. 49 .1580石 ,7869石 11 0 6 12 2 5 ,7100 , 6 2 ,7700 6 ,2243. 1 ,5130 3 .8600. 平百姓 7戸. 合. 計 18戸. 3 52石 2 ,7203石 6,66 40 12 1 1 9 .2560 .. 無高. 0 .3886. 3 ,5369. 142人. 66人. 26ノ \. 0人 5. 37. 17. 27. 81. 29. 9. 23. 62人. 8 .%人 4 ,62 3 .62. 77 .9% 16 .6 4 .5. 100 ,0. 24匹 3 .00. 8 .66人 5 ,66人. 7 .15人 3 ,85. 7 .88ノ\ 4 .50. 73 ,1% 23 ,1 3 .8. 84 .0% 14 ,O. 79 ,5%. 3 ,00. 100 .0. 7匹 2 ,33. 3 ,28. 2 ,O 0 100 .. 3匹 0 .42. 3 ,38 16 ,9. 3 .5 100 .0. 34匹 1 .89. 戸籍下調書上帳, 田畑分米銘々仕出覚帳, 明治4年敗牛数書上帳による.. しかし, 明治9年においても, 玉川村の1戸当り平均人員は両隣の和木村や白瀬村のそれより も多い. 平百姓の平均人員 (7・15人) ですら, 弘化2年の白瀬村の10石以上層のそれ (6 . 8 人) よりも多い し, また, 和木村の明治2年の平均 人員の最も多か った3- 5石層 (8.0人) よりも, この村の長百姓 (8・2 5人) と中百姓 (8・66人) の両層の平均人員の方が多いのであ 6 一1 0-.
(8) . 近世末期から明治期における佐渡内浦の村落社会の動向について. る. なお, 牛の飼育頭数の1戸平均も白瀬村 の弘化2年 ( 184 5) のそれが0・8頭であるのに対 して, 玉川村の嘉永2年 ( 1849) は1・87頭であった, 1戸平均特高は, 白瀬村の弘化2年が4. ・36石で, 玉川村の嘉永2年の3・9 1石よりも0・4石余も多い, 同じように和 木村の慶応4年 ( 1 8 68 ) は3・64石であって, 玉川村の明治9年 の3・53右とは大差がないのである, とすると 玉川村の1戸平均人員が両隣の白瀬村や和木村 のそれよりも多いことの要因を 農業のあり方の差. 異にもとめることができなくなる, したがって, それは農間余業-- とくに漁業のあり方にもと め る べ き で あ ろ う,. さて, 明治2年の小舟所有は, 18戸で20そうであるから, 1戸平均1・1そうとなるが, 長百 姓と中百姓のうちの7戸は各家が2そうずつ所有し, 他は1そうずつの所有であって, 所有して. いない家はない. 平百姓のうち小舟を所有しているのは2戸でめっ て, 他の5戸は無所有であっ て, 石高所持や牛飼育 のあり方と家格階層との間にみられた関係が, ここにも, ほぼ, あてはま. るものとい っ てよい. 明治2年 の宗門帳の18戸はすべ てが 「百姓」 で 「農業兼漁業」 の表示をも つものであるが, 平百姓 の⑥は耕地 を無所有で小舟1そう所有であるほか, 他はすべ て田畑のい. ずれかを所有 している. なお, この小舟が漁船であるとすれば, 和木村の明治10年の戸数27戸と 4そう, すなわち1戸平均1・2そうに近い保有状況であ って, 玉川村の1戸平均人員が両 漁船3. 隣の村々のそれよりも多いことを説明するわけにはゆかなくなる (第6表), そこで, 近世以来 の. 沖漁--大正以降の慣行沖漁 の権利者について検討 して, この問題に接近することに したい, 坊 が崎と玉川 の戸数の合計の27戸が, ち ょうど和木村の戸数と同数になる, これが現在の旧戸 (共. 有権者) である, すこし時代をくだろが, 明治40年の沖漁師は, 和木も玉崎もそれぞれ6 人であ ったが, 同 年のカス ベ漁師は前者が3人で後者が6 人とな っている. また, 大正3年の慣行沖漁. 組合の当業者 の人員数は, 前者が9人であるのに後者は12人となっ ている, もっとも,この内訳は 泊縄・刺網古漁師が前者6 人に対して後者も同数 の6 人, そして古漁師兼乗組員は前者が3人で あるのに後者はその二倍の6 人となっ ている. 近世末期の問題に関連させるのに明治40年や大正. 3年の資料を利用することには疑問があると思うが, 玉川村 の特質の一端をうかがう のに適切な 資料を未見であるうちはやむをえないので, 次善の策としてこれをとることにした, いずれにし. ても, この村の諸家が両隣の村々にくらべて, 沖漁=延縄・刺網への関心が高かったことになろ う. そこに, 1戸当り の人員数が両隣の村々のそれより多いことの理由の一端があると考えるが 確言するには具体的な経営のあり方についての資料が必要となるであろう,. さて, 家格階層と石高所持・牛飼育頭数・小舟所有・慣行漁 業権の権利者などの関連をみてき た, その結果, 家格階層と物的諸条件との間に多少のズレはあるが, 相関々係をみ とめることが. できた. つまり, 長百姓や中百姓の大多数の家が平百姓よりも相対的に優位な物的条件を具備 し ていることである, しかし, 相対的優位とい っても, 最高の石高所持が12石余にすぎないのであ. り, これとても水田7・9反, 畑0・8反, 合計8・7反の所有でしかない (回) . 白瀬村と坊が 崎村に出作している長百姓の国ですら, 水田9・5反, 畑1・5反, 合計11・0反にすぎない.. こうした狭小な耕地をめぐっ て, 狭小であるが故にいろいろな問題をもつ地主・小作関係が結ば れ, 牛 の所有・非所有--利用 の関係や, 漁船の利用や沖漁やイカ漁をめぐる漁業組織がそれと からまり あって, 近世末期から明治初期の各家の生活組織の中核が形成されていたことになるで. あろう, 前述したことの帰結であり, なお, また, それの将来の展望にかかわることの一端として, 明 治9年現在の各家の世帯主 (家長) の妻, 長男の嫁, 母の婚入関係をとりあげておく, 第7表が -161-.
(9) . 黒 崎 八 洲 次 良 <第6表> 小 舟. 戸 数. 所 有 (明治2年) L 13 . 3. n ソ ”. 2. 7 18. 20. “ ′. 破. L6 3 Q L1. 5. 明治2年宗門改帳による, <第7表>. 村. 内. 妻・嫁・母・祖母の婚入地 (明治9年). 崎木首松 坊工 刀 和 ,馬 平 外 白 瀬. 村. 家. 事 「. 不. 明. 計. 妻. 嫁. 〇. 母. 祖 母. Q U. r o. 1 ▲. 1 1. 計. 1 ▲ n 7 ム 0 f t ふ. 1 ▲ ハ ム. 16. ハ 〇. . ←. . ▲. 1 4. . ←. 12. n 7 ”. 戸籍下調書上帳による <第8表>. 長. 35 8. 長. 31 23. 回綿. 婚 姓. \三 \ T \\ \. \ 、. -. 25 8 26 31 23 国 30 32. 26. 百. 村内婚入と婚出 (明治9年現在の戸籍によ る) 婚 出 す る 姓 中百 姓 平 ^. 百 -. Y *. 7 20 19. 32. 中百 姓. ′. 5. \. 24. 4. 1. 2 17. Y. T. H. Y H. 平. 6. 百A 姓 旧. T. T ’. T. \. 百. 姓 ・. -162-.
(10) . 近世末期から明治期における佐渡内浦の村落社会の動向について. 示すように妻が16人, 嫁が6人, 母が12名, 祖母が2名, 合計3 6名である. このうち, 村内が14 名( 38・9%) 家付が4名で 妻 嫁 母の村内出身者は ち う ど半数となる. 母と祖母に戸籍 ょ , , , , に記載されているが出身地が不明である のが5名 あり, 村外出身者は のこりの13名 ( 36,1%) である. その最多は玉川から北へ坊が崎, 和木をへだてた馬首 の6名で 和木,平松・白瀬 のそ ,. れぞれ2名がこれに次ぐ, つまり, 村外とい っても, 内浦地区の近隣五か村 に限定されているの で あ る,. さて, 村内の1 4名 の婚入・婚出を家格階層と関連させたのが第8表である, これによると婚入 は10戸, 婚出は9戸であっ て, 村内の18戸の半数以上が, 村内通婚に直接 の関係をもつことにな. る. とくに, 回は国・師\・⑤の3戸へ婚出させ, ⑥も図 . 厄\の2戸へ婚出させていた これら . の例からみられるように, 村内の通婚は同一家格階層内に限定されるものではない 長百姓が平 , 百姓から配偶者を求める例は, 図 ÷→⑥, 園‐÷→②, 回‐÷→⑤ の3例がある し, 平百姓が長百姓 から配偶者を求める例も⑤ -一国の1例がある, したがって, この面にも家格階層間の境界が暖 味になっ ていたことを, われわれは確認してよいと考える。 ただ, この村に 「嫁は低い家から」 という論理があるのかもしれない, それが上掲 の長百姓‐÷一平百姓 の3例と平百姓・÷→長百姓 の 1例に対応するのかもしれないが, 例が少ない ことと調査が十分でない ので断定はできない .. 玉川と坊が崎の両村が合併して玉崎村とな ったのは, 明治2 0年 ( 1 887) であるが, この年に馬 首村ほか10村組合戸長役場が成立している, さらに, この10か村が明治22年の行政村内浦村とな ったのである, この地区の村々の合併には, 明治9~10年の目瀬と小松, 羽黒と吉住とがある, 玉崎に隣接する目瀬と ・松の合併は 「明治9年地組改正二付, 目瀬 ・小松合併願, 戸長旧杵重蔵 ◎, ………村境判然難相成, 且 つ小松村戸 数精々六軒, 而己難相立今般, ,………, 」 によるもので. あって, この合併は対等の条件によるもではなく, 小松が目瀬 ( 60戸) に吸収されたのである. 目瀬の名 主は長く小松村名主を兼帯しており, 小松村 の自立性は近世においても強く なかったた めか, その間に, 「村境判然難相成」 くな ったのである,. さて, 玉川と坊が崎 の両村の合併にふれる前に, それ以前の両村の関係を概 括してお きたい. 中世末期の上杉入国以前の地頭の所領からみると, 両村がことなる領主をもっ ていたことは, 既 述のとおりである. しかし,j丘世に入り, 沖漁がさかんになると, 両村は八か村 の構成単位とし て共通の利害 (泊縄の権利) を主張し, 五か村や三か所に対抗することになる, また, 貢租納入 えびす のためには同じく夷組の構成単・ 位とL て, 相川奉行所‐÷→幕府に対抗することになっ ていたし, ごうぐら. 「江歳」 については白瀬・北五十里・小 松・和木・馬首・松ヶ崎な どの諸村とともに これを維持 した, このような両村をふくみ, 地区全体からなる藩制村連合のほかに, 「一, 御林反別壱町三 ?. 反六畝歩. ・,. 雑木デ 小木 壱ヶ所 御林元道のり八拾四間 是ノ ・玉川 ・坊ヶ崎両村入相御座候」 『 ( 明和元年明細書出帳』)(傍点む ま黒崎) がある. 玉川村にはこのほかに 「一, 百姓持林 柴山 八ヶ所 一, 株場 三ヶ所」 があって, 各家は隣村の坊が崎の 『入相』 林のみを利用 するわけで いりあい. はない. そして, この両村入相林をふくむ玉川村の共有林野の利用が, 実は, 家格階層制と強く なた. む す び つ い て お り,. 今 日 に お い て も 象 徴 的 に 次 の よ う に 語 ら れ て い る, 「オ オ ヤ は 鑑 三 挺, チ ュ. 勘申候」 であった,. 「名主給米無御座」 に見あうものが 「オオヤ (本家) に飽三挺」 であ ったの. ウオオヤは二挺, ヒラは-挺」 というのがそれである. 玉川村には松ヶ崎村のようにオモダチ衆 (長百姓層) が独占的に利用 した 「名主山」 はなく, しかも 「名 主給米無御座 是ノ ・長百姓廻相. 3- -16.
(11) . 黒 崎 八 洲 次 良 かも しれ ない.. 明和元年の 「御林」 は元禄7年検地帳の 「平沢滝 一, 新御林 壱ヶ所 是者玉川村 坊ヶ崎村入 但山元無之二付同断」 とあるもであろう, ここに 「但山元無之二付」 と 相処両村之水帳二記而. あることは, この入会地に両村がまったく対等の権利 (?) を有することを示すものであろう, なお, この入会地は明治16年4月調の 「山反別 壱町三反六畝歩 玉川・坊ヶ崎入会山 地価四 円拾参銭五厘 地租十銭三厘」 であった.. 玉川村の諸家が村外の地籍の田・畑を どのくらい所有していたかは, 明治2年宗門帳以 外に適. 切な資料をも っていない, そ れによると, 出作は白瀬村・ 坊が崎村・椿村の三か村にかぎられて いる. 田は白瀬村の 8反8畝16歩, 坊が崎村の8畝12歩, 椿村の1反1畝08歩で合計1町0反8. 畝06歩となる, したがっ て, 18戸の田地所有合計6町7反0畝17歩のそれは16・1%にあたる. 1歩の6・ また, 畑は坊が崎村の6畝12歩で, 18戸の合計9反2畝2 、5%にあたる, 他村への出 作. 耕地の合計は1町1反4畝18歩で, 村内外の耕地所有合計の7町6 反3畝08歩の14・9%をしめ ることになる. この出作は長百姓の区f・回・国, 中百姓の/了\・須、 , 平百姓の②・④・⑭な どの 8戸にしめられている. しかし, 坊が崎村への出 作は田の1反1畝08歩と畑の6畝12歩で合計1 反4畝24歩にすぎない, 玉川村からの出作は白瀬村への田地8反8畝16歩が, 村単位としてみる と 最 も 大 き い の で あ っ て,. こ の こ と は 今 日 に い た っ て も 変 っ てい ない よ う で あ る.. さて, 玉川 村への入作となると, これは元禄7年に 坊が崎村の六兵衛の田地1反7畝14歩(⑪) や新左衛門の1反9畝10歩 (⑬) な どがみえ, このほ かには甚左衛門 (図) があるが, 3戸の入 作の合計は明治9年に4・56石余で, 玉川 村の草高68石余の6・7%弱であって, 玉川・坊が崎 両村の出作・入作関係を大きく評価することはできない. 明治20年の 「新潟県加茂郡玉川 村坊ヶ 崎村戸籍」 によると, この両村の間の婚姻と養子縁組とは前者が4組, 後者が5組, 合計9組あ. る. 玉川 村から坊が崎村へは婚出が3組で養出は3組ある. 坊が崎村から玉川村へのそれは, 前 者1組と後者が2組ある, そして, これは前掲の第 7表に示されたように両村の各戸, とくに玉 川村の各戸にとっ て大きな割合をしめるものではな かったのである, しかし, このなかに, 両村 の長百姓相互 間の国‐÷→図や長嶋八郎右衛門図・÷→圏・回・国があるこ と, とくに長嶋八郎右衛 門家圏と古玉宗十郎家庭1との婚姻関係があることに, 一言しておきたい. 古玉家は坊が崎村の特 あらや 異な存在であることは前にものべたが, この家の家号 「荒屋」 は, 坊が崎村と和木村の中間に荒 屋村があり, その一村すべ てが古玉家の支配の下にあったという伝承によ っている, そ して, こ. の家は内浦地区全体からみても, トッサソ株であった. 長嶋家は古玉家ほどではないとしても, 玉川村の最も古い家といわれ, したがって, 高い威信をもって明治期をむ かえた家であった, いずれにせよ, 入会山の関係をのぞくと, 坊が崎村と玉川村とはとくにふかい関係をも ってい. たと考えることはできない. 中世末期の所領関係からみれば, む しろ, 対立関係にあったとみら れなくもない. 沖漁や貴租を契機とする諸関係も, 両村間のそれというよりも, 地区内の諸村の 連合組織とみる方 が妥当である. そうすると, この隣接する両村の合併はなにによるのであった. か. 上述の諸村落の連合組織への参加をの ぞけば, 両村はそれぞれ独立の存在である. そのこと は氏神や堂の維持にも, 独自の用水をもつことにも, 地先の海面の利用にも, 入会地以外の共用 林野についてもみることができるのである, そ こでこの手がかりをえるために, 次の文書を検討 す る こ と に す る.. 「. 村名 合併願. 新潟県佐渡国加茂郡 一164-.
(12) . 近世末期から明治期における佐渡内浦の村落社会の動向について. 戸数 十八戸 玉川村 九戸 坊が崎村 戸数 改 玉崎村 右往古ヨリ弐ヶ村ニシテ其地勢等 (中略) 而 シテ僅々タル戸数接続スルラ以テ 元来 民 情 同 一 ニシテ恰モー村ノ状 況ラナ ス ト雌トモ, 幕政 月日慣止モ得ス各村二村役人ヲ置キ村務ノ ・総テ門閥 ニョリテ処置セシラ以テ人民漸ク民費ヲ負担シ来 しリ, 而ルニ維新以来民政ノ改革ニョ リテ人智. 贋ヒ 村 務 モ 亦 旧 慣 墨 守 ヲ 去 り テ ョ リ, 普 通ノ 民 費 ト雄 トモ 日 々 二 嵩 ムノ ミ ナ ラ ス, 吾 力 ノ進歩 1. 村落タル地形ノ 止ム得サルニョリ 海岸三里ノ 間二一戸長役場 トナリテ租税ノ 如キモ各 人目ヲ納付 スルコト容易ナラスシテ多クハ村惣代二托ササルラ得ス, 其他諸般ノ 雑務アリテ公然タル町村費. ノ 外各村協議費ヲ要シ到底一村独立ノ 民無之候. 以上概陳ノ 通り二御座候間近年合村ノ協議数回二及ヒ候処, 本年二至り漸ク両村人民悉ク同意 相成候条, 右両村合併 シ村名 ヲ玉崎村 ト更メ 度候間, 何卒上願ノ趣キ御調査ノ 上速ニ御聞済被成. 下度, 依之両村連署ヲ以テ奉願候也 明治二十年八月廿八日. 加茂郡玉川村 後. 藤. 三. 蔵. (中. 園 略). 同郡坊が崎村 伊 藤 作 十 郎. 図. (中. 略). 新潟県知事 篠. 崎. 五. 郎. 殿 (下. 略). 」. これに加茂郡馬首村外十ヵ村戸長の川上賢吉の添書があり, 明治20年12月2 7日に合併が許可さ れ た の で あ る.. 文中 「門閥」 とあるのは, 玉川 では長嶋圏・図・図, 後藤図・国, 児玉回, 池野圏, 加藤図の 国 1などであり, 坊が崎では古玉国のほかに, 榛白回・伊藤回・斎 8戸の長百姓と, 中百姓の後藤1 ゴ ー.山岡圏な どであった. このうち, 後藤図は廻船問屋をいとなみ, 両村の物資と情報の外部 藤i との交流拠点であった, という, 坊が崎の古玉国は荒屋漁場に, 玉川 の丸玉組が牛欠漁場へ, 小. 型定置網を経営するのも, この後の明治30~40年頃である, そして, また, 門閥以外の諸家の な か に, タ ラ ・ ス ケ ト・ カ ス ベ の 延 縄 漁 に, 大 き く 進 出 す る 家 が で て く る の も こ の頃 で あ る, と い. う. しかし, 「元来民情同一ニシテ恰モー村ノ状況ラナスカ」 どうかは大いに疑問 である, そし て, この点については前にのべておいたから再言を要しないと思う, 最も大きな問題は 「民費」. の 「嵩ム」 ことで, このなかには後述する 「学校経営」 のことが重要であると考える. なお,「海 岸三里ノ間二一戸長役場 トナリテ租税ノ如キモ……… 村惣代二托サザルラ得」 ないことも見のが しえない. ともあれ, 合併の理由は適確にのべ られ, 「到底一村独立ノ 民無之候」 と結論してあ ’. る.. ところで, この合併は 「村名 合併願」 であって 「村」 そのものの合併を意図しなかったようで ある. この合併によ って玉崎村が成立したが, 旧玉川村は玉川組, 坊が崎村は坊が崎組をそれぞ. れ組織 した, その理由の一端に当然 のことであったが, 共有山問題がある, 明治24年12月の 「共 5一 -16.
(13) . 黒 崎 八 洲 次 良. 有地名 簿」 によれば, 坊が崎は, 宅地8歩, 山林3筆, 合計9反5畝余と, 雑地3畝余を, 9人 (9戸) 18戸) の ・の名儀で共有 し, 玉川は, 山林6筆合計11町5反8畝余と宅地2畝余を18人 (. 名儀で共有 している, この 「名 簿」 には前述の明治14年4月調の両村入会山1町3反6畝歩が記. 載されていない, とすると, 「村名合併」 を契機として, 両村が入 会山を分割 したのかもしれな もとむら おおやま い. ともあれ, 「大山の権利は元村 (合併前の両村) にある」 ことが確認された, そ して, 共有 林野や氏神もお堂も, 合併によ って統合されることはなか った, さらに大正5年8月 8 日には共 有山のすべてを, 玉川 と坊が崎の権利者26戸で分割利用 する契約 をなした. 玉川 の共有山林は玉. 川 の18戸で分割 し, 坊が崎のそれは坊が崎の8戸で分割利用 することとし, 玉崎区に所有権があ るとした (『玉崎村共有山分割契約書』) 4年の9戸から1戸 . なお, 坊が崎側の共有権者は, 明治2 (⑮) が減少した, また, 共有山林へ課せられる公租・公課は 「26戸」 で負担することとした. しかし, 各戸の利用区分を精確に測量検分した っけでなかった か ら, 利用をめぐっ て各家間に紛 争がおこりえた. そこで境界論調停のために, 次のように定めた. 関係家間に争論が生じ, 妥協 できない時には, 総代に届出ること, 総代は双方部落 ごとに権利者を召集協議 し, 実地臨検の上. 多数の意見にもとづき 決定するというのである.. 隣接する和木や白瀬でも共有山の一部を 権利者各戸に分割 してその排, 他的利用を認めているが. 玉崎のように, 共有山林のすべてを分割 してはいないのである, また, 明治9年地租改正に際し て, 願い出て 合併した白瀬・小松両村の場合の, 「旧戸66戸」 は, 白瀬・小松のすべての共有権. 者をふくみ, 平等の参与を認めている.. 「民費ガ………嵩ム」 こと が 「村名 合併」 の理由の一つで, とくに重要なものであるが, ここ 馬首・浦 で小 学校問題にふれることにす る, 現在, 内浦地区は白瀬 (北五十里・白瀬・玉崎) ・,. 18 75) に 「公立第八番小学校白瀬校」 とし 川 の3小学校がある. このうち, 白瀬校は明治8年 ( て創立した. 明治8年8月15日開校 式をあげ, 椿・五十里・玉川・坊が崎・和木と白瀬 を通学区. 0余名であった, そ して, 馬首・浦川に分校をおいたのである. 後, 明治 域 として, 出席生徒が8 ▲内浦小学校と改称し, さらに簡易科白瀬小学校と改め, 修業年限を3か 年として 20年3月簡 易料. 6年4月に尋常小学校と改め, 大字白瀬・玉崎を通学区域 とし, 馬首・浦川の いた, なお, 明治2 『学校沿革史 村立白! 頼尋常小学校』), これが, 坊が崎と玉川の両村が 二分校 は本校に昇格 した ( 直接にか かわりをもつ 白瀬小学校の 「村名 合併」 前後の推移であるということになるが, 事実は それほ ど簡単なものではな かった, その一端は次に示 す 「私立学校設置同」 であろう (傍点は黒 崎). 「公立第八番小学. 白瀬校」. (傍点は黒崎) が設置された明治8年から7年をへた明治14年の. 私立玉川校の設置同は, 設置目的, 位置, 名称, 学科学 期課程試験方法等, 入学退学, 規則等, 授業料, 生徒心得, 学校長教員等職務心得, 教員履歴, 敷地建物, 経費収入な どの13項日におよ ぶ詳細なものであった.. 5円 さて, 問題の経費であるが, これは 「資本金800円」 の利息の80円と授業料の5円, 合計8 . 0銭となり, 5円 の 収 入 に よ る と して い た. 授 業 料 は 1 人 1 月 5銭と定めていたから, 1年間で6 1 8 戸の子弟の就学予定者にみ 収入は8人から 1 0人の児童数をみこむことになる これは の授業料 . あった規模である. しかし, 80円の利息は1戸平均4円44銭の負担となるし, 他に授業料その他. の学資と一般の公租や公課を合計すれば, かなり家計を圧迫することになるであろう. 当時の1 -16 6-.
(14) . 近世末期から明治期における佐渡内浦の村落社会の動向について. 戸の年間所得 をかりに 「設置伺」 の教員 の給料と同額とすれば, 6 5円となる. したがって, 学 校 維持費の分担だけ でも, 年間所得の6・7%弱に な ってしまうのである , ともかく, この伺いは加藤図・後藤圏・ 児玉回o後藤医1・池野国の長百姓層の連名 で提出 され. たが, 成功 しなか ったようである, なぜこのような同を提出 したのか それは学校設置が 「村」 , の格付=威信に大きくかかわりをもったことによるのかもしれない また 白瀬校へ通学 させる , ,. ことも, 私立学校を設置することも, 経 費の上で大差がなか ったのかもしれない 後者のことを , 考える手掛りの一つに, 「公立小学分校 資本金取調書 坊が崎村 玉川 村両村組合」 がある こ . れは, 少なくとも, 明治16年よりも以前に組織された 「両村組合」 であるが 両村の 「分校資本 , 金」 は7 50円, 内訳は玉川村分500円, 坊力 さ崎村分250円とあって, 両村の戸数がそれぞれ18戸と9 戸であ ったことに対応してい る, この 「分校」 が私立玉川校の設置運動に源をもつものかもしれ . ない. 資本金は私 立校のそれでは800円であったが, 「分校」 では7 50円とな っている, 前者が 18戸で負担するものであったが, 後者は27戸で負担することにな っていた 前者では1戸 平均44 . 円余であるが, 後者は1戸平均2 7円余となる. もっ とも, 資本金にみあう利息を各家で分担する ことになるから, 毎年の拠出額は資本金の10%, したがって, 後者の年間拠出額の1戸平均は2 円77銭余ということであったのかもしれない. しかし, この 「分校」 も実施に至らなか たよう っ である. 明治15年の各部落の戸数は北五十里34 7, 坊が 崎9, 玉川18 , 白瀬6 , 和木27 , 馬首29, 北松 ヶ崎20 , 平松22 , 浦川34 , 歌見43であって, 玉川と坊が崎の両村をのぞけば北松ヶ崎の20戸 が最少 の戸数の部落である. 玉川と坊が 崎を合計 して, ようやく 和木や馬 首にならぶ戸数とな , るのである. そして, この10か部落で公立小学1校と分校2校をようやく維持 しえたのでは ある まいか. そ して, 「租税ノ 如キ」 ものだけでなく, 学校経 費分担金な ども 「多ク ハ村惣代二托」 しており, この面でも 「玉川 坊が崎両村学校入費」 としてまとめて処理する 「組合」 が 合併以 , 前に発足していたようである. V. 近世の 「村」 から明治期に入 って, まず, 第2 6区6小区4番組 (玉川村, 坊が崎村 和木村) , にくみこまれ, さらに, 「馬首村外10か村組合戸長 役場」 の管轄に入り 村名を合併したが な , , お, 「玉崎村」 であった, しかし, 明治22年に 「内浦村」 が成 立すると 玉崎はま さに部分村落 , と化 して, 玉崎区に改編されることとなる, さて, 村名合併から行政区へ推移 して明治後期をむ かえ た玉崎区の各家の動向はい ,かなるものであったか. そして, それはまた小型定置網 導入の直 前の各家の動向でもある(第9表) . 明治後期の各家の動向 を知るために, まず, 各家の所属を玉 ( 玉 川 ) と坊が崎 (坊) にわけ, 長百姓 (□E □) 中百姓 ( /-\ ) 平百姓 (○) の記号で家番 号をか こみ, 前述の分校資本金, 耕地 (田十畑) 所有, 漁業免許, 慣行漁業権権利者のそれぞぞ れの記 号や数字を記入して, 分校資本金の多寡の順に配 置してみた この部落の人びとは現在 において . ますますその傾向 を強めているのであるが, 近世末期--明治後期においても 石高所持 もしく , は耕地所有だけによ って一義的に階層構成を検討することが できないよう である そこ で 玉川 , , .坊が崎双方の各家が格付されている 「分校資本金」 を利用 してみ た 耕地所有は属地主義的資 , 料に拠 ったので区外の出作はふくまれていない, 漁業は全戸がイ カ漁具の申請・ 許可をうけてい さめ. たら. いわし. るから, イカ漁具以外のものに限 づた, このうち, 鮫刺網 (S) 鱈延縄 (T) ・厩磯網 (1) が 比較的大規模 であって数戸の共同 を必要とするか , 村外の (とくに外海府諸村) 労働力を求める かするものであった, という, とくに, 国は外海府諸村から数名の男 子を雇入れて 冬季の鱈延 , -167-.
(15) . 黒 崎 八 洲 次 良 <第9表>. 各家の分校資本金, 耕地, 山林所有, 漁業免許など. 家番号 分校資本金. 回 円 35 53 . 国 47 . 54 回 47 3 ,1 国回国回国 ⑫. 玉 〃 〃 ″ 坊玉. 47 , 01 41 . 32. 39 , 10 38 . 30. 坊 玉 坊 玉. 区. 回 玉 風 坊 玉坊⑩回 坊. 山林原野所有. 畝. 畝. 滋養 フナヤド. 121 >119 <1 50. 27 26. 30 <2 11 S.T. O. 16 95 <1. < 40 <138. k. S i. O o. 95 86. 12 87 <1. 23. 23 <1 93. 131. 131 <155. 24. 24 <1 63. 102. 102 <1 29 ※ 99. 99 <3 27. i. 〇. 26 <1 89. T. O. 62 <195 ※127 <1. 1. 0. 82. 83 < 92. 82. < 92 <114. 35 , 21 33 , 57. 54. 54 ?. 54. 54 < 62. 32 56 ,. 78. 29 . 95 28 . 70. 58. 58. 14. 15. 02 78 <1. 26 47. 48 ?. 11. 11 <133. 44. 44 <2 3 1. ○ i. 22 , 17 20 . 27. < 73 ※119 113 <140 t 25 22 2 < 24 83 <1 40 41 < 51 22 <163 18 21 < 65 Tt 55 53 < 73 42 <1 04 T 66 > 59 < 67 ※ 42 55 55 <1 38 38 < 51 1 7 S 24 24 < 98 T 30 40 < 68 25 < 77 S 25 48 48 < 68 47 < 92 k 31 31 < 41 ※ 42. ⑭ ⑥ ② ⑤ ④. 19 , 58. 12. 坊 ⑮ 玉 ⑰. 12 . 20 10 . 50. 国 ⑪ 画 回国. 〃 玉 〃 坊 玉 〃 ″ 〃 〃. 〃 ①. 計 1戸平均 註. 耕地所有. 1 江21 凸 江30 凸AIO A江2 ‐ 凸江30 凸江1O A. 26 . 31 25 . 62 24 , 42. 23 . 61 23 , 12. 12. 16. 15. 15. 20. ‐ 16 . 17 5 1, 09. 27. 27. < 42. 17. 17. < 45. 10. 10 < 1 8. 19. 19. 22. 15. 一‐. -. 1. 一 -. 9. 13 , 63. 7. 8. 14 . 64. 9 . 07. 750 . 00 27 , 77. 8 <1 4. 27 7. 7. 8. 3 <1 3. -. -. 3. 1331 1363 1656 49. 50. 漁業のうち S:鮫刺網 T: 鱈延縄 なおMIOは明治10年のこと,. 64. 〇 O O. 0. 27 < 86. 8. 1 <1 0> 6 1. 1. o. 958 1078 2845 35. 工: 塩磯網. 40. 109. k:小釣. i:磯漁具. t:手網,. 縄をいとなんだようである, 慣行漁業権の権利者をこの地区ではフ ナヤ ドもしくはフナモトとい う. これは12戸であ って, このうちの国と⑬は内浦地区全体の鱈延漁につい ての有力な指導者で も あ っ た.. 0戸,20円~30円未満の9戸,20 さて, 第9表が示すように, 分校資本金30円以上を分担する1 1層, 皿層とした. 工層のほとん どが明治30年に耕地1町歩以上 円未満の8戸をそれ ぞれ1層, 1 を所有 するか, それとも, 慣行漁業権の権利者であるかである. また, イカ漁具以外の漁具の免 許者でもある. しかし, このなかに2位をしめる/謬\は中百姓であるし, ⑬は坊が崎の平百姓であ った, 概 していえば, 長百姓層が1層にあたる とい ってよいが, 以上の事実は次のn層と関連さ 1層には鱈延縄免許者が3戸 (図・回・/派) と鮫刺網のそ れが せると無視 することができない. 1. 2戸 (⑪と国) あっ て, 近世以来の伝統的漁業を, 1層の各家よりも強力に支えているようであ -168-.
(16) . 近世末期から明治期における佐渡内浦の村落社会の動向について る, な お, こ の 層 の ほ と ん どが 明 治30年 の 耕 地 所 有 の 5 反 ~ 8 反 の と こ ろ に 位 置 して い る, 皿 層. には⑥という特異な家があって, 脱磯網の免許を得て, フ ナヤ ドに もなっており, 耕地所有から みても, n層に格上げさせるべ きものである. しかし, 概 していえば, 耕地所有が2 反未満であ 1年よりも30年において所有規模を縮少させ っ て, 1層や口層にはまったくみられないところの2. た家が3戸 (⑤・④・⑰) 停滞している1戸 (⑯) をふくんでいる, なお, 「姓別」 の項に付言 して お き た い, Gは後藤, KOは児玉または古玉・1は池野, Nは長嶋, Kaは加藤であって, 記. 号なきものは1姓1戸である. 玉川 ではNとKaが古くは有力であって, Gは新興であるというが そのG姓がこの表の最上位をしめている,. 嘉永3年から明治9年までの推移において 家格階層間の境界が暖昧であったことは前述のとお りであったが, 明治後期においては, もはや, か っての家格階層で一括Lえないほ どに変貌して しまった, 同じ長百姓 であっても, 分校資本金53円余を負担する図とその2分の1未満の20円余. の図があるというわけで, その経済的実力の格差は大いに拡大した. 他方, 平百姓においても, 3 3円余の⑲から10円未満の①という大 きな格差 が生じた. これを耕地と山林原野の所有を通じて. みると, 明治2 1年から30年の間に大きな動きがある, 10年から21年までの土地所有は各家とも動 き がな い と い っ て よ い が, 2 1年から30年の間にはほとん どの家が土地所有を拡大させた. 1 戸当. りの耕地所有が4・9反.÷一5・0反.÷一6・4反と拡大し, 山野所有は2 1年の4・ 0反が3α年 0・9反と10年間に2・8倍も拡大した, しかし,10年に すでに山野1町歩以上の所有者が坊 の1 が崎の1 翌 1・国の2戸, その年の平均3・5反をこえる9戸のうちの7 戸が坊が崎にあることに注. 意しておく, 坊が崎では玉川よりもはやく共有地の分割 個別所有化がすすんでいたらしく, 村名合併時の共有山野が9・ 5反余であ ったが, 玉川は, 115・8反とな っていた(明治24年12月 「共 有地名簿) 」 , そして,10年地租改正時において, 坊が崎の長百姓の山野所有が4・2反から12・ 7反までに分布していたが, 玉川 の長百姓のそれは2・3反から4・7反までの小さな差のな か. に分布していたのであった.. さて, 21年 から30年までの耕地所有の動きは, 皿層の④・⑤・⑰と1層の1回をの ぞく他のすべ ての家が耕地所有を拡大させていたと要約できる. 2反歩余の拡大をなした家は10戸あって, そ. の7戸は長百姓層であったが, これらのなかから1町歩余の所有者が出現して, 小なりといえ ど も貸付地をもつことが可能な層が形成された (回・/凧 ・回・ 図・国・図・図) .そして, 主なもの. はG姓3戸, KO姓2戸であった. なお, この間の拡大を戸別にみると, 8畝から3反1畝にわた るのであったが, ここでは, 田畑を問 わず, 牧牛 の侵入を防くために外周に木柵を 結わねばな ら ず,, 毎年, 春に 「大垣」 を設けることが部落仕事となっ ている, この耕地拡大は 「大垣」 を越 えてなされたものもあって, その木柵も数戸共同で設けることもあった, 水田の拡張は切添もあ った し, 新江 (用水路) の開さくにもよ ったであろう, 今日利用される用 水路で2戸以上 の関 係. 者をもつものが, 玉川 6か所と坊が崎3か所あって, 玉川には10戸共同の新田江がある. このほ かに, 1戸1江が無数にある. この耕地拡張の結果, 長百姓において図の4・1反から国の15・. 5反までの格差が生まれただけでなく, 平百姓の⑥・⑪・⑫・⑱は回の所有面積をこえる耕地の. 所有者になったのである, 同じ期間 の山野所有は どうか, 所有面積の最大は国で, 9・9反から 〔 1 〕 ・国・回・回・ 32・7反へと10年間に22・8反も拡大した. これにつぐ10反以上の拡大戸は国・ 6 ⑫であって, これらに翌 E・1 国・⑭・1 国.⑪を加えた13戸が3 0年現在の山野1町歩以上の所有者で. あった. なお, この層に⑪・⑬・⑬の平百姓の3戸があり, いずれも坊が崎に属していた, そし て, 耕地1町歩以上 の所有者には平百姓の家は1戸もなか った. さて, 山野利用は どうか, 最大 一16 9-.
(17) . 黒. 崎 八 洲 次 良. の所有者とな った 同は後の定置網経営による利潤 を投じて計画 的に植林を行ない. これにならう ものが1町歩以上層にみられた. しかし, 多くは薪炭の自給のために利用 し, その余剰 を販売す. るに すぎなかった,. 村名 合併によっ て, 旧2か村の村落自治はい かに統・廃合--再編成されたか, 村名合併によ. って玉崎 「村」・÷→大字・÷→区となるのであるが, 区の役職は昭和36年現在の主なものとして区 長1名, 立会5名, 総代2名な どである. 区長と玉川, 坊が崎からそれぞれ1名ず つの総代は, 共有山・お堂・鎮守・公会堂・農道・大垣な どの管理を行なう, 行政村との連絡は区長をへて両. 部落の総代から各部落の家々という経路による. 区は1月 4 日の初寄合と12月18日の大皆済の例 会をもつ, 初寄合は新年度の事業計画と予算の審議の, 大皆済は立会と区長の会計報告と次年度 の役職者選出のために開かれる. 両会に正餐としてタラ汁が用 意され, この地区の近世--明治 期の主要漁業がハレの日に象徴されている。 役職者の選挙は各戸1票で, 区長と立会は玉崎区全. 戸から, 総代は玉川 と坊が崎とでそ れぞれ選出する, 区仕事は融雪期に1回の県道修理と2回ほ どの除雪や春秋2回の農道修理 である. 部落仕事は大垣修理がある. いずれも各戸1名ずつ奉仕. することになっ ている, 共有山の完全分割後は, 丸玉組の寄付や移動映画・遊芸人の公会堂使用 料の収入があるが, それでは区財政を維持することができないので各戸で費用を分担することに. なっ ている. 現在は各戸均分であるが, 農地改革以前は数段階に全戸を格付して負担していた, 鎮守2社は合併以前どおりにそれぞれ神職を招いて祭ネ 己するが, 例祭は同期日で祭費は区が負担 し て い る.. 近世の家格階層制にもとづく輪番の村役人を中核とする 村落自治から戸長 (和木) --副戸長 (両村) をへて合併をむかえ, やがて内浦村 の1大字--区に編入されると, 組や区だけでなく そん. 「村」 への利益代表である村会議員や学務委員を選出しなければならない し, 近 世以来の部落連. 合である沖漁関係の団体や漁業 組合へも役職者を出すことが必要とな った. そうなると区の役職 の相対的位置の低下さけることができなかった. 40年の区長は⑰,38年の区長が⑭ であっ て,3 9. 年のそれの国,41年の回, 42年の回な どの長百姓に伍して平百姓出身のも のが 区長に選出された ことは, それを示すものということができる. しかし, 区長就任が区を超えた諸団体の役職就任 の前提でもあったようで 「異法投票者発覚致候…… (回・回・図・圏ノ 四人共謀シテ 無筆ノ 者ノ 代書ラシ圏へ投票シタリ」(『××二対スル経歴 元玉川組将来ノ契約書』) が40年におこった. 他 の事件もあっ て, 図とその兄弟の回・四の両家を, 玉川18戸は区長・立会・村会議員な どに投票. しないこと. 国とは玉川18戸が 「出入交際絶交」 する決定 をなしたのが, この事件であった, 玉崎区は内浦地 区の諸部落と同様に全く定置網の経験をもたない家々から構成されてい た. 玉. 崎をふくむこの海域 の定置網諸漁場は外来者の技術・資本・労力・経営によっ て 40年代前半に開. 発されたのであるが, この地域 諸部落の近世以来の定住者 である諸家はその後十数年間をへるま でただ漁場を貸付けていただけではなかった. 次第に操業の方法を習得して, 中核技術者を招き. 定置させて自らが経営を行なうように な ったのである. 村名合併から大正5年の共有山野の完全 よそもの. 分割という動 きは, 意図 しょうがしまいが, 外来戸を部落内へ定置させ在来戸が新戸を創設する. のに適切な条件を用 意するための隅石とな ったのではあるまいか, N・Ka両姓の近世末-- 明治. 後期の退潮とG姓の袷頭, 長百姓層の分解と平百姓の一部の上昇による家格階層制の変質な ども また, その条件を, より具体的なものとし, 交通機関の整備と 労働市場の拡大 (定置網 の地元経 -170-.
(18) . 近世末期から明治期における佐渡内浦の村落社会の動向について. 営) とはさらにその条件 を適切なものとしてい ったとすれば, 1小部落の玉崎区の動向は明治後 ) --大正期の全国の一般動向のなかに位置づけることができるのである1 . 註 1 ) 拙稿 「明治後期--大正期における北海道農業村落成立の前提について」(『社会学評論74号』 昭和43年, P ,2‐21) .. 註は紙幅の関係からそのほとん どを削除 した, はしがきに掲載した公刊報 告を参照されたい.. なお, 本稿は, 岡田謙教授 を代表とする 「現代村落における 社会変化の諸要因に関する総合的研 究」 (文部省科学研究費交付4 1・42年度) の一部である,. -171 -.
(19)
関連したドキュメント
仲人を先頭に婚家に向かう嫁入りの際に、村の入口や婚家の近くで嫁入り一行の通過
この項目の内容と「4環境の把 握」、「6コミュニケーション」等 の区分に示されている項目の
岩内町には、岩宇地区内の町村(共和町・泊村・神恵内村)からの通学がある。なお、岩宇 地区の高等学校は、 2015
ヨーロッパにおいても、似たような生者と死者との関係ぱみられる。中世農村社会における祭り
たとえば、市町村の計画冊子に載せられているアンケート内容をみると、 「朝食を摂っています か 」 「睡眠時間は十分とっていますか」
・「避難先市町村」の定義(長期避難住民の避難場所(居所または生活の本拠)がある市町
く邑富筥︑むぎミ箋段︑智ぎ o訂讐三︑ざゴGoぎ09︑甘冒O︒蚕巳︑
[r]