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鴻城立憲政党の成立過程(その1) : 反民権派豪農の政治路線

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Academic year: 2021

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(1)Title. 鴻城立憲政党の成立過程(その1) : 反民権派豪農の政治路線. Author(s). 田村, 貞雄. Citation. 北海道教育大学紀要. 第一部. B, 社会科学編, 19(1): 15-29. Issue Date. 1968-09. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/4336. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 北海道教育大学紀要 (第一部B). 第 19 巻 第 1 号. 昭和43年9月. 鴻 城 立 憲 政 党 の 成 立 過 程 (その1) 一反民権派豪農の政治路綿 一. 貞. 村. 田. 雄. 北海道教育大学釧路分校史学研究室. sadao TAMURA. kken i The Format 6(鴻城) Ri on ofthe K6 j Party . (NO.1). も. く. じ. は し が き 第一章 吉富簡一の政治思想. 第一節 幕末維新期の吉富簡一 第二節 自由民権論者との論争 (以上本号) 第三節 反民権派政治路線の形成 (以下次号) 第二章 滴城立憲政党の成立. は. し. が. き. ) が 明治政府の富国強兵路線に対する国民的反対運動としての課題と性格を付与 自由民権運動1 , されながら, すべての反対派諸勢力の結集と統一をついに実現できなか ったことをまず確認してお きた い,. ) 年において, 国会開設運 動が国会期成同盟を組織的中核としつつ 全国津 1 88 0~81(明治13~14 0月 のいわゆる 「明治 々浦々に発展し,明治政府内部にも深 刻な動揺と分裂をひき起しながら,81年1 ) の 後 に は 運 動 の 統 一 を 持 続 さ せ る こ と が で き ず, い た ず ら に セ ク ト的 抗 争 を 深 め 14年の政 変」2 ,. て明治政府の術策にはまり, またきびしい弾圧のため後退につぐ後退を余儀なくされたことは, 周 知の事実である, 自由党の成立自体が自由民権運動の発展のなかに位置づけられるとともに, 国会 期成同盟のセク ト的分裂という負の遺産を継承した側面をも っていることがすでに指摘 さ れ て お り, また84年秋, 急進派および困民党的貧農勢力の蜂起という情勢の急転のなかで, 彼らとの連帯 ) を 拒 否し て 溢 死 を 遂 げ た こ と の な か に, 自 由 党 の 限 界 が ま ざ ま ざ と 示 さ れ て い た3 ,. ところで右のような自由民権運動の不統一の原因をたんに運動を構成する政治諸勢力の階級的基 ) は 一つの重大な問題を見落すことになるのではあるまいか 盤の相違に求める経済主義的方法4 . , すなわち, さまざま な政治勢力の階級的基盤の相違にもかかわらず, 運動の統一とその国民的性格 - 15 -.

(3) . 田. 村. 貞. 雄. を断固として保障しうる政治指導の問題, そしてその指導を現実に担いうる政治的主体 は, い か に 創 出 さ れ て く る の か, と い う 問 題 で あ る. そ し て ま さ に こ の よ う な 課 題 を 担 う 意 志 を も つ 政 治. 的主体の欠如に, ブルジョ ア民主々義革命運動である自由 民権運動の不統一, その敗退の一つの原 因を求めるべきではないだろうか. 少くとも, 問題をも っ ぱら階級的基盤の問題に収鰍させる宿命 論的な方法と手を切り, 問題を政治と思想のカオスの中から探求する努力が払わ れねばなるまい. このよ うな問題観に立って自由民権運動の形成過程に眼を転じる時, 明治政府の富国強兵政策に 対してさまざまな政治勢力の指導的部分が, 一体いかなる現実認識と政治路線を選択し たのか, と いう問題が大きく浮びあが ってくる, 自由民権運動の重要な構成要素である農民の場合をとりあげ て み よ う,. 農民が, 近代的な権利意識を獲得し, 国会開設という高度な政治目標をめざすに至 った直接の契 機は, 何と云 っても地租改正と地方民会をめぐる諸闘争であった, 地租改正によ っ て, 私的土地所有に対する新しい認識を獲得した農民は, 改正の強行, なかんづ く地租の課税基準となる地価の一方的決定に対し, はげしい反対運動を展開する, そのなかで彼ら は地租改正事業に対する承諾, 不承諾の権利, 租税の使途に対する共議・監視の権利をなかば無意 識的に主張しはじめていた, :をたとえ形式的なものであれ 地租改正にあたっ て, 農民代表の合議, もしくは個々の農民の承諾 得ようとした明治政府の政策は, 明きらかに廃藩置県以後の新しい政治的条件に基づいていた. - れは, 地方官が県政諮問のために招集した地方民会 (多くは区戸長会議に過ぎなかったが) とあわ せて, 農民 の意思 表明, 結集, あるいは運動の目標, 手段などに新しい形式を付与した のである . 地租改正会議もしくは地方民会を新しい政治運動の場 として, 自己の政治的, 経済的利害に基づ く主 長を, 最初はおずおずと, やがて大胆に述べはじめた農民は, しだいに自由と民権 曇の確立, 国 会の開設を課題とする自由民権 1の確立, 国会の開設を課題とする自由民権運動に接近, もしくはそ れを受容し, 自ら参加しはじめる, いわゆる豪農民権, あるいは運動内部の在村的潮流の誕生であ る .. そこには, 反動的士族へのきびしい批判と同時に, 彼ら のはげしい政府批判への共感が交錯し, また政治的展 望の弱さと一校的行動への衝動とが重なりあっ てはいたが, 国家的次元における解決 を必須のものとして認識していた点で, 幕末・維新期とは異なった政治的・思想的水 準に達してい た と 評 価 で き よ う.. しかしながら, かかる農民層 の政治的成長を, 自由民権運動の側が全面的 に汲み取ることができ なかっ た点に, 先述した政治指導の問題が存在しているのである, 地租改正反対闘争, あるいは地方民会を手がかりとする府県政反対闘争が, 自由民権運動にどの ように発展していったかについては, 諸先学のすぐれた分析がある, 大槻弘氏の分析された福井県越前七郡の地租改正反対闘争は, 立志社々員杉田定- -らの適切7 指 5 ) 導と,豪農層の積極的参加によっ て,やがて自由民権 ≧運動への発展を実現としている , 大江志乃夫 ‘1月 の地租民費減額令をかちとる直接的原因 氏の分析された三重県の地租改正反対闘争は, 1 8 771 : - ) ミの 県 会 紛 争 に み ら れ る ご と く 運 動 の 政 治 的 発 展 が 指 摘 さ れ て い る6 と な っ た が, 801 ー ,. しかし他方では, 地租改正反対闘争の指導的部分が, 自由民権運動とは異っ た政治路爺 毒 をを嬢択し すこ例も あ る,. 原口清氏の分析された浜松県の地租反対闘争は, 民会議長岡田良一郎の指導のもとに勝利を収め たかに見えたが, 静岡県への統合によってその成果が‐ 一方的に否認されたのであっ た. こ の 時 岡 - 16 -.

(4) . 鴻城立憲政党の成立過程 (その1). 田は,農民の闘いに共感を覚えつつも,冷静な情勢判断を下しているのであるが, 彼の期待した自由 ) 民権運動の 昂揚が数年後に実現した時, 彼は報徳思 想の実践者としこの道を辿りつつあった7 , 近藤哲生氏の分析された愛知県東春日井郡の地租改正反対闘争 ・を指導した林金兵衛等も, 闘争昂 ) 揚期において 「転向」 を開始してゆくのである8 . 地域によっ てその形態, 内容は異なるとは云え, 富農的側面と地主的側面をあわせも つ 豪 農 層 が, 地租改正, 地方民会に対し, ほぼ同様の反政府的動向を示しながらも, 自由民権運動の段階に おいては, 参加と不参加という二つの異った政治的選択を行うに至る のは, 何故であろ うか , それは決して豪農層自身の経営内部の均衝が破れ, いずれか一方の側面が優位を得る事によっ て 規定されたとは即断できないであろう, われわれは, 18 77年前後において, かかる変化の存在を実 証する報告を未だ受取ってはいない, 否, むしろ運動内部の矛盾, 葛藤のなかに, すなわちこの時 期の政治指導と政治主体のあり方にまず問題が求められなければならない, 本稿においては, 自由民権運動が, 国民的統一を達成しえなか ったのは何故か, という冒頭の問 題に対する一つのアプロ ーチとして, 地租改正, 地方民会段階から, 自由民権運動への過渡におけ るわずかな間隙に着目し, 自由民権運動への参加とは異なる選択を行っ た一群の豪農の行動の軌跡 を追求したいと思う, 自由民権運動への参加とは異なる選択と云っても, そこには多様な型があろう, 政治的世界と離 れて, ひたすら農業生産の向上にいそむ 篤農型もあろう, 国家的次元の大きな政治に参 加はしない けれど, 郡, 町村次元の小さな政治に積極的に参加する在村型もあろう. これらの型のなかには, 全国的な政治運動を支持する者も, 全く関心をもたない者も含まれている, 量的にはこれらの型の 豪農が多数であろうが, 他方自由民権派と同じ政治志向型でありながら, 明らかにそれ と は 異 な る. むしろ対立する政治路線を選択する一群の豪農が存在していた, その際, 本稿では, あえて‐一つの政治運動の存在--未 熟な表現ではあるが, 反民権的政治運動 の存在を想定している. この運動に属する豪農は, 立憲帝政党創立にあたってそれに参 加するか, あるいは参加しなか ったとしてもそれと一脈通じる独自 の政治運動を展開したと思われる . 本稿でとりあげる鴨城立憲政党とその指導者吉富簡一も, このような反民権派豪農の政治路線を 開 拓 し て い っ た も の と し て位 置 づ け て ゆ き た い. 1) 自由民権運勤については, 服部之総, 平野義太郎氏の先駆的業績につづき, 戦後下山三郎, 後藤靖, 大石嘉 一郎, 井上幸治, 内藤正中, 大江志乃夫の各氏の研究があり,最近においては色川大吉,松尾章一,松永昌三 山 , 田昭次, 江村栄一の各氏の労作がある. 1 95 0年代においては, 先行する地租改正期との関連, あるいは1 884年 前後の運動激化=解体期に関心が集中していたが, 19 6 0年代においては, 18 80~81年前後の運動昂揚=結集期 に関心が集中しているのが特徴的である.. 4年の政変」については, 大久保利謙氏「明治十四年の政変」 (明治史料研究連絡会編『明治政権の 2 ) 「明治1 確立過程』 所収), 永井秀夫氏「明治十四年の政変」 (遠山茂樹. 堀江英一氏共編『自由民権期の研究』 第1 巻所収) がもっとも概括的であるが,やや視点を変えたものとして梅渓昇氏 『明治前期政治史の研究』 がある, なお最近原口清氏が, 『日本近代国家の形成』 において,絶対主義的有司専制がその本質を維持しながら 「立憲 的」 修正の道を本格的に歩みはじめる画期として評価された, 3) 拙稿 「自由民権運動における分裂抗争」 (『唯物史観』 6号所収予定) において, 運動内部の矛盾について 若干の考察を行った, 4) 従来の通説的評価においては, 士族民権, 豪農民権, 農民民権という段階的区分になかに, 運動のヘゲモニ ーのたえざる下降と, 指導的部分の上昇転化という一種の永続革命論的図式が, つねに諸勢力の階級的基盤の 相違から説明されるいう経済主義的偏向があった. この方法上の問題については, 「日本近代史研究における. - 17 -.

(5) . 田. 村. 貞. 雄. 方法論上の二, 三の問題」 (『史潮』86号) において指摘したことがある,. 8号), 「民権政社の展開過程と国会開設運動」 (『大 5 ) 大槻弘氏 「地租改正反対運動」 (『大阪経大論集』1 1 ) 阪経大論集』2 号 6 ) 大江志乃夫氏 『明治国家の成立』 0 9号) ) 原口清氏「地租改正をめぐる静岡県民の動向」 (『歴史学研究』2 7 8 ) 近藤哲生氏 『地租改正の研究』 分析対象と問 題点 本稿でとりあげる吉富 簡一と鴇城立憲政党の政治活動は, 明治政府最大の藩 閥である長州間の出 身地‐--山口県において展開された, 長州閥は, その郷党的団結を維 持し, 政府部内において優勢 を確保するにあたり, 出身地である山口県の政治的安定を強く 期待したのであるが, 吉富簡一と鴻 城立憲政党の政治活動は, 客観的にはみごとにその期待に応えたのであ った, しかし山口県の農民層が最初から政府支持の態度をとっていたわけではない, 地租改正において ) し, また地租改 正の結果つ は, 独自の地価算定案を提起して県当局の方針 と対立したのであった1 くりだされた地租引 当米制度--防長協同会社に対し, 戸長層が妥協し, 連携を深めていった時に は, これにはげしく反対して戸長層を糾弾し, ついに地租 引当米制度を撤廃せしめ, 防長協同会社 ) そして一部の農民は, 自由民権思想 を受容し, 有司専 を変質させる ことに成功したのであ った2 . ) 制政府を非難しつつ国 会開設を要求するに至 った3 , この時木戸孝允, 井上馨の委嘱を受けて帰県した吉富簡一は, 中央政治家, 実業家としての 将来 を捨て, ひたすら山口県の政治 的安定の実現のための奔走したのであった. この努力は, 数年後に 反民権政社-- 鴨城立憲政党の結成となっ て実を結び, 自由党・立憲改進党の影 響を県内から排除 す る こ と に な っ た.. ここで問題になるのは, 一 時はげしく県政反対闘争を闘った山口県の農民が, 自由民権運動に参 加しなか ったばかりか, むしろそれと対 立的立場にある吉富簡一の政治路線に ひきずられてい ,っ た 治情勢に視点 一 76~77年前後の政 のは, 何故かという ことである, そこでまず吉富簡 が帰県し た18 を据えて, 問題を掘り下げてゆきたい, 0 2号) 1 ) 拙稿「山口県における地租改正」 (『歴史学研究』3 1号) ) 拙稿 「地租金納化をめぐる山口県民の動向」 (『史潮』9 2 1号所載, および本稿第1章第2節 ) 前掲拙稿 『史潮』9 3 なお使用した史料は, 山口県文書館所蔵文書, 吉富家所蔵文書, 山口大学図書館 農学部分館所蔵 林家文書および本間家文書, 国立国会図書館憲政資料室所蔵井上馨文 書, 三井文庫所蔵文書などに 拠 った, 快く閲覧を許された関係各位に厚く御礼申しあげたい, とくに山口県文書館の石川卓美先 生, 広田陽久氏, 利岡俊昭氏には, 公私ともに御世話に なった. またもはや本稿を御批評頂くこと もできなくなった故吉富三郎氏の御冥福を心から祈り たい. さらに吉富家所蔵文書閲覧のさい, 炎 暑にもかかわらず貴重な日々をさいて下さっ た都留文科大学講師松永昌三氏の 御好意ならびに公私 両面にわたる御指導にも感 謝したい, なお本稿は, 東京教育大学に提出 した修士論文の一部であり, 同大学助教授津田秀夫 先生, 北海 道大学助 教授田中彰先生の御指導を受けた. また本稿の一部は, 「反民権派豪農の政治路線」 と題 し, 196 7年度北海道教育大学史学会大会において報告した,. - i8 ー.

(6) . 鴻城立憲政党の成立過程 (その1). 第1章 第1節. 吉富簡一の政治思想 幕末・維新期の吉富簡一. ) について触れておきたい 最初に本稿の分析対象である 吉富簡一の経歴1 , 吉富簡一は, 天保9 ( 1 ) 年1月19日長州藩山口宰判 (周防国吉敷郡北半部) 矢原 村 (現 在 838 山口市湯田) に生れた, 吉富家は, 中世に吉敷部の吉田保および恒富保を領した土豪の子孫である と伝えられ, 大内氏 の被官をへて毛利氏の支配下 に帰農し 代々庄屋 大庄屋をつとめてきた家で , , ) あ る2 ,. ) は 郷学講習堂4 ) の建設など 「地の利便を開き人の窮乏に施 す 等 の 美 簡一の祖父藤兵衛篤久3 , )を行って藩より褒賞され 「永刀・永苗・永大庄屋格・身柄一代勧農大庄屋・郡 奉 行 直 支 事」5 , 配」 の待遇を得た, また 「中国四国九州各藩ノ民政取調御用」 も命じられている6 ) , 7 ) 吉富家は, 幕末に約26町歩余の田地を所有し , また 「三千俵の大家 調米を収むる大豪農」8 )で あったといわれている. 現在吉富家には経営関係史料が残 っていない9 ) ので ま ったく推測の城を , 出ないのであるが, 天保2 ( 1831 ) 年の防長大一撲の際, 吉富家が農民の打ちこわし の対象になっ 0 )それは前述 の如き藩政と結びついた 「大豪農」 的存在であ たことと何らかのかかわり たこと,1 っ ・ をもっていると考えら れることのみ指摘し ておきたい 祖父藤兵衛は 右の打ちこわしの十数日後 , , 1 )が 家督を嗣いだ父 惣右衛門は 嘉永7 ( 2 に死去する1 )したため 当時1 1854 ) 年に至り発狂1 7才で , , , 3 あった簡一 (幼名美之助) が, 家を嗣ぎ, 藤兵衛篤敬と名のった1 ) , 元治元 ( 186 ) 年3月, 簡一は馬関壌夷費として藩 札8 4 5貫目を献納した, それに対する褒賞と思 4 この われるが, 同年8月 「永代士籍」 に編入され, 知行米12石5斗を受ける身分となっている1 ) , 頃より彼は, 対外的危機と尊嬢運 動の昂揚を一身に受けとめ 資金援助を行うだけでなく 自ら志 , , 士として 行動しはじめ ている ,. この頃安政改 革の立役者麻田公輔 (周布政之輔) が 吉富邸の別棟に起居しており 第一次長州 , , 征伐前後の麻田の国事周旋活動にあたっては, つねに簡一が随行している なお同年9月25日 麻 , . 田は吉富邸で自殺した, また同年6月 滞英中の井上馨, 伊藤博文が, 四国連合艦隊の 馬関攻撃準備の報を聞き急拠帰国す るが, 簡一は井上の説得を受け ていち早く尊王擬 夷の主張をひろがえし のちの武力討幕派への道 , をふ み だ し て い る,. 「井上家ト吉富家. ・数代交際の旧誼アリ特ニ聞多 氏 (馨) ト簡一トハ寺小屋ノ友情アルラ以 テ 、 5 ’ 井上氏ノ ・切ニ簡「ニ語ルニ外国ノ形勢制度文物ヲ以テセラル是二於テ 簡一も亦大二悟ル所アリ」1 簡一は, 以後井上馨の片腕として活躍するのであるが, 両者の交誼は 終生変わること が な か っ た, 井上家は, 矢原村に接する下宇野令湯田にあり, その郷土的性格については 奈良本辰也氏の , 6 ) 井上は 幼時山口講習堂 に 学 ん で お 郷土=中農層論の提起以来, しばしば問題となっている1 . , り, 闇一もまたそこに学び, 両者の 「寺小屋ノ友情」 が生れたのではないだろうか また湯田の井 , 上邸の近傍に吉富家の別荘 (湯田は温泉地) があり,志士の連絡場所,宿泊所として使用されたと云 7 ) 元治2(1 86 5)年1月 の高杉晋作の馬関挙兵にはじまる元治の内乱に際しては,簡一は高杉の秘密 う1 . 連絡を受けて直ちに呼応し,附近の豪農とともに鴨城軍を組織し,閉門謹慎中の井上馨を担ぎ出して 総督に推した,また自らは参謀兼会計長として実戦指揮および資金,糧珠の確保に奔走している と , くに萩方面から来襲した藩の正規軍が藩主世子を擁していたため, 戦闘を回避し自裁を図ろうとす る井上馨を逆に叱唯し, 「我々ハ室モ天地二億 ヅル所ナシ”-・ ・固ヨリ事成ラザレバ国威 ト呼バルル ー 19 -.

(7) . 田. 村. 貞. 雄. ラモ辞セズ」 と叫んで夜襲を敢行しで大勝利を収め, 討幕派政権樹立の原動力となった の で あ っ 8 ) 鴨城軍はその後も山口に駐屯したが 「簡ーノ ・家事担当者ナキ為メ他日事アルノ日 再ピ起ツ た1 , , 1 9 ) ベキ旨ヲ約シ同年六月 家二帰ル」 事になった, 兄弟がなかっ たため, 彼が 「家事担当者」 の責を 放棄できない事情が, その後も彼の行動を制約しているのである, 1866 ) 年の第2 次征長の役に際し, 彼はふたたび鴇城軍を率いて起ち, 芸州口において 慶応2 ( 2 ) 戊辰戦争における彼の転戦については不明である 幕府軍と戦 った0 , , 1 )に際しては 反乱軍が占領した 山口から, 木戸孝允とともに 18 ) 年1月, 脱隊騒動2 明治3 ( 70 , かろうじて脱出し, 馬関より援軍をひきいて帰り, 小郡方面で反乱軍を破り, 山口回復に大きな役 割を果した. 脱隊騒動は諸隊解散に対する兵士の不満が爆発したもので, 禄制改革により切り捨て られる下士, 陪臣層の不満, 旧熊 依然たる藩政に対する農民の不満が結合し て拡大し, 各地に反乱 軍が進出し, 一撲は農民 一綾とも結合している, 幕末期に討幕派の基盤をなした小郡 地方の庄屋層 は, 反乱軍に味方せず, その農兵隊はかえ っ て藩政府側に立ったのである, 吉富もまた反乱 軍鎮圧 に活躍しており, 豪農層が新政府 支持であっ たことを示している, 反乱軍鎮圧で木戸孝允に認められた吉富は, 同年5月 上京して官途に就いた, 小菅県聴訟断獄社 寄課主任, 大蔵省営繕寮大属というのが 彼の官歴である, いずれも下級吏僚に過ぎない, 戊辰戦争 における武功のない事がその原因であろう. しかし彼の才腕を認めた木戸は, 岩倉遣外使節団 一行 の出発にあたり, 吉富の随行を斡旋している. 政府官僚としての立身が期待されていた の で あ ろ . ところが, 廃藩置県に付随して行われた藩債処分の結果, 吉富家の家計危機が生まれた, すなわ ち, 藩債処分により従来の藩に対する債権が取消され, 「殆ソ ド家名滅亡ノ境遇二迫り困 難ヲ極メ 2 )という大打撃を受けたのである. 取消された債権は, 合計5,141石3斗2升4 才 に の ぼ る 巨 リ」2 7俵) にのぼっ ていた, 吉富家は, 幕末に 02石8斗2升6合4勺 (約25 額なもので, 年利だけで 1 約26町歩の田地を所有していたことは, 先述したが, その小作料収入も少くないとは云え, 藩債利 子だけでも上に見るように巨額なものである, これまた推測の域を出ないのであるが, 幕末期にお いては, 田地拡大に経営上の 関心が払われたのではなく, むしろ藩政への密着に主力が注が れてき たのではあるまいか. そこに藩債処分による大打撃の原因があったのであろう, 辱 :ズ木戸氏/随行ヲ辞シ」 帰県した, と痛恨を 彼はこの時の事情を 「頻ニ帰県ヲ促シ来り止ムラマ こめて記している, ここでも 「家事担当者」 という個人的事情が彼の行動を制約しているのである 3 ) た ん にそ れだけ で は説 明 で き ないも の がある が2 . ,. 大蔵省時代に彼は大蔵大輔の井上馨の命に より, 官僚機構の整備に尽力してい るが, 「御維新後 更二公義不相立弊風 無限彼処 (営繕司 --‐田村) 井上君ヨリモ官員正邪其他改革仕様御授有之拝命 ・紙上二難申上御察奉願依 而 先ッ司中廉 ・成モ相分弊習廉々ノ 後多少之苦心大凡司中之次第官員中人与 2 4 ) 潔之者へ心事ヲ明シ穴ヲ 探, 司中細 ,勝ヨリ諸改正二取掛度手組辻居候」 とその状況を木戸に知ら せている. その書翰のなかで彼は, 前年購入した15万両担当の材木が散乱したままになっ ている事 件などをあげながら, 「弊風」 の改正の必要を論 じている, この 「弊風」 は 「営繕寮而巳二不眼各司と雌も不始末有勝」 なのであり, 「爾後政府ヨリ御厳求 ・尤モ厳密二不相立テハート度ガタッ 被相発候様無之テハ自然 引締モ付キ申間敷郡県二帰シタル上ノ 2 )と廃藩置県後の集権的な官庁機構の確立の 必要を力説している,だが,彼の ・大崩瓦壊」 5 キタル時ノ 主たる関心 は, 官僚としての立身にはなかったようである. たとえば, 家計再建のため帰県した 後も, 井上馨らからしばi ノば出京を促されていた の で あ る - 20 -.

(8) . 鴻城立憲政党の成立過程 (その1) が, その頃の心境は次の周布公平宛の書翰によくあらわれている, 「昨冬帰県後頻り二東京諸官ヨリ出京被相催, 返答二困窮, 全ク鴨城ニテ山水ヲ薬心ハ墓モ無之 ・十六七計此方随分時勢之為ニ大金ヲ費シ, 無早暁 ト無頼生ニテハ不相済間一二帰 一 候得共, 簡ノ 家之経済タル目途不相立, 豚児等之教育之道相企不申テハ人ノ咲ヲ招クニ至ルト昨年ムチャクチ ヤニ大蔵省江 表辞帰県愚ヲ守り諸始末最中ニ御坐候, 今日ノ屈ノ 、他日ノ為ス 所アラソ トス ル尺嬢 虫気取ニ御座候, 御笑可被下候, 小生ハ御承領之通官吏 トナリ名利杯ヲ欲ス ル心底ハ無頭無御座 候, 井上大輔殿より類二上京被相促相断候辞モ無之閉口仕候……不肖之簡諸君ノ御懇情身二溢し 候得共遊歴仕官杯之意も無頭無御座候……木参君 (参議木戸孝允のこと--田村) 御帰朝二相成 ・出京欧州開 化之噺モ拝聴 簡一力万国二卓立タル究理モート蹴合仕見度, 例之暴言御一笑々 候ハノ 々, 木参殿ニモ米国大統領其外へ御対話アラハ大日本ニハ簡一天狗アリ真ノ理学ヲ致度思ハハ我 6 ) 朝へ来り数ヲ受候様御伝へ御下候様申越置候」2 このように藩債処分による家計の経営が大きなきっ かけであったとは云え, 短い官吏生活ではあ ったが, 「官吏 トナリ名利杯ヲ欲スル心底」 は全く消失しており, 米国大統領云々の大言壮語にみ られるように, 官吏以外の自由な立場を希求し, その不満もあって- -時帰県したとも考えら れる, この 時 期 の 彼 の 思想的立場は, 書翰類に散見する言辞から推測するしかないが 木戸 井上に近 , , い漸進主義的な開化論を抱懐していたようである, たとえば, 「不開化之国ニハ権勢強キ種族アレハ其国ニテ立ツル所ノ数ノ ・大抵其強キ種族ノ利益 ヲ本 トシテ造り出スル気味難免 ト愚考仕候, 我国モ昨今年迄ニテ稲ャ西洋ノ事情ヲ酌ソテ方向ヲ相 換候 トハ乍申未タ欽タル内ニモ種族強キ人ノ利益ヲ本 トスル事極メテ多ク, 天下二先立者′ ・己し欲 スル所ノ観楽ヲ次二為ササルヘカラサルノ親切心無御座テハ政府之万民二貫徹ノ期ナカランカト愚 考仕候, 御解績後不漁此愚不相離被相伺候日々人智モ昔日之比 ニアラス漸次自由之権利ヲ与フル方 7 )と漸進論ではあるが 開 針ニハ政府不被相向ラハ日ヲ追テ物議嵩 然ニ至ランヤ ト深ク掛念仕候」2 , 明的な意見を述べている, また井上馨が柳橋の芸妓を囲 ったことについて, 「木戸, 伊藤両君外国行之御留守君御一人ニシ テ人ノ知ラザル御苦心加之廃藩 置県之当座人心末タ不穏大蔵省ノ大任不一方秋二於テ則チ俗 .嚇ヲ招 カ如キ挙動アルハ識者ノ閣下ニシテ何事ソヤ」 とその軽卒さを責め, また蓄妾についても 「男女之 権利同不体裁之説等ノ ・福沢諭吉先生之著述書二瞭ナリ」 と福沢の説をもちだして批判し, 「自主自 由権 モ 我 侭 ノ自 主 自 由ニ 出 テ テ ハ … … 人 ニ ハ 魂 ア リ 必 ス ヤ 心 中 二 服 セ ス 信 ヲ 置 ス ツ テ 云 々 ス ル ハ 掲 8 ) 矩 如 観」 と 述 べ て い る2 ,. 彼の云う〆 「自主自由権」 がどこまで彼の思想の血肉と 化していたかは問題であるが, 1872~73年 頃には木戸・井上・大隈重信らが, 「洋化派」 として政府部内にあって漸進主義的な政治路線をと っていたことを考えあわせるならば, 吉富の思想もとくに反政府的な言論であったことは云えない かも知れない, 事実彼は, 木戸・伊藤らの外遊中の留守政府に対しては, 「井上大蔵大輔一人御尽 9 )と 必死に 「洋化派」 を声援しているの である 力……正院 ニハ大隈参議殿一人也」2 , , 18 73(明治6) 年5月, 彼が頼みとした井上馨は予算問題をめぐる紛議をきっかけに大蔵大輔を 辞任するが, それはたんに財政における対立だけでなく, 留守政府内部の政治的, 藩閥的対立もか らんでいた, この報を聞いた吉富は, 宮内大輔となった長州系の杉孫七郎に次のように 述 べ て い る.. 「ロニハ公議ヲ云々セラルルモ兎角私権ノ争二陥り時々政府ノ渋難二至り候御察是二仰ク, 愛二 至ルモ立君独裁ノ様一弊ナラソ我国 ト欧米国 トハ同日二論シラ レサルコ ト三尺ノ童子モ所知也 乍 - 21 -.

(9) . 田. 村. 貞. 雄. 併君民ノ権利真二不立ハ往々時々刻々言争ノ絶間ナキ事トス乍軍事奉察候, 世間ヲ押テ御洞察申 上候ルモ疎也難申上事ナカラ国民政府二信用ヲ置力サル事無限素ヨリ今日之人民之冥頑ヨリ起ル トハ乍申政府二於テモ形ノミ郡県ニテ其実ヤ君民同治トモ立君専制トモ貴族政事 トモー向名ヲ難 0 ) ・甚々頭痛罷在候」3 下今日故真ニ憂国者ノ 以上のように吉富は, 「立君独裁」 を批判し, 「君民ノ権利」 の確立を求めていた, 彼の理想と する政体は, この段階では, やはり 「君民同治」 であ ったのであろう が, その具体的内容は明きら かではない, さて帰県中の吉富の政治思想について若干ふれたのであるが, 井上の辞職は彼自身にも大きな変 化 を も た ら し た の で あ っ た,. すなわち井上は岡田平蔵とともに鉱山経営, 米穀取引にのりだしたのである が, その際吉富家に も参加を要請してきたのである. 彼は一日その要請を断ったようであるが, 井上がもと 部下である 山口県権令中野梧一と交渉して, 同県の地租米の大量買付にのりだした時, 吉富はその斡旋の役目 を受け持っ ている. 中野は地租改正が早く終了したにもかかわらず, 井上の要請により金納制への 移行を延期し, 地租引当米制度という事実上の米納制を農民に押しつけたのであった. 1 ) 18 74年初頭, 井上の協力者であっ た岡田平蔵が死去したため, 新たに先収会社が創 立された3 . この時吉富は井上の強い懇望によ っ て大阪支店頭取に就任し, 山口県をはじめ 各県からの 米 穀 買 入れ,堂島米市場における投機,秩禄公債の買収などのめざましい活躍をはじめた, 「尺蟻虫」 はい よいよ全身を一 杯に伸ばして前進を開始したのである, 先収会社は, 大阪における新興資本の代表的存在にのしあがっ ていっ たから, 吉富の実業家とし ての手腕は, 相当高く評価できよう, 彼は幕末期あるいに明治初年の軍事的活動によっ て, 出身地 の矢原村にち なみ, 長州間内部では矢原将軍と呼ばれていたが, 先収会社時代にはその名 声は一段 と 高 く な っ た よ う で あ る.. また18 75年初頭には木戸孝允, 板垣退助, 大久保利通の三者が大阪に会したいわゆる大阪会議が 行われたが, それを周旋した井上馨, 伊藤博文を助けて奔走したことは, ふたたび彼に飛躍の機会 を与えたのである, し か し, 山 口 県 の 情 勢 は こ の 頃 よ り に わ か に 混 沌 と し て き た,. 一つは無気味に沈黙をつづける前原一誠ら不平士族の動向である, これは, 18 74年の佐賀の乱 以 来積極的な懐柔策がと られてきたため士族層全体から孤立しつつあったので看過できるとしても, 全県的規模で拠大しつつあった農民の地租引当米制度反対闘争は, 当局者にとっ て最大の脅威とな っ た,. 地租引当米制 度は, 農民から地租を現米で納入せしめ, それを石代相場で売却 し, 地租を一括納 入させるとともに, 残余をことごとく農民に還元しようとするもので, 18 73年度は, 県の勧業局が 2 )で検討したよ 扱い, 翌74年度以後は新たに創設された防長協同会社が取扱っていた, しかし別稿3 うに, 農民から1石あたり3円という低価で米を徴収しつつ, 売却にあた っては士族 の給禄米の確 保と, 井上・吉富の経営する先収会社への安価引渡が行われ, そこで得た利益金 から, 地租改正費 が偽 臓的に差引かれたり, 積金と称して会社の資本金に繰入られたり, さらに各大区・小区の経費 として適宜差引かれるなど事実上の収奪が行われ, 実際に農民の手元に還元された金額は, きわめ て僅少であった, 農民が地租取引当米制度の廃止と, 金納の即時実施を要求したのは, 当然のことであった, 第5大区 (旧上ノ関宰判, 熊毛郡) 田布施諸村の農民は, 国光幸兵衛らに率いられて反対闘争の - 22 -.

(10) . 鴻城立憲政党の成立過程 (その1) 3 ) これに対して県 当局は, 大区・小区における経費繰込みを禁じて 対処した 火ぶたを切 っている3 , が, 第1 9大区 (旧先大津宰判, 大津郡) 日置諸村, 向津具諸村の農民は, 町野周吉, 入江辰吉らに 4 問題は 大・小区の財政に対する糾弾 3 率いられ, 民費の精算, 諸帳簿の公開 を要求して立っ た ) , , 同戦線を張り 町野らは共 のちに国光 たのである に発展していっ , 大阪上等裁判所に訴えるため , , 上阪したが, あとを追った捕吏によって大阪の宿舎で逮捕, 護送され目的を果す ことができなかっ 5 ) た3 ,. 一方これをきっ かけに県内各地で区戸長と農民との間に引当米利益の 割戻金をめぐって紛争が激 2, 第4大区 化し, 協同会社 廃止論が高ま っ てきた. とくに第1大区 (旧大島宰判, 大島郡), 第, (旧岩国藩 領, 玖珂郡), 第5大区 (旧上ノ関宰判, 熊毛郡) のような周防南 部の瀬戸内海沿岸地 6 3 ) 帯において, 区戸長糾弾闘争が高まりを見せているのである . またこれと平行して, 第2大区 (旧岩国藩領, 玖珂郡) 車村, 向今津村の農民 は, 地租改正は自 分たち の預り知ら ぬことであり, 県庁係官と区戸長の 共謀によって 「空二御改正」 「官ノ狼決」 が 3 7 ) 行われたとして, ついに上京して地租改正 事務局に改正の実施を訴えるに 至った , 反対闘争の 高揚につい ては, 次の新聞報道がある, 「地租上納はお 定め通り地価 百分の三を上納いたし, 別に県区村費を出せば済む こと と 思 ひ し に, 一昨七 年に引当繋ぎと名付け, 地価百円に付き現米一石づつ を上納いたすべしと命 ぜられた り, 一昨年は地租取り調べの半ばゆへ, 左もあるべき事なれども, 最はや地券の調べ も 済 た れ は, 八 年分は金納と思ひしに, 矢はり引当繋ぎを取り納め, 山口協同会社と云ふを取り建て, 農 民より納む る所の米を引受け, 機に臨み売り 払ひ, 縦令ば 一石を六円づつ売るときは三 円の余分 . あり, 其外米価の高下に従ひ, 百分の三を引去り人民へ割戻すと云う 趣意なり, 然るに七年分の 割り戻し金も 無きゆへ, 県庁よりは疾 に下げ渡しになり たれども, 会議所 (各大区役 所 の こ と --田村) で引留め置 き, 割戻さぬと云ふ風説あり て, 兎角に人気も穏やかならず, 会議所 は管内に二十一ヶ所あり, 区戸長が出張して事務を取り扱ふなり, 協同会社は山口に本社が ありて, 赤間関に分社あり (人も頼まぬ に入らざる御心配だなどと云 8 ) ふ 者 も あり) . 」 3. 9 3 ) 「協同会社の事は甚だ喋が しく, 大山の崩るるが如くなりし. 」 「各区々長は士族ばかり, 平民相半せば人民の幸福ならんと云ふもの多し, 戸長は従前の庄屋多. きに居て卑屈極る. 士族相斑せば事務自ら振起せんとの説多し, (中 略). ,. 十九大区の 一榛 は処分済みになり, 畢寛戸長の引負を小民へ被らせたるより起りしよし, 三大区 (旧岩国藩領および旧奥山代宰判, 玖珂郡山間部の製紙地帯--田村) の一榛は処分最 中, 是は某氏が己れ の戸長に撰まれざる私憤を散ぜんとせしに発りしものならんとの 風説, 余は 0 ) 追々 に. 」 4. 「区戸長が因循ゆえ人民も頑固 なり, 此ごろ従前の総 戸長を廃し, 新たに副戸長を命 ぜ ら れ た 4 1 ) り, 二大区にては地租改正の事に付き総代を出京させて歎願するとの説あり, 」 地租引当米制度に対する農民の不満が爆発し, この制度と妥協した戸長の糾弾, 民費の精算を要 求する闘争の全県的拡 大におどろいた県 当局は,.一方では先鋭化した部分を弾圧するとともに, 他 方では偽嘱, 懐柔策 の採用をせまられたのである, 県当局は, かねて吉富簡一の帰県, 協同会社々 長への就任を懇請していたが, 吉富は これをかたくなに 拒否していた, 吉富 こそ農民の闘争に対処 しうる最適の人物と目されたのであろう, - 23 一.

(11) . 田. 村. 貞. 雄. ところが, 先収会社 が井上の政府復帰により解社を決定する や, 吉富の処遇問題が長州閥内で活 2 ) および 発に論議されはじめた. 先収会社は, 三井組国産方との合併による 三井物産会社の創立4 , 3 )によって その短い歴史を 大阪支店の藤田伝三郎, もと山口県令中野梧一らによる藤田組の創立4 , 閉じるのであるが, 会社幹部のうち吉富だけは, 木戸, 井上らの強い要望によ って帰県するのであ る, 吉 富はこう して1876年夏, 山口県に帰り, しだい に反政府的立場を強めてきた農民闘争によ り解体の危機にある山口県政に介入し, 県政の再建と反政府闘争への対処を急いだ . 本稿が対象とする吉富簡一の政治活動は, 彼の帰郷直後からはじま っている . 1) 吉富簡一の経歴については, 彼自ら記した 「吉富家系図」 「吉富簡一履歴」 (共に活刷) があるが 入手し ,. 難い, なお田中彰, 田村貞雄「吉富簡一 『団結之主旨其他』」 (『史潮』6 8’7 0号), 江村栄「 田村貞雄 「吉富簡一と山際七司」 (読売新聞社刊 『人物・日本の歴史』 第目巻) を参照されたい .. 2 ) 前掲「吉富家系図」 3 ) 吉田祥朔氏著 『近世防長人名辞典』 によれば, 前名惣右衛門. 惣右衛門, 藤兵衛は, 吉富家代々の当主の名 で あ る.. 4 ) 上田鳳陽 (茂右術門) が郷党有志の支援により建てた山口講堂, 文化1 ) 年竣功, 弘化2 ( 2( 1 8 1 5 1 8 4 5 )年 講習堂と改称, 叉久3 ( i 6 3 8 ) 年山口明倫館と改称, 『山口市史』 通史篤参照, 5) 吉田祥朔氏前掲書, 271頁,. 6 ) 「吉富家系図」 7 ) 「防長田畠拾丁余所持之名前」 (安倍家文書) 8 ) 『防長新聞六十年史』1頁, 9 ) 吉富家文書は, 現在簡一の孫にあたる吉富勝子氏宅に保管されているが, 書翰類がほとんどである な お .. 『松菊木戸伝』 『木戸孝允関係文書』 『世外井上公伝』 に散見する「吉富家文書」は, この書翰類を原本とす るものである,. lo ) 近藤清石著 『草舎年表』 巻9, 天保2年8月2日条, 11) 天保2年8月21日死去. ー深の19日後,. 1 2 ) 「吉富簡一履歴」,なお惣右衛門は文久2 ( f 8 6 2 ) 年死去, 妻政は, 簡一を生んだ翌天保l 3 9 o( 1 8 ) 年死去, 13). 「簡ー初メノ名ノ・美之助ト云ヒ家督ヲ相続スルニ及ヒ祖父ノ名ヲ継ギ藤兵鋒朴 称シ, 明治三年三月更ニ簡一. ト改ム, 号ノ『生花楼叉ノ、静思ト云ヒ, 後ニ薬水ト称ス」 (「吉富簡一履歴」). 1 4 ) 「吉富家系図」 i 5 ) 「吉富簡一履歴」 1 6 ) 奈良本辰也氏著 『改訂増補近世封建社会史論』 1 7). 『山口市史』 地区篇25 7頁,. 1 8 ) 「吉富簡一履歴」 なお「鴻城軍人員帳」 (下関市郷土会 『郷土』 第l o集付録) によれば, 鴻城軍は3 7 0名で諸隊中最多であり, また 「米銀掛兼書記. 吉野雪麿」 の名がある, 「吉富簡一履歴」 によれば, この時吉野雪之輔と変名したとあ るから, これが簡一であろう, なお鴻城軍総督は井上馨, 総管森清蔵, 野村靖, 軍監河上彦斎である ,. 1 9 ) 「吉富簡一履歴」 20 ) 鴻城軍の芸州口における戦闘については, 『坂上村史』 参照,. 1 2 ) 田中彰氏 「明治絶対主義成立の一過程」 (『歴史評論』7 5号) 2 2 ) 「吉富簡一履歴」 23 ) 簡一の孫婿にあたる故吉富三郎氏は, 晩年の簡一がしばしば 「自分に田畑がなかったらよかった」 と述懐し ていたと私に語られ た こうした事情が, 中央政治家,・官僚への立身出世を妨げた, と簡一が考えていたと思 われる, また簡一が中央が活躍するかっての同志に強い羨望の念をもちつづけていたこともそのことを裏付け てはいる,しかし彼自身官吏生活を嫌悪していたのではなかっただろうか.やはり豪農・豪商としての生活環境. - 24 -.

(12) . 鴻城立憲政党の成立過程 (そのf) や, 彼自身の資質が, 実業家や地方政治家としての道を選ばせたのではあるまいか, 4 ) 木戸孝允宛吉富簡ー書翰明治4 ( 2 f 8 70 年4月2日付,. 5 ) 2 2 6 ) 2 ) 7 2 8 ). 木戸孝允宛吉富簡ー書翰明治4 ( T 1 ) 年3月2 8 7 0日付, 周布公平宛吉富簡ー書翰明治5 ( ) 1 8 2 年3月1 8日付, 7 木戸孝允宛吉富簡ー書翰1 8 7 3(明治6) 年3月付, 井上馨宛吉富簡÷書翰明治5 ( i 8 7 2 ) 年9月 (下旬) 付.. 29 ) 26)に同じ,. 3 0 ) 杉孫七郎宛吉富簡ー書翰1 5日付, 8 3年6月1 7 3 1 ) 先収会社については, 岩崎宏之氏「政商保護政策の成立」 (『三井文庫論叢』 創刊号), 拙稿「政商資本成 立の一過程」 (『史流』第9号) は拙稿「地租金納化をめぐる山口県民の動向」 (『史潮』9 3 2 ) 詳しくに 1号) 3 3 ) 「県庁大会議一巻並協同会社会議」 3 4 ) 「地租金引当米及勧業局協同会社瓢末」 3 5 ) 「山口県石代米不正之件」 3 6 ) 吉富簡一「噛語」 (田中彰, 田村貞雄「吉富簡一 『団結之主旨其他』」 (『史潮』6 8号)) 3 7 ) 「中外新聞」 2号 (明治9年8月),2 8号 (同年同月), 「評論新聞」1 3 号 ( 0 同年6月), いずれも青木 文庫 『自由民権思想 (上)』 所収 3 8 ) 「東京日日新聞」 明治9年1月2 0日付 (『新聞集成明治編年史』新聞類は注記しない限り同書による), 3 9 ) 「東京日日新聞」 明治9年3月1 2日付,. 4 0 ) 4 1 ) 4 2 ) 4 3 ). 「朝野新聞」明治9年5月2 0日付, 「東京日日新聞」明治9年7月3日付, 岩崎氏前掲論文. 前掲 『史流』 所載拙稿. 「藤田組一件欝末」 第2節. 自由民権者論との論 争. 吉富は, 1 8 77年春より活発な政治活動を開始するが, おりしも西南戦争の勃発によっ て政治情勢 は緊迫していた, 県内においても, 萩の乱は鎮 圧されたが, 茨城, 三重などの地租改正反対. 一棲に よって政府が地租民費減額令を公布した直後でもあり, それに激励されて農民の反対闘争はふたた び 高 昂 し て い た,. 前年8月 協同会社臨時会議は, 地租引当米制度の改正を決議し, 金納・米納いずれも農民の自由 ) また 意志に委ねたのであっ た, その結果, 同年度の引当米は, 約2 割 5 分 に 急 減 し た の で あ る1 . 農民は, 73年以来の民費の精 算と, 協同会社の即時廃止を要求していた, ) は金納を要求 L 0月 に開かれた協同会社第3同会議では, 代議人のうち 「十二六七」2 1 , 協同 会社廃止を主張した. しかし会社幹部の必死の説得により, 協同会社の存続, 創立主旨の再確認を 決議するとともに, 引当米制度の存廃については, 77年の第4 回 会 議 に も ち こ さ れ る こ と に な っ ) 第 4 回会議は はじめて代議員が 公選で選ばれることとな たので 農民の主張がそのまま た3 っ , , , 多数で可決される見通しが生まれていた, 第4回会議こそが, 県政の大転換をもたらす画期的なも の に な る 可 能 性 が 強 く な っ て き た の で あ る.. 第4回会議をめざして県民の闘争はますます激化していた, 77年初頭第5大区(旧上ノ関審判,熊毛 郡)の田布施諸村の農民は,組識を全郡に拡大しつつ,引当米による不当収奪の全面的返還をかかげ, ) そして 第1 の総額を19, 2円1 516 8銭2毛としている4 9大区(旧先大津宰判, 大津郡)の日置, ,02 , . ) 向津具諸村の農民との連携を樹立し, 前述の如く大阪上等裁判所と訴えよう としたのである5 , また第4大区 (旧岩国藩領, 玖珂郡) では次のような事件も起っ ている, - 25 -.

(13) . 田. 村. 貞. 雄. 「本県第4大区7小区伊陸村杉村文一は同小区の戸長役を勤られしに地下 算用帳簿とかの事にて ) 人民より苦情を云ひ立られ心痛の折柄不図取逆せ去月 三十日自殺せられし由」6 これによ っても, この時期の農民闘争の激しさが裏書きされるであろう. さて77年3月 上旬のことと思われるが, 吉富宅に数人の来客があった. そのなかには同じ矢原村 の藤村淳一や隣の朝倉村の美禰竜彦の姿もあった, いずれも近在の豪農である. この日吉富と来客の間では, はげしい論争が行われ, 「終日国事談二及フ終二議論紛々」 という ) 有 様 で あ っ た, 7. その論点はおよそ次の 5 つの点であった, 1 ) 有司檀制と国憲の不確定をめぐって ( ( 2 ) 有司の可謬性と政党の必要性をめぐ っ て 3 ) 政府の権限と人民の権利 ( 6 ) 政府部内の対立について ( 6 ) 地租民費減額令について (. この論争は, その後も書翰交換, 女書頒布の形で続行されており, それらに基づき論争の内容を さ ぐ っ て み た い.. i ) 有司檀制と国憲の不確定をめぐ って ( まず藤村らは, 「自今ノ施政二付キ不服ナッ ト難モ政府ノ基綱君民同治カ叉ノ ・君主定権力確トシ タ ル 主 憲 ナ キ ハ 服 底 シ カ タ シ」 と 吉 富 に つ め 寄 っ て い る. 「自 今 ノ 施 政 二 付 キ 不 服 ナ シ」 と い う の. は, 言葉通りに受取るならば, 明治政府の政策への同意も示したものであるが, それは一つの言葉 のあやであっ て, 真意は現在の政体に対す る根本的批 判にあ ったのである. これに対して吉富は, 「順序ヲ以テ論スレハ国憲判然セサル処 ナシト難言シ併シナガラ明治ノ政 体全ク専政 ニアラザレハ施政上ニサ人々ノ明知スル処」 と強弁し, さらに国憲未確定の 理 由 と し て, 「土民一般頑晒ヲ脱セサル而己ナラズ或ハ不軌陰謀等ヲ企テ其隙ヲ窺フノ党砂トセス」 と, 人 民不開化と反政府分子の存在をあげ, やむを得ず行政・立法・司法の三権を合一 しているのだ, と 反論した, こ の 論 理 の 顛 倒 に 対 し て, も と よ り 藤 村 ら は 承 服 し な か っ た, 藤 村 は, 「第 一 国 権 ヲ 設 ク ル ノ 原 因ノ・衆 庶 ノ 自 由 ヲ 靖 寧 シ 且 ッ 開 進 セ シ ム ル ニ ア ラ ソ」 と 国 家 と. 人民の自由の関係を提示し、 欧米各国においても, 人民の開明度・賢愚と国憲確定とは無関係であ るとし, 人民の不開化を理由として国憲を確定しないのは, 「畢覚私心ヲ厳飾スルノ遁辞」 とし, 「因テ政体二名ナキハ政府有司ノ 私心 トカ言ハソ叉ハ目微ノ甚シキ トカ言ハソ其所以ノ ・暴君暴官ヲ 出シ時ハ檀 二之ヲ施行スルノ例鯵トセス」 と政府有司の私心, 目倣をきびしく批判している, また美禰は, 吉富が国家不確 定の現 状を認めたとことは 「一歩勧メタルノ解」 と評価しつつも, 吉富の主張は, 「順序判然セズ」 とその論理的な顛倒を衝いている, ・弁ヲ俊タザルナラソ」 と国憲不確定の理由を 「土 「何 トナレバ政府ア ッ テ立憲ナキ事ヲ得ザルノ , 民一般頑匝」 に帰すことは承服できないとし, 結局有司の専制が続けられるならば, 「官員事ヲ議 スレバ如何程ノ虚心平気ノ人タリ ト難モ只官ノ都合而己ヲ第一 項二謀ルハ昔日モ今モ此点ヲ免レガ タク事明ナリ」 と痛烈に批判している. そして 「政府三大権等合一 ト成ツ国民参与ノ権ヲ許サスシ テ 何 ゾ 政 体 判 然 ト言 レ ソ ヤ」 と 断 じ て い る の で あ る,. ここで問題は, 国憲不確定にもかかわらず, 明治政府の施政の妥当性を説く吉富と, 有司の無謬 性の不可能を主張する藤村らとの対立に移っ ていった. - 26 -.

(14) . 鴻城立憲政党の成立過程 (そのi) ( 2 ) 有司の可謬性と政党 の必要性をめぐ っ て まず藤村らは, もし政府の施政がことごとく当を得たものであるとす れば, 欧米各国において政 党が発生することはなかったはずだ, とし, 「総テ物二付一理一害ナシ」 とは絶対に云えない, と 有司専制の無謬性を否定した, 吉富はこれに反論して各人の意見の相違が公議公論の必要を生みだし, 政党の存在理由もその点 にあることは否定しないが, 今日の反政府的言論-- 自由民権論は, 右の如き意味での政党ではな く, 「其ノ根源ヲ尋レハ其唱ル人々ノ一時不平 不満ヨリシテ名ヲ民権論二托ス」 ものであると断定 し, 他方現在の政府が進めている諸改革は, 「七百年ノ固着ヲ一洗」 する大改革であり, 万国の英 雄, 古人の豪傑を再生して政治を把らせても全く 批判が起らないとは云えず, その点を 考 慮 す れ ば, 「政府ノ施行上其当ヲ得ザル ト難言シ」 と強引に結論する , これに対して美禰は, 明治維新も版籍奉還も, 「嫌慨有志ノ輩」 が 「大義名分」 を主張し 「一 , 般 ニ 之 ヲ 話 ツョ リ」 成 功 した の で あ り, 「腕 力」 に よ っ て 動 か さ れ た の で は な い と 述 べ , 「天 地 ,. 自然ノ道理ト約定ノ正 理」 すなわち人民の総意にもとづく民主主義的国家運営が確立しなければ, 「大義名分モ叉空ヲ掴ミタル事二陥ル」 ことになっ て, 人民が政府に服従しなくなる と 警 告 し , 「七百年ノ固着ヲ一洗」 という課題の大きさ のみに着目するのではなく, 「彼是ヲ一洗シ自今二至 りシノ原因道理 上」 への着目がなければ, 「片落ノ解」 = 一面的な把握になる と反論している , . 現実に対する認識が全く異っ ているのである, 3 ) 政府の権限と人民の権利 ( で は, 政 府 と は 何 か, そ れ は い か な る 権 限 を も っ て い る の か が 次 の 問 題 で あ る , ,. 「然ラバ人民上ノ事ハ愚トカ不開トカノ名ヲ下シ是ヲ口実トナシ悉皆政府上二之ヲ判決シテ可ナ ラ ソ カ」 と い う の が, 藤 村 ら の 問 い で あ る ,. 吉富はこれを否定して, 君権=政府の権限と, 民権=人民の権利の明 確化の必要を認めている . しかし, 吉富に云わしむれば, まさに明治政府こそその実現を漸次はかりつつあるのであり 民選 , 議院についても 「先ッ県区村会等ヨリ一般二相開キ国民モ幾分力参与スル下稽古」 をなそうとして いる, と反論している, 国会の即時開設などは, 「柳力欧米各国ノ書籍ノ十, 二十ヲ 一読」 したに 過ぎない 「所謂書生論」 であり, 国民の学識の 不足をみるならば, 現段階では全く問題 に な ら な い, と 一 笑 に 付 し て い る ,. これに対し藤村は, 国憲不確定である以上政府の施策は 「無筋」 に進められており 政府が人民 , の参政権を認めていない以上, 君権, 民権の区別は明確化されていないと断定し 民撰議院設立建 , 白の一節を引用したり, アメリカ独 立を例としながら, 人民の参政権の確立の必要を主 張 し て い る. さらに人民のため と称して設立された防長協同会社は, 人民により 「秦人ノ越人ヲ 見 ル ガ 如 ク」 敵 視 さ れ て お り, そ の 原 因 は 「何 一 ツ 公 議 ヲ 尽 サ ザ ル ト人 民 二 参 与 セ ザ ル トノ ニ ッ ヨ リ 出 ル」 と 論 じ て い る,. ここではじめて藤村らの主張の背後に, 地租引当米, 防長協同会社に反対する山口県民の闘争が あること が知られるのであり, この闘争が, 国憲確定論, 国会開設論 民権確立論など高度な政治 , 的主張を 生み出すに至ったことが推測されるのである , また美禰は, 県区村会から国会へという吉富の 「下稽古」 論を批判し, そもそも 「今日官途二臨 ミ 事 ヲ 把 り 居 ル 人々 ハ 天 ヨ リ ア マ ク ダ リ シ カ 叉 ハ 突 然 地 ヨ リ 湧 出 タ ル カ 等 シク 土 民 ノ 中 ヨ リ 出 タ ル. 人ナリ」 と, 有司と人民を等置し, 有司のみ人材で他は未だ不開ということはありえないと云い , さらに県区村会をまず 開くと云っ ても国憲不確定であるのに, 「何等ノ術ヲ以テ」 それが可能であ - 27 一.

(15) . 田. 村. 貞. 雄. ろ う か, 述 べ て い る.. ここにわれわれは, 農民の反対闘争の主題が, もはや山口県の枠内では解決できず, 国家的レベ ルでの公譲公論の確立,.国憲の確定なしには不可能である, と考えている豪農層の政治的・思想的 成長を見出すのである. 4 ) 政府部内の対立 ( これは征韓論破裂以後の政争をテーマとするものであるが, 藤村らはこの政争を政府部内から発 生した 「甲 ノ正理」 と 「乙ノ正理」 の対立と把え, その解決のためにも公議公論の場が必要である と 述 べ て い る,. これに対し吉富は, 下野した参議たちは, かっ て政府の一員として遂行に賛成した政策に, 今は 反 対 し て い る の で あ り, 「事 二 臨 ミ 時 二 連 し 世 人 ニ 娼 ヲ 入 し 志 操 ヲ 換 ヘ タ ル 人」 と 非 難 し て お り,. とくに西南戦争の当事者に対しては, 「西郷其他無限赤馬鹿ノ親玉」 「人面獣心ノ奴原」 と罵倒し て い る.. 藤村は, 下野後の意見の変更は遺憾であるが, しかし彼らも愛国心から主張しているのであると 弁護し, 美禰もまたかっ て政府の一員であるとしても, 正理において傍観坐視す べきではなく, 反 対意見も 「人間公権ノー部分則チ思想ノ権」 にもとづくものであると反論している. 吉富は藤村らの主張を非現実的論理と斥けながら, 自らは現実的というよりはあまりにも感情的 な政府擁護論に終始しており, このままでは到底反対者の支持を 得ることはできなかった, 5 ) 地租民費減額令について ( 藤村らはこの布告は, 人民の負担を減じたもので喜ぶべきであるが, 「前体政府国税計算表等一 ッ以テ国民ェ公告セズシテ之ヲ減ジ是ヲ増ス等ノ挙措其意向 トモ解シガタシ」 と手続上の非民主性 を非難した, 吉富はこれに反論し, 租税納入は国民の義務であり, その減額を喜ぶことば誤りである, 政府は 莫大な費 用を必要としており, 明治の土民は減を歓ばず, 増を愁えずという態 度が必要である た , しかに政府は国民に租税共議権を与えていないが, 学に志し智識を研ぐのが国民の任務であっ て, 義務.権利を弁知せず勝 手に国税の多寡を 喋々するのは憂うべきである. 現在は, 治術を先にして 治法を後として おり, これは開明度が低いためである等々驚く べき専制主義の主張を述べた, ここに至っ て論議は沸騰し, 藤村・美禰らは, 吉富は倣言を極め, 国民を愚としているとつめよ り, ついに 「弥怒り坐ヲ立チ挙ヲ振り地ヲ鳴ラシテ高声議論紛々二及」 んだ, 以上やや詳しく論争の内容を紹介してきたが, 第一に指摘できることは, 藤村淳一, 美禰竜彦ら の意識のなかに, 自由民権思想の影響がみられる事である, しかもそれは決して他律的なものでは ない. 吉富がしばしば藤村らの理論的正当性を承認しながら, 人民不開などの現実を指摘して明治 政府の施策の妥当性を擁護しているのに対し, 彼らはその論理的な首尾一貫性の欠如や論理のすり かえ, 論点移動を指摘して一歩も譲っ ていないし, 美禰に至っては, 「治政ヲ置テ治術ヲ先ニスル ・除へ権道ニモセョ則暴政」 と明治政府の本質を衝き, 「日本人民坐シテ政府ノ事ヲ請ズル等/ 様ノ 時二幾千万年ノ後 トイヘ トモ難保証」 と人民の奮起を促している, このような彼らの強靭な主張の背後には, 地租改正にはじまり, 地租引当米, 防長協同会社, 民 費問題等をめぐる過去数年間の山口県の闘争の蓄積があるのであり, この闘争こそ農民の意識のな かに租税共議権・人民参政権の主張を生みだし,全国各地でさまざまな闘 争を展開している人民諸階 層と連携することによ って国憲確定, 国会開設を要求する高次の政治的主張を つくりだすことに成 功したのである. 地租改正反対闘争, 地方民会における民主化闘争が, 自由民権論を媒介として国 - 28 -.

(16) . 鴻城立憲政党の成立過程 (その1) 民的な政治運 動へ発展・統合されてゆく過程の 一例が, ここにもあったのである. 山口県 の 農 民 が, その例外的な地租改正の受益者として早くも体制に組み込まれていりたという評価は, 明らか に一面的であると云わねばならない, 第二 .は指摘できることは, この論争における吉富の態度は, ま ったく明治政府の代弁を行ってい るに過ぎず, このような主張が反政府的立場を濃厚にしつつある豪農層の支持を直ちに獲得する可 能性はなかったと云っ てよい, この論争においては, か って彼がかすかに示した 「立君専制」 「権 勢強キ種族」 に対する批判は, 影をひそめており, 論点のすりかえや感情的な好悪, さらには洞喝 に近い暴言によっ て反論することに終 始している, そこで彼が展開する政 治活動は, 一方においては明治政府の施策を全面的に擁 護しながら, 他方 において農民層がことごとく不満をもつ山口県政をはげしく批判する事によっ て, 県政批判と政府 批判の間に強力な桜を打ち込み, 両者を分離させるという大迂回作戦であった, 山口県政は中央政府の指示に基いたものであり, 県政改革は政府改 革なくしてはありえない, と する論理に対し, 山口県政の失敗の主要な責任は, 県庁幹部ならびに区戸長層にあるのであり, 中 央政府の施策は彼らによっ て歪められたのだ, という論理を対置したのである, もちろんこの論理 は矛盾も甚だしい, しかし, 吉富は, 長州問の総力をあげた 支援を受けつつ, この迂回作戦を全力 を あ げ て 遂 行 し て い っ た の で あ る,. 事実右の論争に 登場した藤村, 美禰とも, のちに自由民権論から脱却し, 吉富派の有力幹部に転 身 して い る,. 藤村は, 吉富が主幹となった鴨城立憲政党の結成に参加し, 常議員をつとめている, 県会議員に 当選したことはないが, 矢原村会で活躍した, また美禰は, 県会議員, 衆議院議員をつ と め た ほ か, 吉富が社長 となっ た防長新聞社の出資株主となっている. 美禰はもと藤村姓 で, また吉富家の 縁戚とも なっているから, 三者は親 戚関係にあったと思われる. 8 7年前後には, 吉富とはげしく対立していたこと 7 このように吉富 と個人的にも親しい 二人が, 1 にも, この時期の豪農層の深刻な動揺を物語っている. しかし, 彼らは結局は吉富の偽噺的な政治論に屈服してゆくのであり, それはまた自由民権運 動 への針路を見出し た山口県民が, 政治的展望を閉ざされ, 反民権的な政治路線に包摂されてゆく過 程 で も あ っ た,. 次節において, 吉富の巧妙な政治的主張の内容を考察したい, 1 ) 2 ) 3 ) 4 ) ) 5 6 ). 前掲『史流』 第9号所載拙稿, 第1表参照, 0月7日付. 木戸孝允宛吉富簡-書翰明治9年1 「協同会社第3回社会報告」 4 8頁, 『明治初年農民騒擾録』2 「山口県右代不正之件」 o年5月1 8日付 (山口県文書館所蔵), 「鴻城新聞」明治l. 1 8 77年3月上旬), 藤村淳一意見 7) この論争については, 吉富簡一 「旧友数人来訪一日激烈国事談ニ及フ」 (. 書 (同年5月下旬), 美禰龍彦意見書 (同年6月中旬) より再構成した. いずれも田中彰, 田村貞雄「吉富簡 一 『団結之主旨其他』」 (『史潮』70号) に所収されている.. (以下次号). - 29 -.

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