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ステージ・リポートW︵上︶
角 田 達 朗
来年度︑すなわち平成十年度から︑本学科において演劇研
究のゼミが開設される運びとなり︑私がその担当に決まった︒
これに伴い︑私はゼミ運営の準備も兼ねて︑以前よりも幅広
く演劇を観るようになった︒私自身が小劇場演劇に関わって
いたので︑以前から舞台に接する機会は持っていたが︑それ
はおおむね小劇場での公演に限られていた︒今年は︑ゼミを
受講するであろう学生達の多様な二ーズを考慮し︑なるべく
多くの舞台を網羅的に観るよう心掛けたのである︒
以下は︑今年の二月下旬から十一月までの間に私が観た公 演ほぼすべてに︑論評を加えるものである︒二月下旬から始
めるのは︑それ以前は私が演出と制作を担当した舞台に忙殺
されていて︑他の公演を観る余裕がなかったからである︒十
一月で終るのは本誌の締切の関係である︒また︑自分が観た
公演をほとんど取捨選択せずに取り上げるのは︑ある程度ま
とまった数になることで︑記録として意味あるものになるの
ではないかと考えたからである︒ ただし︑以下に該当する公演は︑本学の今年度紀要に掲載 予定の下篇で取り上げることとし︑ここでは割愛した︒ ◎七ツ寺共同スタジオの二十五周年記念企画に関連する公 演︒︵人口子宮﹃e99S﹄を除く︒︶ ◎アクターズ・フェスティバルNAGOYA暫上演作品︒ ◎能・狂言・歌舞伎・新劇二・︑ユージカル ◎シェークスピア劇︵第三エロチカ﹃マクペスという名の 男﹄を除く︒︶ ◎名古屋圏以外での公演 なお︑以下の公演のデータ末尾に﹁某日某席観﹂等とある のは︑私が観た日時・席種等を示す︒席種が分かれていない 公演については︑日時のみ記した︒
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小劇場における地元劇団の公演
小劇場とは︑一般的にはキャパシティーが四百人くらいま
での劇場を指す︒私個人の感覚では︑劇場を﹁小さい﹂と感
じるのは二百五十席くらいまでで︑三百人を越えると﹁結構
広い﹂となるが︑ここでは一般的な基準に従った︒
ちなみに︑名古屋市が各区に一館の建設を目指している文
化小劇場は︑各区一館の方針に象徴される機械的平等主義に
よって︑舞台と客席もほぽ同じ仕様になっており︑キャパシ
ティーはいずれも約三百五十人前後︒小劇場としてはかなり
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広い部類に入る︒こんな劇場が果して各区に一館必要なのか
は疑問である︒それよりは練習場を増やしたり︑あるいは︑
つかこうへい事務所と提携した東京都北区や大分市︵後出︶
のように︑舞台人の育成に力を注いだりする方が︑余程前向
きだろう︒駅から歩いて行けないような辺鄙な劇場や︑舞台
専用の搬入口を持たない劇場など︑箱物行政の欠陥を露呈す
るばかりで︑舞台芸術の発展に寄与する可能性は低い︒たく さん劇場を建てるなら︑せめて欧米のように︑実際にセット
を組んだ舞台でみっちり練習できるよう︑長期間安く貸すよ
うにしてもらいたいものだ︒ また︑これは名古屋市のみならず愛知県の施設にも言える
ことだが︑公共の会館なのに託児施設がない所が多い︒私の
知る限りでは︑ウィル愛知に託児施設があるが︑それが﹁女
性に配慮した﹂などと麗々しく謳われることには疑問を禁じ
得ない︒税金によって運営される会館なのだから︑納税者の
便宜に心を配るのは当然のこと︒託児施設がない方がおかし
いのだ︒あることを誇るのは︑所詮役人にお上意識が脱けて
いないことの証拠でしかない︒公共のホールは︑概してロビ
ーはそこそこ広いのだから︑公演時に託児スペースを仮設す
るくらいのことは不可能ではあるまい︒託児の有資格者を紹
介する業者もあるのだから︑公演時のみ臨時で来てもらえば
良い︒費用がかさむというなら︑受益者負担を原則にしても
良かろう︒︵もっとも︑全区に劇場を建てるほど資金潤沢な自 治体に︑託児施設を仮設する金がないとは考え難いが︒︶ それでは︑小劇場で行われた公演を概観して行こう︒まず は︑オリジナル台本の上演から︒ 人ロ子宮﹃桟橋で逢いましょう﹄︵作・演出 大川敦/七ツ 寺共同スタジオ 三月二十一〜二十三日/三月二十二日昼 観︶は︑川なのか海なのか︑コンクリートで護岸された岸辺 が舞台︒コンクリートの堤防に木の梯子が立て掛けてあり︑ 役者は堤防から梯子を伝って降りて来る︒岸から木の桟橋が 突き出している︒水面らしい部分に黄土色の絨毯が敷いてあ るが︑これは淀んだ水をイメージしたものだろうか︒舞台と 客席とがちょうど川の両岸のように向かい合っているために︑ 観客はちょうど対岸から他人の会話を覗き込み︑聞き耳を立 てるような格好になる︒作り手はそこまで計算したのだろう か︒ともかく︑そのことが私には大変面白かった︒ 登場人物は五人︒田舎町の営業所で働く松田︑その営業所 に新しく赴任して来た桜木︑近くの喫茶店でウェイトレスを している皐月︑アマチュアバンドをやっている藤井︑松田の 妻・夏子︒松田を演じた宇佐美亨は︑一見ぷっきらぽうだが︑ 味がある︒皐月は︑荘洋としてつかみどころのない所がかえ
って魅力になる女という︑難しい役所だが︑臼井美佳は全く
演技を感じさせることなく︑自然体で演じ切った︒この二人
に限らず︑芝居全体が日常的リアリズムと言えば良いだろう
か︑いわゆる﹁芝居﹂がかったことを極力排し︑日常の断片
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のようなさりげない場面を積み上げる作風である︒コンクリ
ートの堤防によって外界から隔絶されたのどかな岸辺で︑登
場人物の他愛もないおしゃべりが延々と繰り広げられるのだ
が︑そのさりげなさゆえに自然に笑いを誘う所もあって︑作
り手の巧みさを随所に感じた︒ その一方で︑日常的リアリズムに徹し切れていない部分も
目に付く︒芝居の始まりで︑登場人物が設定の説明をするよ
うな台詞を言うのは︑この手の芝居の作り方としては安易だ︒
また︑劇場の構造の問題で堤防のすぐ上に梁があるのだが︑
役者が堤防から降りて来る時その梁を手で避ける動作をして しまう︒役者が時折左右のそでに退場するのだが︑これは芝
居の設定として︑どこに通じることになるのかわからない︒
役者が岸から黄土色の絨毯の部分に︑靴を履いたまま無造作
に降りることが何度かあったが︑だとすれば︑この絨毯部分
は砂なのか︒しかし︑コンクリートの岸から更に砂浜が伸び
ているというのも不自然だ︒また︑万年営業所勤務の松田の
服があまりくたびれていないのも気になった︒仕事に意欲の
ないことを公言するキャラクターには︑もっとくたびれた服
か︑あるいは遊び人風の服がふさわしい︒
終盤唐突に︑松田が営業所の金を持ち逃げして皐月と駆け
落ちしたことが明らかになるρこのような急転に至る具体的
な過程は︑ほとんど描かれない︒この唐突な転回は︑それま
での静かな芝居の流れを一瞬断ち切って見せるという意味で 面白い︒のみならず︑私達が他者の行為について知り得るの は所詮外から見える結果だけだという自覚を促すという意味 で︑リアルであった︒ ただし︑夏子が桜木に︑松田の持ち逃げ・駆け落ちについ て語る場面など︑単なる状況説明の域を出ず︑妻としての想 いは全く表現されていなかった︒夏子は桜木に対して特に心 を開いているわけではないから︑心情を直接吐露しないのは 不思議ではない︒しかし︑何かしら間接的にでも表出する所 があっても良いのではないか︒日常的リアリズムから自然体 の芝居を作ろうとすれば︑﹁劇﹂的なるものを極力排除するこ とになるのだろうが︑劇的なるものの排除という手法自体が 目的化すれば︑かえって理に落ちた不自然な舞台になる危険 性がある︒その点は︑検討する余地がある︒ 同じ劇団のもう一つの公演も続けて取り上げておこう︒ ﹃e99S﹄︵原案・演出 大川敦/七ツ寺共同スタジオ 十月十七〜十九日/十七日観︶は︑アクション活劇風の味付 けが施されており︑前作とはかなり趣の異なる舞台となった︒ 役柄も︑等身大の演技では演じ切れないものばかりであり︑ 劇団として新たな作風に挑む姿勢を︑鮮明に打ち出した公演 だった︒大川敦と安田幹の格闘は迫力があったし︑前回やや 存在感の薄かった伊藤清も今回は好演している︒宇佐美亨も 持ち味を十分出していた︒ただ︑臼井美佳は先端技術の研究
者という役柄が合わなかったのか︑前回に比べると物足りな
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かった︒ いわゆる裏稼業の人間二人が何者かの依頼で︑ある研究所
を襲い︑そこの所員を誘拐する︒その前後の模様を︑アジト
にされた小屋を舞台にして描いている︒襲撃の場面はなく︑
登場人物の会話からその様子を想像するほかないのだが︑実
はそれが伏線になって︑終盤どんでん返しがある︒前作でも︑
持ち逃げ・駆け落ちの現場やそこに至る過程など︑最も﹁劇﹂
的な部分を省略していたが︑今回の方が劇の進行の中で省略
を活かしている分︑作劇としては高度になったと言える︒そ してその分︑唐突な感じがしなくなり︑省略そのものに驚か
されることもなかった︒ ワン・シチュエイション物という点も前作と同様だが︑今
回は小屋の中が舞台のため︑観客は壁の向こうの︑現実なら
見えるはずのない出来事を観ることになった︒勿論こんなこ
とは︑通常の演劇ではごく当り前の作法なのだが︑この作品 が﹁劇場の無意識﹂という共通テーマを掲げた演劇祭で上演
されたことを考えると︑当り前と言って済ますわけにも行か
なくなる︒
通常当り前とされて深く考えられないような約束事︑それ
こそ﹁劇場の無意識﹂というものだろう︒果して︑今回この
劇団が当り前の約束事に頼る芝居作りをしたのは︑テーマを
意識して敢えてそうしたのか︑はたまた︑テーマとの関連を
深く考えなかったためにそうなってしまったのか︒﹁劇場の無 意識﹂をテーマとして上演を行う場合︑﹁無意識﹂の部分を可 能な限リゼロに近づけてみるのも一つの方法だが︑これとは 反対に︑﹁無意識﹂の部分を過剰にすることで︑これを明るみ に出すという方法も考えられよう︒しかし︑私には︑﹁無意識﹂ の部分が過剰に拡大されているようには見えなかった︒今回 の上演において前回より顕著なものと言えば︑作劇の巧さと オーソドックスさであり︑エンターテイメント色である︒だ とすれば︑テーマとの関連を深く考えずに﹁無意識﹂に頼っ てしまったと判断せざるを得ない︒ 私は別にエンターテイメントがいけないと言いたいわけで はない︒観客を楽しませるということは︑それ自体高度なこ とであるし︑自己満足を排する冷徹さがなければならない︒ その意味で︑私はきちんとしたエンターテイメントに敬意を 表するし︑今回の公演も評価できる︒ただ︑観客を楽しませ ることと︑観客に自らを省みる契機を与えることとはなかな か両立しないものだ︒そもそも自分自身を振り返るというこ と自体︑必ずしも楽しいことではない︒しかし︑自らを省み ることなしに︑認識の本質的な更新はありえない︒ 前回の公演は︑舞台と客席との位置関係や︑大胆な省略に よる唐突な転回のために︑何かしら自分の意識を揺さぶられ るような印象があった︒ところが︑今回はそれがなく︑良い 意味でも悪い意昧でも︑安心して観ていることができた︒作
劇術という点から言えば︑これは確かに進歩なのだ︒劇団と
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して新たな作風を切り拓き︑芝居作りの幅を拡げたこと︒そ
のこと自体は素晴らしい︒ただ︑そのことによって彼らの芝
居作りの可能性の一つが後退してしまわないかと︑私は不安
も覚えたのである︒ 翔航群﹃9ang saw︐Jean Seen by elbye﹄︵作・演出 服部道和/愛知県芸術劇場小ホール
三月二十二・二十三日/三月二十三夜観︶は﹁心﹂を主題
とする近未来SF︒タイトルは﹁元祖人身売買﹂と読むのだ
そうで︑この手の駄酒落は劇中何度も出て来るが︑笑えたの
は一回だけだった︒
開演早々︑﹁私﹂なるものをめぐる思わせ振りな会話が始ま
る︑それも思い切り仰々しい演出で⁝⁝︒元来︑演劇という
表現形態は︑舞台上での他者への変身という契機を不可避的
に内包するが故に︑﹁私﹂捜しごっこの格好の実験場となり得
る︒かつて80年代に小劇場演劇の世界で﹁私﹂捜しが一種の
流行のようになったのも︑その意味では無理からぬことでは
ある︒しかしだ︒﹁私﹂捜しは要するに︑今現にここにいる私
を﹁本当の私﹂ではないと見なす所から始まる︒とすれば︑
それは﹁本当の私﹂を捜すという表向きの目的とは裏腹に︑﹁現
実の私﹂から逃避するという裏の意図をも併せ持つことにな
る︒一方で︑そもそも舞台人とは︑﹁今﹂﹁ここ﹂への執着が
人一倍強い人種であり︑だからこそ︑一回性の舞台に全力を
傾注できるのだ︒それ故に︑﹁私﹂捜しを主題とする芝居は︑ ﹁今ここにいる私﹂から逃避する登場人物を︑﹁今﹂﹁ここ﹂に この上なく執着する出演者が再現するという︑誠にそらぞら しい状況を作り出すことになる︒そもそも﹁私捜し﹂とは︑﹁今 現にここにいる私﹂を﹁本当の私﹂と認めることのできない 不幸な精神のあり方を示すものである︒だとすれば︑﹁本当の 私﹂という幻影をいかに捜し出すかよりも︑人はなぜそんな 幻影を抱くのかということの方が︑ずっと本質的な問題であ るはずだ︒現に︑そのような幻影に取り愚かれた者に︑﹁超能 力を持つ私﹂﹁アストラル体の私﹂﹁霊的ステージの高い私﹂ などなどの誘惑を与えれば︑﹁地下鉄にサリンを撒く私﹂にす ら変換できることが実証されているではないか︒ 近未来社会を舞台に︑アンドロイドや人工知能の問題をか らませつつ﹁心﹂についてしきりと語られても︑SFの領域 で繰り返し語られて来たことの粗い引き写しでは︑何の感慨 も湧いて来ない︒第一︑近未来SF自体︑小劇場演劇ではと うに定番︒あえて定番に挑むからには︑何かしら新味を出す 工夫があって然るべきだろうが︑実際には︑SF的設定を一々 台詞で説明されるのが骸陶しいばかり︒結局のところ︑近未 来SFは一種のファッションとして採用されているに過ぎな い︒作り手が﹁心﹂について本気で考えたいのなら︑まずそ ういうファッションを捨てることから始めるほかはない︒ プログラムには︑﹁このアツイ芝居を観て手に汗握り︑心も 体もアツクなって下さい﹂という一節がある︒なるほど︑思
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い入れたっぷりのモノローグ︑ここぞというタイミングで具
合よく流れ出す音楽⁝⁝︑芝居の表面は確かに熱い︒しかし︑
私の心も体もいっこうに熱くならなかった︒芝居の中身が少 しも熱くないのだ︒いくら作り手がドラマチックに見せよう
としても︑本当のドラマがそこにないのだから︒
この劇団は九月にも公演を行ったが︑見逃してしまった︒
近未来SFと言えば︑東海月光舎﹃月光少女伝脱﹄︵作・演
出 小松杏里/港文化小劇場 九月五ー七日/五日観︶も︑
近未来の学校を舞台にしたSFファンタジーだ︒長く東京で
活動していた小松杏里が︑今年名古屋で結成したばかりの劇
団だが︑本当に高校生かと思える若い役者を大勢集めている︒
役者に合わせたのか︑小松杏里自身の趣味なのか︑妙に若作
りした芝居︒ラストシーンでウルフルズのヒット曲を全員で
大合唱するに及んで︑私の方が赤面した︒
ストーリーも全く赤面物のお粗末さ︒とある学校に謎の転
校生がやって来る︒その日から生徒が一人また一人と行方不
明になる︒実は︑転校生はマヤ文明から時間を超えて戦士を
募りに来た王女だった︒行方不明になった生徒たちは︑実は
マヤの王女からコンピューターに依存する生活の空しさを教
えられ︑王女に助力すべく﹁自分の意志で﹂戦士になったの だ⁝⁝︒これを管理社会からの自立として︑さも素晴らしい
ことのように描くのだ︒
そもそも相手が﹁これが当り前﹂と信じている現在の生活 を否定し︑その代わりに神秘的な物語を注入することによっ て︑あたかも﹁自分の意志﹂であるかのごとく使命感を抱か せる︒これは︑ある種の新興宗教が得意とするマインドコン トロールの手口である︒統一教会然り︑オウム真理教然り︒ コンピューターによる管理を批判する一方で︑神秘的な物語 による洗脳を肯定するのは矛盾している︒ 山崎哲のように︑オウム真理教を擁護する演劇人もいるに はいるが︑まさか小松はオウム擁護の輪を広げるために︑わ ざわざ名古屋で劇団を作ったわけでもあるまい︒第一︑世間
一般の通念に反してマインドコントロールの意義を説きたい
なら︑通念を覆すような衝撃力を舞台に仕組んでおくはずだ︒
要するに︑この芝居の書き手は︑自分がどういう意味のこと
を書いているか︑十分自覚できていないだけなのだ︒ シアター・ガッツ﹃SKlP A GO!GO!﹄︵構成・
演出 品川浩幸/愛知県芸術劇場小ホール 三月二十八〜三
十日/三十日夜観︶は︑十四話からなるオムニバス風の作り
だが︑劇団主催者・品川浩幸が一人で書いた部分︵第1・2
・3・4・8・11・12・13・14話︶はストーリーとして連続 しており︑点景を重ねて一つの物語を伝えることに成功して
いる︒また︑他のメンバーの書いたーまたは他のメンバー
と品川の合作の コントが︑ストーリーとは無関係に挿入
されるが︑いずれも歯切れがよく︑恰好のアクセントになっ
ている︒全体にエンターテイメントに徹した作りで︑ふんだ
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んに笑いを盛り込み︑意表を突く展開もあって︑観客を飽き
させない︒ちょっぴり叙情の味付がしてしてあることも含め
て︑大変好感の持てる舞台だった︒ 役者では藤元英樹がずば抜けている︒女子プロレスラーに
拉致監禁されながら︑いつしかそのレスラーに情が移ってし
まう︑女好きのビストロ副マネージャーという複雑な役を︑
巧みに演じていた︒スポット的なシーンでは︑田中洋子の怪
演も光った︒演技陣全体で見ても︑十分水準に達しているが︑
傑出した役者がいる分︑どうしても他の役者が見劣りするこ
とになる︒いかに演技陣全体を底上げするかが︑この劇団の
課題だろう︒︐
そう思っていたところ︑この劇団は八月︑十一月と続けざ
まに公演を打った︒八月には初の東京公演も行い︑劇団とし
て飛躍の機会を窺うこととなったが︑残念ながら私は日程が
合わず︑見逃してしまった︒十一月には﹃ガッツトライアル
ー997﹄と銘打って冒険的な試みを行った︒ 冒険というのは︑劇団内でオーディションを行いキャスト
を絞り込んだこと︑公演期間内に二本の演目を交互に上演し
たこと︑そして︑その一本は女優五人︑もう一本は男優一人
という小人数の舞台であることをさす︒二本を交互に上演と
いうのは︑いわゆる二本立てとは異なる︒ 一本の演目につき
二千円︑二本セットで三千円という料金設定で︑観客はどち らか一方だけを観ることもできるのだ︒その反面︑両方観よ うとすると一日がかりになるか︑もしくは二日に分けなけれ ばならない︒ 一般に︑小劇場演劇に足を運ぶ観客は︑大抵その劇団のオ ールスターキャストを期待しているから︑キャストを絞り込 む事にさえ違和感を覚えやすい︒その上︑せっかく絞り込ま れたキャストがニステージに分けられて一度に観られないと なると︑相当に抵抗を感じるはずだ︒私が観た日に限って言 えば︑客の入りは芳しくなかったが︑こうした事態は企画段 階で予測し得たことだろう︒ 勿論︑客を集めることが公演を行う第一目的ではない︒劇 団としてのレベルアップのために︑いろいろな試みを行うの は当然だし︑その結果として︑興行成績が一時的に落ち込む としても︑それは仕方のないことだ︒しかし︑シアター・ガ ッツのようにエンターテイメント重視の芝居作りをする劇団 が︑これ程思い切ったことをやるとは︑正直言って驚いた︒ 考えてみれば︑この劇団の制作班はなかなか工夫好きで︑ 三月の公演では席番号を指定していたのが︑八月には列の指 定︑十一月にはブロックの指定と︑座席指定の方法を毎回改 めている︒指定の仕方としては順次緩やかになって来ている わけで︑それならいっそ全席自由でも良さそうなものだが︑ まあ︑試行錯誤ということだろう︒チラシの文面によると︑ 今回の﹃トライアル﹄の企画も制作サイドから出たそうで︑ なるほどと思った︒今回は興業的には失敗のようだが︑これ
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に懲りず︑今後も新しい試みに挑んでもらいたいものだ︒ さて︑今回の上演作品は﹃Hustle!Mustle! Dryfizz!ーハッスル!マッスル!ドラスフィズ!
1﹄︵作 小島敬子/演出 品川浩幸/十一月二十七日・二 十九日夜・三十日昼/二十七日観︶と﹃Her Favor ite Son9!1彼女の好きな歌1﹄︵作・演出 品
川浩幸/十↓月二十八日・二十九日昼・三十日夜/二十八日
観︶の二本︒
﹃ハッスルー﹄は︑三月公演でスポット的なシーンをいく
つか書いた小島敬子の脚本︒三月同様︑主要な役で出演もし
ている︒二十五歳のOL五人が︑一年以内に結婚しようと焦
る様子をコミカルにスケッチしており︑そこに描かれている
世界は︑デフォルメされてはいるが︑出演者と同世代の女性
たちの等身大の日常と言うべきものだ︒しかし︑そのことが
かえって災いしている面が多いように私には見えた︒
演じられているキャラクターに対して︑演じている本人が
きちんと距離感を保てていないと言えば良いだろうか︒演じ
手にとって︑身近で感情移入しやすいキャラクターだからだ
ろうが︑どうも芝居がじっとりしているのだ︒
しかも︑この劇団は︑役者のアクの強さが持ち味だが︑等
身大のキャラクターを演じたのでは︑アクの強さが活きない︒
あるいは︑いつまでもアクの強さだけでは先細りになるとい
う危機感もあって︑新境地に挑んだのかもしれないが︑今回 は残念ながら︑その﹁トライアル﹂は成功とは言い難い︒ コントをつなげたような構成で︑随所に笑いが仕掛けられ ているが︑意表を突かれることは一度もなかった︒等身大の 演技も悪くはないが︑どこか一カ所でもすごんと突き抜けた 面白さが感じられないと︑やはり物足りない︒ もう一つの﹃彼女のー﹄は︑藤元英樹の一人芝居︒この役 者の力量を改めて感じた︒ もともと演劇の基本はー少なくとも西洋式の演劇では
ーダイアローグであり︑モノローグに頼らざるを得ない一
人芝居は︑ともすれば平板になりがちだ︒この舞台で︑主人
公が機関銃のように独り言をまくし立てるのも︑要するに︑
退屈な舞台にしないための作り手の戦略なのだろう︒主人公
はささいな事から婚約者との同棲を解消し︑とあるアパート
の︸室に転がり込む︒しかし︑その部屋にはまだ︑前に住ん
でいた若い女の家財一式がそのまま置いてある︒そのことへ
の文句を皮切りに︑次から次へ猛烈な早さで独り言をまくし
立てるのだが︑普通に考えれば︑そんな独り言の洪水自体か
なり不自然だ︒しかし︑演じ手が︑おっちょこちょいで思い
込みが激しい男という人物像を巧みに造形しているために︑
早口の独り言もさほど不自然に感じないのだ︒
こちらの作品の書き手は︑三月公演でもメインライターと
演出を兼ねた品川浩幸︒さすがに役者の持ち味をよく心得て
いる︒電話での会話や︑留守録を再生しながら突っ込みを入
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れる場面も効果的に挿入されていた︒
ただし︑三月公演に比べると︑言葉に頼って拝情を紡こう
としているのが︑わざとらしく感じられた︒終盤︑主人公の
住む部屋で︑前の借り手がつい最近自殺していたことがわか
る︒すると︑主人公は突然しおらしくなり︑その女の遺した
喪服を身にまとい︑窓から夕焼けの街を眺めながら︑自殺に
至った女の心理をひとくさり語ってみせるのだ︒見ず知らず
の他人の死でも︑センチメンタルな気分になることはあるだ
ろう︒良くないのは︑言葉に頼り過ぎることであり︑そのせ
いで押し付けがましくなることだ︒何も言わずにただぼんや
りと窓の外を眺め︑窓から街のさまざまな音が流れ込んで来
る︒それだけでは︑なぜいけないのだろう︒その方が観客の
想像力に訴える分︑かえって効果的ではないか︒それまでず
っと早口の独り言を続けていた主人公が︑初めて深く沈黙す
る︒私はそこにこそドラマがあると思う︒くだくだしい説明
的な台詞は︑それがいかに拝情的な装いをまとおうとも︑い
やむしろそのように装えば装うほど︑本当のドラマを覆い隠
してしまう︒
また︑いかにセンチメンタルになったからと言って︑ただ
それだけでは主人公が女物の喪服を着るきっかけとして︑い
かにも不自然だ︒この時点で私は︑間もなく別れた婚約者が
部屋を訪ねて来て︑一悶着あるのだなと見当がついてしまっ
た︒この辺り︑もう一ひねりほしい所だ︒ もう一ひねりと言えば︑元婚約者が訪ねてくる場面につい ても一点︒主人公は元婚約者を部屋の外で出迎える︒これは︑
一人芝居の制約で元婚約者を舞台に出せないからだが︑主人
公と元婚約者との悶着を壁越しに聞かせるのは︑観客の想像
力に訴えるという点で効果的でもある︒その時聞こえてくる
音声は︑元婚約者が主人公の女装をとがめる声︑主人公の弁
解︑そして︑元婚約者が主人公に平手打ちする音なのだが︑
最初の元婚約者の声は︑むしろ無い方が一人芝居としての完
成度も高まるし︑観客として状況を想像する楽しみも増す︒ なかなか達者な書き手ではあるが︑省略の技術はまだまだ
研鐙の余地がある︒この次は︑その辺りの﹁トライアル﹂も
期待したい︒
ジャブジャブサーキット﹃非常怪談﹄︵作・演出 はせひろ
いち/七ツ寺共同スタジオ 五月十五〜二十一日/十五日
観︶は︑通夜の晩のダイニング・キッチンが舞台のワン・シ
チュエイション物︒
開演時間の少し前に︑一人の役者が登場し︑椅子に腰掛け
て新聞を読み始める︒その後も客席は消灯せず︑後から入っ
て来た観客がおしゃべりをし続け︑他の観客から叱り付けら
れる一幕も︒
死者の家族・親戚︑そして隣人と︑めったに会うことのな
い者どうしが顔を合わせ︑初めのうちは誰が誰やら︑当事者
たちにもよくわからなかったりする︒その混乱ぷりをユーモ
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ラスに描くところから芝居は始まり︑人物相互の関係が明ら
かになるにつれて︑正体不明の人物が紛れ込んでいることが︑
観客にはわかって来る︒そうなると︑観客はもうすっかり作
り手の術中にはまっているわけで︑断片的に示される手掛か
りを頼りに謎解きに耽ることになる︒言わば︑作り手と受け
手の知恵比べといった趣向だが︑結論から言うと︑私の想像
はおおむね当り︑そして最後に鮮やかに裏切られた︒虚実の
駆け引きにおいて︑この作り手は私より遥かに上手︵うわて︶
であったのだ︒
普通我々は芝居を﹁観る﹂と言うが︑この芝居に限っては
﹁読む﹂という言葉の方がぴったりする︒楽しく読めて︑充実 した読後感の味わえる芝居だった︒この芝居において︑作り
手は私たちが現実に体験する事柄をリアルに描きながら︑断
片を積み重ねて一種のファンタジーを紡ぎ出す方法をとって
いる︒まさしく私たちの日常とは断片の積み重ねにほかなら
ないものであり︑私たちはそれぞれの意識の内に日常という
断片を積み重ねながら人生という物語を構想していると言え
るだろう︒私がこの芝居に深い感慨を覚えた一番の理由は︑
その辺りにあるように思う︒
敢えて一つ言えぱ︑作・演出のはせひろいちがチラシに書
いた文章には︑私たちの日常は非日常を飲み込んでいるとい
う意味の記述がある︒確かに︑この芝居の描く通夜の情景に は︑河童や座敷童子や幽霊といった非日常の存在が紛れ込ん でいる︒しかし︑通夜それ自体が非日常の時間と言えるわけ で︑そう考えるならば︑この芝居は日常の中の非日常ではな く︑非日常の中の更なる非日常を描いているに過ぎないとい うことになる︒その意味では︑この芝居が観客にとって︑自 分の日常を新たに捕らえ直す契機になり得るか否か︑疑問が ないではない︒勿論︑死が生の必然的帰結だということから 言えば︑死という非日常は日常と連続していると言える︒今 回の舞台でも︑登場人物たちは肉親の死を︑どこか日常の延 長のように捉えているふしがあり︑それが﹁日常が非日常を 飲み込む﹂ということだと解釈することはできる︒しかし︑ そうしたこまやかな描写よりも河童や座敷童子や幽霊の方が 目につきやすいため︑この芝居が単にユニークなファンタジ ーとしてのみ受容される恐れがないとは言えない︒ 同じジャブジャブサーキットの﹃ランチタイムセミナー﹄
︵作・演出 はせひろいち/七ツ寺共同スタジオ 十一月十
九〜二十六日/二十四日夜観︶は︑先般ペルーで起きた日本
大使館人質事件を題材にしている︒実話を元にした舞台作り
は︑この劇団としては初の試みと思われる︒ただし︑ペリー
をペルリ︑フジモリをフジヤマと言い換えるといった具合に︑
一定の虚構化は行われている︒これに関して︑不可解なこと
が一つある︒演技や舞台装置を見る限り︑リアリズムを基調
とする芝居作りをしているのに︑大使館の若い男性職員の役
を女優が演じているのだ︒事実を踏まえているとはいえ︑事
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実そのままではないのだから︑単に男優が足りないのなら︑
設定を女性職員に変えれば良さそうなものだ︒しかしながら︑
何か特別な意図があって男役の一つを女優に演じさせたのか
と言えば︑私にはそうは見えなかった︒
ストーリーの大枠は︑報道を通じて既に知られている範囲 を出ない︒例えば︑若いゲリラたちが日本人人質に瞳れとも
畏敬ともつかない感情を抱く︒そのこと自体は報道によって
周知の事となっている︒しかし︑それが舞台で演じられるこ
とで︑改めて複雑な感慨を呼び起こした︒今回の公演では︑
こういう︑事実に基いた具体的な描写に精彩があった︒でき る限り︑事実に立脚して作劇しようという努力を︑そこから
読み取ることができる︒だが︑その努力と︑従来からのはせ
ひろいちの作劇術とが︑噛み合っていない所もあるように見
えた︒はせの近来の作劇は︑淡々とした描写の積み重ねの中
に非日常性を織り込んで見せるところに本領があるが︑今回
のように既知の実話に基いて芝居を作ると︑事実の範囲が明
らかである分︑非日常の部分が浮いてしまうのだ︒︵ゲリラの
ボスが恐る恐る関西弁を披露するシーンは︑大いに笑わせて
もらったが︒︶
特に事件後︑日本のテレビ・クルーが廃嘘となった大使館 を︑かつての人質の一人とともに訪れる場面など︑書き手の
創意が剥き出しになってしまい︑いたたまれない感じがした︒
ゲリラの亡霊がかつての人質の前に現れて対話するのだが︑
/
その対話の大半は︑必ずしも事件後でなければ語り合えない
ような内容ではない︒﹁ゲリラの行為は︑人質の側から見れば
所詮テロリズムだ﹂という非難など︑武力突入前夜の対話に
組み込めないものではないし︑むしろそうした方が効果的だ
ろう︒唯一︑政府軍の武力突入に際して少年ゲリラの一人も
守れなかったことを悔いる言葉は︑事件後ならではだが︑そ
れもやはり︑亡霊の出現というあからさまな虚構を持ち込ま
なければ語り得ないものではない︒
また︑クルーの一員として︑少女ゲリラとそっくりな女性
が登場し︵︸人二役︶︑ちょうど武力突入のあった日に流産し
たことが紹介される︒そして︑ラストシーンで︑この女性が
三脚をちょうど機関銃のように構えると︑機関銃の発射音が
鳴り響く︒芝居に余韻を加えるために苦心している様が窺わ
れるが︑蛇足と言わざるを得ない︒これらの部分は︑所詮︑
一種のセンチメンタリズムを喚起するに過ぎないからだ︒
そもそも私達が︑ゲリラに加わった少年少女を理解するに
は︑地道に事実を積み重ねて行くしかない︒日本人の中にた
またまゲリラとよく似た者がいたり︑その者が武力突入のあ
った日にたまたま流産していたりしたとしても︑そんなこと
は︑私達がゲリラを理解する上で︑何の意味もない︒ゲリラ
に似た女性に機関銃を撃つ動作をさせるにしても︑私なら本
物の発射音を使うのではなく︑機関銃の口真似をさせるだろ
う︒本物の発射音では余りにも意味ありげで︑解釈の方向が
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限定されてしまう︒しかし︑その限定された方向に解釈して
行っても︑もともと何の意味もない所に意味が生まれるわけ
はないのだ︒それよりは︑解釈が限定されるのを避けて︑微
妙なニュアンスを生むようにした方が良いと︑私は思う︒ 前作は︑通夜を描いていながら︑通夜の席そのものではな
く︑その舞台裏とでも言うべき台所を舞台とし︑間接的に通
夜の様子を想像させる形を取っていた︒私達は死を直接知る ことはできないわけであり︑死を思うことは︑間接的な想像
の形を取らざるを得ない︒その意味で︑前回の作劇は有効な
方法を慎重に選んだと感じられた︒それに比べると︑今回は︑
ずいぶんと性急にゲリラとの接点を求めている︒そして︑そ
のことと通底する問題だが︑ゲリラと政府とで比べた場合︑
明らかにゲリラ寄りとわかる作劇であることも気になった︒ 報道によれば︑ゲリラの中には︑貧困と無知ゆえに事の重
大さも知らずに参加した少年少女も大勢いたという︒そんな︑
急ごしらえのにわかゲリラまで皆殺しにした政府のやり方は︑
当然非難されるべきだ︒しかし︑そうした少年少女を事件に
巻き込んだ直接の責任は︑言うまでもなく事件の首謀者にあ
る︒政府側の対応を非難するなら︑首謀者側の責任にも言及
するのが筋ではないか︒
政府なり︑ゲリラなりがどんな考えに基いて行動したか︑
報道は十分な情報を与えてくれない︒しかし︑その部分を推
理と想像で再現することは決して不可能ではないはずだ︒私 が思うに︑ゲリラと政府の間には︑共通の発想がかなりある のではないか︒例えば﹁この国を良くするためには︑多少の 犠牲はやむを得ない﹂という論理は双方にあるはずで︑ただ︑ 何を犠牲とするべきかについて︑政府側は﹁ゲリラ︑及びそ れと紛らわしい者﹂と考え︑ゲリラは﹁政府︑及びその支援 者﹂と考えるという違いなのだ︒また︑ゲリラ側は政府側を
﹁権力にしがみついて民衆を顧みないファシスト﹂と見るのだ
ろうが︑政府側はゲリラを﹁革命の幻想にしがみついて国の
実情を顧みないテロリスト﹂と見る︒反対に︑政府側から見
れば︑ゲリラが日本大使館を占拠して仲間の解放を迫ったの︐
は︑武力による威嚇によって目的を達成しようとするという
意味でテロリズムだが︑ゲリラに言わせれば︑政府軍が武力
を行使しゲリラを皆殺しにしたことこそ正真正銘のテロリズ
ムだということになる︒こうした相対的視点があって初めて︑
事件を生み出した思想的背景が客観的に見えて来るはずだ︒
そうした解明を抜きにしてリアリティーを追求することはで
きないだろう︒
以上のように不満な点は多々あるのだが︑いずれにせよ︑
従来とは一味違う芝居作りに挑んだということを︑私は評価 したい︒前作はきっちり完結した︑いわゆるウェルメイドな
舞台だったが︑今回は書き手の思考があからさまに見えてし
まった︒はせのオハコとも言うべき︑非日常を介して日常を
再認識するという作劇も︑今回は非日常の部分がその観念性
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を露呈する結果となり︑事実に基く描写との間に齪語を生じ
てしまった︒そうしたことから言えば︑今回は失敗作という
ことになる︒しかし︑それは従来とは違った芝居作りに挑ん
だからこそであり︑そうした挑戦と失敗によって新たな課題
と出会うことは︑むしろ望ましいことだと︑私は思う︒はせ
とジャブジャブの芝居作りに新たな転回をもたらすかもしれ
ない︑そんな可能性も感じさせる舞台だった︒ 劇団Y・K・K﹃Butterfly Road〜蝶の
道〜﹄︵作・演出 西加寿子/今池芸音劇場 四月十〜十二
日/十二日観︶は︑これが第五回公演ということだから1
個々のメンバーはそれぞれに演劇経験が少なからずあるとの
ことだが1劇団としては若手である︒プログラムによれば︑
劇団のモットーは﹁何気無い日常から始まり︑やがて人間の
本質に迫る﹂とのこと︒オリジナル台本の上演を初めてまだ
三回目という発展途上の劇団だけに︑﹁何気無い日常﹂の描写
はまだまだ不徹底であり︑﹁人間の本質﹂を掘り下げて描くま
でには至っていない︒不倫関係の描写など類型の域を出ない し︑登場人物のうち一人だけなぜか余りストーリーに絡んで
来ないなど︑未消化な部分も少なくない︒未消化と言えば︑
舞台装置の使い方には一工夫も二工夫もほしいところ︒小道
具のことを一つ言えば︑回想シーンの中で使われる煙草が新
パッケージのゴールデンパットとは︑お粗末︒しかしながら︑
問題意識に真摯なものを感じたし︑観客を楽しませようとい う気遣いは随所にあり︑地道に活動を続けて行くことで︑何 らかの脱皮を遂げる可能性はあると見た︒ この劇団は十一月にも公演を行ったが︑都合がつかず︑見 逃してしまった︒ SOAPWorks﹃MoonLight〜月あかりの 下の風景〜﹄︵作・演出 渡辺ちひろ/ひまわりホール 五月 三十・三十一日/三十日観︶は二人芝居の三本立て︒ 一本目の﹃鈴懸の並木道﹂は奇を街い過ぎているように見 えて︑素直に楽しめなかった︒役者︵きまたおさむ・せかい の染五郎︶の技量が釣り合っていないのも気になった︒ 二本目の﹃君の乗る赤い自転車﹄は︑久しぶりに再会した 男女を︑いわゆる﹁静かな演劇﹂風に描く︒二人のぎこちな いやり取りから︑それぞれの心理のあやを読み取らせるとい う作りだが︑そこから読み取れる心理は︑やり取りを注視し なくても︑基本設定さえわかれば︑予測できてしまう︒役者
︵小熊ヒデジ・宮島千栄︶の技量は申し分ないが︑そろって達
者な分︑二人の間の気まずい沈黙が必ずしも気まずく見えず︑
かえって思わせぶりになってしまった憾みがある︒
総タイトルにもなっている︑三本目の﹃Moon Lig
ht﹄がやはりずば抜けていた︒恋人の部屋にやって来た男
︵棚瀬三嗣︶と︑正体不明の男︵前田繁昭︶との珍妙なやりと
りがテンポ良く繰り広げられ︑何度も爆笑した︒役者の持ち
味も十分活かされていた︒唯一残念だったのは︑正体不明の
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男が壁にかけた掛軸が︑伏線のように見えるにもかかわらず︑
その後全く活かされないこと︒この点はもう一ひねりできる
はず︒ FUN FUN HOLlDAY﹃NEAT1・NEAT!・
NEAT!﹄︵作・演出 やとみまたはち/演出 久川徳明/
七ツ寺共同スタジオ 七月三〜六日/三日観︶は︑普段別々
のグループで活動している面々が集まっての︑一種の合同公
演︒今後も同じメンバーで定期的に公演を打つという話も出
ているらしいから︑結成直後の新劇団という見方もできる︒ 役者の個性がうまく調和していないのは︑初顔合わせが多
い以上やむを得ない面もあるが︑この公演に限って言えば︑
演出を二名立てたのが災いした面もあるだろう︒台本もやた
ら思わせぶりで︑しかも︑役者を全員出すために無理をした
のか︑贅肉が多過ぎる︒本当に今後同じ顔触れで公演を行う
のであれば︑もっとじっくりと練り込んだものを見せてほし
い︒