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陶弘景の仏教観

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陶弘景の仏教観

方 亜平

. 魏晋南北朝の三教一致論

 三教一致論の影響を大きく受けた陶弘景の思想は三百余年に亘った魏晋南北朝に遡る。中国 の歴史の中で魏晋南北朝を一つの区域に分けるのはこの時期の封建社会の特徴を持つのである。

漢代や唐代の一統の天下とは大いに違って、長期王朝割居の状態であった。宗教では、漢の末 に張陵によって草創された五斗米道は南北朝の時代になると、漸次に神仙道教に変わりつつあ る。仏教も外来宗教として、中国の公的宗教の地位を占めている。儒教はともかく漢武帝以後 の歴代帝王に大いに奨励されている。其の期間、三教は並びに立つ状態になっている。初めは、

儒道二教は両漢時代から非常に接近していたが、道仏二教は様々の議論があった。南北朝にい たって、道仏二教も遂に融合の傾向が出てきた。というのは仏教が外来宗教として、最初に中 国の土に根付けるかどうかは重大な問題で、中国本土の宗教と融合しないと、当時、誰でも仏 教の思想と教義を受け入れてくれない。だから、三教一致論を唱える仏教学者がどんどん出始 めた。その時、まず、東漢の牟子が『理惑論』1を著して、「仏とは識号なり、猶名して三皇神・

五帝聖なり」と主張した。それから、南斉の顧歓が『夷夏論」2を著して、「道は即ち仏なり、

仏は即ち道なり、その聖は符合し、其の跡は反す」と言って、聖同跡異を唱えた。其の後、張 融も「道と仏とは極に至れば二無し」「百聖同投、本来無異」3と提唱した。しかし、三教の発 展はずっと並行しているわけではない。仏教は魏晋から南北朝にかけて広く流行され、寺院・

僧尼の数は急に増えてきたし、仏教翻訳の面でもインド大乗有宗の著作は大量に訳され、仏経 理論の研究と著作も新しい盛期を迎えた。儒教は一度も衰えることがなく、魏晋南北朝ではや はり儒学を正統として、綱常名教の思想で士族地主の支配秩序を維護していた。梁の武帝は孔 子廟を建て、五経博士を設置し、京都と州郡に多くの学館を建立した。その時、玄学と仏学は ただ儒学の補充であった。南北朝の士大夫は皆仏教を信仰しながら、老荘玄学もよく研究して いる。例えば、斉の周顕は次のように語っている。

 老子と周易を兼善、張融と相遇するとき、玄言をもって相滞し、弥日解かずなり。

とある。そして、張融も臨終の時、遺令に「左手に『孝経」と『老子」を、右手に『小品』と

『法華経」を執る」という言葉を残して亡くなった。

 道教は陸修静(四〇六〜四七七)と陶弘景(四五六〜五三六)を通して、大勢の経典を収集 され、当時、相当流行し発展した。陸修静は江南著名士族の家庭に生まれる。東呉の丞相陸凱

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の子孫であるといわれている。しかし、陸修静の伝記は現存の歴史書物には見当らない。唯、

『南斉書・張融伝』にはもう一人呉郡士族張融と往来したことがあると記録されている。

 陸修静が道教発展に対する貢献は道教組織を整理改造すること、道教経典を収集整備するこ と、道教の斎醸儀式を設立することの三つであるといわれている。その中で、道教経典の収集 は後世に一番影響を与えたのである。陸修静の一生の著述は甚だしい数を残している。

 凡撰記論議、百有余篇……。所著斎戒儀範百余巻。

とある。しかし、ほとんど残されていない。現在、『道蔵』に保存されているのは、「霊宝経序 目』、『太上洞玄霊宝衆簡文』、「洞玄霊宝斎説光燭戒罰灯祝願儀』、「太上洞玄霊宝授度儀』、r陸 先生道門科略』、『洞玄霊宝五感文』等々。

 陸修静が崇虚舘に十余年間住んで、この期間、道教経典を収集整備し、三洞を総括した。そ して、泰始七年(四七一)南宋帝の勅を奉じて、r三洞経書目録』を献上した。又、大いに斎戒 儀範を製作し、そして、自ら明帝の為に三元露斎を行い、治病を祈請した。それから、後廃帝 元徽二年(四七四)桂陽王劉休範が謀反を起こして、反乱中死体は荒野に散らしているのを見 て、陸修静が棺に入れて、それぞれ埋蔵した。これらの活動は道教の経法を整備させるばかり でなく、そして、教義と斎戒儀式も完善させたのである。その時、道教は社会の中で、特に支 配階級におおきな影響を与えた。名士孔雅珪は次のように彼を評価した。

 道冠中都、化流東国。帝王稟其規、人霊宗其法。

とある。元徽五年(四七七)陸修静が崇虚舘に仙去され、享年七十二歳であった。弟子たちは 霊枢を盧山に奉還し、簡寂先生と識した。もともと盧山旧居は簡寂舘と名づけた。弟子たちの 中で孫遊嶽得道者のほかに李果之の名もある。孫遊嶽はすなわち陶弘景の師であり、その後、

陶弘景の『真話』の中に仏教の輪回転生と戒律を取り入れ、それで、道教の内容を前より一層 充実したのである。政治的にも彼は梁武帝に非常に尊敬されたり、「山中宰相」といわれたりす るという伝説があるほど、仏教信仰の深い梁武帝と陶弘景との異常な親しい関係からも、当時 の仏教と道教の触れ合いが覗かれるのではなかろうかと思われる。

 このように儒仏道三教は魏晋南北朝の三百余年の中、拮抗したり融合したりして、今日まで 発展してきた。其の様子を次節では振り顧みたいと思う。

二. 牟子の『理惑論』

 牟子は漢霊帝の死(一八九)以後の時代に生活していた人物だと謂われています。その時代の 資料が少ないので、詳しい生年月日はよく分かりません。この「理惑論』は三十七篇から成っ ています。著者は後漢の牟子かどうか、いろいろな説があるが、今でも定説になったものはあ

りません。牟子のr理惑論』はまた『牟子』とも呼ばれています。(以下は同じ)

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 この書物には儒家の経典がたくさん引用され、仏経も多く引用されました。そこから儒仏関 係に対する牟子の見方がよく現れたのです。r牟子』は一問一答の形式に書かれているもので、

問う人はいわゆる北方から来た儒者です。「私は昔京都に在り、東観に入り、太学を遊び、俊士 の所現を視し、儒林の所論を聞き、いまだ仏道をおさめるもの貴となすことをきかず」と、こ の儒者ははっきり自分の身分を表現しているが、逆に、答え手は牟子本人です。まったく反対 の立場から仏教を宣伝しています。

 牟子は初め、儒教の書物を学んだが、後は道家の書物や仏経を研究しました。これはr牟子』

の中に引用されている内容からも分かります。そのほかに『論語』『孝経』『左伝』「国語』「荘 子』『准南子』等も引用されています。牟子は儒仏を金玉と見なし、精と魂の関係として考えて いたのです。

 「吾は尊んでこれを学んだのに、どうして尭と舜と周と孔の道を捨てますか。黄金や珠玉は 互いに傷つけません。精神と魂塊は互いに邪魔はしません。人が惑うと言う時、自ら惑うか。」

(梁僧祐撰の『弘明集』の第一章)

 それから、牟子は儒教の思想で仏教の教義を説明しようと努めるが、例えば、儒家は宗教上 では祖先崇拝を、倫理道徳の上では「孝」を提唱したが、仏教の布施とは根本的な矛盾になっ ています。しかし、牟子は次のように述べています。

 須大掌が世の無常をみました。財産は自分の宝ではありませんから、やたらに布施をして、

 大道をなします。両親はその福を受け、怨みは家に入れません。仏陀になると両親と兄弟   は全て度世でき、これは孝ではありません?これは仁ではありません?誰が仁孝になりま   すか。(梁僧祐撰の「弘明集』の第一章)

 当時、仏教は中国に紹介された直後、伝統の思想と対抗する力がいまだないから、とりあえ ず中国の本土に根付けるために、融合の方法を執るしかありません。それは中国の儒家思想で仏 教教義を解釈する理由です。

 牟子はそれだけでなく、道家の思想も取り入れて仏教の基本教義を解釈しています。例えば、

「三法印」の諸行無常、諸法無我、浬築寂静については、東漢の安世高以来それぞれ違う言葉 に訳されています。「無常」を「非常」に、「無我」を「非我」に、「浬築」を「無為」に訳しま した。「牟子』の一章には、太子日:「万物無常、有存当亡。」と謂って、「非常」を「無常」に 直しました。この「無常」を「非常」に訳すのは間違いであると牟子は認識したのでしょう。

しかしながら、仏道は何かと聞かれたら、牟子は

 道の言葉が導くという意味です。人を導いて為さざるにいたります。引っ張っては前なし、

 引いては後がありません。挙げてはこの上ない、抑えてはこのしたがありません。見るに  無形なり、聞くに音声がありません。四方は大きくて限りがありません。微小なものより  細い。突っ込んで聞くと、故に道と謂います。(梁僧祐撰の「弘明集』の第一章)

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 周知のように「無為」は老子の道徳経にある言葉です。

 道は常に為さざる。為さざるには為さざるなし。王者がもしこれを守れば、万物はまさに   自ら化す。(『老子』第37章)

 「牟子』の中に用いた「無為」は初期の翻訳した仏経の中で「浬薬」或いは「解脱」と同じ 意味です。実はまったく違う意味です。しかし、これによって以下のことが分かりました。仏 教は中国に伝えて、中国の大衆に受け入れるために本民族の宗教思想と言葉を利用しないと誰 も理解出来ないし、信じることも出来ません。しかし、時代の下るに従って、これこそ仏教と 道教の争う焦点になります。これは牟子の時代の制限であると思われます。

 次に、仏教の輪廻転生説を当時どう解釈したかを見てみましょう。仏教では、出家に対して、

四諦(苦、集、滅、道)と十二因縁(無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死)

と八正道(正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定)を説法しました。これは仏 教伝来の初期にはあまり人々に注意されていないようです。しかし、意外に在家に対する説法 は、かえって広く伝えられました。例えば、善悪報応、輪廻転生等について、「牟子』の一節を 引用して当時の様子を見てみましょう。

  牟子日:「人は死に臨み、その家の屋上に登って人の名を呼ぴます。死んだからまた誰を       呼ぴますか。」

  或 日:「たましい(魂塊)を呼ぴます。」

  牟子日:「たましい(魂神)が還ると即ち生き返ります。還らないと(神)がどこへ行きます       か」

  或 日:「鬼神になります。」

  牟子日1「たましい(魂神)は本来不滅です。ただ身体が死によって腐り朽ちていくのみで       あります。身体はたとえば五穀の根や葉のようなもので、たましいは五穀の種実       のようなものです。根や葉は生じて必ず死にもあります。しかし、種実に終わり       はありません。それと同じく、道を得ていれば、身が滅びるのみであります。」

  老子日:「吾に大きな苦労があるのは、吾に身体があるからです。もしも吾に身体がなけ       れば、吾に何の苦労がありますか。」

又 日:「成功をおさめて身を退くのは天の道です。」

或 日:「道を為さっても為さなくても死にます。何の異なりがありますか。」

牟子日:「いわゆる一日の善でなくても、そして終身の善を問う者は死んでもたましいは     幸福の世界に入ります。悪いことをして死んだらたましいは必ず災いを受けます。

    愚かな人は事が終わってもそれをよく知らず、賢い人は、まだ事が萌さないのに     それを予知します。道をおさめるものとおさめないものとは、金と草とに対比さ     れます。善と悪とは、白と黒の違いです。どうして異ならないといえますか。」(梁

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      僧祐撰の「弘明集』の第一章)

 これは霊魂不滅と善悪報応をいかに説明すればいいかを、牟子は中国民間に伝われている迷 信をもって、霊魂の転生があることを答えました。すなわち、民間の習慣では人が死んだら、

屋上に登って死者の名前を呼ぷのは死者の霊魂がいまだ生きているではないかという質問に対 して、牟子は人の体が五穀の根と葉のように、死ぬときに無くなるが、霊魂は五穀の種と実の ように、世世代代生きていくと説明しました。

 それから、牟子は世界構成説についても仏教の神話と道教の天地構成説が一致していると考 えています。中国伝統の天地万物の成立説は次のようなものがあります。「天地は未だ形になら ざる時、空洞で虚空であるため、故に太始と言えよう。太易が変わると、人民に倦まずに教え ます。太初の後は太始があります。太始の後は太素があります。有形は無形に始まります。有 法は無法に始まります。また、太易があり、太初があり、太始があり、太素があります。気が 形になり質を具えるのは渾沌と謂います。清い気は天となり、汚れの気は地となり、和して人 となります。天地が精密な万物を化生します」。(梁僧祐撰の「弘明集』の第一章)「経典は億年 前の事を記載し、本国は万世の要を言います。太素がいまだ起きていない、太始がいまだ生じ ていない。乾坤が肇まると、その微かな所を握れません。その深さに入れません。仏陀はその 広大なところすみすみまで悉く知ります。その妙な内を分析し、これを記載しないことはあり ません」。(梁僧祐撰の『弘明集』の第一章)

 この「太素」と「太始」は漢代の緯書から引用したものです。牟子は道家の思想で仏教の世 界本源論を解釈しました。外来の宗教を紹介するには、本民族の宗教思想を利用するしかあり ません。牟子は仏教の世界形成説と中国の天地構成説と同じものだと信じていました。中国封 建社会は自給自足の自然経済基礎の上に立っています。それで、社会関係はほとんど宗法血縁 を結ぷ帯びとします。だから、儒教が宗教の上に祖先崇拝を、倫理道徳の上に「孝」という観 念を主張するのは、封建専制主義の政治支配の柱となっています。儒教思想の内容は時代変化 にしたがって変わるが、中心観念は永遠に変わりません。いつまでも封建王朝に喜ばれる思想 を貫きます。ところが、其の世界観と宗教観念は中国の宗法血縁の中で維持されている孝道と 実に食い違って、だから、いつも論争の焦点と成っています。三教一致論を提唱するために、

儒教の孝という封建道徳観念と妥協せねばならない結果、仏教は儒教思想を部分的に吸収する ことと成りました。

 以上、儒教との融合を述べたが、次に原始道教に対する牟子の批判を見てみましょう。牟子 の生活時代はちょうど道教が創立されたばかりです。神仙家と道教は合流時期でもあります。

神仙家について、『牟子』の中でこう書かれています。「神仙は辟谷して長生の術を持っていま す。道者として辟谷して食わず。」

 実は牟子本人も神仙不死の術を習ったことが有ります。しかし、その「辟谷之法、数千百術」

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は「行之無効、為之無征」であり、彼には前後三人の師がいます。皆七百歳とか五百歳とか自 称したが、三年経たないうちに三人とも無くなりました。其の経験のため、神仙家の術を信じ なくなりました。それで、次のように批判しました。

  道は九十六種ある。尊大に至って、仏道より貴ぷことなし。神仙を記載する書物は、聞く   ところ即ち洋々たる耳を満ちます。その効果といえば、風を握る、影を捕まえるごとくな   り。(梁僧祐撰のr弘明集』の第一章)

 仏佗はインドには九十六種の外道があるが、仏教と比べるものは無いと解いたので、牟子は 中国でも仏教が一番高名であると思って、中国の他の宗教も仏教と比べ物に成らないと断定し ました。しかし、牟子は道教の言葉を引用したり、儒教の古典を使ったりして、道教と儒教は 根本的に仏教と同じものであると考えています。この思想は定着して、魏晋南北朝に大きな影 響を与えたのです。三教論争を述べるとき、必ずこの『牟子』を採り上げてきます。この書物 は最初出てきたのは南北朝宋明帝(四六五〜四七一)勅中書侍郎陸澄の撰したr法論』でありま す。このr法論』の序文は次のように述べられています。

   r牟子』は教門に入らず縁序に入ります。これを持って(原作は「持」、「大唐内典録』巻十   より改める)漢の明帝記載する時、像法は初めて伝えた故なり。

  「法論』は合わせて十六峡です。中において、「法性」「覚性」「般若」「法身」「解脱」「教 門」「戒蔵」「定蔵」「慧蔵」「雑行」「業報」「色心」「物理」「縁序」「雑記」「邪論」共に百三巻 含まれています。漢明帝が西域求法に遣使した伝説を書いた『牟子』は『法論』の第十四峡「縁 序」に記載されているのです。

三. 道士と僧侶の関係

 顧歓は『三洞経書目録』を献上した陸修静と同時代の人であり、同郷の人でもある。同じ道 士として、仏教学者と論争した。顧歓は其の論争の第一声を叫んだ人物とも言われている。こ れは『正統道藏」に載っている「玄妙内篇」には、次のように描写されている。

  初、歓以仏道二家教異、学者互相非殴及著夷夏論日:夫癖是與非、宜据聖典。道経云:老   子入関之天竺維衛国、国王夫人名日浄妙、老子因其書寝、乗日入浄妙口中、後年四月八日   夜半時、剖右腋而生。墜地即行七歩、於是仏道興焉。

とある。当時の学者は仏教と道教の教異について互いに非難していた。顧歓はこれを弁明する ために、『夷夏論』を著したという。しかし、其の反響が甚だ大きい。反対論の中に、明徴君僧 紹の『正二教」4、謝鎭之の『析夷夏論』5、朱昭之の『難夷夏論」6、朱広之の『疑夷夏論』7、

恵通の『駁夷夏論』8、僧敏の『戎夏論」9などが出てきた。

 顧歓は貧しい家庭に生まれ、若い頃、同郡の郡玄之に五経文句を教わった。およそ二十のと

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きに雷次宗(盧山十八賢の一人)に玄儒諸義を習い、晩年には黄老を好み、陰陽書を通解し、

術数を為して、効験が多かった。飲食を節して人と交わず、永明三年(四八三)大学博士と成 った。(r南史』巻七十五)同年炎1J山に卒した。年は六十四であった。顧歓の師事した雷次宗は 玄儒諸義に詳しい大儒である。当時は漢代の経学から魏晋を通して玄学に一変しつつある。儒 教の思想は段々と老荘思想を取り入れるようになった。東晋の仏教者には「老子』『荘子』によ

って仏教を解説する竺潜と支遁二人が出た。既に、仏教学者としても『老子』「荘子』「周易』

に通じなければならない。それは仏教史上の所謂「格義仏教」の時期であるという。とにかく、

その時は老荘思想の全盛期ともいわれている。と同時に、一方道教は創立から教団設立まで其 の勢力がどんどん増強され、教義の面でも儒教と仏教から、いろいろ精華を道教の教典に取り 入れて補充した。まさに顧歓の「夷夏論』は其の前夜の雷とも言えよう。

 しかし、r夷夏論』は其の歴史の必然なものであると思われる。顧歓は『夷夏論』の中で仏道 を舟車に比喩する。舟と車は同じように遠い目的地に到達出来るが、あくまでも舟は川を渡っ ていき、車は陸を走っていく。逆に車は川を渡っていくことができず、舟は陸を走っていく事 が出来ないと同じように、仏教と道教も取り替えられない。「夷夏論』に日く:

  仏道斉乎達化、而有夷夏之別。._理之可貴者道也、事之可賎者俗也。捨華効夷、義将安取?

  若以道耶、道固符合 。若以俗耶、俗則大乖 。

とある。仏教と道教の達する目標が同じであるが、国の風俗がそれぞれ違うので、中国から見 ると、インドの習慣は俗らしいもので取り入れる理由はまったく無い。其の風俗の相違につい て次の比較を列挙されている。

  夏一端委摺紳、撃題馨折、全形守祀、棺残榔葬一温。

  夷一勇髪維衣、狐鱒狗鋸、殴貌易性、火焚水沈一虐。

  道一慈柔虚受、興善之術、継善之教、自然為高。

  佛一残忍剛恒、破悪之方、絶悪之学、勇猛為貴。

 顧歓は風俗の違うところから仏教を排斥することは以上の比較からはっきり現されている。

あくまでも国情が違うから宗教は違う。中国は仏教を引き受けるわけには行かない。これは前 述した歴史の背景と合致する考えであろう。北魏の武帝は廃仏を宣告して二十年経った後、顧 歓と言う人物は出てきた。ちょうど南北呼応に其の「夷夏論』を著したのではなかろうか。其 の中に歴史の原因がある。更に、顧歓は泥垣と仙化をもって仏教を批判した。

  正真泥疸為無生之法、正一仙化為無死之法、名反実合、無生之法除也。無死之法切也。切   進除退。

とある。仏教は破悪の方であり、道教は興善の方である。道教は仏教より優れているという意 味である。それに、彼は衰薬の「駁論』に対して、一層道教の偉大さを強調した。神化は大化 の総称であり、窮妙の至名ではない。至名は無名であり、其の名は三十七品である。仙から真

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になり、真から神に成る。或は聖という。名は九品であり、品極はすなわち空寂に入り、無為 であり、無名である。当時、「夷夏論』は色々方面から批判を受けたが、その批判の声を次の四 つに纏めてある。

一 ,先ず、斉郡の高士とする僧紹は老子と神仙道と天師道に対して批判した。老子の化現を説   く道経は年事もずれて聖人の説でなければ、真典とすることが出来ない。容服の差別を言   うも、教旨を極めるものは容服に拘泥するべきではない。道は貴き俗は賎しいと言うも俗   は必ずしも賎しいことなく道は必ずしも貴きことない。泥垣正真と仙化正一とは同一であ   ると言うも、神仙道は長生不死を目的として煉丹餐霞をして登仙しようとするもので、し   かも、登仙しなくても死ねば鬼となり、或は、召されて天曹に補うと謂うのは大いに老荘   の立言に乗るもので、なお世教に違うことなきも既に仙化とか無死とかいうのは神仙道に   堕しているものである。殊に天師道に至っては怪談にて世を惑わし、符呪にて老君の所伝   とし、しかも遠く仏経を引用して偽説を作り、淫乱の極を尽くしていると駁している。

二.次に、謝鎮之は儒道二教の上に仏教が有ると考えている。夷夏の別に対しては三才の統ぶ   るところに夷夏の別なしとして人はみな悉く人類に聚し、獣はまた悉く獣群である。七珍   のように人の愛するものに対して、華夏と夷秋と共に貴び恭敬の如きは常に人の厚くする   ところにして、夷夏共に厚くしている。仏教と道教の同異説に対しては初めに仏道の同一   説を立てて後に礼俗の差異を立てる。しかし、泥 と仙化とは違うが、末の礼俗が異なる   ようである。仏教は道教の上に置くべきだと強調した。

三.又、朱昭之の『難夷夏論』では三教の帰趨を分析して、聖は覚に如かず、覚には道を出で   ずと断定し、道教を儒仏二教の上に置くべきである。しかも道教の中にこれを摂している   ことが判る。

四.最後、恵通は『夷夏論』を総合的に批判して、その旨帰するところを察するに疑笑すべき   もの多い。また夷夏の談は理を得たりとするもその乖ること甚だしとなる。しかも老子五   千文以外の述作が皆悉く謡謬の説であるに係らず、顧歓がこれを考慮せずに徒に引用する   のは道教に昧きものであると罵り、更に進んで一々の文に随って反駁していた。

① 論に道経を引いて老子の降述説をなすも、老子は仏にあらずとして清浄法行経「摩詞   迦葉を老子と称す」る文を引用して当てた。

② 論に勇髪の容、狐路の敬を斥くるも、勇髪、玄服、絹財を却って譲の至れるものであると   し、胡脆こそ上古の純風であるから倣うに足ると断じる。

③ 論に仙化無死を言うも、これは全く根拠がない。老子の「生々之厚必之死地」「天地之所   以長且久者、以其不自生也」の文を引いて、生を求めぬ者が生存し、生を求めるものは必   ず死ぬとしている。

 恵通はこのように老荘を離れた神仙道を排斥したのである。

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 おしまいに、僧敏の「戎夏論』であるが、道仏二教の開祖の大小を弁じて、老子は一方の哲 であるが、仏陀は万神の宗であるし、しかも道教は生死の道に過ぎないが、仏教は常楽我浄の 教であり、道教は洞玄を指して正となすも、仏教は空を以て宗と成す。

 その反駁論は各種形式でいくつかの面から『夷夏論』に対して評価したが、ここではまとめ て言うと、次のようである。

 その南北朝の道仏二教は漢魏晋を経て、より発展され、思想の方面でも経典の方面でも勢均 力敵の状態となっている。

 其の論争に参加した人物から見れば、どちらも三教の経典に詳しいこと。論争の最後結論と しては出て来なかったが、皆道同跡異の説に近づくといえよう。

 この三つは以上の各論から見ると、当時の一般が知られるではないかと思われる。

四.  張融の『門律』

 張融は(四四四〜四九七)五十四歳でなくなった。字は思光である。呉郡の人である。若い 頃、同郡の道士陸修静から白鷺の塵尾扇を貰った。これは異物であるから異人にやるといわれ た。南斉武帝のとき、官は司徒右長史に至る。家は世世代代仏教を信仰し、舅の家は道教を信 仰しているが、本人は玄言を善くし、死に望むときに残した遣令は「左手に『興経』と『老子』

を執り、右手に『小品」と「法華経』を執る。」(『南斉書』巻四十一・本伝)永明の間(四八三

四九三)病気に罹り、その時『門律」を著し、文章学問を論じるが、其の中の一章は「二道 を通源する」と名づけられた。r門律』は『弘明集』巻六に現存されている。いわゆる『門題』

という題名をもって称されている。また、『門論」とも言う。

 『門律』は『門論」とも呼ばれるのは久保田量遠氏が指摘したのである。明蔵には『門論』

といい、麗蔵には『門律』という。久保田量遠氏は『支那儒道佛交渉史』の中で次のように述 ぺられている。

  周願の返答によれば、先ず、第一には、道仏がその本を一にするといふも、その本とは何   ぞやと反問して、道家は道徳経を主として虚無を極め、仏教は般若経を宗として法性(空)

  を窮めるにある。虚無と法性とはその静寂なることにおいては同一であるも、しかも虚無   には法性のように非有非無の境地がないからその本を異にしているといい、第二には、道   仏二教は時世を異にするがために風儀を異にするといふも、風儀を異にするがために道仏   二教は異なると反駁し、第三には、張融が道仏二教の一致すことを主張して儒教をその下   に置かんとするに反し、周頗は儒教を道教の上において、吾は心に鐸訓を持ち業に儒言を   愛す。Io

とある。『門律」にいう仏道は其の本を一にして其の跡が異なる。

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  道也與仏、逗極無二、寂然不動、致本則同、感而遂通、逢 成異。

 ここの「逗」は「留住」の意味であり、「逗極」は終点に帰結という意味である。だから、仏 教と道教は根本的に一致している。いわゆる永恒静寂の本体を追及する。修行の方法としては、

場合によって対象によって違う教化を行っても無理もないことである。道仏の相違は時世の違 いで、証いて神極を問うのは庸愚のみである。

 大体、南朝前期の儒仏道三教の激しい論争を経て、斉梁に至って、三教一致の主張と融合の 風潮が主流と成った。例えば、梁武帝は早年儒学を習いながら道教を信仰した。晩年になると、

捨道尊仏を提唱したが、やはり儒家経学を重んじ、陶弘景道士を尊重した。南朝道教は教義、

経典、科義、教団などの面で大量仏経を吸収したと同時に、仏教も道教の修仙方術を取り入れ ることもある。例えば、天台宗第三祖南嶽慧思禅師は『誓 文』の中で次のように述べられて

いる。

  今故入山繊悔修禅、学五通仙、求無上道、 先成就五通神仙、然後乃学第六神通、受持釈   迦十二部経及十方仏所有法蔵。

とある。続いてまたいう。

  我今入山修習苦行…一原諸賢聖佐助我、得好芝草及神丹、療治衆病除飢渇……借外丹力修   内丹、欲安衆生先自安。

とある。彼は道教の修仙を仏教の修禅の段階にして、服餌金丹で民衆の病気を治療しようと願 っているが、これは後世の道禅融合のきっかけになったのであろう。

 南朝道士の中で、仏道兼修の代表人物は陶弘景である。唐の法琳は「辮証論』巻六に次のよ うに陶弘景を評価している。

  陶弘景以敬重仏法為業、但逢衆僧、莫不礼#。岩穴之内、悉安仏像、自率門徒受学之士朝   夕繊悔、恒讃仏経。

とある。そして、「陶隠居内伝』を引用して言う。

  陶在茅山中立仏道二堂、隔日朝礼。仏堂有像、道堂無像。

とある。陶弘景の仏教信仰は僧侶の作り話ではない。歴史の証明ができる。「南斉書・陶弘景伝』

と『茅山志』巻十二にもよると、

 梁天監中、陶弘景外出漸江時、曽夢仏授其菩提記、名為勝力菩薩。乃詣鄭県(今漸江鎮海県  西)阿育王塔、自誓授五大戒。

とある。又、「痙剣履石室縛銘』にも載ってある。

 華陽隠居幽館、勝力菩薩捨身、釈迦仏陀弟子、太上道君之臣。行大乗之六度、修上清之三真、

 憩霊岳以委 、游太空而栖神。

とある。陶弘景の捨身授戒は確実なことを証明した。「上清真人許長史旧館壇碑』にも梁武帝が 陶弘景のために、茅山で朱陽館を建築したことを記載してある。

(11)

  東位青壇、西表素塔。

とある。初め、隠居がこれを立てたというのは仏道双修の意を表している。梁篇論の『梁隠貞 白先生陶君碑』にも陶弘景の茅山での記録がある。

  大造仏像、儂及写経、起塔招僧、備諸供養、自誓道場、受菩薩法、夢登七地。

とある。陶弘景の晩年、弟子の中で、確かに僧侶がいた。「続高僧伝』にも浄土宗始祖曇驚は雁 門の人であり、梁大通中かつて長江を渡って、陶弘景に従って道術を学習したと記載していた。

『南史・陶弘景伝』の中で、陶弘景が死に臨む時遺令を残した。死後大袈裟を頭から足まで覆 うという。

  明器有車馬、道人、道士井在門中、道人左、道士右。

とある。其の葬儀も彼の仏道双修を表している。陶弘景はまた儒家経学についても研究が深い。

儒仏道三教に対する彼の包容態度は明らかに見える。彼は「茅山長沙館碑』Uで次のように書 いてある。

  万物森羅、不離両儀所育;百法紛絃、無越三教之境。

とある。又、弟子陸敬游に『十費文』12を贈った。

  崇教性善、法無偏執。

とある。この態度は南朝士族の融合三教の普及真理上一致している。

 上述をまとめると、東晋南朝の道教変革は葛洪より陶弘景まで、基本的に一つの時期である。

道教はこの時期の門閥士族の改造を経て、すでに比較に完全な教義理論と経典文献ができた。

自身の科儀戒律と統一の教団組織を建立した。修錬方術も豊富に発展された。独特の神仙信仰 体系を形成した。支配階級と大衆に影響を拡大した。それで、民間宗教から官方宗教に変えた 過程を完成した。但し、道教の変革と発展は南方に限られていない。西晋以後、少数民族の十 六国の北朝境内にも広げられた。

注:

1牟子『理惑論』(僧祐『弘明集』一四巻、正蔵五二巻)

2 顧歓『夷夏論』(僧祐『弘明集」一四巻、正蔵五二巻)

3 『南斉書」巻四十一・「本伝」を参照。

4 僧紹の『正二教』(僧祐「弘明集』一四巻、正蔵五二巻)を参照。

5 謝鎭之の『析夷夏論』(僧祐『弘明集』一四巻、正蔵五二巻)を参照。

6 朱昭之の「難夷夏論』(僧祐『弘明集』一四巻、正蔵五二巻)を参照。

7 朱広之の「疑夷夏論』(僧祐「弘明集』一四巻、正蔵五二巻)を参照。

8 恵通の「駁夷夏論』(僧祐『弘明集』一四巻、正蔵五二巻)を参照。

(12)

9僧敏の「戎夏論』(僧祐「弘明集』一四巻、正蔵五二巻)を参照。

10久保田量遠『支那儒道仏交渉史』(東方書院一九三一)を参照。

11『華陽陶隠居集』巻下(道蔵、尊字号、第七二六冊所収)を参照。

12「華陽陶隠居集』巻下(道蔵、尊字号、第七二六冊所収)を参照。

参照

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