モンテルランの ﹃ポール・ロワヤル﹄ ︵一︶
− 虚無の大海を漂うもの
朝 比 奈 誼
一
十七世紀フランスを代表する画家の一人フィリップ・ド・シャンペーニュによる肖像画﹁メール・アンジェリック・
アルノー﹂ E で知られる︑あの白地の胸に赤の大きな十字架をあしらった僧衣こそが︑ポール・ロワヤル修道院の純
潔の象徴である︒ところが︑こともあろうにそれで全身を包んだ女優たちが︑舞台の上で︑同じく僧衣をまとってい
ながら︑いささか高位聖職者に似合わぬ言動の男優により虐待をうける − このモンテルランの趣向は︑神聖な立入
禁止区域に土足で無遠慮にふみこんだばかりでなく︑陰微であるべき箇所にまでスポットライトをあててしまった︑
そんな印象を一部の敬虔なカトリック教徒に与えたのもいちめん無理からぬところだった︒しかも︑ NRF 詰が﹁修
道女たちの正当な反抗を教会権力が弾圧する﹂といった俗耳に入りヤすい図式でこれを説明したうえ︑教会の腐敗
を大胆につくモンテルランのひそみにならうカトリック作家が見当らぬことにまで言及したものだから︑たとえばア
ンドレ・ブランシュのような生真面目なカトリック批評家はすっかり逆上してしまった E ︒芝居が興行的に成功すれ ばするほど︑これを単なるメロドラマとして受けとめ︑ローマ教会上層部に対する反抗に喝宋を送る観客がふえてい
モンテルランの﹃ポール・ロワヤル﹄ ︵こ ︵朝比奈︶
一二 く ー それが百分自身の存在基盤を脅かすことのように彼は感じて︑身をこわばらせたのだ︒そして︑思わず防禦の 姿勢になって︑ポール・ロワヤルという聖域を二重三重の柵でとりかこもうとしたのは︑それにしてもいささか常親
を逸していたのではあるまいか︒
カタリ派もしくはアルピ派から︑ジャンセニストを経て︑現存のある種の<純潔∨をモラリストにいたるまで︑
絶対︑つまり地上的存在としてのわれ′\の条件を忘れた絶対の誘惑こそ︑おそらくフランス人の魂に固有の■誘惑
であろう︒しかももっとも高貴な誘惑であって︑外国人には想像だにつかぬばかりか︑いつまでも︑われわれを理
解するための妨げとをるだろう互二∴:⁝
こうしてブランシュは誰よりもまず外国人を遠ざけたあとで︑次には非キリスト者を閉めだそうとする︒
非信者たちが︑これら精神の冒険家たち︵=ジャンセニスト︶の芝居を︑座席に腰をおろして見物したとてかまわ
をい︒高貴で偽らぬ生き方を審美的に鑑賞して︑∧あらがい難い純潔∨の空気をちょっとばかり呼吸したとてかま
わない︒他人の道徳的厳格さを讃美したとてかまわをい − その厳格さは他人に血を流させる一方︑非信者自身は
何事も信じていをいがために︑その■厳格さも持たずにすむのだが︒けれども︑われわれキリスト教徒は︑それほど
超然としてはいをい︒⁝・⁚われくはキリスト教道徳を実践しをくてはをらをいからだ︒たえず二つの暗礁のあい
だを通り抜けなくてはならをいからだ︑つまり福音書の精神にそぐわぬ弛緩と︑それ以上にそぐわぬ厳格とのあい
だを言︒
こうして彼は︑聖域に立人ることのできる特権者をキリスト教徒のみに限定するばかりでなく︑あまつさえそのキ リスト教の巾をいっそうせばめて︑あまりに厳格なキリスト教︑つまりジャンセニスト的傾向を切り捨ててしまうの
だ︒中庸を尚ぶようなポーズをとりながら︑その実︑弛緩したキリスト教︑す夜わちジュズイット的傾向に対しては
寛容なところをみると︑彼はあきらかに偏見を持っているようで︑その立場から︑ポール・ロワヤル修道院につきま
とう異端性を詰ろうとする︒ただし︑史実に深入りすることは慎重にさしひかえて︑議論をモンテルランの作品に固
有の異端性弾劾へとそらせていく︒
⁝⁝史実に関する問題はやめておこう︒確かなことは︑モンテルランに提示された修道女たちが従順というキリ
スト教的な徳をまったく知らをいように見えることである︒彼女たちは︑上司の大司教や司教全体ヤ教皇その人の
なかにすら︑一瞬たりとも神の■代理人を見ず︑ただ人間しか見ようとしない︒そうした人間の命令は︑彼らの道徳
的知的価値に相応した価値しか持た覆い︒彼女たちは︑みずから完全に人間的とみをす見解に対して︑根拠がより
強固だと判定する見解を対抗させるのである富︒
ローマ教会の位階制度に︑したがって上位者の判断に全幅の信頼をおき︑それに全身を委ねることこそ真にキリス
ト教的な態度だとする︑この立場にたつかぎり︑モンテルランの芝居の異端性ばかりでなく︑その非宗教性までも︑
もはゃ動かしがたい事実となる︒
﹃ポール・ロワヤル﹄で人は何を呼吸しているだろうか︒私はこう言わなくては覆らない︒それは正統的カトリ
ックの空気ではない︒歴史的にポール・ロワヤルの空気だったものでさえもをい︒それはおよそキリスト教的な空 気ではないのだ︵且︒
不敬な無神論者のカトリック世界への閑人をはばもうとするブランシュの試みは︑こうして大詰めをむかえる︒モ
ンテルランとキリスト教とを︑﹃ポール・ロワヤル﹄とポール・ロワヤル修道院とを分断した彼は︑それだけで満足
モンテルランの﹃ポール・ロワヤル﹄ ︵こ ︵朝比奈︶ 三
四 せず︑さらに追討ちをかけるように言うのだ︒
⁝⁝モンテルランがポール・ロワヤルに探しに行ったもの︑そしてそこで見出したものは︑モンテルラン自身な
のである︒⁝⁝彼はそのまえがきのなかで明示している︒﹁この芝居の主題は二つの魂の内的発展である︒一方は
確信の∧光明∨へ︑他方は懐疑の∧闇黒>へ﹂︒フランスワーズがいたりつく確信とは一体何だろう︒彼女は従順な
崇拝から倣慢な反抗へと進む︒つまり彼女はモンテルランへと発展したのだ︒一方アンジェリックは逆の道を歩い
ているようだが︑彼女もまたモンテルランの方へ進んでいく︒彼女はついにすべてを︑キリスト教の真実も︑神の
実在その■ものさえも疑うにいたるのだから言︒
以上︑ブランシュ論文の引用がいささか長くなったが︑彼の論調の偏狭さの一端を明らかにすることはできただろ
う︒凡夫の弱さを容赦せぬジャンセニストの道徳的厳格さに反対して︑誰にも実践できるキリスト教を支持している
はずの筆者が︑カトリック・プラチカンとしての自己を悼むあまり︑ポール・ロワヤルにかかわる苦悩をいつしか独
占しようとして︑非キリスト者︑とりわけモンテルランに対して偏狭で倣慢な選民的態度をとる︑言いかえれば︑ジ
ャンセニストの批判者がジャンセニスト的になるという実にパラドクサルな結果におわっているのである︒もっと
も︑そうだからといって彼のモンテルラン評がかならずしも全面的にくつがえるというわけではない︒じじつ︑モン
テルラン演劇に関する最初の包括的研究書 ﹃実存と想像力﹄︹且の著者も︑劇作家に対してブランシュとは対称的に好
意的であるにもかかわらず︑クローデルやベルナノスにひき比べて︑モンテルランの作品が宗教性に乏しいこと︑い
わば絶対者への全的を帰依という観念を欠いていることを指摘している言︒私もそれを認めるのに客かではないが︑ その上で︑なお反間したいと考える︒モンテルランの作中人物がカトリック教徒にとって必須な従順を欠いているこ
とが事実だからといって︑はたしてそれがそのまま史実のポール・ロワヤル修道院からの離隔を意味するであろう か︒モンテルランの ﹃ポール・ロワヤル﹄は単に衣裳ヤ台詞の上のみにとどまらず︑その思想ヤ感情の上において
も︑ポール・ロワヤルを忠実に再現しているとは考えられないのであろうか︒私はまず︑長いポール・ロワヤルの歴
史のなかから︑どんな時点をモンテルランが掴みだしてきたか︑その位置づけからはじめたいと恩う︒
二 きょう二十一日金曜 H ︑フーケ様が蜜蝋と砂糖の件で尋問をうけました︒あの方はそこで出された︑いくつかの
抗議にじりじりなさっていました︒あの方にはばかばかしく見えたのでしょう︒あの方は焦燥の色をいささか露骨
にお見せになり︑その尊大を答え方は人々の不興を買いました︒いずれお改めになるでしょう︑あ〜いう態度はよ
くありませんもの︒でも実を申せば︑勘忍袋の緒が切れたのです︒あの場におかれたら︑私だってあの方とそっく
り同じことをしてしまいそうです︒
私はサント・マリ ︵聖母訪問会︶ に行って︑あなたの■叔母さまにお目にかかりましたが︑お見うけしたところ︑
神さまのなかに深く沈潜していらっしゃる御様子でした︒お︑︑︑サの時にはほとんど恍惚としていらっしゃいまし
た︒御令妹さまは美しい目に霊的なお顔で︑おきれいに見えました︒ふかわいそうに︑今朝卒倒しておしまいになり
ました︒とてもお加減が悪いのです︒叔母さまは御令妹さまに対して︑今までどおり優しくしておられます︒パリ
殿が御令妹さまに裏文書﹇碩帥銅 S 蚊酎 S 語﹈をお示しになって︑それでお心を動かしてしまったのです︒その結果︑御
令妹さまはあのいまわしい信仰告白書に署名なさらないわけにはいかなくなったのでした︒私はお二人のうちどち
らともお話しませんでした︒パリ殿からそれをさしとめられてしまったからです︒でも︑偏見のほどをしのばせる
もう一つの情景があります︒サント・マリの修道女たちがこう申すのです︒﹁ありがたや︑ありがたやー・とうとう神
さまがあの哀れな子の心を動かしてくださったのです︒あの子は従順と救いの道に入ったのです﹂︒私はその足で ポール・ロワヤルにまいりました︒そこであなたも御存知の偉い隠士の一人におあいしたところ︑こう切り出され
ました︒﹁やれやれ︑あの哀れな愚か者が署名しましたか︒とうとう神があの子をお見棄てになったわけです︒あの
子は目をつぶってとびおりたのですよ﹂︒私としては︑偏見のおそろしさをかえりみて︑おかしくておかしくて死
モンテルランの﹃ポール・ロワヤル﹄ ︵一︶ ︵朝比奈︶ 五
六
にそうだと思いました︒これこそ自然夜世間のありようです︒ああした両極端の中間がいつでも一番よいのだと︑
私は思います L ︒
以上はセゲィニュ夫人がボンボンヌ侯畜にあてた一連の書簡のうち︑一六六四年十一月二十一日付のものであ
る盆︒これよりさき一六六一年九月にとつじょ逮捕され︑裁判ぬきで幽閉されたままになっていた元大蔵卿に対する
司直の尋問がこの頃ようやくはじまったところだった︒夫人は︑この王国一の豪勢な漁色家と︑その犠牲者の一人に
あやうく数えられそうになる垂ほど親交があったし︑一方ヤがては外務卿として羽振りをきかすはずの侯爵も︑フー
ケの友人だったばかりに事件に連座した形で︑当時はパリから追放されていた︒そこで︑パリに住んで︑あくなき好 奇心をもって話の種を求め歩いていた夫人が︑みずからせっせと法廷に足を運んで︑をまなましい見聞記を毎日のよ
うに侯爵に書き送っていたのである︒
それはまた︑十七世紀のフランス宗教界を震撼させたジュズイット対ジャンセニストの暗闘が神学上の論争から政
治事件にまで波及し︑ついには警吏まで動員するにいたった︑そんな時期にあたっていた︒五命題選は異端的である
のみでなく︑ヤンセンの著書に含まれてもいることを認めた信仰告白書に関して︑パリ殿ことべレフィックス・パリ
大司教宮は修道女をも加えた教職者全員に署名を求めていた︒だが︑ポール・ロワヤルの修道女だけはかたくなに拒
みつづけた︒そしてこの年の八月二十六日富強硬派と目される尼僧十二名がパリの修道院を追われ︑他宗派の修道院
に分散して軟禁されるにいたった︒その十二名のなかに︑今の書簡にある二人︑ボンボンヌ侯の叔母のアニェス垂と
実妹のマリ・アンジェリック蜜とがいたのである︒前者は高齢 ︵七十一才︶ で病弱のゆえをもって︑特に姪の同伴を
許されたのだった︒ところが意外にも︑若くて元気なはずのマリ・アンジェリックの方が︑個別的に執拗にくり返さ
れる勧誘︵避に屈して︑ついに署名に応じてしまった︒ジュズイット側の■得意は︑想像するにかたくない︒何しろ︑ポー
ル・ロワヤル修道院改革の推進者であり象徴であったアンジェリック︵アニェスの姉︶を筆頭に︑修道院に多数の一族
を送りこんで︑ポール・ロワヤルの名声を代表していた誇り高いアルノー家の一角が﹁陥落ししたのであったから︒
さて︑セゲィニュ夫人による聖母訪問会修道院探訪は︑実にその ﹁陥落﹂から数日後のことだったのである︒それ
まで頑強に抵抗していたマリ・アンジェリックが︑なぜおめおめとパリ大司教の勧誘に応じたのか︒先頃まで修院長
をつとめたほど統率力もあり︑また修道女たちのあいだで信任のあついアニェスがそばについていながら︑姪に対し
て夜ぜ何の加勢もできなかったのか︒署名のあとも二人の間柄は従来どおり親密なものでありつづけているのだろう
か︒そもそも二人は元気でいるのだろうか⁝⁝いかに彼女たちとは世界観を異にするとはいえ︑同じアルノー家の一
員として︑ボンボンヌ侯はそうした疑問におそわれていたにちがいない︒
してみれば︑フーケ審問の場から二人の幽閉の現場へ︑それからさらに足をの■ぼして︑ボンボンヌ侯とマリ・アン
ジェリックとの父で隠士の一人であるアルノー・ダンディイ頭のもとへ走り︑自身の目と耳によって右の疑問に適確
に答えようとしたセゲィニェ夫人の︑いわばジャーナリスト的な感覚の冴えは天晴れというほかはない︒その意味
ガゼツートで︑彼女自身これら一連の書簡を﹁新聞﹂と呼んだ謹のは︑まことに当を得ていたわけである︒彼女の簡潔で軽快で
しかも正確な筆は︑三年前までの栄耀栄華の夢から脱けきれずに焦立つ失脚者と︑かつての羨望の強さを今では追求
の苛酷さに転化して嵩にかかる審問官との対決を浮きぼりにしたように︑ポール・ロワヤルをめぐる﹁偏見﹂ の愚し
さと恐しさをものの見事に映像化したのである − 白く︑同志たちから引離されたの■みか︑唯一の支えと頼む姪の脱
落を目のあたりにした今︑ひたすら神の慈愛にすごりつこうとする老尼︒日く︑幽閉生活の重苦しさと説得の巧みさ
とによっていわばくすねとられた著名という事実のまえで︑放心状態にある美しく︑か弱い︑ひとりほっちの尼︒そ・ こに白陣営の■勝利のあかしを認めて快哉を叫ぶ尼僧たち︒逆に︑娘の失寵のしるしを認めて自陣営の正当性のなかに
いっそう頑固にたてこもろうとする父親︒用心深いパリ大司教のさし金によって当の二人との面談をさしとめられる
という悪条件にもかかわらず︑彼女は見るべきものを見︑聞き出すべきことをまことに過不足なく聞き出してきてい
るではないかー●
とはいえ︑フーケ裁判を見る目とポール・ロワヤル事件を見る目とは完全に同質だったというわけではをい︒前者
については一方であれほど冷静な批判を加えつつ︑他方で当のフーケの内面にまでたちいってみるだけの柔軟さと人
毛ンテルランの﹃ポール・ロワヤル﹄ ︵一︶ ︵朝比奈︶ 七
ー\/
情味を発揮しているのに対し︑後者については︑ゆるぎをい ﹁世間﹂に足をのせた夫人の曇りない健全な眼は︑サン
ト・マリの修道女たちはもとよりのこと︑彼女たちの監視の夜かで孤独な戦いをつづけているアニェスヤマリ・アン
ジェリックの苦悩に接しても︑笑いの材料しか見出さないのである︒あれほど豊かな感受性と想像力とにめぐまれた
夫人が︑侯爵の叔母の祈りの姿を目撃しながら︑侯爵の実妹の卒倒を知らされながら︑﹁あの場におかれたら︑私だ
ってあの方とそっくり同じことをしてしまいそうです L とはけっして言わないばかりか︑まことに公式的に︑中庸の
徳の有難さをことあたらしく説いてみせる始末をのである︒
まぎれもをく︑ポール・ロワヤルには︑蒙昧を容赦せず︑節度を重視するこの古典主義精神の体現者にそぐわぬも ガズチエール のがあったのである︒それは一方で社交界の ﹁新聞記者﹂に笑いとばされるような︑言ってみれば中世的を信仰の姿
であったが︑同時にまた他方で︑この時期の夫人には未知の世界だったにせよ︑いずれは彼女も共鳴者となる宵はず
の︑十八世紀的な合理主義の先触れでもあったのである︒しかし︑そうした展望を獲得するためには彼女はあまりに
早く生まれすぎたのであって︑それにはかのサント・ブーヴの登場を待たなくてはならない︒
三
批評家サント・ブーヴの精神のあり方は︑左の自 H 画像に適確に表現されている︒
批評精神は本性からして気安く︑気ばらず︑うつろいやすく︑もの分りがよい︒それは大きな清流であって︑詩
の作品ヤモニュメントの周囲を︑両岸にせまる岩石・城砦・ブドウ畑に覆われた丘・線ゆたかを谷に沿うようにし
て︑蛇行して流れていく︒両岸の景観にある物はどれもその場にあってじっと動かず︑ほとんど他の物におびヤか
されることもない︒城の櫓は眼下に谷を見下ろし︑谷は丘を無視している︒ところが︑川はあちらからこちらへと
流れゆき︑すべてを水にひたしてしかもこわさず︑生きた流れる水で抱きしめ︑﹁包みこみ﹂ ︵理解し︶︑反映し︑そ
して旅人がこうした千変万化の名勝を訪ねまわりたいと言えば︑舟に乗せて︑揺らさずに運んでヤり︑流域の変転
する光景をくまなく︑つぎからつぎへと見せてやる牽︒
ここには︑どっかりと腰をすえて辺りを陣脱する巨匠ヤ大家に伍して︑批評家として生きてゆこうとするサント・
ブーヴの謙遜と自負とがありありと読みとれる︒その意味で︑これは彼自身の立場の正当化であると同時に︑また理
想化でもあったように思われる︒なぜなら︑彼の精神は︑なるほどどんを対象にむかっても川の水のようにしなやか
に︑ぴったりと寄りそうにはちがいないのだが︑そのくせ︑彼自身の感性 ︵それがある種のこわばりを持っているの
は当然だ︶ の命ずるところにしたがって︑奴隷の心中にとつぜん人間としての誇りが目ざめたかのように︑身をこわ
ばらせて立ちどまることがあるからだ︒そんな時の彼はにわかに不機嫌になって︑対象に対する日頃の好奇心を忘れ
てしまう︒
ポール・ロワヤル修道院に関する一大研究を志した場合もその例外ではなかった︒﹁たかが一女子修道院の改革が︑
その周辺にいた数名の敬虞な隠士たちの集まりが︑どのようにして︑位置からしても︑行動からしても︑あれほどの
重要性と広がりとを獲ちうるにいたったのか〜醤﹂この疑問に答えるためにはじめられた野心的な講義は︑ヨーロッ
パ精神史に対する彼一流の問題意識に支えられていた︒
ポール・ロワヤルとは︑十六世紀と十八世紀すなわち好んで神を信じまいとした両世紀のあいだにあって︑イエ
ス・キリストの神性倍仰への回帰であり︑その倍加にほかをらなかった︒サン・シーラン︑ヤンセン︑パスカルは
次の一点に関してまったく明噺に先を見通していた︒つまり︑人々の精神が転がりおちていきつつある︑すでに古
くそしてほほ普遍化 L た坂道の意味を理解して︑まだ間に合ううちにそれを立て直そうと考えたのである︒ベラジ
アニスムやとりわけセ︑︑︑=ベラジアニスムの教説垂が知らずしらずのうちにローマ教会に充満していて︑布教され
るキリスト教の内容・発想を形づくっていた︒∧父なる神>の善意と∧神の子∨の無限の慈悲に依拠することによ
って︑人間の意志と自由の中に︑人間の正義と救済の原理をすえようとしたこれらの教説は︑彼ら三人の目には︑
モンテルランの﹃ポール・ロワヤル﹄ ︵一︶ ︵朝比奈︶ 九
一〇 間近くしかも不幸な結果へと突進していくもののように見えたのである︒彼らはこう考えたのだ︒なぜをら︑もし
人間が堕落してもなお︑自己の延生のきっかけを自らの手でつかみ自己の自由意志の動きによって何らかの価値を
もちうるという意味で自由であるとする在らば︑人間は完全に堕落したわけではなくなり︑その本性全体が手のつ
けられぬほど汚されているわけではなく覆るから︑キリストによる︑つねに生き生きとして実在的な∧購い>はそ
れほど絶対的に必要ではなくなってしまうと参︒
ここにいうベラジアニスム︑言いかえれば近代主義的なキリスト教解釈はやがて神の否定にいたりつかざるをえを
い︒それに対する警告として歯止めとして︑原点への回帰を唱道したのがジャンセニスムであり︑その実現形態が
ポール・ロワヤル修道院だったのである︒
十六世紀の翌日︑モンテスキューやヴォルテールが登場する百年前に︑彼ら ︵前出の三者︶ は将来の大胆さをこ
とごとく見抜いてしまった︒彼らはこの救世主キリストの教義の緩和に向おうとするものすべてを︑絶対的を療法
によって︑断固として切り捨てようとした︒僧ベラギウスによる︑自由と意識の定義の中に︑彼らは来るべき﹃サ ヴォア助任司祭﹄の雄弁な文章を読みとるような気がして︑それを廃棄しょうとしたのだった垂︒
ここには︑おそらく﹁ヴェールをかぶったキリスト教徒﹂サント・ブーヴの信仰告白があり︑彼は現実のジュズ
イットたちと情熱的に戦いもしたのだった宮︒しかし︑彼の悲願を無残にもうち砕く敵は︑実はポール・ロワヤルの
中にいたのではなかったか︒なぜなら︑この修道院の指導者や尼僧たちの精神は︑原始キリスト教への回帰の願望と
同時に︑それと両立するはずのないデカルト主義を色濃く宿していたからである︒
﹃十七世紀文学史﹄ の著者アントワース・アダンは︑その ﹁パスカル篇﹂とはちがってジャンセニスム寄りの立場
をあらわにした﹃神秘主義から反抗へ 1 十七世紀のジャンセニストたち﹄の中で︑こう書いている︒
⁚⁝・ポール・ロワヤルでは今や ︵一六五〇年代後半︶寛ぎの時間に話題にをるのは︑デカルト哲学のことばかり
だった︒動物の生体実験がおこなわれた︒板の上に四本の足で釘づけにした動物を生きたまま解剖して︑血液の循
環を観察した︒これら哀れな動物に同情する者は嘲笑された︒これは時計であり︑これが発する鳴声は今動かした
ゼンマイの結果だと人々は言って︑それが自動機械とは別物だと証明しなかった︒世界はもはや神の思惟の反映で
はなく︑原子の連合体にすぎなかった︒︽⁝⁝︾
デカルト主義がジャンセニスム運動内部に浸透した結果︑運動の性格を変質させたことはたしかである︒それは
決定論を強調したが︑その決定論はもはや厳密には無限の∧理性>のそれではをく︑物質の盲目的なメカニズムし
か意味しをくなっていた︒⁝⁝だから︑サン・シーラン氏がもし一六五五年ごろのポール・ロワヤルに蘇生して︑
氏の所説を援用しその代弁者をもって自任している人々の言葉使いを耳にしたら︑どれほど仰天するかは想像する
にかたくない宮︒
サント・ブーヴはこうした新しい理性的傾向に仰天するどころではない︒ひどく落胆して︑その落胆を︑新しい︑ 彼のいう﹁第二の世代﹂に対する冷淡さでまぎらそうとした︒
こうして初期には︑私が二つ三つしか言及しなかったが生活の厳しさや禁欲者的苛酷さのただ中にありながら︑
ポール・ロワヤルの修道女たち奪には︑勤行の中でも美しい想像や微笑にひたる余裕があった︒やがてこれは少く
なるか︑もはゃ見つからをく怒るのだが︑おそらく︑これら美しい魂の若さ︑運動そのものの若さに由来していた のだろう︒⁝⁝はたせるかな第二の世代︑メール・アンジェリック・ド・サン=ジャン︑スール・ユフェ︑︑︑・パス
カル︑スール・クリスチーヌ・ブリケ垂らはいずれも頭が切れ教育程度も高かったが︑青春に特有のみずみずしく
てナイーヴな印象はうすれる︒彼女たちの修練期はすでに論争の渦中であけくれし︑彼女たちは︑よかれあしか
れ︑のっけから︑︵第一の世代︶ より学的であるだろう蕗︒︵傍点サント・ブーヴ︶
モンテルランの﹃ポール・ロワヤル﹄ ︵一︶ ︵朝比奈︶
一一一二 元来メール・アンジェリック・ド・サン‖ジャンに学的 sc ㌃ nt 試 que という形容詞をかぶせたのは﹃ポール・ロワ
ヤル史略説﹄の筆者ラシーヌだが︑アダンがこの語を﹁知的すぎる﹂ trOp inte −−宍 tue −−のと解している密ように︑
﹂控え目ながら︑あきらかに謙譲の文句なのである︒
さてサント・ブーヴがこうして不満をかくさなかった相手︑この女性こそモンテルランの■ ﹃ポール・ロワヤル﹄の
主役であることは言うまでもない︒だが︑先に引用した一句﹁ポール・ロワヤルはイエス・キリストの■神性信仰への
回帰であり︑その倍加にほかならなかった﹂にことのほか触発されて︑この修道院をめぐる問題に関心を抱きはじめ
た宙という彼が︑サント・ブーヴの冷淡さを承知の上で︑この修道女にポール・ロワヤルを代表させたのは一体なぜ
であろうか︒そのためには︑この観点からモンテルランの作品そのものを検討してみなくてはをらない︒
︵この事終り︶
注 ︵ 1 ︶ ルーブル博物館所蔵
︵ 2 ︶ ト恥入人山ぎー㌣わ童已︾熟さ邑計︑︑§√ i ロ A ロ dr 恥 B − a ロ Chet ⁚㌣こ諺箪各ミよ∵訂楓キぎ已♯碁こど﹂百計騒こぎ︵ Paris ﹀−∽示○︶ ︵ 3 ︶ ibid ﹀ p .望︶
︵ 4 ︶ id . p .巴
︵ 5 ︶ id ・ p ・¢串 ︵ 6 ︶ id . p .遥
︵ 7 ︶ idt p 一浩 Y
︵8︶ JOFn BatcFe−Or⁚
知べ㌢訂 3r 〜急ぎ薫 Sb 敦 S −知叫旨叫旨 1 ︑へ旨か獣 1 〜卦ゝき邑計ヽ訂ミ Traduit de −﹀ a ロ明− ais par 才 Frtia − Leredu
︵ Paris こ讐○い Aust 邑 ie −−一芸り︶
︵ 9 ︶ ibid ・ p ・ N いの et sui く・
︵ 10 ︶ POmpO ロコ e ︵ SimOn Ar コ au − d d 〆 ndi −− y ﹀ marquis de ︶ ︵一 六一八 1 一六九九︶ ︵ 11 ︶ ㌢:ぎ邑こぎぎぎ瓢よ:ざミ窯芸⁚ゝへぎ巾計 h ぎ鵬官〜 tOme −︵ Paris ﹀−∞のぎ pp .今監丁車だ
︵ 12 ︶ < Oir ∵ bid 一 p .空 T et suiv ・彼女のいたつて貞淑な手紙が︑フーケの情婦たちの恋文と一緒に発見されたため︑彼女は誤解
をはらすために苦労して︑このボンボンヌ候にも汚名をすすぐのに協力してくれるよう依頼したという︒
︵13︶ソルポンヌの神学博士ニコテ・コルネがヤンセンの著﹃アウグスチヌス﹄から要約的に抜きだしたと称する命題︒令
Sainte由euくe⁚hぎ㌣ねQ篭ごOmeI︵P−爪iade︸芯紹︶p.u由Oetsuiく. ︵14︶勺キ㌫xe︵HardOuiロde寧印aumO已de︶︵ハ〇五1ハ七一︶モルテルランの作品の主要人物の一人︒
︵15︶J藍ramas乳eD亡亭叩jO亡rb木e︼e払de仁淡jOur土山e∽de∽巴2t宗aO巳︼票︷⁚Ce︼︼eduN︼二旨︼︶arcFev巾que崇r㌫詫retira㌢
tOute仙こesre−igieuses−aparticipatiOnau舛SaCremeロtSいetCeueduNの﹀OPi−enごsOrtirdOuZedumOnaSt㌢e.︵MOn・ ther−aロt⁚Pr恥許ceauき予知童已−iコ︼がさざ︵勺−たade︶−だ丘p.誤り︶
︵16︶−aM㌣eA明口釘deSai已一句a已・︵一五九三1一六七こJeann?Catheriロ?A明ロ〜sdeSai已・Pau−ArnauE﹀Arnauld−﹀AくOCat の娘︒﹃ポール・ロワヤル﹄の主要人物の一人︒ ︵17︶︼aS宛亡r2訂rie・Aぷ叫貧qEedeSai已?↓F恥r針e︵ハ三〇1一六七〇︶ ︵18︶勧誘したのは厨OSSuetだという︒令Sai己?Beuくe⁚勺OrT声Oya−Il﹀p.道串 ︵1
9︶Arロa−udd︸Andi寺︵声Obert︶︵一五八八−一六七四︶Arnau−d−︶AくOCatの長男︒ ︵20︶訂G岩︑︸紅顔り1叫岩訂叢書⁚已ぎご許無ぶ首t・Ip.全Tひ. ︵2
1︶彼女の叔父のS恥くi登仙︵−echeくa−ier声eロauEde︶がポール・ロワヤルの隠士だったこともあり︑NicO−eをはじめ修道院 の人たちと親交を結ぶようになる︒
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︵25︶ ︵26︶ ︵27︶ ︵28︶
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9︶ Sainte ・ Be 弓 e ⁚ヨざ﹂㌔町㌻=諷 b ぎ敦訂 b 粁㌧訂各計 h 丈ぎきー>芦訃:各⊇畏 n ︒〆 V ェ.
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p む a 明 ia ロ isme ベラギクス ︵三六〇〜−四二二?︶ の教説︒原罪・人間性の堕落・聖人になるための恩寵を否定し人間の自 由意志の力を強調したため︑エペソス公会議で異端とされた︒
謁 m ㌣ p 色 a 明 ia2 . Sme 十七世紀に反アウグスチヌス派を指すために作られた言葉︒彼らはアウグスチヌス派に対抗するあまり ベラギクス的教説に接近した︒
Sai ロ te ・申 eu く e ⁚き手 L ぎ篭:・Ⅰ︶ p ・彗
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