48
L r
, トーマス・マンは︑一九三九年︑亡命地アメリカにおいて
ゲーテ小説﹁ワイマルのロッテ﹂を完成した︒︵﹁十六年﹂
による︶これよりさき︑一九三八年︑つまりマンがこの小説
を密きおわる前年に発表された﹁ヴェールテル論﹂の末尾に
.おいて︑マンは︑六十三才のシャールロッテ・ケストナー顧
問官夫人︑つまり旧姓プッフ︑そのかみのゲーテの恋人であ
るヴェッラールのロッテが今を時めく巨匠ゲーテを訪れ︑こ
の﹁女学生のように胸をときめかせていた﹂往年のロッテが
クー〃トワジ.1そのかみの恋人によって︑一片の片苦しい礼節をもって
しか遇せられなかった由を語っている︒彼女はこの再会につ
いて息子の一人に手紙を書く︒﹁私はある老年の殿方と知り
合いになりましたが︑この殿方は︑私がその人のゲーテであ
ることを知らなかったら︑いや知らなくても︑どっちみち︑
みじんも好ましい印象を与えませんでした︒﹂
一世を風扉した恋物語の後日揮としては︑これはまことに
にべもないエピソードであるが︑マンはこれを﹁トラーギ・
コーミッシュな人間的文学的アネクドーテ﹂として受取り︑ トーマス・マンにおけるゲーテ像形成
︑﹃心 つづけて次のように述べている︒﹁私はこの挿話をもとにして︑一つの思想豊かなエルッェールング︑いやロマーンが出来上ると思う︒それは︑老年の感怖と文学︑品位とおとろえについて多くの事を論ずる事が出来︑ゲーテの︑いや天才一般の迫真的な性格像を究めるきっかけを与える鞭が出来よ
︵■&﹄う︒﹂彼は︑誰かがそれをやるだろう︑とつけ加えているが︑
白●その誰かとは︑すなわち︑予定されたマン自身なのであっ
た︒ゲーテを主人公とする実名小説lこれは筵に野心的な企
図である︒しかし︑ゲーテ︒共処には︑またしても︑ある心
理的障碍があったlかどうか︒ゲーテを語り︑ゲーテを描
く時に一応は感じられなければならないあの気おくれのよう.
なものが︒︾目目蔚降号.層胃呈$鴨償庁入とは︑
マンの﹁ゲーテとデモクラシー﹂の冒頭に出て来る言葉だが
たしかに其処には︑八総てが言われたV感があった︒もとも
と︑それは︑驚異すべき偉大なそして祝福された生であり︑
その人と作品とが死後百数十年以上に亘って︑雷にドイツ人
橘
好
一
〜
49
IIjqlやF
のみならず世界のあらゆる国の人たちによって探求され︑あ
らゆる委曲にまで照明を当てられ︑祝祭を捧げられ︑文献学
的に検討され︑精神史的に論究され註釈されている一つの偉
大な現象であり︑カーライルやエマスンの時代から︑ジイド
やヴァレリに到るまで︑世界の最高の頭脳たちによってモニ
ュメントを捧げられている巨人であり︑しかもリオンによれ
︵や多︶ぱ︑既に一九一八年ドイツにあっては︑フリードリヒ・グン
ドルフのあの糖繊を極めた名作﹁ゲーテ﹂が出て居り︑第一
次大戦の後の不幸の慰め︑没落の観念への対抗拠点として広
く銃まれていた︑という事情があるのである︒﹁あえてゲー
テを語ることによって︑世界的コンクールに耐えなければな
︵句︾︶らぬ﹂という意識は︑恐らくこの時もマツを襲ったであろ
う︒しかし︑マンは自らの視覚lというよりも︑ゲーテを
語るに鐙も相応しい条件と資格とを早くから準備して来たと
いう凹覚をたしかに持って居たのである︒一九三二年のベル
リーンプロシャ芸術アカデミーにおける﹁ゲーテ識演﹂の冒
頭で彼は述べている︒﹁私はゲーテを語るのに愛をもってすインテイtヂートることしか出来ません︒つまり親愛の懇怖からしかすること
が出来ないのであって︑親愛感などと言えば垂にショッキン
グな表現ですが︑それもAこの測り難いものV合い与弄◎ヨー
ョ92冨望⑦を極めて切実に感ずる心によって柔らげられる
のです︒彼の頂点について語ることの方は︑最高のものに対
して︑純粋に認識力の熟していると感じている歴史的註釈者
qD
− −
的諸精神や教養ある人々に謙遜におまかせしましょう︒l
そういう事は︑彼の実体に参じてただここにのみ︑つまり精
神的なものの中にではなく︑人間的なもの自然的なものの中
に︑共に語る一種の正当権︑一種の可能性を見ることとは全
く異った事です︒自己の実体︑自己の存在からのみ︑従って
一種親近的経験からlシロ︒匡冒・口︒勺再8愚という子供
らしく誇らかな近親感からしか私のごとき者はゲーテを語る
︵︒q︶べき術を知らない︒﹂所はフランクフルト・アム・マイン︑そ
のヒルシュグラーベンにあるゲーテの生家に参入して︑﹁吾
が家に居る﹂ような感じを得︑市民的門閥的なもののなか
に︑自己とグーテとの出生の同一性を確認したりすることの
なかには︑この二人の社会的人間的素地の類縁性︑相互理解
への即物的現実的通路を確保しようとする意慾が歴然と汲み
とられるのである︒吾々は︑ここに︑マンとゲーテとの心理
的紐粥を語る発蝋的所与を先づ感ずるのである︒下って︑一
九三六年︑﹁フロイトと未来﹂のなかにある言莱は︑マンの人
間ゲーテへの傾斜をもっとはげしく語っている︒﹁父性膠芯︑
父性悦倣︑父性実演︑そして︑それらを︑より商い糀神的性︲質をもつところの父性代排像にうつしかえて行くこと︑l
こういうインファンティリスムスは︑実に決定的な︑はっき
りしたそして教化的な効果を個人の生活に及ぼします︒私はピルデソトA教化的Vと言います︒何故ならば︑教溌と呼ばれているも.
のの︑最も心はずむ最も悦ばしい定義は︑私にとっては厳と lIlI︲︲11
電
I
50
して︑賞欺し愛する者を通じてするところの︑つまり心の奥
底からの同感をもって選びとられた父性像を通じてするとこ
ろの形成及び鋳刻を意味するからです︒とり分け芸術家とい
うもの︑この本来遊戯型で子供っぽい人間は︑自らがつぶさ
に嘗めた経験によって︑自己の自伝にへ自己の創造的生活態
度の上に︑こういう模倣が及ぼしたところの︑ひそやかなそ
れでいて現れずには措かない影響を語る資格があります︒こ
ういう生活態度というものは︑しばしば︑別個の時代的条件
や人間的条件のもとにおいてするところの︑そしてまた非へ画Iニソヴイク常に異った子供らしいやり方においてする英雄的生の換倣に
すぎないのです︒こうして︑ヴェールテル段幡︑マィスター
段階及びファオストとディヴァンを含む老年の発展段階への想起をもってするゲーテ摸倣冒冒号︵ざの苦砺が︑今日な
お︑無意識のうちに作家生活を導き︑作家の生活を神話的に
︵F罰︶決定ずけることが出来るのです︒﹂
以上二つの引用によって︑吾われは︑大都市市民貴族の家
柄での出生という自然的所与を起点として生じたところの︑
精神的環境︑人間的発展様式の類似性に基くところのインテ
ィームな関係を︑特にマンが強調している点を認めよう︒一
小説中にゲーテを造型しようという不敵な試みの発条となっ●●●●●●●●●●●●ているものも︑実はこのインティームな関係に居るという自
負なのだが︑しかし︑マンとゲーテとの関係には︑明かに潜
在期つまり冒百冨号目の時期と顕在の時期又は発現期とで
一
、
も言うべきものが分けられるのである︒われわれがさしあた
り問題にしたいのは︑この﹁顕在の時期﹂なのであって︑こ
の顕在化の過程をあとづけて見ることによって︑マンの対ゲ
ーテ関係の深まり︑﹁ワィマルのロッテ﹂におけるゲーテ像
に州結するところのマンのゲーテ観の成立過程がいくぶんな
りとも明かになると思われるのである︒そして︑この作業に
は︑必然的に︑深く時代の歴史的状況と噛み合って発展して
行ったマンの内面的発展過程が関与して来ることになる訳だ
が︑吾われは︑ここで予め極く大ざっぱにマンの発展のフプ
ーゼを要約して置き度い・そして︑これにそってマンのゲー
テ像を彼の内面的発展と歴史的状況との照応の中で淀び上ら
せて見たい︒・
作家としてのトーマス・マンの道程は︑大略三つの段階に
分けることが出来る︒すなわち︑第一の時期︑一九○五年頃
までの彼の作品の主題は︑生と精神との二元的対立において.
人間一般の現実を見る︑という文場に架中しているのであっ
て︑総じて﹁精神化﹂ということは︑彼にあっては︑すなわ
ち頽癩没落を意味するものだった.この間における彼の創作
活動のピークは︑いうまでもなく﹁プデンプロークス﹂︵一
九○一︶及び﹁トニオ・クレーグル﹂︵一九○三︶である︒
後者の時期につづく第二の時期約二十年間は︑生と精神との
対立相剋の克服を目指す努力に捧げられる︒そしてこの努力
を換索との結果を梨大成したのが﹁魔の山﹂︵一九二四年︶
、
51
│トなのであって︑この発展小説において︑マンは︑若き主人公
ハンス・カストルプに︑第一期の内面的相克を止揚したとこ
ろのいわば︑完全な人間のヴィジオーンを予感させている︒
こうして︑ほぼ五十才をもって成熟期に入ったマンは︑生と
精神との統一融和という人文的理想をいよいよ現実的な確信
のなか︑に持込みつつ︑その典型的な人間像としてやヨーゼフ
とゲーテとを造型するに到るのである︒以上三つのファーゼ●●●●のある時点において︑ゲーテがマンの作品に蚕場し︑ここを
起点として︑マンの︑いわば顕在的ゲーテ像は発展して行く
訳だが︑吾われは︑まづこの時期のマンの対ゲーテ態度をあ
とづけることからはじめたい︒●●●●ところで︑ある時点とは︑一九○五年マンの三十才の作品
﹁困難な時間﹂浮寄g①の自国号を指す︒マンの結婚の年で
ある一九○五年を︑彼の発展の決定的な転換点と見るハンス・
アィヒナァは︑﹁この時から︑ゲーテが目立って権威をもつ
︵︽︒︶た手本となる﹂と言っている︒が︑彼のこの指摘は︑おそら
く︑創作実践のモラルおよび技法的摸倣という点に限定して
考えられねばならず︑全面的人間的な傾倒を語るものではな
い︑という点は見逃してはならないであろう︒何故なら﹁困
難な時間﹂の中に造型されたゲーテの人間像とマンの人間と
の間には︑なお︑よそよそしい距離感が介在しているのであアソヂぷ1デって︑どうやら︑マンはここで︑ゲーテを自己の対極者とし
て見ているらしいのである︒つまり︑ゲーテは︑此処では︑ ア︲制可
望
余りにも明朗なオリムピャの神として︑世の常識的なゲーテ
観の視角でしか受とめられていないのである︒マンは︑﹁懐
かしい敵意で愛している﹂ワィマルの﹁もう一人の男﹂に対し
てシラーのマスケのもとに次のように言っている︒﹁いったい
あの男が偉大なのであろうか︒どういう点で?どういうわ
卜画シヅ・けで?あの男が勝つとき︑それは血の出るような八にも拘デー入らずVであろうか︒負けるとき︑それが一つの悲劇になるこ
とがあろうか︒あの男は恐らく神であろう︒だが︑英雄では●●●●●■●ないのだ︒しかし︑英雄であることよりも︑神である方が楽●●●●︵毎J︺であろう.⁝・・﹂︵闇点蛾者︶けだし︑こうした距離感は︑言ゼソグイムンタールうまでもなく︑いまだマンが感傷的Ⅱ精神主義的作家と
して︑﹁生﹂と﹁精神﹂との矛盾的対立の図式の一方の極に
立ち︑他の一方の極にゲーテを占位せしめることによって︑
生じて来たものである︒彼は︑A弱さのヒロイズムVである
八トロッッ・デームVの倫理に身を寄せかけつつ伸大な仕事
に岡う立場の︑比類なき英雄性を仰明し︑シラーの名におい
て︑﹁生﹂に対しての自己の倫理的立場の優越性を保証づけ
ようとしているかに見えるのである︒周知のごとく︑素朴詩テュボロギイ人と感傷詩人という形態区分は︑シラーの﹁素朴の文学と感
傷の文学﹂によるものだが︑素朴詩人は︑健全なる自然のな
すところはすべて神的である︑という汎神論的見地に立ち︑
神からの霊感に溢れつつ思いつきや感憎の自然の流露によっ
て行動し表現するのであり︑いわば︑自己の存在の物自体性
I 一
111︲■11︲11︲﹃
において充実し完結している︑と言い得るのである︒彼らの鼬↑表現においては︑そのピンゼルの一はけ一はけが︑すべて永
一久に確定せる堅固なしかし全然自由な輪廓を自らの思想や形
象に与えるのである︒それは︑訓わば︑何の責任をも持たず
に自然を豊にする鴬の声であり︑永遠の初生児の無垢な充実
であり︑無意識の勝利である︒シラーは︑彼の目に映じたと
ころの︑こういう天才ゲーテを前にして︑自己の詩人的立場
を確立するという苦渋を担わねばならなかった︒とすれば︑
﹁困難なる時間﹂におけるシラー像は︑こういう苦渋そのも
のを描写したものであるとも言える訳だ︒シラーlマンは言
う︒﹁天分というものは︑決し・て軽やかな冗談半分のもので
はない︒その侭で︑一つの能力と見倣されるものではないの
だ︒根源において︑それは一つの慾求であり︑理想について
の批判的な知識である︒﹂一口にいえば意識と計算という苦
渋にみちた作業なのである︒そして︑彼らは︑ここでは︑根
源において︑一種の無からの創造者なのである︒ところで︑
マンのこういう距離感乃至違和感は︑その後にもあとを引い
ているのであって︑マンがトニオ・クレーガアをして︑﹁僕
は偉大な︑悪魔的な美の道で冒険を試みながら︑人間を軽蔑
するあの誇りかな冷静な人々を嘆美しますlしかし︑彼ら
︵︽U︶を葵ましいとは思いません﹂と言わせるとき︑あるいは︑こ
こで︑ひょっとすると︑ゲーテ型の素朴詩人を脳裡において
いたのではないか︑とカンぐり度くもなるのである︒
戸
更 ともあれ︑︲ここでは︑人間をして偉大ならしめる一つの原
理︑八トロッッ・デームVのモラルがゲーテについて疑われ
て居る点は︑後年のマンのゲーテ観とどうやら決定的に矛盾
する点であり︑マンのゲーテ認識は︑まだ進展を見せる余地
があるということが明かになる訳である︒それから︑ここで
もう一つ注目を惹くのは︑一︲困難な時間一の中にたしか二箇舍●●巳●●●●所に出て来る一懐かしい敵意で愛している男一という言葉で
ある︒ここには︑まぎれもなく︑当年のマンの対ゲーテ感情
アムピヴレソヅの双価性が現れている︒lと言ってもいいであろう︒フロ
イトの心理学では︑小年の父親に対する関係にはアムピヴレ
ント︵両面的又は双価的︶な特性があることがあげられてい
る︒父性願望と父性僻悪というコムプレックスであって︑小
年の心理の深部にあっては︑競争者としての父親を無きもの
にし度いという慨悪感と︑父親のごとくありたいという願望
とが一体となって︑自分を父親と同一視するという現象が起
る︒一方では︑父親を嘆美するが故に︑父親にとって替りた
いと望み︑他方では︑父親を亡き者にしたいが故に父親のご
とくあり度いと思う︒さてここに一方において︑﹁あの男が
伸大なのであろうか﹂と訓わばキメつけて魁いて︑同時に他
方では︑﹁端的にそして神の如きロで︑朗かな事物を名ぎす
あの男の澄み切った世界lその世界へ入って行こうとする
憧恨﹂を言うシラーⅡマンがいる︒いづれこのアムピヴレン
ッは︑マンの成熟を待って︑次第に発展的に解消し︑尊敬と
I 1
凸、
閑
傾倒とは高度の確実さを渡得しなければならないのである︒
この過程を語ることは︑・本稿の今後の課題であるが︑ここで
は︑先に述べたアイ・ヒナーの指摘に微って︑ゲーテの影は︑
先づ小説技法や作家としての制作実践の面に落ちはじめるこ
との次第を述べて置こう︒つまり︑それはマンが︑たとえば
一・ヴェニスの死﹂︵一九二年︶の制作に当り︑ゲエテの
﹁親和力﹂を模範として︑その荘厳なスタイルの秘儀に参ず
るべく彫身鎮借の苦労を甜めたり︑﹁庭の山﹂においては︑
その発展小説としての性格を︑﹁マイスター﹂からの示唆に
負うている︑などと言った点である︒しかし︑いづれにして
も︑それらは︑マンの作品の蔭に潜在しつつあるゲーテであ
ってゲーテの人間像がはじめて全面的客体的に取り扱われる
のは一九二一年の﹁ゲーテとトルストイ﹂の時期になるので
ある︒
ところで︑叙述が少しお先早る感があるが吾われは︑﹁困
難な時間﹂のゲーテ・コントラ・マンという考え方の延長に
おいて︑ここで﹁ゲーテとトルストイ﹂についてすこし触れ
て置く方が便利かと思う︒このマンの論文にあっては︑標趣
はまさしく﹁ゲーテとトルストイ﹂であって︑﹁ゲーテとシ
ラー﹂ではないのだが︑論中の一章﹁序列の問題﹂目興国
ぬgで諭じられている通り︑この﹁と﹂は必然的にシラーを
ゴプタ予定又は想起させるのである︒辿辞﹁と﹂には二つの機能が
あって︑それは類似催乃至同質性を表すものと対立性乃至異
〜 q
質性を表すものとになる︒﹁ゲーテとトルストイ﹂又は﹁シ
ラーとドストィェフスキィ﹂における﹁と﹂は︑まさしく前
者であって︑ゲーテとトルストイは︑より﹁自然﹂の側に位
置づけられる人人であり︑それぞれ﹁オリムピャの神﹂﹁ロ
シヤの神﹂として︑人々によって﹁神に似ている﹂と見られ
た点で同質的類似性をもつのであり︑そしてこの組合せは︑
必然的に︑﹁精神﹂の人々であるシラーやドストイェフス●●キィという聖者の概念において同質的であるところの一組に
異質的に対立するのである︒マンは明かに上記の標題のもと
に︑ゲーテとトルストイの裏側に﹁シラーとドストイェフス
キィ﹂という措定を準伽して居るのであり︑まさしく︑﹁困
難な時間﹂において見られたテュポロギーの延上線上におい
て︑﹁精神﹂型の人間と﹁自然﹂型の人間とのタイプが︑詳
細な人性論的検討を受けるのである︒ここで︑注意すべきこ
とはこの二つのタイプを論ずるマンの態腱は︑公平な群観的
態度とでも名づけるべく︑﹁困難な時間﹂において感じられ
たマンの意識の天秤のシラーへの傾斜は著しく後退している
と見るべき点である︒ゲーテとシラーこの二人のAいづれが
高貴なりやVという美的倫理的な問題についてマンは喬う︒
﹁われわれはこの問題のいづれにも答えないだろう︒それは
価値の問題を超えて︑個々人の趣味に︑あるいはもうすこし
政々しく言うなら︑個々人の人性概念雷匡日日﹄鼠厨辱侭感電に
応じて個々人の自由に委ねられねばならぬ.勿論︑そっとつ 11|︸ヘョIljIll
認
け加えるんだが︑こういう決定をしようといきり立てば︑
人性慨念という奴は︑必然的に不完全な一面的なものになる
のだから︒﹂要するに雷二日目言腎の探求にあたっては︑対
象の対立性相反性はいかなる価値の商下の原因にもなりはし
ない︑と言うのがマンの現在の立場だがここに︑マンの対ゲ
ーテ態度に一歩前進があったことを吾々は見逃してはならな
い︑と思う︒マンは︑ここでは︑ゲーテに対して善しく受容
的になった︒吾々は斯る視角のもとにマンのゲーテを追って
行きながら︑自然児の側に﹁健康の高貴さ﹂があるように︑
精神の子らの側には﹁病気の尚貴さ﹂があるだの︑あるいは
﹁素朴﹂の概念と﹁感傷﹂の概念が︑夫々﹁造形﹂と﹁批評﹂
といった新しい概念にうつしかえられつつ︑その内包が明確
に規定されて行くのを興味深く謎んでいる柵に︑﹁生れなが
らの功統﹂シ員3.尉月く日豊目黒といったような言梁を見
せつけられて改めてこの言葉の怠味を考えたりするのであ
る︒諺畠899⑦ご⑦己苛邑降とは︑シラーの理想主義的敵命●●●的倫理的な努力に発するところの後天的﹁人格的功統﹂に
対する﹁生れながらの功紬﹂なのである︒一口に高えば﹁巡
命の恩寵﹂なのであって︑生れや才絆などという先天的なも
のに対する自侭と誇りの程を示す意識の表現なのだが︑マン
は︑こういう児方で公平に双方のタイプの人間性を眼めてい
るのである︒そして︑マンは︑このようにゲーテの本鷺に対
して︑こういう受存的態度で肉迫しながら︑﹁生れながらの
貝
功統﹂というゲーテの恩寵の問題に触れるとき︑そのゲーテ
と生れを等しくする自らの恩寵の一部に︑あるいはやひそか
に側感の眼差しを向けていたかも知れないのである︒いづれ
にしても︑此処では︑マンのゲーテ像に第一回目の正確なデ
ッサンが行われた︒lが︑先にもことわって置いたとおり
吾われの叔述はすこしお先走り過ぎているのである︒ここで
すこしく︑さかのぼって︑この﹁ゲーテとトルストィ﹂以前のマ
ンがいわば心の庇からゲーテを呼び求めるに到るまでの︑マ
ン自身の内面発展の論理をあとづけてみなければならない︒
ところで︑先にも述べた通り︑初期のマンの人生認識の根
庭には︑八糖神乃至意識は緬蟻だVと言うテーゼが︑黒ぐろ
と定式化しているのであって︑このことは︑彼の青春時代の
作品群が︑きわだった自意識過剰家つまり没落への志向者た
ちに向けられて居り︑その主人公たちは︑すべて自己の異常
性への過剰な意識という苦悩を担って原冨目I宍9口目の
欠乏のために自ら傷き路れている点によって明かになるだろ
う︒こういう認識表現の頂蝋を示すのが︑﹁プデンプロォク
ス﹂なのであって︑手っとり早く言えば︑この作品の主題
は︑すなわちA糖神化Vということに外ならない︒健康でタ
ブな代表的ブルジョワの無意識の活力が世代を戒ねるにつれ
て次第に洗銚され誠蝋化して行き環境への適応性と実行力を
喪い簸後にはただF号の旨Ⅱ穴冒昌曾の欠乏そのものが雌しく
残る︑という結末は︑マンの青春の日の危機的側己認識の究
I
、
弱
極を語る︑と言えはしないか︒ここでは︑世紀末の大市民一
家の没落という銑事詩的事件は︑自己の没落の予感とでも言
うべき︑マン自身の内面的心理的現実を通して捉えられて居
り︑このマンの内面的現実は︑個人的にはマン自身の血液的
所与性に発するのは勿論であるけれども︑反面これがまた世
紀末の社会的状況という歴史的客観的なものの必然の反影で
あることも見逃してはならない︑と思う︒ファン・ド・シエ
クルという言葉の周辺には︑いわゆる八漠然たる不安Vと絶
望とデカダンスといったようなムードが避け難く鰹綿してい
るのだが︑たしかなところは︑この時期があらゆる信仰︑あ
らゆる伝統的椛威がその王座を追われ︑古き偶像は破峨せら
れ人心の確乎たる拠点が不在となった時期である︑と言うこ
とだ︒マンの揺藍のほとりをかこむ雰囲気の彼方には︑すで
にマルクスⅡラプサアレの徒によるゴータ綱領の採用という
激烈にして浦新な勢力の拾頚があり︑一方ドイツプルジワジ
ーは︑対外的には︑先進資本主義諸国の国家主義と帝国主義的
政簸に対する対抗を強いられると同時に︑国内的には執勧に
もりあがる社会主義迎動の潮に迫られつづけねばならなかっ
た︒つまり︑時代の風潮の風当りが蛾も強かったのが大市民
階級であり︑彼らブルジョワジーは不断の焦燥と不安の中で
独占費本主鏡への共喰い的競争を激成して行くと同時に新興
社会階級の攻勢に対抗しなければならなかったのである︒こ
ういう空気のなかにおけるリューベックの大市民の末商マン
b
三
の般大の体験は︑一家の﹁没落﹂だった︒そして︑この現象
の解明は︑社会学的歴史的領域でではなく︑非政治的な人性
論的Ⅱ心理学的Ⅱ人間学的領域においてマンの課題となる︒
一挙にして世界の真相を把握するかにみえるショーペンハウ
アーの哲学がそこにあった︒﹁ブデンプロオクス﹂は︑ショ
ーペンハウアーの脈世哲学を主調低音とするところの作品で
あり︑彼の認識という機能に支えられたところの極度に心理
的分析的な︑市民階級の生活の内実の暴露であり︑同時に︑
そこにはトオニーの政略結婚にあらわれている斜陽的大巾民
のあがきや︑ハーゲンジュトレームに見られる新興資本家の
利己主羨的低劣性や冷酷性︑水先案内人の息子で進歩的医学
生モルテンの点出等︑時代の影は色濃くこの作品の上に落ち
ている︒既に述べたごとく此の作品はショー︒ヘンハゥァーの
認識的Ⅱ静観的な厭世哲学を主調低音とする心理的作品では
あるけれども︑しかもなお物語の披砺詩的経過において世紀
末の大ブルジョワの生活を風俗的にもよく写し得てドイツに
おける自然主我的達成の鮫大のピークとなった︒こうして︑
マンは︑﹁芸術﹂の翁において彼自身の﹁没落﹂を克服した
が︑ここにこんどは︑マンの﹁芸術﹂自体の問題が︑﹁芸術
家とは何か﹂という問鼬となってマンを追跡する︒
トニオ・クレエガーは・高っている︒﹁もし表現の悦楽湿吾
々をいつも生凱溌潮とさせていないとすると吾々は間述いな
︽n︾︶く陰爵になるだろう﹂洗銚された鋭敏な感受性と過剰な自恵 ︷・眉.員三
弱
一 を求める努力は︑もっと深いところ︑彼自身の実践の中にもあ 盾からの脱出をはかるかに見える︒しかし︑彼の内面的調和 ゆる﹁杼倍的反語﹂によって︑ひとまず彼の内部の対立的矛 同時に彼らの無意識な生活の無垢性を瞳慨するという︑いわ ているのである︒彼は︑凡傭な市民的生活を経蔑しながら︑ へ迷い込んだ市民Vと見るという自意識が救いよもなく蛾っ れている︒そして︑彼の意識の中には︑自己をA芸術のなか に語ることか︒しかし彼の内部にはまた実直な市民の血が流 くしてなった作家であることを彼の青春の作品は如何に切実 はないVというマンの諦観の基盤だった︒マンが正になるべ に求めたということの根拠であり︑むしろ八芸術家になる外 ット的認識の璽厭は︑青春のマンが唯一つ︑救いを﹁芸術﹂ 識︑そしてまともな行為能力を奪い去る程に肥大したハムレ
イ画ニイったのである︒彼は︑彼の内部の矛盾を単に杼情的に反語と
して作品の中に流したばかりではない︒彼は自己の創作実践◆eの場において︑この杼熔的瞳慌の実現をはかったのである︒事併はこうだ︒l
﹁プデンプロオクス﹂のなかの家長的市民トオマスは︑言わ
ばA雷かざる芸術家Vとでも言うべき弟クリスチャンの生活
の頽嬢と︑過剰にして皮肉な現れ方をする自意識と感僻のア
ナルヒーとに厳しく対立しながら︑実は︑この弟と殆ど同じ状
態にあるところの︑自己の内面に蟠る崩壊感覚に耐えるため
厳格な伝統的市民的威儀を自己の日常生活に課するという悲
。
,
槍な演伎に生きる︒彼の厳正な進退挙錨清潔端正な身なり
そして釦穴に野ばらを挿すといったようなダンディスムは︑
これを言語と様式の上に移せば︑一点塵もとどめぬ文章と形
式とを目ざす彫身鍵符の彫琢という作家的審美主義的実践に
つながって行くだろう︒作家としてのマンは︑この今あげた
トーマスとクリスチャンという二人の分身を自らの中に担い
つつ︑自らの異常性︑つまり言うなればそのアウトナイダー
的側面を自らの文学の索材として意識し︑これを造型すると
いう実践的過程においては︑芸術家的形貌を担った一人の市
民的アルティザンとして︑すぐれた市民的倫理であるところミユーエフワイスの努力や勤勉という徳を極度にまで発揮するのである︒つま
り市民的職分に基いた市民的生活様式を︑極めて厳格な芸術
的作業の苛烈な斗争と結びつけることによって市民の実践的
モラルを芸術の場に奪取し︑わづかに自己の内部の悲劇的分
裂を統一し内面的安定を得て来たのである︒この時期のマン
の芸術的立場は︑﹁ラアル・プウル・ラアル﹂であるが︑こ
の審美的態度を支えているモラルは市民のモラルである︒フ
リッッ・シュトリヒは︑この間の事悩に注目して︑﹁ドイツ
のラァル・プゥル・ラアルは︑A義務充足のための義務充足V
国胃胃胃昏冒冒噸目目閨房胃⑦饒邑巨侭笥豈2となった﹂とい
う風に大変含蓄のある言葉を述べている︒こういう伝統的保
守的な︑そして形式主義的な爵斥目鴨︲目︒且と儒貿目鴇Ⅱ
両号弄を信条としたところにマンの保守性の根源があり︑や
=
、
駒
がて︑彼の文学がプロイセン的権威とひそかに結びつくモメ
ントがあるのである︒
しかし︑このようにして︑マンの保守的な芸術家意識に︑
ひとまづ安定を与えて来たところの雷昌冨員切目o昌一とF里︲
ぃ冨冒鼎Ⅱ両昏弄とは︑やがて迫り米る現実の複雑さと厳しさ
の前に︑その無力さと問題性とを暴露せざるを得ない︒そし
て︑一九二年の作品﹁ヴェニスの死﹂は︑あたかも此の問
題性の究明のごとく見て取られるのである︒.
﹁ヴェニスの死﹂における主人公アッシェンバハはlいや
説明は蛇足である︒この作品の第二章を挑む者は︑ここに描
かれた主人公の肖像に︑まぎれもないマン自身の︑いわば未
来的自画像を見るであろう︒彼は既に貴族の称号フォンをも
って遇せられるていの世間的成功に立ってをり︑︵全くの蛇
足になるかも知れぬが︑マンは一九二九年ノーベル賞を授け
られた︶その文章は文部省国定教科杏に採用せられるていの
国家的作家なのである︒そして︑彼の信条は次のようなもの●●●●●だ︒﹁世の伸大なものは︑殆ど全部八にも拘らずそうなった
ものVとして存在するのであって︑憂愁︑苦悩︑貧窮︑孤独
身体虚弱︑悪徳︑怯熱そして百千の障碍にもかかわらず︑そ
︵い︶ういう風に出来上ったものだ︒﹂ところで︑小説では︑この威
厳のある芸術家の力タストローフェは︑外ならぬ﹁美﹂の側
から訪れる︒美少年タド・ツィオの完壁に美しい肉体TII思
想の輔密︑几桜面さ︑人目につかぬところで孜々として励む 昔
意志の規律訓練︑それらのものの凝集と舛華の采に藷果され◆●るところの完全な形式として存在する一つの美形︑美少年タ
ドクッィォヘのエロティークが︑この巨匠を破滅へと誘うの
だ︒アッシェン・ハハは︑輝潅の都ヴェニスにおいて一美少年
へのエロティークという反社会的行動において命を絶つ︒
﹁美﹂への己みがたいエロスという反理性的デーモンの伽に
襲れたのである︒
さて︑問題は︑この美の使徒の終溺が︑マンの発展のファ
ーゼに照らして何を語るか︑である︒先づ第一に︑それは︑●●●●●●マンにおける﹁芸術家とは何か﹂という災い間の問いの終溺
であろう︒マンは︑鮫初︑芸術家の前提条件を﹁例外状況﹂
のなかに求めて来た︒﹁道化者﹂の周辺に並ぶブザマな逸脱
︒●者たちが︑いわばⅧ芸術家あるいは半芸術家というものの磐
岫的影像なのである︒﹁芸術家の削捉は︑八例外状況Vであ
る︒つまり︑胸的現象に深いつながりを持ちⅡつこれを絡み
︵血︶合っている一切である﹂というニィチェの言染をマンはその
ニィチェ論の何処かで・高っていたと記憶する︒予め触れて掻
いた﹁ゲーテとトルストィ﹂の中にも︑A炳気の哲学Vに捧
げられた一章があり︑言うまでもなく︑シラーとドストエフ
スキーがこの範騨に入るのである︒卜ニオクレーガーが芸術
家たることの正当樋を主張出来る根拠もやはり︑まつとうで
手堅い凡俄な市民的無意識性からの逸脱者たる点に求められ
る︒こういうアウトサイダーの自己認餓を生と糀神との対立 ︽P
弱
の相において描写すること︑そして︑こういう芸術家の営為
や生成そのものに自己端虐的な反語を投げることの中にマン
の個人主義︑いい得べくんば︑その美的心理主義的個人主義
が成立して来たのである︒﹁ヴェニスの死﹂は︑外ならぬこ
の美的個人主義への審判であった︑と言えると思う︒この作
品を︑A芸術家の内部にひそむ放逸性の指摘Vという単眼的
視点に縛り︑老巨匠ゲーテの老らくの恋﹁マリエン・ハート悲
歌﹂における老巨匠ゲーテの一事件のパロディを︑ここに見ようとする見方Iここに︑こういう風にそっとゲーテを持
ち出して見るとき︑モラリストマンの辛辣な眼眸は︑ゲーテ
のオリムピエールトウムの背後にひそむ不可測のデモーニッ
シュな天性に鋭い興味を向けはじめていることを語るでもあ
ろう︒しかし︑﹁ヴェニスの死﹂は︑芸術家の本性のうちに
ひそむ不徳義性︑カーオスと深淵に向う偏向や偏執を描くに
止るのみではない︒それは︑同時に︑マンにおける余りに保
守主義的な美的個人主義の破綻を物語っているのである︒そ
して︑この破綻の予感に立って︑プロイセン的ハルトング︑
市民Ⅱ芸術家的立場におけるプロイセン的英雄主錠の悲劇を
省くことにこそ﹁ヴェニスの死﹂の本当の意義があったので
ある︒芸術家的形態をとったプロイセン的英雄主義の一象徴
として挫折し終ったアプシェンバハの運命は︑ここで奇しく
も雁史的現実との間に明確なパラレリスムを形作っている︒
アプシェン・ハハの終鰐は︑彼の存在様式が繊細で斯新な陸弱
乳
などを離れて︑保守的な形式的な︑形式だけのものになり
︵睡︶終ろうとしつつあった時に一致したように︑プロイセン的ド
イツの多くの非政治的保守的インテリゲンチャの内面もまた
かかる危磯を孕んで居た︒ヴィルヘルムニ世魔下の古きレヂ
ームという形式のなかにあって︑与えられた義務を義務その
もののために芯実且つ厳正に遂行するということが︑つまり
言うなれば︑旧日本のあの八承詔必識V的な生活をすることが︑新興統一国家として無比の強さを形成することを見た
ドイツの国民的英雄感悩は︑極めて保守的な生活形式のなか
に硬直したまま︑やがて祖国の優越と孤独というドイツの述
命感ひいては︑ファナティックな陶酔感︑この反理性的デー
モンに屈するのである︒マンは︑アッシェン・ハハの運命を描
くことによって︑第一次大戦におけるドイツの悲劇的運命を
先取した︒このことに対する証明として否々は次の事実をあ
げれば足りるだろう︒すなわち︑マンは後に﹁ファゥスト博
士誕生﹂において︑ルカーチュが︑﹁ヴェニスの死﹂をハィウソタータソンリヒ・マンの﹁腫下﹂と並んで︑近代ドイツの文化内部
にひそんで居た野憎な暗然世界の危険を八侭号によって知ら
せたVところの伸火な先駆者として認めた点に言及し︑これ・ジグナリジーレソに刷感を表すと共に﹁この八幡号によって知らせるVと高う
概念こそ︑一切の文学や文学的蕗識において殿も璽要なこと
︽胸︶だ﹂と述べているのである︒
破綻は米た︒歴史はいまや第一次大職︵一九一四一九
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÷
、
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59
一八︶という黙示録的四年間を記録する︒戦争初期における
●シプクヂールスリウシユドイッ人一般の愛国的興密︑ドイツ国民一般の運命陶酔感
から徐々に離脱しながら︑一九一五年から一九一七年末まで
マンは﹁非政治的人間の省察﹂をつづける︒それは︑マンの
自己形成の基盤となっているものへの総検討であり︑合理主
義的西欧を接受するための︑いわば息苦しい程に良心的な対
西欧接側である︒極めて保守主義的なトーンをもつこの﹁省
察﹂も︑ドイツのプロヴィンシャリズムを脱却せんとする激
しい意志によって衝かれて居り︑そして︑ここではじめて︑正
而切って︑ゲーテへの函罠腎具が投げかけられるのである︒
ところで︑ここでは︑先づ︑マンの自己脱却への意志を示
すいくつかの言染をモンテイーレンしてみる︒﹁私は︵いま
までlとつけ加えよう︶進んで岡家と関係をもったことな
ぞ一度もなかったし︑昔から岡家に対する私の感慨は︑無関●●●●●心で燕え切らぬ︑個人主筏的で不偲仰なものであった︒私は
ユメナート
非政治的人側であった︒文明文土が八唯美主溌者Vと呼ぶと
ころの者であった﹂﹁個人生活の転換が︑破局的な時代転換
と符合するような時期に趾かれて居ることは巡命である︑こ
れは疑いもない﹂﹁これから後も今迄の生活を銃けたいと思
う者は︑時代にとり残されてしまうだろう..⁝・いや︑誕は時
代の愈味について無知なる者の般後の者ではないだろう﹂
﹁⁝⁝私は受理し協凋を求め自分を修正することは出来る⁝
⁝﹂︒以上は﹁省察﹂のなかの一軍g鳴昼詞g鷺目色亀色盲冨弄
一J
のなかの言葉である︒ここで︑はっきり分ることは︑マンが
非政治的で美的で︑そして保守的な個人主義者としてのマン
を脱却しようとしていることであろう︒そして︑このとき︑
ユーパードイッチユドィッ的であると同時に超ドイツ的な個性としてショーペン
ハウアー及びニィチェとならんでゲーテが名を連ねて来るの
である︒かくてゲーテは︑プロイセン的権威失墜の後の空白
においてマンの星座に鋭く光芒を放った︒彼は︑ここで︑伏
線的に︵伏線的というのは︑ここに引用する言莱の内実がや
がて彼のゲーテ諭及びゲーテ小説によって解明される︑ある
いはされなければならないと言う意味でである︶ゲーテを八
コスモポリタンVな大体人として規定し︑﹁ゲーテがフラン
ユピグヲ人ス革命との対決を試みたあの文群︑記鍬︑調刺詩に私は幾時
間も費した︒そして雌涯の終りまで同一の社会雅眼・締神韮
庇の上に立っているものと思い込んでいたであろうこの仲人
が︑新しいものと折合うのに︑つまり︑これを彼の枇界へ︑
彼の作品の中へとり入れるのにいかに苦心したかを見ること
﹃叫︾は私にとって慰めであった﹂と述べている︒
ところで︑一九二一年が︑﹁ゲーテとトルストィ﹂の年で
あることは既に触れて舩いた︒ではゲーテとトルストィ︑あ●●●●の自然の子らを︑人文の伝統に位慨づけるこの柵澗と愉文を
マンに強いた強力な動城は何であったか︒それは︑ドイツ戦
後の社会的政治的状況のきびしさというものであった︒民主
々鑑や議会政治に対する倦怠が頭をもたげ︑反自由主溌的な
1 1
釦
反勤が目立っていた︒イタリー及イベリヤ半島の突端にこの
傾向はきわだって居たが︑戦後ドイツのワイマル体制下でも●●ヒトラーのヌエ的な﹁新﹂国家主義︑つまりナチスによる反動
化が準伽されつ上あったのである︒このとき︑マンは︑﹁世界
精神の機智﹂言胃烏m弓堅筒凰呉の︑の観点のもとに︑ゲーテ
とトルストィの人性現象を論じ︑彼らの他面的な自我充足の
相に迫りつL︑結周ゲーテの佃人的・目険的・告白的な自己教
養の観念と努力とが︑普迦人川的・社会的・政治的なものに合
流することを明かにすることによって︑人文主拙的側山主溌
の伝統を擁痩したのである︒カール・マルクスがヘルダーリ
ンを統み終るという形でしか︑ドイツの典の社会主磯は成熟
しないと・間っているのもこ上だ︒かくして︑マンの視野はド
イツ的プロピンシャリズムを越え︑ヨーロッパ的文化の可能
と当為に向って拡大されて行くのである︒このようにして︑
これが︑マンの︑コヱモポリタンな大体人としてのゲーテに
よるヨーロッパ的ドイツ人の可能性探求の端緒となる︒かく
て﹁ゲーテとトルストイ﹂の末尾は︑ドイツのファシズムに
対する警告に終っている︒﹁ドイツのファシズム︑その成立︑
その成立の完全な解明について︑吾々は此処で言葉を出す必
エトニツシユ要はない︒それは一個の異端的な宗教であり︑国際的なユダ
ヤ粉神のみならず︑明かに人頚的権威としてのキリスト教も
またこれを嫌厭するものであり︑その司祭たちは︑われわれ
の古典文学に対して友好的な態度を取らないことを確認する
吟
2
だけで充分だ︒それは民族的異教︑ポォータン崇拝というも
のである︒l敵意を持った表現をすれば︑︵そして吾々は敵
心バルパライ意をもった表現をしたいのだが︑︶それは浪曼的野僻行為とい
アンテイゥフマニス・アイツシユうものである︒⁝⁝ドイツにとって︑今は反人文的身
ぶりをしたり︑トルストィの教育的ボルシェビズムを模範に
したり︑普通人間的教育理想の享受慾に対するゲーテの峻峨
な態度︑彼の諦念や制限に対する意志を︑民族特打の野性と
して血扮すべき時ではない︒反対に︑吾々の伸大な人文の伝
︹鳩︶統を力強く強調し厳かにそだてあがるべき時である︒﹂又︑同
押の﹁圃然と脚民﹂の瀬には︑エッカーマンに告げられたゲ
ーテの酎柴として次のような高菜が引かれているのである︒
﹁大体旧民的佃悠というものは各脚の関することである︒そ●●◆●●●ういうものが文化の雌下牌において存在することを断沿は縄
めるであろう︒しかしまた︑そをいうものが全く姿を洲し︑
人々がある程度まで脚民を超越して︑袷も自らの小に班遇す
るように︑隣邦民族の幸柵や不幸を感ずるというような段階
があるのである︒こうした文化階梯こそ︑私の衝質に相応し
︵的︶いものだった︒﹂
ゲーテが国粋主義的に誤川される虞れを語って﹁ゲーテと
トルストイ﹂は終る︒しかし︑このおそれはこのときかぎり
去った訳ではない︒ついで一九三二年︑ベルリーンとワィマ
ルとで行なわれたゲーテ祭はやはり政治的性格をもっていた
らしい︒祝祭とは偉大なる人の頌徳裡に︑選ばれた者と民衆
、
61 {
とが合一する機会なのだ︒ヒットラーの政権取得の前年︑マ
ンは今やここに再び人間的責務を果す絶好の機会にめぐまれ
た訳である︒そしてマンにとっては︑ファシズムのミアスマ
が益々深まり行く時期において果されるべき人間的責務とは︑●●︑︑︑すなわち文学者マンの政治的責任に外ならない︒そして︑い
まこの一九三二年の二つの講演のうち︑﹁市民時代の代表者と
してのゲーテ﹂に限って言うならば︑このマンの課題は八典
型的ドイツ市民の自己超克Vという形で論じられなければ
ならない︒そして︑同時に︑ここでは︑﹁ゲーテとトルスト
イ﹂の絲尼の噺で言われた﹁感傷的な瞳慨の交互性︑即ち輔
神の息子たちの自然への努力や︑自然の息子たちの輔神への
努力は︑人類の目的としてより商い統一を示す﹂と言う笥薬
が︑﹁飽くまでも非知性的な詩人というようなものは一和の
ローマン的な自然娯押の夢であって︑自然と輔神とを自らの
中に紬合するものである狩人なるものの概念そのものがその
ような柧類の人に矛屑している⁝⁝股も純粋な紫朴と雌も弦
大な慨性とが相たづさえて進み拠るものである収を改めて高
︵Ⅳ︶うまでもなく︑ゲーテがその筋異すべき一例である﹂へと進
められた境地でゲーテが語られるのだ︒では︑ここでゲーテ
はどのように諮られたか︒
まづゲーテは市民時代の代表者である︒︵これはマンにと
って蚊も手近な自然な視点であった︶市民時代とは一五世紀
から十九世紀未に及ぶ時代区剛であり︑この時代のなかにゲ
望
一
−テを位置づけてゲーテの可能性を見ることは︑﹁市民的時
代が婆るのを見ている吾々︑過渡期の窮迫と危機との中に︑
内と外との新しい世界︑新しい秩序を発見するべく運命づけ
︵蝿︶られている吾々﹂にとってもまた最も適切な視点であるだろ
兵″○
ゲーテは︑十五世紀ルネサンスのレオナルドのように内而
の広汎さ︑天成の二賦魂l芸術及科学の二亜魂をもってい
た︒彼はイタリールネサンスに対し秘極的な態度をとってい
て︑﹁タッソーにおいて︑ワィマルの窟廷をフェララのルネ
サンスの宮廷と慨きかえた︒彼の救那詩﹁ヘルマンとドロテ
ア﹂はルネサンス時代の芸術特性を雑びて居り︑とくにこの
脚作をラテン語で挑むことを好んだ︒彼はまた十六世紀宗教
改砿の子ルターの兄弟で同時にエラスムスの兄弟だった︒リ
ーマーは︑ゲーテが︑人類を築きあげる途上におけるすべて
の陳冊物を﹁法王轍と佃椛﹂に擬して抗激した点で︑彼はプ
ロテスタントである︑と商っている︒ゲーテはまた同時に︑
中肺とミスティフィカジョン︑非民衆的孤立主鏡という特桃
をもち︑宗教的騒擾には紐せず︑自分が賢明であることは梯
ぱしいが他人を間くする使命を感じなかった人に属したあの
ロッテルダムのエラスムスに似ていた︒彼は﹁今日混乱のと
きフランス輔神が/昔ルーテル輔神がしたように︑郡かな教
播を迫ひはらう﹂という二行詩を作った︒つまりゲーテは人
●文主義的貴族であり︑織細なもの非民衆的なものに共感を示
I︒r■rJr
豆
│
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I
、
62
したのであるp彼の生れたのは十八世紀半ばすぐ前だった︒
そして十九世紀に三十年足を踏み入れた︒彼の文化の根は当
然十八世紀にあるが︑彼の精神と魂は十九世紀の多くのもの
にも属し︑新しい世紀の社会的経済的発展を予見する社会小
説を醤いた︒さて︑ゲーテの市民的諸特性とは如何なる
ものだったか︒彼の外面的な生活ぶりを見よう︒きちんとし
た身なり︑上品さを塑んずる心︑そだちのよい子供部屋の峡
を物語る清潔さと疏泗さ︒彼にはエキセントリックな天才肌
のところがなかった︒その本質には説教者めいたところ︑荘
厳めかしかところ︑晴がましいものはなく︑彼の本来の心は
人に何か悦ぶことをしてやること︑世界を住みよくしてやる
ことだった︒彼は︑カンファタプルということを亜んじた︒
彼のように外的蛎物の律動的な回帰︑昼と夜︑季節︑花と実︑自
然現象及人生現象の規則正しいリズムに嫌脈を感ずるのは魂
の疾患で生命の危殆であると見るのは純正な市民的な感じ方
である︒彼はまた美食家であり︑美食家なるが故に︑美食を
求める他人の心を知る訳知りだった︒一方彼は経済面におい●e●てはしまり屋だった︒彼は︑自作の小説の発行形式について︑
その売り行きの倍増をあて込んでいろんな著想をした︒﹁ヘ
ルマンとドロテア﹂をミカエリスの弥撒に当って暦形の本で
出したのはその目的でだった︒彼は原稿料や印税は容赦なく
取立て苛黄するところがなかった︒一枚もただで渡さなかっ
た︒彼には︑父から受けついだ﹁生の厳粛な営み﹂と︑市民 的秩序愛があった.彼は一たんやりとげた事は︑不快で無益■●●であると分っても必ずやり遂げた︒彼は倦きやすい︑多くのものを落つきなく貧る天性の嫡正として︑﹁成就﹂という倫理的な命令と習慣を厳格な父から受けたのである︒朝の識歌や時間崇拝︑時間経済と言ったものも彼の市民的特性の中にはいる︒偉大な平和の道を行く人ゲーテは︑﹁忍耐﹂のなかで仕事をした.労作と労苦への愛.﹁かかる労苦を神は人に与え絵えり﹂というのがゲーテの︑恐らくは最も頻繁に引用●●◆eした聖書の句だった︒マンは︑ゲーテの持ち切ると言うことの例証として︑﹁ノヴェレ﹂に三十年︑﹁イフィゲーーニ﹂に八年︑﹁タッソー﹂に九年︑﹁エグモント﹂に十二年︑﹁マイスターの修業時代﹂には十六年以上︑﹁ファウスト﹂には四十年以上という数をあげて見せる︒以上のことをマンはきっと安らかな同質的結縁感のなかで語っているに相違ない︒マンもまたこの市民的諸属性のなかに居た人だからである︒●●吾々はマンにおけるゲーテ像の顕在以前に︑つまりマンにお●●●ける潜在的ゲーテ像を推定するとすれば︑こういう面をこそ見なければならない︑と思う︒これらのゲーテ特性こそマンの制作実践をどのように鼓舞したか︑と言うことが考えられるのである︒
さて︑これについで︑マンの叙述は︑ゲーテの文体の心理
学に触れ︵結核症の神秘家ノブーリスは︑﹁マィスター﹂を
﹀○画且匙の雪隠号冨鼻酌箇箇島⑦勺︒①異の︿と呼んだ︶ゲーテ