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道徳の在り方について序

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道徳の在り方について

︵道徳教育のために︶

 はじめに断っておきたいことは︑ここで道徳教育というのは︑い

まわが世上でやかましい︑あの道徳教育のことである︒それからも

う一つは︑ ﹁道徳教育のため﹂といえば︑何か道徳教育に特別誹え

の道徳論ときこえるかもしれないが︑私にはただ︑道徳教育を考

え︑又それを行う際に必要な用意として︑道徳の本質にかかわる重要な問題について反省してみるという程の意味である︒格別必要な

用意になるかどうかは︑わからないが︑いま世上で論議されている

道徳教育論には︑現政府が文教政策の一環として打ち出した8道

徳教育のための教科目ないし時論の特設口民族意識の高揚と愛国

心の養成という︑二つの時事的な問題を含んでいるので︑ここでも

これらの問題に焦点を合せながら︑これらの問題に対処する上で胸

中に用意しなければならないと思われる道徳問題を清見してみたい

と思うのである︒

        ︵一︶

 いったい︑道徳とはどういうものであろうか︒どういう在り方の

ものであろうか︒どういう構造関連をもつものであろうか︒まず︑

日常の身近かな事実からはじめてみよう︒誰しも気づくことは︑道

徳というものは︑われわれの生活の中にある︑しかも余す処なく︑

くまなくあるということである︒起きている碍だけでなく︑静かに眠 っている時でさえ︑われわれは道徳から離れることはできないとい      ︵−︶う事実がある︒また男女老幼︑賢愚強弱の別を問わず︑専門とする職種職業のいかんにかかわらず︑人は道徳と無関係ではありえない︒これを裏からいえば︑道徳には専門家はないということである︒聖賢高徳をもつて名の通った人汝も︑みな一定の職業生活を通して聖賢であり︑高徳の人なのである︒簡単にいえば︑道徳で飯を食っているという人はいないのである︒ つぎに又︑ロビγソγ・クルーソーには︑道徳は不要であり︑生誕と同時に狼の群にはいって︑狼たちに育てられた少年には︑人間的道徳︵この言葉自体が無意味︶はないという事実がある︒また天国でも地獄でも道徳は問題にならない︒道徳は現実■の﹁人聞﹂のものであり︑天道ではなくて﹁人道﹂であるということである︒ さらに︑人の世には監獄というものが存在するという事実があげられる︒何時の時代︑何処の社会にも︑牢獄はなくてはならないもののようである︒刑務所とは最低の人倫さえ守りえず︑社会の安寧秩序を破壊したものの強制牧容所のことである︒無学文盲のものは憐欄されるが︑社会から強制隔離はされない︒風流を解しないの故を以て︑拘禁されることもなく︑無神論者は宗教からは破門されるが︑入問がこれに刑罰を加えることは許されない︒ひとり︑人倫を破り︑道徳を否定する者のみは︑たとい法的制裁はまぬがれようとも︑社会的所罰を逃れることはできない︒この事実は何を意味するものであろうか︒ なお又︑時代が移り変って︑社会構成の原理が変り︑経済機構や政治体制に変革を生じ︑人間観や社会観が改まると︑道徳の思想や行動もそれにつれて変化することも歴皮の事実である︒わが国で︑

一口に忠義といっても︑封建制度のもとにおける主従間のそれと︑近代的統一国家になってからの天皇臣民聞のそれと︑敗戦後天皇の

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在り方が変化して︑忠義という徳そのものの存在意義さえ疑われる

今日とでは︑事情が大いに異っている︒もっとも︑この歴史的変化

を否定的に見る立場のあることも︑これ叉事実で︑紀元節や教育勅

語や修身教育に郷愁をおぼえる人六は︑これに属するといえよう︒

革新政党と保守政党の聞で道徳観や教育観が食い違い︑日教組と自

民党内閣の文相との間の道徳教育論の対立も︑このことに由来する

ものである︒

 以上︑在りのままの事実のいくつかを拾いあげてみたのである

が︑そこには︑道徳の在り方についての︑いくつかの大切な問題が

含まれているのではないであろうか︒即ち︑人間生活と道徳とは︑

どんなつながりを持っているか︑道徳的価値は何処で誰によって決

定されるのか︑道徳という文化事象は他の文化事象と構造的にどん

な関連を持っており︑その関連に於て道徳がどういう地位に立つ

か︑もし︑そこで道徳の優位性というようなことが︐考えられるとす

れば︑どういうことになるか︑道徳の歴史的相対的な見方と超歴史

的絶対的な見方︑社会構成原理と道徳原理との相関性︑階級的存在

や民族的国家的存在の倫理性など︑いろいろの問題があり︑そして

その一つ一つが︑道徳教育の方向規定に重大な関係をもつことが予

想される︒

         ︵二︶

 まず︑﹁道徳生活﹂というような特別の生活分野が︑生活の全分

野のどこかに独立してあるものだろうかということである︒いうま

でもなく︑そのようなものはない︒道徳を行う特定の場所や時間は

ない︒食事の黒闇︑休憩愚闇︑執務時間︑研究時間︑睡眠時間など

というが︑道徳時闇というものはない︒これは実に何でもない︑つ

まらない事実のようであって︑決してそうでなく︑道徳教育にとっ

ては極めて重要な事柄である︒道徳というものが︑あらゆる生活の 中に︑あらゆる生活と共にあるということからして︑当然に︑道徳の指導は︑あらゆる生活の中で︑生活を通して行わねばならないということが︑根本の立前であることを如実に示すものである︒ また世に学者︑技術家︑芸術家︑宗教家︑政治家というものはあるが︑道徳家というものはない︒専門に道徳を行うことだけで身を立て︑世を渡るということはない︒道徳という文化事象は︑他の丈化諸事象とはなれて︑あるいはそれらと並列対立的に在るものではないのである︒抽象的に分析すれば︑学問︑芸術︑宗教などと並列的に道徳の名があげられるであろうが︑具体的にはそうではない︒ そこで︑道徳の在り方を理解するために︑科学︑芸術︑宗教など       コ 他の文化領域との関連性について老察してみよう︒科学・宗教・芸術のような狭義の丈化事象から︑教育・政治・経済・法制のような社会事家にいたるまで︑人聞的努力によって創造せられ︑発展せられて行く事柄であるが︑人間は何のためにそれらを創造し︑維持発展させるのか︒いうまでもなくそれは︑人間としてよりょく生きんがためであり︑幸福な人間的生を得んがために外ならない︒このことが︑その発端における根本の動機であり︑同時にそれは又︑究極の目的意図でもある︒このことには疑問の余地がない︒その︑人聞が個人として︑又集団的全体として︑よく生きようとすること︑幸福になろうとすること︑そこに倫理が成立するのである︒人間のあらゆる文化的営為は︑してみれば︑倫理的意図に発端し︑倫理的目的の達成に終局するといってよい︒科学・技術もよりよき人生のためのものであり︑芸術・宗教も人生の幸福希求から生れ営まれるものであり︑教育・政治・経済もとよりそうである︒むろん︑各分野各領域はそれぞれに独自の本質構造を有するものであり︑それぞれ異なる価値にかかわるものであるから︑個性的独自的な存在であっ

て︑ましてや︑それらのものが直接的に︑倫理道徳的価値につなが

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るものではない︒まるで違ったものなのである︒まるで違ったもの

でありながら︑しかも結びつかざるを得ないという処に︑具体的な

構造的関連性の問題があるのである︒

 且ハ体的な例をあげるまでもないが︑最近︑原子力の応用というこ

とに関連して︑科学と科学者の在り方の問題が科学者自身の側から

も︑するどく自覚されて来ている事実があることを見逃せない︒物

理学者・科学者が︑人間として人間を破滅に導くような物理学的真

理の応用について黙視してはいられないという自覚と反省は︑何を

意味するものであろうか︒本来︑無記︵一一口笛一h剛O﹃O一Pけ︶な科学的真

理は︑それ自体としては︑人生に無意味なものである︒科学の進歩

は︑いわば︑数の絶対値を増加するだけのことであって︑正負の記

号をつけることは︑科学者の仕事ではないかもしれない︒しかし︑

絶対値だけでは意味をなさないので︑人間にプラスするかマイナス

するかという価値評価が加えられて︑はじめて︑有意味に転化する︒この評価の意識は人皆の倫理意識である︒科学者も人間である以

上︑この倫理意識からして︑科学の利用に正しい指標を示そうとするのは当然である︒心なき人汝はこの事実をみて︑この科学者のア

ピールは政治への関与であり︑科学者の政治活動は︑みずからの道

を逸脱する越権的行為であるとする︒これは︑あやまれるも甚だし

い見解というべきである︒

 そこで︑政治の問題であるが︑政治とは本来︑社会的正義︵道

徳︶実現の方策である︒プラトγの﹃国家﹄は︑政治論であり道徳

論であり教育論を内容とするものであり︑アリストテレスの倫理学

書は政治学書前篇の意味をもち︑後者と併せて社会哲学・実践哲学

の体系内に位置するものであることは周知のことに属する︒ソクラ

テースに始まるギリシア古典哲学において︑ポリス的人間として︑

どうずれば﹁よく生きる﹂ことができるかという倫理の問題は︑ ﹁国家を如何にして︑よき国家たらしめるか﹂という政治の問題につながるのであって︑究極は︑人間の﹁魂をよくあらしめるように配慮する﹂ということが︑根本問題であって︑そこに倫理も政治も        ︵3︶淵源するのである︒ 政治というものは︑人間をよくあらしめるように世話することである︒人生を幸福に導くのが︑よい政治である︒政治の根本原理はあくまで倫理の実現ということであり︑政治は倫理的目的︑道徳的理想の実現に奉仕すべきであり︑この意味で政治は道徳に従属すべきであって︑この関係を逆転することは断じて許されない︒ ﹁人間を人間らしくあらしめる﹂ ︵ヒューマニズム︶ことが政治である︒人間から人聞性を喪失せしめ︑ニヒリズムにおとしいれるものは︑悪しき権力政治である︒戦前に生れ︑戦前に育つた日本人は︑軍権に抑圧され︑帝国主義・ファシズムの権力政治に無条件降服をするように馴養されてきたので︑前述の意味での﹁政治の倫理性﹂については︑全くの盲でないまでも近視又は色盲になっている︒プアシズムは︑かならずしも戦前型のものばかりとは限らない︒戦後には      ハベ 又︑別の薪しい型態のものが成長しつつある︒その正体を見きわめて︑充分警戒しなければならないのである︒ ︵この問題についてはさらに後にもふれるであろう︶ 画家は何をモデルにし︑それをどのように表現しようと自由である︒画家の芸術的良心と表現技法は他の何ものからも制約されないであろう︒かくて︑絵画そのものはカγヴアス上に完成されるが︑しかし︑それはまだ︑究極的な完成ではない︒ ︵別の見方もあろうけれども︶︒額縁にいれられて︑一定の所にかけられ一定の時に一定の人汝によって観賞されることによって︑画は︑いわば社会的に完成されるのである︒画を社会的に完成させることは︑芸術的な仕事

ではないが︑このことによって︑究極飼に制作目的が完成するもの

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であると私は考える︒この︑﹁画をどこにかけるか﹂は︑社会の倫

理性によって決定せられる︒教会と学校とバーやカフェーとでは︑

その壁を飾る画の選定には︑倫理的・教育的見地からの配慮が必要

である︒写実的な裸体画が︑その芸術的価値の如何にかかわらず︑

教育上問題になるのは故なしとしない︒文芸に於ても﹃チヤタレー

夫人の恋入﹄の如き︑露骨に性的行動を描写した作興は︑芸術とし

て如何に立派であっても︑社会一般の風教の上から物議をかもすの

も︑芸術が倫理と全く別世界に離在するものではなく︑人倫と無縁

ではありえないことを示すものと言はざるをえない︒

        ︵三︶

 教育は社会を存続発展させるための方途であり︑内容的には社会

の文化を維持発展させるために行われる方策である︒社会の後継者

をして︑よりよき社会の形成者︑より高い文化の創造者たらしめ︑

人類の福祉をより増進することができるよう希求して営まれる人間

の人間による育成である︒教育が︑よりよき社会・より高い文化・

より幸福な生活の実現を目標とするということは︑即ち倫理性を志

向し︑道徳的価値の実現を意図するということに外ならない︒如何

なる教育も︑究極的には︑入間を全体として﹁よき人々﹂たらしめ

ることを目的とするものでなければならない︒

 古代ギリシアにあっては︑徳︵アレテ︶とは本来︑それぞれのものが固有する性能の卓越性を意味した︒個汝の事物に積極的な性能      ︵5︶が存する限り︑その卓越性として徳を表象した︒これが一般的な意

味での徳の概念であるが︑では︑人間における徳とは何を意味する

であろうか︒周知の如く︑人間存在の本質を魂に於て把握したの       は︑ソクラーテスであって︑﹁人間は結局において魂である﹂とし

て︑魂を人闇毛玉の主体として︑﹁それ︵魂︶がよくあるように配

慮する﹂ことを︑ブイロソピアの任務とし︑同時にパイデイアの仕 事としたのである︒ソクラテースHプラトγにおける人間の徳は︑魂の性能とその卓越性なのであった︒魂が人間に普通的なるが故に徳は普遍的であり︑人間において魂の所有が必然的なるが故に︑徳の所有も必然的でなければならない︒また︑魂の性能は分節せられ

︵プラトγの魂の三分説︶︑徳も分節される︵智慧・勇気・節度︶       タクシス コスモスことになるが︑大切なことは︑魂全体の整合と秩序ということであ

り︑徳の調和と統一ということである︒プラトγ的四徳︵元徳︶の

最高に位する﹁正義﹂とは︑魂全体の調和統一の徳である︒プラト

γは︑個別的な徳︑心技一能に長ずるの徳は︑いまだ円満完全なも

のとは見ない︒その意を取って布衡すれば︑専門的知識や特殊技能

に秀でることは︑個別的徳の所有にはなるが︑いまだ真の徳の所有

にはならないということである︒真の徳︑十全な徳は︑魂全体の普

遍的性能の上に実現されるもの︑魂の全般的な働きの均衡と調和に      フ 於て成立するものとせられるのである︒

 このことは︑教育と道徳の関係の考察にとって極めて重要であ

る︒教育は時処位︵人︶によって︑その様態を異にし︑教育内容は

教科科目に分節されるが︑いつ︑どこで︑誰が︑誰に︑何を教えよ

うとも︑﹁人間の魂をよくあるように世話する﹂ということに於て

変りはない︒このことは︑あらゆる教育を通じて普遍必然的であ

る︒よき人間の育成を通じて︑よき社会と丈化の形成を企図するこ

とが教育の根本目的である︒周知の如く︑教育基本法第一条は教育

の目的を規定し︑同法第二条は更に具体的に教育の方針を指示して

いるが︑それらは同時に︑道徳教育の目的と方針を示しているもの

と見るべきである︒即ち︑ ﹁人格の完成﹂︑ ﹁平和的国家社会の形

成者の育成﹂ ︵第一条︶といい︑﹁丈化の創造発展に貢献する﹂人

闇︵第二条︶への教育という︑それは︑プラトγのいわゆる人間の

魂の全体的統一的配慮であり︑真の人闇黒徳の実現を意味するもの

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であるα教育基本法第八条は政治教育に関して︑同法第九条は宗教

教育に関して消極的に規定しているが︑道徳教育に関しては積極的

にも消極的にも︑何等規定していない︒これは思うに︑第一条第二

条が︑教育そのものの目的であり︑方針であると同時に︑それがそ

のまま道徳教育の目的︑方針であるが故に︑格別に道徳教育に関し

て規定する必要をみとめないという思考に基づくものと解して誤り

はないであろう︒

 小宇宙的存在である人聞は︑調和的整合的構造を有する存在であ

り︑従って人間の生活には︑個体的にも又集団的にも︑調和と秩序

がなくてはならない︒ソクラテースHプラトγが︑個別的部分的な

徳の独立完全性を認めず︑徳は魂全体の徳︑全人間的な調和と秩序

における徳でなければならないとしたことには重要な意味があるこ

とを再確認すべきである︒科学的知識は︑その用い方によって人生

にプラスともマイナスともなる︒芸術も︑その見方を誤ったり︑時

処位に適した取扱をしないと︑無用の長物となり︑更には有害なも

のに転化する危険すらある︒社会の権力的統制︵政治︶も︑利用厚

生の道︵経済︶も︑それらが︑結局何を目的として行われるかによ

って人聞の幸不幸を左右する︒宗教も︑いたづらに現実から遊離し

たドグマの城壁内にたてこもり︑或は権力や財力と結託して堕落す

れば︑魂の救済はおろか︑却って人君を邪道に誘うものとなる︒宗

教が生気に盗れ︑真に霊魂救済の道として黒八面目を発揮するのは︑宗教改革の遂行される時機である︒その宗教改革の原動力となるも

のは︑社会の倫理的要請に応じて発現する道徳的良心である︒第十

六世紀におけるキリスト教のそれはもとよりのこと︑潮って原始キ

リスト教成立の事情は何を物語るものであろうか︒いうまでもなく

キリストによるユダヤ教の改革である︒仏教についても事情は違わない︒勧善懲悪の教を含まない宗教はなく︑悪事を勧める宗教はな いα正しい宗教とは︑常に道徳の成長にあっかるものでなければならない︒ 教育に於て根本的に重要なことは︑心身の諸機能︑分節された教      養を調和と秩序とにもたらす智を育てることである︒この智とは︑別の言葉でいえば︑世界観・人生観・社会観・人間観である︒これを育成することが︑ ︵広義の︶道徳教育である︒智を見失った教養は︑魂の抜けた素材的知識技能のモザイックにすぎない︒このような意味合に於て︑教育は即ち道徳教育でなければならないのである︒ 以上のように︑道徳の在り方を他の文化的諸領域との関連に於て考察し︑倫理的価値を他の諸価値と比較考量した結果︑ここに︑道徳の優位︑倫理的価値の優先を認めざるを得ない︒誤解をおそれて

一言するならば︑この道徳の優位ということは︑いうまでもなく︑

直接的関係におけるものではない︒そのことは上来述べたところに

よって明らかであると思うが︒道徳は決して︑同一レ.︑ヘルに於て︑

他の価値領域を直接的に肯定したり否定したりするものではない︒

個別的存在の価値は︑みだりに他の価値によって摯肘されるもので

はない︒そうではなくて実は︑その個別的存在のよって存立する基

底に於ける︑或はその究極の方向規定に於ける全体的構造関連の中

核的位置に立つということであり︑全体的な人間の在り方からし

て︑より高次の立場からの規制であり統一なのである︒

 それにしても︑以上の道徳の優位についての考察は︑なお一面的た

ることをまぬがれない︒というのは︑道徳の内容を現実的冷酷体的に

見るならば︑道徳が他の文化諸領域から制約をうけることも多大で

あるからである︒公衆道徳は公衆衛生の知識に左右されることが多

く︑子供の躾には児童心理学の研究成果に従うべき面が大であり︑

芸術的情操が道徳的品性の陶冶に︑宗教的信念が道徳の実践力に与

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える支持は大きく︑政治体制と社会制度が道徳を大きく規制するこ

とは周知の通りであり︑マルクスにいたっては︑経済力が一切の文

化に︵従って道徳にも︶決定的制約を与へるとする︒いつれも皆真

理である︒従って︑科学の発達︑技術の進歩︑宗教信仰の様相︑政

治体制や経済機構の変革は︑道徳の在り方に重大な変化をもたらす

ことは真実である︒しかし︑このことは決して道徳の優位をさまた

げるものではない︒けだし︑物事の関連は静的なものではなく︑ダ

イナミックなものであり︑限定は一方的でなくて相互的であり︑相

互滲透的であって︑限定は必ず逆限定を予想し︑制約は逆制約を伴

うものであるからである︒具体的な関連性はこのように見るべく︑

従って道徳も︑他の領域から種汝の限定制約をうけるが︑しかもそ

れらに対して逆に方向規定を与へて行くのである︒

 従って︑いわゆる至上主義というものは否定されなければなら

ない︒私が上来言わんとするところも︑実はこの至上主義の否定な

のである︒いうまでもなく︑至上主義とは︑他との関連を絶ち切っ

て︑独三二に自己を立てようとするものである︒どの価値領域も︑

他を無視し否定して自己のみを立てることは許されない︒科学も芸

術も宗教も︑自己を至上とすることは許されない︒道徳ももとより

そうである︒では︑前の道徳の優位というζとと︑至上主義とはど

のように区別されるのであろうか︒もはや答は明瞭である︒私が道

徳の優位ということを言ったのは︑道徳至上主義の意味ではなく︑

それぞれの存在をして︑ますますその存在意義を明らかにし︑それ

ぞれの価値をして︑いよいよその本質を実現せしめるように方向づ

けをするものが道徳であるということであって︑少しも主我的な意

味は含まれていない筈である︒

 以上︑粗雑ではあるが︑道徳の在り方を老察した結果︑そこから

才徳教育の基本平な在り方が︑おのずから明らかである︒強ち︑通 徳の教育は︑あらゆる機会に︑あらゆる場所に於て︑あらゆる人間関係の中で︑あらゆる知識や技能の指導を通じて行わるべきであり従ってあらゆる教師は皆道徳教育の教師であり︑否︑あらゆる人間は誰もが相互に︑道徳教育の主体であると共に客体でもあるべきことがわかる︒道徳教育の為に特設の科目や時闇を用意することを考える前に以上のことを先ず︑確認することが大切であると思う︒ なお︑附言しておかなければならないことは︑以上の論述は︑道徳というものの根本的構造の反省から︑道徳と教育の基本的関連性を取りあげたもので︑従って︑そこで取扱われた道徳教育は基本的︑全般的な意味のものであるということである︒むろん︑それで道徳教育の問題がすべて片づいたわけではなく︑部分的細目に亘れば際限なく多くの問題があるであろうが︑今はしばらく︑道徳教育の科目︑時閤の特設の問題とにらみ合せて︑大きく︑道徳教育本来       の在り方を論ずるに止めておく︒        ︵四︶ 民族意識の確立と愛国心の酒養の問題であるが︑それにはまつ︑いう所の民族意識︑愛国心なる概念の本質規定から始めなくてはならなであろうが︑それは簡単には済まされないことであって︑私の力の遠く及ばないところであり︑又紙面の限度からも許されないので︑ここでは極めて一般的抽象的な定義に止め︑むしろ︑その確立と洒養の方に視点をおいて一言したい︒即ち︑講和条約の締結による独立達成以来︑頓に政治的社会的な︑又政治教育的・社会教育的な問題となったこの事が︑最近は道徳教育の一翼となって︑学校教育の中にも割り込もうとして来ているからである︒ 社会的概念として︑又政治的概念としての民族とは︑言語・風俗・習慣・掌紋等の伝統を共有にし︑政治的経済的体制に基づく生活形態を塒有し︑血統訥なつながりをもって一定地域に生活を共κす

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(7)

るごとによって︑歴心的に形成せられた強固な社会集団と見ること

が出来よう︒そして︑そこには︑かかる集団としての心理︑共同体

としての意識が団結の紐帯となる︒これが民族意識であろう︒愛国

心とは﹁祖国を愛し︑その発展を.願い︑これに奉仕しようとする態       度である﹂が︑現在の日本に関する限り︑殆んど完全な単一民族国

家であるから︑民族意識と国家意識とが重複しており︑民族への愛

と祖国への愛とが同化しているから︑ここでは︑ひとまず︑民族意

識の昂揚ということと愛国心の養成とこいうとも厳格に区別しない

で取り扱ってみることにしたい︒

 民族意識や愛国心というものは︑もともと素朴な形態のものとし

て自然発生的に︑民族国民の感情生活に座を占めて︑にじみ出て来

るものであるが︑更に知性的意志的要因が加えられて人為的︵政治

的・教育的︶に強化せられ︑統一的に形成せられる︒これは歴史的

事実であって特に近代的統一国家の成立以後は︑何れの国家に於て

も著明な事実である︒わが国の明治中期から敗戦に至る六十年の政

治や教育の歴史に於ては︑実に世界無比の強烈さを以てこの事が行

われたことは︑その闇に生をうけ教育された世代が︑今日呪咀の念

を以て回顧するところである︒ ところが︑今再び︑民族愛や祖国愛が教育の問題として提出せら

れ︑これを以て戦後の教育に活を入れ︑民族の繁栄と国家の発展を

期そうというのである︒人間がある程度成長して︑各種の社会のメ

γバーとなれば︑自然的に同類意識を持つに至り︑自己の所属する

集団えの愛着を誇り︑献身奉仕の情が湧くのは当然であり︑戦後の

若き世代といえども︑愛校心や愛郷心︑同窓意識や同郷意識を持っ

ていよう︒愛国心もこれと同類の自然感情であって︑従って︑素朴

であり非合理的なものがその母胎である︒この原初形態のものを政

治や教育という人為的な力を加え︑ 一定の目的意図の下に一定形態 のものに精錬しようというのであるかこの場合︑最も大切なことは︑いうまでもなく︑新たに形成し直そうとする民族意識や愛国心というものが︑どういう形態のものどういう内容のものであるかということであるが︑このことを構想する前提として絶対不可欠なことは︑愛国心の洒養ということを教育の一課題として提起し︑これを実施しようとする為政者や教育者は︵特に旧き世代に属する者は︶︑自己が過去に受けた教育を十分に反省し︑現に自己が懐く愛国心をみずから姐上にのぼせて︑周到に検討を加えなければならないということである︒この用意を怠って︑再び愛国心の教育を始めるならば︑それは従にアナクロニズムに陥るばかりでなく︑結局は民族の繁栄も国家の発展も逆転して︑又再び自滅えのコースをたどるであろう︒ このことについて︑しばらく︑清水⁝幾太郎氏の発言を手がかりにして反省してみよう︒氏はその著﹃愛国心﹄の末尾に︑ ﹁愛﹁国者の条件﹂を数えあげている︒それは最低の条件である︒それは︑︵一︶吾汝の同胞に対する素直な愛情であること︵二︶寛容の精神に裏づけられていること︵三︶戦争が問題解決の方法たる意味を失ったことの確認︵四︶民族国家が究極的意味を失いつつあるという洞察

︵五︶いわゆる愛国の志士を気どらず︑身辺の諸閤題を些細な小事

として軽蔑してはならないという五つである︒ ︵一︶を裏からいえ

ば︑天皇への絶対忠誠が愛国でなく︑愛国とは国民を愛し国民の幸

福のために奉仕するということである︒愛国心に限らず︑倫理道徳

の問題は必ず天皇とは切り離して考えなければならない︒ ︵二︶対

内的に寛容の精神を欠いた愛国心が︑どんなものになるかは︑われ

われが過去において十二分に体験したところである︒ ﹁自分だけが

或は自分たちだけが愛国心をもつものと思い込み︑変更を許さぬ価

値体系を固執し︑意見や方策を異にする者を直ちに国賊と呼び非国

7

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       へね 民と罵って︑自らこの敵対意識の中に益汝昂奮してし狂暴塗骨.な態

度に堕して行くようなのは愛国者ではない︒このような者は同胞に

対する愛情に欠けているものである︒ ︵三︶戦争は絶滅されなけれ

ぼならない︑平和を創り出して行かなければならない︒このことは

現在の歴史的状況においては端的無条件の個人の悲願であり︑民族

の要望であり︑人類の祈念である︒過去に於ける戦争と愛国心との悪

因縁を断絶しなければならない︒愛国心は平和と結びつかなければ

ならない︒ ︵四︶民族的独我主義・国家的利已主義と呼ばれる近視

眼的愛.決心から解放されなければならない︒民族と民族︑国家と国

家︑プロツクとブニツクが敵対感情を以て対立し︑相反目し合って

いたのでは︑世界の平和人類の福祉は︑いつまでたっても実現しな

い︒国際社会の将来を世界史的に洞察することによって︑民族えの

偏狭な愛情を止揚するという︑一見愛国心と矛盾する立場に立って︑

民族主義を昇華させなくてはならない︒特に現実の問題として注意

すべきは︑もしもわれわれが焦る特定の国家もしくはプロツクとの協力体制を殊更に強化し︑それと対立する特定国家を敵国訂し︑そ

の敵対感情を民族自立意識の内容に注入しようとするような事があ

るならば︑その位危険な事はないということである︒愛国者は対外      ね 的にも非寛容であってはならない︒ ︵五︶については省略する︒

 以上の民族意識︵愛国心︶の問題を論理的に整理すれば︑個人意

識︵個人の独立︶と民族意識︵民族の独立︶と人類意識︵人類の平和的共存︶の関係をどう考へるかということになる︒このことは現代の歴史的危機の状況下において︑個人と民族と人類に同時に課せられた政治的倫理的課題である︒むろん一応の考へ方としては︑三

者の中のどの一つについて奮える場合にも︑必ず同時に他の二者を

媒介とし︑他者との且ハ体的関連に出て取り扱うということであり︑

当面の民族独立についての思考は︑個人の自由と人類共同の意識を 忘れてはならないという事になろう︒しかしこの事は︑歴皮的社会に於ける政治的倫理的な問題であり︑主体的実践的な課題であるから︑単なる金融や論理的操作だけで済まされる問題ではない︒ただ︑これを教育の場に移してみる時︑日本民族が︑その一人一人がいまどのような課題の前に立たされているか︑その課題を果すためには︑どのように能え︑どんな心構えで生活を進むべきかを︑現実直面する事態について自由に考へさせ︑主体的に反省させる機会を与へることが大切であって︑民族意識を直接的に注入しようとして︑歴史の光輝のある一面だけを強調したり︑民族丈化の遺産を誇示するような事に終始してはならないということに留意しなければならない︒要するに︑個人意識を排除して形成された民族意識は正しく発展もしないし永続もしない︒他方︑人類意識に媒介されない民族意識が民族・国家至上主義の狂信に陥る危険を蔵するものであることは︑前に指摘した通りである︒殊に.歴皮の現段階に嘗ては︑世界平和の創造が人類に至上の命題であり︑人類丈化の最高要請であるに煮ておやである︒         ︵五︶ なお特に︑現下の政治的動向と倫理的状況の判断から二三の問題を附加しておきたい︒ その一つは倫理の階級性の問題である︒いうまでもなく︑階級は歴史的社会における生産量識から発生し︑労働の社会的組識を基盤として形成される人闇集団であって︑資本主義的生産組識においては︑二大階級が区別せられることは厳然たる事実である︒階級が実在すれば︑階級的立場からの意識・思想・行動が存在することは当然である︒これを否定するこは出来ない︒階級的対立は︑ただに生産や労働の場における問題であるばかりでなく︑教育や道徳の場に

おいても問題κなる︒その一つは階級と民族の関係の問題である︒

8

(9)

私がおそれるのは︑民族意識の確立とか愛国心とかを云汝する場

合︑階級的存在を敢て無視し︑階級的立場を抽象的に否定されはし

ないかということである︒ ﹁一億一心﹂という言葉が思い出される

からである︒民族意識にとって︑階級意識は敵であろうか︒むろ

ん︑階級は主として経済的関係から出て来るもので︑民族とは異質

的であり従って直接的に結合するものではないであろう︒階級は民

族や国家の域を越えて世界的規模に拡大する可能性を有し︑民族は

階級の拡大性を制限して自己の中に包容同化しようとする︒この後

者の場合︑民族の自立を強調する者が階級政党を母胎する政治的権

力である時︑自巳の階級的立場を意識的にか無意識的にか忘却し

て︑自己を普遍平等・永遠絶対的な価値の体現者となし︑自巳に対

立する階級的立場を︑誤れるもの無価値なもの偏狭にして危険なも

のと見なして︑これを抹殺しようとする態度をとるおそれがある︒

これ︑前にも指摘した対内的不寛容であって︑その事実的存在は

歴更の実証するところである︒権力・意義を偽装して人道主義に見せ

かけ︑侵略戦争を八追孝宇の聖戦と過称し沈りする︒民族意識が個人意識と人類意識とを媒介として︑自巳を直なものに高めんとする       ︵13︶時︑階級との結合関係もおのずと新しいものえ転化するであろう︒

 教育の政治的中立性ということも︑これと同質的な問題である︒

物事を評価し︑価値的に判断することは︑黒闇精神のいわば特権

であるが︑事実的判断だけに止まらせようとしても︑それは不可能

である︒価値判断は一定の立場︑精神的態度から行われるが︑道徳

的価値判断は実践的生活の根本的前提として不可欠のものである︒

だから︑道徳教育から価値判断を閉め出せば︑それはただニヒリズ

ムを作るだけである︒教育や道徳の問題を真剣に考え︑真面目に実

践しようとすれば︑直ちに世界観・人世観・社会観・人間観に直面

b︑ひいては政治や政策の問題にぶつかり︑好むと好まざるとにか かわらず︑一定の態度決定を迫られることは︑誰もが経験するところである︒いう所の政治的中立性ということが︑エポケーということであれぼ︑それはナγセγスであり︑一定のイデオ官ギーや政策

︵多くはその時の政治的権力者の︶に対する批判的評価えの口止め

であるなら︑それは自已を永遠絶対無謬の完全者と見なす妄想であ

る︒人間の作為に時室的制約を受けないものはなく︑歴更的社会の

特殊相から限定されない無色透明の存在はないはずである︒

 道徳教育の教科書を作り︑特定時間にこれによって徳目について

教えることは︑その事自体が絶対的に売官つたことではないにして

も︑決して積極的に賛成できる事柄ではなく︑殊に初等中等の教育

に湿ては︑どこまでも避けなければならない事柄であることについ

ては︑道徳教育の本義をわきまえた識者の︑ひとしく指摘するとこ    れ ろであり︑その理由は多汝あるが︑ここには次の一事を附言してお

きたい︒﹁書かれた道徳﹂はすでに形式化せられ︑客体化された道

徳であり︑ ﹁道徳を語る﹂ことは︑多くの場合︑徳目の提示︑解説

になる︒徳目は客体化された道徳の形式であるから︑一面︑普遍妥当

性をもつが︑他面︑道徳の生命である主体性を喪失し︑人間生活の

現実性から遊離してしまっている︒徳目を理解することは︑もとよ

り必要ではあるが︑もっと重要なことは︑徳目の母胎となる︑みず

からの生活秩序を主体的に体系化して行く道徳的態度を養うことで

ある︒修身科の優等生必ずしも善人でなく︑徳目主義の教育は却っ

て偽善者を作ることが多い︒

 ということは︑道徳的価値を一種独特な厳粛にして神聖な︑絶対

的価値として︑実体的に固定化し︑これによって入聞的存在を規律

しようとする抽象主義の一つの現れである︒それは価値の理念化を

事とする観念論の立場である︒価値を決定し︑規範を設定する者は

人簡であり︑人闇存在は歴皮帰社会燭存在である︒価値を理念化す

9

(10)

る態度のそのものが︑決して真室の中からは断て来ない︒人間は実

存的人間であり︑実存は歴史的社会的境位から逃れ出ることは出来

ない︒道徳的価値は︑一種独特の崇高厳粛神聖な︑無条件絶対的な

もめで︑人聞界をはるかに超えたところがらアプリオリに︑訓示的に課せられるもののように覚えるのは誤りである︒いわんや︑帝王の勅命や政治的権力者の命令によって課せられるものではない︒道

徳の尊厳性は︑人聞が人間を尊重する精神を基盤として出て来るも

のであり︑道徳の命法は人間がみずからに課するものであり︑その

基準・や内容や実践的形態は︑歴史的社会的現実と共に相対的なもの

であると考えられなければならない︒

 道徳教育は重大事であるから︑軽率性急に事を運んではならないし︑又徒に事を遅らせてもならない︒今度こそ︑道徳教育を正しい

軌道にのせなければならない︒道徳教育を正しいものにするか否か

は︑道徳そのものの在り方を正しく理解するか否かにかかっている︒自戒の意味から以上を記して︑メモにとどめる次第である︒

      ︵一九五七年十二月稿︶

︵1︶︵2︶

︵3︶      註いびきやねごとは他人の安眠のさまたげになり︑叉﹁寝行儀が悪い﹂といわれたりする︒ここで文化領域の一々について詳論するいとまがないので︑粗雑な論

になることを恥ぢ・る︒

近世に於ても︑スピノーザは倫理的理性︑正義の観念を原理として︑

政治的自由や市民権の確立を国家に要請しており︑ルソーの社会契約

説の成立根拠も︑個人の自由と平等という倫理的要求を一般意志に昇

華せしめて︑これを国政の最高主権たらしめるということであった

し︑カントに於ては︑自由が道徳の原理であって同時に政治の原理で

もあるQ﹁自己目的者の王国は﹂道徳と政治とを倫理的理想主義から

一体的に構想したものである︒ブイヒテはフエルヌンフト・シユタートを理想国と考え︑ヘーゲルの交化国家の理念は︑国家存在の意義を    倫理的価値の創造野卑から裏づける立場において成立するQイギリス   の功利主義道徳の﹁最大多数の最大幸福﹂の主張は︑後の多元的国家   観の理念的根底となっている︒

︵4︶勝部元﹃現代のプアシズム﹄︵5︶プラトン﹃三家﹄三五三b︑e六〇一d

︵6︶プラトン﹃アルキビアデス輪回一﹄ 一三〇c

︵7︶プラトン﹃国家﹄第四巻

︵8︶プラトンの︑︑勺げ目︒昌矯ω富..

︵9︶それにしても︑道徳教育が教育と一体的であり︑知識技能の教育と道   徳教育は密着しているということを簡潔に附言すれば︑次のような事   実が指摘される︒

  e 何よりも︑教育者の道徳的人格が道徳教育のアルフアーでありオ     メガである︒

  ⇔ 旺盛な学習意欲を基盤として生れる正しい学習態度が︑あらゆる     教育・指導の絶対的不可歓の前提である︒

  ⇔ 教科・科目の内容自体に道徳が含まれている︒

  ㈲ 教育の場︑指導の過程に於ける人間的接触に克て色々な道徳が学     ばれる︒

︵10︶清水幾太郎﹃愛国心﹄  七ページ

︵11︶同右一五一ページ

︵12︶車轍・竃︒厭oqo9げ9ぎり9嬬9価︒×o剛三9試︒口9一一ω旨︵肖巴︒幻︒≦o毛℃

   ω慈B﹈BΦひ一8﹃︶

   ﹁ナショナリズムの逆説﹂ ︵﹃世界﹄一九五七年一〇月号︶から次の

   言葉を引用しておく︒﹁ナショナリズムはすでにその全盛時代を過ぎ

   た︒それは封建時代以後︑そして原子時代以前に適した政治的原則で   あった︒蒸気機関の技術としては︑それは相当に進歩のための力であ

   りえたQ原子力時代には︑この時代の利益と権力の世界的規模におけ

   る配置とに歩調を合せた︑より大きな範囲の政治的原則に道を譲らね

  ばならない︒﹂

︵13︶その一つの現われの実例として︑アジア・アラブ諸国における民族と

  階級の結合の新しい形態をあげることができよう︒

︵41︶驕新選雛静黙謙随鰹比墾雑輩参照

10

参照

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