であ
る︒
ヒ ポ ク ラ テ ス 関 係 資 料
昭和四十三年十月二十五日から二十七日まで︑早稲田大学図書館で﹁洋学資料展﹂がひらかれた︒同館は元館長故
同教授個人の収集︑故勝俣銃吉郎教授旧蔵の資料その他を加え
る︒それをあらたに﹁洋学文庫﹂としてまとめ︑ て︑およそ二五
00
点におよぶ貴重な資料を蔵していて︑洋学発達史の研究者にとっては︑かけがえのない宝庫であ
一応整理ができたので︑そのなかから二百点あまりが展示されたの
この展示の機会に︑同館は﹁早稲田大学図書館蔵洋学資料図録﹂︵一︶を
刊行
し︑
配布した︒これらは︑﹁洋学文庫﹂の一端を示す文書と
して
︑ わたくしは展示の初日に︑開館を待ちかねて入場し︑心をおどらせながら︑ゆっくりと見せていただいた︒その多
くは︑これまでに本で見たり︑直接に見たことのあるものであったが︑こうして展示されたのを見て︑
早 大 図 害 館 蔵 ヒ ボ ク ラ テ ス 関 係 資 料
岡村千曳教授が在任中に収集されたものを中心に︑
ヽ
早稲田大学 図 書 館 蔵 ま
じ め
,J‑
に
まことに有益である︒
緒
また﹁洋学資料展示出品目録﹂︵二︶を
方
富
また感動のあ
雄
‑ 1‑
資料調査は加速度的にはかどり︑
そのなかに︑
のころ︑ ヒ
ポクラテスの画像が四点と︑
日本人のかいた
ヒボクラテスの画像や賛をひろく調査研究
し
はじめていたからである︒なぜこのような仕事 に手をつけたかというと
︑
に︑この研究をまとめて単行本として
刊
行する計画を持っていたからである︒いまから見れば
︑
そのころのわたく
し
のヒポクラテス画像や賛についての知識は
︑
学文庫のヒボクラテス資料について多少は解説的なことが書けるとおもったので
︑
執筆を約束
し
た︒わたく
しの勉強
実際わたく
し
は ︑
にもなるからである︒ らたなものがあった︒
ヒボクラテス賛詩が一点あって︑目にとまった
︒
それというのは
︑そ
それから二年半後に東京で開催される第
十
八回日本医学会総会︵昭和四十六年四月︶のため まことにまず
し
いもので︑断片
的
なものにすぎなかっ
たが︑
それでも洋
かなりくわし
い原稿を書きあげた
︒
しかし︑書けば書くほど問題が
出てくるので︑
原稿をあたためておくことにした︒そのうち調査の範囲もひろくなり
︑
見聞も広くなって︑それにともなって早稲
田
大学図書館のヒボクラテス資料をめぐる知見もふえていった
︒
そのうちに第十八回日本医学会総会の時期もせまり
︑
と︑
原稿を読みなお
し
てみ
ると
︑
単行本の原稿もまとまって
︑
ポクラテス賛美ー~日本のヒボクラテス画像と賛の研究序説」(三)
と題し
て ︑
しばらくこの
総会の直前の昭和四
十
六年三月に︑﹁日本における
ヒ
刊行することができた︒
ふくんで三
月二十日から四月十一日まで全国からヒボクラテス資
料
の出品をねがって展示
し
た ︒
こ
のような事情で︑早稲田大学図書館のヒボクラテス資料の原稿は
︑
とうとう今日まで
︑封 箇にいれ
たまま︑あと
まわしになってしまった︒
いまようやく身のまわりがおちつき
︑
気持のゆとりができたので
︑
ためて︑
責任をはたす
ことにした︒脱稿が
二年以上もおくれる結果になった
ことを︑
また総会の会
期を
さきの約束をはたそう まことに未熟で︑このままではとても使えない︒それで
︑
原稿をまったく書きあら おわびする︒ま
たわたくしの本
が刊行
された現在︑どうしてもこれによるところが多くなったが
︑
ヒ ボ ク ラ テ ス の 生 涯 と 肖 像
ヒボクラテス
(H i p p oc ra te s) はギリシアのコス島でうまれた︒その生年
︑没年については︑
ていないが︑生年は紀元前四六
0
年ごろ︑没年は紀元前
三七五年ごろとされている︒代々医師の家で︑ 父に学んだという︒かれは当時の原始的な医療をとらず︑病気を客観的に観察
して︑
そこから法則性をみち
びき出す
という︑
自然科学的態度で多くの病気とその経過︑原因などを考察記載
し
た︒また医の倫理についても
︑きび
しい
態
度を主張した
︒今日
ヒボクラテスの名のついている著述がすべてヒボクラテスのものというのではないが︑
テス の原作のものもあると考えられており
︑
た°
ヒボクラテスが﹁医学の父﹂とか﹁医学の祖﹂
といわれて︑
尊敬され賛美されているのは
︑そのしる
しで
ある
︒
もとよりヒボクラテスの医学の︑時
代による評価のうつりかわりはあるが
︑
今日までたえず想起され意識さ
れて
いる
という事
実は
︑
やはりヒボクラ
テス
の偉大さを示
して
いる
︒
ヒボ
クラ
ラスの肖
像については︑彫像と画像とにわけて考える必要がある︒
彫像については︑
Ri ch te r
の
Th e Po rt ra it s of t he Gr ee ks Cギ
リシ
ア人
の肖
像︶
︵四
︶の
なか
で︑
ア人の肖像とともに︑くわしく記載されており︑写真も出ている
︒わたく
しの本(
‑
︱ 一
︶ るにヒボクラテスの生前に
︑
写生的につくられた彫刻がなく
︑死
後しばらくたってから
︑
そのころの記載をもとに
し
早大図忠館蔵
二 ︑
ヒボクラテス関係賓料 わせ書いたつもりである︒
ヒボクラテスは︑医学
の歴史のなかで︑ つとめて洋学文庫の
ヒボ ク ラテス資料に焦点をあ たしかなことはわか
っ
はじめ医師を
ヒボ
クラ
つねに太陽のような
存在であっ
他の多くのギリシ にも簡単に紹介
してある
︒要す
‑ 3 ‑
日本人がヒボクラテスを知ったのは︑ で
ある
︒
二︑
てつくられたのがあっただけである︒それがどれほどヒボクラテスを再現しているか︑もとよりわからないが
︑これ
くつか
が現存しているが︑原型はいつかう
し
なわれてしまった︒ところが
︑ど
ういうわけか
︑これら
のコ
︒ヒ
ーは
︑
まから三十年ばかりまえまでヒボクラテス像とは考えられず︑これとちがった系列の一連の彫像がヒボクラテス像と
信じ
られ
︑
ローマ時代にこの原型からコビーがつくられ︵ローマン・コビー︶
︑
ほとんど世界の常識になっていた︒それが
︑
一九
四
0
年にイタリアのオスチア
・アソチカ
で発掘された胸像がヒボクラテスであ
ると同定されるにい
たって︑上述のローマソ
・コピーがヒボクラテス像の坐に
すわった
︒それまで
ヒボクラテス像と信ぜられていた
ものは︑
ほかの証拠もあって︑紀元前三世紀のギリシアのス
ト
ア学派の哲学者クリュシッボス
(C
hr ys
i p p
so ) であったということになったのである︒
Ric
hter
一方画像の方は
︑
彫刻よりずっと空想的で︑信頼性がない
︒彫刻を写生
した
ものは
︑
その彫刻の信頼性が
問
題にな るが︑それ以外の場合その画
に
ヒボクラテスであることが記入してあれば︑そうみとめるよりほかないのであって
︑
実物に似ているかどうかを問題にすることは意味がない︒これは日本人のかいた
ヒボ
クラ
テ
スの画像についてもあて
はま
る︒画像同志については
︑
どれとどれとがおなじ系列に属するか
︑
属さないか
︑
誰がかいたかが問題になるだけ 日
本 人 の ヒ ボ ク ラ テ ス 画 像 と 賛
の問題は決定的になったと考えている︒
一七九
0
年代からで
︑
をヒボクテテス
像とみなすよりほかない︒
し
いうまでもなく蘭学医たちである︒ヒボクラテスをオ
は ︑
これ
でこの同定
(O st ia A n ti
ca) そのい
早大医害館蔵
ヒボクラテス関係賓料
図1石 川 大 浪 班 究 政11年(1799) 吉川康雄氏政
Jの画像の下につぎの閲文の落款がある︒
る ︒ 吉川康雄氏︵草加市︶のところに伝わっている︵図一︶o
祖先にあ
ある
︒
良沢はその前年に長崎で求めている︒し
りに︑この画幅ができた由来を書きそえている︒ きる︒それによると︑ヒポクラテスの
﹁略
伝﹂
ランダ語の本を通じて認識したのは︑蘭学者大槻玄沢︵一七瑳ー一公右︶が最初である︒
その玄沢が一七九九年︵克政十一年︶たまたまコルネイキという人の本のなかでヒボクラ
テスの画像を見て大いに感
動し︑洋風画家石川大浪︵一主釜ー一八一七︶にその模写をたのんだ︒画像ができたとき︑玄沢はこれにヒポクラテス略伝を
題した︒この画幅は今日伝わっていないが︑題言は﹁磐水存響﹂︵坤︶︵五︶におさめられていて︑内容を知ることがで
を述べた部分と︑
略伝の部分は︑杉田玄白等の﹁解体新書﹂(‑七七四年刊︶の原書ク
ルムスのターヘル・アナトミアの注解︵脚注︶の大意を訳したものであり︑医学思想の部分はヘイステルの内科書︵シ
ュルゼインとよはれた外科沿でなく︶に由来している°ターヘル・アナトミアは︑玄白の﹁蘭学事始﹂にあるように︑明
和八年=︱‑月四日(‑老一︶の骨ヶ原の腑分の直前に玄白が手にいれているし︑
かしターヘル・アナトミアの翻訳のときには︑本文の意味をとるのがやっとで︑脚注にまで手がとどかなかったので
ていいものを︑
玄沢が模写させた大浪
9 のヒボクラテスの画像とおなじと考え
おなじ大浪が︑おなじ年にかいている︒それが たる吉川宗元が大浪にたのんでかいてもらったと伝えられてい
医学思想を紹介
した部分とからなっており︑
ぉゎ
‑ 5‑
ある
︒
いちばん多い︒
大浪のかいた
︑
方医学化学
研
究所蘭学文庫に入った︒
In Gr
ieken
La nd
.
Get ek
et n
i n Quan
i j s e
1 1 ,
do or I•
H. Tair
ou
うし
なわれた方の画像にもこの
よ
うな蘭文の落款があったのであろう
o
このような事情で︑吉川氏蔵の大
浪筆
ヒボクラテス画像は︑
︵ 一 八
00)
にもおなじ画像をえがいている
︒
コルネイキ由来のヒボクラテス画像は︑
禿頭でヒゲのゆたかな老人が左横に向いていて
︑
指をゆる やかにひらいた右手が見えているのが特徴である
︒
日本人のかいたヒボクラ
テ
スの画像のなかで
︑こ
の図柄のものが わが国に現
存
するヒボクラ
テス画像と賛は︑
まだわたく
し
の目のとどかないものがかなりあるにちがいない︒そのほか散逸
し
たものもいれると
︑
こ
えるであろう°わたく
しの見るこ
とのできたかぎりの資料についてはわたく
し
の本
(
︶でくわとりあっかっしくて‑l‑
日本の閑学医が
︑このように
ヒポ
クラ
テ
スの画像や賛をつくってこれを拝
し︑神格化して
祭っ
た
のは
︑
く根
ざしている祖先崇拝の
心
のあらわれと考えてよく
︑
れず︑心をひきしめ︑
この風習は︑ また心のささえと
した
のである︒漢方医が
神
農を祭るのと
︑
一七九九年以来およそ百五
十年 もつづいたのであるが
︑
この歴史のなかで
︑早稲田大学図書
館の関係
HI
PP
OC
RA
TE
S C
OU
S .
わが国現
存最古のもので
ある
︒ これは京都の小石元俊
・元瑞•
中蔵と代々伝わったが
、
いま海外にわたっている数点を
加えて︑
かれらは︑これによ
って
︑自 分の奉ずる
西洋医学の本質を忘 k沈ヽ
7f¥
+ )
﹀ 7回全涵踪11:¥I•H. :iJRf︑F u¥
大浪は翌寛政十二年
最近に財団法人緒
八十点をこ
える
︒
このほかに
おそらく百点を
そ
の心は通じている
︒ 日本人に強
早 大 図 書 館 蔵
ヒボクラテス関係資料
図2桂 川 甫 衷 箪 文 化13年(1816) 早稲田大学図柑館蔵
言にその大意を引用したのが最初である︒ 写したヒボクラテスの画像の上に書いた題 で︑大
槻玄
沢が
︑一
七九九年
に石
川大浪の模 る︒この脚注のことは前節で述べたとおり のターヘル・
アナ
トミアのオランダ語本の
crat~s
Co us he ef t on s 日乞卜
' は︑クルムス 故岡村教授の旧蔵であ
る ︒
筆 桂川 甫 賢
資料がどのような意義を持つものであるかを︑各資料について考えたい︒
四資料lヒボクラテス画像井賛
絹本 淡彩 (‑
︱︱
︱︱
‑ x 全・
立 燻 ︶
﹁目 録﹂ 一
︑七
﹁図
録﹂
一五
︵文庫八
IB
一 哭 ︶ 下半部の惰円のなかにボクヒラテス像を淡彩でえがき︑上半部に蘭文︑その下に漠訳文が書いてある︵図二︶
oすべて
くにやす蘭学医桂川甫賢︵一七をー
一 八 器
︶の筆である︒甫賢は名は国寧°梅街︑翠藍︑桂嶼︑
真桂
︑月池等の号がある︒桂川甫安
にはじまる桂川家は︑代々将軍の侍医すなわち奥医師の家柄で︑蘭学の名門として特別の地位にあった︒甫賢はその
くにおきら六代目で︑四代目の甫周国瑞とともに︑
抜群の天オであった︵参照今泉︵七︶﹁続編﹂︶︒甫賢は学問のほかに
︑画も書も
しろうとばなれしており︑
蘭字は蘭人をしのぐ見事なものである︒
これの蘭文賛
(8ペ
・ー
ゾを
見よ
︶は
︑イ
ンク
ペの
ン
書きで︑いまは褐色に変色している︒
これからわかるように︑
Hi pp
, o
第五ページの脚注にある注解そのままであ
‑ 7‑
之地︒当第二世百ホ細︵細︶
加斯王之時也°寿一百四歳
︒
先生以紀元前四百
三十二年生子厄力西亜中麻色独泥印
依卜
加得著撰数部
︒
如其解剖
書 ︒ 我輩以先生為始祖
°
鳩 児 誤 私
日
漢文賛︵題言︶は
︑ つぎのとおりである
︒
J: A: Kulm us heeft in zijn ontleedkundige Tabelen gezegt, dat :
Hippocrates Cous heeft ons de alderoudste gedenkteekenen der ontleedkunde, schoon verskreid in zijne schriften, naagelaaten, waar onder meede een bezonder boek van de ontleedkunde is. Hij heeft in Griekenland 432 jaaren voor de geboorte van Christus, onder de regeering van Perdiccas, den tweeden Koning van Macedonien ; geleeft, en Zoude 104. (anderen berigten 109.) jaaren oud geworden zijn. Hem komt nog heede ten dagen met regt de voorrang onder alle de geneesheeren toe.
大意
J. A. クルムスはかれの解剖学園譜中でいわ<。
コスのヒボクラテスは,解剖学に関するもっとも ふるい記述を,散在的にではあるが,その著作に のこしている。そのなかに「解剖について」とい う特別の本がある。かれはギリジアにおいて,キ リスト生誕前四三二年に,マケドニアのペルディ ッカスニ世の治世下にうまれ,百四オ(また百九 オともいう)に逹したといわれる。かれは今日で もなお医師の宗師とあおがれている。
岡村教授はさらに︑ 人を前にして照写せるものの如くに見える︒﹂ 漠文賛はよくクルムスの蘭文の大意を伝えている︒ Jろ幕府の医官になっていた︒ コルムスいわく 釈文 文 化 十 三 丙 子 仲 秋 奉 朝 請 医 官 桂 川 甫 賢 国 寧 写 井 題
或云一百九歳︒真医家之宗師也︒
ヒボクラテス数部を著撰す︒その解剖書のごときは︑我翡みな先生をもって始祖となす︒先生は紀元前四百三十二年をも
ってギリツア中マセドニエンの地に生る︒すなわち第二世ペルデカス王の時にあたる°寿一百四歳︒あるいはいう一百九
歳°真に医家の宗師なり°
﹁文化十三丙午﹂は太陽暦の一八一六年で︑﹁仲秋﹂は太陰暦の八月である︒甫賢はこの年まだ二十オ︵数え年︶の
若さである︒﹁奉朝請医官﹂の﹁奉朝請﹂は︑﹁朝請﹂とおなじで︑中国の朝廷の官名で︑定員がなく︑後漢のころに
は三公・外戚•皇室・諸侯が任ぜられた役だそうである。ここでは将軍の医官という意味であろう。実際甫賢はこの
画像について︑故岡村教授︵六︶はつぎのように書いていられる︒
﹁また画は︑捲毛で禁髯の深い人物がや4
斜めに向ひ︑碧眼は正面を鋭く見詰めている︒顔面にはかすかに陰影 を施し︑鼻梁は隆く︑立体的描写は精彩真に迫ってゐる︒藍色がかった衣服には線を用ひず︑濃淡をもって徽紋
を現はしてゐる︒もちろん舶載の版画によって描いたものと思はれるが︑憂も模倣のあとがなく︑あたかもその
早大図密館蔵
これが二十オの青年になったものと思われない老熟を示しており︑
ヒボクラテス関係資料 おそらく当時の洋画家中甫
‑ ,g ‑
賢の
作︵
一八
一六
︶と
のあ
いだ
に︑
を伝え︑雅淳にしてかつ清韻があることを指摘していられる︒
︶の年の甫賢が最初である︒さらに︑その訳文をかか が蘭文贅を江戸で書いている︒Jれがヒボクラテス Jれには一八一
0
年 桂川甫賢の右に出るものはすくなかったであろうと思われると述べていられる︒また︑甫賢は
このような画ばかりでなく︑
早くから宗元明の諸大家の筆蹟を研究して︑漢画をも描いており
︑絹本花鳥の一軸は︑
没骨の描法はよく南田の筆意 なおこの画幅ときわめて類似のものが別に一点ある︵斎藤まき氏蔵︶︵︱︱ーを参照︶0日付も﹁文化十三丙子仲秋﹂
て︑まったくおなじである︒ただ画像の衣服の色が︑早稲田本のが青色であるにたい
して
︑ 赤色である︒衣
服のヒダ
の様子には多少の相異がある︒顔も︑印象的にはほとんど同一といっていいが︑頭髪やヒゲの描法のこまかなところ
に多少の相異がみとめられる︒蘭文と漢文の字くばりに多少のちがいがあるが︑本質的にはまったくおなじである︒
このように本質的にほとんど同一といっていい画幅がおなじ甫賢によってつくられていることは︑興味がある︒
ところで︑甫賢は︑この二点よりまえに︑
紙本のためか︑まことにのびのびとうつくしく書かれている︒
現存している°ただし大浪は一八一七年没︶のほかに︑
蘭館長ヘソドリック・ズーフ(Hen
dr ik
おなじ年の三月︑
Do ef
f ,
J r .
, 一
七菩 ー一 八嚢
︶
ル・アナ
トミ
アの注解を画像の賛︵題言︶として書いたのは︑ いま一点をかいている︵武田薬品工業株式会社蔵︶︒八月
の二点とくらべると︑未熟のあとをとどめているが︑本質的にはおなじである︒蘭文の筆蹟がまことに見事である︒
わたくしの知るかぎりでは︑大槻玄沢と石川大浪による最初のヒボクラテス画像と賛︵題言︶︵一七究︶以来︑
ヒボクラテスをかいたのは大浪︵上述のコルネイキ由来のもののほかに︑別種のもの二点が
ただ一点筆者不明の画像があるだけである︒
画像に蘭文賛が書かれた最初であるとおもわれる︒甫賢の蘭文賛はこれにつぐものである︒また
︑クルムスのターへ
げ︑蘭文賛と漢文贅とを一対としたのも
︑
甫賢が最初である︒これとおなじ形式をとりいれたのは
︑のちに京都の蘭 とあっ
ヒボクラテス関係資料 日号︶はつぎのように報じている︒ 私立奨進医会の主催で第二回医家先哲追薦
学医
小森
桃嗚
︵一
七八
︱
‑│ KB
‑︱
︶だけである‑ 桃塙はおなじクルムスの蘭文をかかげ︑自分の漢訳をくみあわせている︒た°
だし桃埠の場合の画像は︑別の画家のかいたものである︒こう見ていくと︑自分で画像をえがき︑自分で蘭文賛と漢
文賛とを書いたのは︑甫賢ひとりだけである︒これはとりもなおさず二十オの甫賢の抜群の学識と才能を示
している
甫賢の作は︑このほかに五点がわかっている︒うち︱点は若いときの習作と考えられる︵猪熊泰一︱︱氏蔵︶︒
一八
一九
年︵
山形
散一
氏蔵
︶︑
一八
二六
年︵
小村
巌氏
蔵︑
一八四一年︵嵐山二郎氏蔵︶の作で︑様式はそれぞれちがっている︵茅原本と嵐山本とは近似︶︒
像は︑早稲田本とちがって︑まったく西洋水彩画風で見事である°賛の内容も充実している︒
このように︑甫賢は︑現在わかっているものだけでも八点もかいていて︑
質においてもすぐれており︑甫賢はわが国のヒボクラテス画幅史上もっとも重要な人物の一人である︒
明治二十六年三月四日︵一八九
一 ︱
)上野不忍池の弁天神社境内の長配亭で︑‑ ことに茅原本
の画
いちばん多産である°数ばかりでなく︑
会が催された︒奨進医会は︑医道の振興を網領の︱つにかかげる医師の団体で︑毎年三月四日︵骨ヶ原腑分の日︶に医
家の先哲を顕彰追薦する会を催していた︒
この日の会場の模様を︑﹁中外医事新報﹂︵第三︱二号
︑
明治
二十
六年
︱︱
︱月
二十
﹁当日楼上正面の床には中央に故有栖川一品殿下の御親筆に係る大已
貴神
︑少彦名神の御神号の軸物を掛け︑其右
に桂川国寧先生の自筆ヒボクラテスの肖像︑左に多紀藍渓先生の自筆神農の像を掛け︑其前の一間及傍の一間に諸先 哲の自筆に係る詩歌の類軸物︑遺著︑手簡類を陳列せり︵後略︶﹂
この時にかかげられた国寧桂川甫賢自筆のヒボクラテス肖像が現在のどれにあたるか︑もとより同定でき
ない
が︑
早 大 図 害 館 蔵
蔵 ︶ ︑ 点
は︑
ただ
し毀
は吉
雄忠
次郎
の蘭
文︶
︑
一八三八年︵茅原元一郎氏
といっていいであろう︒
あとの四
‑ 11 ‑
念
図3宇 田 川 拮 庵 筆 年 代 不 明 早稲田大学図苫館政
クラテスであることがわかる︒
甫賢筆の画像が︑いわゆる和漢洋の﹁医聖﹂の一員を構成していたことが知られる︒
なお︑岡村教授︵文献六
︑ページニニ九︶は︑
甫賢が十四オのときにあらわ
した"
Me di
c ney
S t o f f e Na am en
" C薬
ヒボクラテスと思われる﹂と述べていられる
︒その図
は同著の口絵
4 3 に出ている︒
五資料二
ヒ ボ ク ラ テ ス 像
絹本珀彩(楕円一宍
・写x-―10·~cnt)﹁目録﹂一五︑
﹁図 録﹂
一六
禿頭の老人の真左向の横顔を︑洋画の手法でえがいた︑極彩色の
︑きわめて印象的な画像である︵図三︶0
昭和三十五年十一月十八︑十九日東京古典会主催の創立五十周年記 念古典籍大展覧会入札会のとき本図書館が入手
し
た も の で あ る と
い
き︑その下に︑背景を方形に塗りのこして︑
︵文庫八IG
七︶
と 金 泥 文 字 で 書 についての標示はないが
︑
落款に﹁聖弟子﹂とあるから
︑それがヒポ
この画像に
関連してきわめて興味あることは
︑こ
れとまったくおなじ図柄の画像が
︑
武田薬品
工
業株式会
社と茅原
元一郎氏の収集中にあることである︒武田本はもと﹁伝司馬江漢篭﹂となっていたが
︑
いまはみとめられていない︒
印がおしてある︒﹁緑紡﹂は宇田川熔庵の号である︒
えがかれた人物
﹁緑
紡﹂
という陽文の方
画面の後頭部にちかい背景に﹁聖弟子宇格拝描﹂ う
゜
宇田
I I
熔
n t J
筆
品名集︶二冊の上巻の表紙
裏に
楕円の中にセピアのコソ
テでかいた︑
禿頭の老人の半身像を
︑甫賢がか
いた
﹁医
聖
早 大 図 書 館 蔵 ヒ ボ ク ラ テ ス 関 係 資
料 図5図3,4の原図かあるいはそれに近い 銅版画 シカゴ,クレラー図む館蔵
図4作者不明 武田薬品工業株式会社蔵
い︒アメリカの国立医学図書館の友人
Dr
.B
la ke
はヽ 二つの画像のくわしい比較は︑別に発表
した
ので
︵八
︶ヽ
一八
0
九 それにゆ の文字が読める︒両者には
そのほかに
三点のうち武田本と早稲田本とが
ことによく似ている︒ただし武田
本︵
図四
︶ は画像の栢円かやや大きく
(32.2 X 27. 0
cm
)︑
画像の下に長さ一六g、幅一•六gの大きな墨色の抹消がある。赤
外線写真で見ると
︑
HI PP OC RA TE
S .
色彩のちがいがある︒ことに衣服の色のちがいはいちじる
しく
︑
武
田本
は緑色︑早稲田本は青
色である︒顔のかきか
たは︑武田本の方 がややまさっていて︑立体感があり
︑早稲田本はやや平板である︒
ずるが︑
棺庵か武田本もかいたと考える
こと
は
︑技巧の
うえから見 てむずかしいようにおもわれる︒む
し
ろ棺庵が武田本を模
した
ので
はないかと考える方のほうが自然のようにおもわれる︒
これにたい
して︑
茅原本は描法がちがって
いて︑別人の作とおもわれる︒
この三つの画像には
︑当然原
画の存在を想定
し な け れ ば な ら な それに該当 するものではなかろうかといって︑小さな銅版画を送ってくれた︵図 き︒その後
︑
おなじものがアメリカの図書館に二
︑三点あることが
ロソドンの
Ta ss ie
氏の所蔵のゼム
(G em )
からとったという解説があって︑
わか
った
︒
この銅版画には︑
年十月二十一日刊行と印刷してある︒この画像は上述の三点とまったくよく似ているが︑実物は楕円の長径が︑
わず
‑ 13 ‑
画像は石
川
大浪がわが国で最初に模写したコルネイキ由来の﹁右手の見える︑左向き﹂の像を銅版画に
したもので その上部に宇田
川
桔庵の署名のある蘭文質がおなじく銅版刷になっている
︵図 六
︶
︒
その筆蹟は優雅である︒
Hi pp oc ra te s ze
gt ,
Ge ne es mi dd el en
.
Ie do 0 A1839
故勝俣鈴吉郎教授旧蔵である︒
六 資 料
があるかもしれない
︒
dat
de Z ie kt en s n i t e ge ne es en
銅 版 刷 ヒ ボ ク ラ テ ス 像
かに約︱
‑ c m
の小
さなものである︒この銅版画にも︑
裕庵筆のヒポクラテス画像は︑
男︶をあらわしてわが国の化学の先達とな
り︑
do or
W
el sp re e k en he id
,
また原画があると考えたい
︒
さすがにこの多オの蘭学者の画オをよく示
し
てい
る︒
宇田川
熔庵
(‑
芸八
ー一
八哭
︶は
︑
桂川甫賢︑坪井信道などと同時代者である
︒
大垣の医官江沢道義の長男と
して江
戸に
うまれ
︑十 四オのとき宇田川榛賢︵一七究ー
K‑︱
‑B )
の養嗣子となった
︒
オランダ語の素養がふかく
︑﹁
舎密
開宗
﹂︵
一︿
一
︱ ‑
七│
ボ ク ニ カ
また﹁菩多尼詞経﹂︵一八︱︱︱‑ ︶
︑﹁
植学
啓原
﹂︵
一八
g ‑︱
‑)を刊行して︑西洋の自 然科学としての植物学の導入者となった
︒
棺庵は︑長崎から蘭館長とその随伴者が江戸へ来るたびに
︑
ているから︑棺庵の西欧的文化との接触が密であったことが考えられる︒椿庵のヒポクラテス画像もその
ことと関
係
宇田
川
棺庵の自叙年譜が岡村教授の本︵六︶におさめられている
︒w
or de n
w さ
Jo oa
M
Dn.
. Ma ar紙 本
(‑ = ‑
六.
巧
‑o
o cm )
︵文庫→
C合
︱ ‑
︶
﹁目
録﹂
一ナ
﹁図録﹂一七
do or
かれらに接
し
‑ 14 ‑
この
蘭文
は︑
ウォールド﹂は︑
それだのにズ
ーフ
がヒボクラテスの言とした事情は ヒボクラテスいわく°
病気は雄弁ではなおらな
い︒
薬で
なお
る︒
一八
一
0
年に蘭館長ズーフが江戸で題したものとまったくおなじである︒日付と署名の部分がヅーフ のと非常によくにているので︑格庵はズーフの書にならったのであろうとおもわれる︒
この蘭文賛には︑重大なあやまりがある︒冒頭に﹁ヒボクラテスいわく﹂と書いてあるが︑この名言は︑実はケル
スス
(C l aud i u Clses u s
紀 元 前 二 五 ー 後 五
0) が︑"De
Me di
" ci(医学について︶のなかで書いているのである︒これna
をヒポクラテスの名言とし
たのは︑ズーフがはじめであるのかどうかはわからないが︑とにかく︑かれはあやまちをお かした︒この名言は︑それより十二年まえの寛政十年︵一七九八︶に︑江戸参府に来た蘭人との対話のときに書いてもら っているのであって︑その対話を記録した大槻玄沢の手記﹁戊午来貢蘭客通弁﹂に書きとってある︒さらに一八一〇
年にズーフが参府に来たときにも︑
る︒﹁スプレーキ
早大図書館蔵
おなじ句を教えられていて︑玄沢の﹁庚午西賓対話記﹂に書きとめてあるのであ る︒ところが注意すべきことに︑これの方にはちゃんと﹁
C.Celsus
人古
名︑
名言︑警句のことである︒
わからない︒熔庵は︑ズーフの題言をとりいれたときに︑このあやまりも︑
ヒボ
クラ
テス
関係
資料
スプレーキ・ウォールド﹂と注してあ
いっしょにとりいれたわけである°棺庵 でD
oc t o r Me dic i n a e
C医師︶のことである︒
図6銅 版 画 笠 は 宇 田 川 楷 庵 (1839)早稲田大学図也館蔵
わせたのであろう︒M.D.は今日の意味とおなじ して︑宇田川の頭文字のWと︑最後のaとくみあ 署名に
W
ぃa, ,とあるのは︑
W
とaを別々に 大意‑ 15 ‑
故岡村教授の旧蔵である︒ ﹁玄々堂松田保居﹂と︑それをそのまま踏襲しているが︑松田は松本が正しい︒初代玄々堂松本保居︵一七八︱︿ 画像の部分の銅版画の技法については菅野氏︵九︶の研究がある︒
│ ‑ 八 六 七 ︶
は
京都の人で︑作風がちがっていて︑この銅版画の作者とは考えられないという︒安田雷洲の作とする説もあるが︑こ れにも疑問があるようである︒この点は︑将来の研究を期待したい︒
なおわたく
しはこ
の銅版画は現存のものをすくなくとも八点見ている
(
o m
Iある︒それらを比較すると
︑刷
りあがりの調子がまちまちである︒そのうえ︑画像の部分と蘭文賛の部分との
間隔が
すべておなじでない︒このことは︑別々につくった二つの銅版を︑時を異にして︑別々に刷ったことを示している︒
このような銅版画がつくられたのは︑普及が目的であろうから︑どこかにその中心があるはずである︒それはおそ らく熔庵とかかわりのあるところであろうとおもう
o
この銅版画には異版がある︒蘭文賛の字くばりはおなじでなく︑
七 資 料 四
筆
坪 井 信 道
い︒早稲田本の軸の表には﹁ヒッポカラテスノ像 するためにこれを書いたのか︑
わからないが︑
の蘭文に﹁一八三九年
紙本
︵六
八
x︱
︱
‑ a [
︶﹁目録﹂一九六︑﹁図録﹂四六
もっと多
くあると考えられる根拠が
作者の署名がないので
︑
江戸﹂という意味のことが書いてあるのは︑その日付のあるものを銅版に
したのか︑銅版
に
一応この一八三九年の作としておく︒
天保十年中ノ彫刻二成ル玄々堂松田保居銅版画
﹂とあり︑箱
書も
自作ヒボクラテス賛詩
日付がない︑署名は判読できない︒
坪井信道︵一七弦ー一八哭︶が自作のヒボクラテス贅詩︵五言律︶を書いたものである︵図七︶0
︵ 文
庫八
IB
一 七 一 ︶
決定的なことがいえな
一
ヒ ボ ク ラ テ ス 関 係 賓 科
評判が高かった︒信道には版本になった著作はないが︑翻訳には重要なものが多く︑写本でひろく読まれた︒信道は 自分の翻訳を通じて
ヒボクラテスを知っていた︒詩をこのみ︑多くの作をの
こし
ている
このヒボクラテ
ス賛詩のつくられた時期はあきらかでないが︑
あるから
︑この時よりまえで︑
前年の天保
十年︵一公式︶にさかのぼるかと推定される︒
信道自身がこの笠詩を
書
いたものが︑現在八点わかっている︒わたく
し
の本
︵三
︶に
は
七
点と紹介
し
たが
︑
そのうち
いま一点が加
わっ
た︵
一こ
︒
現在の所蔵者はつぎのとおりである°茅原元一郎氏
︑
坪井誠太郎氏
︑
青木一郎氏
︑早稲田
早 大 図 書 館 蔵
図7坪井信道策 自 作 ヒ ボ ク ラ テ ス 狡 詩 早 稲 田 大 学 図 因 館 故
をそだてた°伊東玄朴︵一八0一
ー一
八七
一︶
の象
先堂
とと
もに
西方在至人
雙眼院喪宇
片言
燈鬼神
高天仁不極
し る か ん
9
げぃ
西方に至人︵道徳の至極せる人︶あり°鶴髪︵白髪︶絞きこと銀のごとし°雙眼斑宇︵天下︶を院す︵にらむ︶︒片言鬼神
を筋かす︒高天の仁きわまりなし︵きわまらず︶︑大海の智かぎりなし°赫々たりわが医祖°光輝万春を照らす︒
あらためた︒信道と名のり
︑
誠軒また冬樹と号
した︒
田川榛斎︵一七
究ー
K‑︱
に学んで大成‑ g)した︑
すぐれた蘭
学医であった︒
堂とよんだ︶を開き︑ 医祖
多くのすぐれた蘭学者
︑
天保十一年二月(l<~O)以前にこれを書いた証拠が 蘭学医 江戸で蘭学塾︵はじめ安恨批︑
のち
日習
落款に﹁平
衛
︵道
︶﹂
とあ
るの
は
︑このた
めである︒宇
平術拝質 鶴髪咬如銀
たまき
坪井信道は平家の
出であって︑
名は環
︑のち道庵と
大 海 智 無 坂 赫 々 吾 医 祖 光 輝 照 萬 春
‑ 17 ‑
のようなかたちは︑信道の後期の落款にないものである
︒
大学図書館︑坪井環氏︑緒方医学化学研究所︑武田薬品工業株式会社︑大久保盛次氏︒
現存の資料では
︑
天保
十四
年︵
一八
匹一
︱‑
︶の
落款
のあ
るの
がも
っと
もお
おい
︒ ヒボクラテス画像
に題
したもので︑緒方本のは石川大浪の筆︑武田本のは大原国延の筆で
︑
の﹁右手の見える︑左向き﹂の像である︒ただひとつ坪井環本の画像はちがっていて︑落款がなく︑小田野直武筆と 注目すべきことに︑これら八点の賛詩の辞句がかならずしも一致していない︒
久保本の
三点°坪井誠太郎本と青木一
郎本の二点である
°
他の辞句のこまかの異同についてはわたくしの本にゆずっ 西方有美人
雙眼院喪宇 これと早稲田本とを比較すると︑
︑
︑ ︑ て﹁西方有美人﹂である°わたくしは︑
片言燈鬼神
高天仁不極
かしこまった形式をとっている︒
こ
﹁在﹂と﹁有﹂とでは︑
語法上﹁有﹂をとる
うち坪井環本︑
いずれもコルネイキ由来 赫々吾医祖
光輝照万香
︑︑
︑ 一番大きなちがいは︑冒頭の﹁西方在至人﹂にある︒しかも早稲田本以外はすべ いろいろのことを総合して︑信道は﹁在至人﹂を﹁有美人﹂にあらためたと 考える︒﹁至人﹂と﹁美人﹂︵すぐれた人︶とは本質的にちがいはないが︑
のが妥当であろう
︒そ
れでは︑﹁西方在至人﹂とある早稲田本を信道の初期の作と考えていいかということになると
︑
なかなか断定しにくいが︑そう考えるのが自然なような気がする︒その論拠はわたくしの本にくわしく書いた︒落款
うじ
の﹁平衛拝賛﹂という表
現は︑
わざわざ氏を示
し︑﹁道﹂を﹁衛﹂と書くなど︑
以上のような推論が正しければ︑早稲田本はおそらく天保十年
( K ‑
︱︱九︶ころの作ということになろうo
︵ 絞︶
鶴髪皓如銀
て︑略するが︑
つぎのものが標準的と考えられる︒
伝えられているが︑疑わしい︒
大海知無埃
一致するのは︑茅原本と緒方本と大
緒方本︑武田本の三点は
‑ 18 ‑
忍
図8稲 田 文 笠 模 文 久2年 (1862) 早稲田大学図書館蔵
信道の質詩は︑
った緒方洪庵
( K
‑ 0
ー一合︱‑)は︑洪庵の門人津田淳三が塾を出て故郷に帰るにあたって︑この詩を書きあたえている︒ ヒボクラテスを雄大にうたいあげた見事なもので︑広く共惑をよんだようである
°信
道の門人であ
洪庵の門人であった長与専斎︵一八
ー 一 写 八 九
0︱
︶も︑明治二十一年︵一八八八︶のころにたびたびこれを書いている︒‑ 新村淳庵︵明治十年︑
一八 老︶ が
ヒボクラテスに関する小冊子に引用しており︑
このように︑信道の賛詩は︑
八資料
五
早大固芯館蔵
日本のヒボクラテス賛のなかで︑もっとも多く書かれ︑もっとも多く引用︑借用され
ヒボクラテス画像 ヒボクラテス関係衰料
︵文庫で
CR o
‑ ︱
‑ ︶
紙 本 淡 彩
︵ 究
X苺・立g)
目﹁ 録﹂ 一八
︑﹁
図録
﹂一
八
氏蔵︶の模写である︒
この 画像 は渡 辺華 山(
‑芸
︱︱
‑│ KB
︶のヒボクラテス画像︵浅井岩次‑
顔つきの印象はかなりちがうが︑細部をたど
ると︑顔や頭髪︑
勢︶はよく一致
している
︒華 山の原画︵図九︶を見なければかけないも
のである︒
落款に﹁壬戌初春写
貪空︶である︒稲田文笠
(K o ^ー 一
八 七 一
ll)は︑浅井岩次氏によれば︑ 故勝俣鐙吉郎教授の
旧蔵
であ
る︵
図八
︶
0
文稲 笠田 筆
たもので︑その意味で歴史的に重要な位置を占めている︒ 自筆のヒボクラテス画像に題している︒
文笠稲田林広﹂
と あ る
o壬戌は文久二年 ひげのかきかた︑ことに衣のヒダのかきかた︵筆
明石
朝裳
︵明
治二
十︱
︱︱
年︑
一八
九
O)がこれを Jのほか
‑ 19 ‑
九 資 料 六 結城正明刻 銅 版 刷
図9渡辺崩山節(天保2年6月とある が,実は天保11年10月)
浅井岩次氏蔵
であ
る︒
文笠はのち安政三年
︵一八癸︶に吉田藩のお抱え画
明治
六年
八月
二十
六日
︵一
八七
一︱
‑)
に六
十六オで没しているか じめ狩野探玄の僕となり︑
のち谷文屍に学んだ︒文笠の書 く﹁ 文﹂ の字と文昴の書
く﹁文﹂とが似ているのは︑この
こととかかわりがあろうか︒ちなみに文昴は華
山の画の師
師になり︑
吉田藩主松平信古にも画を教えたという︒華
山
に
ヒボ
クラ
テス画
像をたのんだのは
︑畢山
と三河の臣官浅
井
完見であって
︑実際に
たのみにいったのは完昴の命をう けた息子弁安である︒その弁安は吉田藩の医師になった人で
︑
文笠と面識があった︒単
山のヒボ
クラ
テス
画像は完晟 のあと弁安が蔵
し
ていたから︑文笠が弁安の手もとにあった畢
山
の画を見る機会があったと考えられるし
︑文笠がこ
れを模写する機会もあたったと考えられる︒当時文笠は五十五オであった︒
この画像は︑細山の画像をお
そらく直接に
模写したことを示す実例としての価値がある
︒
ヒボクラテス画像
︵柄
円品
x望
虚︶
︵文
廊八
ーC窄
一 ︱
‑ ︶
これは﹁洋学査料展﹂
に
は出品されなかったものである︒
にいむら
明治
十年
︵一
八七
七︶
医師
新
村淳庵が
銅版画家結城正明︵
一 八 ︳ ︱ ︱ ︱
︿ ー 一 九
0匹
︶
に
つくらせて頒布した大型の見事な銅版画である
文笠は既橋の在
︑
吉田方の野田︵現在股稿市内︶の人で
︑
は ら︑逆算すると文化五年
(KO
八︶にうまれたことになる︒
うにおもわれる︒
とのできたものだけでも︑
ところが︑明治二十六年︵一八九
︱ ︱
︶になって︑‑
医事新報﹂に寄稿して︑
早大因密館蔵 がわかっている︒
ヒポクラテス関係賓料
マサールという名の作者は多いが︑
図10結城正明刻(マサール原画)
早稲田大学図術館栽
どめ
︒る
Jの原画は︑フランスのマサール(L.
Ma ss ra d)
︵ 図 一
0 ) ︒
結城正明の代表作の一っとされているが︑これをヒポクラテス画像としたところにあやまりがあった︒
この銅版画をめぐるいろいろのできごとについては︑別にくわしく
書い
たの
で︵
文献
︱︱
‑︶
︑ここでは簡単に述べるにと
新村淳庵がこの銅版画を発売したときに添付した紙片によると︑
淳庵が東京府病院︵明治七年︵一八七匹︶愛宕下に開設︶で研修
していたこ
ろ︑この画像の原画を﹁米人﹂からもらった︒その米人とは
︑明治
八年十月︵一八七写︶までこの病院で内科を担当していたアシュミード
(A
l b e r
St
yd ne y As hm ea d) であったと推定される︒
肖
自分の宅にかけておいたところ︑友人が来てしきりに出版をすすめ
るので︑その気になったのだというo
この銅版画はたいそう印象的なものであ
ったから︑これを買い求めた人も多かったようで︑
この銅版画の主はヒボクラテスでなく
︑ の作であること
このマサールはおそら
v ̲
Le op ol d Ma ss ar d
(1812ー89) で︑ 像画家︑銅版画家︑石版画家として有名な人である︒ただし︑淳庵のもらったのは︑アメリカで複製されたもののよ
わたくしが確認するこ
七点ある
(
o m
Iこれの影響をうけたヒボクラテス画像をえがいたものも数点ある︒
当時ベルリンで医学勉学中の入沢達吉︵のちの東大内科教授︶が﹁中外
キリスト教の聖ヒエロニ
( ‑ ム ス
︱ ︳ 匹
0̲
匹一
九︶
であ
るこ
と
淳庵はこれを
‑ 21 ‑
1 0
︑
む す び
として︑世界に通用している︒ る ︒ t Deen を指摘した︒そして︑真のヒボクラテス像として︑
eu x) が石版画にしたものを郵送してきた︒これはのち複製されて︑
このあやまちは淳庵がおかしたものでなく︑
りである︒
の銅版画はヒボクラテスの画像としての坐をおりたのである︒
ヴィグルー(
V1 gu er ou ) アシュミードからもらった原画に由来するものであるが
︑明治十年か ら十数年にわたって︑とにかくヒボクラテス画像として︑
ひろく行きわたった︒これで
︑
日本の医学社会に強い印象をあたえた点で重要な資料であ なお入沢が紹介したヴィグルーの画像は︑彫刻のヒボクラテスを絵画化したものである︒第二節でのべたように
︑
この肖像は当時一般にヒボクラテスと信ぜられていたものであるが︑
いまになって見れば
︑それはクリュシッポスの 像である︒したがって︑これも当然ヒボクラテスの坐をおりたはずである︒しかしこの画像はいまだにヒボクラ
テス 以上のように早稲田大学図書館洋学文庫に属するヒボクラテス資料六点は︑日本におけるヒボクラテス画像
・賛の
歴史のなかで︑いずれもそれぞれ重要な地位を占めるものである︒うち二点は印刷物である関係から︑その所在はこ の文庫だけにかぎらないが︑重要な資料であることにはかわりがない︒他の四点は︑かけがえのない貴重
なものばか
の原画をグレゴアルとドヌ
ー
結城正明
︑.
(G re goire