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( ドイツ表現主義におけるフランス文学受容

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(1)

人文論叢 ( 三重大学)第

27

2010

ドイ ツ表現主義 にお けるフラ ンス文学受容

松 尾 早 苗

要 旨 :ドイツでは

19

世紀末 か ら、経済発展 に ともな って ヨー ロ ッパ の近 隣諸 国、 と くに隣国 フ ラ ンスの文化への関心 が高 ま ったが、本稿 では ドイ ツ表現主義 の作家がお もに同時代 の フラ ンス 文学 を どのように受容 し、 その影響 を各 々の創作 に どのよ うに反映 したかを明 らか にす るために、

次 の観点か ら

20

世紀初頭以 降、約

20

年 間の独仏 の文学関係 を考察 してい る。

Ⅰ.20

世紀初頭 の 独仏 の文学関係、 Ⅱ.表現主義 の作家 ( ベ ン、 ‑ イム、 ベ ッヒャ‑、H ・マ ン) の フラ ンス憧憶 とフラ ンス賞賛、 Ⅲ.表現主義 の文学 に対す るフラ ンス文学 の影響 ・作家 別 (アル チ ュール ・ラ ンボー、 エ ミール ・ヴ ェラ‑ レン、 ポール ・クローデル、 フラ ンシス ・ジ ャム、 レオ ン ・ドゥ‑

ベル、 ヴォルテール) の分析、Ⅳ.表現主義 の雑誌 ( 『シュ トゥル ム』誌、『アクツ イオ‑ ン』誌、

『ノイエ ・ブ レック‑』 誌、 『ヴ ァイセ ・ブ レック‑』 誌、 『フ ォール ム』 誌、 『フ リーデ』 誌、

『ミュ ンヘ ン文芸』誌) にお け るフラ ンス作家 の掲載状況、

Ⅴ.

第一次世 界大戦下 の独仏 の文学 者 の関係 (シュクー ドラー とぺギーの戦場 での対 峠 :ポール ・エ リュアール とマ ックス ・エル ン ス トの友情 :リル ケを救 った

St

・ツヴ ァイ クとロマ ン ・ロラ ンの連携 :

Th・ドイ プラー に よる

フラ ンス詩集 『おん ど り』 の編集 ・発行 :M ・マルテ ィネ とカール ・オ ッテ ンの詩的呼 びか け : 大戦 中のスイスにおける独仏 の文学活動。以上 の考察 か ら、 ドイツ表現主義 にお けるフラ ンス文 学受容 が、 たん に文学作 品の翻訳 や翻案 に留 ま らず、 ( 第一次大戦 中のスイスで行 われた よ うな) 独仏 の文学者 の創造 的な相互作用 と共 同活動 へ と発展 し、表現主義が汎 ヨー ロ ッパ的特徴 を得 る 契機 にな った ことを明 らか に してい る

Ⅰ.20

世紀初頭の独仏の文学関係

20

世紀初頭 の独仏 関係 をみ る とき、 フラ ンスで は普仏戦争 の敗北 とアルザ スエ ロ レー ヌの 割譲 の結果、 ドイツに敵対感情 を抱 く集 団が生 まれ、 それ はフラ ンスの知識人 に も影響 を及 ぼ さず に は い な か った

まず 、 モ ー リス ・パ レス

(18621923)

とポ ー ル ・デ ル ‑ レ‑ ド

(1846‑1914)

の集 団が いた。 前者 は

1889

年 に右翼 陣営 の論客 と して代議士 にな り、 国家主義 を振 りか ざ し、 フラ ンスの伝統 的価値 を擁護す る立場 を主張 した。後者 は愛 国的な作 品を発表 して国粋主義 の思想 を鼓 吹 し、反独右翼運動 を指導 した。 このほか に も 「ヴ ォ‑ ジュ山脈 の青

稜線 を眺め続 けた」愛国的集団が存在 した。 ドイツへの報復的な態度 はその後、長年 にわた っ て変 わ ることはな く、第一次大戦終結後 もなお認 め ることができた。

しか し、 ドイ ツで は これ と対 照 的 で、 と くに知識人 の多 くは親仏 的 と言 え た。 ゲオル ゲ

(1868‑1933)

、 デーメル (

1863‑1920)

、 リルケ

(1875‑1926)

、 ホ‑ フマ ンスクール

(1874‑1929)

な どはフラ ンス語が堪能 で、 フラ ンス文化 につ いて も豊 かな知識 を持 っていた。実 際、彼 らは フランス語 の練習 としてであれ、 ドイツ語でよ りもフランス語 で表現す るほうが相応 しい と思 っ た事柄 は しば しばフラ ンス語 で書 いていた。長年パ リで暮 らした リルケは 『果樹 園』、『喬 夜 』、

『フラ ンス語詩集』 な ど、数冊 の詩集 を フラ ンス語 で出版 していた。 また、 ゲオルゲ もフラ ン

(2)

ス語 で詩 を書 いた ことが あ り、 それ は 「外 国語詩 」

(GedichteinfremdenSprachen)

と して 彼 の創作 に多様性 を もた らしていた 1 ) 。 さ らに、彼 らの多 くは頻繁 にフラ ンスを訪 れた り、長 期間 フラ ンスに暮 らした ことが あ った。 こう した フラ ンス との関係 は、 いわば伝統 のようにそ の後 の世代 の文学者 に も引 き継 がれた。

St

・ツヴ ァイ ク

(18811942)

、‑イ ンリヒ

(18711950)

と トーマス

(18751955)

のマ ン兄 弟、 ベ ン

(18861956)2)

な どは実 に巧 み にフラ ンス語 で書 くことがで きた。 こう した優 れた フラ ンス語能力 は、

A

・ヴ ォル フェンシュタイ ン

(18831945)

P

・ツ ェヒ (

18811946)

H

・ ヤー コプ (

1896‑1961)

、Fr ・‑ル デ コ ップフ

(18761954)

な ど精力 的 に フラ ンス文学 を翻訳 していた表現主義 の作家 には言 うに及 ばない ことであ った。

これ に対 して、 フラ ンスの作家が長期間 ドイツを訪れた り、 ドイツに暮 らした りす ることは 稀 で、せ いぜ い短期 間の旅行 をす る程度 だ った。 また彼 らは、少数 の例外 を除 いて、数行 の ド イツ語 も書 くことがで きなか った といわれている

相手 の文化 に対す るこの独仏 の文学者 の関心 の落差 は、 当時の フラ ンス人 が抱 いた ドイツの 影響‑の懸念 に も起 因 して いた よ うに思 われ る

それゆえ に、 デー メル は

1911

9

月末 に雑 誌 『努力

(L'Effort)

が行 ったア ンケー トに 「そ う した防御 を本 当に必要 とす るな ら、貴 国の 文化 は脆弱な基盤 に立 っているとい うことです。強 い国は外国の勢力 と手 を携 えて も何 も失わ ず、 その反対 にそ こか ら益 を得 る ものです。教養 あるヨー ロ ッパ人 はみな 自分 が フラ ンス精神 に負 っている物 を知 っている

しか し、 いかに豊 かな精神 といえ ども、他 に与 え るのみで他 か ら受 け容れよ うとせね ば、貧弱 にな る以外 にないのです 」

3)

と記 したのである

その当時の ドイ ツの雑誌 は蒔跨 うこともな くフラ ンス語 を掲載 していた。 それ どころか、 あ の 『パ ー ン』誌 は全文 フラ ンス語 の付録 を発行 して いた4 ) 。 こう した状況 は

20

世紀初頭 の フ ラ ンスでは考え られない ことであ った。 ロマ ン ・ロランは例外 的存在 であ ったか もしれない。

しか し、彼 は何 よ りもまず ヨー ロ ッパ人であ り、 と くに親独家 とい うわけではなか った。 また、

ベルギーの詩人 ヴ ェラ‑ レン (フラマ ン語読 みはヴ ェル‑ ‑ レン) も ( 少 な くとも第一次大戦 勃発 までは)例外 の一人 だ った と言 え る

St

・ツヴ ァイ ク、 ヴ ェラ‑ レン、 リルケ、 ロラ ン、

バザル ジェッ トが寄 せ書 き した一枚 の葉書

5)

は、独仏 の作家 の友好 関係 の数少 ない例 だ った か もしれない。

独仏 における相互 の文化受容 の不均衡 は、 そのまま翻訳活動 に も表れていた。後 に詳 しく述 べ るが、 フラ ンス文学 の ドイツ語 ‑の翻訳 は、Fr ・プライ6 )

,K ・L

・アマ‑ ( 本名 カール ・ク ラマ‑)、

St

・ツヴ ァイ クな ど優 れ た翻訳者 によ って、象徴主義 の作家 か らヴ ェラ‑ レン、 ク ローデル、 ジ ッ ドに及 ぶ まで数多 く行 われた。 これ に対 して フラ ンスでは、 ア ン リ ・アルベー ル によるニーチ ェの著作 の翻訳以外 に思 い浮かぶ ものがない。 この不均衡 は、 その後 の表現主 義 の時代 に も基本 的 に変 わ ることはなか った。

Ⅱ.

表現主義の作家 の フラ ンス憧慢

‑ イ ンリヒ ・マ ンはかつて 「フラ ンスは ヨー ロ ッパ人 の第二 の故郷 である」 と語 ったが、 こ の言葉 は ドイツ表現主義 の多 くの作家 に も当てはま っていた。彼 らに とって、 フラ ンス的な も のすべて に備 わ る知性 の輝 きは魅力 的で、つね に意義深 い ものに思 われた。表現主義 の多 くの 詩人 には、以下 の例 に見 られ るよ うに、 フラ ンスへの強 い憧憶、深 い関心 がすで に早 い時期 に

‑ 126‑

(3)

松尾早苗 ドイ ツ表現主義 にお けるフラ ンス文学受容

芽生 えて いた。

a)

ゴ ッ トフ リー ト・ベ ンは青年 期 を回想 して 「 私 の世代 は フラ ンスの魅力 と偉 大 さを と く に強 く感 じ取 った世代 で あ った。 フラ ンスはニーチ ェを通 じてスタ ンダールや フロベールで我 々 に影響 を及 ぼ し、 ゲオル ゲを通 じて ボー ドレールや ヴ ェル レ‑ ヌで我 々に働 きか けて きた。最 近 の数十年 には印象主義 もそれ に加 わ った。大戦直前 には、我 々は クローデル とジ ッ ド、 ベル クソ ンとシュア レスを読 んだ。 フラ ンスか らや って きたの は偉大 な精神 で あ った 」 7 )と語 って い た

このベ ンの回想 か らは、20 世 紀 初頭 に哲学者 や詩人 を通 じて フラ ンス文 学 の受 容 が盛 ん に 行 われて いた様子 が窺 え る

ちなみ に、 ニ ーチ ェは フラ ンス文化 に対 して概 して好意 的で、 関 心 も強 か ったので、著作 で フラ ンスの作家 や哲学者 を論 じる ことが少 な くなか った。 そ して、

表現主義 の詩人 た ちはニ ーチ ェを愛読 した ことで、 ニ ーチ ェが言及 し、論 じた フラ ンスの作家 た ちを知 るよ うにな り、 ニ ーチ ェか ら間接 的 に フラ ンス文化 を捉 え る結 果 にな った。

次 に、 ゲオルゲは、 フラ ンス文 学 に熱心 に取 り組 んで いた (ヴ ォル フスケールや L ・クラー ゲスな どの)青年 を彼 の文学集 団 に加 えていたのみな らず、既刊 の フラ ンス詩集 や 『芸術草紙』

に掲載 された フラ ンス詩 を 自 ら多数翻訳 し、 フラ ンス文学 を広 く ドイ ツに紹介 した先駆 的詩人 であ った。 それゆえ に、 後年 の表現主義 の詩人 た ちがた とえゲオル ゲの象徴主義 的美学 に反発 したにせ よ

8)、

彼 らがボー ドレールや ラ ンボー とい った詩人 を知 ったのは、 ゲオルゲのおかげで あ る と言 え る

ゲオル ゲ は

1901

年 に 『悪 の華』 を翻案 した ほか、 多 くの フラ ンス象 徴主 義 の 詩 を (ドイツで ほ とん ど最 初 に) 翻訳 した。彼 が編集 した 『 現 代 の詩人 たち』

(zeitgen6ssische Dichte

r

.Berlin

,

GeorgBondi

,

1905)

はイギ リス、 デ ンマー ク、 オ ラ ンダ、 ベル ギ ー、 フラ ン

ス、 イタ リア、 ポー ラ ン ドの同時代 の詩 の独訳 を収 めていたが、 フラ ンスか らはヴ ェル レ‑ ヌ、

マ ラル メ、 ラ ンボー、 ア ン リ ・ド・レニエの合計

30

篇 の詩 9 )を収 めて いた。

b)

ゲ オル ク ・ハ イム

(18871912)

は フラ ンスの歴史、文化 に強 い関心 を抱 き、 と くに フラ ンス革命やパ リ ・コ ミュー ンを主題 に した作品をい くつか書 いた。た とえば、詩 には 「 バ ステ ィー ユ」、 「ダ ン トン」、 「ロベ ス ピエ ール」、 「フラ ンソワ ・ヴ ィヨ ン」 を詠 った作 品が、 そ して戯 曲 には 『バ ステ ィーユ襲撃 』

(1908)

、 『フラ ンス革命』

(1908)

、 『ル イ十六世』

(1910)を主題 に

した作 品が あ る

そ して、 ‑ イムは 日記 で 「多 くの人 に崇拝 されず、 (自分 と同様 に) しば しば 自己 に失望 す る詩人 の一人」 であ る 「ラ ンボーを好 む」 と告 白 した り、 時 には 「ボー ドレール、 ヴ ェル レ‑

ヌ、 ラ ンボー・ ・ ・ 。 これ らの詩聖 に ドイ ツ人 で ( 憂密 と自信喪失 に行 き詰 ま る ことな く) 匹敵す るの は 自分 のみ だ 」

10)

と自負 して いた。 さ らに、 スタ ンダール につ いて は 「彼 は、 冷笑 的で 向 こう見 ず な人 間か ら見 れ ば、逆説 を心理 学 的 に理解 で きな いサ ロ ン人 間 に道徳 的憤慨 を もた ら した作家 であ った。 だが、 実 際 は、彼 は生涯 を通 じて きわめて繊 細 な感情 の持 ち主 で、 ほろ 苦 い 自己満足 で鎮 ま ったか と思 うとす ぐに高揚 す るよ うな情熱 を秘 めた作 家 だ った 」

ll)

と述 べ、 『赤 と黒』 の数 箇所 を書 き抜 いて いた。

こう した フラ ンス‑ の関心 と憧憶 の根本 には、彼特有 の夢想 的な フラ ンス像 が息衝 いていた。

ほぼ同時期 の

1911

2

月 に書 かれた 「パ リ憧慣」 と題 す る詩 で は、 「かの紋章 の王家 の百合 の

白色 に も/似 た フラ ンスの夕闇 をぬ って/昼 間の太 陽が蜂蜜 の ごと く甘美 に/黄金 の空 に消え

入 る とき/ モ ンマル トルか らはあ またの鐘 が/ 鳴 り響 き、 夕 日の黄金 の光輝 を出迎 え る/ ゆか

しき麗人 の巻 き毛 の上 で は/紅色 の雲 が婚礼 の冠 の ごと く燃 え輝 く

/春 なか は、 秋 なかば悲

(4)

哀の香 に満 ちた/風 を胸 に吸い込 む者 は/ ノー トルダムの塔が光輝 を放つ とき/ おまえを想 い 焦がれて病床 に伏す。/芸術 の都、すべてに偉大 な母 なるパ リ

‑」12)

と極度 に美化 されたパ

リへの熱 い想 いが詠 われていた。

このフランス賛美 に対 して、‑イムはヴィルヘルム二世治下 の ドイツについては 「とにか く 何か起 こらねば‑。 いつか もう一度バ リケー ドが築かれ るな ら、私 はその上 に立つ最初の者で あるだろう

我 々は何 とい う痛 ま しい政府を持 っていることだろう

何 という皇帝だろう

ど このサーカスに出て も立派 に道化が務 まるだろう

そ して、政治家 たち も国民の信頼 を担える どころではない

13)

と不満 を託 っていた。 それゆえに、‑ イムの場合、 フラ ンスはヴィルヘ ルム二世治下 の ドイツの反対像 (

Gegenbild)

として憧慣 されていた と言 え る

C)

ヨハネス ・

R・ベ ッヒャー (189ト1958)が1913

年か ら

1915

年 までに書 いた詩 のなかに は 「ボー ドレール」、「ランボー」、「ラ ・マルセイエーズ」、「ゾラに捧 ぐ」 と題 した詩がある

ちなみに、詩 「ボー ドレール」では、 ボー ドレールを 「 我を忘れて私が抱 き しめる兄弟/現代 の災禍のなかに立つ偉大 な幽霊」 と詠 い、彼を 「同胞」および 「 救世主」 と称えている

そ し て、詩 「ランボー」では、

暗い運命が我 々全員 に降 りかか った/我 々には何 も与え られなか っ た/我 々は屋根の氷河の上で絶望 に身をよ じる/ きみは導 きの綱で我 々を救 い出す」 と詠われ、

ボー ドレール と同様 にランボー も 「 混迷の現状か ら民衆 を救 う」人道主義的な詩人 として捉え られている

さらに、詩 「ゾラに捧 ぐ」では、 ドレフエス事件で示 されたゾラの行動的精神を 賞賛 し、文学者の社会的使命の基本 として 「ゾラ :いかに小 さな夢であろうと、我 々を駆 り立 て前方へ突進 させ る/ おお、作品の三位一体 :体験 ‑表現 ‑行動」 と詠 われ、ベ ッヒャ‑の文 学の行動主義的な 目標が表明 されていた。

ベ ッヒャ‑の場合、 フラ ンスの文学者 に対す る深い尊敬の念 は、彼が暮 らす ドイツ‑の強い 不満 と対照 を成 して いた。実際、 それ らの詩 とほぼ同 じ時期 に書かれた詩 「ドイツ」 では、

「自分 を ドイツ人 と認 め ること、 そ して/ フラ ンスの麗 しさ、我 々のバ ラ色 の/幼年期の夢で あるパ リを憧慣せぬ こと/ それは困難 だろう

我 々は寒 い四角の国に暮 らしている 」

14)

とい う詩節が三度 も繰 り返 され、不満を鳴 り響かせていた。

d)ハイン リヒ ・マンのフラ ンス賞賛 は‑イムやべ ッヒャーの場合 とはい くらか異な り、民

主主義が根付 き、文学者が 「 精神 と行動の統一」 を体現 しているフランス社会への憧憶 に基づ いていた。

H

・マ ンは早 くか ら 「ヴィク トル ・ユ ゴー」、「アナ トール ・フランス」、「ラクロ」、

「フロベール」、「ジ ョル ジュ ・サ ン ド」、「スタ ンダール」 な どに関す る評論 を発表 し、 フラン ス精神の研究 に努 めたために、「 私が多少 とも身 につ けた教養 は、私 の故 国 と、 もう一つの模 範 となる国 との半 々に分かれている」 と語 っていた。

そ して、彼のフランス評価 はやがて行動主義の要請 に基づいて、 ヴィルヘルム二世治下の ド イツの対極 に立つ民主主義の フランスという明確 な像を結ぶ ようにな った。評論 「ヴォルテ‑

ルーー ゲーテ 」

(1910

年) では、仏独 を代表す る二人の作家を取 り上 げ、 ヴォルテールを行動 的知性 ゆえにゲーテよ り高 く評価 した。 また、評論 「 精神 と行動 」

(1911

年) では、「 生が精 神 の もとで確 かな歩 みを続 けているがゆえに、精神 が生 その もの とな ってい る」 フラ ンスを

「 精神 に従 って生活 を作 り上 げる造形的な才能の欠如 した」 ドイツに とっての 「 模範」 として 讃えた。 このような

H

・マ ンの フランス賞賛 は、大戦 中の

191

5年 に発表 された 「ゾラ論」で

もさらに高め られていた。

‑ 128‑

(5)

松尾早苗 ドイ ツ表現主義 にお けるフラ ンス文学受容

Ⅲ.

表現主義 におけるフランス文学受容

表現主義 の詩人 たちが フラ ンス文学 を知 る上 で、先人 の行 った紹介 や翻訳 は少 なか らぬ影響 を及 ぼ した。 た とえ ば、

1906

年 に発行 され た 『アメ シス ト』 誌 は、

Fr

・プライや

K ・L

・ア マ‑が訳 した ヴ ィヨン、 ヴ ェル レ‑ ヌ、 コル ビエール、 クローデル、 ラ ンボーな どの詩 を数 々 掲載 して いたが

15)

、 それ らが

1885

年前 後 に生 まれた表現主義 の詩人 た ち に何 の興 味 も抱 かせ なか った とは考 え られない。

以下 では、表現主義 の詩人 た ちが青年期 に出会 い、各 々の文学活動 の糧 と した フラ ンス作家 を取 り上 げ、 その受容 の実態 をみてみたい。

a)

アルチ ュール ・ラ ンボ ー (

18541891)

は表現主義 の詩人 た ちにボー ドレール よ りも高 い 関心 を抱 かれた。 ラ ンボーの作 品は上述 の 『アメ シス ト』誌 に 『酷酎船』 が掲載 されたほか、

St

・ツヴ ァイ クや

K ・L・アマ‑、 ドイプラ‑、 ツ ェヒ、 ヴ ォル フ ェ ンシュタイ ンな どによ っ

て訳 された詩 が数多 く紹介 され た。

ゲオル ク ・トラ‑ クル (

18871914)

が ラ ンボーの作 品 と本格 的 に取 り組 んだの は、

K ・L

・ アマ‑の翻訳 した 『ラ ンボー詩集』 と出会 い、 その訳詩集 か ら文学活動全般 にわた る影響 を受 けた

1908

年秋 の ウ ィー ン滞在以後 だ った と言 われて いる

B

・ベ シェ ンシュタイ ン

16)

な どの 研究 によれば、 トラ‑ クル は少年期 か ら (アルザ ス人家庭教 師 によ って) フラ ンス語 に馴染 ん でいたが、彼 の ラ ンボー受容 はフラ ンス語原詩 か らで はな く、 オ ース トリアの仏文研究者

K・

L・アマ‑の翻訳 に拠 っていた とされ る

ちなみ に、 ラ ンボーの詩 はそれ以前 に も 『イ ンゼル』

誌 な どの文芸誌 に

K ・L

・アマ‑の訳 で何篇 か掲載 されて いた。

1907

年 にイ ンゼル 出版社 か ら 刊行 され たその訳詩集 には

St

・ツヴ ァイ クが書 いた 「ラ ンボーの生涯 と作 品」 も収 め られ、

当時、 ドイツ語 圏の国で多 く読 まれた とい う

それ以後 も表現主義 の詩人 た ちの ラ ンボーへの 関心 は衰 え ることがな く、 さま ざまな ラ ンボー紹介 が試 み られた。

た とえば、

Th

・ドイ プ ラ‑

(18761934)

K ・L

・アマ‑訳 の 『ラ ンボー詩集』 に満足 で きなか ったために、詩 「 皇帝 の怒 り」 を訳 してイ ンゼル出版社 に送 り、 さ らにその訳 を彼 が編 集 した詩集 『おん ど り 』

(1917

年) に も収 めた。 これ は ドイ プラーの ラ ンボーへ の関心 の強 さ を物語 る逸話 であるが、彼 はその後 も 『醜酎船』 を初 め ラ ンボーの作 品をい くつか翻訳 した。

また、

P

・ツ ェ ヒは

1924

年 に 『酷 酎船』 の表題 で ラ ンボーの生涯 を上 演用 のバ ラー ドで措 いたが、 彼 はまた 『イ リュ ミナ シ ヨ ン』 な ど も翻訳 し、

1927

年 には 自 らの 自由訳 による 『ラ ンボー全集』 を上梓 した。

そ して、 ヴ ォル フ ェ ンシュタイ ンも

1930

年 に 『アル チ ュール ・ラ ンボー :生涯 ・作 品 ・書 簡』 を著 したが、 そ こで は ラ ンボーの ほぼ全作 品が紹介 されていた。彼 の場合、 ラ ンボー受容 は と くに表現主義 の文 学研究 と関連 して いたので、 「表現主義 の詩人 に見 られた熱狂 的な叫 び は ラ ンボーに も表 れて いた。 その ほか、 た とえば‑ イムに見 られ た、集 団的描写 による単調 な 大都市 の光景 もラ ンボー に先例 を見 ることがで きた 」 1 7 )な どと分析 して いた。

さ らに、 チ ュー リヒ‑ダダの旗手

H

・パル (

18861927)

1916

年 の 日記 で 「我 々の星 にア

ル チ ュール ・ラ ンボーの名 が欠 けることがあ ってはな らない。我 々は、知 らず して、欲せず し

て、 ラ ンボー主義者 で あ る

彼 は我 々の さまざまな姿勢 や多感 な逃避行 の守護者 であ り、現代

の美 的荒廃状態 の星 で あ る

ラ ンボー は二つの部分 に分 かれ る

詩人 であ り、手 に負 えぬ反抗

者 であ る

そ して、後者 の方 に圧倒 的な意義 が ある」1 8 )と語 って いた。

(6)

b)

エ ミール ・ヴ ェラー レン (

1855‑1916)

ほ ど、

1920

年以前 の ドイ ツの前衛的文学集 団で 愛読 された詩人 はいなか った。彼 はやがて フランス語 圏の国では忘 れ られて しまったが、 ドイ ツ表現主義 には長 い間、影響 を及 ぼ した。 ベ ッヒャ‑か らシュクー ドラーに至 るまで何人 もの 詩人が ヴ ェラ‑ レンの と くに言語使用 と表現技法 を学 び取 った。

St

・ツヴ ァイ クは

1902

年 にブ リュ ッセルで初 めて ヴ ェラ‑ レンに会 って以来、 ドイツにお け るヴ ェラー レンの熱心 な紹介者 にな った。彼 は早 くも

1902

年 にヴ ェラー レンの作 品を翻訳 す る計画 を立 て、 その後、精力 的 にヴ ェラ‑ レン研究 に取 り組 んだ結果、 まず

1910

年 に著書

『エ ミール ・ヴ ェラ‑ レン』、翻案 『ヴェラー レン詩選集』、『ヴェラ‑ レン三戯 曲』 を出版 し、

この成果 によって彼 の名前 は当時の ドイツで ヴェラ‑ レンと深 く結 びつ くことにな った。無論、

ツヴァイ クはヴェラ‑ レンの最初 の紹介者 ではな く、彼 よ り早 く

1905

年 に ヨ‑ネス ・シュラー フがヴェラ‑ レンに関す る本 を出 していた。 また、ゲオルゲ も先述 の 『同時代 の詩』でヴェラ‑

レンの訳詩 を数篇発表 していた。 しか し、それ らの紹介 はツヴ ァイ クの影響 には及 ばなか った。

ツヴァイクの著書 は ドイツで出版 され ると、たちまち同年 にフラ ンス語 に翻訳 され、 メルキ ュー ル ・ド・フラ ンス社 か ら発行 された。 その著書 の成功 によ って、 ヴ ェラ‑ レンは ドイツで多 く の読者 を獲得 し、 よ く知 られ る作家 とな り、 ドイツ文化 の一画 に位置す ることがで きた。 ドイ ツ現代詩の主要 な主題 の一つ、 と くに生 の肯定、生 の賛美 はヴェラ‑ レンの影響 に拠 るといわ れてい る1 9 ) 。 ヴ ェラ‑ レンが ドイ ツで いか に関心 を集 めて いたか は、

1912

年 に行 われた彼 の ドイツ講演旅行 の成功 のみな らず、『ヘ レナの帰郷』 がパ リに先立 ってベル リンでマ ックス ・ ライ ン‑ル トによ って上演 された事実 によって も明 らかで ある

C)

ポール ・ク ローデル

(1868‑1955)の作品はかな り早 い時期 に ドイツ語 に翻訳 されたが、

その際、『交換』 が 『ヒュ‑ぺ リオ ン』誌 に掲載後 に本 と して出版 された よ うに、一つ の作品 が何度 も繰 り返 して翻訳、紹介 され ることが しば しばあ った。

ドイ ツにお け るクローデル の作 品 の翻訳 や紹介 にはヤ‑ コプ ・へ ‑ グナ‑(

1882‑1962)

が大 きな役割 を果 た していた。 へ‑ グナ‑はへ レラウで出版業 を営むかたわ ら、 お もに現代 フラ ン スのカ トリックの作家の紹介 に努 め、 とくにクローデルの作品を数多 く翻訳 していた。 ヴィ リ ・

‑ースは当時を回想 して 「 私 は、 ヘ レラウにいる友人へ‑ グナ一によ って、 クローデルのい く つかの作 品を読 ませ て もらった。彼 の青年期 の作 品 『真昼 に分 かつ』、新作 『マ リアへのお告 げ』、 と くにそれ以前 の二 つ の戯 曲 『黄金 の頭』 と 『七 日目の休息』 とであ った。 それ らの作 品 を私 は息 もつかず に読 んだ。 その大部分 はヘーグナー 自身 が優 れ た翻訳 を していた 」

20)

と 語 っていた。

ちなみに、 ヘ‑ グナ‑訳 の 『マ リアへのお告 げ』 は当時、大 きな反響 を呼 び、 それがヘ レラ ウで

1913

年 の第

2

回ダル クローズ学校祭 の折 に上演 された ときは、Th・マ ン、 リルケを初 め、

多 くの作家 や芸術家 がそ こを訪 れた

2

1 ) 。 た とえば、H ・パル は 「ヘ レラウで クローデルの 『マ リア‑のお告 げ

を観、 当時 まだ新進 の フラ ンスの詩人 で あ り、領事 であ った クローデルにつ いてのヘー グナ‑の特別講演 を非公開の席で聴 いた。 ヘ‑ グナ‑は クローデルの翻訳者 である と同時 にその発行者 で もあ り、彼以上 に深 い尊敬 と確 かな知識 を持 って クローデルを語 ること のできる者 はほか にいなか った

22)

と述べた。

ヘ‑グナ一につ いては ドイツの百科事典 に も記載 がない ことが多 く、彼 の行 った文化活動 も あま り知 られていな

。 しか し、ヘ レラウでの翻訳 や出版活動 は、 ヨー ロ ッパ、 と くに独仏 の 文化交流 の発展 に少 なか らぬ貢献 を したので、彼 の功績が今後、広 く紹介 され ることが望 まれ

‑ 130‑

(7)

松尾早苗 ドイ ツ表現主義 にお けるフラ ンス文学受容 ノ イエ・ ブレッ ター

た とえ ば、彼 は表現主義 の文学‑哲学 的雑誌 『新 草 紙』 の発行人 を務 めていた

1912

年 に、 同時代 の フラ ンスの知性 の紹介 に尽力 し、 クローデルのほかベル クソン、 ジャム、ぺギー、

シュア レスな どを 自 らの翻訳 でその雑誌 に掲載 していた。

そ して、

191

3年 にはカール ・アイ ンシュタイ ン

(18851940)

が 『ヴ ァイセ ・ブ レック‑』

誌 に 「ポール ・クローデル論」 を発表 したが、 そ こではクローデルの文学的特徴 がマラル メ、

ジッ ド、 ラ ンボー との対比 によ って鮮 やか に描 き出されていた。

d)

フランシス ・ジャム (

18681938)

の文学世界 は深 い拝惰性 とキ リス ト教信仰 に貫 かれた 宗教性 に満 ちてお り、表現主義 の詩人 たちによ く見 られた熱狂 や暗 い幻想 とは共通す る点がな いように思 われてい るが、 シュクー ドラーは ジャムの 『 十 四の祈 り』 と 『さまざまな詩』 のほ か、『恭順 の祈 り』 を翻訳 した。 と くに 『恭順 の祈 り』 は表現主義 の代表 的叢書 『最新 の 日』

に収 め られて好評 を博 し、

1917

年 に第

2

版、

1920

年 に第

3

版、

1921

年 に特別版 が発行 された。

また、

1916

年 にはヘ ー グナーの翻訳 で 『野 うさぎ物語』 が 出版 され たが、 この訳書 は 『シュ トゥルム』誌 の代表 的詩人

Fr・R

・ベ‑ レンス

(189511977)

21

歳 の従軍 中に塑壕 のなかで 愛読 した本 と して知 られ る

さ らに

1918

年 には、叢書 「 最新 の 日」 の第

58/59

巻 に ジャムの

『 楽園 ( 物語 と考察)』が

E・A

・ライ ン‑ル トの翻訳 で収 め られた。

このよ うに ジャムの作 品が表現主義 の詩人 たちの関心 を得 た ことはやや意外 に思 われ るか も いれない。 しか し、 ジャムの 自由詩 に近 い詩形式や詩 と散文の融合 を図 った 自然詩 は訳者 のシュ クー ドラーの詩作 に も影響 を及 ぼ した と言 われ、 と くに

Gebet

,‑」 で始 まる 『十 四の祈 り』

はシュクー ドラーの長行詩 にその痕跡 を見 ることができる

2

3 ) 。実 際、 ジ ャムは表現主義 の詩人 たちの反対像 と して、つ ま り彼 らを補完す る詩 的存在 と して受容 された面 もあ り、 この点 に も 表現主義 の文学 の多様性 を窺 い知 ることがで きる。

e)

レオ ン ・ドゥーベル

(18791913)

につ いては主要 な文学事典 に も記載 がな く、 その生涯 と作品 もほ とん ど知 られていない。 しか し、表現主義の詩人 たちは この フラ ンスの稀有 な詩人 に少 なか らぬ関心 を抱 き、彼 の詩 を雑誌 な どで紹介 していた。

早 くも

1912

年 に、 表現主義 の詩人 で出版人 の

A・R

・マイヤーは彼 が発行す る叢書 『 拝情 詩 の ビラ』 の第

19

巻 で ドゥ‑ベルの詩集 『ほかの ところで

(Ailleurs)

を フラ ンス語原文 で 発行 した。 これ に対 して ドゥーベル は 「 私 は、数貢ではな く主要 な詩集 によ って人 々に評価 さ れ得 る点 に到達 しま した。 その詩集 は ドイツで私 の詩人像 を示す のに役立つで しょう

私 には それで十分 です。 <拝情詩 の ビラ>に収 め られ ることを貴殿 に感謝 します。私 は 自分 のあま り に辛 い人生 に失望 してお り、 か ろ う じてペ ンを執 ることがで きるのみです 」

24)

とマイヤーに 書 き送 った。

ドゥ‑ベルが

1913

6

12

日にマル ヌ川で投身 自殺 したあ と、

A・R

・マイヤーは

1913

9

1日発 行 の 『マ イ ア ン ドロス叢 書25)

6

巻 を 「レオ ン ・ ドゥ‑ ベ ル 追 悼 号

(Im memoriam LeonDeube

l ) に した。そこには、

R

・レ‑オ ン‑ル ト、

Fr

M

・カーエ ン、

A・R

・ マイヤーによって翻訳 された ドゥ‑ベルの詩

13

篇 に続 いて、 ルイ ・ベル ゴー、 グ レーグ、

G

・ デ ュアメル、 レオ ン ・ボケ、 ヴィル ドラ ック、H ・ギルポウな ど ドゥ‑ベル と親交 があ った作 家 たちによる追悼 文 や批評 が収 め られていた。 また、 同巻 の付録

(Beiblatt)

に も、彼 の詩 を 翻訳 した表現主義 の詩人

Fr・M

・カーエ ンの書 いたエ ッセイ 「 パ リの詩人」が掲載 されていた。

ドゥ‑ベルの詩 は 『マイア ン ドロス叢書』以外 にも、『アクツイオ‑ ン』誌 ・第

3

巻(

1913

年)

4

篇、 『新 芸術 』 誌 ・第

1

号 (

1913

年 )に

5

篇、 『新 パ ー トス』 誌 ・第

1(1913

年 ) 、 第

2

(8)

(1914

年) に

10

篇掲載 された。 そ して、

1914

年 には

P・ツェヒによ って ドゥーベルの ソネ ッ ト 8

篇の翻案 『赤光 の走 った夜』が出版 された。

表現主義 の詩人 たちが ドゥーベル に関心 を抱 いた理 由の一つ には、彼 の孤高 の存在 のみな ら ず、「あま りに辛 い人生への失望」 という実存の危機への共感があ ったように思われる。つま り、

ドゥ‑ベル もまた 「呪われた詩人」 であるとい う表現主義 の詩人 たちの認識 が彼 らの心 を とら えたのであ る

ドゥ〜ベルが崇拝 したヴェル レ‑ ヌは評論集 『呪われた詩人 たち 』

(1884

年) で彼 自身 のほか、 ラ ンボ‑、 マ ラル メな ど 「 世 に理解 されない詩人 たち」 の肖像 を描 いていた が、表現主義 の詩人 たちには彼 らと同様 に ドゥ‑ベル もその系譜 に入 る詩人 と捉え られたので ある

実 際、 ドゥ‑ベルの私家版 『内面 の ソネ ッ ト 』

(1903

年) では 「呪われた詩人 たち」 の 項 目で 「ラ ンボー」、 「ヴェル レ‑ヌ」、 「ラフオル グ」 と題 す る

3

篇 の ソネ ッ トが詠 われていた が、 ドゥ‑ベルがそれ らの詩人 に自分 を重ね合わせていた ことは明 らかであ った

2

6 ) 。

f )ヴ ォルテールへの関心、 とくに小説 『カ ンデ ィー ド』への興味 は表現主義 の世代 に顕著 で あ った。 この理 由には、 その小説 の主人公 が戦争、海難、大地震、殺人、処刑な ど、 この世 の あ らゆ る苦難 と災禍 を体験 していた こと、 また悪が善 に勝 るとい う社会 の矛盾 ・不条理 が表現 主義 の詩人 たちの現実認識 と合致 していた ことが考 え られた。

実 際、 『カ ンデ ィー ド』 の独訳版 は

1913

年 か ら

1922

年 までの間 に五種類 もそれぞれ著名 な 画家の図版 や挿絵 を付 して大手 出版社 か ら発行 された。無論、 その傾 向にはその小説への興味 のみな らず、 ヴ ォルテールの知性への関心 も強 く影響 していた と思 われ る

た とえば、 シ ッケ レは早 くも

1905

年 に哲学 的無神論 と放蕩無頼 の側面 か ら措 いた ヴ ォルテール評伝 を発表 して い

27)

そ して、行動主義 の旗手

H

・マ ンも評論 『ヴォルテール‑ ゲーテ』 で 「フラ ンスの民主主 義 の詩人 たちすべての心 に繰 り返 し延 って来 るのはヴォルテールである

‑彼 は嘆 にまみれな が ら人類 のために戦 う

‑・ 彼 はあ らゆる因習 的な もの、思考 や批判 の矢 を避 けようとす る無意 識 に生 じた ものを憎 む。 ・ ‑真理 が利害 に抗 し、精神 が権力 に立 ち向か うとき、彼 の名 は鳴 り響 いた」 と賞賛 していた。

さらに、第一次大戦 中の

1916

年 に

H

・パルは 「芸術上 の問題 を 自由に話 し合 うための中心 点 を作 り出す」 目的で ヴォルテールの名 を冠 したカバ レーをチュー リヒに開設 し、「 若 い芸術家

ゲゼルシャフト ソワレ

と文学者 の仲 間の会」 を立 ち上 げた。 そ して、そこでは 「フランスの夕べ」 と称 してアポ リネー ル、M ・ジャコブ、A ・サルモ ン、

A

・ジャリ、 ラフオル グ、 ラ ンボーな どの作 品朗読 が盛 ん に行われた。

Ⅳ.

表現主義の雑誌 とフランスの作家

PaulRaabe(Hrsg.):IndexExpressionismus.BibliographiederBeitageindenZeitschriftenund JahrbticherndesliterarischenExpressionismus191011925

,

SerieA in4Teilen

,

1972に拠れ ば、

お もな表現主義 の雑誌 におけるフラ ンスの作家 の掲載状況 は 【資料

1

】、 【資料

2

】 のようで あ った。以下 で は、 フラ ンスの作家 の掲載 が比較 的多 い 7 誌 を取 り上 げ、 その主要 な寄稿 を紹 介 したい。

‑ 132‑

(9)

松尾早苗 ドイ ツ表現主 義 にお け るフラ ンス文学受容

【 資料

1

】表現主義の雑誌、年報、 アンソ ロジー、作品集 におけるフランス作家の掲載状況

Der Die Neue Die Das Der Mもnchner

その他

Sturm Aktion Blatter WeBlaitstseenr Forum Friede BlDiu.Gracthtteaurfpnhgtiikr

Alain10 1 3 6

Apollinaire13 8 Di1,DeeBbcrMihersetriMaalliandros3,CabaretVoltaire

Barbusse18 1 3 4 2 DiDeeBbrSchrcheey1rkiste1

,

DieF16te5

,

Menschen1,

Baudelaire21 6 3 Au11,Da,DefschsHorZwewunheUfglema,Denen4r1rBr,Phenaneetr1on,Dal,PasDanlc,Shstiubriues Cendrars12 7 3 CabaretVoltaire

l

,ReVolutionl

Claude124 1 1 7 1 3 1 AuHeDerSfrsdcehtrwuuBlrmrng 1atteeitrlerl,,DaDaimosHon 3heUf, Diee Frr2,Seuirdiuesl ,

l ,

Deube132 4 Di5,DaeBdsNecheuePareiMathoias1ndr0osl3

,

DieNeueKunst Duhame15 3 1 DieBtichereiMaiandrosl

Flaubert14 1 3 5 1 Pan4

Francell 1 4 2 Genius1

,

Menschenl,Panl,DasTribunall

Gide6 4 1 Aufschwungl

GuilbeauXll 1 1 DieBbchereiMaiandros1,DieErde8 He1106 1 1 2 1 DerBrennerl

Jammes55 9 9 15 7 DeDaDiOreNekrAnimoan1n3ub,DaeLiruc,Dih 1sTrteeFrra

,

tiur1buDieune凱cde1a

,

llDe,De

,

rZweheDarrSesHoiMaecmahrheUfeiny1anlndr,Deoes2r3r,,

Lafbrgue14 9 3 1 HerderBlatter1

Marinetti15 8 4 DeDie凱crMishetrarelliMaiandros

l

,CabaretVoltaire

l ,

Peguy10 6 1 DeSatrBrurnlenner

l ,Di

e NeueSchaub助nel , Philippe7 1 1 1 DieArgonautenl

,

Genius3

Rimbaud23 4 1 1 7 AuSDechrVefascubhwudnhtninlagetoll ,r2,DaDisNeeReutePatung4tho,s1Ro,DimaeNentiklue

,

RiViere7 6 1

Rolland22 2 14 2 GeSicniheullsl ,DasHoheUfer1,Konstanz1

,

Die Schwob5 1 1 2 DieNeueLiteraturl

Suares18 6 4 4 1 Daimonl,DieNeueKunst

l

,Summal

Verhaeren25 10 1 6 DiPaれleBti

,

cheDerrRufkistel

l , ,

DasNeDerZweuePatemannlhos4

,

(10)

【 資料 2】ダダの雑誌 におけるフランス作家の掲載状況

DerSturm (1922‑ )Dada DieSchammade

備考

Aragon8 2 5 1

掲載作 品の ジャンルは詩 が多 い

Breton6 2 3 1

掲載作 品 は短篇 と詩

Eluard8 4 2 2

掲載作 品の ジャンルは詩が多 い

Ribemont‑DessalgneS7 3 3 1

Soupau

l

t8 3 4 1

掲載作 品 は短篇 と詩

a)

『シュ トゥルム』誌

(DerSturm)

1910

年 に

H

・ヴ ァルデ ンが編集人 とな って創刊 した この雑誌 は、『アクツイオ‑ ン』誌 とと もに当時の文学、美術、音楽の領域での新 しい芸術運動 を推進 した。 この雑誌の意義 と使命 は、

1918

年 に書かれた広告文 に も 「< シュ トゥルム>誌 はどの巻 も ドイツおよびヨーロッパの精神 史の もっとも重要 な時期 を捉えている

<シュ トゥルム>誌 は文学、音楽、素描、木版画の領 域でつねによ り大 きな意義へ向か って発展す る能力 を持つ新進 の作 品だけを掲載 してきた。 そ れゆえに、 <シュ トゥルム >誌 は新 しい時代 の芸術の発展の全容 を示 している

28)

と誼 われて いた。 実 際、早 くも

1912

年 にこの雑誌 には前衛作家 の作 品が掲載 されていたが、 それ ととも に同時代 の外 国の作家、 と くにフランスの作家が ここに発表 の場 を得ていた。寄稿数 の比較 的 多い作家 の掲載 には以下の ものがあった。

アポ リネール : 「カ ンデ ィンスキー論」、「 現代絵画論」、「アーチペ ンコ論」、「 写実性 ・純粋 絵画」、「 詩 ・地帯」、 (フランス語 の)詩な ど。

サ ン ドラール :

(R

・ブ リュ‑ムナ‑の翻訳 による)「ア ンリ ・ル ソー論」 、「 詩 ・マルク ・シャ ガール」。

ラフオル グ : マ リネ ッテ ィ

(M

・ブロー トの翻訳 による)詩

9

篇。

「 未来派宣言」、「 未来派第二宣言」、「 未来派文学技術宣言」、「 未来派文学技 術宣言 ・補遺」。 これ らの宣言 はすべて‑ ンス ・ヤーコプ ( 筆名 ジャン‑ジャッ

ク) の翻訳 で掲載 された。『未来派宣言』 は

1909

年 に 『フィガロ』紙 に発表 されたが、 この独訳 は

1912

年 に掲載 された。 ちなみに、

H

・ヤーコプは表現 主義 の作家 であ ったが、早 くか らジャン‑ジャックの筆名 で フランス文学 を 数多 く翻訳 していた。

ラ ンボー (ジャン‑ジャックの翻訳 による) 「 未公開書簡」、

(H

・ホルヴ ァ‑ トの翻訳 によ る)詩

3

篇。

リヴ ィエール : ( 各 々ジャン‑ジャックの翻訳 による) 「ボー ドレール論」、 「セザ ンヌ論」、

「ゴーギ ャン論」、「クローデル論」。

なお、

1922

年以降の 『シュ トゥルム』誌 には、 【資料

2

】 に見 られ るように、 チュー リヒ‑

ダダの雑誌 『ダダ』 や ( 独仏両言語表記 の) ケル ン‑ダダの雑誌 『シャマ‑デ』 に も寄稿 して

‑ 134‑

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