◎研究ノート
カムパ﹁反乱﹂の記録についてー﹃甘孜蔵族自治州民主改革史﹄の検討
阿部治平
はじめに
一九五六年一月︑中国共産党(中共)は︑軍事的制圧に成功
したカム東部で︑伝統的支配勢力からの権力奪取と土地改革と
を試みた︒ところがこれに反抗する蜂起と逃亡が膨濟として起
こった︒この反乱はやがて五九年のダライuラマのインド蒙塵
へとつながる︒
ここに検討する﹃甘孜蔵族自治州民主改革史﹄は︑その﹁民
主改革﹂と反乱鎮圧の記録である︒本書序言は︑﹁確かな歴史事
実をもって甘孜チベット人地域の封建農奴制社会の反動性・後
進性・暗黒性を明らかにし︑これをもって党がチベット人民を
指導した﹃民主改革﹄︑チベット人が翻身解放をかちとる辛苦の
歴程︑﹃民主改革﹄の歴史的意義と深遠な影響を事実にもとつい
て記述し......﹂と︑立場を明記している︒
本書の構成は︑一九四九年革命の前史︑﹁民主改革﹂の準備︑﹁民主改革﹂と反乱の勃発︑武装反乱鎮圧と﹁民主改革﹂の促
進︑﹁民主改革﹂を通してみた当局の見解となっている︒本書の ほとんど半分は︑中共・解放軍側犠牲者の﹁烈士英名録﹂二八
〇〇人分で占められている︒
一九四九年の革命後︑西康省は一九五〇年から五五年二月ま
では﹁西康省蔵族自治区﹂となり︑﹁民主改革﹂一年前の五五年
三月以後は﹁西康蔵族自治州﹂となり︑同年一〇月に四川省に
併合されて︑﹁四川省甘孜蔵族自治州﹂となった︒﹁甘孜﹂は一
県名から採用されたので﹁県﹂と﹁州﹂は混同されやすい︒
ム この地域は︑カムとよばれるチベット人地域の東部である︒
中央チベットとちがい︑カム各地には王を自称する大首長が割
拠し︑その下に集落の首長らがいた︒モンゴル・明帝国はカム・
アムド各地に割拠する王の支配権を認め︑土司として処遇した︒
首長の多くは耕地二〇ー二六ヘクタール程度と家畜をもってい
た︒土地の所有権は土司に︑占有権は首長にあった︒これが﹁民
主改革﹂の時の地主とされた階層である︒首長は土司に対し一
定の義務を果たし︑農牧民は土司・首長らに地代を納め︑労役
にしたがい︑武器と食料をもって兵役に服した︒土司の小作農
はチャパ(﹁差巴﹂)と呼ばれ西康では小作農の六〇%を占めた︒
[69‑一 研 究 ノ ー ト カ ムパ 「反 乱 」の 記 録 に つ い て
彼らの農地は狭いもので○・三から○・六七ヘクタール︑最大で
二ヘクタールであった︒寺院と首長らの小作農はカバ(﹁科巴﹂)
とよばれた︒チャパよりも小作地は小さかった︒小作農は首長
の同意をえて土地から離れる自由をもっていた︒そのほかに流
民と土司・首長の家内奴隷身分のものがいた(一五‑一六頁)︒
牧畜地帯は血縁集団(放牧単位)を基礎として集落が構成さ
れ︑集落はいくつか集まって集落連盟(﹁部﹂﹁族﹂)を構成し
た︒牧畜地帯には土司支配のないところもあったが︑たいてい
は土司の力が及んでいた︒首長階層は集落の公有草地を実際に
支配し︑牧民にさまざまな形で現物税と労役を課した(一七頁)︒
寺院も首長らと同様特権をもち︑土地と草地と家畜をもってい
ヨ たし︑通商貿易や高利貸もやった︒
ム 清帝国は分割統治策をとり︑カムとアムドをばらばらにして
そのほとんどを直接支配地域とし'1九O五年には︑金沙江か
ら二郎山までを西康省とし﹁改土帰流﹂を実施した︒民国もこ
れを踏襲し︑新中国以後もカムとアムドのチベット人地域は︑
青海・甘粛・四川・雲南・チベットなどの各省・区に分割され
たままである︒
カム北部の大河上流は起伏の緩やかな標高四千メートル前後
の山地湿草地の純牧畜地帯である︒南部は怒江(サルウィン
川)・欄槍江(メコン川)・金沙江(デチュ・長江主流)・雅磐江
(ニャクチュ)・大渡河などの侵食谷が発達し︑河谷のあいだに
は北から続く四千から五千メートルに及ぶ山脈がある︒山地は
夏の放牧地である︒河谷は︑夏のフェーン現象によって高温と なり︑穀物栽培を中心にヤクと羊・ヤギの多頭飼育をともなっ
た混合農業地帯である︒峡谷斜面は移行地帯で︑植生は谷底の
混合林から亜高山針葉樹林地帯に変化し︑モミ・トウヒの森林
限界は三千メートルをはるかに越えている︒とはいえこの二︑
三〇年間に大半は乱伐の憂き目に会い︑欝蒼たる河谷森林は今
は昔の物語となっている︒
甘孜州九竜・濾定にはイ人居住地域があり四川省涼山イ族自
治州に連なっている︒イ人地域でも反乱はおきたが︑本書はチ
ベット人地域がおもな対象である︒東の果ての濾定(チャクサ
ム)は漢人地域で︑ここでは反乱はおきなかった︒
地名はすべて漢語表記とし初出のときに括弧内にわかるかぎ
りでチベット語に近い音を示した︒また人名はカタカナ表記と
し初出のときに括弧内に漢語表記を示した︒括弧内の頁数は本
書のもの︑﹃州誌﹄として頁数を示したのは︑記述が本書と並行ムゑする﹃甘孜州志﹄のものである︒
以下︑本書の概略をたどり︑のちにいくつかの検討を試みる︒﹁和平解放﹂から﹁民主改革﹂の開始まで
一九四九年一二月︑国民党西康省主席劉文旗はあっさり中共
に降伏した︒翌五〇年三月︑人民解放軍は西康の中心地康定(ダ
ルツェンド)を占領し︑正式解放を宣言した︒中共康定委員会
が成立し︑その下で康定軍事管制委員会(康定軍管会)を設立
した︒五〇年七月︑西康省康区(カム)民族協商会議準備委員
会が成立したときは︑一八名のメンバーのうち︑党外人士が一
170
一名で︑旧社会支配階層は五五%を占めた(三二頁)︒県レベル
の機関もチベット人上層人物を登用したが︑いずれも﹁有職無
権﹂(地位はあるが権力はない)の存在であった︒
当初︑カムパ大衆は国民党に代わる解放軍を歓迎した︒解放
軍進駐当時︑中共の忠実な官吏となり後に反乱に加わった新龍
のアテンは︑解放軍兵士ははじめきわめて礼儀正しく農作物刈
ム り入れなどに手を貸したと︑その好印象を語っている︒
建国以前からの方針どおり中共は中央チベットを制圧するた
め︑西南局の第二野戦軍第十八軍を四川から康定に入れ︑チベッ
ト政府支配下の昌都攻略を準備した︒物資の運送を引き受け理
塘・巴塘などで行軍を支えたのは︑地元出身の﹁東チベット民
主青年同盟﹂の若者たちで︑指導者はプンツォク"ワンギェル
フ (平措旺傑1ープンワン)である︒一〇月︑一か月の作戦でアペイ
"アワンジグメに率いられた昌都は陥落し︑こののち中国とチ
ベットの﹁和平会談﹂が北京で始まった︒
五一年八月︑色達(セルタ)をのぞく︑康定・丹巴(ダンバ︑
ロンダ)・乾寧・道孚(タウ)・炉雷(ダンゴ)・甘孜(カンゼ)・
郵桐(トンカル)・石渠(セルシュ)・徳格(デルゲ)・白玉(ペ
ユル)・新竜(ニャロン)・雅江(ニャクチュカ)・理塘(リタ
ン)・義敦・巴塘(バタン)・得栄(デロン)・郷城(チャンテ
ン)・稲城(ダンパ)・九竜(ジェスィル)・濾定の二〇県(のち
に義敦・郡何・乾寧は他県に合併された)に政権を樹立し︑五
一年下半期には県以下の区でも人民政府をつくった︒
県政府は土司・首長支配の上に乗っただけであって︑集落で は伝統的支配は続いていたし︑搾取形態も旧態依然であった︒
だから軍政がゆるぎないものになると︑中共にとってつぎの課
題は︑当然︑農牧民のための﹁民主改革﹂つまり土地改革と郷
村レベルでの権力奪取だった︒
中国の刊行物は︑革命以前の旧社会を例外なく暗黒・残酷・ き野蛮な﹁農奴制﹂社会と位置付けているが︑これに対する検討
は今のところ少ない︒カムの﹁農奴﹂の反抗は昔からあったが︑
本書では︑五四年以後︑農民の減租・ウーラ労役(宿駅での労ムリ役と駄獣提供)の軽減・高利貸の利子引き下げなどの要求が強
くなったことを強調している︒やがて民族・宗教の上層人物の
一部にも︑中共党員による説得と教育によって改革の必要性を
認め﹁民主改革﹂の要望を出すものが現れた︒五四・五五年に
は土地改革を中心とする﹁民主改革﹂は︑ひろく大衆的要求と
なり︑必至の勢いだったという(三七頁)︒﹁民主改革﹂の試行
一九五五年一月︑中共西康委員会は﹁民主改革﹂と社会主義
改造を必ず行うことを明らかにした︒当時︑漢人地域の農村で
は土地改革をおわり︑すでに集団化が始まっていた︒年末︑四
川省委は省人民代表大会後︑チベット人上層人物をあつめた会
議で︑農業地区﹁民主改革﹂と高利貸清算のための﹁弁法﹂を
決定した(四四頁︑﹃州誌﹄四九頁)︒﹁民主改革﹂は︑まずモデル地区だけで試行し︑他の農業地帯
では﹁高利貸の排除︑借金の整理﹂︑﹁ウーラ労役・特権の排除﹂︑
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